2009年10月 9日 (金)

五兵衛新田

 久しぶりの新選組ネタ.

 今年のひのパレで三番隊長斎藤一役をされたへこみ隊長さんのブログで紹介されていたんですが(千住の風にふかれて!~健脚むけの史跡旅行~),東京足立区の綾瀬で新選組パレードが行われるんだそうです.

 新選組終焉の地は法理学的(?)には箱館の弁天台場ですが,初期から組を率いてきた近藤勇が捕われた流山を終焉の地と考える人もいるようです.新選組が流山に入ったのは慶応四年4月2日ですが,その前日まで滞在していたのがこの足立区綾瀬(五兵衛新田)だったのです.

 3月6日の勝沼の戦いで敗れた近藤以下新選組は,3月13日に五兵衛新田の名主金子家のもとにやってきました.そしてここを屯所として再起を図り,4月1日に流山に移動したわけです.

Gobei  この辺の詳細は不明な点が多く私もよく知らなかったんですが,去年のひのパレのメイン会場でその間の事情について研究した本を発見し購入していたことを思い出しました.

 本棚の隅から引っ張り出した本,全編100ページちょっと短いのであっという間に読めそうです.今夜は当直なので秋の夜長に読んでみようと思います.

 注: 綾瀬というと,道路交通情報で綾瀬バス停付近で○○キロ渋滞というニュースが出ますが,この綾瀬は神奈川県綾瀬市で別の場所です(笑).

 

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2009年8月 1日 (土)

去年のしながわ宿場まつり

 今日からいよいよ8月です.

 鬼が笑うという表現があります.来年のことをいうと鬼が笑う(未知のことをいくら言っても仕方がない)などといいますが,鬼が笑うどころか鬼が呆れる話なんです.

 昨年9月28日に行われたしながわ宿場まつりのレポが今頃完成しました.もう来月には今年のしながわ宿場まつりだというのに…

 とりあえず,見てやってくださいまし.

 2008年しながわ宿場まつりレポ

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2009年7月12日 (日)

宇都宮ツアー① ~史跡廻り編~

 ひの新選組まつりでの私の盟友コシゾウさんは宇都宮でもんじゃ焼屋をやっています.そのお店に突然押し掛けて驚かそうという計画が発生しました.言いだしっぺは幕末&歴史仲間のおりんさんで,ツアーコンダクターは私,ビザンチン皇帝です(笑).この週末(7月11日~12日)に決行しました.私にとっては2年ぶりの訪問です.

 メンバーは私とおりんさん,神楽教授K副長さんの4名.

 ん,なんだこのメンツは.たしかに全員ひのパレ参加者ですが,個々はあまりにも脈絡がないような気が…(笑).

 この日の予定は日中は宇都宮とその周辺に残る主として戊辰戦争関係の史跡廻り,夕方からコシゾウさんのお店襲撃です.朝自宅を出発して東京駅へ.ここでおりんさんと合流,まずは腹ごしらえと駅弁屋さんにむかいます.牛肉弁当,味噌カツ弁当など朝からは食べたくない弁当が並んでいます.そんな中で見つけたあさりおこわ弁当,これにしようと2個購入して新幹線に乗り込みます.新幹線が発車すると同時に弁当を広げましたが,私が三分の二くらい食べた段階で既におりんさんは完食! お,恐るべし.その後は桃太郎や浦島太郎の血液型談義に花が咲いているうちに宇都宮に到着しました.宇都宮駅で残るお二方と合流して,ここで初めて今回の参加者が顔をそろえました.主催者あいさつ(笑)に引き続いて,さっそく観光開始です.

 今回の史跡廻りは郊外にも繰り出す予定としたためレンタカーを用意しました.まずは市内の宇都宮城址へ.宇都宮城は関東七名城のひとつに数えられ,江戸時代初期の元和年間の釣天井事件で有名です(実際には創作らしいんですが).街道筋の重要な城であり,江戸時代を通じて譜代大名が置かれていました.しかし慶応四年の戊辰戦争において激戦の地となり,城を含めた市街地のほとんどが焼け野原となってしまったのです.その後宅地開発なども行われたため,城は見る影もなくなってしまいましたが,21世紀に入ってからかつての本丸の一部(堀,土塁と櫓)が復元されています.土塁の内部は資料館になっており,お城の歴史などが展示されているのですが,土方歳三が街に火をつけ,そのせいで街が焼けた的な記載があり,愛好家としてちょっと複雑な思いになりました.

200907111217000 (写真1) 再建された宇都宮城の櫓

 城址公園の次は徒歩で城の南東にある簗瀬橋へ.ここは宇都宮城の東方を流れる田川に架かる橋です.田川はいわば宇都宮城の東の防衛ラインともいうべき川ですが,宇都宮戦争初期の慶応四年4月19日の旧幕府軍の宇都宮城攻撃の際,宇都宮藩兵がこの橋を残したまま退却したために,土方歳三率いる桑名藩兵がここを突破して一気に城に押し寄せ落城させたことで有名です.この時土方が,激戦におびえて退却しようとした兵士を斬り捨て,「退却するものはみなこうだ!」と言ったのもこの橋といわれています.橋はもちろん当時のものではありませんが,田川自体はあまり護岸工事もされておらず,当時の雰囲気をかもしだしているなと感じたのでした.

200907111207000 (写真2) 当時の激戦の地簗瀬橋

 簗瀬橋に続いては城の北側にある二荒山神社へ.ここは市内中心部の高台にある神社で,戊辰戦争時には旧幕府軍の陣地が置かれていた場所です.4月23日の戦いで,新政府軍側の砲撃を受けてこの神社も灰燼に帰してしまいました.土方歳三が足に負傷したのもここと言われています.二荒山神社観光の次は昼食,近くのお店で名物の餃子を堪能しました.

Utshunomiya_005 (写真3) 二荒山神社の長い階段です

 午後からは,慶応四年4月23日の戦いで最大の激戦地となった六道辻へ.ここでは旧幕府軍側は大鳥圭介の伝習隊のほか,新選組や永倉新八も所属していた靖共隊も戦ったといわれます.ここでは多くの兵士が亡くなったんですが,新政府軍の戦死者が丁重に葬られたのとは逆に,旧幕府軍の戦死者は賊として,野ざらしにされていました.しかし,地元の人たちによって仮埋葬された後,明治七年になって宇都宮藩士戸田三男によってこの地に墓が作られました.これに関しては良く知られたエピソードがあります.

Utshunomiya_009 (写真4) 六道辻に建つ墓碑

 曰く,長岡戦争敗戦後,会津に向かっていた長岡藩家老の山本帯刀が会津の飯寺での戦いで捕らわれたとき,死を覚悟した彼は軍資金200両を敵の戸田三男に渡し,「これを貴藩に提供するので,相当の費用に当てて欲しい」と述べたといいます.後に国に帰った戸田はその時の200両をこの墓の建立に当てたそうです.

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(写真5 左) 報恩寺の山門,これのみ当時をしのぶ建物といわれます.(同右) 報恩寺内の薩摩の碑

 この六道辻周辺のお寺には新政府軍,旧幕府軍双方のお墓がたくさんあります.今回はその中で主に新政府軍の戦死者が埋葬された報恩寺,旧幕府軍の兵士が埋葬された一向寺,双方の戦死者が埋葬され,新政府軍・旧幕府軍双方の墓が向かい合って建っていることで知られる光琳寺を訪問しました.ここでは参加者はみな沈黙して,亡くなった人たちに手を合わせました.

Utshunomiya_017 (写真4) 一向寺に遺された墓標

 六道辻周辺の観光を終えると,今度はちょうど慶応四年4月21日の大鳥圭介率いる幕府伝習隊の進撃ルートにそって車を走らせました.緒戦の勝利の勢いに乗って幕府軍は宇都宮城から南下し,当時新政府側に付いていた壬生城を攻撃しようとしましたが,途中にある姿川で食い止められここでも激しい戦いが行われたのです(安塚の戦い).この戦いで亡くなった幕府軍の兵士17名のお墓が宇都宮市幕田町にあり,そこを訪問しました.その後は壬生町に入り,当時新政府軍の本陣が置かれていた島田家や壬生城跡を訪問しました.

Utshunomiya_021 Utshunomiya_019_2 

(写真5,6) 左が桑名藩士の墓,右が新政府軍の墓です. 

 そうこうしているうちに夕方となり,いよいよコシゾウさんの屯所襲撃です.レンタカーを返却し,4人でタクシーに乗って繰り出します.店に着くと,なんとコシゾウさんが窓拭きをしていました.こりゃまずいと近くのコンビニの駐車場にタクシーを乗り入れ,様子を伺いながらお店へ侵入,コシゾウさんは面子の脈絡のなさに驚いていました(笑).

Utshunomiya_023 Utshunomiya_027

(写真7、8) 左,幕田町地区の碑,右,壬生の新政府軍本陣跡

 その後は美味しいもんじゃを堪能しながら,新選組やひのパレ談義に花が咲きました(コシゾウさんのお店でなつかしの昭和50年代ソングがかかっていて,酔った勢いでついつい歌いだしてしまい,すっかりおりんさんに私の真の姿がバレてしまいました 笑).

 こうして宇都宮の夜は更けていきましたとさ.

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2009年6月27日 (土)

総司忌

 今日は総司忌でした.

 新選組一番組長沖田総司は慶応四年5月30日に江戸の千駄ヶ谷で亡くなったといわれています.その墓所は港区の専称寺にありますが,新選組愛好家の方ならご存知のように現在総司のお墓は非公開になっています.ただ,例外として年に一度の総司忌の時のみ公開されており,今年は今日がその日なのでした.

 当直明けの眠い目をこすりながら東京へ.地下鉄日比谷線六本木駅から徒歩10分ほどで専称寺に到着です.すでに大勢の参拝客で賑わっていましたが,大半が女性でした.やっぱり沖田総司は女性に人気がありますね.

 まずは焼香をしてその後墓所へ.一人ずつ順番に手を合わせます.総司のお墓は赤い屋根がかかった小さなものでした.わずか27年の短い生涯だった天才剣士沖田総司,その無念はいかほどであったでしょうか.師匠の近藤勇の死を知らずに死んだのがせめてもの救いだったのかもしれません.

 午後からは國學院大學院友会館に会場を移して伊東成郎氏による講演です.新選組に関する新しい知見を交えたとても楽しい講演でした.

 その後はお楽しみ抽選会というわけで,あらかじめ配られた番号に従っての抽選会が行われました.ちなみに私が当たったのが…

20090628005250  これです.大河ドラマ「新選組!」の時代考証をされた山村竜也さん原作の漫画だそうです(笑).

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2009年6月 7日 (日)

相馬主計

 もう一か月近く経ちますが,まだひのパレの余韻が残っている私です.そんなわけで本日は新選組ネタです.

 新選組の局長(隊長)は誰?と聞けばおそらく100人中99人は近藤勇の名前を挙げるでしょう.江戸の試衛館の道場主で,土方歳三,沖田総司,山南敬助,井上源三郎らとともに京都に上り新選組を結成,池田屋事件で勇名をはせるなど,新選組の黄金期を支えたのですから当然といえます.

 しかし鳥羽伏見の戦い,甲州勝沼の戦いで敗れ,勇が板橋の刑場の露と消えた後も新選組はその旗を掲げ続け,各地を転戦していきます.新選組が最終的に解体したのは、明治2年5月の箱館戦争終結の時だからです.

 近藤の死後,宇都宮では土方歳三が,彼が負傷した後の会津では斎藤一こと山口二郎が実質的な隊長として指揮を執っていました.

 鶴ヶ城落城後,斎藤一は会津に残留し,新選組の残存部隊は仙台で榎本武揚の艦隊に合流して蝦夷地に渡ります(この時,桑名藩士らの一部が入隊).そして蝦夷地上陸後は箱館政府軍の一部隊として戦い続け,最後は明治二年5月15日に箱館の弁天台場にて新政府軍に降伏し,その終焉に至るのです.

Benten1 Benten2

(写真左) 弁天台場跡は今は児童公園になっており,かつての面影はありません (同右) そばにひっそりと立つ弁天台場跡の碑

 この時新選組の最後の隊長だったのが,今回のテーマ相馬主計です.

 相馬は笠間藩士船橋平八郎の子として天保六年(1835年)または天保十四年(1843年)に生まれたとされています(一般に若いというイメージのある相馬ですが,天保六年説を採ると,土方歳三と同い年になります.ただ天保十四年生まれ説が定説のようです.とすれば沖田総司の1歳上ということになります).慶応元年(1865年)に脱藩,その後の経歴ははっきりしませんが,慶応三年10月ごろに新選組に入隊したと思われています.これは同年6月の新選組隊士の幕臣取り立ての際には名簿に名がなく,その後12月の天満屋事件の際の記録にその名があるためで,おそらくは土方歳三が慶応三年に江戸に下った際の募集で入隊したもののようです.

 慶応四年1月の鳥羽伏見の戦いの後,江戸に帰還,同年3月の甲陽鎮撫隊では局長付組頭となっています.入隊からわずか半年で幹部隊士になっており,当時の新選組が人材不足とはいえ,いかに彼が優秀であったかがわかります.その後流山で近藤勇が捕らわれると,土方歳三の命で近藤の助命嘆願書を携えて板橋に出頭しましたが,そのまま官軍に囚われてしまいます.この時本来なら近藤とともに斬首されるはずでしたが,釈放されました(一説には近藤勇が助命を願ったためと言われます.この時近藤とともに捕らわれた野村利三郎も釈放されています).

 板橋脱出後は野村とともに幕府陸軍隊に所属し,その幹部として各地を転戦します.そして同年9月に仙台で土方歳三および新選組と合流し,蝦夷地に渡ることになるのです.

 蝦夷地では箱館政府軍の幹部(陸軍奉行添役)として箱館市中の取締に当たっていました.身分的には新選組隊士ではありませんが,実際に市中警護の任にあたっていたのは新選組であり,このころから実質的には新選組を統括していたようです.翌明治2年3月の宮古湾海戦にも参加していますが,ここで板橋以来の盟友野村利三郎を失ってしまいます.同年4月に新政府軍が蝦夷地に上陸すると新選組とともに市内の弁天台場に籠って戦いました.

 しかし兵力に勝る新政府軍は5月11日には箱館市内を制圧,相馬と新選組の籠る弁天台場と五稜郭は分断されてしまいます.この時、孤立した弁天台場を救うため土方歳三が大野右仲らとともに出撃し,一本木関門で戦死したことはよく知られています.その後も弁天台場の戦いは続きますが,食料,弾薬もつき,5月15日に降伏となるのです.そして当時箱館で病院を管理していた医師高松凌雲(日本の赤十字運動の先駆者とされ,慶応三年のパリ万博に幕府随員として参加している,私も注目している人物)の書簡によると,まさにこの日に相馬主計は正式に新選組の隊長に就任したとされています(ただし,2008年春の日野市立新選組のふるさと歴史館の特別展示によると,相馬の新選組隊長就任はもっと早い時期だったという新資料が見つかったとのことです).

Benten3 (写真) 土方歳三戦死の地

 結局相馬主計は新選組最後の隊長として戊辰戦争を終えたのですが,このことが意味するのは,新選組に関する戦争責任のすべてを,彼が負わなければならない立場になったという事実です.実際彼は榎本武揚ら箱館政府首脳と共に捕らえられ,東京に送られ獄に繋がれました.島田魁ら他の隊士が諸藩の預かりとなって謹慎処分のみだったのとは大違いです.

 結局相馬は坂本龍馬暗殺(当時龍馬暗殺は新選組の仕業と思われていた),伊東甲子太郎暗殺などの罪を問われ,伊豆諸島の新島に終身流刑となりました.新島では寺小屋を開いて現地の子供たちに教育を施し,島民に先生と呼ばれていたそうです.ふとした機会に島の無法者にからまれた際,一撃で無法者を投げ飛ばし子供たちの喝采を浴びたものの,これからは学問の時代であることを常に言っていたといいます.島で住居を借りていた植村家の次女マツと結婚しました.

 後,明治五年に放免となりマツを伴って東京の蔵前に住んでいました.そして,ある日突然割腹自殺を遂げたとされています.この時30歳だったそうです(天保十四年説に従えば明治六年となります).自殺の原因については妻のマツが黙して語らなかったため不明ですが,一説には相馬に対する誹謗中傷があったとも言われています.

 これが新選組最後の隊長の生涯です.

 しかし,私には以前から腑に落ちないことがありました.それは…

 相馬主計はなぜ,箱館まで行って戦ったのかという疑問です.

 土方歳三ならわかります.天領の多摩で生まれ,近藤勇らと共に京都で幕府のために戦い,盟友近藤を失ってからは倒れ行く幕府に殉じて死に場所を求めていったからです.

 しかし相馬にそのような理由があるでしょうか? 相馬の出身の笠間藩は越後長岡藩の支藩でしたが,戊辰戦争では新政府軍方に付き,会津藩攻撃にも参加しています.しかも相馬が新選組に入隊したのは慶応三年の大政奉還の後です.いかに世相に疎い者から見ても幕府の衰勢は明らかな時期です.聡明な相馬主計がその点に気づかなかったとは思えません.しかもその後の戦いで勝利するならともかく,鳥羽伏見,勝沼と相次いで敗戦を経験します.隊士の脱走が相次いでも,京都時代のように法度を適用できる秩序はありませんでした.いわば去るものは追わず状態と言ってよく,彼がその気なら新選組を見限るのは簡単なことだったでしょう.

