2023年5月10日 (水)

広島旅行②~平和記念公園編~

 一夜明け5月7日になりました.一昨日以来の雨も上がり,青空が広がっています.ホテルで朝食を取りましたが,かなり混んでいた昨日と異なり同じ時間帯にも拘らず空いていました.考えてみればこの日はGW明けの月曜日,多くの観光客はすでに日常生活に戻っているわけです(世間の動きとは微妙に行動パターンをずらすのが自分らしい).

 この日の午前中は、まず市内の平和記念公園を目指します.1945年(昭和20年)8月6日に投下された原子爆弾によって広島の街は一瞬にして廃墟になり多くの市民の命が奪われました.その際投下目標とされたのが市内の本川と元安川の分岐部に架かる相生橋です(実際の爆心は橋のやや南東にあった島病院の上空と考えられている).爆心地周辺の建物はほとんど全壊したものの、奇跡的に全壊を免れたのが広島県産業奨励館で,独特のドームを持つことから戦後原爆ドームと呼ばれるようになり,核兵器の恐ろしさを後世に伝えるものとなっています(1995年国の史跡,1996年ユネスコ世界遺産).

Img_09261 Img_09291(左写真1)原爆ドーム,(右同2)元安川から先の相生橋を望む

 徒歩と路面電車を利用して現地へ.やはりGW明けの平日ということで一般観光客の姿は少なく,修学旅行生や外国人観光客の姿が目立ちました.まずは原爆ドームへ,ここに来たのは学生時代以来なので30年は経っているはずです.テレビではあのドームの建物しか見えませんが,実際に現地で見ると敷地内に多くの瓦礫が散らばっているのが分かり,そちらの方がより当時の惨状を思わせるように感じます.

Img_09301 Img_09341(左写真3)慰霊碑,(右同4)平和の鐘

 その後は橋を渡って平和記念公園へ.ここには小グループに分かれた修学旅行生が多かったです.毎年8月6日の記念式典の会場になる場所ですが,青々とした緑が広がる光景は廃墟から復興したこの街の思いを感じさせます.公園の中心にある慰霊碑からは原爆ドームの姿を望むことができました(反対側が平和資料館).様々なことを思いながら頭を垂れた我々でした.

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2023年5月 9日 (火)

広島旅行①~呉編~

 基本的におとなしめのGWを過ごしたビザンチン皇帝ですが,終盤からちょっと本気を出しました(笑).6日のお昼に知人のコンサートを鑑賞した後は直ちに東京駅に移動し,そのまま東海道新幹線に乗車し西に向かいました.行先は広島県です.旅好きの私はもちろん47都道府県すべてに行ったことがあるわけですが,観光の量に関してはかなりの濃淡があります.北海道やかつて住んでいた東北地方はもちろん濃い部類ですが,一方で薄い部分の最上位に来るのが広島県です.もちろん行ったことはあるんですが,例えば同じ中国地方で比較しても,出張でちょくちょく行く岡山は別格として,鳥取・島根・山口と比較しても広島県の訪問頻度はかなり少ないものがあります.県庁所在地の広島市も例外ではなく,最後に訪問したのが2008年10月なのでもう15年前です(新幹線で通過ならしている).そんな本州の都府県で最も訪問濃度の薄い広島県を満喫しようというのが今回の企画です.

 新幹線は快調に西へ,がしかし,新大阪を過ぎたあたりから周囲は雨模様に(まあ天気予報がそうだったから覚悟はしていた).広島駅に着いた時には本格的な雨になっていました.慣れない広島駅でちょっと迷いながら,この日宿泊のホテルにチェックインしました(結局夕食は駅弁で済ませた).

 翌5月7日は朝から活動開始,JR呉線に乗って40分の呉に向かいました.呉といえば軍港,そっち関係に興味がある自分には外せないポイントです.実は訪問頻度の少ない広島県の中でも呉は初訪問なのでした.

Img_09011(写真1)10分の1サイズの戦艦大和

 雨の中到着後まず向かったのは大和ミュージアム,大戦中の日本最大の戦艦大和をはじめ,呉と海軍の博物館です.名物の10分の1サイズの大和の模型のほか,実物の零式艦上戦闘機や特攻兵器として知られる人間魚雷「回天」なども展示されています.普段のほほんと生きている者として気が引き締まる思いがしました.

