2021年8月12日 (木)

相沢事件

 今日は8月12日,今から36年前の1985年(昭和60年)のこの日,羽田空港から大阪伊丹空港に向かっていた日航123便が御巣鷹山の尾根に墜落し乗員乗客520人が犠牲となる事故(日航ジャンボ機墜落事故)が起こりました.

 当時私は大学2年生で,夏休み期間中でしたが飲食店のバイトの関係で帰省はせず仙台にいました.この8月12日はバイトではなかったため,アパートでちょうどテレビを見ていたタイミングで臨時ニュースが飛び込んできた記憶があります.この事故では歌手の坂本九さんや阪神タイガースの球団社長の中埜肇さんなど著名人も犠牲になっていますが,当時自分がバイトしていた飲食店チェーンの重役の方もたまたま搭乗していて遭難しています.

800pxtessan_nagata_2  そんな8月12日ですが,歴史をさかのぼるとほかにも大きな事件が起こっています.日航機事故のちょうど50年前,1935年(昭和10年)に起こったのが今回テーマに掲げた相沢事件です.これは当時の陸軍省軍務局長だった永田鉄山少将が相沢三郎中佐により白昼局長室で斬殺された事件です.

 当時日本は満州事変とその後の国際連盟脱退で国際的な孤立を深めていた時期でした.こうした状況の中で陸軍内には軍が中心となって国家経済を統制し,国を高度国防国家へと改造していこうという動きがありました.これを主導していたのが主に陸軍大学校出身のエリート軍人たちで一般に「統制派」と呼ばれています.永田少将はこの統制派のリーダーと目されていました.ただ軍内には当時の政治家や財界の腐敗を糾弾し,天皇親政による国家改造を行おうと考えるグループ(皇道派)もいて,両者による対立が起こっていました.

 昭和10年7月16日に皇道派のドンと目されていた真崎甚三郎大将が教育総監を罷免されると,これが皇道派を軍中央から排除しようという統制派の陰謀であると考えた相沢中佐は8月12日に陸軍省を訪れ,軍務局長室に侵入して凶行に及んだのでした(後に軍法会議にて相沢は銃殺刑となる).この事件により皇道派と統制派の対立は一層激しくなり,翌1936年(昭和11年)の2・26事件でその頂点に達することになるのです.

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2021年7月 6日 (火)

高松凌雲

 現在NHKで放送中の大河ドラマ青天を衝け,7月4日の第21回は渋沢が1867年(慶応三年)に開催されるパリ万国博覧会に参加する幕府の随員となる下りが描かれました.わずか4年前の1863年(文久三年)には攘夷を叫び,高崎城乗っ取りを企てていたことを思うと隔世の感がありますが,坂本龍馬もそうだったように幕末の日本はまるで早回しのように時代が大きく動いていたわけです.

 1867年のパリ万博において主催者であるフランス政府は元首級の訪仏を希望していましたが,さすがに当時の政情から将軍慶喜自身の渡仏は考えられず,弟の徳川明武を名代として派遣することになります.当時渋沢栄一は慶喜の将軍就任に伴い幕臣になっており,その事務能力の高さから御勘定格陸軍付調役の肩書で主に一行の庶務や会計業務を担当することになります.ドラマではこの幕府一行に加わる面々も登場しましたが,その中で医師である高松凌雲もいました.

Ryoun(写真)高松凌雲

 高松凌雲は1837年(天保七年)に九州筑後の国に農家の三男として生を受けました.長じて武家の養子になったものの脱藩します.やがて医師を志し江戸や大坂でオランダ医学を学び頭角を現しました.1865年(慶応元年)その才が認められ一橋家に召し抱えられ専属医師となります.そして慶喜の将軍就任に伴い,幕府の奥医師という当時の日本の医師の最高位になるなど,渋沢栄一同様あれよあれよという人生を歩んでいます.パリ万博に際して一行の専属医師として派遣され,一方で滞在中は現地の医療を学ぶ役割も期待されていました.

