2024年3月25日 (月)

開陽丸

 函館滞在2日目、この日はレンタカーで西の江差町に行くことにしました。

 江差町と言えば「江差追分」も有名ですが、幕末好きにとって外せないのが開陽丸です。戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争ですが、当時五稜郭を拠点にしていた旧幕府軍の主力軍艦が開陽丸でした。オランダで建造され、幕末の最終段階の慶応3年(1867年)春に横浜港に入港した当時の新鋭艦です。オランダ留学生だった榎本武揚が乗り込み慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いの際には大阪にありました。この時鹿児島に撤収しようとした薩摩藩の軍艦「春日丸」を攻撃した阿波沖海戦が起こっています(この海戦は日本初の蒸気船同士の戦いと言われています)。鳥羽・伏見の戦いは幕府側の敗北に終わり、将軍徳川慶喜は江戸に帰還します。このとき慶喜や会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬が乗船したのも開陽丸です(ただし榎本武揚はこの時不在)。

Img_1448(写真1)復元された開陽丸

 慶喜の江戸帰還後、江戸城無血開城が決まり開陽丸も新政府軍への引き渡しが決まりましたが榎本等はこれを拒否し、蟠竜丸や回天丸ら7隻と共に江戸を脱出し北に向かいました。途中の仙台で新選組副長の土方歳三や桑名藩主松平定敬ら幕府軍の残存勢力と合流し、明治元年10月21日鷲ノ木(現在の森町)に上陸します。そこから進軍を開始し五稜郭を占領し拠点とする一方、西に向かい松前城を攻略、さらに江差に向けて進軍しました。開陽丸もこの支援のために江差沖に進出しましたが、11月15日夜の暴風により座礁、やがて沈没してしまいました。主力の開陽丸を失ったことで旧幕府軍はこの地の制海権を失い、翌春の新政府軍の反撃を防ぐことができず敗北に至ります。

Img_1444 Img_1442_20240426162601(左写真2)開陽丸の砲身、(右同3)模型

 沈没した開陽丸ですが、明治以降たびたび引き揚げが試みられます。さすがに船体の引き揚げは困難でしたが銃や刀、弾薬や錨といった数多くの遺留品が引き揚げられました。そして平成2年(1990年)に当時の設計図から船体も復元され、開陽丸記念館として江差の地に存在しているのです。過去北海道には何度もきているものの、江差は未訪だったのでこの機会に是非にとやって来たのです。

Img_1454 Img_1457左写真4)内部の砲、(右同5)寝ている兵ですがかなりやつれているように見えます

 復元された開陽丸は岸壁にででーんと停留しています。後の戦艦や巡洋艦と比較したら小型とはいえ、幕末期の軍艦としてはかなりの大きさです。本来は甲板に上がれるらしいのですが、この日は風が強いため休止とのことで船内のみの見学です。内部には引き揚げられた多くの遺留品の他、操作の様子、ハンモックで休む兵士の人形などもありました。

Img_1462(写真6)鰊そば

 見学後は併設されたお土産屋さんで食事にします。江差と言えば昔はニシン漁で栄えた街、この日はその時代を懐かしむように鰊そばを堪能しました。

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2024年2月 5日 (月)

第13回ひの新選組まつりレポが完成しました

 私のホームページ「ビザンチン皇帝の部屋」は2001年に誕生しました。その後徐々に発展し(?)今に至るわけですが、実は未完成部分が多々あります。メインの一つである海外旅行記録でも、2011年のボツワナ、2013年のカンボジア、2015年のオーストラリア等が未完成です。国内旅行も書きたいけれどまだという場所がたくさんありますし、日本の道100選も訪問済場所の半分もできていません(100名城、100選滝は訪問済みはすべて完成している)。