Img_08401 Img_08301(左写真2)零式艦上戦闘機,(右同3)回天

 一通り見学した後は歩いて10分ほどの場所にある海上自衛隊呉地方総監部の青山門へ.隔週の日曜日に一般公開されている旧海軍関係の施設を見学するためです(事前に申し込みが必要で,希望者が多い場合は抽選).11時から受付が始まり中に入ります.ここでは係員(多分海曹の方)の案内で見学が進みます.まずは旧呉鎮守府庁舎(現海上自衛隊呉地方総監部第1庁舎)です.中央にドームを持つ煉瓦造りの建物は明治40年に竣工したもので,今でも現役で使用されています.我々が向かった青山門方面が正面とされていますが,海に面した側が正面ではないかという議論もあるようです(海に面した側に海岸に降りる急階段がある).

Img_08531(写真4)旧呉鎮守府庁舎

 鎮守府庁舎に続いて,旧海軍電話交換所へ.ここはさすがに現役では使われていないものの,空襲にも耐えられる強度を誇っています.戦中の使用目的はよくわかっていないそうですが,戦後すぐには電話交換所として使用されていたようです.すぐ近くには当地の地下に張めぐされていた地下通路への入口もあります(危険なので立ち入りはできない).全体で1時間ほどの見学でした.

Img_08721 Img_08781(左写真5)電話交換所,(右同6)内部

 その後は市街地に戻り,ハイカラ食堂でランチタイムです.海自&海軍に特化した食堂ですが,この日はもちろん定番の海自カレー(潜水艦そうりゅうのカレー)をいただきました(どうでもいいですがこのお店,一部界隈の人たちが発狂すること間違いなしです 笑).

Img_08991 Img_09001(左写真7)ハイカラ食堂,(右同8)そうりゅうカレー

 ランチ後は再び大和ミュージアムへ(再入場できるのが良い).先ほどはパスした特別展を中心に見学しました.そして14時40分頃にタクシーで呉基地のFバースに向かいます.今度は海上自衛隊の護衛艦の一般公開に参加するためです(午前中の鎮守府と同様隔週の日曜日に事前申込制で開催).この時間帯になると雨脚も強まっていました.雨の中見学開始,この日乗船できる艦艇はATS-4203訓練支援艦てんりゅうでした.全長100メートルのヘリ甲板を持つ艦艇で,対空射撃訓練用の標的機を発射する支援艦です.この日甲板には小型の標的機チャカⅢが展示されていました.ヘリ甲板にも立ち入りできましたが,こんなところでジンギスカンとかやったら楽しそうだなと思いました(100%懲戒処分の対象になりそうですが 笑).その後は他の護衛艦の外観を見学,一部しか見えませんでしたが海自最大の護衛艦である「かが」も停泊していました.

Dsc_2601 Img_09021 Img_09061 Dsc_2614(左上写真9)訓練支援艦てんりゅう,(右上同10)76mm速射砲,(左下同11)標的機チャカⅢ,(右下同12)壮観です

 1時間ちょっとで見学時間は終了,バスで市街地に戻り,この日最後の観光ポイントである,海上自衛隊呉資料館「てつのくじら館」に行きました.ここは海自の大きな任務である「掃海」をテーマにした展示のほか,退役した潜水艦「あきしお」の内部が見学できるのも魅力となっています(なので”てつのくじら”の異名がある).旧海軍が日露戦争の成功体験から艦隊決戦での勝利に力を注ぎすぎたことから,結果として本来日本の生命線であるはずのシーレーン防衛がおざなりにされ,結果大戦後半にはアメリカ軍によるシーレーンの破壊によって,日本は経済的に干上がってしまい戦争継続が不可能になりました.その反省から戦後の海上自衛隊は海上の安全確保を主要任務とし,掃海もその一環として最重要視されているのでした(朝鮮戦争に日本は基本的に参加していませんが,実はGHQの要請により当時の海上保安庁が掃海活動に当たっており殉職者も出ている).

Img_09141(写真13)潜水艦の野外展示

 掃海展示の後はいよいよ潜水艦の見学の時間,昔読んだ本で旧海軍の潜水艦の居住性は最悪だったとありましたが,あきしおは戦後の艦艇なので,それなりに居住性のも考慮が払われているようでした(とはいっても,この中で何週間も作戦行動をとるというのは,訓練以上に個人の適性が重要だろうなと感じた).

 資料館の見学でこの日の呉観光は終了,JR線で広島に戻り駅ビル内の店で広島の牡蠣を堪能したのでした.

