2018年12月 5日 (水)

モーツァルト週間

 12月に入ったとはいうものの,まだまだ気温が高い日が続いています(本当に冬なのか? 笑).

Is  さて12月5日は著明な作曲家W. A. モーツァルトの命日です.1756年オーストリアのザルツブルク(当時はザルツブルク大司教領)で生を受けたモーツァルトは,幼い頃から音楽家で教育者でもあった父親から手ほどきを受けると,めきめきとその才能を発揮し,神童ともてはやされました.当初は父とともにザルツブルクの宮廷音楽家として活動していたものの,大司教の束縛から思うような作曲活動ができないことへの不満等が高まり,1781年以降活動の拠点をウィーンに移し,以後フリーの音楽家として活動していくことになります.

 そんなモーツァルトですが,1791年秋ごろから体調を崩し,この年の12月5日にわずか35歳で亡くなりました.死因に関しては諸説ありますが,当時の記録からは溶連菌感染に起因する多臓器不全(特に心不全,腎不全)だったのではないかと思われます.

 我が家では特にウチのKが大のモーツァルト好きということもあり,オペラを中心にモーツァルト関連のコンサートに出かける機会もあります.2006年の生誕250年の年には夏季休暇の旅行でウィーンやザルツブルクに行きました.ただその後旅行の主眼が秘境系に移っていったこともあり,これ以降クラシック音楽関係の旅行は2013年の合唱団の演奏旅行の他にはありません.

 が,我が家では最近急に音楽関係の旅行に行ってみようじゃないか,という気分が盛り上がっています.すなわち毎年1月下旬にザルツブルクで開催れているモーツァルト週間に行ってみようじゃないかというわけです.これは毎年モーツァルトの誕生日である1月27日を中心として約10日間ザルツブルクで開催されている音楽イベントです.ザルツブルクのイベントといえば夏のザルツブルク音楽祭が有名ですが,あちらは夏の観光シーズンと重なることもあり,それこそチケット代含めた旅行代金は凄いことになります.一方でこちらのモーツァルト週間は真冬で通常の観光客が少ない時期ということもあるのか,価格もだいぶお財布に優しい設定になっています(出演する団体はウィーンフィルをはじめ,夏に負けないんですが).すなわちどうせ行くなら冬の方がお得だぞということで,今回なんとか休暇をひねり出して行ってこようと決意したのでした.とはいえ全日程参加するほどは休めないので,イベントの後半に絞った企画で参加してきます.案内によると主な演目として,交響曲20番,25番,ピアノ協奏曲19番,20番をはじめ,ミサ曲ハ短調やレクイエム,エジプト王タモスなどがあるようです.

 ほぼコンサート漬けの旅行になる予定なんですが,非常に楽しみなのでした.

 動画はモーツァルトが生前完成させ自ら指揮をした最後の作品といわれる,フリーメイソンのための小カンタータ「われらが喜びを高らかに告げよ」 K.623 です.

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2018年3月23日 (金)

天正遣欧使節団とグレゴリウス13世

 今日3月23日は世界気象デーなんだそうですが,一方で安土桃山時代の天正年間に,当時日本に滞在していたイエズス会士ヴァリニャーノの発案で,九州のキリシタン大名(大友宗麟,大村純忠,有馬晴信)の名代としてヨーロッパに派遣された少年たち,いわゆる天正遣欧使節団が時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した日なのだそうです(1585年3月23日).

Japanesedelegatesandpopegregory13  グレゴリウス13世といえば,今世界の標準暦として使われているグレゴリオ暦の制定者として知られています.キリスト教で最も重要な行事が復活祭ですが,この復活祭の日にちを決める春分の日が当時のユリウス暦の日付と現実の春分の現象が乖離してきていたのが制定の動機です.このグレゴリオ暦はユリウス暦1582年10月4日の翌日を10月15日とすることで開始されました.件の遣欧使節団がヨーロッパに到着したのはまさにこの改暦のちょっと後だったことになります.