 そんな高松凌雲がパリで学んだ病院が Hotel Dieu です.Hotelと名がついていますが宿泊施設ではなく,フランス最古ともいわれる歴史のある病院です.ここで凌雲はフランス医学の先進性だけではなく,貧民も無料で医療が受けられる施設が整っていることに強い衝撃を受けたそうです.

 帰国後は榎本武揚らとともに蝦夷地にわたり,そこで病院を開き,五稜郭戦争勃発後は新政府軍,旧幕府軍問わず治療するなど,赤十字運動の先駆けのようなことをしています.

 そんな凌雲の医師としての精神に強い影響を与えた Hotel Dieu、私も2008年にフランスに行った際に見てきました.入口に掲げられた看板の下に,フランス革命の基本精神であるLiberté, Égalité, Fraternité(自由,平等,友愛)の言葉が記されています.本日ツイッターでこの話を出したところ,この看板は当時からあったのだろうかという声をいただきました.調べたところ,19世紀後半の写真家シャルル・マルヴィルの写真にも同じ看板がしっかり写っているのを発見し感慨深く思いました.

E5mmsabvgaisxi7 Hoteldieuold (左)2008年春,(右)19世紀後半の同じ場所

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2021年4月 7日 (水)

ワールドスクエア

 那須温泉を堪能した翌日は同じ栃木県内にある東武ワールドスクエアに繰り出しました.

Dsc_1593 (写真1)この日の朝食

 ワールドスクエアは日本を始め世界各地の著名な建造物を25分の1で再現したテーマパークです.実は20年ほど前に一度訪問したことがあった場所ですが,その間に自分自身がリアルに見に行ったところも増えてきたので,今回改めて行ってみようと考えた次第です.

 もっともこの日の天気予報は雨☔,ただかつて降水確率100%を20%に下げた実績があるほどの晴れ男の自分が行くんだから雨なんて降るはずはない!と強く念じて行った結果,時間帯によって小雨はあったものの,観光中は決定的な雨に遭遇することはありませんでした(帰り道で強い雨の時間帯はあった).

P4040621 (写真2)東京のそれにあるのより2年早く完成したスカイツリー

 ワールドスクエアは7.65平方キロと東京ドーム約160個分の敷地内に世界の100以上の建物や遺跡が実物の25分の1スケールで展示されています.入場口から反時計回りに「現代日本ゾーン」,「アメリカゾーン」,「エジプトゾーン」,「ヨーロッパゾーン」,「アジアゾーン」,「日本ゾーン」に分かれており順番に見学していきます.現代日本ゾーンでは東京駅や成田空港,東京タワーに東京スカイツリーなどもあります(東京スカイツリーは実物の完成に先駆けて2年前の2010年から展示が始まっており,世の中には「ここのスカイツリーこそがオリジナルで,東京にあるそれは25倍のレプリカである」と主張している人もいます(笑).

P4040610 P4040617 (左写真3)東京駅,(右同4)ガード下も再現されています

P4040641 P4040644 (左写真5)成田空港,(右同6)団体が到着しています

P4040668 (写真7)世界貿易センタービル

 続くアメリカゾーンには自由の女神やホワイトハウス,ニューヨークのダウンタウンに加え,2001年の同時多発テロで破壊された世界貿易センタービルの姿もあります.ワールドスクエアは建物だけではなく,そこで活動している人々の姿も25分の1で表現されているのも魅力なんですが(これは望遠レンズなどで見ないとわからないものも),ホワイトハウスの前に立っている人物をよく見ると,どうやらバイデン大統領夫妻とハリス副大統領のようです.もしかして大統領が変わるごとに人形の交換も行われているようです.

P4040702 P4040701 (左写真8)ホワイトハウス,(右同9)バイデン夫妻とハリスさんですね

P4040678 P4040677 (左写真10)マンハッタンのダウンタウン,(右同11)有名なミュージカルが!