 そんな未完の中でも扮装イベント、特にひの新選組まつりの未完成部分は早く完成させたい分野でした。2006年の第9回に初参加以来、2023年の第26回までの実際にパレードが行われたすべてに参加しているのですが、2010年の第13回、2012年の第15回、2016年の第19回、2023年の第26回の4回分が未完となっているのです。ただこの4回が印象に薄い回なのかといえば、さにあらず、むしろ印象深い回ばかりです。特に2010年の第13回は私がこれまで経験したひのパレのある意味頂点ともいえる回でした。理由としてはこの年が唯一、コンテストの日程が前倒しされ、パレード前日にはこれまた唯一の試みであった市村鉄之助コンテストが行われるなど充実していたこと、パレードに参加(隊士・沿道組含め)していた知り合いの数が最多になったことからです。もちろん当時はそんな感慨はなかったのですが、翌年に発生した東日本大震災の影響もあって、卒業していった人も多かったことと、自分自身の心境の変化等もあって振り返るとこの第13回が、ある意味ピークだったことに気づくわけです(その他の2012年の第15回は幕末の医師松本良順として沖田総司に点滴ネタをやった年だし、2016年の第19回は浪士組の清河八郎として近藤勇と歴史的な和解をした回、2023年の第26回はコロナ禍で4年ぶり開催の回でした)。

 しかしながら充実していればこそ、内容が盛りだくさん過ぎてなかなか手が付かず、気が付いたら… となっていました。今回ナミビアに引っ越して、日本時代よりも空き時間ができたことから少しずつ取り組んでいたのですが、このほどついに完成しました。

 第13回ひの新選組まつりレポ

0hino13  14年目にして完成したレポです。もっとも14年の年月によって記憶(特にパレード当日)があやふやになっていることから、内容は従来のものに比べるとかなりプアーなものになっています。その辺はお許しください。

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2024年2月 1日 (木)

2月になりました

 今日から2月、日本は真冬ですが南半球のこちらは夏、そして雨季です。ただ雨季とはいっても一日中しとしとと雨が降るなんてことはなく、午前ちゅは晴れていて午後から曇り、夕方にざざっと降るというのがパターンです。ただ最近は徐々に雨量が増えてきた印象があり、雨季が本気を出してきたな(笑)と感じます。

 そんな2月1日ですが、先日公式アナウンスがあった第27回ひの新選組まつりの募集が開始されました。本日更新された日野市観光協会のウェブサイトによると、

① 開催日時 5月11日、12日 例年5月第2週末に開催されるパターンですからいつも通りです。

② 会場 甲州街道、日野宿 どうやら昨年と同じくパレードは日野地区のみのようです(高幡地区は前日のコンテストでのみ使用)

③ 募集人員 86名 これも昨年と同じです。内訳は隊士70名(各隊10名×7隊)、コンテストで選ばれる幹部隊士9名、同じくコンテスト選出の従者7名です。応募者多数の場合は抽選になるようです。コロナ以前にあった新選組と同時隊の人々(通称ゆかり隊)は今年も募集がないようです。

④ 参加費 衣装持ち込み5,500円、衣装貸し出し9,000円(日野市民はそれぞれ500円引き) 昨年に比べてそれぞれ1,000円値上がりしました。スポンサー企業の関係、昨年以来の各種物価高騰の影響が出ているものと思われます。

 規模的にはやや縮小された昨年の路線を踏襲した感じです。お昼のお弁当に関しては案内にはありませんが、諸状況から考えて今年も持参(もしくは現地調達)の印象です。ただ昨年は屯所におにぎりや飲み物が多数置かれたため(参加者1人当たりおにぎりが2個くらいわたる数だった)、結果として昼食を持ってこなくても特に困らなかったんですが、ことしはどうなるかわかりません(個人的にはこちらも縮小はありうると思います)。

 以上、不参加確定者からの情報でした(笑)。

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2024年1月26日 (金)

第27回日ひの新選組まつり

 春の定番イベントといえば、ひの新選組まつりです。例年1月に入るとX(旧ツィッター)上の公式アカウントから開催予告のアナウンスがあり、その後日野市観光協会のウェブサイトで正式なアナウンスが出るというのがパターンになっています。ただ今年に関しては1月下旬になっても特にアナウンスがありません。これはどうしたことだろうと思い、1月25日に

というポストを投じたんですが、まさかそれに反応したわけでもないでしょうが、なんと!その翌日1月26日に観光協会のアカウントから

と、今年のひのパレ開催のアナウンスが出ました。私はといえば、日本から1万キロ離れたナミビア在住のため今年の参加は不可能ですが、ぜひ盛り上がってほしいものです。

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2023年4月26日 (水)

第26回ひの新選組まつりの案内

Dsc_2590  今日ポストを覗いたら、日野市観光協会からの封書が入っていました.いよいよ来月開催される第26回ひの新選組まつりの案内です.