 しかし,それでも彼は新選組について行き,最後はどう考えても自分には全くメリットのない新選組隊長就任を引き受けているのです.いったい何が彼をここまで引き込んだのでしょう.

 様々に考えてみたんですが,この慶応三年の入隊,そして入隊半年で幹部へ昇進したという点にヒントがあるような気がしました.

 相馬は江戸帰還後,土方歳三の命で近藤勇の助命活動に従事しています.また箱館に渡ってからは,歳三の陸軍奉行並に対して陸軍奉行添役,同じく歳三と共に箱館市中取締の役についています.いわば土方歳三の補佐役であったと考えられます.当時の歳三は多忙であり,実際の業務は相馬が取り仕切る場面が多かったと思われます.

 一方で当時の歳三は京都時代の鬼の副長のイメージはなく,人間的にも一回り成長し(近藤が死んで,支えるべきものがなくなったからとも言われますが),温厚で周囲から慈母のように慕われていたといいます.慶応三年入隊の相馬は,いうなれば鬼の副長時代の歳三を知らず,入隊直後から懐の深い歳三の下で戦い,その人間的魅力に触れるうちに,この人物のためになら死んでもよいという境地に達していたのではないでしょうか.とすれば,彼にとって歳三亡き後の新選組の隊長になることは損得ではなく,必然であったと言うこともできます.

 もしかして相馬主計という人物は,今に続く土方歳三を信奉する若者の走り,土方歳三フリーク第1号だったのかもしれません.

 そんな相馬主計は私にとってとても魅力的な人物です.ひのパレでも相馬役の方を見つけると必ず記念写真をお願いしているほどです(とはいってもひのパレで相馬主計役が登場したのは第11回からなんですが).

Souma11Souma12 (写真左) 第11回の相馬さん (同右) 第12回の相馬さん

 一方小説の世界では,相馬主計を扱った作品は皆無ですが,唯一といえるのが,ミステリー作家森村誠一氏による「新選組」です.1000ページ以上の大作で少年期の近藤勇が強盗を追い払った有名なエピソードから始まり,箱館戦争終結後までが描かれる大河小説です.ほぼ史実に沿ってストーリーは展開するんですが,さすがミステリー作家の小説だけあり,司馬遼太郎などの歴史小説家によるものとは一味違った味付けが楽しい作品です.特に相馬主計が非常に重要な役割を果たしているのが魅力なのでした.相馬ファンはぜひ一度お読みください.

Morishin (写真) 祥伝社文庫 新選組上巻 森村誠一著

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2009年5月30日 (土)

第12回ひの新選組まつりレポがついに完成

 皆様,大変長らくお待たせしました.

 第12回ひの新選組まつりレポ、パレード編がついに完成しました.

 今年は晴天のパレードだったこともあり,昨年以上のハイテンションでの参加となりました.そのためか,本編の文字数が約15000字と昨年の倍近く,無駄に長いレポとなってしまいました.お茶やお菓子を用意してお読みください(笑).

 感想などありましたなら,ここかホームページの掲示板に書いていただけると幸いです.

 今後いくつか動画をアップする予定ですので,時間がたってからまた来て頂けると嬉しいです.

 さらに,各隊総覧の項で,2,6,7,9,10番隊の集合写真を手に入れられませんでした.もし持っていて,ここに載せてもいいよという方がいらっしゃいましたらご連絡をいただけると助かります.

 それではごゆっくりとお楽しみください(笑).

 第12回ひの新選組まつりレポ

2009hinopare_070

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2009年5月18日 (月)

ついに公式サイトで…

 私の第12回ひの新選組まつりレポ第1部が,

 日野宿本陣文書検討会様 のところで紹介されていました.

 キャー,こんな真面目なところで紹介されるような内容じゃないんですが… そうとわかっていたらもう少し真面目に書くんだった.

 それより,ここで紹介されたってことは,関係者の目に触れる可能性もあるわけで,遊んでることがバレて,来年以降出入り禁止になったらどうしようなどと恐れおののいているのでした.

 日野宿本陣文書検討会様,ありがとうございます(感謝).

 それはともかく,ひのパレ仲間のまーうささんから教えていただいた情報によると,日野市観光協会のホームページに恐ろしい写真が掲載されているようです.

      

  日野市観光協会

 お祭りの様子や主要幹部の皆さんの写真が続くんですが,一番最後の最後に… 思わず噴き出してしまいました(もちろんミスター土方にではありません 笑).

 しかし考えてみればこれは凄い写真です.今年の私のコンセプトに従えば,これは

 新選組副長土方歳三と新選組一番隊隊士にして長州の間者深町新作の夢のツーショットなのですから.まさか公式サイトでネタができるとは夢にも思いませんでした(笑).

 というわけで新選組まつりレポ~パレード編~ 鋭意執筆中です.今しばらくお待ちください.そして写真を提供してくださった皆様ありがとうございます.

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2009年5月10日 (日)

帰宅しました

 昨日今日行われた第12回ひの新選組まつりからさっき帰宅しました.

 晴天に恵まれ,再会や新しい出会いがたくさんあった2日間でした.

 例年思うんですが,このお祭りの2日間って,普段の1か月分くらいはあるんじゃないかという充実ぶりで,今回もクタクタです.

 お祭りの様子は例年通りHPの方にレポをまとめる予定です.昨年実績では2週間で完成でしたが,今年は来週合唱団の合宿があり,再来週後半には学会発表があるなど,結構予定がタイトなんですが頑張ります.

 運営にあたった実行委員会の皆様,御参加なされた全ての皆様本当にありがとうございました.

 追伸: 例年レポは第1部コンテスト編,第2部パレード編の二部構成ですが,今年はコンテストの写真がほとんどありません(泣).譲っていただける方大募集です(別に私が写っている写真というわけではなく,合格者の集合写真や,コンテストの様子,天然理心流の演武などです).

20090510231829 (写真) 今年の出陣式の集合写真.私はどこでしょう?

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2009年5月 6日 (水)

新選組まつりサポート企画!

 さて,いよいよ今週末はひの新選組まつり.

 JRで都内に入り会場に行くには新宿駅で京王線に乗り換えなければなりません.しかし,新宿駅は1日の乗降客数が350万人以上という世界一賑わっている駅,なかなか乗り換えも大変です.

 というわけで本日は,マイルド鉄スーパーライトのビザンチン皇帝が贈る特別企画,

 絶対に迷わない新宿駅乗換えマニュアル第1弾(中央線編)

 ここでは東京駅から中央線で新宿に出て京王線に乗り換える秘策です.

 中央線ホームに行く

 当たり前ですが,まずは東京駅の中央線ホームに向かいます.

Eki01  東京駅中央線ホームは1・2番線です(駅の1番西側になります).この朱色のホーム案内を目指して進みます.

 しばらくすると

Eki03  このようにホームへの登り口が見つかります.

 Eki04

 中央線ホームは3階にあるので,このように長~いエスカレーターを上がって行きます.

 6号車の一番5号車寄りに乗る

 無事にホームに着いたら,今度は乗るべき車両の確認です.中央線快速は東京駅始発で,しかも次々に来るのであせる必要は全くありません.

Eki06 中央線ホームです.左が1番線,右が2番線です.

 列車なんてどれに乗っても同じじゃん,なんて言ってはいけません.この車両の選択が,新宿駅に着いた後大きな意味を持ちます.

 乗るべき場所は,ズバリ6号車です.しかも車両にある4つのドアのうちもっとも5号車側の端のドアに乗ります.

Eki08

 1番線に停車している電車の場合はこの位置です.手前にエスカレーターが見えます.黒服の男性の背後が5号車の端っこです.

Eki10 乗る電車が2番線に停まっている時はこの位置になります.この場合は目的のドアの奥が5号車になります.

 えっ,でもどこで待っていればいいかわからない?

 大丈夫です.そんな時は足元を見てください

Eki05  東京駅の中央線ホームにはここが何号車の乗車口かを示す案内がありますから,あせらずゆっくり探してください.6号車乗車口という標識は4箇所ありますから(4つドアなので),そのうち一番5号車よりのところで待っていて下さい.

Eki12  無事に乗り込むとこんな景色です.カメラの視線方向が進行方向の反対です.

Eki11 これは2番線に停車中の目的のドア(6号車の一番5号車寄り)から見える景色です.

 電車に乗り込めばほぼ9割方勝利です.万一6号車には乗り込んだものの,端っこのドアではなかった場合は,電車が動き出した後に車両の進行方向の反対側の端に移動してください(中央線快速は10両編成で1号車が東京寄り10号車が新宿寄りなので,東京発の場合は1号車が一番後ろになります)

 新宿駅に着いたら

 さあ無事に新宿駅に着きました.勝利は目前です.

 乗り込んだ6号車端5号車寄りのドアから降りると,

Eki13  目の前に下に降りる階段が見えるはずです.この階段を降りてください(超重要!!)

  ここで注意すべきは,近くに上に登っていくエスカレーターが見えることです.

Eki16  このエスカレーターを上がっても出口に行けそうな気がしますが,絶対に行ってはいけません.もしこのエスカレーターに乗ってしまったら,あなたは永遠のさすらい人になってしまいます.

Eki14 さて,本題に戻って,これが本来降りるべき階段です.

 ここを降りた所が新宿駅中央地下通路というもっとも大きな通路です.

 中央西口へ

 中央地下通路に下りたら,何も考えずそのまま左を向いて歩き始めてください.

 Eki17

 見上げるとこういう看板が見えるはずです.中央西口に進んでください.  

Eki18  こんな景色が見えるはずです.

 30秒~1分ほど歩いていくと…

Eki19  ハイ,京王線への乗換え口が見えてきました.

Eki20  京王線の文字に従って階段を降りて進み,今度は階段を上がると

Eki21  京王線改札口に到着です.実際に私が歩いて見たら,中央線の電車を降りてからここまで3分とかかりませんでした.

 ここからはPASMOSUICAを持っていれば,右側の乗り換え改札口から直接入れますが,

Eki22 持っていない場合は一旦左手の改札から出て,

Eki23  ここで切符を買って京王線の改札に入るのです.

 以上,要約すると

 東京駅で中央線の6号車の一番5号車寄りのドアに乗り,新宿駅では降りた目の前の階段を下って,そのまま左にまっすぐ進む.

 ということです.自信のない方は一度お試しあれ

 追: ちなみに埼京線・湘南新宿ラインで大宮から入る場合は乗り込む際に電車の一番後ろの車両の一番後ろのドア(車掌さんがいる付近,要するに列車の最後尾)に乗り込んで,新宿駅に着いたら,電車の進行方向の逆に向かってホームの端にある階段を降りると,そこが地下中央通路になります.

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2009年5月 3日 (日)

まつりに向けて

 今日は5月3日,憲法記念日です.一週間後の5月10日はもうひの新選組まつりというわけで,気分はすでに新撰組隊士です(笑).

 さて,今回のパレードに当たって,新しい袴を購入しました.

Hakama_003

 これまではひのパレ仕様の縞のものと灰色のものを持っていたんですが,茶系も欲しいなというわけで,思い切って購入しました(定額給付金で買うと思えばちょうどいいか).

 もちろん素材は正絹などではなく,ポリエステルのちょっとゴワゴワ系です.しかしこのゴワゴワ感が浪士っぽくていいのでした.

 これで今年のパレードアイテムは一応そろったので,あとは乗り込むだけです.コンテストに向けての準備があるため,今年は前日の5月8日の夜に日野入りする予定です.

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2009年5月 1日 (金)

新選組の袖章

 今年のひの新選組まつりまでほぼ一週間になりました.

 例年パレードで新選組隊士は腕に袖章を付けて行進します.デザインは白地の布に誠の文字とその下に山形を赤で描いたものです(土方歳三資料館や会津若松の白虎隊記念館などにあるものです).

 ただ,パレード用の袖章は山形の下に隊士の名前が書いてあるのが特徴です.すなわち参加者は何らかの隊士を名乗って行進するわけで,これは大いに気分を盛り上げます.実際には土方歳三近藤勇沖田総司といった主要幹部についてはコンテストでの選出となります.しかし,それ以外,たとえば監察の山崎蒸吉村貫一郎篠原泰之進といった有名隊士はコンテスト選出ではないため,当日彼らの袖章に偶然当たる可能性もあり,袖章を配られる瞬間はかなりワクワクします.

 この袖章,非常に評判がよく,例年参加者から記念に欲しいという声がたくさん寄せられるそうです.しかし,これは関係者の方が一枚一枚アイロンがけをして作るのだそうで,配ってしまうと,翌年同じものを作り直すのは非常に困難なため配布はされていません.唯一の例外が2007年の第10回で,この年はコンテスト合格者のみそれぞれの袖章がもらえました.

Sode3 (写真) 第10回で頂いた武田観柳斎の袖章

 袖章に書かれる隊士名は何らかの記録に残る隊士だけで,小説などの架空の隊士名はないようです.ですから例えば新選組血風録の「長州の間者」に出てくる深町新作の袖章は存在しないのでした.ただネタ写真用に深町新作の袖章が欲しい! という場合は自分で作ればいいのです.

 というわけで作ってみました(笑).

Sode1 Sode2

(左) 普通バージョン,(右) 実物に近いバージョン

 遊んでみたい人は画像をダウンロードして白い布に貼り付けましょう.

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2009年4月22日 (水)

今年の隊士コンテスト

 残すところ3週間を切った今年のひの新選組まつり.その参加案内が先日届きました.

 例年日野市役所前の公園(雨天の場合は市民会館)で行われていた隊士コンテストが,今年は高幡不動尊の五重塔の地下の大広間(?)で行われるそうです.ここは昨年のパレード当日に出陣式等が行われた場所で,普段は一般人が立ち入ることのできない場所だそうです.土方歳三が函館で戦死してから140年の節目の年に,そのような場所を会場にする点からも,実行委員会の方々の気合の入りようが感じられます.

Tsuchi2

 それはともかく,もう一つ変わった点がありました.それは昨年までは副長土方歳三,局長近藤勇と一番隊から十番隊の隊長10人,合計12名がコンテストで選ばれていたのが,今年のコンテストでの選出は局長,副長のほかは6名の隊長のみ合計8人に縮小されていることです.もちろんパレードの規模そのものが縮小されるわけではなく,従来通りの一番から十番の編成で行われる模様です.どのような趣旨なのかは当日にならないとわかりませんが,いずれにせよコンテストの合格枠が昨年の三分の二になったわけで,例年以上の狭き門であることは間違いないようです(案内によると参加者が40人ということなので,倍率は5倍と大学入試並みです).

Tsuchi1  ただ良く見ると,コンテスト選出が8人だけと記された部分は,案内に印刷された紙を貼った状態であり,おそらくは当初は予定になく,最近になってそのように変更になったことがうかがえます.

 ちなみに今年のコンテストから外れた役は四番隊松原忠司,七番隊谷三十郎,九番隊鈴木三樹三郎,十番隊原田左之助の4人なんですが,う~ん困った…

 何事もマイナー志向の私,今年は九番隊長鈴木三樹三郎役を狙おう思っていました.今年は土方歳三没後140年なんですが,実は鈴木三樹三郎没後90年でもあるからです.

 鈴木三樹三郎は新撰組参謀だった伊東甲子太郎の実弟で,伊東とともに元治元年秋に新選組に入隊しました.翌慶応元年の編成で九番隊隊長になっています.慶応三年に伊東とともに御陵衛士となって新選組を離脱,その後の油小路の戦いを生き延び,戊辰戦争時にはあの相楽総三とともに赤報隊の幹部になっています.明治後は警察官となり,奇しくも土方歳三没後50年目にあたる大正8年(1919年)7月11日に亡くなりました.

 ある意味もう一人の記念イヤーとも言える鈴木三樹三郎ですが,今年のコンテストから外されたということで,私の目論見は見事に外れてしまい,さあどうしようと考えている次第なのでした.

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2009年4月16日 (木)

今年のひの新選組まつりのポスター

 日野新選組同好会の掲示板に今年の第12回ひの新選組まつりのポスターが出来上がった旨が書かれていました.

 日野新選組同好会(ここから掲示板に入るとあります)

 今年はかなり濃いということが書かれていましたが,はっきりいって本当~に濃いです(爆笑)

 しかもなぜか一昨年の写真だし.たしかにいろんな意味で強烈な面々ばかりが映っています.

 う~ん,このポスター個人的に欲しいな.祭りが終わったら貰えないかな… と思ったのでした.

 

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2009年4月 2日 (木)

今年もこの季節が

 昨日日野市観光協会から今年のひの新選組まつり参加決定ハガキがきました.

Annai_001

 ふと見たら文面が以前と変わっています.以前は「おめでとうございます! 第●回ひの新選組まつり隊士にあなたが選ばれました.つきましては○月△日までに~円振り込んで下さい」という,パッと見振り込め詐欺みたいな文面だったんですが….もしかして同じようなことを考えた人に指摘されたんでしょうか.

 とりあえず今年も衣装持ち込み隊士として参加します.コンテストについては結局出場することにしました.昨年はネタ勝負をやって敗れ去ったので,今年はひっそりと目立たないようにPRする作戦で行こうと考えています.名づけてショスタコービッチ作戦(なんのこっちゃ…って,当日になればわかります 笑).

