2017年7月16日 (日)

シスマ

 連日本当に梅雨なのかという暑く晴れ渡る日が続いていましたが,今日はやや曇った一日になっています(とはいえ暑いことに変わりはないですが 💦).職場のあじさいも連日の暑さですべて干からびてしまったかと思ってたんですが,まだ元気に咲いている株もありました.

Img_3156  さて今日は7月16日,10年前のちょうどこの日新潟県中越沖地震があった日です.このブログのバックナンバーを探したら当日の記事もありました(地震と雷 こうしてあらためて昔の記事を見ると今よりもよっぽど充実しているな).

 先日は九州の方で豪雨による水害がありましたが,日本は昔から災害の多い国です.2007年の中越沖地震後だけでも,2011年の東日本大震災,2014年の御岳山の噴火,昨年春の熊本の地震のほか,2015年&2016年夏には東日本を中心に台風による水害があったのは記憶に新しところです.こうした災害多発地帯に住んでいるがゆえに,たとえ災害があっても助け合い,落ち着いて行動する国民性が形成されたとも言えます(日本で大きな災害が起こるたびに,外国ではよくある略奪や暴動系の事件がほとんど起こらないことは海外メディアが驚くところです).災害は忘れた頃にやって来るというのはまさにその通りです.この機会に自宅の防災用品等のチェックを行いたいと思いました.

 で,本日のブログのタイトルであるシスマ,これはラテン語で分裂という意味です.一般名詞ではあるんですが,特に日本の学術の世界ではキリスト教会の分裂の意味で使われます.キリスト教の歴史はまさに分裂の歴史であるわけですが,その中でももっとも大きいのが中世におけるローマカトリック教会と東方正教会の分裂です.この分裂劇そのものは数百年かけて徐々に進行したわけですが,それを象徴するような事件が1054年7月6日に起こりました.

Istanbul1_233  当時のキリスト教会の中心地は西方のローマと東方のコンスタンティノープルでした.ローマはもちろんローマ教皇庁のあるところですが,一方のコンスタンティノープルは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の都です.一応聖職者としての格ではローマ教皇の方がコンスタンティノープル総主教よりも上なんですが,ローマ皇帝とい大君主をバックに持つコンスタンティノープル総主教の権勢も大きく,特に7世以降教義などの点から両者の対立は大きなものとなっていました.

 こうした状況を打開するためにローマ教皇から使節として枢機卿フンベルトがコンスタンティノープルに派遣されていました.しかしながら政治的な思惑もあってコンスタンティノープル総主教のミハイル1世はなかなか使節に会おうとはしませんでした.1054年7月16日こうした総主教側の対応に怒ったフンベルトは,ミハイル1世の破門状を当時総主教座が置かれていた聖ソフィア大聖堂の宝座に叩きつけて立ち去ったのです.これに対して総主教側も相手を破門し両者の対立は決定的になりました.

 これが世界史上シスマと呼ばれる事件です.書籍によってはローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が相互に破門し合ったと書かれているものもありますが,前述のようにローマカトリック側の当事者は枢機卿フンベルトです.しかもこの時彼を使節として派遣した教皇レオ9世はすでに亡くなっていたので,総主教の破門が教皇の意志だったのかは不透明です(激怒した枢機卿の個人的な行動ともとれます).また総主教側が破門した相手はあくまでもフンベルト枢機卿(とその従者)であり,ローマ教皇は含まれていません.

Isutanbul2_156  というわけで,この日をもって東西教会が正式に分裂したというわけではなく,あくまでも象徴的な事件の日として記憶されているのでした.ちなみにフンベルトが破門状を叩きつけた宝座は大聖堂の至聖所という本来は聖職者しか立ち入ることのできない場所にあるわけですが,聖ソフィア大聖堂は現在無宗教施設であるアヤソフィア博物館となっているため,今は誰でも立ち入ることができます(ドームの一番奥,今はミフラーブがあるあたりです).