P8310606  そんな天正遣欧使節団の存在を自分が初めて知ったのは歴史の授業ではなく,NHKの人形劇でした.それは昭和53年4月から翌年3月まで放送されていた人形劇「紅孔雀」,舞台は江戸時代初期の紀伊半島ですが,主人公那智の小四郎の父親が若い頃に遣欧使節の世話役としてローマに行ったという設定になっていたからです(使節の4人の少年ではない).

 使節団には4少年のほかに教育係や技術留学生的な役割の日本人が同行していたとされているので,そうした人物の一人だったという設定だと思われます(こうしたメイン人物が歴史的派遣団の一員だったという展開は,大河ドラマ「獅子の時代」に似ている).

 この紅孔雀はまだビデオテープが高価だった時代の作品であり,NHKにも映像が残っていない幻の作品だったのですが,何年か前に民間でビデオが発見されたというニュースがありました.後作品のプリンプリン物語と一緒ですが,プリンプリンがBSとはいえ再放送されたのに対して,紅孔雀の方はそんな気配はありません.個人的に好きな作品だったので,一部でいいからぜひ放送してほしい(あるいは販売でもいい)と思っています.

 天正遣欧使節から紅孔雀まで,話題が膨らんだ3月23日でした.

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2018年1月 7日 (日)

ユリウス暦のクリスマス

P9171231  今日1月7日はユリウス暦のクリスマスです.

 「クリスマスは12月25日じゃないの?」という声が聞こえてきそうなんですが,まさにその通りで,12月25日がクリスマスなのは間違いないんですが,つい2週間ほど前に祝われたクリスマスはグレゴリオ暦でのクリスマス,そう暦が違えばクリスマスも違うというわけです.

 イエスやその弟子たちが活動していた1世紀半ば,当時使われていた暦はその100年前に制定されたユリウス暦でした.これは基本的に1年を365日とし,4年に1回うるう年を設けてその年のみ366日とするものです.これによる1年は365.25日であり,実際の地球の公転周期(太陽の周りを1周するのに要する時間)365.2422日との誤差は0.0078日(≒11.23分)/年となります.1年でわずか11分ですから当時としては問題にならない誤差だったわけですが,塵も積もればなんとやらで,16世紀のルネッサンスや大航海時代になるとその誤差は10日ほどになってさすがに無視できなくなってきました.そこで当時のローマ教皇グレゴリウス13世の命によって新しい暦が制定されます.これがグレゴリオ暦で,4年に1度のうるう年という基本はユリウス暦と一緒ですが,例外規定として「100で割り切れる年は基本うるう年なし,ただし400で割り切れる年はうるう年」が追加されました.この暦による1年は365.2425日となり公転周期との誤差は1年で25秒ほどになりほとんど無視できるレベルになったのです(近年ではさらに時々うるう秒を導入して正確を図っている).

 ただここで問題になるのがグレゴリオ暦を導入したのがローマ教皇だったということです.カトリック世界は何の問題もないのですが,当時ローマ教会と対立していたプロテスタント諸教会や東方正教会は宗教上の対立相手であるローマ教皇の定めた暦を認めようとしなかったのです.それでも西ヨーロッパのプロテスタント諸教会は18世紀にはグレゴリオ暦に移行したのですが,東方正教会の多くは近代になっても少なくとも教会の行事に関してはユリウス暦を使い続けているのです.特に東方正教を信仰する大国であるロシアは20世紀のロシア革命に至るまで実生活でもユリウス暦を使い続けていました.日本はすでに明治6年からグレゴリオ暦の採用に踏み切っていたため,1904~1905年の日露戦争においては同じ戦いでありながら日露双方で日付が異なるという奇妙な現象も起こっています(有名な日本海海戦も日本では5月27日ですがロシアでは5月14日でした).

26173474_1584351891662170_339895385  そんなユリウス暦のクリスマス,自分は朝から当直なんですが,昨夜のクリスマスイブ(ユリウス暦の)は都内の合唱団の新年会だったので,クリスマスを兼ねて飲み歌ってきました(笑).