 ところで今日4月2日といえば,1年前のちょうどこの日が新選組 IN パリ撮影の日でした.このあと急いで帰国,そして転勤と相成ったわけです.あれから1年,早いですねぇ.

Effel (写真) 懐かしの新選組とエッフェル塔

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2009年4月 1日 (水)

火星の土方歳三

 先日火星シリーズの記事のついでに載せた気になる本,「火星の土方歳三」.

 AMAZONの中古本で見つけて購入したものが昨日の夕方家に届き,一晩で一気に読み通してしまいました.

Hon_005 (写真) 表紙です.左上の美女と右下の緑色人がツボです.羽織っているのが新選組の羽織に似ているのは偶然です(笑).

 火星シリーズはアメリカの作家エドガー・ライス・バロウズ(ERB)が1911年頃から書いたSF作品です.第1作の火星のプリンセスから第11作の火星の巨人ジョーグまで全11本あります.100年近く前の作品ではありますが,決して色あせることのない手に汗握る素晴らしい作品群です.私も初めて読んだ時は時間がたつのを忘れて読みふけったほどです.

 このシリーズの大きな魅力が,その独特の火星世界です.赤色人や緑色人などの様々な人種や種族,バンス(火星ライオン)やキャロット(火星犬),シス(火星スズメバチ)といった火星独自の生物などが織りなす地球とは大きく異なる世界は非常に魅力的でした.

 この火星シーズの世界に新選組の鬼の副長こと土方歳三が飛び込んでいくんですから,いったいどうなるやら,火星シリーズファンにして新選組愛好家としては非常に気になるところです.

 読んでみて,いやー良くかけていると感心しました.ERBの火星ワールドに迷い込んで,ただ困惑する土方歳三がギャグのように描かれるパターンを予想していたんですが,さにあらず.もちろん当初は火星への移動,緑色人の襲撃バンスとの一騎打ち囚われて闘技場でのバトルなどERBワールド定番の場面と,それに戸惑う歳三が描かれます.しかし後半になると逆にERBワールドの中に新選組ワールドを作っていく歳三,火星一の大都市大ヘリウムの治安を守るための組織を結成し,自らその副長となって,不逞の輩をバッサバッサと斬っていくんです.彼の周りには火星の剣術使いが集まり,特に若くて陽気な赤色人の青年に三段突きをやらせる所は素敵過ぎます.もちろん歳三は火星でも女にもてます.奴隷にされていた赤色人の美女を身請けして,「歳三さま…」なんて呼ばれる始末,火星シリーズの世界がいつの間にか燃えよ剣の世界に変わってしまっています.

 まず何より,本を開いてタイトルのページ,目次をすぎて,登場人物が列挙されているページがまずツボです.見事に創元社版の火星シリーズそのまんまなのです.創元社版の登場人物紹介は

 ジョン・カーター…地球人,バージニア出身の騎兵隊大尉

 タルス・タルカス…緑色人,サーク族の副首領

 というふうに,名前・人種・身分出身等の順で列挙されていますが,これが全くそのまんまで,早くもこの本に引き込まれていきます.

 文章そのものは歳三の一人称で語られます.すなわちその時々の彼の気持ちがストレートに表現されているわけで,非常に楽しめます.1869年(明治2年)5月11日新政府軍の銃弾に倒れた歳三の魂は遺体を離れその中空に漂います.彼は自分の遺体を取り囲んで涙する仲間たちについて,(以下本文より引用)

 意外なのは、生前、私とは犬猿の仲だと思っていたあの榎本釜次郎―反りの合わなさ加減は、おおかた衆目の一致するところだろう―が、私の遺骸を前に涙したことだ。生きてるうちにそうしろよ、釜次郎と、私は思わず叫んだ…

 滑稽なのはわたしの直属の上官、あの厚顔な大鳥圭介が、長々と弔辞を述べたことだろう。… おおかた 「ああ土方くん。思えばきみは」とかなんとか、美辞麗句を虚無に並べたに相違あるまいが、それを聞かずにすんだのは幸いであった。

 (引用終了)

 などといかにも彼が言いそうなことがつづられていて,嬉しくなったのでした.

 この本,新選組愛好家でも十分楽しめますが,火星シリーズ(全部とは言わない,せめて冒頭3部作,いや最初の火星のプリンセスだけでも)を知っていて読むと,随所にツボる場面があって涙がでます.

 古書とはいえ,これが100円は安かったなぁ.

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2009年2月15日 (日)

第12回ひの新選組まつり参加募集開始

 日野市観光協会のHPによると,第12回ひの新選組まつりの隊士募集が始まったようです.

 第12回ひの新選組まつり「新選組パレード」参加者募集

 日時は5月9日(土)~10日(日),参加形態は昨年と同様で,① 衣装貸出参加(100人),② 衣装持参参加(制限なし),③ 同時代の人で参加 のようです.

 今年は土方歳三没後140年ですからね.みなさんふるってご参加を(って自分は日野市観光協会の回し者か?).ちなみに私は… もちろん参加です(きっと②なんだろうな 笑).

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2009年1月26日 (月)

維新後の永倉新八

 本当~に,久しぶりの新選組ネタです.

 幕末の激動の京都で,会津藩の庇護の下,いわゆる尊攘派の浪士と死闘を繰り広げ,倒れ掛かる幕府の屋台骨を支えた剣客集団,それが新選組である.自らの命を賭して戦い続けた新選組の主要メンバーはその多くが幕末期に非業の死を遂げている.試みに,ひの新選組まつりの隊士コンテストで選出される12人の主要幹部についてみると

 局長     近藤 勇   慶応4年4月25日 板橋にて刑死

 副長     土方歳三  明治2年5月11日 函館にて戦死

 一番隊隊長 沖田総司  慶応4年5月30日 江戸にて病死

 四番隊隊長 松原忠司  慶応2年  切腹

 五番隊隊長 武田観柳斎 慶応3年  暗殺(?)

 六番隊隊長 井上源三郎 慶応4年1月5日 淀千両松の戦いにて戦死

 七番隊隊長 谷三十郎  慶応2年  暗殺(?)

 八番隊隊長 藤堂平助 慶応3年11月18日 油小路で戦死

 十番隊隊長 原田左之助 慶応4年5月 上野戦争で負傷し後死亡

 このように12人中9人までが幕末維新期に命を落としている.これ以外の幹部でも,総長の山南敬助が慶応元年2月に切腹し,参謀の伊東甲子太郎は慶応3年11月に暗殺されている.

 一方少数ながらも明治期を生き抜いた者もいた.九番隊隊長の鈴木三樹三郎(伊東甲子太郎の実弟)は伊東と共に慶応3年に御陵衛士に加わり,油小路の戦いを生き延びる.その後は薩摩藩の庇護のもと,倒幕派として活動し明治を迎えている.慶応3年12月の伏見での近藤勇襲撃事件にも参加しているし,その後は相楽総三の赤報隊にも加わり,二番隊隊長という重責を担っている.

 三番隊隊長の斉藤一は流山で近藤勇が捕われた後,新選組の残存部隊を率いて転戦し,会津戦争に参加した.しかし榎本艦隊と合流する土方らとは別れて,戦後も会津に残り,会津藩士として生涯を送っている(斗南にも行っており,今の青森県五戸町に住んでいたらしい HPの関連記事).維新後は警視庁に出仕し,西南戦争にも参加している(西南戦争では当初政府軍の主力は徴兵で集められた兵隊であり,鉄砲を撃つのは得意だったが,薩摩武士に切り込まれて肉弾戦になると,なすすべもなく崩れてしまった.このため,旧士族が集まっていた警察隊を戦地に送り,薩摩の切り込みに対抗したのである).

 そしてもう一人,維新後を生き延びた幹部隊士が今回のテーマ,新選組二番隊隊長の永倉新八である.

Hanyashiki(写真1) 地下鉄新御徒町駅近く,小島小学校付近に旧松前藩上屋敷があったそうです

 永倉新八は天保十年江戸詰めの松前藩士長倉勘治の次男として江戸の松前藩上屋敷で生まれた.名は栄治である.次男ではあったが,兄の秀松が新八3歳のときに亡くなったため,実質長男として育てられたらしい.8歳のときに江戸の岡田道場に入門し,神道無念流を学んだ.18歳の頃に脱藩して,同流の百合道場に移り,ここで終生の友となる市川卯八郎(後の芳賀宜道)と出会った.この時に実家に迷惑がかかることを恐れて,苗字を一字変えて永倉としたようである.その後心形刀流の坪内道場に師範代として招かれ,後に新選組で一緒になる島田魁と知り合ったらしい.

 脱藩後は武者修行と称して各地を歩いていたらしく,その途中で試衛館に出入りするようになったようだ.永倉の新選組顛末記によると,当時の試衛館は「武骨が過ぎて殺気みなぎるばかり」だったという.その気風が肌に合ったのか,いつしか食客として居つくようになった.文久3年の浪士組の一件を試衛館に持ち込んだのは永倉だと言われている.

 上洛し,新選組結成後は,副長助勤,二番隊隊長,撃剣師範などの要職を歴任し,常に幹部隊士として組の中枢にあった(永倉は沖田総司,斉藤一と並ぶ新選組を代表する剣客として知られる).特に沖田総司が体調を崩してからは,彼の一番隊の指揮も担当している.元治元年の池田屋事件をはじめ,油小路の戦い,鳥羽伏見の戦いなど新選組の修羅場のほとんどに参加しており,特に池田屋では近藤,沖田らとともに最初に乗り込んでいるし,鳥羽伏見では薩摩の洋式銃隊に対して切り込みを敢行し武功を挙げている.

 永倉は新選組結成時のメンバーでは試衛館派に属するが,初期の新選組の局長だった芹澤鴨とは同門(神道無念流)だったこともあり,近藤や土方らとは常に一線を画していたようである(文久3年9月の芹澤暗殺についても,彼は全く関知していなかったらしい).池田屋事件後,行動がやや尊大になってきた近藤に対して,原田左之助や島田魁らとともに,会津藩主松平容保宛に建白書を提出している.この時は容保のとりなしで大きな事件にはならなかったが,その後も微妙な影を落としたようである.ただ,永倉と近藤らは決して対立していたわけではない.後に伊東甲子太郎らが入隊し,独自の勢力を形成し始めると,永倉にも伊東から誘いがかかったが,結局彼は新選組に留まっているからである.思うに永倉という人物は,相手が誰であれ,間違っていると思うことははっきりと言うタイプの人間だったのだろう.彼自身は近藤・土方ら新選組の基本路線(勤皇・佐幕)には賛成だったと思われる(伊東は勤皇・反幕である).

 しかし,時代の流れは新選組にとって逆風となり,鳥羽伏見の戦い,その後の甲陽鎮撫隊の敗戦の後,近藤らと袂を分かつことになった.その後は旧友の市川卯八郎(芳賀宜道)らとともに靖共隊を結成し北に向かって転戦,米沢に至って雲井龍雄と交流している.しかし,明治元年9月の会津藩降伏によって芳賀とともに江戸に戻った.

 江戸に戻った後,しばらくは浅草の芳賀の家に潜伏していたが,明治2年1月に芳賀が義兄(妻の兄,藤野亦八郎)に殺されると,永倉も身を隠しきれないと感じ,松前藩に帰参を願い出て許された.この時永倉があっさりと帰参を許されたのは,長倉家が藩内でそれなりの地位を占める家柄だったからとも言われている(浅田次郎氏の壬生義士伝で有名になった南部藩の下級武士だった吉村貫一郎が鳥羽伏見の戦い後,大阪の南部藩邸に帰参を申し出ながら,許されず切腹になったのと対照的である).

 新選組顛末記によると,ある日両国橋を歩いていた永倉は,偶然にも鈴木三樹三郎と再会した.以下は顛末記からの引用である.

 一日永倉はおりからの休みをさいわいに気保養がてら市中を散策していると、ふと両国橋の上で新選組で前年暗殺した伊東甲子太郎の実弟鈴木三樹三郎に出会った。永倉はしまったとは思ったがいまさらひきかえすこともできぬ。両人のあいだはしだいにちかよって鈴木の眼には異様の光がかがやいた。そして、

 「やァしばらくでござったナ、貴公はただいまいずこにおられるか」と鈴木が聞くので、永倉は、

 「拙者は松前藩に帰参いたしてござる」

 「それではいずれまたお目にかかる機会もござろう」とすれちがったので、永倉も会釈してわかれた。

 しかし鈴木は兄伊東の仇敵として永倉をそのまま見逃すはずがない。ただちにひきかえして斬りつくるのではあるまいかと永倉がふりかえると、鈴木もふりかえってじっと見ている。永倉はさてこそとかくごして袴の股立をとりしたくをして待っていたが鈴木はとてもかまわぬと思ったか、そのまま黙っていってしまう。それから数日たつとはたして鈴木の一味が永倉をつけまわし、門外一歩をふみだそうものなら、たちまち手をくだす気勢をしめした。

 途中の,「しまったと思った」というくだりからは,永倉といえども,戊辰戦争後の追われる身としての心の不安が感じられる.結局この事件とその後明治3年12月に盟友雲井龍雄が処刑されたことによって,江戸に留まることの危険を感じた永倉は,藩の勧めもあり地元松前の藩医である杉村松柏の養子に入ることになって江戸を去った(明治4年1月).この時から杉村治備(後に義衛)から名乗ることになった(ただし本稿では混乱を避けるため以後も永倉新八で統一する).

 松前に移ってからの永倉は当地で藩の軍役についたりしていたが,間もなく廃藩置県となり多くの藩士が松前を去っていった.永倉も家族とともに明治6年に小樽に転居している.

 当時の小樽はニシン漁で栄え,北海道随一の賑やかな街だったらしい.ここで養父の杉村松柏は本業である医業を始めた.しかしそれも永くは続かず,翌明治7年8月に松柏はこの地で亡くなってしまう.永倉は藩医杉村家の養子とはいえ,医業の知識があったわけではないから家業を継ぐわけにはいかない.結局彼が選んだのは家族とともに東京に戻ることであった.彼の東京在住は明治8年から15年までである.この間各地で剣術の指南などをやって暮らしていたといわれるが,特筆すべきは現JR板橋駅東口に建つ新選組顕彰碑の建立である.

P1250011 (写真2) JR板橋駅前に建つ顕彰碑

 戊辰戦争期に朝敵の汚名を着せられた新撰組であるが,次第名誉回復の動きが出てきた.その流れの中で永倉は医師の松本良順(明治後は松本順と改名)や多摩の近藤・土方の縁者,生き残った他の新撰組隊士らとともに奔走し,明治9年顕彰碑の建立に至ったのである.

 その後明治15年になり,永倉は再び北海道に渡った.行先は開拓使庁の置かれた札幌からさらに石狩川の上流にある樺戸集治監である.樺戸集治監は監獄機能に加えて,囚人を使っての開墾や道路建設などの土木事業などを行わせるための施設である.背景として廃藩置県後頻発した旧士族の反乱(佐賀の乱,萩の乱など)や高まる反政府運動などで政治犯が激増し治安が悪化していたことがある.前年明治14年に初代典獄(刑務所長のようなもの)の月形潔のもとで開設されていた.

P9160135 (写真3) 永倉が剣術を指導した樺戸集治監は今博物館になっている

 ただこの集治監には腕の立つ囚人も多く,万一暴動などが発生した場合に応援を呼ぶすべもない土地柄であり,看守に対する剣術指南の重要性が考えられていた.このため永倉に白羽の矢が立ったものらしい.当時この集治監のあった場所はまさに辺境であり,彼も家族は小樽に残しての単身赴任であった.ここで明治19年まで剣術師範の職にあったようである.

 実は私の好きな大河ドラマ「獅子の時代」にこの樺戸集治監が登場する.主人公で元会津藩士の平沼銑次(演じるは菅原文太)が大久保利通暗殺の罪を着せられ,ここに収監されるのである.ただドラマでは銑次が樺戸にやってきたのは明治14年で翌15年の春には脱獄しているので,残念ながら銑次と永倉の接点はないのであった.

P9150024 (写真4) 永倉が晩年をすごした地にはこのように碑が建っている(現小樽市役所付近)

 それはさておき,永倉を樺戸に招いた月形が明治18年に職を辞すと,永倉も翌明治19年に樺戸を去った.その後三度東京に戻り道場などを開いていたといわれるが,明治32年に小樽に引っ越し,以後死ぬまでその地にとどまった.

 この晩年の小樽時代のエピソードとして,小樽の映画館から孫とともに出てきたところ地元のヤクザに絡まれたものの,彼が睨むと相手はその眼光で圧倒されて退散した話や,老境の永倉が北海道帝大の撃剣部の学生に教えを請われ,引き受けて札幌に出向き,一通り型を披露したものの,激しく動きすぎて卒倒してしまい帰りは馬車に乗せられて小樽に帰った話が知られている.

P9150043 (写真5) 小樽市郊外にある永倉新八(杉村義衛)の墓所

 大正2年からは地元の小樽新聞に「永倉新八」のタイトルで新撰組時代の話を連載している.これをまとめたものが今日「新撰組顛末記」と呼ばれる書籍であり,新撰組研究の貴重な資料となっているものである.またこの小樽時代に近藤勇の娘といわれる山田音羽の訪問を受けている.