 エジプトゾーンは定番のクフ王のピラミッドやスフィンクスなどの古代遺跡です.こちらも観光客や学者の様子が楽しめましたが,折からの桜吹雪が地面に舞っていて,ちょっと不思議な光景になっていました.

P4040704 P4040719 (左写真12)ピラミッド,(右同13)スフィンクス

P4040726 P4040723 (左写真14)アブ・シンベル大神殿,(右同15)ミイラが登場?

P4040827 (写真16)ノートルダム大聖堂

 ヨーロッパゾーンはさすがに観光名所ばかり,フランスのベルサイユ宮殿やエッフェル塔,凱旋門やシャンボール城を始め,イギリスのウエストミンスター寺院やバッキンガム宮殿,イタリアのピサの斜塔,サン・マルコ寺院,バチカンのサン・ピエトロ寺院等々世界遺産のオンパレードです.ここでも隠しキャラを探す楽しみがありました.

P4040863 P4040862 (左写真17)アルハンブラ宮殿,(右同18)ライオンの噴水も再現されています

P4040773 P4040879 (左写真19)サン・ピエトロ大聖堂,(右同20)英国国会議事堂

P4040875 P4040877 (左写真21)議事堂前ではホームズとワトソンが調査中です.(右同22)群衆の中にルパンが!

 アジアゾーンは近年充実が図られているところで,自分も行ったカンボジアのアンコールワットやミャンマーの古都バガンにあるアーナンダ寺院が印象的です.

P4040909 P4040901 (左写真23)アンコールワット,(右同24)観光客の様子も再現されています

P4040890 P4040896 (左写真25)アーナンダ寺院,(右同26)僧がいます

P4040936 P4040937 (左写真27)万里の長城,(右同28)三蔵法師御一行の姿が

 最後の日本ゾーンは日本の古い建築物で奈良の東大寺,京都の鹿苑寺金閣,慈照寺銀閣等の定番に加え,村祭りや昭和の農村風景,地方都市の駅前などの再現は心が癒されるものでした.

P4041016 P4040987 (左写真29)清水寺,(右同30)薬師寺

P4041022 P4041029 (左写真31)東大寺,(右同32)国宝の金銅八角灯篭も再現されています

P4041096 P4041060 (左写真33)札幌の時計台,(右同34)昭和の駅前

P4041069 P4041068 (左写真35)昭和の農村,(右同36)カールおじさん御一行!

 一通り見終わったあとはちょっと遅いランチとばかりにレストランで湯波と蕎麦のセットをいただき,日曜日の渋滞が始まる前に家路についたのでした(それでも故障車等で渋滞が発生した).

P4041102 (写真37)湯波蕎麦セット

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2021年3月 3日 (水)

幕末の3月3日

 今日は3月3日,いわゆる桃の節句です.女の子の健やかな成長を願うというひな祭りが行われる日です.豪華なひな人形を飾り,散らし寿司を食べ,ハマグリのお吸い物を飲み,雛あられや菱餅などを食べる習慣があります.

 そんな華やかなお祭りのイメージがある3月3日ですが,歴史的にはこの日に結構深刻な事件が起こっていたりします.今年の大河ドラマの主人公が幕末の渋沢栄一(「青天を衝け」)ということで,幕末の桃の節句を考えてみました.

 まず,安政元年(1854年)3月3日 日米和親条約締結です.前年の嘉永六年浦賀に来航し,日本にか開国を迫ったペリーが日本との交渉の末に結んだ条約です.これにより江戸時代の太平の眠りは200年ぶりに破られました.

 続いてはその6年後時代が安政から万延にかわる1860年3月3日,時の彦根藩主で大老の井伊直弼が桜田門外で水戸脱藩浪人らに暗殺されました.安政5年の日米修好通商条約締結に反対する勢力への徹底的な弾圧(安政の大獄)からの反動によるものです.この事件で幕府の権威は大きく傷つきました.