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2018年1月 5日 (金)

今年は何の記念イヤー?

 さて,2018年も5日が過ぎました.今日はこれまた新年恒例となっている,「今年は何の記念イヤー?」の話題です.

① ハプスブルク帝国崩壊100年

 中世末期から近代にかけて中央ヨーロッパに覇を唱えてきたのが歴代神聖ローマ帝国皇帝位を独占したハプスブルク家です.16世紀にはスペインもその傘下に収め,文字通りヨーロッパの主となっていました.しかし近代以降帝国が空中分解し,さらには第一次世界大戦の敗戦により歴史あるハプスブルク帝国は終焉を迎えました.それが今から100年前の1918年のことです.

② きよしこの夜初演200年

 クリスマスの歌としておそらくは誰でもが知っているであろう曲として「きよしこの夜」があります.実はこの曲が作られたのが今から200年前の1818年の事です.作詞はヨゼフ・モール,作曲はフランツ・グルーバーでオリジナルはドイツ語で”Stille Nacht”です.

③ 三十年戦争勃発400年

 ルネッサンス以降イギリス,フランス,オランダといった西ヨーロッパ諸国は封建社会から国王を中心とした中央集権国家へ脱皮し,急速に近代化を進めていきました.一方でドイツを中心とした中央ヨーロッパは逆に国家が分裂し長い停滞期に入ってしまいます.そのきっかけとなったのが今から400年前に勃発した三十年戦争です.当初はドイツ内部におけるカトリックとプロテスタントの宗教戦争として始まったものの,周辺諸国の思惑が絡んで政治的な国際紛争となりました.結局1648年のヴェストファーレン条約によって終結しますが,この戦争でドイツの分裂は決定的となってしまいます.

④ 後醍醐天皇即位700年

 鎌倉幕府滅亡後の建武の新政で知られる後醍醐天皇が即位したのが,今から700年前の1318年のことです.新政自体は1333年の幕府滅亡後に実現しましたが,性急な改革や恩賞を巡る武士たちの不満が大きく,わずか2年で崩壊してしまいました.

⑤ 平清盛生誕900年

 こちらも日本史絡みの話題です.平安末期に一代で権力を握った平清盛が生まれてから900年になります.

⑥ バシレイオス2世によるバルカン半島統一1000年

 当ブログ的には一番の話題です.6世紀のユスティニアヌスの時代に一度領土的な最盛期を迎えたビザンチン帝国は,彼の死後急速に衰退し8世紀には大幅に領土を失って一時は存亡の危機にいたります.しかしその後徐々に勢力を盛り返し,11世紀初めのバシレイオス2世の時代に最盛期を迎えます.その仕上げとなったブルガリア帝国の打倒が完成したのが今からちょうど1000年前の1018年のことです.

⑦ コンスタンティノープル攻囲1300年

 ⑥の記事と関連がありますが,8世紀の初め当時地中海世界を席巻していたウマイヤ朝アラブ帝国によるコンスタンティノープル包囲が行われたのが今から1300年前のことです.ビザンチン帝国最大の危機でしたが,皇帝レオン3世の指導と新兵器”ギリシャの火”の活躍により撃退に成功,この後帝国は復活への道を歩むことになります.

⑧ 唐建国1400年

 中国史では中世期の大国唐が成立したのが今から1400年前の618年です.この年隋の煬帝が殺されて隋が滅亡,同時に李淵が即位して唐が建国されたのです.

⑨ 西ゴート王国建国1600年

 一般にヨーロッパの中世はゲルマン人の大移動とその後の西ローマ帝国の滅亡から始まるとされています.当時西ローマ帝国領だった地域には多数のゲルマン人国家が作られましたが,そのうちイベリア半島に418年に建国されたのがこの西ゴート王国です.当初はキリスト教アリウス派を信仰していたことからローマ教会と対立していましたがのちにカトリックに改宗しています.そして8世紀初頭のウマイヤ朝の地中海世界制覇の渦にのみこまれて滅亡したのは,奇しくも⑦のコンスタンティノープル攻囲の年です.