Img_09231 Img_09241(写真14,15)広島の牡蠣(もちろん生)

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2023年1月16日 (月)

紀元

 今日は1月16日、Wikipediaによると紀元前27年のこの日に古代ローマが共和政から帝政に移行したとあります.紀元前27年1月16日に約100年に渡る共和政末期の混乱を終結させたオクタヴィアヌスに対してローマの元老院がアウグストゥスの称号を贈りました.当時すでにコンスル,プロコンスルとして政治軍事両面での権力を握っていた彼に対して元老院が特別な名称を与えて権威付けしたことから,この時からローマは帝政に移行したとみなされています.ただ当時はまだ共和政を望む人々の影響力も無視できず,事実上皇帝ではあってもあくまでも市民の第一人者(プリンケプス)という体裁を取ったところに特徴があります(元首政).これが一般にイメージされるような帝政の姿になったのは3世紀のディオクレティアヌスの時代以降です(専制君主政).

Caesar_augustus(写真)執政官(コンスル)のアウグストゥス 

 このローマが共和政から帝政に移行した時期に登場したのがキリスト教です.後にヨーロッパがキリスト教世界に入ると,イエス・キリストが生まれた年を紀元1年とする暦が作られました.これがいま私たちが使っている西暦です(ただしイエスの生年に関しては今の紀元1年ではなく,それよりも数年前の紀元前4年ごろとされる).

 一方紀元1年よりも前の時代については紀元前という言葉が付され,一般にはBC(Before Christの略)の語句が用いられます(紀元後はAnno Dominiの略ADとなるがこちらは省略されることが多い).紀元と紀元前の関係というと数学における自然数と負の数との関係が連想されますが,暦には0年という概念がないため,紀元1年の前年は紀元0年ではなく紀元前1年になります.このため紀元10年の20年前は紀元前10年ではなく紀元前11年になるなど計算に注意する必要があります.

 紀元の概念は後付けなので,この前後で何かが大きく変わったというようなことは無いはずですが,キリスト教のお膝元である地中海世界ではローマが共和政から帝政に変わりました.一方で東アジアに目をやると前漢(紀元前202年~8年)から後漢(25年~220年)に変わっていく時期と符合します.偶然とはいえ非常に感慨深いものがあります.ちなみに紀元前後に活躍した世界史上の著名人としては前漢を簒奪して滅ぼした王莽がいます.彼は一時中央を追われていたものの,紀元前1年に哀帝の崩御によって復権し,翌1年に平帝の太傅となって権力を握っています.

Wang_mang(写真)紀元前後に活躍した前漢の外戚王莽

 そんなことを考えた1月16日でした.

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2023年1月 3日 (火)

今年は何の年?

 2023年も3日目です.今日のネタは今年は何の記念日か?です.では行ってみましょう.

① 関東大震災100年

 わが国で防災の日とされる9月1日は,今から100年前の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生したことに由来します.地震をはじめとした災害が多い我が国です.今年もいつどんな災害が起こるかわかりません.備えが大切だと感じます.

② 勝海舟生誕200年

 幕末期の幕臣勝海舟は日本の近代化のためには海軍の整備が重要であるとして,神戸に海軍操練所を作るなど活躍しました.戊辰戦争時には西郷隆盛と協力して江戸城の無血開城を実現させています.今年はそんな勝海舟生誕200年の年です.

③ 徳川家光将軍就任400年

 今年の大河ドラマは「どうする家康」ということで世間でも徳川家に注目が集まることが予想されます.そんな徳川幕府第3代将軍が徳川家光,家康の孫にあたります.その家光が将軍に就任したのが1623年(元和九年)であり,今年は400年の記念イヤーです.

④ 寧波の乱500年

 日本と大陸の関係といえば飛鳥時代の遣隋使や奈良時代から平安時代初期の遣唐使は公的なものとして有名ですが,中世になると国内政治が不安定化したこともあり,大陸との貿易は大名による私的なものが中心になりました.戦国時代には細川氏や大内氏が貿易で巨利を得ていましたが,やがて両者の対立が起こりそれが大陸での暴力事件に発展したのが寧波の乱です.

⑤ アレキサンドリアの大灯台崩壊700年

 古代地中海世界において七大不思議と呼ばれるものがありました.エジプトのピラミッドやバビロンの空中庭園,ロードス島の巨像などと並んでアレキサンドリアにあった大灯台もこれに含まれていました.紀元前3世紀に造られた高さ130メートルを超える巨大な灯台です.古代から中世にかけて多くの旅行家により記録されていますが,1323年に起こった地震により倒壊してしまいました.