 そして最後が慶応四年(1868年)3月3日に起こった赤報隊一番組長相楽総三処刑です.これは俗に赤報隊ニセ官軍事件とも呼ばれており,当初新政府の支持を受けて「年貢半減」のスローガンを掲げて東山道を進軍していた赤報隊が,後に「政府の名を騙ったニセ官軍である」とされて密かに処刑された事件です.

Abe2 Ii1Saigou1_2  (写真左)ペリー来航時の老中首座阿部正弘,(同中)桜田門外で暗殺された井伊直弼,(同右)赤報隊事件に関与したとされる西郷隆盛

なにやら血なまぐさい出来事が多いのも,この幕末と呼ばれる時代の宿命なのかもしれません.「青天を衝け」ではそろそろ日米和親条約締結の頃です.今後桜田門外の変は間違いなく出てくるでしょうが,赤報隊事件が起こった時渋沢栄一はヨーロッパに滞在していたはずですから,こちらは完全スルーされるんだろうと想像します.

 そんな2021年桃の節句でした.

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2021年1月13日 (水)

今年は何の記念イヤー?

 今年は昨年に比べて寒くて雪の多い年になっているようです.寒いことで町興しをしている北海道陸別町でも1月10日の朝にマイナス33℃が観測されたと報告していました.

 暖冬だった昨年,私も参加した第39回しばれフェスティバルでは最低気温もマイナス15℃程度にとどまってたんですが,もし今年開催できたら例年以上の盛り上がりになったのではと思いました(今年は感染症のために開催中止).

 そんな2021年の1月ですが,例年今年は何の記念イヤー?という企画をやっています.それでは今年も行ってみましょう.

① 原敬暗殺100年

 平民宰相と呼ばれ,大正デモクラシーと呼ばれた時代に総理大臣となったのが原敬です.その彼が東京駅で暗殺されたのが今から100年前1921年11月4日のことでした.

② 大日本沿海輿地全図完成200年

 江戸時代後期に伊能忠敬によって測量されたのが大日本沿海輿地全図です.当時の欧米諸国もその精度に驚いたとされますが,これが完成したのが今から200年前の1821年(文政四年)でした.

③ ピョートル大帝即位300年

 18世紀から19世紀にかけてユーラシア大陸の東西に勢力を伸ばしたロシア帝国,その最初の皇帝(ツァーリ)として1721年に即位したのがピョートル1世です.彼以後約200年ロシアを支配したロマノフ王朝の始まりです.

④ アステカ王国滅亡500年

 16世紀今のメキシコに存在したアステカ王国ですが,スペイン人コルテスの一隊によって1521年首都のテノチティトランが征服され滅ぼされました.

⑤ 承久の乱800年

 12世紀末に成立した鎌倉幕府ですが当初その支配は東国に限定されており,京都以西は未だに朝廷の影響力が強い二頭体制でした.しかし1221年に後鳥羽上皇が起こした承久の乱に勝利したことで幕府の力は完全に朝廷を凌駕し,その支配は全国に及ぶことになりました.

⑥ 王安石生誕1000年

 もっともキリがいいのがこの話題です.北宋時代,社会経済が大きく発展してくると従来の政治体制では対応しきれなくなってきます.これに対応するために皇帝神宗の指示を受けて活躍したのが王安石です.彼が生まれたのが今から1000年前のことでした.

⑦ 張飛没後1800年

 三国志に登場する有名な武将張飛は武勇に優れたものの部下に対する扱いが厳しい,いわゆるパワハラキャラだったとされています.221年蜀軍が夷陵の戦いに臨む直前,恨みを抱いた部下によって殺されたとされています.

⑧ マルクス・アウレリウス・アントニウス生誕1900年

 古代ローマ帝国五賢帝の最後の一人であるマルクス・アウレリウス・アントニウスが今から1900年前に生まれています.ちなみに紙の発明で知られる後漢の蔡倫が亡くなったのもこの年です.