⑩ 赤眉の乱2000年

 今から2000年前という非常にキリのいい年に起こった事件がこちらです.西暦8年に前漢から禅譲形式で,王莽による新国家「新」が成立しました.しかしこの国はその名に反して(?)復古主義的な政策(周代の政治を理想とした)をとったため,現実政治との乖離がはなはだしく,たちまち民心の離反を招きます.こうした中で起こったのが赤眉の乱で,その混乱の中で王莽は殺されて新はあっという間に滅亡したのでした.

⑪ ハンニバル没後2200年

 第二次ポエニ戦争の主人公ともいうべき人物がカルタゴの将軍ハンニバルです.有名なアルプス越えによってイタリア半島に侵入し,当時の共和制ローマに打撃を与えましたが,最終的に敗北,戦後はカルタゴの再建に活躍したものの政争から国を追われ,亡命先のセレウコス朝シリアで客死したのです.これが今から2200年前の紀元前183年で,奇しくもポエニ戦争で彼の好敵手だったスキピオ・アフリカヌスも同年に亡くなっています.

⑫ 完璧2300年

 完璧という言葉の語源となったのは,戦国時代に秦の昭襄王が趙王の持つ宝物「和氏の璧」を領土を交換しようと持ちかけた際に,その話を怪しんだ趙の使者として秦に赴いた藺相如が自国の面子を失わずに璧も無事に持ち帰った故事によります.その事件が起こったのが今から2300年前の紀元前283年といわれています.

⑬ バビロン第7王朝成立3000年

 古代においてバビロンを都とした王朝はたくさんあり,特に紀元前18世紀ごろのハムラビ王で知られるバビロン第1王朝が有名です.そんなバビロンの諸王朝の中で,国王の名前が1人しか知られていないのがバビロン第7王朝で,その唯一の王マール・ビティ・アプラ・ウスルが即位したのが今から3000年前の紀元前983年のことだそうです(この辺まで来ると「お前見たのか」というレベルではあります 笑).

 というわけで今年もいろんな記念イヤーのある年なのでした.

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2017年11月18日 (土)

歴史教科書の話題

 3日前のニュースで話題になっていたお話です.

 坂本龍馬が歴史教科書から消えるぜよ!?高知に激震  

 これは高校や大学の教員,民間の有識者などから構成される高大連携歴史教育研究会が,現在の歴史教育(特に高校)は暗記に偏重しており,このことが生徒の学ぶ意欲を失わせる一因になっているとして,現在の日本史および世界史に使われている用語を減らすべきであると提言したことによるものです.この研究会の提言では日本史,世界史それぞれ現在約3500前後ある用語を2000弱に厳選しています(一方的に減らすだけではなく,新たに必要と思われるものは追加する).厳選の基準としては,歴史の大きな転換点や時代の特徴などを説明するのに必要な用語を選ぶ一方で,細かすぎたり羅列的な固有名詞などは削っていくとしています(その提言のリンク).

 この提言は具体的に○○を削るという表現はされておらず,各人が興味を持っている,あるいは知っていてこれまで教科書に載っていた用語がこの提言のリストに入っていなければ削られたんだなとわかるものです.記事にある幕末の坂本龍馬,吉田松陰や戦国時代の上杉謙信もリストには入っていません.幕末期の人物でいえば残っているのは井伊直弼,徳川慶喜,勝海舟ら数名のみです.また戦国大名に関しては基本的に毛利氏,武田氏,伊達氏といった感じに姓のみになっており,個人としての武田信玄や伊達政宗などは削られています.他方世界史に関して言えば,古代オリエントで人名として出てくるのはモーゼ,ダレイオス1世(アケメネス朝ペルシャの王),アレキサンダー程度で,エジプトのトトメス3世やアッカドのサルゴン1世,新バビロニアのネブカドネザルなどはすべてカット,聖書世界でも異邦人への伝道で知られるパウロは残った一方,十二使徒筆頭のペテロは削除されています.中世ヨーロッパの大事件であるカノッサの屈辱の当事者であったハインリヒ4世とグレゴリウス7世に至っては喧嘩両成敗なのか(笑)両者とも削られていました.また古代中国史では思想家以外では秦の始皇帝以前の人物はまったく触れられていませんでした.

