2023年1月16日 (月)

紀元

 今日は1月16日、Wikipediaによると紀元前27年のこの日に古代ローマが共和政から帝政に移行したとあります.紀元前27年1月16日に約100年に渡る共和政末期の混乱を終結させたオクタヴィアヌスに対してローマの元老院がアウグストゥスの称号を贈りました.当時すでにコンスル,プロコンスルとして政治軍事両面での権力を握っていた彼に対して元老院が特別な名称を与えて権威付けしたことから,この時からローマは帝政に移行したとみなされています.ただ当時はまだ共和政を望む人々の影響力も無視できず,事実上皇帝ではあってもあくまでも市民の第一人者(プリンケプス)という体裁を取ったところに特徴があります(元首政).これが一般にイメージされるような帝政の姿になったのは3世紀のディオクレティアヌスの時代以降です(専制君主政).

Caesar_augustus(写真)執政官(コンスル)のアウグストゥス 

 このローマが共和政から帝政に移行した時期に登場したのがキリスト教です.後にヨーロッパがキリスト教世界に入ると,イエス・キリストが生まれた年を紀元1年とする暦が作られました.これがいま私たちが使っている西暦です(ただしイエスの生年に関しては今の紀元1年ではなく,それよりも数年前の紀元前4年ごろとされる).

 一方紀元1年よりも前の時代については紀元前という言葉が付され,一般にはBC(Before Christの略)の語句が用いられます(紀元後はAnno Dominiの略ADとなるがこちらは省略されることが多い).紀元と紀元前の関係というと数学における自然数と負の数との関係が連想されますが,暦には0年という概念がないため,紀元1年の前年は紀元0年ではなく紀元前1年になります.このため紀元10年の20年前は紀元前10年ではなく紀元前11年になるなど計算に注意する必要があります.

 紀元の概念は後付けなので,この前後で何かが大きく変わったというようなことは無いはずですが,キリスト教のお膝元である地中海世界ではローマが共和政から帝政に変わりました.一方で東アジアに目をやると前漢(紀元前202年~8年)から後漢(25年~220年)に変わっていく時期と符合します.偶然とはいえ非常に感慨深いものがあります.ちなみに紀元前後に活躍した世界史上の著名人としては前漢を簒奪して滅ぼした王莽がいます.彼は一時中央を追われていたものの,紀元前1年に哀帝の崩御によって復権し,翌1年に平帝の太傅となって権力を握っています.

Wang_mang(写真)紀元前後に活躍した前漢の外戚王莽

 そんなことを考えた1月16日でした.

| | コメント (0)

2023年1月 3日 (火)

今年は何の年?

 2023年も3日目です.今日のネタは今年は何の記念日か?です.では行ってみましょう.

① 関東大震災100年

 わが国で防災の日とされる9月1日は,今から100年前の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生したことに由来します.地震をはじめとした災害が多い我が国です.今年もいつどんな災害が起こるかわかりません.備えが大切だと感じます.

② 勝海舟生誕200年

 幕末期の幕臣勝海舟は日本の近代化のためには海軍の整備が重要であるとして,神戸に海軍操練所を作るなど活躍しました.戊辰戦争時には西郷隆盛と協力して江戸城の無血開城を実現させています.今年はそんな勝海舟生誕200年の年です.

③ 徳川家光将軍就任400年

 今年の大河ドラマは「どうする家康」ということで世間でも徳川家に注目が集まることが予想されます.そんな徳川幕府第3代将軍が徳川家光,家康の孫にあたります.その家光が将軍に就任したのが1623年(元和九年)であり,今年は400年の記念イヤーです.

④ 寧波の乱500年

 日本と大陸の関係といえば飛鳥時代の遣隋使や奈良時代から平安時代初期の遣唐使は公的なものとして有名ですが,中世になると国内政治が不安定化したこともあり,大陸との貿易は大名による私的なものが中心になりました.戦国時代には細川氏や大内氏が貿易で巨利を得ていましたが,やがて両者の対立が起こりそれが大陸での暴力事件に発展したのが寧波の乱です.