 私にとっての春の恒例イベントで,2006年以降ほぼ参加し続けているお祭りです.2019年を最後にコロナ禍で3年続けてパレードは中止になっていましたが,コロナが5類に変更されるのに合わせてようやく再開されることになりました.ただこの間における状況の変化(おそらくはスポンサーなどの経済面が大きい印象)から開催計画の見直しがあったようで,今回に関してはパレードは日野地区のみ(これは日野地区と高幡地区を隊士が移動するためのバスが手配できなくなったためと予想),例年配布されていた弁当の廃止(純粋に予算減のためでしょう)、参加人数の制限(合計84名)という風に変更されています.そして従来は移動の時間に充てられていたお昼休みには屯所警備と称して隊士が屯して市民と交流する(笑)ことになっているようです.

Dsc_2592 Dsc_2594  元々は新選組本隊でコンテストにも参加していた私ですが、震災を経た2010年代以降は”新選組と同時代の人々”枠(通称ゆかり隊)での参加も増えていました.本隊とは違った何とも言えないゆるさが魅力的な存在でしたが,おそらくは予算の関係で今年は募集が行われていません.最後のパレードとなった2019年の第22回での私の役が幕臣勝海舟で,それ以降新しい役柄が無かったことからTwitterのアカウントに”〇△まで安房守”という文字を付けていましたが,こちらもようやく終わりになりそうです.ともに参加する方々,見に来て下さる方々よろしくお願いいたします.

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2023年3月 8日 (水)

第26回ひの新選組まつり当選通知!

 私にとっての春の恒例イベントといえばひの新選組まつりです。ただ2020年に始まったコロナ禍でパレードは3年連続で中止になってしまいました。そんな厳しい時期を経て、今年はついに隊士パレードが行われることが実行委員会から1月に発表され,2月には参加募集が行われました.15年以上参加し続けてきたお祭りだけに愛着も深いです(なんたって、このブログのプロフィール写真として使い続けているほど 笑).何気に申し込んでいたのですが,本日実行委員会からメールが来ました.

 この度は、第26回ひの新選組まつり「隊士パレード」へご応募いただきありがとうございました。
抽選の結果【当選】されました。

 なんと!当選です.今年は事前に一般参加は86名に制限,その後の定員の倍近い応募があったことがアナウンスされるなど果たして参加できるのかと思っていましたが,なんとか抽選に通ったようです(普段くじ運は悪い方なのであまり期待していなかった💦).今年のパレードに関しては個人的に思うところもあったので,参加できるのは本当にうれしいです.もっとも期限内に参加費を振り込まないと資格を失うらしいので注意が必要ではあります.

 参加される同志の方々,見に来て下さる方々よろしくお願いいたします.

Shutsujin2_20230308210001 22hino05_20230308205901(写真左)初参加した2006年第9回の自分(井上源三郎役),(同右)今のところ最終参加となっている2019年第22回の自分(右の勝海舟役).

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2023年2月 1日 (水)

第26回ひの新選組まつり募集開始

 先日の記事で触れていた第26回ひの新選組まつりの募集が始まったようです.

 『第26回ひの新選組まつり』新選組隊士パレード参加者募集

 私にとっても春の恒例イベントでしたが,2019年を最後にしてコロナ禍でパレードは3年連続で中止となっていました(2020年は完全中止,2021年はwebのみで開催,2022年は隊士コンテストのみ開催).しかし,ウィズコロナの時代に入ったことと,政府が5月8日から扱いを5類に変更すること等を受けて4年ぶりにパレードを開催することなったものです.

 で,今年の参加要項を見たのですが,従来とはかなり変更点があるようです.

 ① 参加人数がかなり絞られる 2019年までは衣装貸し出し参加者は100名限定でしたが,衣装持参の場合は希望者全員が参加できました.しかし今回は貸出・持参併せて合計86名ということです(この他に地元企業枠はあるようです).

 ② 参加費が上がった 2019年の参加費は(日野市民外の場合)衣装貸し出し5000円,持ち込み2500円でしたが,今年は貸し出し8000円,持ち込み4500円とかなり上がっています.これは以前ほどスポンサー収入が望めなくなっている状況から来るものと思われます.