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2017年5月11日 (木)

記念の日

 今日は5月11日,実は当ブログにとっては非常に大切な日である.

 まずは,ブログ名にもなっているビザンチン帝国の都コンスタンティノープル(現イスタンブール)の開都記念日であることだ.古代ローマ帝国の都はもちろんローマ市だったわけだが,3世紀以降産業の衰退が激しく,街には無産市民や無能な元老院が跋扈しているありさまで,まともな政治が行える環境ではなくなっていた(それどころか下手にこの街にいると政争に巻き込まれて殺される恐れもあり,まともな皇帝はローマに寄り付こうとはしなくなった).一方でこの頃から東方に勃興してきた大国(パルチア王国,ササン朝ペルシャ帝国)に対応するためにも,ローマよりももっと東側に新しい都が望まれていた.

 この時に白羽の矢が立ったのが,ビザンチウム(ビザンチオン)と呼ばれるバルカン半島の南東部,ボスポラス海峡に面した港町である.この街は金角湾という良港を備えるほか,3方を海に囲まれた要害の地でもあり,東方ににらみを利かせる新首都として相応しいと考えられたのからある.折しもディオクレティアヌス帝亡き後の後継者争いに勝利したコンスタンティヌス1世が正式にこの街を新首都とし,その開都式を行ったのが330年5月11日なのである.

Isutanbul22_015 Istanbul1_233 (左写真1) 幼子と聖母マリアに捧げものをするコンスタンティヌス1世(右)とユスティニアヌス1世(左),(右同2) イスタンブールの象徴アヤ・ソフィア(聖ソフィア大聖堂) ともに2009年9月訪問

 続いては同じくビザンチン帝国の話題.ローマ帝国は395年のテオドシウス帝の死後完全に東西に分裂したが,西の帝国の衰退は激しく476年に滅亡する.その旧領はゲルマン人諸部族が群雄割拠する土地となったが,その失われた領土を回復したのが6世紀のビザンチン皇帝ユスティニアヌス1世である.彼の時代帝国は領土的な最盛期を現出した(ただし経済面を含めた全盛期は10世紀末~11世紀初頭のマケドニア朝といわれる).そんなユスティニアヌスが生まれたのが483年5月11日のことである.

 そして3つ目は新選組関係の話題,近藤勇や沖田総司とともに新選組でもっとも有名な人物の1人である土方歳三が函館で戦死した日である.慶応四年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争は,その後の上野戦争や会津戦争等を経て,翌明治二年の箱館戦争に至る.この間新選組は佐幕派勢力として常に闘い続けてきたが,土方歳三もまた彼らとともに戦いこの箱館までやってきていた.しかしながら新政府軍の攻勢の前に形勢不利となり,5月11日一本木関門付近の戦いにて戦死したとされている(弁天台場に立てこもっていた新選組は5月14日に,五稜郭の本隊は5月18日に降伏した).

Hiji3 Hiji2 (左写真3) 現在の一本木関門,(右同4) 同地にある土方歳三の碑(ともに2007年4月訪問)

 このように5月11日はビザンチン帝国と新選組を愛好する当ブログにとって非常に重要な日なのである.

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2016年5月11日 (水)

5月11日

 今日は5月11日,自分のサイトのトップページに張り付けてあるブログパーツによると鵜飼開きの日なんだそうですが,自分的には2つの意味で重要な日です.

Istanbul1_233  ひとつ目は当サイトの根幹であるビザンチン帝国の都,コンスタンチノープル開都の日です.元々ローマ帝国の都はローマでしたが,3世紀以降経済の衰退が著しく,国の重心は次第に東方に移っていました.これは3世紀初めのカラカラ帝の時代にローマ市民権の大安売りが行われた結果,働かずに国家に寄生するだけの自由民が増えていったことにも由来します.一方でローマにいる貴族たちは相変わらず権利ばかりを主張して,歴代ローマ皇帝にとって目の上のたんこぶとなっていたのです.