⑤ アレキサンドリアの大灯台崩壊700年

 古代地中海世界において七大不思議と呼ばれるものがありました.エジプトのピラミッドやバビロンの空中庭園,ロードス島の巨像などと並んでアレキサンドリアにあった大灯台もこれに含まれていました.紀元前3世紀に造られた高さ130メートルを超える巨大な灯台です.古代から中世にかけて多くの旅行家により記録されていますが,1323年に起こった地震により倒壊してしまいました.

⑥ 完顔阿骨打没後900年

 世界史の勉強をしているとなぜか印象深くて忘れられない人物がいます.自分にとっては古代インドのチャンドラグプタと並んで印象深いのが金の完顔阿骨打です.今年は彼の没後900年の年です.

⑦ 世界最古の紙幣発行1000年

 お金といえばコインと紙幣があります.歴史上コインは金貨などそれ自体に価値の裏付けがあり世間で流通できました.一方紙幣は軽くて持ち運びには便利ですが,それ自体はタダ同然の代物であり,これに価値が付与されるためには政府など発行元の信用が欠かせません.歴史上そんな紙幣が初めて登場したのが今から1000年前の北宋時代で,当時は交子と呼ばれました.

⑧ 三世一身法1300年

 飛鳥時代から奈良時代にかけて人口が増加してくると農地が不足してきました.このため律令政府は開墾を奨励するわけですが,ただ開墾せよといっても農民にしたらモチベーションが上がりません.このため自分で開墾した場合親子3代にわたって所有を認める(それが過ぎたら収公する)という制度ができました.これが三世一身法で制定されたのが今から1300年前の723年(養老七年)です.

⑨ 嵩岳寺塔完成1500年

 古代インドで生まれた仏教は漢代に中国に伝わり広まりましたが,歴代王朝が保護したり廃仏したりと政策が揺れ動いたことから東南アジア地域のような国民一般にいきわたる国家宗教になることはありませんでした.仏教が保護された時代には多くの建造物が作られたりしましたが,廃仏の時代になると破壊されたりして今に残るものは多くありません.そうした中国の仏教遺跡の中で有名なのが河南省にある嵩岳寺塔という仏塔です.今から1500年前の北魏時代,523年に建てられました.

⑩ 劉備没後1800年

 日本でも人気の高い三国志の主要人物の一人である劉備,彼が亡くなったのが今から1800年前の223年のことです.

⑪ ストラボンの「地理誌」刊行2000年

 帝政ローマ初期に今のトルコで生まれたストラボンによって記述された地理書が「地理誌」です.当時のギリシャローマ世界の人々が世界のすべてと思っていたヨーロッパ,中東からインドにかけての地理や歴史が記述されています.これが刊行されたのが今から2000年前の23年です.

⑫ 曲阜に孔子廟が建てられ2500年

 孔子廟とは孔子が祀られた場所で今では世界各地にあります.その元祖的なものが孔子が亡くなった翌年に曲阜に建てられた孔子廟で,今から2500年前の紀元前478年のことです.

 以上です.こうしてみると今年は世界史的には小粒な印象です.

| | コメント (0)

2022年7月20日 (水)

しながわ宿場まつり中止

20shina12  秋の恒例イベントになっているのがしながわ宿場まつりです.江戸時代の扮装をしたままワインを飲んだり自由行動ができるゆる~い楽しいイベントなので,基本的に参加できる年は参加しています.新型コロナウイルス感染症流行の影響で2020年と2021年は中止になっていましたが、今年は規模を縮小して開催する旨がアナウンスされていました(関連記事).開催されるならばぜひとも参加したいと張り切っていたのですが,今日改めて公式ホームページを見たら…

 中止のお知らせが出ていました💦

 今月に入ってからのいわゆる感染第7波の拡大に伴う措置のようです.7月に入って,もうしかしたらそうなるかなぁと思っていたため驚きはありませんが,もしかしたらコロナ後初の扮装イベントかもと楽しみにしていただけに残念です.

Shinachu  ところで,来月28日は3年ぶりの日本寮歌祭も予定されていますが,こちらは果たしてどうなるのでしょうか(屋外のパレードが中止なら…).

| | コメント (0)

2022年7月14日 (木)

巴里祭

Img_0

 今日は7月14日はフランスの革命記念日です.1789年のこの日,折からの不景気等による生活苦から不満を募らせた民衆がパリのバスチーユ牢獄を襲撃,この暴動が全国に波及することでフランス革命が始まったとされています.同国ではこの日は祝日とされ,市内では様々な行事が行われます.

