道後温泉を堪能した翌日4月12日は今回の四国旅行の最終日です。実は今回愛媛県を訪問するにあたってぜひ訪れたい場所がありました。それが松山市の郊外東温市にある愛媛大学医学部です。
私は1990年に再受験で医学部に入りました。当時の国公立大学はA・B日程と前期・後期日程が併存していた時代で、実質2つの大学を受験することができました(前期後期日程の場合は同じ大学2回受験も可能)。ただ絶対に1回で決めるという目標を掲げていたため、どこの大学に入りたいかではなく、どこの大学なら合格できるかという基準で受験校を検討していました(ぶっちゃけ医師免許を取って医師になることが目標であり、学会の偉い人や教授になろうなどという考えはみじんもないため学閥とかそういうのは一切考慮しない)。そのため秋ごろから模試を受けまくり、その判定具合から受験校を検討していました。そして1990年1月に行われた第1回の大学入試センター試験を受験(平均点が非常に高かった回です)、その結果を受験産業各社に送りすべての会社でもっとも合格可能性が高いと判定された大学(すなわち各社そろってA判定が出た大学)を受験することにしました。それが弘前大学の前期日程と愛媛大学のB日程でした。弘前は実家のある盛岡から車で2時間の場所、愛媛は当時まだ行ったことのない未知の場所でした。
1990年2月下旬、まずは前期日程の受験のため弘前へ、この日の弘前は一面雲が広がり、しかも吹雪いていました。雪の中宿泊していた旅館から歩いて大学に向かいました。この当時の弘前大学医学部や附属病院の建物は古く、どんよりした天気と併せて、ぜひここで学びたいという気分にならなかったというのが正直な感想です。試験の方は初日の筆記試験、2日目の面接ともまずまずの感じ、再受験生にとって面接は大きな壁になるのですが、弘前は集団面接だったため周囲の反応を見ながらそれなりに対応できました(この辺のコミュニケーション能力は得意な方と自負している)。
そして弘前受験の10日後B日程受験のため東北・東海道山陽新幹線と生まれて初めての予讃線特急「しおかぜ」を乗り継いで愛媛県松山市にやってきました。駅を降りた瞬間、温かい空気に包まれました。なんと!桜も咲いており、そこは完全に春の陽気です。10日前の弘前とは全くの別世界、「同じ日本でもこんなに違うんだ」と感動した瞬間でした。そして嬉しさのあまり自分が受験生であることを忘れ、松山城などを観光したのでし、さらに前泊の旅館では岩手出身の出稼ぎの方と遭遇し意気投合、酒盛りという受験生とは思えないことをしていたのでした(もっとも当時23歳なので法的にはなんら問題なし 笑)。
そして翌日、伊予鉄横河原線で愛媛大学医学部に向かいます(愛媛大学は基本松山市にあるが医学部のみ東の重信町(現東温市)にあった)。最寄りの愛大医学部南口駅で下車、そのまま歩いてキャンパスに入ります。しばらくして医学部や附属病院の姿が見えてきました。白くて高い近代的な建物群に感動した思い出があります。この時、もし入学するならこっちがいいなというのが当時の感想です。こちらの入試も日程は2日間、初日の筆記試験の手ごたえもまずます、2日目の面接も終始和やかな感じに終始しました(岩手からどうしてわざわざやってきたのかという話や、東北地方の偉人の話題で盛り上がった)。この段階で多分これは合格できるんじゃないかなと感じました。
松山から自宅にもどって数日後、前期日程の合格発表の日です。自分が現役の時は大学まで発表を見に行ったものですが、さすがに今回はそこまではしません。昔は自治会などがやっている合否電報で結果を知りましたが、この頃は大学が発送する合格者の受験番号が印字された電子郵便に代わっていました。朝10時ごろ郵便受けの方からカタっという音が、電子郵便が来たなと思い玄関へ、予想通り電子郵便でした。そのままハサミで封を切り中身を取り出します。そこに自分の受験番号を見つけた瞬間は、嬉しさよりもホッとしたというのが正直なところでした。
さて、合格したのは素直に嬉しいのですが、私の中では愛媛のキラキラしたイメージが残っています。正直どちらかを選べと言われたら愛媛を選びたいところでした。弘前がA日程ならば、B日程の愛媛の結果を待っての選択ができるのですが、弘前は前期日程、B日程の合格発表の前に手続きをしなければなりません。ここで手続きをしなければ入学辞退の扱いとなり、仮にB日程の結果が不合格だった場合、一度合格したにもかかわらずどこにも入れないというこれ以上ない悲劇が待っています。ちょっと悩んだのですが、結局素直に手続きをすることにしました。理由は絶対に1回で決めると決意し、その権利が与えられたこと、自分が合格したことで不合格になった受験生もいるということを思い出したこと、愛媛に手ごたえがあったとはいえそれはあくまでも自分の主観であり、100%合格している保証はないことからでした。
弘前の入学手続きを済ませたことで、自動的に愛媛の合否判定の対象からは外されます。このため実際に私が愛媛大学の合格圏に入っていたかは永遠の謎となりました。しかし、もしも自分が愛媛大学医学部に入学していたらいったいどんな人生を歩んでいるのかは興味があるところです。実際にはその後の学生時代に父親が亡くなるという現実は変わらないでしょうから、遅かれ早かれ東北に戻ってきているとは思います。ただウチのKと出会ったのは弘前時代ですし、日本にいた時ずっとお世話になっていた合唱の先生と久々の再会をしたのも弘前でした。ですから愛媛に行っていた場合は仮に盛岡に戻ったとしても、結婚相手はまったく別な人でしょうし(あるいはいまだ独身の可能性も)、合唱活動に関しても盛岡に戻ってすぐのタイミングで再開したとは考えられません。今とはかなり違った趣味や人生になっただろうことは想像できます。
(左写真1)愛媛大学医学部、(右同2)同附属病院
今回の高知愛媛旅行の最後に当たり当時と同じく伊予鉄松山市駅から電車で愛媛大学を目指しました。駅を降りて、こんな感じだったかなと歩き大学や附属病院の建物を見た瞬間、当時の感慨がよみがえりました。人生にやり直しはないし、歴史にもしもはないけれど、ここに入学したもうひとつの自分の人生というものに思いをはせたのでした。
(左写真3)愛大医学部南口駅、(右同4)伊予鉄電車
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