Img360 (写真6) 永倉の話を基にした新撰組の資料

 このように幕末維新期を生き抜いた永倉新八であったが,大正4年1月5日に小樽で亡くなった.伝えられるところによると口腔内感染からの敗血症だったとされる.

 永倉新八は幕末の最終段階で近藤・土方らと袂を分かったものの,後年は新撰組の復権に努力するなど,今日我々が新撰組について知っている多くのことを教えてくれたのである.

 注) 今回の記事は2007年秋の北海道旅行で訪問したネタを中心に構成しています(やっと完成した 感).

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2008年10月12日 (日)

しながわネタシリーズ3

 もう2週間前になりましたしながわ宿場まつり,本日のネタは一緒に参加したFさんから頂いた写真です(感謝・感謝).

 駕籠屋にて

Kago  小料理屋の前で

Nomiya  幕末アビーロード

Abbey_road  品川宿の釜屋にて

Bentou Oldphoto

 そして品川寺の土蔵から発見された古写真です(笑).

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2008年10月 9日 (木)

しながわネタシリーズ2

 3日ぶりの更新です.実は昨日発表しなければならないイベントがあって,火曜日からちょっとあたふたしていたのでした.

 さて,先日のしながわ宿場まつりの写真第2弾です.

P9280011 P9280201

P9280151 P9280211  きっとまた続くと思います(笑).

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2008年10月 6日 (月)

しながわネタシリーズ

 気がつけば一週間経ってしまいました.しながわ宿場まつりの写真です.

 隊士募集のため江戸に赴いた近藤・土方が京に帰ってきた.

P9280186

 新選組の新しい行軍禄発表,しかしそこに筆頭局長芹沢の名が…

P9280148 P9280146

 島原にて

P9280161  きっと続編もあります.

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2008年10月 3日 (金)

出張!

 秋は公私ともに出かける機会が多い季節です.先週はしながわ宿場まつりだったんですが,今週末は出張,しかも行先はなんと,

 山口!

 おおっ,長州だ.とはいえ今回は一応仕事がらみの研修参加です.せっかく行くのだから研修だけではもったいないと今日最終の飛行機で山口入りしました.2月に行った際は例の新撰組 IN 長州で,新撰組扮装で走り回ったんですが,今回は衣装一式お留守番です.

 しか~し,

200810032200001

 実はネクタイが誠だったりします(会場で誰か気づきますかね 笑).

 せっかくなので100名城関連で萩や津和野,岩国あたりを探索してきます.

Asunnimu  先週はこんなことをしていたな.

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2008年9月28日 (日)

しながわ~

 今日,大きな扮装イベントであるしながわ宿場まつりに参加して来ました.

 昨年ブログ仲間のフミヲさんに誘っていただき初参加,土砂降りでテンション下がる中,「これは天気がよければ楽しいまつりに違いない」というわけで,今年も参加と相成った次第です.詳細は後日HPにレポをアップする予定(どうでもいいけど,アップしなきゃならないレポが溜まってるぞ自分 笑)です.

 今年扮した役は,自分にとって原点ともいえる新選組局長近藤勇です.当日は晴天とはいきませんでしたが,幸い雨が降らず気温的にはベストコンディションだったのではないでしょうか.ご一緒させていただいた方々,見に来て下さった方々ありがとうございました.

P9280009 (写真) 近藤勇になった皇帝,衣装が映画っぽくて良かったです.

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2008年7月 8日 (火)

外国人の目から見た新選組

 久しぶりの新選組ネタ.

 今日7月8日は旧暦の元治元年では6月5日になります.そう,新選組の名を一躍世間に知らしめた池田屋事件が起こった日です.

 さて,今年のひの新選組まつりの前夜祭でご一緒させていただいた,まりもさん(ブログ仲間のまーうささんのお友達)が翻訳された外国の方が書いた新選組本 

 新選組(SHINSENGUMI) 将軍警護の最後の武士団

 を読みました.

Shinsengai

 著者のロミュラス・ヒルズボロウ氏はカリフォルニア生まれで,日本にも長く住んでいた経験のある方のようです.この本を書くにあたって多数の参考文献に当たっています.

 歴史は勝者によって作られるといわれるように,新選組についての記録は決して多くありません.たとえば私達はテレビや映画の影響で,池田屋事件で沖田総司が肺結核の発作(喀血)を起こして倒れたということを知っていますが,これは事実として裏付けられているわけではありません.また慶応2年の総長山南敬助の死についても,脱走→切腹という世間に流布している話の真偽も,実は不明です.

 作者はこのように新選組に関する資料が断片的であることを認めた上で,「この本はノンフィクションであるとは言えない」と断っています.

 内容は幕末の政治情勢から筆を起こし,浪士組の結成から池田屋事件,鳥羽伏見の戦いなどほぼ歴史に沿って展開していきます.ただそこは外国人が書いたものであり,私達日本人とはちょっと違った視点が感じられます.

 たとえば,”徳川幕府の法律では,庶民が無礼を働いた場合,武士は速やかに厳しい懲罰を与える絶対的権利を持っていた”(本書より引用)とあります.これは「斬り捨て御免」などといわれて私達も聞いたことがある話です.しかし実際には制度としてそのようなものがあったとしても,そう簡単に斬り捨て…などとはいかなかったのが事実のようです(もし本当に武士が町人を無礼打ちした場合,当然奉行所などの取調べがあるし,また無礼打ちを行ったのが他藩領内だった場合には大問題になる).

 また著者は近藤勇や土方歳三が浪士組に参加して上洛したことを,「力を手に入れるという不屈の意思に突き動かされて」と書いていますが,実際に浪士組参加時点で二人にそれほどの意思があったのかは疑問です.

 とはいえ,書かれている内容はトンデモないものはなく,よく研究されていると思います.ちょっと新鮮な新選組本としてぜひ読んでみていいのではと思いました(著者は幕府方では勝海舟を非常に高く評価しています).

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2008年6月29日 (日)

雨の池田屋

 高幡不動駅前にある ~幕末めし処~池田屋 が来月閉店してしまうということで,その前に行ってこようと計画していました.当初は6月22日に行こうと思っていましたが,雨降りのため断念,一週間後の29日に延期したのですが…

 今日も雨

 意味ないじゃん! と思ったのですが,来週は別件の用事もあり,今日しかないということで行ってきました.予報では当地より高幡の方が雨量が少ないという話だったんですが,向かうにつれて雨脚が強まっていく.結局本格的な雨降りの中,高幡不動駅に降り立ったのでした.池田屋が駅前でよかったと思いつつ入店しました.

Ikedayamae (写真) 池田屋前.他の人の写真でも思うんですが,店の前の隊士の看板,こうして写真で見ると人のように見えるんですよね.

 ちょうどお昼時を過ぎた時間帯だったためか,お客さんは5, 6人ほど.各新選組隊士メニューやら幕末の志士メニュー(ケイキさんもあった)を物色,自分なりに思いのある井上源三郎武田観柳斎にしようかとも思ったんですが,結局食べたいものということで斎藤 一丼になりました(笑).

Ajizaisanmon (写真) やっぱり雨が降っているほうがあじさいには似合います

 食べ終わって店を出ると,ちょうど雨が小止みになっており,腹ごなしにと盛りの過ぎた高幡不動尊のあじさい祭りへ.昨年もこのタイミングであじさい祭りに行きましたが,ちょうどカンカン照りだったためか,あじさいもしおれた感じでしたが,今日は程よく雨が降っているためかみずみずしく見えました.やっぱりあじさいには雨が似合いますね.

 というわけで私の一月半ぶりの高幡訪問でした.

Toshizoudon(写真) というわけで本日のお土産はこれ.土方歳三うどんです.

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2008年5月29日 (木)

夫婦春秋

 今年のひの新選組まつりは,本レポもすでに完成しましたが,実はまだまだ紹介しきれない写真や動画があったりします(なにせ総写真枚数600枚!).これらはネタ写特集にしてHPにアップする予定ですが,今回はまた一味違った写真を一枚.

 ひのパレの「出会った人々」に多摩時代の土方歳三お琴さんが出てくるんですが,そんな2人が並んで歩いている写真です.

P5110517

 見た瞬間,これは意を決した二人が故郷を捨てて旅に出た場面のように感じました(二人の目が前方の同じものを凝視しているようにも見えます.二人の幸せな未来なのでしょうか?).

 実際には土方歳三はお琴さんと結ばれることなく,激動の幕末の歴史の渦に巻き込まれていったわけですが,仮にパラレルワールドが存在して,どこかの世界に剣の道ではなく女性の愛を選択した土方歳三がいてもいいんじゃないかと思ったのでした.

Khtnem20080529130047 古写真風にするとこんな感じです.バックの自動車が駕籠なら完璧でした.

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2008年5月25日 (日)

第11回ひの新選組まつりレポ完成!!

 皆様お待たせいたしました(誰も待ってないか),第11回ひの新選組まつりレポが完成しました.2週間で完成させると宣言して何とか2週間で完成しました.ぜひ見てやって下さいませ.

 第11回ひの新選組まつりレポ完成!

11hinopareda お祭り終了後の高幡不動尊にて

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2008年5月24日 (土)

ひの新選組まつりの写真2

 今月10~11日に行われた,第11回ひの新選組まつりのレポ第2部は現在製作中です(大体半分以上はできた).

 というわけで今回は本レポには載らない写真を展示いたします.

Neta6 長州の高杉晋作とひそかに結託していた新選組隊士(どうでもいいけど,悪人顔だなぁ自分).

 今回の私の衣装ダンダラの下は黒紋付でした.しかも組合せ角に桔梗紋,坂本龍馬の紋です.2月の長州遠征以来このスタイルにしているのですが,それを使ったネタ

Neta7  生活苦から新選組でアルバイトしているところを師匠の勝海舟に見つかった坂本龍馬

 続いては前夜祭で撮った写真です.7メートルの巨大鯉のぼりと戦うビザンチン皇帝(歌劇「魔笛」の冒頭というウワサも).

Neta1 ① 巨大鯉のぼりが現れた!(ドラクエ風に)

Neta2 ② 迫り来る巨大鯉 「これは手ごわいぞ」

Neta3 ③ 「うわぁー! 飲み込まれる~」

Neta4

④ 「たすけてくれ~」

Neta5

⑤ 美味しくなかったのか,お腹の中を素通りです.

 失礼しました!

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2008年5月20日 (火)

第11回ひの新選組まつりレポ第1部完成

 先日行われた第11回ひの新選組まつりから約1週間,恒例のレポ第1部隊士コンテスト編がようやく完成しました(夢から現実への激動の1週間だったもんなぁ).

 参加の皆々様もそうでない方も見てやって下さいませ(感想はここもしくはHPの掲示板にどうぞ).

 第11回ひの新選組まつりレポ第1部

 引き続き第2部パレード編も鋭意製作中です.

11hino6so (写真) ビザンチン皇帝渾身のネタ”新選組 IN パリ”,会場の反応はいかに?

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2008年5月15日 (木)

井上源三郎祭り

 先日行われた第11回ひの新選組まつりのパレード.井上源三郎役だったのは昨年のミスター土方,コシゾウさんである.

P5110460 (写真) 見よ,この引き締まった勇姿を

 しかし今年は井上源三郎没後140年ということで,過去のコンテストで源さんだった人間を集めて六番隊に編入するという企画がひそかに行われていた(六番隊には本物の源さん(コシゾウさん)の他に,井上源三郎の袖章を着けた元源さんが3人いた).まさに井上源三郎祭りである.

P5110297  そんなわけで私にも井上源三郎の袖章が(実際の隊士名は宮川数馬,鳥羽伏見の戦いにて戦死したらしい).観客の中には私を源さんと間違えて一緒に記念写真を撮ってた人もいた(ごめんなさい).

 源さんというと,性格は温和,皆に好かれていたというイメージがある.

 そんな源さんのネタ写です.

P5110617 (写真) 源さんもお兄さんには頭が上がりません.

P5110303 (写真) 争いを好まない源さんは龍馬だって見逃します.周囲のお客さんが楽しそうにこちらを見ています(喜).

 こんな記事ばっかり書いてるから本レポ製作が進まないんだ(頑張ります).

 

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2008年5月13日 (火)

ひの新選組まつりの写真

 週末に行われた第11回ひの新選組まつりの写真を整理したら,なんと600枚以上もありました.ピンボケやらなにやらで使い物にならない写真も多いんですが,これらを使ってレポを書くことになります.

 真面目な(?)レポは後日ホームページのほうにアップしますが,まずは小手調べのためにネタ写を2枚公開します.

Ryomaansatsu (写真1) 龍馬暗殺の決定的瞬間を激写(当初はこれが真実と思われていたんですねぇ)

Shinsensatsuma (写真2) 薩摩藩の家老に隊の秘密を売る新選組隊士をフォーカス

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2008年5月12日 (月)

残 zanshin 心

 今年は新選組六番組長井上源三郎の没後140年に当ります.このためひの新選組まつりの企画の一つとして,劇団エルプロダクツ(エルプロ)の舞台が行われました.

 エルプロは主に幕末モノを取り上げている女性ばかりの劇団です.例年ひの新撰組まつりで井上源三郎率いる六番隊隊士を構成し,お祭りでは殺陣等を披露しています(昨年はパフォーマンスコンテストで最優秀賞を受賞).その関係で今回の公演となったようです.

 私も2年前の はなさかづき からエルプロさんの舞台をを見ており,特に今回は新選組モノということで楽しみにしていました.公演は12時と18時の2回で,私が見たのは12時の方です.

 内容は池田屋事件直後の,新撰組の名が一気に有名になった頃いわば新選組絶頂期から始まります.長州系浪士と斬り合う日々を過す新選組の面々に,江戸からやって来た親の敵を探す兄弟や,同じように恋人の敵を探す京の娘,さらには海よりも深い謎を秘めた(?)長州の浪人などが絡んで展開していきます.

 殺伐とした斬り合いの日々を送る新選組の剣客たちの心にと呼ばれるものが広がっていきます.彼らは何のために人を斬るのか,元々は何かの目的や,やむをえない理由があったはずなのに,次第に人を斬ること自体が目的になっていく狂気,毒は三本足の黒猫とともに広がっていきます.殺伐とした隊士たちのなかで温和といわれる山南敬助にも毒は忍び込んでいます.ただ無益な殺生を好まない優しい源さん(井上源三郎)だけは毒に侵されていないようでした.しかしそんな源さんの前にも黒猫が…

 結構重いテーマにも関わらず,あちこちに笑いの要素もちりばめられ(源さんの淡い恋物語(?)も),もちろんエルプロ得意の殺陣もふんだんに盛り込まれていました.

 久しぶりに人斬り集団としての新選組の一面を見た感じがしました.毒によって狂気の世界に入っていく隊士たち.しかしそれだけでは単なる殺人集団であり,私たちの心には響きません.そこには破滅への道を進んでいくことに気づきつつも,決して進路を変えることのない者達からにじみ出る 滅びの美学 が見えるような気がしました.歴史は勝者によって作られます.ただ時として敗者の方がより後世の強い感銘をもたらす場合があります.新撰組とはまさにそういう集団であると再認識したのでした.

 また次回の公演が楽しみになった私でした(とはいってもコンテストの打ち合わせで一番最後が見られなかったのです 号泣).

Zanshin (写真) 今回の公演のチラシ.この腕は誰の腕なんだろう(血管がよく見えて採血が楽そう)なんて考えてしまう私でした. 

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2008年5月11日 (日)

祭りが終わって

 昨日今日と2日間に渡って行われた第11回ひの新選組まつりから先ほど帰宅いたしました.毎年毎年書いていることですが,恐ろしく充実した2日間でした.コンテストには落っこちてしまいましたが,とても楽しい2日間でした.その内容はとてもここでは語りつくせないため,後日レポにアップいたします.しばらくお待ち下さい.

 ともに過ごした皆様楽しい時をありがとうございました.

Img311  追伸: 私のコンテストネタ

 新選組 IN パリ

 をホームページの方にアップいたします(笑).

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2008年5月10日 (土)

出陣前夜

 外をみたら雨が降ってます.明日からお祭りだというのに…

 なんて言ってても仕方ないので今夜は準備して寝ます.皆さんお昼に会場でお会いしましょう.

Nimotsu (写真) お出かけ用荷物一式です(新選組装束,刀大小,着替えその他).

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2008年5月 7日 (水)

制限時間1分

 いよいよ第11回ひの新選組まつりが3日後に迫った.衣装一式等準備は整っているのだが,実行委員会から送られてきた資料によると,隊士コンテストのPR時間は一人1分と明示してあった.

 昨年の案内には確かPR時間は特に書いておらず,当日に一人1分と発表されて「エーッ」となったのを覚えている.そのためか昨年は1分過ぎても強制的に打ち切られるケースはなかった.しかし今年は案内に1分と明記していることから,1分を越えると自動的に終了なんてことになるのかもしれない(よく学会などで見かけるように,時間が来るとチーンと鳴らされるとか).

 それにしても1分はあっという間である.なにせアイアンキングの活動時間と一緒だ(マイナーすぎ).怪獣は絶対に倒せない.試みに実験してみると「こんにちは,○○から参りました●●△△です.よろしくお願いします」これでもう10秒である.実質残り50秒でのPRとなるが,今年の私の場合いきなりネタを披露しても「??」となる恐れがあるため,前口上が必要だ.なんとか

 はじめの挨拶(10秒) → 前口上(25秒) → ネタ(15秒) → 締め(10秒)

 となれば理想であるが,予定どうりに行くかどうか,あとひとふんばりである.