 フランスという国は独特の文化や風土を持った国です.日本から見ると欧米諸国,西ヨーロッパ諸国などと一緒くたにされるイメージがありますが,政治的には現代のグローバリゼーションの中心にある米英とは常に一線を画した行動をとっています(それは今のウクライナの問題でもそうです).文化面でもかつて日本や中東との間で物議を醸しだした風刺画文化や性への意識など,禁欲的なプロテスタントのイメージのある特にアメリカとは明らかに異なっています.食文化に関しても,質素&ジャンクなイメージでお世辞にも美味といいにくい(笑)米英とはきわめて対照的にフランス料理はは洗練されています.

 このような現代に続くフランス人のアイデンティティの原点となったのがフランス革命なのです.そしてこの革命記念日をテーマにしたフランス映画がQuatorze Juilletで意味はそのまま7月14日となります.これはルネ・クレール監督によって1933年に作られたモノクロ映画で,特に革命をテーマにしているわけではなく,1930年代のこの日に繰り広げられた庶民の恋愛をほんわかと描いたものです.日本ではこの映画を輸入配給した東和商事社長,川喜多長政氏らによる翻案で巴里祭という題で人気を博しました.この影響からフランス革命記念日自体も日本では巴里祭といういい方をすることがありますが,フランス人に向かってこの7月14日を "Festival de Paris" といってももちろん通用しません(笑).

(↑ 映画巴里祭のメイン音楽)

 自分も学生時代ある年の7月14日にレンタルビデオ店でこの作品を借りてきて,観たのを覚えています.

 そんなことを思い出した2022年7月14日でした.

| | コメント (0)

2022年6月20日 (月)

渋沢栄一の里

 先日の埼玉旅行,ときがわ温泉と並ぶ柱が渋沢栄一の里を訪ねることでした.2021年の大河ドラマ青天を衝けの主人公であり,日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一の出身地血洗島村は今の深谷市にあります.ドラマが放送されていた昨年のうちに行ってみたかったんですが,ちょうど新型コロナのデルタ株が流行っていたタイミングだったために断念したものです.今回ようやく行くことができました.

 まず向かうのは渋沢栄一記念館,ここには渋沢栄一に関する書簡や写真などの資料が多数展示されているほか,講義室では渋沢のアンドロイドによる講義を聴くことができます(予約制).この日は課外学習と思われる中学生グループが来ていました.

Img_8369 Img_8383(左写真1)渋沢栄一記念館、(右同2)渋沢栄一のアンドロイド

 続いては記念館から車で数分の旧渋沢邸中の家(なかんち)です.ここは渋沢栄一の生家があった場所で,現在ある屋敷は明治28年に建てられました.栄一は晩年になっても時間を作ってはこの地を訪れていたそうです.ただ今年の春から耐震工事に入ったらしく今は外観しか見ることができないのが残念でした(我々が行くと工事中というケースは結構多く,過去にはアヤソフィア寺院,アンコールワット,延暦寺根本中堂などがそうだった).

Img_8389 Img_8390(左写真3)渋沢栄一生家中の家、(右同4)若き渋沢の像

 次は幼少期の栄一にとって学問の師でもあった尾高惇忠の生家を訪ねます.中の家が明治期に新築された建物であるのに対し,ここは江戸時代後期の建物が残っているという,違う意味でも重要なところです.内部は土間を通路として部屋の一部を見学するスタイルでした(ここの2階に文久三年の「高崎城乗っ取り計画」の謀議が行われた部屋があるが現在は非公開).ここには藍玉や藍の葉も植えられていました.

Img_8399 Img_8400(左写真5)尾高惇忠生家、(右同6)内部の様子

 尾高惇忠の生家訪問を終えたタイミングでちょうど昼時,この日は地元の小料理屋さんで深谷名物の煮ぼうとうをいただきました.ほうとうといえば山梨が有名ですが,味噌味でかぼちゃが入った山梨版に対して,こちらは醤油味であっさりした感じでした(二日酔いのお昼にいい感じ 笑).