⑥ 完顔阿骨打没後900年

 世界史の勉強をしているとなぜか印象深くて忘れられない人物がいます.自分にとっては古代インドのチャンドラグプタと並んで印象深いのが金の完顔阿骨打です.今年は彼の没後900年の年です.

⑦ 世界最古の紙幣発行1000年

 お金といえばコインと紙幣があります.歴史上コインは金貨などそれ自体に価値の裏付けがあり世間で流通できました.一方紙幣は軽くて持ち運びには便利ですが,それ自体はタダ同然の代物であり,これに価値が付与されるためには政府など発行元の信用が欠かせません.歴史上そんな紙幣が初めて登場したのが今から1000年前の北宋時代で,当時は交子と呼ばれました.

⑧ 三世一身法1300年

 飛鳥時代から奈良時代にかけて人口が増加してくると農地が不足してきました.このため律令政府は開墾を奨励するわけですが,ただ開墾せよといっても農民にしたらモチベーションが上がりません.このため自分で開墾した場合親子3代にわたって所有を認める(それが過ぎたら収公する)という制度ができました.これが三世一身法で制定されたのが今から1300年前の723年(養老七年)です.

⑨ 嵩岳寺塔完成1500年

 古代インドで生まれた仏教は漢代に中国に伝わり広まりましたが,歴代王朝が保護したり廃仏したりと政策が揺れ動いたことから東南アジア地域のような国民一般にいきわたる国家宗教になることはありませんでした.仏教が保護された時代には多くの建造物が作られたりしましたが,廃仏の時代になると破壊されたりして今に残るものは多くありません.そうした中国の仏教遺跡の中で有名なのが河南省にある嵩岳寺塔という仏塔です.今から1500年前の北魏時代,523年に建てられました.

⑩ 劉備没後1800年

 日本でも人気の高い三国志の主要人物の一人である劉備,彼が亡くなったのが今から1800年前の223年のことです.

⑪ ストラボンの「地理誌」刊行2000年

 帝政ローマ初期に今のトルコで生まれたストラボンによって記述された地理書が「地理誌」です.当時のギリシャローマ世界の人々が世界のすべてと思っていたヨーロッパ,中東からインドにかけての地理や歴史が記述されています.これが刊行されたのが今から2000年前の23年です.

⑫ 曲阜に孔子廟が建てられ2500年

 孔子廟とは孔子が祀られた場所で今では世界各地にあります.その元祖的なものが孔子が亡くなった翌年に曲阜に建てられた孔子廟で,今から2500年前の紀元前478年のことです.

 以上です.こうしてみると今年は世界史的には小粒な印象です.

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2022年7月20日 (水)

しながわ宿場まつり中止

20shina12  秋の恒例イベントになっているのがしながわ宿場まつりです.江戸時代の扮装をしたままワインを飲んだり自由行動ができるゆる~い楽しいイベントなので,基本的に参加できる年は参加しています.新型コロナウイルス感染症流行の影響で2020年と2021年は中止になっていましたが、今年は規模を縮小して開催する旨がアナウンスされていました(関連記事).開催されるならばぜひとも参加したいと張り切っていたのですが,今日改めて公式ホームページを見たら…

 中止のお知らせが出ていました💦

 今月に入ってからのいわゆる感染第7波の拡大に伴う措置のようです.7月に入って,もうしかしたらそうなるかなぁと思っていたため驚きはありませんが,もしかしたらコロナ後初の扮装イベントかもと楽しみにしていただけに残念です.

Shinachu  ところで,来月28日は3年ぶりの日本寮歌祭も予定されていますが,こちらは果たしてどうなるのでしょうか(屋外のパレードが中止なら…).

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2022年7月14日 (木)

巴里祭

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 今日は7月14日はフランスの革命記念日です.1789年のこの日,折からの不景気等による生活苦から不満を募らせた民衆がパリのバスチーユ牢獄を襲撃,この暴動が全国に波及することでフランス革命が始まったとされています.同国ではこの日は祝日とされ,市内では様々な行事が行われます.