⑨ ロードス島の巨像完成2300年

 古代ギリシャの数学者フィロンが選定した世界の七不思議のひとつ,ロードス島の巨像が完成したのが今から2200年前の紀元前280年とされています.

⑩ 第二次ペルシャ戦争2500年

 ペルシャ戦争は紀元前499年ダリウス1世の時代に始まりました.最初の遠征に敗れたペルシャですがクセルクセス王の時代紀元前480年に二度目の遠征軍が派遣されています.この年に有名なテルモピレーの戦いやサラミスの海戦が起こっています.

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2020年12月14日 (月)

元禄赤穂事件

Chushingura_20201215114601  今日12月14日は江戸時代の1702年(元禄十五年),太平の世を騒がせた大事件「赤穂浪士の討ち入り」が起こった日です(正確には旧暦なので新暦の12月14日とはやや時期がずれる).

 良く知られているようにこの事件には伏線があり,前年元禄十四年3月14日に赤穂藩主浅野長矩が江戸城松之廊下で高家筆頭吉良上野介義央に突然斬りつけるという刃傷事件が発生,当時江戸城では朝廷からの使者を迎える儀式の最中だったこともあり(浅野長矩自身が朝廷からの勅使を饗応する役だった),将軍徳川綱吉は激怒,長矩は即日切腹となりました.一方で吉良は抵抗しなかったことからおとがめなしとされたのです.この不祥事の結果赤穂浅野家は改易となってしまいました.

 件の討ち入りは一般にこの長矩の仇を討ったということで義挙とされています.この話は当時の庶民の間で評判となり,人形浄瑠璃や歌舞伎の演目となって人気を呼びました.仮名手本忠臣蔵はその代表作品です.近代以降のこの話を取り上げた映画やテレビドラマは数多く,NHKの大河ドラマでもたびたび取り上げられています(1964年「赤穂浪士」,1975年「元禄太平記」,1982年「峠の群像」,1999年「元禄繚乱」).

 しかしながら歌舞伎やドラマの内容は史実そのままではありません.現代的な視点で考えればあの日の討ち入りは,深夜武装した集団が民家を襲撃し,そこの主人と使用人を一方的に殺害した恐るべきテロ事件ということになります.主君の仇を討ったという点も,浅野長矩は吉良義央に殺されたわけではないのでそもそも仇ではないという議論になります.この事件に関しては近年かなり研究が進んだこともあって,従来の浅野=善,吉良=悪 という構図では語れないことが知られるようになっています.そのせいか特に21世紀に入ってからは赤穂浪士をテーマにしたドラマ等はかなり減ってきているようです(今の若い人の中には知らない人も).

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2020年11月14日 (土)

足利義詮の墓

 時々出張で静岡県沼津市に行っています.以前は電車利用でしたが,今年の春以降は感染リスクの軽減のため自家用車を利用するようにしています.国道1号線(小田原から箱根峠までは箱根新道)経由で行くんですが,途中三島市内の東海道本線のこ線橋を越えたあたりでカーナビに気になるスポットがありました.

Img_6782  足利義詮の墓です.

 足利義詮は室町幕府を立てた足利尊氏の嫡男で,第2代将軍となった人物です.室町幕府の最盛期を築いた3代将軍足利義満の父でもあります.日本史的には超メジャーな人物とはいえませんが,それでも征夷大将軍であり,そんな人物の墓がどうしてここにあるのか不思議です.興味がありつつも,いつもここを通過するのは夕方か早朝だったため立ち寄る機会がなかったんですが,今日は帰りが土曜日の午前中だったため寄ってみることにしました.

Img_6777 Img_6780  国道1号線からわき道に入り少し行ったところにある宝鏡院にそれはあります.案内板によるとこの宝鏡院を建立したのが足利義詮なのだそうです.彼が亡くなった地は定説では京都だとされていますが,建立のいきさつからここにも墓所があるものと思われました.