Img_8401(写真7)煮ぼうとう

 昼食後は誠之堂・清風亭へ.こちらも渋沢栄一ゆかりの場所です.誠之堂は栄一の喜寿を祝って大正5年に当時の第一銀行の行員たちの出資により建てられた煉瓦造り・洋風の建物(イギリスの農家をイメージしたらしい),一方の清風亭は大正15年に第一銀行頭取の佐々木勇之助の古希を祝って誠之堂の隣に建てられた白壁が特徴的な建物です.どちらも当時東京世田谷にあった第一銀行の保養施設清和園内にありましたが平成11年に深谷市に移築され今に至っています.

Img_8404 Img_8408 Img_8414 Img_8416(左上写真8)誠之堂、(右上同9)誠之堂内部、(左下同10)清風亭、(右下同11)清風亭内部

 この後は郊外の畠山重忠公史跡公園へ.ここは鎌倉時代初期の有力御家人畠山重忠の館跡に整備された公園です.青天を衝けに続いて放送されている鎌倉殿の13人にも登場する武将でそのキャラから坂東武者の鑑と称賛された人物です.近くの道の駅でも渋沢栄一と並んで畠山重忠グッズが売られており,うまく時流に合わせているな(笑)と感心したのでした.

Img_8425 Img_8421(左写真12)畠山重忠墓所、(右同13)しげただの像

| | コメント (0)

2022年5月31日 (火)

もうひとつの五稜郭

 5月29日日曜日はふと思い立って長野県の佐久市に繰り出しました.目的は続日本100名城の一つである龍岡城を訪問することです.

 龍岡城は龍岡藩1万6千石の藩庁で,築城が開始されたのは幕末の元治元年で一応の完成を見たのが慶応3年です.日本100名城正続200城の中で最も歴史が新し城郭になります.そしてこの龍岡城が特記すべきなのは,これが西洋風の五芒星星形城郭(いわゆる五稜郭)であることです.

P5290588 Img_8196(左写真1)龍岡城大手門跡,(右同2)堀と郭

 星形要塞は近世以降のヨーロッパで発達した城郭の形態で,敵の火砲による攻撃を防ぎつつ,攻め寄せる敵兵に効果的に射撃を浴びせることを目的としています.中世までの城は高い城壁を持つことがより強力な防御を持つことを意味しましたが,火砲が発達すると高い城壁は格好の目標となり容易に破壊されうるようになりました.この対策としてより低く厚い城壁が求められるようになったのです.ただし日本では大型の火砲が多数配備される前に戦国の世が終わったこともあり,城はシンボル的なものとなり高い城壁,派手な天守や櫓などを持つ形態のまま幕末に至りました.

P5290605 Img_8191(左写真3)現存する唯一の建物である御台所,(右同4)龍岡城隣にある五稜郭公園

 しかし列強の脅威が迫る中で従来の城郭ではとても拠点を守ることは困難であり,西洋風の城郭が作られることになります.もちろん代表例は函館の五稜郭ですが,信州佐久にも同じコンセプトの城郭が作られていたのです.ただ龍岡城の広さは函館五稜郭の4分の1と小ぶりで,堀も狭く,付近の小高い山から全体が一望できるなど,とても実戦に耐えうるとは思えず,これは西洋文化に造詣が深かった藩主松平乗謨の個人的な趣味によるものではと考えられています。

 明治後廃城となり大半の建物は破却あるいは売却されましたが,唯一御台所のみ現存しています.また現在城内は佐久市立田口小学校の敷地となっています.

Img_8203(写真5)展望所から見た龍岡城,周囲の緑が五角形を示しています

 五稜郭といえばその全体像を眺めてこそその感慨が味わえます.函館の五稜郭はすぐそばに高さ107mのタワーがありますが,龍岡城にはそのような塔はありません.その代わり城の北東部の山の中腹に展望所があり,そこから全体像を把握することができます.

| | コメント (0)

2022年5月29日 (日)

コンスタンティノープルの陥落

 今日5月29日は当ブログにとっては非常に重要な日です.私はハンドルネームでビザンチン皇帝コンスタンティヌス21世を名乗っていることからわかるように、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)を愛好しています。そんな帝国の都がコンスタンティノープルで君府とも呼ばれます。11世紀の最盛期には人口50万を擁し,中世に入って都市が衰退していた当時のヨーロッパでは群を抜いて巨大な都市だったのです。コンスタンティノープルはその成立の日と滅亡の日がはっきりわかっている年です。すなわちローマ皇帝コンスタンテゥヌス1世(大帝)により330年5月11日に開都式が開催され、その約1100年後にメフメト2世率いるオスマントルコ軍の攻撃を受け,1453年5月29日についに陥落して帝国は滅亡に至ったのです。