P5070005 (写真) 昨年の一次審査にて(提供ONEさん).

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2008年5月 4日 (日)

ひのパレ企画

 いよいよ今年のひの新選組まつりまであと1週間を切りました.パレードの終了後になにかイベントをということで,以下のような企画が出ているようです.転記しておきます.

 (以下転記)

皆様、今年のひのパレもいよいよ間近に迫ってきましたね!

それで実は今、ひのパレ参加者の皆様と何か一つの事が出来ればと思い、『ひのパレでハイタッチ!』という企画を考えています。

最近、ロックなどのコンサートやフェスによく見られる現象なんですが、終演後にその場に居る観客同士で手を上げてパチン!と合わせる“ハイタッチ”をするというものです。
意味合いとしては、同じ感動を味わった者同士の『お疲れ様!』『最高だったね!』『また次の公演でね!』などの挨拶です。

もちろん知らない人とも手を叩き合うわけですが、不思議とその場の一体感、結束感から、普段は人見知りなのに手を叩き合える、という感覚があります。

これを今、ひのパレ終了後に参加者みんなで出来ないだろうか?と考えています。

当然、恥ずかしいと言う人も居ると思います。無理してやる必要はありません。

ですが、まずは一緒に参加した友達などの知り合いから。出来れば徐々に、パレードで隣を歩いた方や、自分の隊の組長さん、他の隊の皆さん、果てはミスター土方(笑)と手を叩き合えたなら、素晴らしい思い出になると思います。
そして、大団円の時に皆でひのパレ成功を祝う“輪”が出来るといいな…と思っているのですが、いかがでしょう?

予定では、パレード終了後は中央公園ステージに移動し退陣式。16:00には終了・解散となり、その後は1時間、写真撮影等の自由時間となります。タイミングとしてはその解散~自由時間中に声を掛け合い『ハイタッチ』したいと思っています。

◆ルール◆

・お相手に『お疲れ様でした』『記念にハイタッチお願いします』などと一声掛け、OKならお相手が手を合わせやすい高さに自分の片手を掲げ、ハイタッチ!

◆ご注意◆

・お相手の手が荷物でふさがっている、または何かご用事がある様子であれば遠慮しましょう。無理なお願いはお止め下さい。

・あくまでハイタッチは手を軽く叩き合うものです。強く叩いたり、またそのまま手を握る等はお止め下さい。

・これはひのパレ公式行事ではなく、あくまで参加者有志による自発的な企画として行います。

 (以上)

 来週の今頃はすでにパレードが始まっているのかと思うとワクワクしますね.

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2008年4月20日 (日)

井上源三郎没後140年

 第11回ひの新選組まつりのポスターが完成したようです.昨年のミスター土方こと,コシゾウさんの騎乗の写真を中心にした構成となっています.ポスターを詳しく見てみると,左上に井上源三郎没後140年の文字が見えます.

 新選組創成期からのメンバーで副長助勤,六番組長を歴任した井上源三郎は慶応4年1月5日(1868年1月29日)に淀千両松の戦いで戦死しました.ともに従軍していた甥の井上泰助がその首級を持ち帰ろうとしましたが,その重さから断念し近くの寺に埋めたものの,その場所は不明であるとされていました.

 しかし最近になってその埋葬地が明らかになり,日野市の井上源三郎資料館の館長様をはじめ関係者の方々が訪ねられたとのことでした.

 井上源三郎資料館 (関係記事が掲載されています)

 4月はじめの引越し以来どこにも出かけていなかったのですが,ようやく家のほうが片付いたので来月のお祭りの前に一足先に高幡不動に出かけてきました.土曜日でしたが天気がイマイチのためかあまり人はいませんでした.大日堂の前ひっそりとしていましたが,来月にはまたここに200人もの隊士が結集するのかと想像すると胸が高鳴りました.

 新選組ゆかりの各私設資料館は土曜日はやっていないため,市役所近くの「新撰組のふるさと歴史館」を見学し(現在特別展「新選組 戊辰戦争のなかで」開催中),その後はJR日野駅前にある宝泉寺を訪ねました.ここは井上源三郎の菩提寺となっている場所です.

P4190007 (写真1) 宝泉寺の門

 私は一昨年の第9回ひの新選組まつりで図らずも井上源三郎役をいただき,その年のパレードで六番隊を率いてお参りさせていただいた身としては,140年という節目に当ってぜひとも再訪したいと思っていたからです(ひのパレ当日はお参りに行く余裕はなさそうなため).

P4190006 (写真2) 顕彰碑の前で

 立派な門をくぐってどんどん進んでいくと,駐車場のような開けた場所に出て右側に源三郎の顕彰碑が建っています.さらに進んで行くと井上家の方々のお墓が集まったところがあり,その一角に源三郎のお墓もあります(戒名は誠願元忠居士).

 井上源三郎は近藤勇や土方歳三,沖田総司などに比べると地味な存在でしたが,大河ドラマの影響などで最近は良く知られるようになっています.没後140年の今年地元での盛り上がりをどう感じているのでしょうか.

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2008年4月14日 (月)

去年の今頃

 ひの新選組まつりまであと1ヶ月を切った.参加決定通知が届き,すでに参加費も振り込んでいる.

 昨年の今頃はコンテストでどういうPRをしようか盛んに考えていた.居合いの真似事をやって,1本のタクワンがダダダッときれいに輪切りになるというネタや,新選組は坂本龍馬だったネタなど,いろんなネタが浮かんでは消えしていた(最終的に医局中法度ネタが完成したのは連休ごろであった).

 その点今年はすでにネタは完成,あとは日の目を見るだけという状態なので気分的にはだいぶ楽である(もちろん細かい段取りの練習は必要だが).

 ただ日野新選組同好会のHPによると,今年のパレードは本隊のみで230人以上と過去最大規模とのことであった.さすればコンテスト参加者の方もかなりの人数になることが予想され,例年以上の激戦になることは間違いない.並みいる全国の強豪を向こうに回してどれだけ自分のPRができるかが大きな問題である.期待と不安が大きく膨らんでいる今日この頃である(このワクワク感がたまらないというウワサもありますが).

 全国の参加者の皆さんよろしくお願いいたします.一緒にお祭りを盛り上げていきましょう.

1jikon (写真) 昨年の一次審査での私.右手に持つのが医局中法度です(提供 風雅さん).

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2008年4月 3日 (木)

第11回ひの新選組まつり参加決定

 2月末に申し込んでいた第11回ひの新選組まつりの隊士パレードへの参加決定通知が実家のほうに届いていたそうです(申し込みの段階で異動のうわさがあったため住所を実家にしておいた).

 参加要綱には衣装持込は全員参加できる旨があったのですが,別に書留で出したわけでもなく,届いていなかった可能性が否定できなかったため,これで一安心です.あとは参加費を振り込んで当日出かけるだけですが,今年もコンテストから参加します.何をやってPRするのか,居合いの型など見せられるはずもないので,当然ネタ勝負になりそうです.何が飛び出しますやら乞うご期待(笑).

 参加の皆々様方,よろしくお願いいたします.

Tosizou (写真) 高幡不動尊の土方歳三の像

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2008年3月12日 (水)

新徴組

 文久3年2月に上洛した浪士組のうち,近藤勇や芹澤鴨ら江戸に戻らずに残留したグループ(壬生浪士組)が後に新選組となった.しかしこの時都に残った浪士は20人程度であり,残りの大部分200名以上は浪士組の黒幕である清河八郎とともに江戸に帰っている.後4月13日に清河が幕府方に暗殺されると,浪士組は新徴組と改名され庄内藩預かりとされた.

 会津藩預かりとなって,池田屋事件などで活躍した新選組の存在感が絶大であるために忘れられがちであるが,新徴組も江戸市中の治安維持に活躍している(庄内出身の藩士より江戸近隣出身の新徴組隊士のほうが江戸の地理に詳しいため重宝されたという).大政奉還後の慶応三年暮れに,江戸市中で乱暴狼藉を働いていた相楽総三ら(黒幕は西郷隆盛)の挑発に乗って庄内藩は薩摩藩邸を焼き討ちし,これが翌年の鳥羽伏見の戦いの呼び水になるのだが,新徴組もこの焼き討ちに関わっている.

 戊辰戦争では終始庄内藩と行動をともにして新政府軍と戦っている.戦後は藩士とともに開墾作業にあたっていたが,元来新徴組隊士は庄内とは縁もゆかりもない者達であり,明治以後は隊士の多くが庄内を去ったという.

 そんな新徴組の組頭の一人に沖田林太郎という人物がいる.新選組一番組長沖田総司の義兄(総司の姉みつの夫)である.2004年の大河「新選組!」ではなんだか頼りなさそうな人物に描かれていたが,彼は元々八王子千人同心の出で,天然理心流も学んだ剣士である.近藤勇や義弟の沖田総司らと浪士組に参加し上洛したが,近藤ら試衛館一派とは行動をともにせず江戸に戻っている.そのまま新徴組に参加し,慶応四年春には病床の義弟を江戸に残して,みつと共に庄内に行っている.明治以後もしばらく庄内に居たものの,明治五年に江戸(東京)に戻ったとされている.元々沖田家は奥州白河藩士の家柄であり,一時的とはいえ同じ奥州の庄内の地に住んでいたというのも興味深い話である.

 江戸から庄内に移った新徴組隊士に与えられた家(新徴屋敷)が鶴岡市の松ヶ岡地区に残されていると聞き,先日見に行ったのだが,雪に埋もれて近づくこともできなかった(夏に出直せという意味だろう 泣).

Shinchoyashiki(写真) 雪に埋もれた新徴屋敷,戊辰戦争直後には鶴岡市内に100棟以上もあったそうです

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2008年3月10日 (月)

清河八郎の故郷

 新選組結成に当たって清河八郎の果たした役割は決定的に大きい.

 歴史にたらればは禁物だが,文久二年に八郎が時の幕府政事総裁職の松平春嶽に急務三策を提言しなかったら,おそらくは浪士組の結成もなく,従って近藤勇土方歳三が幕末史の表舞台に出てくることもなかったであろう.

 そんな清河八郎だが,彼にはどうしても策士のイメージが付きまとう.当初は将軍警護のためと称して浪士を集めたのに,京都に着いたとたんこれらを尊皇攘夷の尖兵とするよう画策するなどは.どう考えても一般的ではない.結局八郎は孝明天皇の勅諚を得たものの(一介の浪人が勅諚を貰ったというのも凄い話だが),幕府に警戒されて浪士組は江戸帰還することになり,これに反発した近藤や芹澤らが分離して後に新選組となったのは周知の事実である.

 江戸帰還は表向き生麦事件後の不穏な空気から,外国との戦いに備えるという名目だったが,実際には浪士たちを自分らの手の届くところに置いときたいとの幕府の意向であろう.結局江戸帰還後も攘夷運動を進めていた八郎は,文久三年4月13日に佐々木只三郎らによって殺されてしまった.

 そんな清河八郎の出身地は山形県の庄内地方である.現在の行政区分では庄内町の清川地区になる.ここには清河八郎記念館も存在し,地元では偉人として扱われているようだ.実際に個人の能力という点では八郎の文武両道ぶりは際立っている.長州の桂小五郎や新選組から御陵衛士になった伊東甲子太郎も文武両道とは言われるが,二人とも道場ではともかく,実線経験は未知数であるのに,八郎の場合は大刀一閃,相手の首が2メートルも吹っ飛んで瀬戸物屋のどんぶりに収まったというエピソードがあるほどの使い手でもある.

Hachikine (写真) 清河八郎記念館

 実は先週末,所属する学会の地方会があって出かけたのだが,せっかくだからと庄内まで足を伸ばしてきたのだった.目指す清河八郎記念館は街中にひっそりと立っていた.隣接して八郎を祭った清河神社もありそこには八郎の銅像も立っているのだが,なんと神社は雪に埋もれて冬季閉鎖状態,参拝が不可能な状況であった.八郎の銅像も青いシートに囲われていた(泣).空は快晴で結構気温も高かったのだが,さすが庄内は雪深い土地だと改めて感動したのだった.

 雪に閉ざされるためか,清河八郎記念館は冬季閉鎖である.3月に入って開館したばかりのようだった.

Huyujinja Natshujinja (写真左) 雪に埋もれた清河神社,青いシートの中に清河八郎がいる. (同右) 夏に来るとこんな感じらしい.

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2008年2月28日 (木)

決意

 来る5月10日~11日に行われる第11回ひの新選組まつり,私もぜひ参加したいと考え,どういった形で参加するか思案していました.いろいろと悩んだんですが,結局今年も隊士として参加することに決めました(衣装一式持込なので②ですね).そして性懲りもなく,今年もコンテストから参加します.どういったネタで臨むかも自分なりに決めました.これから2ヶ月じっくりと準備に取り掛かりたいと思います.当日何が飛び出すのか,乞うご期待(って余り期待させておいてショボイ内容だと寒いので,あまり期待しないで下さい 笑).

 追伸: コンテストでの持ち時間,一昨年は一人2~3分だったが去年は1分だった.時間に合わせてネタも何種類か準備した方がいいのか?

Hatto (写真) 昨年のコンテストのネタ,”医局中法度”

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2008年2月18日 (月)

新選組 IN 長州

 2月の三連休長州遠征に出かけたんですが,その最大の成果(?),新選組 IN 長州がホームページの方に完成しました.

  新選組 IN 長州

 何が飛び出しますやら,乞うご期待(笑).

Choushu2_118

 萩城の近く,菊ヶ浜を疾走する新選組

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2008年2月 8日 (金)

思案中

 日野市観光協会のホームページに「第11回ひの新選組まつり」の参加者募集要項が発表されています.

 新選組パレード参加者募集

 今年も参加することはほぼ確実と思われる私ですが,問題は参加形式です.観光協会によると,まつりへの参加は

 ① 衣装を借りて隊士として参加(定員100人,応募多数の場合は抽選)

 ② 衣装持参で隊士として参加(希望者は全員参加)

 ③ 新選組と同時代の人物に扮して参加(昨年までのゆかり隊)

 の3通りがあるようです.基本はやっぱり②なのですが,③もちょっと惹かれる…,伊東甲子太郎やサンナンさんら知性派隊士もやってみたい.でも倍率高そうだしなぁ,抽選で洩れたから②に回るってのも新選組に失礼な気が….

 やっぱり素直に②,もしくは③に応募してダメなら観客に回るってのが現実的なところですかね.そんなわけで,しばし悩んでいる私でした.

 追伸: ②の場合はやっぱりコンテストからの参加だと思うんですが,どんなネタで行こうという別な悩みもあるのでした.

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2008年1月20日 (日)

第11回ひの新選組まつり

 日野市観光協会のホームページによると,第11回ひの新選組まつりが5月10日~11日と決まったそうです(って,元々土方歳三の命日に近い週末に行われているので,予想されていた通りではありますが).

 新選組隊士パレード募集について

 詳細は後日発表になるようですが,いよいよ新選組シーズン突入というわけで,このブログの記事も徐々に新選組ネタが増えてくるんじゃないかと思います(見返してみても,最近新選組ネタが少ないなぁ 反省).

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2007年12月25日 (火)

台湾扮装旅行

 さて演奏会は無事に終わった.あとは帰国するだけである,な~んて考えるのは甘い! 演奏会から解放されたのだから大いに楽しまなくてはならない.演奏会終了後参加者の約半数は翌朝の便で帰国と相成ったのだが,私はあと1日残留することにした(気合で年次を取った).というわけで翌12月24日(クリスマス・イブ)は他の残留者達と共に,台北市内観光に繰り出した.私はこのためにわざわざ持参した和装で臨んだことは言うまでもない(龍馬紋の長衣に袴,それに新選組のダンダラという凄い組み合わせ).

Pc240134 台湾でも伝統のある寺院「龍山寺」

 空はあいにくの雨天であったが,台湾総統府(旧台湾総督府)や中正記念堂,龍山寺などを見学した.その後昼食を摂り(4回目の中華料理),午後からは台北郊外の九份という街に繰り出した.ここは19世紀末にゴールドラッシュに沸いた坂と階段の街で,近年では映画「悲情城市」の舞台となり,宮崎駿氏の「千と千尋の神隠し」の舞台のモデルになった街といわれている.

Pc240168_2  「皆の者我に続け~」

 狭い道路沿いに多数の木造建築の店が立ち並ぶその雰囲気は,たしかに「千と千尋~」の世界であった.せっかくだから写真を撮ろうと張り切った私でした(雨降りではあったが,雨はしながわで慣れているのでそれほど苦にならなかった 笑).

Pc240160 九份の街中にて

Pc240157_2 九份はこのように階段の街です

Pc240154 「これからは銃の時代だ.土方副長へのお土産にしよう」

 他にも写真があるので,後日美術館の方にでもアップします(笑).ちなみに新選組装束は台湾人にも人気のようで,何人かの現地の人に記念写真を頼まれた(嬉).

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2007年10月12日 (金)

2007年しながわ宿場まつり参加記録完成

 非常に内容がpoorなのですが,先月行われた2007年しながわ宿場まつりのレポが完成しました.参加された方またはそうでない方も見てやって下さいませ.