 フランスという国は独特の文化や風土を持った国です.日本から見ると欧米諸国,西ヨーロッパ諸国などと一緒くたにされるイメージがありますが,政治的には現代のグローバリゼーションの中心にある米英とは常に一線を画した行動をとっています(それは今のウクライナの問題でもそうです).文化面でもかつて日本や中東との間で物議を醸しだした風刺画文化や性への意識など,禁欲的なプロテスタントのイメージのある特にアメリカとは明らかに異なっています.食文化に関しても,質素&ジャンクなイメージでお世辞にも美味といいにくい(笑)米英とはきわめて対照的にフランス料理はは洗練されています.

 このような現代に続くフランス人のアイデンティティの原点となったのがフランス革命なのです.そしてこの革命記念日をテーマにしたフランス映画がQuatorze Juilletで意味はそのまま7月14日となります.これはルネ・クレール監督によって1933年に作られたモノクロ映画で,特に革命をテーマにしているわけではなく,1930年代のこの日に繰り広げられた庶民の恋愛をほんわかと描いたものです.日本ではこの映画を輸入配給した東和商事社長,川喜多長政氏らによる翻案で巴里祭という題で人気を博しました.この影響からフランス革命記念日自体も日本では巴里祭といういい方をすることがありますが,フランス人に向かってこの7月14日を "Festival de Paris" といってももちろん通用しません(笑).

(↑ 映画巴里祭のメイン音楽)

 自分も学生時代ある年の7月14日にレンタルビデオ店でこの作品を借りてきて,観たのを覚えています.

 そんなことを思い出した2022年7月14日でした.

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2022年6月20日 (月)

渋沢栄一の里

 先日の埼玉旅行,ときがわ温泉と並ぶ柱が渋沢栄一の里を訪ねることでした.2021年の大河ドラマ青天を衝けの主人公であり,日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一の出身地血洗島村は今の深谷市にあります.ドラマが放送されていた昨年のうちに行ってみたかったんですが,ちょうど新型コロナのデルタ株が流行っていたタイミングだったために断念したものです.今回ようやく行くことができました.

 まず向かうのは渋沢栄一記念館,ここには渋沢栄一に関する書簡や写真などの資料が多数展示されているほか,講義室では渋沢のアンドロイドによる講義を聴くことができます(予約制).この日は課外学習と思われる中学生グループが来ていました.

Img_8369 Img_8383(左写真1)渋沢栄一記念館、(右同2)渋沢栄一のアンドロイド

 続いては記念館から車で数分の旧渋沢邸中の家(なかんち)です.ここは渋沢栄一の生家があった場所で,現在ある屋敷は明治28年に建てられました.栄一は晩年になっても時間を作ってはこの地を訪れていたそうです.ただ今年の春から耐震工事に入ったらしく今は外観しか見ることができないのが残念でした(我々が行くと工事中というケースは結構多く,過去にはアヤソフィア寺院,アンコールワット,延暦寺根本中堂などがそうだった).

Img_8389 Img_8390(左写真3)渋沢栄一生家中の家、(右同4)若き渋沢の像

 次は幼少期の栄一にとって学問の師でもあった尾高惇忠の生家を訪ねます.中の家が明治期に新築された建物であるのに対し,ここは江戸時代後期の建物が残っているという,違う意味でも重要なところです.内部は土間を通路として部屋の一部を見学するスタイルでした(ここの2階に文久三年の「高崎城乗っ取り計画」の謀議が行われた部屋があるが現在は非公開).ここには藍玉や藍の葉も植えられていました.

Img_8399 Img_8400(左写真5)尾高惇忠生家、(右同6)内部の様子

 尾高惇忠の生家訪問を終えたタイミングでちょうど昼時,この日は地元の小料理屋さんで深谷名物の煮ぼうとうをいただきました.ほうとうといえば山梨が有名ですが,味噌味でかぼちゃが入った山梨版に対して,こちらは醤油味であっさりした感じでした(二日酔いのお昼にいい感じ 笑).

Img_8401(写真7)煮ぼうとう

 昼食後は誠之堂・清風亭へ.こちらも渋沢栄一ゆかりの場所です.誠之堂は栄一の喜寿を祝って大正5年に当時の第一銀行の行員たちの出資により建てられた煉瓦造り・洋風の建物(イギリスの農家をイメージしたらしい),一方の清風亭は大正15年に第一銀行頭取の佐々木勇之助の古希を祝って誠之堂の隣に建てられた白壁が特徴的な建物です.どちらも当時東京世田谷にあった第一銀行の保養施設清和園内にありましたが平成11年に深谷市に移築され今に至っています.