 ただ,3世紀は政治的に混乱の多い時代で,首都移転を実行できるような強力な皇帝はいませんでした.そんな中久しぶりに国内政治を安定させた皇帝がディオクレティアヌスです.そしてその後継者争いに勝利したコンスタンティヌス1世によって首都の移転が実行され,330年のこの日,ボスポラス海峡に面した一地方都市に過ぎなかったビザンティムがコンスタンチノープルとリニューアルされ帝国の新たな都となったのです.

Tosizou  そしてもう一つの5月11日は,自分も愛好している新選組副長土方歳三が函館で戦死したとされる日です(こちらは厳密に言えば旧暦ですが).この前の日曜日にひの新選組まつりが開催されましたが,これも土方歳三の命日に近い週末に開催されているものです.

 そんなわけで5月11日は当ブログにとっても重要な日なのでした.

 

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2015年8月15日 (土)

8月15日

 今日8月15日は終戦の日,1945年のこの日,日本政府がポツダム宣言の受諾を表明したことによる(厳密にいえば正式に終戦になるのは戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印した9月2日).今年はそれから70年という節目の年に当たることもあって,各種メディアでも盛んと関連番組や記事を取り上げている.

 とはいえ,このブログは本来政治的な話題を取り上げないスタンスなので,世間の流れにはあえて背を向けて,終戦以外の8月15日について調べてみた.すると,この日は意外に興味深い出来事がいろいろ起こっていることがわかる.

1.ナポレオン・ボナパルトの誕生日

 フランス革命からジャコバン派の恐怖政治の時代を経て,一介の砲兵将校から皇帝にまで上り詰めた,ナポレオンの誕生日が8月15日である.1769年のことなので,今年で246年目ということになる.

2.刺身の日

 暑い夏とは縁がなさそうな気がするが,8月15日は刺身の日らしい.これは室町時代後期の書記官,中原康冨が文安五年(1488年)8月15日の日記に「鯛なら鯛とわかるやうにその魚のひれを刺しておくので刺し身、つまり「さしみなます」の名の起り」とあり,これが初めて刺身に関する記事が文書に載ったことにちなむとのことである.

3.パナマ運河が開通

 太平洋と大西洋を結ぶ運河であるパナマ運河が完成したのが1914年の8月15日である.運河といえば地中海と紅海を結ぶスエズ運河があるが,実は当初このスエズ運河を作ったフランス人のレセップスがパナマ運河の開設を始めたものの失敗(太平洋と大西洋の高さの違いや地形など,スエズ運河とはあまりにも条件が違い過ぎた),結局アメリカによって建設されたものである.

4.ビザンチン皇帝ミカエル8世戴冠

 もっともこのブログにふさわしそうな話題である.1204年に第4回十字軍によって征服され,一時は消滅したビザンチン帝国であるが,西欧側の混乱の隙をついてコンスタンチノープルを奪回,帝国は再興された.この中心人物がミカエル8世で,彼が戴冠を受けたのが1261年のこの日である.ミカエル8世に始まるパライオロゴス朝はその後1453年の帝国の滅亡まで続くことになる.

 このように終戦以外にもいろんなエピソードがある8月15日であった.

Mika8 (写真) ビザンチン帝国の再興者ミカエル8世

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2015年5月11日 (月)

コンスタンティノープル開都の日

Istanbul647 (写真1) 新市街のガラタ島から見た旧市街

 今日5月11日は当ブログの名称に深いかかわりのある,ビザンチン帝国の都コンスタンティノープルが前身であるローマ帝国の都になった記念の日です(330年).