  2007年しながわ宿場まつり参加記録!

 ご感想はホームページの掲示板の方にどうぞ.

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2007年8月 8日 (水)

テッペンカケタカ

 先週末首都圏に出向いた私でしたが,その目的のひとつが劇団エル・プロダクツ(以下エルプロ)の公演を鑑賞することでした.エルプロはひの新選組まつりの隊士パレードで井上源三郎率いる六番隊の隊士を務めている人たちの劇団で,新選組を初めとする時代物を数多く取り上げて活動しています.私は縁あって昨年(2006年)のひのパレで井上源三郎役をやらせていただいたため,面識を得ることができました.エルプロの昨年の公演は「はなさかづき」,戊辰の会津戦争を描いた感動的な作品でした(関連記事はなさかづき).

Dscf0021 第9回ひのパレにてエルプロの皆さんと

 そのエルプロの第10回という節目の公演がこの「テッペンカケタカ」であります.場面は戦国時代,あの織田信長の生き様を描いた作品です.信長といえば,赤穂浪士の討ち入りと並ぶ,日本史のメジャーアイテムであります.そういうネタを扱う以上,通り一遍の解釈や演出では評価を得ることは難しく,相当なオリジナリティーを出す必要があるのではと思いました.HP「斬心」上に公演の案内が掲載され,ポスター(チラシ?)も掲示されたのですが,真っ赤な空とまばらな木が生えた大きな岩,添えられたキャッチコピーは「天辺の欠けた隙間から降りてくるのは何者なのか…」,「人々の願いを叶えるのは誰でもいい。神でも、悪魔でも」と.これを見ただけで「ムム,これはただの作品ではない」と期待を抱かせます.

Img176 テッペンカケタカのチラシ

 さて,肝心の舞台の方ですが,プロローグは信長誕生,子供は母親の愛情を受けて育つ,でももし母の愛が受けられなかったら…,なんとなく将来の暗い雲が予感されます.そして信長の天下布武の戦いが始まります.既存の価値観にとらわれず,政敵を容赦なく排除する信長,その傍には森蘭丸が控えています.しかし蘭丸には単なる小姓とは思えない,ただならぬ雰囲気が漂っています.時に自分のやっていることが本当に正しいのか自問する信長,しかしそんな時には,彼の分身とも言うべき吉法師が現れ,覇道を進んで王になれと囁きます.そんな信長の苦悩をただ一人理解していたのが明智光秀でした.

 物語のコンセプトは,本能寺の変で主君信長とともに非業の死を遂げた森蘭丸の無念の心が,時代を越えて過去に転生し,信長を王にすべく暗躍するというものでした.そして信長を中心に,秀吉や家康,光秀などの武将たち,蘭丸に協力するために同じく転生した細川ガラシャ,キリスト教の宣教師,さらには群集などが絡んでいくのでした(武将や大衆などの役はコロスという人たちが声色を変えて演じていました).ただ歴史のやり直しを演じている森蘭丸自身も,自分と信長の死についての記憶は失われているのでした.

 物語終盤,真の心を取り戻した信長は呪縛を振り切るべく光秀に自分を倒すよう命じます.驚きつつも信長の苦悩を知っている光秀は本能寺へと向かうのでした.

 この舞台,過去への転生や心を支配しようとするものの存在などSFタッチの作品となっています.人間の強い無念の心が魂を過去に転生させる,という筋立ては1980年代のRPGの名作ファイナルファンタジーを彷彿させました.歴史にifは禁物といいますが,本作品のように歴史の大筋には手を加えず,あくまでもその経過に新たな解釈を入れて,もしこういう背景があったらどのように展開しただろうかと考える筋立て(ある種の知的な遊び心)に非常に好感を抱きました.

 最後は歴史どおりの展開となるため,本能寺にて蘭丸は信長と共に命を落とします.物語の始まりが,非業の死を遂げた蘭丸の無念が過去に転生するというものでしたから,もしかしたら彼の心は再び過去に転生し,三度歴史のやり直しが起こるのではないか,ふと私はそう思いました(もしかすると永遠に繰り返される輪廻の世界では?).しかし舞台のラストに母の愛に包まれ,幸せに満ちた吉法師の姿が演じられました.私はこのシーンを見て,これで輪廻の鎖は断ち切られるだろうと確信しました.あれほど主君を愛した蘭丸が,主君の幸せな表情を見て歴史をもう一度リセットしようなどとは思わないだろうからです.

 戦国モノのお芝居や映画は数多いでしょうが,かなり斬新な脚本で,2時間があっという間でした.役者さんも皆個性は揃いで素晴らしかったです(ひのパレの殺陣とはまた違った楽しさがありました.わずか2日間の公演はもったいないとも思いました).

 追伸: 表題のテッペンカケタカというのはホトトギスの鳴き声だそうです(ホトトギスの鳴き声としては他に特許許可局というのもあって,私はそっちの方が近いのではと思ってたりします).初めてチラシを見たとき,「テッペンハゲタカ」かと思い,しかも配役に宣教師のフロイスの名が…,てっきりフランシスコ・ザビエルの頭の話(てっぺん禿げたか)かと思いました(笑).

Zabieru 髪の毛がテッペンカケテル,F・ザビエルです

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2007年5月25日 (金)

2007年ひのパレレポ完成!

 皆様お待たせいたしました(誰も待っていないか 笑).2007年5月12~13日に行われた第10回ひの新選組まつりレポがついに完成しました.皇帝観柳斎の目から見た独断と偏見に満ちたレポです(笑 ご感想はホームページの掲示板にどうぞ).

 第10回ひの新選組まつり参加記録

Yoin 2週間たった今もまだ余韻に浸っている私です.

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2007年5月19日 (土)

ひのパレレポ第1部完成

 5月12,13日に行われた第10回ひの新選組まつりのレポ第1部「コンテスト編」がホームページの方に完成しました.興味のある方はどうぞ

  第10回ひの新選組まつり参戦記録 ~ 第1部 隊士コンテスト編 ~

2007shutujin 出陣式の様子

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2007年5月14日 (月)

第10回ひの新選組まつりパレード

 ただいま,ひの新選組まつりから無事帰宅いたしました.最終のはやて,いわて銀河鉄道,自家用車を乗り継いで,自宅にたどり着いたのは午前1時でした(やっぱり江戸は遠い).

 昨年同様あまりにも充実した2日間だったため,とてもここで表現することはできません.近日中にホームページの方にアップしたいと思います(完成したらブログのほうにもお知らせを出します).

5bantai 武田観柳斎率いる五番隊の雄姿.

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2007年5月13日 (日)

開幕!ひの新選組まつり

 いよいよ第10回ひの新選組まつりが始まりました.今日は午後から明日のパレードでの幹部隊士を決める,隊士コンテストも行われました.

 昨年思いがけなく六番組長井上源三郎役をゲットした私もコンテストに参加した.昨年は遠隔地から来た変り種であることをPRしたのだが,同じ手が2回も通用するはずはない.とはいっても居合などの型を披露することもできず,結局思いついたのが,局中法度ネタ.新選組の有名な局中法度をネタにしたパフォーマンスであった.

 今年は昨年を上回る45名の参加者があり,しかも比較的正統的なパフォーマンスをする人が多く,私の出る幕はないかなと半ばあきらめていたのですが,一次審査の結果なんとか合格,続くニ次審査では鳥羽伏見の戦いの直前,近藤勇と水戸藩の重臣のやり取りの演技を行った.私は希望の隊士を聞かれて「武田観柳斎」と答えたのでした.

Taishikon1 私(右)とミスター土方をゲットしたコシゾウさん(左)

 2次審査の結果,私は五番組長武田観柳斎役をゲット,注目のミスター土方は当ブログにも来たことがある,コシゾウさんが選ばれたのでした.ちなみに沖田総司役には背の高いフランス人の男性が選ばれました(フランスは戊辰戦争で幕府に肩入れしているからポイント高いな).今年は1次審査合格者の希望隊士が結構バラケていたため,希望通りの役をもらえた人が多かったと思う.

 さあ,いよいよ明日はパレード,私も武田観柳斎になりきって頑張ります.

Taisikon2 武田観柳斎の袖章です.

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2007年5月12日 (土)

江戸に到着

 やっと江戸に到着しました.皇帝を自称しているくせに首都に住んでいない私(もっともビザンチン帝国の前身のローマ帝国では,ローマに住んでいなかった皇帝はざらにいるので,それでよいともいえるのだが)にとって,江戸行きはやはり時間がかかる.東北新幹線のはやてで盛岡-江戸は2時間半なのだが,私の場合新幹線に乗るまでに1時間かかる.

 新幹線と在来線を乗り継いで,さっき多摩地方の旅籠に着いた次第です.ネット環境にある旅籠なのでこうしてブログを更新しています.

 それにしても途中京王線電車の何と混んだことか.この辺の人たちにとっては普通なのかもしれないが,電車が揺れるたびに前後左右から強力な力で圧迫されて骨が折れるんじゃないかと思った.とても私には暮らせそうにない(さっきの京王電車1両の乗客数で,JR岩泉線全線の1日の乗客数を超えていることは間違いないと感じた).

 さあいよいよひのパレ.今夜はさっさとビールを飲んで寝ることにします(BGMはモーツァルトのピアノソナタ15番だったりして).

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2007年5月11日 (金)

いざ日野へ

 さあいよいよ明日からひの新選組まつり.明日は隊士コンテストであさってはパレードである.予報では天気も持ちそう.私ビザンチン皇帝も帝位を投げうって(最初からそんなものがあるのか)脱藩し,尽忠報国の志を持って駆けつける所存です(なんか浪士組結成のため伝通院に集合する浪士の気分.決して支度金50両が目当てではありません 笑).

 いまから新幹線に飛び乗って(勿論衣装一式持参で)江戸表に向かいます.

Iza 今から江戸に向かう私です.

 追伸: 忘れてはいけません.今日5月11日は土方歳三の命日ですね.

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2007年5月 7日 (月)

いよいよ新選組まつり

 GWも明けて,今日からまた普通の日常が始まった(まさにブログのタイトルどおり).とはいっても私の場合,後半の4連休は当番で毎日職場に呼び出されていたため,休んだという気はまったくしないのだった(夜中にも2回くらい呼び出された).

 さて,ひの新選組まつり,いよいよ今週末です.本当かよと突っ込みたくなるくらい,月日の流れは速い.つまり来週の今頃は,祭りの余韻に浸りつつ,抜け殻のようになっている自分の姿が想像されるのであった(笑).既に切符の手配,宿の手配は済んでおり,あとは無事に出かけるばかりです(私の場合金曜の夜のうちに江戸入りしようと思っているため,金曜の夕方に急な用事が入らないことを祈ってます).

 今年もコンテスト参加の予定なので,午後にはメイン会場入りする必要がありますが,午前中は昨年見られなかった史跡等を巡る予定です(そのままコンテストになだれ込むことを考えて,朝から新選組装束で歩こうかなどと考えています 笑).

 パレード参加の皆々様,今年もよろしくお願いいたします.大いに祭りを盛り上げましょう!

Hinopare1 昨年の出陣式の場面(高幡不動尊大日堂前にて).

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2007年5月 4日 (金)

武田観柳斎と武田耕雲斎

 第10回ひの新選組まつりまであと1週間,いよいよ気分も盛り上がってきている.昨年のコンテストで,「希望の隊士は?」と聞かれた私は,「武田観柳斎!」と答えた.どちらかといえば学問派で,剣術の方はあまり得意でなさそうなところが,何となく自分に共通するような気がしたからと思われる.そんなわけで今日の話題は武田観柳斎である.

 武田観柳斎(?~1867)は出雲の国松江藩の支藩,母里(もり)藩の出身で,元の名前を福田要というらしい(中公文庫 新選組事典より).郷里では医学生だったという.福田は尊王論に惹かれていたが,松江藩主は親藩の松平氏だから,藩論はバリバリの佐幕派である.そんな環境に嫌気がさしたのか,脱藩して江戸に出た(不穏分子として藩に捕らえられ,脱獄して江戸に出たとも言われる).そこで甲州流軍学を学んだらしい.この時,武田信玄にあやかって武田観柳斎と名乗るようになった.その後の足取りは不明だが,文久3年の秋頃に新選組に入隊している.剣客揃いの新選組で,彼の軍学の知識は貴重な存在であった.隊内では副長助勤,文学師範から後には五番組長などを歴任した.上に対してはおべっかを使う一方で,下に対しては過度に厳しく当たる面があり,一般隊士には人気がなかったようだが,局長近藤勇の信用も厚く,元治元年の江戸行き,慶応元年の長州行きの際には軍師格として近藤に同行している.

 しかし幕府の軍制がフランス式に改められると,武田観柳斎の軍学は時代遅れのものとなり,徐々に隊内での地位も不安定になっていった.そこで彼は新選組から分離した伊東甲子太郎一派(御陵衛士)に接近したが断られている(伊東が新選組から分離する際に,以後新選組と御陵衛士間の隊士の移動は認めないという取り決めがあったためといわれているが,伊東自身に観柳斎に対する不信があったのかもしれない).

 行き場を失った観柳斎は薩摩藩に接近する.当時の薩摩藩は表向き公武合体派を標榜していたが,既に慶応2年1月に薩長同盟を結ぶなど,倒幕の動きを見せており,新選組からも敵方と認識されていた藩である.この薩摩藩との接触が露見し,慶応2年9月に斎藤一と篠原泰之進に斬られたと言われている.その一方,慶応2年後半に新選組を除隊し,その後独自に尊王攘夷活動を行ったために,慶応3年6月に新選組に殺されたという説もある.また子母澤寛の新選組物語によると,男色の気があったともいう.

Matsue 武田観柳斎の出身地,出雲の国松江です.今は近代的なビルが並びます.

Izumosoba そして,出雲といえば名物出雲そばです(写真は割子そばです).

 ところで,幕末に武田姓を名乗った有名人がもう一人いる.水戸藩の家老,武田耕雲斎(1803~1865)である.歴史的インパクトではこの耕雲斎の方が上であろう.水戸黄門で有名な水戸藩は尊王思想の本家ともいうべきところで,幕末期の藩主徳川斉昭と水戸学者の藤田東湖は,全国の尊攘派志士に強い精神的影響を与えたことで有名だ.この幕末の水戸藩で徳川斉昭を支えたのが武田耕雲斎である.こちらは元の名前を跡部正生といい,跡目を継いだ際に,武田信玄の末裔を称して武田姓を名乗ったものらしい.

 ペリー来航から安政年間にかけて,全国の尊攘活動をリードしていた水戸藩であるが,1855年(安政2年)の安政大地震で藤田東湖が圧死し,1860年(万延元年)に徳川斉昭が死ぬと,保守派と改革派の対立が激化して藩内は大混乱に陥る.この保守派と改革派の抗争はこの時期,どこの藩でも大なり小なり見られたことで,珍しいことではない.特に長州藩では,藩主がリーダーシップを発揮しなかったこともあり,両派の抗争で政権が保守派になったり,改革派になったりを繰り返していた.ただ長州藩の場合は抗争があっても,せいぜい敵方を追放する程度で,一族を根絶やしにするようなことはしていない.ところが幕末の水戸藩では政争で勝った側が反対派を一族郎党全て殺してしまうような,血で血を洗う激烈な抗争が繰り広げられたのだった(安政期には尊皇攘夷といえば水戸藩の専売特許みたいなもので,特に過激な水戸藩士が安政の大獄で井伊直弼に徹底的に弾圧され,その報復として桜田門外の変が起こったのである).

 こうして両派の報復合戦によって,水戸藩は有能な人材を失っていった.そして1864年(元治元年)3月に天狗党の乱が起こる.これは一向に攘夷を決行しない幕府に対して,藤田小四郎(藤田東湖の子)ら水戸藩の過激派が筑波山で挙兵したものである.武田耕雲斎は尊攘派ではあったが,過激派ではなく,この時藤田小四郎らの挙兵に対しては批判的であった.彼は過激派を説得すべく水戸に向かったが,逆に説得されて天狗党の首領に祭り上げられてしまった.この時耕雲斎61歳であった.

Kouunsai 天狗党の乱で悲劇的な最期を遂げる水戸藩家老,武田耕雲斎

 尊皇攘夷の決行を掲げて挙兵した天狗党だったが,早くも戦いはは水戸藩内の保守派との内戦の様相を呈してきた(このころ水戸を押さえた保守派は,過激派の留守宅を襲い,過激派の妻子を殺したりしたらしい).幕府や周辺の諸藩の干渉もあり戦いは泥沼化する.そんな中状況を打破するため,天狗党の面々は,将軍後見職の一橋慶喜(徳川斉昭の子)を通じて朝廷に自分達の赤心を訴えてもらおうと,京都に行くことを決定,天狗党800人余りが進軍を開始した.元治元年秋のことである.

 幕府や諸藩の軍と戦いながらも彼らは12月11日に越前の新保(現福井県敦賀市)に到着した.しかし彼らはそこで,頼みの一橋慶喜自身が追討軍を率いてやってくることを知った.もはやこれまでと観念した天狗党は12月17日に加賀藩に対して降伏した.