Img_8404 Img_8408 Img_8414 Img_8416(左上写真8)誠之堂、(右上同9)誠之堂内部、(左下同10)清風亭、(右下同11)清風亭内部

 この後は郊外の畠山重忠公史跡公園へ.ここは鎌倉時代初期の有力御家人畠山重忠の館跡に整備された公園です.青天を衝けに続いて放送されている鎌倉殿の13人にも登場する武将でそのキャラから坂東武者の鑑と称賛された人物です.近くの道の駅でも渋沢栄一と並んで畠山重忠グッズが売られており,うまく時流に合わせているな(笑)と感心したのでした.

Img_8425 Img_8421(左写真12)畠山重忠墓所、(右同13)しげただの像

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2022年5月31日 (火)

もうひとつの五稜郭

 5月29日日曜日はふと思い立って長野県の佐久市に繰り出しました.目的は続日本100名城の一つである龍岡城を訪問することです.

 龍岡城は龍岡藩1万6千石の藩庁で,築城が開始されたのは幕末の元治元年で一応の完成を見たのが慶応3年です.日本100名城正続200城の中で最も歴史が新し城郭になります.そしてこの龍岡城が特記すべきなのは,これが西洋風の五芒星星形城郭(いわゆる五稜郭)であることです.

P5290588 Img_8196(左写真1)龍岡城大手門跡,(右同2)堀と郭

 星形要塞は近世以降のヨーロッパで発達した城郭の形態で,敵の火砲による攻撃を防ぎつつ,攻め寄せる敵兵に効果的に射撃を浴びせることを目的としています.中世までの城は高い城壁を持つことがより強力な防御を持つことを意味しましたが,火砲が発達すると高い城壁は格好の目標となり容易に破壊されうるようになりました.この対策としてより低く厚い城壁が求められるようになったのです.ただし日本では大型の火砲が多数配備される前に戦国の世が終わったこともあり,城はシンボル的なものとなり高い城壁,派手な天守や櫓などを持つ形態のまま幕末に至りました.

P5290605 Img_8191(左写真3)現存する唯一の建物である御台所,(右同4)龍岡城隣にある五稜郭公園

 しかし列強の脅威が迫る中で従来の城郭ではとても拠点を守ることは困難であり,西洋風の城郭が作られることになります.もちろん代表例は函館の五稜郭ですが,信州佐久にも同じコンセプトの城郭が作られていたのです.ただ龍岡城の広さは函館五稜郭の4分の1と小ぶりで,堀も狭く,付近の小高い山から全体が一望できるなど,とても実戦に耐えうるとは思えず,これは西洋文化に造詣が深かった藩主松平乗謨の個人的な趣味によるものではと考えられています。

 明治後廃城となり大半の建物は破却あるいは売却されましたが,唯一御台所のみ現存しています.また現在城内は佐久市立田口小学校の敷地となっています.

Img_8203(写真5)展望所から見た龍岡城,周囲の緑が五角形を示しています

 五稜郭といえばその全体像を眺めてこそその感慨が味わえます.函館の五稜郭はすぐそばに高さ107mのタワーがありますが,龍岡城にはそのような塔はありません.その代わり城の北東部の山の中腹に展望所があり,そこから全体像を把握することができます.

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2022年5月29日 (日)

コンスタンティノープルの陥落

 今日5月29日は当ブログにとっては非常に重要な日です.私はハンドルネームでビザンチン皇帝コンスタンティヌス21世を名乗っていることからわかるように、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)を愛好しています。そんな帝国の都がコンスタンティノープルで君府とも呼ばれます。11世紀の最盛期には人口50万を擁し,中世に入って都市が衰退していた当時のヨーロッパでは群を抜いて巨大な都市だったのです。コンスタンティノープルはその成立の日と滅亡の日がはっきりわかっている年です。すなわちローマ皇帝コンスタンテゥヌス1世(大帝)により330年5月11日に開都式が開催され、その約1100年後にメフメト2世率いるオスマントルコ軍の攻撃を受け,1453年5月29日についに陥落して帝国は滅亡に至ったのです。

 ビザンチン帝国というのは,別名を東ローマ帝国,中世ローマ帝国といわれるように、古代ローマ帝国の後継国家です。ビザンチンという名前はコンスタンティノープル(現イスタンブール)の古名であるビザンティウム(ビザンチオン)から来ており,国家が存在した時期はちょうど西洋史における中世と呼ばれる時代区分に一致します.