 ビザンチン帝国というのは,別名を東ローマ帝国,中世ローマ帝国といわれるように、古代ローマ帝国の後継国家です。ビザンチンという名前はコンスタンティノープル(現イスタンブール)の古名であるビザンティウム(ビザンチオン)から来ており,国家が存在した時期はちょうど西洋史における中世と呼ばれる時代区分に一致します.

 中世という言葉は,西洋史の歴史用語で古代と近代の間の時代という意味です.私が中学生頃の西洋史観では中世というのは迷信と疫病のはびこる暗黒時代とされていました.すなわち古代ギリシャ・ローマの文明が衰退し,ルネッサンスによって復興するまでのつなぎの時代とみなされていたわけです.もちろんこれは西欧の立場から見た話しであって,同じ時代イスラム圏は文明の中心として栄えていたわけですし,キリスト教世界においてもビザンチン帝国がその中心として繁栄していました.これらの世界においては暗黒時代どころか黄金期だったわけです.

 現在においては西欧においても中世は何もない時代ではなく,様々な社会や文化の発展がみられた時代であるという認識に変わっています.そんな発展途上の西欧社会の人々にとって,キリスト教世界の中心地だったコンスタンティノープルが異教徒の手に落ちたことは衝撃的な事件でした.この歴史的大事件当時に作曲家として活躍していたギョーム・デュファイはコンスタンティノープル聖母マリア教会の嘆きという曲を作っています.

 そんな感慨にふけった2022年5月29日でした.

| | コメント (0)

2022年5月 3日 (火)

憲法記念日

 今日5月3日は憲法記念日です.日本国憲法が1947年のこの日に施行されたことを記念して制定された祝日です(公布は前年1946年11月3日でこちらは文化の日になっています).日本国の最高法規として制定されて70年以上,最近はその改正論議も話題になっています.

 この5月3日というのは世界史的にもいろんな事件が起こっているんですが,その中でも興味深いのが1791年のこの日に当時のポーランド王国でヨーロッパ初の近代的成文憲法が成立したことです.18世紀のヨーロッパは王朝全盛期の時代です.フランスやプロイセン,スペイン,ロシアなど大陸諸国は軒並み絶対王政あるいは貴族を含めた寡占政であり憲法に基づく法の支配の概念は未発達でした.イギリスだけは17世紀の革命を経て国王の権力が制限された議会政治が始まっていましたが,同国の憲法は慣習法なので成文化された憲法はありませんでした.そんな時代にポーランドでヨーロッパ発の近代憲法が制定されたのです.この憲法は三権分立,法の支配が明確に規定された画期的なものでした.

 どうして当時のポーランドでこうした憲法が作られたのか,それは当時の同国をめぐる状況に由来します.10~11世紀に建国されたポーランドは16世紀には穀物輸出国として繁栄しました.内政的には国王の権力が制限された貴族政で大小の貴族によるセイムという名の合議制を取っていました.特筆すべきは国王はセイムの同意なしに法律を制定することができないことに加えて,セイム構成員の貴族一人一人に拒否権が与えられていたことです.すなわち全貴族による全会一致が大原則の政治体制だったのです.国勢が盛んな時期はそれで特に問題は起こらなかったものの,17世紀以降新大陸からの穀物輸入が始まり,ヨーロッパが穀物不況になると状況が変化します.不況により貧富の差が拡大すると貴族の中でもマグナートと呼ばれる大貴族の力が強まり,彼らは自己の利益を最優先して自らに不都合や政策には拒否権を濫用するようになったため国政の停滞が起こります.さらにはこの頃から東にロシア,西にプロイセンが勃興してきたためポーランドはその圧迫を受けるようになりました.18世紀に入ると周辺国からの圧力はますます強まり,次第に領土を侵食されるようになります.時あたかも啓蒙主義の時代であり,この状況を打開するためには政治改革による体制の一新しかないと考えた国王スタニスワフ2世ら改革派はフランスのルソーら啓蒙主義者の助言を受けながら憲法の草案を作成,ついに1791年5月3日に画期的な憲法が制定されたのです.