 歴史好きな自分にとってはこの提言のリストを眺めて,あっ!あの用語が削除されていると考えるのも楽しいのですが,最初に出した記事に関して言えば,完全にメディアのミスリードだと思います.というのは,この高大連携歴史教育研究会は文科省の諮問機関などではなく,あくまでも民間の個人参加の研究会であって,この提言に従って文科省が次期教科書検定を行うわけではないからです.言ってみれば,各人がブログやSNSで勝手に言ってることと大差はなく,少なくともこの提言によって直ちに坂本龍馬が教科書から消えることにはならないからです(完全に話題先行の記事です).

 自分としては歴史を学ぶことは決して暗記ではなく,世の中がどういう流れでどう変化していったか,この重大な事件はどういう流れから起こったかという考察が重要という当研究会の趣旨は理解できるのですが,一方で歴史は魅力的な個々の人間の集合によって流れていくという見方も好きなので,こうした細かい用語が削除されるのも寂しいなと感じました(子供時代は古代インドマウルヤ朝の王チャンドラグプタ,首都のパータリプトラとか,金の建国者・完顔阿骨打(わんやんあくだ)いった用語を覚えるのが好きだったので 笑).

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2017年11月14日 (火)

ユスティニアヌスと趙匡胤

Meister_von_san_vitale_in_ravenna  今日は11月14日,世界史的には6世紀のビザンチン皇帝ユスティニアヌスが亡くなった日である(565年11月14日).

 1000年以上の歴史を持つビザンチン帝国だがその国情はまさに波乱万丈であった.この国の歴史上,国が隆盛を誇ったピークは2度あり,その最初のピークが6世紀,この時代に活躍した皇帝がユスティニアヌスである(もう1回のピークは10世紀末から11世紀初頭のマケドニア朝の時代).

 ユスティニアヌスの業績としてまず挙げられるのは西方の領土を大幅に回復したことである.4世紀末に最終的に東西に分裂したローマ帝国だが,西半分は5世紀後半に滅び,跡地にはゲルマン人諸部族が割拠する状況になっていた.ユスティニアヌスは533年に将軍ぺリサリウスを北アフリカに派遣,西方領土回復の戦争を開始した.帝国軍は苦戦をしながらもイタリア半島や北アフリカの地中海岸一帯,さらにはイベリア半島の一部も占領し,大幅に領土を回復することに成功したのである(この時がビザンチン帝国の領土的な最盛期).

Istanbul1_233  さらにユスティニアヌスの功績はこれだけではない.文化的には今も残るイスタンブールの聖ソフィア大聖堂を建てたのも彼であるし,従来の複雑なローマ法を整理したローマ法大全を完成させたのも彼である(ローマ法大全は後のヨーロッパ諸国の法典の基礎となり,その流れは現代日本の法体系にも影響を及ぼしている.そんなユスティニアヌスの命日が今日11月14日なのだった.

 で,調べていたら同じ11月14日が没日である皇帝がいた.それが宋の趙匡胤である.中国の歴代王朝,とりわけ統一王朝の中で,宋という国は地味な印象がある.それは北宋南宋併せて300年余りの間,常に遼・西夏・金・モンゴルと強力な外敵に圧迫され続けていたという歴史があるからだろう.ただ唐末から五代十国の時代を経て,従来の支配者層だった貴族階級が没落し,新しい新興地主層が登場した.