 中世という言葉は,西洋史の歴史用語で古代と近代の間の時代という意味です.私が中学生頃の西洋史観では中世というのは迷信と疫病のはびこる暗黒時代とされていました.すなわち古代ギリシャ・ローマの文明が衰退し,ルネッサンスによって復興するまでのつなぎの時代とみなされていたわけです.もちろんこれは西欧の立場から見た話しであって,同じ時代イスラム圏は文明の中心として栄えていたわけですし,キリスト教世界においてもビザンチン帝国がその中心として繁栄していました.これらの世界においては暗黒時代どころか黄金期だったわけです.

 現在においては西欧においても中世は何もない時代ではなく,様々な社会や文化の発展がみられた時代であるという認識に変わっています.そんな発展途上の西欧社会の人々にとって,キリスト教世界の中心地だったコンスタンティノープルが異教徒の手に落ちたことは衝撃的な事件でした.この歴史的大事件当時に作曲家として活躍していたギョーム・デュファイはコンスタンティノープル聖母マリア教会の嘆きという曲を作っています.

 そんな感慨にふけった2022年5月29日でした.

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2022年5月 3日 (火)

憲法記念日

 今日5月3日は憲法記念日です.日本国憲法が1947年のこの日に施行されたことを記念して制定された祝日です(公布は前年1946年11月3日でこちらは文化の日になっています).日本国の最高法規として制定されて70年以上,最近はその改正論議も話題になっています.

 この5月3日というのは世界史的にもいろんな事件が起こっているんですが,その中でも興味深いのが1791年のこの日に当時のポーランド王国でヨーロッパ初の近代的成文憲法が成立したことです.18世紀のヨーロッパは王朝全盛期の時代です.フランスやプロイセン,スペイン,ロシアなど大陸諸国は軒並み絶対王政あるいは貴族を含めた寡占政であり憲法に基づく法の支配の概念は未発達でした.イギリスだけは17世紀の革命を経て国王の権力が制限された議会政治が始まっていましたが,同国の憲法は慣習法なので成文化された憲法はありませんでした.そんな時代にポーランドでヨーロッパ発の近代憲法が制定されたのです.この憲法は三権分立,法の支配が明確に規定された画期的なものでした.

 どうして当時のポーランドでこうした憲法が作られたのか,それは当時の同国をめぐる状況に由来します.10~11世紀に建国されたポーランドは16世紀には穀物輸出国として繁栄しました.内政的には国王の権力が制限された貴族政で大小の貴族によるセイムという名の合議制を取っていました.特筆すべきは国王はセイムの同意なしに法律を制定することができないことに加えて,セイム構成員の貴族一人一人に拒否権が与えられていたことです.すなわち全貴族による全会一致が大原則の政治体制だったのです.国勢が盛んな時期はそれで特に問題は起こらなかったものの,17世紀以降新大陸からの穀物輸入が始まり,ヨーロッパが穀物不況になると状況が変化します.不況により貧富の差が拡大すると貴族の中でもマグナートと呼ばれる大貴族の力が強まり,彼らは自己の利益を最優先して自らに不都合や政策には拒否権を濫用するようになったため国政の停滞が起こります.さらにはこの頃から東にロシア,西にプロイセンが勃興してきたためポーランドはその圧迫を受けるようになりました.18世紀に入ると周辺国からの圧力はますます強まり,次第に領土を侵食されるようになります.時あたかも啓蒙主義の時代であり,この状況を打開するためには政治改革による体制の一新しかないと考えた国王スタニスワフ2世ら改革派はフランスのルソーら啓蒙主義者の助言を受けながら憲法の草案を作成,ついに1791年5月3日に画期的な憲法が制定されたのです.

 しかしこの時すでにフランス革命が始まっており,プロイセンやロシア,オーストリアなどの周辺国は革命が自国に波及することを危惧していました.そうしたタイミングでポーランドに新憲法が制定されることは非常に危険なものと認識され,憲法制定のわずか1年後国内の改革反対派と結託したロシア軍が侵入,改革は頓挫し1795年までにポーランドはロシア,プロイセン,オーストリアによって分割され滅亡することになってしまいました.

 現在ウクライナで起こっている戦争のニュースを見聞きすると,およそ200年前のポーランドの憲法記念日のことが強く思い出されます.5月3日はポーランドでも「5月3日憲法」記念日として祝日になっているそうです.

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