Img_6778 Img_6779  墓所には堀越公方足利政知も眠っています.堀越公方というのは,室町幕府の体制で主に関東地方を将軍に変わって治める人物で,本来は鎌倉公方と呼ばれていたものの,関東の政争の中で政知は鎌倉に入ることができなかったため,伊豆の堀越を拠点としたためそう呼ばれたものです.

 久しぶりに歴史関連の散策となりました.

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2020年11月11日 (水)

11月11日

 今日11月11日は数字の「1」が4つ並ぶ日です.その見た目から日本では細長いものに関連する記念日が目白押しで「ポッキーの日」,「麺の日」,「もやしの日」などに指定されています.

1974__2 Publicdomainq0026828lmk Fotolia_122918345_subscription_monthly_m  一方で世界史的には第一次世界大戦の休戦が成立した日として知られています(1918年11月11日).

 日本では自らが大きな傷を負うことになった第二次世界大戦の陰に隠れて印象が薄い戦争ですが,19世紀の帝国主義時代のヨーロッパの複雑な国家関係の破綻によって始まり,やがて第二次世界大戦の原因にもなった重要な戦争がこの第一次世界大戦です.この辺の話をすると非常に長くなるので今日は止めますが,ともかくそんな世界史上重要な戦争が収まったのがこの日なのでした.

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2020年6月21日 (日)

マリアナ沖海戦

 今日は夏至,北半球では1年でもっとも昼の長い1日である.逆に言えば明日以降冬に向かってどんどん日が短くなっていくことになる.

 そんな夏至は昼が長いこともあり,世界史的には大軍を動かす大きな戦いが起こる時期である.振り返れば古代ローマ末期にアジアから西進してきたフン族と西ローマ・ゲルマン連合軍が戦ったカタラウヌムの戦いが451年の6月20日に起こった.また有名なナポレオンのロシア遠征が1812年6月23日,ナポレオンの敗退が確定したワーテルローの戦いが1915年6月18日,第二次世界大戦の独ソ戦の開始であるバルバロッサ作戦が1941年6月22日,同大戦のソ連側の大規模な反撃であるバグラチオン作戦が1944年6月22日に開始されている.日本史方面では明智光秀が織田信長を討った本能寺の変が1582年6月21日(天正10年6月2日)だし,応仁の乱も本格的な戦いが始まったのは1467年(応仁元年)のこの時期である.

 一方この時期に海上で発生した大きな戦いといえば,今から76年前の1944年(昭和19年)の6月19日,西太平洋において日米の機動部隊がぶつかった,いわゆるマリアナ沖海戦(アメリカ側呼称はフィリピン海海戦)がある.海戦に先立つ4日前の6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸したのを受けて,上陸軍の護衛として進出しているであろうアメリカの機動部隊(第58任務部隊)に対して日本の機動部隊(第1機動艦隊)が決戦を挑んだものである.

 実は日米の機動部隊同士が直接ぶつかるのは1942年10月の南太平洋海戦以来1年8か月ぶりのことだった.1942年中は5月の珊瑚海海戦をはじめとして,合計4度にわたって空母同士による海戦が起こるなどしのぎを削った日米両海軍だったが,一連の戦いにおいて双方とも消耗が激しく,1943年1月にガダルカナル島の戦いが終結して以降はその再建に取り組むことになった(もちろん残る少数の空母も各地での作戦には従事はしていた).アメリカ側は1943年後半以降エセックス級空母が続々と就航し戦力の充実が著しかった.一方の日本側は新造された空母は大鳳のみだったが,他艦種を改装した空母を多数取り揃えていた.