Que10106633850  さらに宋代には,これまでの王朝が有力な軍人によってしばしば政治的な干渉を受け国政が混乱しあるいは帝位を簒奪されてきたという反省を生かして,軍人の権限を縮小するとともに,科挙によって登用した官僚のみを重要な役職に就ける政策を取った(文治主義).さらにはこの科挙の最終試験を皇帝自らが行うことで,皇帝と高級官僚の結びつきを強くし,より皇帝に権力が集中する体制を作ったのである.こうした大きな政治改革を行ったのが北宋初代皇帝の趙匡胤なのだった.

 本日11月14日はそのような日なのだった.

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2017年10月31日 (火)

宗教改革500周年

 今日は10月31日,近年日本ではハロウィーンのイメージが定着しているが,世界史的にはマルティン・ルターの宗教改革記念日として知られている.

 帝政ローマ初期に誕生したキリスト教は,時の皇帝によるたびたびの迫害に会いながらも徐々に地中海世界に広まり,3世紀には社会的に無視できない勢力となっていった.そして4世紀前半のローマ皇帝コンスタンティヌス大帝による公認を経て,5世紀のテオドシウス帝の時代に至り帝国の国教とされるまでになった.

 中世に入ると特に西ヨーロッパで世俗権力が弱体化し,小国分立の様相を呈してきたこともあって,超国家的な組織である教会の権威・権力は大いに高まった.この間イスラム勢力の勃興や聖像礼拝を巡る問題もあって,西のローマ教会と東のコンスタンティノポリス教会の対立が深刻化し,11世紀に決定的な分裂にいたる.以後西ヨーロッパはローマカトリック教会の独壇場となり,その権力は11世紀末から13世紀の十字軍時代に絶頂を迎えた.

 十字軍の失敗後には,さすがにその権勢にも陰りが見え始めたが,世俗領主の側面も持つ高位聖職者の実力はまだまだ強いものがあった.一方でこうした聖職者の堕落も著しく,中世末期から近世にかけてはしばしば教会改革の動きも見られた(この時代の教会の歴史は高位聖職者が堕落してくると,修道院出身の気合の入った聖職者が登場して引き締めに走るといったパターンが多い).一方で学者など外部からの教会批判に対しては厳しい押さえつけが行われた(15世紀ボヘミアのフスの処刑など).

 ルネサンス期になるとフランスやイギリス,スペインなどでは国王による中央集権が進んだ結果,これらの地域からの教会収入は大きく減ってしまった.このためローマ教会は,中小諸侯が乱立し,教会領も多い神聖ローマ帝国(ほぼ現在のドイツ語圏)に目をつけ,この地を主な収入源とするようになった.こうした中16世紀初めのローマ教皇レオ10世はサン=ピエトロ寺院修復などを目的として,ドイツ国内で大量の免罪符の販売を開始した.

Lucas_cranach_i_workshop__martin_lu  これに異議を唱えたのがヴィッテンベルク大学で教鞭をとり,自らも下位聖職者だったマルティン・ルターである.彼は免罪符販売を批判し,当地の教会にいわゆる「95か条の論題」を打ち付けた.時に1517年10月31日,これが宗教改革の始まりとされている.このルターの宗教改革以後も多くの動きがあり,その後西ヨーロッパのキリスト教世界はローマカトリック教会とプロテスタント諸教会に分かれていくことになる.

 今日はそんな宗教改革500周年というものすごい節目の年である.ただルター派の多いドイツではそれなりに盛り上がっていそうだが,キリスト教世界の中では多数派であろうカトリック教徒や正教徒にとっては,宗教的な意味はない普通の日なんだろうと想像した.

 ちなみにルター派の教会である聖トーマス教会のカントールだったJ. S. バッハはこの宗教改革記念日のためのカンタータも作曲しており,カンタータ80番「神はわが堅き砦」はルターが作曲したコラール旋律を使用した作品として名高い.

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2017年10月29日 (日)

10月29日の出来事

 今日は10月29日,先週に引き続き(?)日本列島には台風が近づいていて,各地で強い雨が降っているようです.こんな日は行楽に出かけようという気分にもならないので,逆に絶好の当直日和と言えます(笑).そんな雨降りの日曜日は隣県の病院に出張当直に来ています.