 コンスタンティノープルの街としての歴史は非常に古く,紀元前7世紀にさかのぼります.古代ギリシャの都市国家のひとつであるメガラの植民者たちが,バルカン半島の最東端,ボスポラス海峡に面した土地に住み着いたのが始まりとされています.植民者たちのリーダーだったメガラ王ニソスの子ビザスの名にちなみ,ビザンチオンと呼ばれたこの街は平凡な地方都市として歴史を歩んでいきます.他の地中海沿岸都市がそうだったように,この街も古代ローマの地中海制覇の波に飲み込まれ,紀元後は古代ローマの地方都市となりました(この頃から名称もラテン語風にビザンティウムとなる).

Istanbul685 (写真2) 街の突端,今のトプカプ宮殿の隣にはビザンティム時代に立てられた塔があります

 この街の歴史が大きく変わるのは4世紀のことです.3世紀以降内憂外患で弱体化したローマ帝国の立て直しを目指していた皇帝がコンスタンティヌス1世でした.彼が歴史に残した業績のひとつが当時厳しい迫害にさらされていたキリスト教の公認ですが,もうひとつが首都の移転でした.4世紀当時,ローマ帝国の中心部ともいえるイタリア半島は経済的に没落していました.さらに当時は帝国の東にササン朝ペルシャという強力な国が存在し,ローマは国境を挟んで常に緊張状態にありました.ローマ帝国の最大の仕事は異国から国を守ること,このためペルシャとの戦争を指揮しなければならない皇帝にとってローマは戦場から遠すぎ,コンスタンティヌスは国の東方に首都を移転することを考えていたのです.この東方新首都として白羽の矢が立ったのがビザンティウムでした.

Isutanbul2_125 (写真3) イスタンブール中心部(アヤソフィアの近く)に今も残るビザンティム時代の城壁(当時はこのあたりが町はずれ,本当に小さかったんですね).

 ビザンティウムは3方を海に囲まれた要害であり,さらには金角湾という良港にも恵まれて物資の集積にも便利と,こうしたペルシャとの戦争を指揮する場所として最適だったのです.こうしてコンスタンティヌスは平凡な地方都市だったこの街を新しい都にすべく工事を開始,西暦330年5月11日に開都式が行われ正式にローマ帝国の都となりました(遷都とともに町の名前も皇帝の名を取りコンスタンティノープルとなる).

 時代は移り,帝国の西半分はゲルマン人の大移動に飲み込まれて滅びたものの,新首都を含む帝国の東側はその後も15世紀まで存続し続けました.5月11日はそんな記念日なのであります.

 追記: 旧暦と新暦の違いはありますが,当ブログのもう一つの重要キャラ新選組の土方歳三が函館で戦死したのが同じく5月11日です(明治2年).

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2015年3月28日 (土)

皇帝誕生日

 みなさんこんばんは,久しぶりの更新になってしまいました.

 今日3月28日は私,ビザンチン皇帝コンスタンチヌス21世の誕生日です.皇帝の誕生日なんだから当然祝日だろうと思ってたんですが,残念ながら亡国の君主のために祝日は設けてはくれないらしく,ただの土曜日でした(笑).一体何歳になったのか自分でも時々忘れるんですが,とりあえず四捨五入してもまだ0歳側ではあります.

 今日最終回を迎えた朝ドラじゃないんですが,人生はアドベンチャー,守りに入ったらおしまいだろうと思っているので,今年も仕事,趣味双方で新しいことにチャレンジしていきたいと思います.

 ちなみに3月28日生まれの有名人というと,神田うのレディ・ガガ,元横綱北の富士がいます.いずれも強烈な個性の人たちばかりです(個性の強烈さでは自分も負けてないか).

 さらにどうでもいいですが,3月28日は三つ葉の日(3(み)、2(ツー),8(バ)だから),三ツ矢サイダーの日(同前),シルクロードの日(1900年のこの日ヘディンによってシルクロードの古都,楼蘭が発見されたから)なんだそうです.一番最後はかなりまともですが,前2つはトホホな感じがします (^。^).