 天狗党に対する加賀藩の処遇は寛大なもので,1月1日には酒なども振舞われたらしい.また幕府に対しても寛大な処分を要請した.しかし幕府は当初から厳罰で臨む方針であり,天狗党の身柄を福井,彦根,小浜の各藩に委ねた.その結果彼らは敦賀の鰊倉にぶち込まれ,ろくな取調べもされないまま,首領の武田耕雲斎,藤田小四郎以下なんと400人近い人々が首を刎ねられた.この処刑を担当したのが桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった.

 この天狗党の大量処分は,血なまぐさい事件の多い幕末でも,ひときわ凄惨な事件である.この乱で水戸藩の尊攘派は壊滅状態となり,これ以降の水戸は王政復古まで佐幕藩となるのである.

 ちなみに武田観柳斎武田耕雲斎,何となく似た名前ですがもちろん血縁関係はありません.

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2007年4月23日 (月)

宮古湾海戦

 私が住んでいる岩手県と新選組副長土方歳三はほとんど結びつきがないのだが,唯一の接点といえるものに,明治2年3月25日に起こった「宮古湾海戦」がある.

 戊辰戦争初期段階では,地上部隊の装備では新政府軍が勝っていたが,海軍力では旧幕府側が圧倒的に優位であった.慶応4年3月13日の勝・西郷会談で江戸城の無血開城に関する話し合いが行われ,旧幕府軍の軍艦の新政府軍への引渡しが決まったが,榎本武揚は引渡しを拒否し,艦隊を率いて江戸を脱出した.途中仙台で土方歳三や大鳥圭介などと合流し,10月下旬に鷲ノ木(現北海道森町)に上陸,直ちに進撃を開始し10月中には箱館・五稜郭を占領した.ついで松前城を攻略し,蝦夷地の平定に成功する.しかし,この戦いで主力艦の開陽と神速を悪天候で失い,その海軍力は大きく低下した.一方新政府軍は,最新鋭艦である甲鉄をアメリカから入手したため,たのみの海軍でも新政府軍が優勢となり,新政府軍の反撃は時間の問題となった.

Jodogahama 宮古市を代表する景勝地「浄土ヶ浜」です.

 こうした状況下,土方歳三の提案(といわれる)で決行されたのが,Abordage(アボルダージュ)と呼ばれる,敵艦強奪作戦であった.すなわち当時宮古湾に停泊していた新政府軍艦隊を奇襲し,敵艦に乗り移って,船を奪い去ろうというもの凄い作戦である.勿論普通に接近すると怪しまれるため,最初はアメリカ国旗を掲げてアメリカ艦のふりをして接近し,攻撃直前に旗を替えて攻撃することになっていた(なんだか凄くずるい作戦のように思えるが,実は国際公法上許されるらしい).

Miyakaisen1 鈴木善幸氏による記念碑です.

 当初旧幕府軍は回天,高雄,蟠龍の3艦で作戦を決行する予定であったが,嵐で蟠龍が離脱,さらに高雄が機関故障で離脱したため,結局回天1艦での作戦となった.不意を衝かれた新政府軍は混乱し,甲鉄も回天の接舷を許したが,回天の甲板が甲鉄より3mも高く,兵士の乗り移りは容易でなかった.それでも,新選組の野村利三郎らが甲鉄に乗り移ったが,体勢を立て直した新政府軍の反撃で死傷者続出,結局約30分の戦いで旧幕府軍の敗北に終わったのである.

Kaisensetu1 Kaisensetu2

臼木山にある海戦の解説碑です.土方歳三と東郷平八郎が並んでいます.

 宮古市を代表する景勝地,浄土ヶ浜には元総理大臣の故・鈴木善幸氏による「宮古港海戦記念碑」が,また宮古湾を望む臼木山頂には海戦の解説碑が設置されている.この石碑には土方歳三の写真とともに,後に日露戦争の日本海海戦で勇名をはせる東郷平八郎の写真もあった.これは,若き日の東郷がこの海戦で軍艦「春日」に乗艦していたことによる.

Bakuheibochi 幕軍無名戦士の墓です.

 また,国道45号線そばには,旧幕府軍無名兵士の墓もある(ここに眠っているのは,新選組の野村利三郎とも言われている).このように宮古市は岩手県内の数少ない新選組関連史跡がある土地であった.

Usosu 宮古市の北田野畑村にある景勝地「鵜の巣断崖」です.

Foodikki2 Foodikki1 途中国道45号線沿いで見つけた「フード一揆」という謎の店です.

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2007年4月15日 (日)

永倉新八

 ひの新選組まつりまで一ヶ月を切り,ネット上でも祭りに関する話題が飛び交っている.新選組のビッグイベントだから,人々の関心も高い.私も徐々に新選組モードに入りつつあり,仕事の最中でも,今年のコンテストはどうしようとか,ついでにどこを観光しようかとかいろいろ考えている(真面目に仕事しろ 笑).

 そんなわけで,この季節になるとブログの記事も幕末や新選組ネタが多くなる(夏になると旅行ネタが,秋には妖怪ネタが多くなるのか 笑).

 さて,今日取り上げるのは新選組副長助勤,二番組長も務めた永倉新八である.松前藩出身で,神道無念流の使い手でもある.試衛館の食客となり,浪士組結成時から近藤や土方と行動をともにしている,生え抜きの幹部だ.剣術も沖田総司や斎藤一に比肩するほどの腕前であったという.慶応4年(1868年)3月の甲州勝沼の戦い後,近藤と袂を分かつが,維新後を生き抜き,晩年小樽新聞の協力で新選組に関する貴重な記録である,「新選組顛末記」を残した.現在我々が新選組について知る事ができるのは,永倉の功績が大である.

 そんな永倉新八であるが,私が以前から思っていたことがある.それは…

 「永倉新八は中村雅俊に似ている」

Nagakura Nakamurashi

左 永倉新八氏(PHP文庫新選組剣客伝から引用),右 中村雅俊さん

 写真の永倉新八,何となく仏頂面の中村雅俊に似ていません?(笑).1989年の大河ドラマ「春日局」で徳川秀忠を演じていた際の中村さんが,とりわけ似ています.

 そんなわけで,中村雅俊演じる永倉新八を是非一度見てみたいと考えている私です(中村さんは幕末物では,高杉晋作や桂小五郎,福沢諭吉を演じたことはあるようですが,さすがに永倉新八はないみたいです).どこかの放送局でやってくれませんかねぇ.

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2007年4月 9日 (月)

函館にて

 ウチのKの出身地は函館である.函館といえば,土方歳三最期の地新選組終焉の地として知られている.実は最近Kの姉夫婦が函館市内に家を建てたため,今週末に見物がてら遊びに行ってきた.

 新築の洒落た家に上がりこんで,散々飲み食いした私だったが,折角函館まで来たのだからと,新選組関連の史跡も訪問した.

Hiji1 土方歳三最期の地碑の説明文です.

 まず訪ねたのは「土方歳三最期の地碑」.函館駅から程近い,福祉センター前の公園の中にそれはあった.土方歳三は明治2年5月11日未明に,一本木関門で指揮を取っている最中,敵の銃弾を受けて戦死した(弁天台場に陣取っていた新選組本隊の救援に向かう途中とも言われている).遺体がどこに埋葬されたのかについては諸説があってはっきりしない(五稜郭内に埋葬されたという説もある).一本木関門と書かれた関所の門のそばに,石碑が立っていた.碑には花が添えられ,土方歳三の写真の他,土方歳三ノートなんてのもあった(雨に濡れないようにタッパに入れられていた.全国各地から訪ねて来た人たちの書き込みがあった).

Hiji3 一本木関門です

Hiji2 石碑には今も花が絶えません.

Hiji4 土方歳三の写真なども飾ってあります

 ちなみにこの石碑,以前は目の前の道路の中央分離帯のグリーンベルトの中にあったらしい(Kの通学路だったそうだ).

 続いて向かったのは,箱館戦争における旧幕府軍側の墓「碧血碑」である.当時旧幕府軍は賊軍とされ,戦後しばらくは遺体の埋葬も許されなかった.そんな中箱館の侠客柳川熊吉が独自に遺体を回収し,埋葬したという.後明治8年に大鳥圭介や榎本武揚の協力を得て,この地に碑が建てられた.題字は大鳥圭介によるといわれている.碧血とは「義に殉じて流した武人の血は三年たつと碧色になる」という中国の故事によるそうです.この碧血碑は函館山の中腹,立待岬の近くにある.

Heki1 これが碧血碑です.かなり高いです.

Heki2 碧血碑の説明文です.英文がMOMUMENTになっているのは気にしないで下さい.

 その次に行ったのは,新選組終焉の地,弁天岬台場跡である.土方歳三が戦死した4日後,明治2年5月15日にこの地に立てこもっていた,新選組を含む旧幕府軍は降伏した(五稜郭が降伏するのは更に3日後である).この時新選組最後の隊長だったのが相馬主計である.

 弁天台場は六角形の形をした保塁だったが,明治29年に取り壊されて埋め立てられたため,当時の面影は全くなく,小さな公園になっていた(市電函館ドッグ前下車徒歩30秒の距離です).

Benten2 弁天台場跡の説明文です.

Benten1 台場跡は今は小さな公園になっています.

 このほかにも函館には五稜郭や函館山の夜景,サスペンスドラマでよく人が殺される金森倉庫,さらには歌人石川啄木がらみの史跡も多い.

Hakodateyama 世界三大夜景といわれる函館の夜景です.

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2007年4月 4日 (水)

ありそうなネタ

 昨日の夕方所用で一戸町奥中山の国道4号線を盛岡方面に走っていたところ,ふとピンク色の看板が目に留まった.「ん?」と目をやるとそこにはなんと!

Sinsensanchoku2 Sinsensanchoku1 「新鮮組」の文字が!

 「奥中山産直ひろば」と書いてある.面白そうなのでさっそく寄ってみた.

Sinsensanchoku3 ここが奥中山産直ひろばの「新鮮組」です

 広い駐車場にはほとんど車が停まっておらず,内部も営業している様子はない.表には張り紙がしてあり,毎週土曜日のみの営業で,しかも時間は午前9時から午後1時までということであった.1週間168時間のうちわずか4時間のみの営業,なんだか中世の市(イチ)を髣髴させる店(といって良いのか‥‥)であった.

 それにしても新選組に引っ掛けた新鮮組,同じようなネタは全国に沢山あるんじゃないかと思うが,誰か知っている方がいたら是非お知らせください(可能なら見に行きたいです 笑).

Sinsensanchoku4 土曜の午前9時から午後1時までの営業です.4月末までと書いてあり,5月以降どうなるのか不明です.今度は営業している時に行ってみたいです.

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2007年3月27日 (火)

第10回ひの新選組まつり参戦決定!

 今日盛岡に用があって出かけてきたのだが,先ほど帰宅してみると,日野市観光協会からハガキが届いていた.文面は「おめでとうございます!第10回ひの新選組まつり~あなたが選ばれました~」と,9が10になっただけで昨年のものと全く同じである.ただ昨年は鉛筆で持29(持参者29番目の意?)と書かれてあったのが,今回は何も書かれていなかったのが違いとも言える.

 これで正式に参加することが決まったわけだが,一応今年も隊士コンテストに参加する予定である.昨年はビギナーズラックで合格したのだが,今年は第10回と記念の回でもあり沢山の参加者が予想され,競争率が高そうだ.どういうコンセプトでいくか,早いとこ考えなくてはならない(私の運動神経では演武などできるはずもない 笑).

 ところで盛岡からの帰り道,山の中を走っていたら偶然カモシカを見かけてしまった.ウチの方は田舎のためこういう動物たちがウヨウヨいるのである.

Kamoshika2 突如道路わきにカモシカが….慌てて車を停めます(交通量が極めて少ない道路なので,急に停まっても追突される心配はありません).

Kamoshika1 目が不気味に光っています.この後山の中に走り去って行きました.

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2007年3月18日 (日)

鞍馬天狗と新選組

 先日NHKで4月からの木曜時代劇の主演者の紹介をやっていた.村上弘明氏や山本耕史氏などの主演時代劇が制作されるらしいが,私の琴線をくすぐったのは,2008年1月から放送されるという,野村萬斎氏主演の「鞍馬天狗」であった.

 鞍馬天狗とは私よりずっと上の世代の人たちのヒーローであり,幕末期尊皇攘夷の志士たちを影で支える正義の味方なのである.今と違って「尊攘派=時代を変える正義の志士,佐幕派=時代に逆行する悪い奴ら」という明治政府を作った人たちの歴史観が色濃く残っていた時代の作品であり,当時は「正義の味方鞍馬天狗が,悪の組織新選組の陰謀から志士たちを救う」という歴史観が主流だったのである.鞍馬天狗の世界ではまさに「鞍馬天狗=仮面ライダー,新選組=ショッカー」なのである(そうすると近藤勇はショッカーの首領,沖田総司がゾル大佐,永倉新八が地獄大使か 笑).

Kamenrider 昔の歴史観では鞍馬天狗は仮面ライダーなのでした.

 久々の鞍馬天狗,もちろん歴史観も変わり,新選組や会津藩の評価もかなり大きく変化した現代のリメイクである.昔のような善悪ニ元論では語れない鞍馬天狗になることは間違いないと思われる.野村氏がどんな鞍馬天狗を演じるのか今から楽しみである(私の中ではいまだに,野村萬斎=エイスケさん(吉行あぐりさんの夫,吉行淳之介の父)なのであった).

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2007年3月 8日 (木)

「友の死」

 1月からやっている,大河ドラマ「新選組!」再放送,本日はシリーズで最も人気が高かったエピソード「友の死」でした.新選組総長”山南敬助”切腹の回です.

 放送が行われた午後5時に家にいるはずもない私は,Kに録画を頼んでおいたものをさっき鑑賞した次第です.元々私は涙腺が弱く,ハクション大魔王の最終回や赤毛のアンのマシューが死んだ回,ペリーヌ物語のペリーヌがビルフランの孫と判った回などはいまだに涙なしでは見られないし,フランダースの犬の最終回にいたっては見ることすらできない(見たらあまりの悲しさに気を失うかもしれない)程であります.そんなわけで,今日の「新選組!」も全編涙が止まりませんでした.

 新選組総長山南敬助が元治2年(後の慶応元年)に切腹して死んだことは事実のようです.ただ,そこに至る状況については諸説がありはっきりしません.以前の記事にも書きましたが,新選組結成時期には土方歳三と並ぶ地位にいた山南は,徐々に隊内での存在感を減じていき(特に元治元年1月の岩木升屋での事件の後は表舞台から消えている),この時の死を迎えたようです.ただ,考えようによっては山南は,新選組の絶頂期に死に,その後の組の黄昏を見なかったという点では幸せだったともいえるかもしれません.

 

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2007年3月 2日 (金)

池田屋事件

 NHK BS Hivisionでやっている大河ドラマ「新選組!」の再放送,3月1日(木)は池田屋事件であった.芹沢鴨暗殺が2月26日(月)の放送だったから,めちゃくちゃ展開が早い.放送では文久3年9月の芹沢暗殺から,翌元治元年5月の大阪与力”内山彦次郎”暗殺まで一気にワープしていた.この間の事件としては,近藤勇と山南敬助による,元治元年1月岩木升屋での不逞浪士退治事件が知られている.

Senjoroku1 2004年にフルタから出ていた食玩「新選組戦場録」の全フィギュア(今病棟に飾ってあります).

 この事件はまた,山南敬助が新選組で活躍した最後の記録といわれており,事実この事件以後山南は新選組の表舞台から姿を消す.池田屋事件やその一月後の蛤御門の変にも参加していない.同年2月には,多摩から富沢忠右衛門が上洛し,近藤らと酒宴を開いているが,この時富沢は山南には面会できなかったと記録している.このことから,岩木升屋の事件で山南は重傷を負い,そのことがきっかけで鬱になったのではないかと考えている学者もいる(さすがに「新選組!」での山南は,池田屋前後も大活躍しているが‥).

Senjoroku2 そしてこれが,岩木升屋で不逞浪士を討つ,山南敬助の勇姿です.

 その後,慶応元年2月に山南は突如切腹して果てる.一般には脱走して連れ戻され,隊規によって切腹させられたといわれているが,実はこの脱走説は,後年の永倉新八の証言以外に出典がなく,真偽の程は定かではないようだ.ただ,いずれにせよ新選組幹部の中で,武士として切腹して死んだのは山南と新見錦(当初局長,後に副長)だけである(天寿を全うした永倉,斎藤,鈴木三樹三郎のほかは,沖田(病死),近藤(刑死),土方・井上・藤堂・原田(戦死),芹沢・伊東・武田観柳斎(暗殺)などとなっている.

 そんなわけで,新選組のターニングポイントともいうべき池田屋事件を経て,大河の再放送もいよいよ後半に差し掛かるのであった.

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2007年1月20日 (土)

幕末未来人と山南敬助

 先日ひの新選組まつりの話題を取り上げたついでに,今日は新選組総長山南敬助について考えてみた.

 山南敬助は近藤勇にとって試衛館以来の同志であり,新選組では総長というナンバー2の地位にあった人物である.しかも彼は永倉新八や原田左之助のような食客ではなく,天然理心流に入門しており,沖田総司や土方歳三と同門ということにもなる.しかし,総長の地位にあった割りには彼の存在感は薄い.新選組で活躍した期間が短いのだから仕方ないともいえるが,それにしても近藤や土方は別格としても,斎藤一や藤堂平助,更には伊東甲子太郎あたりと比べても存在感の薄さは否めない.