 こうして1944年6月19日にマリアナ沖に集結した機動部隊はアメリカ側が空母15隻,艦載機891機に対して日本側は空母9隻,艦載機498機だった.数的に日本はアメリカの半分強だったが,一方でサイパン島やテニアン島といった陸上基地にも航空部隊を有しており,これらと連携することで十分に対抗できると考えられていた.さらにこの戦いで日本側は俗にアウトレンジ作戦と呼ばれる戦術を採用した.これはアメリカ機に比べて航続距離の長い日本機の特徴を生かした戦法で,アメリカ側がこちらを攻撃できない距離から先に攻撃を仕掛けるというものだった.アウトレンジを成功させるためにはともかく,敵を先に発見しなければならない.日本の機動部隊は6月18日から盛んに索敵機を飛ばしてアメリカ艦隊の居場所を探した.結果,6月19日早朝ついにアメリカの機動部隊の発見に成功した.一方のアメリカ側はまだ日本艦隊の居場所は発見できていない.日本側はただちに攻撃隊を発進させ,アメリカ機動部隊の攻撃に向かった.この時司令部では勝利を確信した幕僚が多かったらしい.

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(写真左)海戦時の旗艦空母大鳳.(同右)空母瑞鶴,マリアナ沖海戦を生き延び,4か月後のレイテ沖海戦で沈んだ.この2枚はともに我が押し入れに収納されていた連合艦隊

 しかしながら作戦は日本の思惑通りには進まなかった.この時アメリカ側はレーダーによって,日本の攻撃隊の接近を察知していた.また彼らは未だ日本艦隊を発見できていなかったことから,手持ちの戦闘機をすべて迎撃に当てることができた.この時のアメリカの戦闘機は新鋭機のF6Fヘルキャットであり,総合力で日本の零戦を凌駕していた.彼らは日本の攻撃隊がやってくる方向に,より高い高度で戦闘機を待機させていた.結果待ち伏せされた形となった日本の攻撃隊は大きな被害を受ける.なんとかこの攻撃をしのいだ一部の攻撃隊がアメリカ機動部隊に殺到したが,今度はすさまじい対空砲火に晒され,次々と撃墜されていった.この頃からアメリカの高射砲にはVT信管と呼ばれる新型の信管が使われており,砲弾が飛行機に直接命中しなくても,付近を通過した時点で爆発し被害を与えられるようになっていたのである.

 一方,アメリカ機動部隊は日本艦隊を発見できていなかったが,彼らの潜水艦は日本空母の動向を探っていた.6月19日日本側が攻撃隊を発進させた直後,アメリカの潜水艦が日本艦隊に接近,魚雷攻撃を仕掛けた.この攻撃により空母翔鶴は4本の魚雷を受けて轟沈,同じく空母大鳳が受けた魚雷は1本だけで損傷は軽微だったが,気化したガソリンが爆発するという悲運に見舞われて同じく沈没してしまった.こうして6月19日の戦闘は日本側が先に敵艦隊を発見しアウトレンジ攻撃をかけたものの,迎撃によって航空部隊は大損害を受け,逆に自らの空母は潜水艦によって死角から攻撃され撃沈されるという結果になった.

 翌6月20日も先にアメリカ艦隊を発見した日本の残りの空母部隊が攻撃を仕掛けるも,やはり前日と同様の結果に終わる.そしてこの日の16時近くになってようやくアメリカ側も日本艦隊を発見,反撃を開始する.この攻撃によってさらに空母1隻(飛鷹)とタンカー2隻が撃沈された.一方これが夕方の攻撃になったため,アメリカ側の航空部隊も空母への帰還ができずかなりの損害を出している.

 かくして連合艦隊が乾坤一擲の決戦を企図して臨んだマリアナ沖海戦は日本の大敗に終わる.沈没した空母の数だけでいえばミッドウェー海戦よりも少なかったが(ミッドウェーが4隻,マリアナは3隻),敵の空母を1隻も沈めることができなかったことや,約1年半かけてようやく再建した母艦航空隊を一気に喪失したことは非常に厳しく,これ以降連合艦隊は機動部隊を運用する作戦を行うことが不可能になってしまう.この海戦は日本の作戦通りに始まり,敵の発見も早いなど大きな齟齬はなかった.にもかかわらずこのような敗戦に終わったのは,この時期のアメリカ軍はレーダーを用いた防空システムやVT信管などの新型機器・システムが運用されており,旧態依然としていた連合艦隊とはハード・ソフト両面で大きな差がついてしまっていたからである.仮にマリアナ沖海戦が1942年秋に起こっていたら日本側が勝利する可能性もあったろうが,1年8か月という時間はを隔てるて、連合艦隊にとってアメリカの機動部隊は全く別物になっていたのである.