 しかしこの時すでにフランス革命が始まっており,プロイセンやロシア,オーストリアなどの周辺国は革命が自国に波及することを危惧していました.そうしたタイミングでポーランドに新憲法が制定されることは非常に危険なものと認識され,憲法制定のわずか1年後国内の改革反対派と結託したロシア軍が侵入,改革は頓挫し1795年までにポーランドはロシア,プロイセン,オーストリアによって分割され滅亡することになってしまいました.

 現在ウクライナで起こっている戦争のニュースを見聞きすると,およそ200年前のポーランドの憲法記念日のことが強く思い出されます.5月3日はポーランドでも「5月3日憲法」記念日として祝日になっているそうです.

| | コメント (0)

2022年5月 1日 (日)

新田義貞の側室の墓

 小田原駅周辺から国道1号線箱根方面へは休日を中心に交通量が多く、時に大渋滞になることもあります.そんな場合の抜け道として地元民が利用しているのが小田原駅新幹線口付近城山地区の山間部を通って国道1号線の風祭入生田地区に抜ける裏道です.私も時々利用する道なんですが,その途中に以前から気になっていた看板がありました.

Img_7877(写真1)新田義貞側室の墓の看板

 新田義貞の側室妙貞尼の墓と書かれています.

 新田義貞は鎌倉時代末期から南北朝時代初め頃の武将で,上野国新田荘(今の群馬県太田市や桐生市の辺り)を本拠にした御家人です.後醍醐天皇による討幕運動である元弘の乱において天皇方に付き,足利尊氏とともに鎌倉幕府打倒の立役者となりました(義貞,尊氏ともに当初は幕府方で戦っていたが,途中で寝がえり尊氏は京都の六波羅探題を攻略し,義貞は鎌倉を攻めて北条得宗の北条高時を討った).

 その後の建武の新政下において次第に足利尊氏と対立するようになり,尊氏が反旗を翻すと義貞は事実上の総大将としてその討伐に参加しました(名目上の大将は尊良親王).各地で起こった足利軍との戦いは徐々に劣勢になり,延元三年(1338年)越前藤島(今の福井市)で討ち死にしました.そんな新田義貞の側室の墓がどうしてここに!という感じがします.以前から気になっていましたが,時間があったので行ってみました.

Img_7879 Img_7881(左写真2)あぜ道レベル,(右同3)なにやら看板が

 看板の脇にあるあぜ道のようなところを歩いていきます.しばらく歩いていくと,ほとんど獣道のような感じに… 本当にお墓なんかあるのかと不安になる頃,前方に何やら看板のような人工物が見えます.なんとかそこまで行ってみると…

 ありました.新田義貞の側室妙貞尼のお墓です.途中の道のレベルとは全く違う立派なお墓でした.

Img_7882 Img_7883(左写真4)ありました!,(右同5)お墓です

 傍にあった碑文を読むと,妙貞尼は上野国の豪族澤保氏の娘とのこと.義貞と妙貞尼の間に生まれたのが原澤将監といい,今の群馬県にある原澤家の祖になるのだそうです.このお墓も原澤家の子孫の方が建てたもののようです.

Img_7884(写真6)由来が記された碑文

 それにしてもそんな人物のお墓がなぜここにあるのか.義貞は建武二年足利尊氏討伐のため東下し,箱根・竹之下の戦いに参加しています.もしかしたらその際に同行していてここで亡くなったのかもしれません.戦場に側室を連れてくるんだろうかという疑問もありますが,あるいは元々この地にいたのが,やってきた義貞に見初められたのかも).いずれにせよどのような人生を送ったのか,ネットで調べてもほとんど情報の出てこない人物でした.

| | コメント (0)

2022年2月26日 (土)

2・26事件

Image_2  今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,官邸でクーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争があります.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのはもちろん皇道派です.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドン的な存在だった真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようといろいろ工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐くらい),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わりました.

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも累は及び,軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって陸軍内の皇道派は壊滅状態となり,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増大,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

| | コメント (0)

より以前の記事一覧