 こうした応援当直は朝から翌朝までの丸一日です.まあ救急外来がない病院なので忙しくはありませんが,一日院内に監禁(笑)されるので,飲み物やおやつなどは事前に用意しなければなりません(小さな病院なので売店はない).というわけで途中セブンイレブンに寄ったんですが,レジで会計をしたらくじを引けといわれました.いわれるままに箱に手を入れ,適当にくじらしきカードをひいて店員に見せたところ,何やら当たったようです (^^)v

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 当たったのはこちら,エッセンシャルシャンプーです(笑).能書きによると,ハネ寝ぐせを抑えるシャンプーだそうです.自分にピッタリじゃないかと感動しました(このシャンプーの定価がわからないんですが,結構上の方の当たりじゃないかと思った).

 そんな10月29日は歴史的に何があったんだろうと調べてみたんですが,モーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」がプラハのスタヴォフスケー劇場で初演されたのが今から230年前のこの日だそうです.

 モーツァルトはそれこそ交響曲から協奏曲,歌曲から宗教曲等すべてのジャンルの作品を残していますが,そんな彼が最も力を入れていたのがオペラだと言われています.特にウィーンに移ってから作られた諸作品は人気が高く,今での世界中のオペラハウスで定番のレパートリーとなっています.

 1786年に初演されたフィガロの結婚は,ウィーンではあまりヒットしませんでしたが,当時ハプスブルク帝国の一部だったプラハでは大ヒットとなり,モーツァルトもこの街に呼ばれて大歓迎を受けました.そして,新たに新作オペラをという依頼を受けて作曲されたのがこのドン・ジョバンニです.プラハでの初演は成功を収めたものの,その後各地での評判はイマひとつだったようです.ただその後時代が移るにつれて作品の評価も上がり,現在ではフィガロやコジ・ファン・トゥッテ,魔笛と並ぶ人気作品となっています.

 ついでに,その他の10月29日としては第一次世界大戦によるオスマン帝国の崩壊による混乱のなか,アンカラに成立したケマル・アタチュルクに指導された政権がトルコ共和国の建国を宣言した日ともなっています.

 そんな歴史にも思いを馳せている2017年10月29日でした.

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2017年8月16日 (水)

インパール作戦

 昨日はいわゆる終戦の日,72年前に日本がポツダム宣言を受諾した日であった(ただし国際法的には日本政府の代表が降伏文書に調印した9月2日が本当の終戦の日である).

 毎年この季節になるとテレビなどでも戦争関係の話題が出てくる.で,私が毎年注目しているのがこの日のNHKの特番,なぜならおそらく彼らが最も力を入れたいテーマがその日に来るだろうからだ.そんなNHKの今年の話題はインパール作戦だった.

 インパール作戦は戦史に興味のある方ならば知っている人も多いであろう有名な作戦である.1944年(昭和19年)3月に当時のビルマ(現ミャンマー)に展開していた日本陸軍の第15軍の3個師団が,そのころ連合国が中華民国の蒋介石政府を支援するために使用したルート,いわゆる援蒋ルートを遮断するために,ビルマとインドの国境を突破してインド側にあるイギリスの拠点インパールを攻略しようとした作戦である.作戦の概要はまず第31師団(烈兵団)が国境を越えてインパール北部にあるコヒマを占領し,インパールを孤立させる.それと前後して第33師団(弓兵団)が南から,第15師団(祭兵団)が東からインパールに迫り攻略するというものだ.