 私はマリアナ沖海戦は「高校受験に失敗した生徒が2年間宅浪して必死に勉強し,中学の教科書を完璧にマスターして試験に臨んだら,まわりはすでに大学受験になっていた」という比喩がふさわしいのではないかと思っている.

 そんなことを想像した2020年の夏至の日だった.

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2020年6月 4日 (木)

満州某重大事件

 今日は6月4日,今から31年前に北京で天安門事件が起こった日として知られます.当時民主化を求めて集まっていたデモ隊に中国人民解放軍が武力介入し,多数の犠牲者を出した事件です.世界中に衝撃が走り,中国は国際社会から強い非難を浴びました.

 この事件が起こった日,私はたまたま仙台の友人の家に滞在していたんですが,この時ニュースに度々登場したのが北京飯店です.市内にある高級ホテルで,当時日本からの特派員や駐在員の多くがここに滞在していたからです.ただ当時は(今もかもしれませんが)飯店という用語が中華圏でホテルの意味であることが知られていなかったこともあって,テレビを見ていた友人が「北京飯店って中華料理屋じゃないのか?」と言っていたのが強烈に印象に残っています(笑).

 そんな6月4日ですが,今から98年前の1928年(昭和3年)のこの日に同じ中国大陸で地味に大きな事件が起こっています.それが表題の満州某重大事件です.これは当時の日本政府内で使用されていた用語で,世間的には張作霖爆殺事件の名で知られています.

Zhang_zuolin (写真)軍閥張作霖

 1911年の辛亥革命後,清は国民党政府による中華民国として生まれ変わったとされていますが,実際には国民党政府の力が全土に及んでいたわけではなく,地方には軍閥が割拠するという混乱の中にありました(三国志や唐末期みたいな感じ).こうした地方軍閥の中でも有力だったのが満州の奉天(現瀋陽)を拠点にしていた張作霖で,1920年代にはしばしば軍を南下させ北京や揚子江付近まで進出していました.この張作霖を支援していたのが日本の関東軍です.1904~1905年の日露戦争に勝利し満州の権益を手に入れた日本でしたが,続く第1次世界大戦後の民族自決の国際世論の中では,なかなか表立ってそれを強化することができませんでした(特に当時中国大陸に足がかりがなかったアメリカの警戒が強かった).そのため日本としては満州の有力軍閥である張作霖を支援して,彼を利用することにより間接的に満州の利権を独占しようと考えていたのです.

 しかし張作霖は次第に日本の思惑通りに動かなくなり,逆に当時日本との対立が芽生え始めていたアメリカやイギリスに接近し始め,逆に日本の権益を脅かすようになったため,日本の関係者は彼を見限ります.そして1928年に入り,ほかの軍閥を支配下におさめて力を付けた国民党の蒋介石による北伐が本格化すると,国民党軍との戦いを避けて北京から満州に帰還することになりました.この帰還途中だった張作霖の乗った列車が奉天郊外で爆破され,暗殺されたのが事件の概要です.

Zhang_zuolin_20200605100001 (写真)事件現場の様子

 当初は敵対していた国民党軍による犯行とされていましたが,その後関東軍の高級参謀河本大作大佐による謀略であったことが判明しており,後に頻発する関東軍独走の端緒的な事件となりました.この事件によって当時の田中義一内閣が倒れるなど日本の政治にも大きな影響を与えました.しかしながら首謀者とされる河本大佐は軍法会議にかけられることもなく予備役となって軍を離れたのみで,その後は満鉄(南満州鉄道)関連の役員として大陸で活動し続けたと言われています.

 そんな事件もあった6月4日でした.

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