 山南敬助は仙台藩を脱藩し,千葉周作の下で北辰一刀流を学んだと言われ,免許皆伝の腕前であった.学問にも秀で,その一方で性格は温厚であったという.今で言えば非の打ち所のない人物であるが,幕末のような個性派が幅を利かせる時代ではどうしても地味な存在になってしまうのかもしれない.そんなわけで新選組を扱った映画やドラマでもやっぱり地味な存在なのであった.そんな中,2004年の大河ドラマ「新選組!」で山南敬助を演じた堺雅人さんのインパクトは大きいのかもしれない(私の周りでも,アレで山南敬助の存在を知ったという人は多いのである).

 しか~し!私にとっての山南敬助は,なんといっても少年ドラマシリーズ「幕末未来人」に出てきた山南敬助である.幕末未来人は昭和50年代の高校生二人組みが幕末にタイムスリップしてしまうお話であるが,二人組みの片割れがなんと!新選組に入隊する.そして,ちょっとした事件で沖田総司を死に至らしめてしまうのだが(悪い奴の陰謀で歴史が徐々に変わってしまい,文久3年に沖田が死んでしまう),屯所で沖田の死を知った山南が烈火のごとく怒って件の高校生に,「腹を切れ!自分でできないのなら,俺が冥途に送ってやる」,更には助命に駆けつけた少女(古手川祐子が演じている)にも「沖田の供養に,その可愛い首を刎ねてやる」などと過激なことを言い,近藤勇にたしなめられていた.

Yamanami 幕末未来人のひとコマ,高校生に切腹を迫る山南敬助.

 考えてみれば昭和50年代の新選組といえば,殺伐とした暗殺集団というイメージが強く(何といっても正義の味方”鞍馬天狗”の敵は新選組だったのである),そんな集団の総長と言えば,さぞ恐ろしい人物だったに違いないというイメージがあったのである(幕末未来人には新選組幹部として近藤,土方,沖田,山南の4人が登場するが,圧倒的に山南敬助が過激である.一番温厚なのは沖田総司).

Bakumira1 少女を演じる,今から30年前の古手川祐子さんです(なんて若いんだ).

 

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2007年1月17日 (水)

第10回ひの新選組まつり

 日野市観光協会のHPによると,第10回ひの新選組まつり「隊士パレード」の隊士募集が始まったようです(第10回ひの新選組まつり「隊士パレード」隊士募集).今年のまつりは5月12日(土),13日(日)です.

 例年5月は学会シーズンで,日程が重なったりしてなかなか参加できなかったのだが,今年は神経学会総会が5月16日~18日(名古屋),温泉気候物理医学会総会が5月18日~19日(箱根)と見事に重なっておらず,昨年に引き続き参加できそうな気配である.衣装を虫干しして準備しておこうと決意したのであった.

Shutsujin 2006年5月14日に行われた第9回ひの新選組まつりの集合写真です(私も写っています 笑).

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2007年1月13日 (土)

坂本龍馬は新選組だった!

 すごいタイトルの本を見つけた.「坂本龍馬は新撰組だった!」思わずタイトルに惹かれて買ってしまった(帯の文句も”尊皇攘夷は坂本龍馬の陰謀である!!」とある).

 出版は”ぶんか社文庫”,ここのシリーズには他にも「家康の父親は武田信玄だった!」,「信長殺しの犯人は秀吉だった!」,「豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった!」という東スポ的見出しの本がならんでいる(豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった,というのは全くの虚構ではなく,関が原の戦いで加藤清正や福島正則といった秀吉子飼いの武将たちが家康に味方した一因が北政所であるのは事実である).

 内容はネタバレになるので詳述しないが,全編”と”の香りがする本であった.

Shinsho

 この本によると,幕末維新の流れは”北辰一刀流一派”のシナリオに沿って動いており,坂本龍馬は清河八郎と並ぶ,北辰一刀流の両巨魁であったとされている.新撰組もこの両者によってプロデュースされたもので,藤堂平助や山南敬助は北辰一刀流から送り込まれたスパイなのだそうだ.池田屋事件で近藤隊に藤堂が入っているのも,20名以上の志士がいる池田屋に少人数の近藤,沖田らを誘いこんで,隙あらば抹殺する計画だったのだそうだ(土方歳三が予想外の早さで池田屋に応援に来たため,計画は失敗したらしい).また,最終的に龍馬が暗殺されてしまったのは,伊東甲子太郎ら北辰一刀流が新撰組を離脱したため,新撰組内部にスパイがいなくなったことが原因らしい.

 内容もすごいが,この”北辰一刀流一派”(彼らは文武を兼ね備えたエリート集団なのだそうだ)が歴史を動かすという構図は,世の中に氾濫している”世界の歴史を影から動かすフリーメイスン”という構図にそっくりだと思ってしまったのだった(笑).

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2006年12月11日 (月)

コスプレ忘年会

 12月といえば忘年会のシーズンである.忘年会では毎年私がコスプレをやるのではと期待している向きもあるらしい.コスプレ自体嫌いじゃないので,毎年何かネタを考えてやっている.例年あまり深く考えずに決めているのだが,今年は実用的な服にしようと考えた.たとえば,昨年はジェダイの騎士オビ=ワン・ケノービをやったのだが,このジェダイのコスチュームはコスプレ以外には使用できない(普段着として使えない).その点一昨年の,死ね死ね団のミスターKのコスチュームはかつらと付け髭以外は立派に普段着にもなるのだった(昨年暮れのミュンヘン滞在の際に着用した).

MrkMonaco_1 左 2004年12月にやった死ね死ね団(レインボーマンに出てきた悪の組織)の総帥ミスターK.ちなみに役者は特撮ファンおなじみの故・平田昭彦氏でした.右 2005年12月ミュンヘンの繁華街にて.かつらと髭,サングラス以外は実は同じ服です.

 たまには和装もいいだろうと,今年は着物で行くことにした.着物のパフォーマンスは2003年に新選組隊士をやった時以来(大河ドラマ「新選組!」の前年)であるが,新選組の場合,だんだら羽織が目立ちすぎて,普段着として着て歩くにはかなり勇気がいる(時々着て歩いているが).そこで今年は普段着にもなりそうな着物ということで,テーマはズバリ坂本龍馬に決めた(神楽教授ごめんなさい 笑).有名な龍馬の写真から必要な品をピックアップしてそろえていった(紋入りの着物,短刀,ブーツ,S&W).

 そしていよいよ2006年12月9日パフォーマンスの日がやって来た.この日は仕事に関連した団体の忘年会である.龍馬独りでは寂しいので,友人のKZ氏に新選組のコスチュームを着てもらい,絡むことにした.史実では坂本龍馬と新選組が絡む場面はないのだが(有名な寺田屋襲撃も新選組は関わっていないし,近江屋での龍馬暗殺も京都見廻組によるというのが定説である),今回はフィクションということで許してもらおう.

2006bounenkai12  KZ氏扮する新選組隊士(左)と坂本龍馬になった私(右).色を古風にしてみました.

 内容は新選組に追いかけられた龍馬が,S&Wを出して戦うという筋である.

 新選組に追いかけられる龍馬,

新選組隊士 「待て!坂本龍馬」

龍馬 「わしゃ,土佐の坂本龍馬じゃ.新選組にはつかまらんぜよ」

 と逃げる.大刀を抜いて迫る新選組,すると龍馬は懐からS&Wを取り出した.

龍馬 「もう,刀の時代は終わりじゃきに」

新選組隊士 「む,飛び道具とは卑怯だぞ」

 引き金を引く龍馬,ズドンと景気良く鳴る筈が……,カチッというむなしい音がするのみ.そ,そんな,さっき外で試し撃ちした時は鳴ったのにと焦る.場内はざわつき,新選組は迫ってくる.こうなると短刀しか持ってない龍馬は不利であったが,結局ウヤムヤのうちに(勝負は引き分け?)パフォーマンスは終わった.

2006bounenkai2 豪華な料理を前に戦う龍馬と新選組.S&Wが派手に鳴るはずが……

 ちなみに後から撃ったら,ちゃんと「ズドン」と鳴った.やっぱり普段新選組をやっている身で,坂本龍馬に手を出したことへの,隊士達の無言の抗議なのかと思い深く反省したのだった(でも,あの龍馬の有名な写真と同じ構図で写真を撮るまでは止められないと思う 笑).

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2006年11月20日 (月)

晩秋の京都Ⅰ ~幕末編~

 この週末京都に行ってきた.最大の目的は来日中のニコラウス・アーノンクール指揮のメサイア演奏会を聴くためである.当初は,ついでに晩秋の京都観光と洒落てみたかったのだが,コンサート翌日の11月19日に盛岡で絶対に休めない重要な練習が入っていたため,結局京都滞在はわずか24時間になってしまった.

 前日11月17日の夜,仕事を片付けた後,自動車で盛岡に行った.駅前に車を置いて,こまちで秋田に行く(ウチのKはこまちに乗るのは初めてだと言っていた).秋田から寝台特急「日本海4号」に乗って,一路京都を目指す(京都行きのルートは,この「日本海」を使うコースと,東京まで行って急行「銀河」(10月の山陰遠征で使った列車)を使うコースがあるのだが,どっちがいいかKに聴いたところ即座に「日本海!」といわれてしまった).日本海4号は普通のB寝台車を基本にして1両だけA寝台車「シングルデラックス」が付いている.今回我々はこのシングルデラックスを利用した.

Nihonkai2 秋田駅に入線する寝台特急「日本海4号」

Nihonkai1 Nihonkai3

 日本海4号シングルデラックスの中です.

 日本海のシングルデラックスは1両に10室,シャワー室も付いたA寝台である.内装的には「サンライズ瀬戸」,「サンライズ出雲」にはかなわないものの,「はやぶさ」,「富士」のシングルデラックスよりははるかにマシである(実は,昔東京-下関を結んでいた寝台特急「あさかぜ」のシングルデラックスがこの「日本海4号」と同じものである).我々はビールを飲み,モーツァルトを聴きながら優雅(?)に寝台列車の旅を楽しんだ.

 翌朝9時40分に京都に到着,我々はまず明日利用する,伊丹空港行きのバス乗り場を確認した(京都駅の南口にあった.地下鉄京都駅のホーム一番南のエスカレーターから行くと近い).その後,今日の宿舎であるアランヴェールホテル京都(地下鉄五条駅近く,最上階に展望大浴場がある)に行き,荷物を預けて活動を開始した.

 アーノンクールのコンサートが夕方5時から始まるため,我々に与えられた時間は4~5時間しかない.この限られた時間を有効に使うため,今回は鴨川近く,木屋町通りを中心に攻めることにした.

 木屋町通りは鴨川と高瀬川の間にある狭い通りである(それだけに昔の風情を残した通りであるが).幕末にはこのあたりには長州藩邸などがあり,主に長州系の志士が活躍した地域である.そんな木屋町通りと四条通りの交差点付近には,まず有名な古高俊太郎の枡屋跡がある.元治元年(1864年)6月5日朝,かねてからこの店が怪しいとにらんでいた新選組が枡屋を襲撃し,主人の古高俊太郎を捕縛したところから池田屋事件が始まる.屯所に連行された古高は,土方歳三の拷問(逆さづりにして,足の甲から五寸釘を打ち,突き抜けた反対側に百目ろうそくを立てて火を付けるというもの.流れしたたる蝋が傷口に流れ込み,その苦痛は想像を絶する)によって,クーデター計画を白状した.それは,風の強い日に御所に火をつけ,あわてて参内してきた京都守護職松平容保(会津藩主)らを殺害,その混乱に乗じて天皇を長州に連れて行こうというものすごい計画であった(もしこれが実現していれば,ローマ教皇のバビロン捕囚と並ぶ大事件として史上語り継がれたであろう).

Hurutaka3 古高俊太郎の碑

Hurutaka2 Hurutaka1

枡屋の跡地はなにやら料理屋になっています.

 しかしこの計画は古高の自供によって新選組の知るところとなり,彼らは直ちに行動を開始する(この辺のフットワークの軽さが,新選組の魅力でもある.一般に日本の組織は根回し等に時間をかけすぎて時期を逸するパターンが多い).同日夜には,古高が捕らえられたこと対する浪士側の対策会議が池田屋で開かれ,そこに新選組が急襲をかけたのである.この池田屋跡は今はパチンコ店になっている(風情もまったくない).

Ikedaya2 明治維新が1年遅れたといわれる池田屋事件の碑(池田屋騒動と称されているのがもの悲しい).

Ikedaya1 今の池田屋はパチンコ店になっています(泣).

Sinsen2 Sinsen3

高瀬川にはなにやら放り投げられたような自転車が.いったいこれは‥‥

Sinsen4 Sinsen1

道路にはなにやら駐輪禁止の看板が.も,もしかして,これは新選組によって切り捨てられた不逞自転車だったのか(笑).

 その他,この周辺には佐久間象山暗殺の碑,大村益次郎(長州藩士.徴兵制を導入し,日本陸軍生みの親といわれる.戦術家としても有名.ただ,彼が早くに暗殺されたため,後の陸軍は同じ長州藩士の山縣有朋が主導するようになり,今も知られる旧日本陸軍らしくなっていく)暗殺の碑がある.

Oumura 佐久間象山の碑と大村益次郎の碑は同じ石版に彫られています.

 幕末のスーパースター坂本龍馬が暗殺された近江屋もこの辺にある(近江屋跡は旅行代理店になっている).この近江屋は土佐藩邸と目と鼻の先にあり,龍馬は自分の出身藩邸のそばで殺されたことになる(やはり脱藩者の立場は厳しかったのだろうか).また,龍馬が当時投宿していた材木屋の「酢屋」もすぐ近くである.酢屋の二階では坂本龍馬ゆかりの品々が展示されていた(海援隊の日誌など当時の貴重な文書もあった).案内してくれたお店の方が,「坂本龍馬が殺されたのは慶応三年のちょうど三日前,11月15日なんですよね」といっていたが,それを聞いて気が付いたのは「そうか,今日は11月18日,油小路で新選組を脱隊した伊東甲子太郎や藤堂平助が死んだ日だ」ということであった.

Oumiya1 坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡.現在は旅行代理店になっており,往年の面影はありません.

Suya2 Suya1

当時坂本龍馬が投宿していた店はいまでもあります.今の主人は当時から数えて4代目だそうです.

 その他この地域には桂小五郎が幾松と潜んでいた場所や長州藩邸跡(いまは京都ホテルオークラになっている)などがあった.我々は,是非伊東甲子太郎が死んだ油小路(七条油小路から本光寺前.新選組の襲撃を受けた伊東はここで「奸賊ばら!」と叫んで絶命したという)も是非行きたかったが時間がなく断念した(次回京都に行ったら必ず行く!と決意した私だった).

Katsura2 Katsura1

桂小五郎が潜んでいたところは今は料理屋になっています.京都ホテルオークラ前には桂小五郎の像が立っています.

 時間がきたためホテルに戻り,いよいよアーノンクールであった.

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2006年11月 6日 (月)

新選組な休日

 本当に理由はない.久しぶりに”幕末未来人”を見たわけでもないし,松方弘樹の”新選組”の再放送があったわけでもない.”壬生義士伝”や”燃えよ剣”を読み返したわけでもないし,NHKで大河”新選組!”の映像を流していたのでもない.何もないのに,昨日11月5日(日曜日)は朝から気分は新選組であった(前日,山本耕史が出演した例のNHKのモーツァルト特番の録画を見たことも無関係と思う.今年の山本耕史氏は新選組の人というより,モーツァルトの人になっている(特に夏以降)).

 善は急げと,久しぶりに衣装を取り出した.これを着るのは今年3回目である.1回目は元旦にドイツのデットモルトで(HPの記事参照 →新選組 IN ドイツ ),2回目は5月の”ひの新選組まつり”の時に(HPの記事参照 →第9回ひの新選組まつり参戦!! ,もっともパレード本番では実行委員会の用意した”源さん”の衣装を着用したため,自前の衣装を着たのは前日の隊士コンテストのみであったが)である.それ以来だから,実に半年ぶりである.

Kumi1 このまま京都の町を走り抜けたくなります(息が上がりそうだが)

Kumi5 刀も抜いてみます(ひのパレで何度も抜刀の練習をしたのが懐かしい).

 この3連休,当地は晴天続きだったが,私は当番のため,どこにも行かずに家と病院を往復するのみであった(10月の3連休に,私が非番で山陰遠征に出かけたため,今度は相方が休む番なのであった).私のように,出歩くのが大好きな人間が休日に3日もじっとしていると耐えられなくなるのだった(案外,気分が新選組になった一番の理由がこれかもしれない).

Kumi6_1 職場のデスクにて.誠の旗をバックに

 この日はたまたま,うちのKも所用で和装で出かけていたため,折角だからと,夕方から二人で和装のまま外食に出たのだった(都会ならすごく目立つだろうが,当地は田舎のため人通りも少なく,たまにすれ違う人がチラッとこちらを見る程度だった.結局,駅近くの寿司屋に行った).

 5月の新選組まつりから約半年,また半年後にはあのイベントが待っている.今から日程を空けておかなくてはと思う今日この頃である.

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