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2014年2月16日 (日)

イスタンブール旅行記完成

0istanbul1 最近ボチボチとホームページ本編の更新を行っているんですが,ようやく2009年のイスタンブール旅行記が完成しました.ビザンチン皇帝を名乗っているものにとっては非常に重要な旅行記なわけですが,完成までなんと5年近くもかかったことになります(笑).

 イスタンブール旅行記

 旅行記の他にもひの新選組まつりのレポもたまってるなぁ(笑).

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2012年3月18日 (日)

台湾に行ってきます

みなさんこんにちは、ビザンチン皇帝です。
以前から時々話題にしていた台湾での演奏旅行に出発するため空港にきています。
今回は成田ではなく、羽田空港からの出発です。すでに出国審査は完了し、まもなぅ始まる搭乗を待つばかりです。今回は現地にPCを持って行くので、現地の様子もレポできると思います。

それではみなさま、いってきます。

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2009年9月15日 (火)

イスタンブール滞在記6 ~9月5日~

 イスタンブールネタをいつまでも引っ張ると,このブログのタイトルと矛盾してしまうので,今回が最終回です.

 さていよいよイスタンブール最終日となりました.昨夜はディナーショーで帰りが遅かったこともあり,この朝はゆっくりです.「これがイスタンブール最後の朝食か」などと感慨に浸りながら朝食です.

 この日はまだ行っていない史跡を見ながら歩くことにしました.まず向かうはトプカプ宮殿隣に広がるギュルハネ公園です.いつも大勢の観光客で大賑わいのトプカプ宮殿とは対照的に公園の方はいたって静かでした.しかし別に散歩のために公園に行ったわけじゃありません.実は公園の先端,マルマラ海と金角湾,そしてボスポラス海峡が一望できる岬に一本の柱が立っているんです.この街へやって来る観光客の99%はその存在すら知らないであろうこの柱,なんとこれ,この街がコンスタンチノープルにすらなっていなかった時代,ビザンチオン時代の史跡なんです.

 3世紀,ローマ帝国が弱体化し始めた頃,しばしば帝国内に侵入してきたゴート人を打ち破った皇帝クラウディウス2世の功績をたたえて建てられた柱なんです.今はゴート人の柱と呼ばれるこの柱,当時はそのてっぺんにクラウディウス2世の像が載っていたと言われています.

Isutanbul5_135 Isutanbul5_134 (写真左) ゴート人の柱,(同右) 今は柱の上にはなにもありません.

 その後,近くのオープンカフェでチャイをいただき,そのまま徒歩で海沿いを歩きます.向かった先はイスタンブールのヨーロッパ側の鉄道の終点,シルケジ駅です.ヨーロッパ各地からやって来る国際列車の終着駅で,かつて有名なオリエント急行もここが終点でした.

Isutanbul5_144 (写真) オリエント急行の終着駅だったシルケジ駅

 その後はガラタ橋で釣り客を冷やかしたり,橋の近くにあるエジプシャンバザールを見学したりして過ごしました.

 その後は近くのカフェでランチを摂りホテルに戻りました.14時に迎えの車がやってきて空港へ.出国審査を経て飛行機に向かおうとセキュリティチェックに行き,「そういえば飲みかけの水が余ってた.こりゃ没収だな」と係員に差し出したら,係員さん手を振って「No problem」といって突っ返してよこしました.最近国際線はすべて液体物持ち込み禁止と思ってたんですが,そうでない国もあるようです(笑).

 こうして機上の人となった我々は一路懐かしい日本へ向かったのでした.

追伸: 我々の帰国直後,イスタンブールを大雨と洪水が襲い,亡くなった方もいたとのニュースが流れました.自分の運の良さを実感するとともに,被害にあわれた方々が一日も早く元の生活に戻れることをお祈りしました.

 これにて本ブログでのイスタンブールネタは一応終了します.今回の旅行の詳細はいつかホームページの旅行記に,また市内の各史跡の詳細は別館ブログビザンチン大学に載せてますので,イスタンブールやビザンチン帝国に興味を持たれた方はどうぞ.