 ③ パレードの舞台が日野地区のみ 2019年までは午前中は高幡地区,午後は日野地区だったのですが,今年は終日日野地区のみとなっています.これもおそらくはスポンサーの関係で両地区を移動するためのバスの手配ができないなどの理由ではと想像されます(これに伴い着替え場所が従前の高幡不動尊信徒会館&順徳小学校から市民の森ふれあいホールに変更)

 ④ 弁当の廃止 些細なことですが,2019年までは配られたお弁当がなくなり昼食は各自用意となります.パレードの弁当については隊士は「新選組ふるさと弁当」なのに,同時代の人々は「セブンイレブン弁当」だったなど楽しいネタがあったのですが,これも経費削減の一環なのか廃止になるようです(あるいはお祭りに出店する店舗の売り上げアップも期待されているかも).

 その他にはお昼の自由時間が増えて,観客との交流時間が設定されるようです.これはなんだか2009年のパレード終了後の「ふれあいタイム」を想像させます(笑).一方でいつもパレードの末端でまったりと独自の行動をしていた(させられていた?)「新選組と同時代の人々」(通称ゆかり隊)の募集は行われないようです(個人的にはあのまったり感と疎外感が好きだったんですが 笑).

 そんな第26回ひの新選組まつり,とりあえずは応募してみたいなと思ったのでした(自分はもちろん衣装持ち込み).

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2023年1月22日 (日)

第26回ひの新選組まつり

 TwittterのTL上に#ひの新選組まつりというタグが増えているなぁと思っていたら、どうやら第26回ひの新選組まつりの開催告知がされていたようです。

 第26回ひの新選組まつり開催

 毎年春の恒例イベントであるひの新選組まつり、私は2006年の第9回から参加しています.当初はコンテストにも出場してパレードでは隊士として参加するのが定番だったのですが,近年では隊士ではなく新選組と出会った人々の枠で参加することも多くなっています.特に震災以降は2012年の第15回から2019年の第22回までの8回のうち5回同時代枠でした(第15回松本良順,第16回井上松五郎,第19回清河八郎,第20回高杉晋作,第22回勝海舟).しかしコロナ禍によって2020年(第23回)は完全中止,2021年(第24回)はwebのみ,2022年(第25回)はコンテストと法要等のみの開催となりパレードは行われませんでした.今年はパレードも行うとのことですが、どういう形で行われるのか楽しみにしています(昨年の当初アナウンスでは人数を制限して隊士のみ,同時代枠は無しということだったのでその辺がどうなるのかも気になります).募集開始は2月1日とのことです.

22hino28_20230124225101  写真は最後にパレードが行われた2019年(第22回)の記念写真,この時勝海舟役だったため,Twitterではいまだに安房守を名乗っています(笑).

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2022年8月10日 (水)

医局中法度

 今日は8月10日、語呂合わせ記念日としては帽子の日(帽子=ハット(8+10)が有名ですが、そのものズバリの法度の日があってもいいでしょう。

 試みに調べてみると法度とは、中世から近世にかけて作られたおきて、法とされています。江戸時代の武家諸法度や禁中並公家諸法度が有名です。一方で法度には禁じられていること、してはならないことという意味もあります。「◯△はウチの会社ではご法度だよ」なんていうのは後者の例です。

 今に知られる法度の一つである新選組の局中法度は法というよりも後者の禁令の意味が強いものとなっています。一般には

一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可

 の4章からなっています。基本的に全て「◯△してはならない」という禁令です。上記項目に違反した者は切腹となっていますが、第一章の「士道ニ背キ間敷事」はいかようにも解釈可能であるため、一般隊士にとってはかなり恐ろしい項目です。新撰組は内部粛清によって多くの隊士を失ったという歴史があり、この法度がそれに影響を与えたことは間違い無いでしょう。

 で、この局中法度にヒントを得て思いついたのが医局中法度です。新選組のトップは組長ではなく局長と呼ばれます。これは元々会津藩預かりの組織だったため自らを会津藩の一部局と位置付けたからとも言われています。一方で大学病院などである専門領域の医師の集団を医局といいそのまとめ役を担当する人物を医局長と呼びます(こちらはあくまでもまとめ役であって、組織のトップではない)。新選組の局中法度をアレンジして医局中法度を作ってしまおうという企画です。実はこれ2007年の第10回ひの新選組まつりの隊士コンテストのネタとして作った者です。当時結構ウケて私は無事にコンテストに合格、この年5番組長武田観柳斎役を頂いたのでした。