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2009年9月12日 (土)

イスタンブール滞在記5 ~9月4日~

 イスタンブール滞在第5日目です.前日結構ハードに動いたこともあり,この日は少しゆったりすることにしました.

 まず午前中はハマムに出かけます.ハマムとはトルコ式の蒸し風呂のことです.20年くらい前まで日本国内の繁華街にもトルコ風呂と称する施設がありましたが,もちろん全く別物です(笑).

 トルコ人の入浴好きは有名で,中央アジア時代の蒸し風呂の伝統にローマ・ビザンチン風の大浴場が混じって今ある形になったらしいです.今回繰り出したのは,旧市街の中心部にある創業1741年(江戸時代中期)の老舗です(シャーロウル・ハマム).行ってみると入口はこじんまりしているものの中は広々としていました.男性用と女性用があり,ここでKと別れました.男性用に行くと,ちょうどスーパーマリオそっくりのオッサンが待っていました.マリオにチェックのタオル(これを腰に巻く)を渡され,着替え室に入るよう促されます.中には寝台もありました.ここで服を脱ぎ,浴場へ,浴場は一面大理石の広々とした造り,天井にはドームもあり光が差し込んでいます.午前中ということもあるのか他に客はおらず貸切でした.

 浴場中央の大きな円形の台に寝そべります.浴場内はそれほど熱くはありませんが,じっとしているうちに汗が出てきます.しばらくしていると例のマリオが登場,マッサージ・シャンプー・垢すりとなります.ふにゃふにゃにされました(すごく気持ちよかったです 笑).

 その後は再び台に寝そべって汗を流します.適当なところで浴場を出て,タオルで体を拭き,さっき着替えた部屋に入ってしばらくお休みです.気持ちよくてうとうと寝てしまいました.日本の公衆浴場なら,風呂上りにはコーヒー牛乳なんでしょうが,残念ながらここにはありませんでした.

Isutanbul52_001 Isutanbul52_008 (写真左) グランドバザールの入り口,(同右) バザール内

 ハマムのあとは,近くにある有名なグランドバザールに繰り出します.日本でも「バザールでござ~る」というフレーズで有名になった場所です.ここは15世紀にこの街を攻略したオスマン帝国のスルタン,メフメト2世の命で造られた屋根つきの商店街です.各種宝飾店やお土産物店などが軒を連ねています.中では怪しげな日本語で話しかけてくる店員さんも大勢いました(笑).

Isutanbul5_001 (写真) ドルマバフチェ宮殿

 その後はいったんホテルに戻って休憩,そして再び外出です.今度は新市街にあるオスマン帝国末期の宮殿であるドルマバフチェ宮殿に繰り出しました.オスマン帝国最盛期の宮殿であるトプカプと比べるとこじんまりしてますが,ヨーロッパの影響を強く受けた壮麗な建物はやはりスルタンの栄華を今に伝えるものです.トルコ革命後はイスタンブールにおける大統領の執務所となり,トルコ共和国初代大統領のケマル・アタチュルクもここで執務を執っていました.

Isutanbul5_025 Isutanbul42_036 (写真左) チャイ,(同右) ドンドルマ

 宮殿の観光後は新市街のイスティクラル通りを散策してチャイ(トルコの紅茶)をいただいたり,ドンドルマ(トルコアイス)を食べたりして過ごしました.そして夕方再びホテルに戻ってシャワーを浴びた後,ディナーショーに繰り出します.トルコの夜のエンターテイメントといえばベリーダンスです.この夜はガラタ塔最上階のレストランで開催されているベリーダンスショーを堪能しました.

Ista Isutanbul5_075 (写真左) 目が回りそうなダンスです,(同右) ウチのKもスルタンに捧げられてしまいました(笑)

 というわけで,明日はいよいよ帰国の日です.

 

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