Ikyokuhatto  そんな医局中法度は

一、医道ニ背キ間敷事(医の心を忘れるなということ)
一、医局ヲ脱スルヲ不許(つらくても勝手に病院をやめるなという意味)
一、勝手ニ副業致不可(お金が欲しいからと,勝手に他所の病院でアルバイトをするなということ)
一、勝手ニ診断書取扱不可(自分ひとりの判断で診断書を書くなということ)

 という内容になりました。昭和から平成前半ならともかく、今の大学医局には医師を縛る力はないので若い先生は嫌ならいつでも医局を辞めてしまうと知り合いの教授が言っていました(笑)。そんなことを考えた2022年8月10日でした。

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2022年5月11日 (水)

5月11日

 今日は5月11日,実は当ブログにとっては非常に大切な日です.

 まずはブログ名にもなっているビザンチン帝国の都コンスタンティノープル(現イスタンブール)の開都記念日であることです.古代ローマ帝国の都はもちろんローマ市だったわけですが,3世紀以降産業の衰退が激しく,街には無産市民や無能な元老院が跋扈している状態で,まともな政治が行える環境ではなくなっていました.それどころか下手にこの街にいると政争に巻き込まれて殺される恐れもあり,まともな皇帝はローマには寄り付かなくなっていたのです.またこの頃から東方にはパルチア王国やササン朝ペルシャ帝国といった大国が勃興し,ローマ帝国の東の国境がきな臭くなっていました.ローマ皇帝の第一の仕事が外敵から国を守ることです.東部国境の防衛をスムーズに行うためにも,ローマではなく,より東側に新しい都が置かれることが望まれていました.

 この時に白羽の矢が立ったのが,ビザンチウム(ビザンチオン)と呼ばれるバルカン半島の南東部,ボスポラス海峡に面した港町でした.この街は3方を海に囲まれた要害の地であり,金角湾は天然の良港でした.東方ににらみを利かせる新首都としては絶好の場所だったのです.ディオクレティアヌス帝亡き後の後継者争いに勝利したコンスタンティヌス1世は正式にこの街を新首都としましたが,その開都式が行われたのが330年5月11日なのです.

Istanbul1_233 Isutanbul22_015(左写真1)6世紀に建造された聖ソフィア大聖堂,(右同2)聖堂内にある聖母子とコンスタンティヌス大帝,ユスティニアヌス大帝のモザイク

 続いても同じくビザンチン帝国の話題です.ローマ帝国は395年のテオドシウス帝の死後完全に東西に分裂しましたが,人口や産業の面で劣っていた西の帝国の衰退は激しく,476年にゲルマン人の傭兵隊長によって滅ぼされました.その後旧領はゲルマン人諸部族が群雄割拠する状態になってしまったのですが,その領土を回復しローマ帝国の栄光を取り戻そうとしたのが6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世です.彼の時代に地中海は再び帝国の内海となり,東ローマ帝国は領土的な最盛期を現出したのです(ただし経済面を含めた全盛期は10世紀末~11世紀初頭のマケドニア朝といわれる).そんなユスティニアヌスが生まれたのが483年5月11日のことでした.

 そして3つ目は新選組関係の話題,近藤勇や沖田総司とともに新選組でもっとも有名な隊士である土方歳三が函館で戦死した日であす.慶応四年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争は,その後の上野戦争や会津戦争等を経て,翌明治二年の箱館戦争に至ります.この間新選組は佐幕派勢力として常に闘い続けてきましたが,土方歳三もまた旧幕府軍とともに戦いこの箱館までやってきていたのです.しかし新政府軍の攻勢の前に形勢不利となり,5月11日一本木関門付近の戦いにてついに戦死したとされています(弁天台場に立てこもっていた新選組は5月14日に,五稜郭の本隊は5月18日に降伏した).

Hiji3 Hiji2(左写真3)現在の六本木関門,(右同4)同地にある土方歳三の碑

 このように5月11日はビザンチン帝国と新選組を愛好する当ブログにとって非常に重要な日となっています.

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