Img154 (図 高木俊朗著「インパール」より引用)

 概要だけ聞くと,なるほどと思えるのだが,問題はその実態である.まずミャンマーとインドの国境には乾季でも川幅300メートルものチンドウィン川がある.もちろん橋なんかない.当時すでに制空権は連合軍側に握られていたため,渡河は夜間に限られた.そしてそこを越えると標高2000メートル級のアラカン山系がそびえたつ.南方から向かう弓兵団方面にはまだ道があったが(なのでここに戦車や重砲も配属された),祭兵団,烈兵団正面には道らしい道はなく,兵士は60キロもの装備品を担いでの登山同様の行軍を強いられた.そんな行軍環境であるからこの2個師団が持っていける武器も各自の小銃や手榴弾に機関銃,擲弾筒程度で,大砲については比較的小型で分解可能な歩兵砲が少数あるだけだった.もちろんそんな道路事情であるから,食料や弾薬等の補給は絶望的である.

 このように作戦は補給のめどが全く立たず,軽装備の部隊が重装備で待ち構える敵陣地を攻撃する形が予想されたため,軍内部でも反対意見が多かった.しかし作戦を実施する当事者である第15軍司令官の牟田口中将が実施を強く主張,上級部隊であるビルマ方面軍司令官や南方総軍総司令官,さらには大本営もこれを支持し,反対する参謀(第15軍参謀長の小畑少将や南方総軍総参謀副長の稲田少将ら)を左遷したため,結局作戦は決行されることになった.この時作戦認可を渋る大本営の真田穣一郎作戦部長に対して杉山参謀総長が「寺内さん(南方総軍総司令官)たっての頼みだからやらせてやってくれ」と言ったとされ,この意思決定プロセスが情緒的であると批判されている.確かにその通りなのだが,実際には当時日本政府が支援していた自由インド仮政府主席チャンドラ・ボースの影響などもあり事情は簡単ではない.

 3月上旬に始まった作戦はイギリス軍が国境付近での衝突を避けたこともあり,緒戦は見かけ上日本軍が進撃する形になった.特に烈兵団方面では,イギリス側がこんな道もない山を越えて師団規模の大軍がやって来ることを想定していなかったこともあり,同兵団は戦略目標であるコヒマの確保に成功する.コヒマを抑えたことで北からインパールに向かう道路は遮断され,予定通りインパールは孤立する形になった.南からは弓兵団,東からは祭兵団が迫っている.見かけ上インパールは包囲された.ここまでは日本軍の作戦通りである.

 通常なら包囲された軍は士気が下がる.援軍が期待できず殲滅されてしまう恐れがあるからだ.しかしインパールのイギリス軍はそうはならなかった.彼らは飛行機を使って空から補給を続けた.一方で包囲しているはずの日本軍は補給がなく戦力は漸減する一方だった.前線の部隊からは補給を求める電文がしきりに飛んだが,後方の軍司令部は何の手も打たなかった(打たなかったというか打てなかったのが正解だが).皮肉なことにイギリス軍の空中補給物資が風向きで日本軍陣地に流されてくることがあり,こうした物資を日本兵はチャーチル給与と呼んで歓迎した.日が経つにつれて包囲されたイギリス軍の戦力が充実し,逆に包囲する日本軍の戦力が枯渇していった.軍司令部からはただ攻撃命令だけが届いたが,そんな戦力差であるから攻撃が成功することはなく,いたずらに犠牲が増えるばかりであった.

 実は日本軍はこのインパール作戦のちょっと前に同様のパターンで痛い目にあっている.それが同年2月にビルマ南西部で起こった第二次アキャブ会戦である.第二次とあるのはそのさらに1年前(1943年)に第一次アキャブ会戦があったからだ.第一次アキャプ戦はビルマ方面におけるイギリス軍最初の反攻作戦だったが,日本軍がイギリス軍を包囲殲滅し返り討ちにしている.その1年後にほぼ同じ場所で起こったのが第二次アキャブ戦である.この時も前回同様日本軍はイギリス軍の主力を包囲することに成功し勝利は確実と思われたが,結果は第一次と同じようにはならなかった.包囲されたイギリス軍は空から物資や兵員を補給して抵抗したからだ.戦況は包囲したはずの日本軍がジリ貧になり,退却を余儀なくされることになってしまったのである.インパール作戦の展開はこの第二次アキャブ戦をより大規模にしたようなものであった.

 インパールを目前にして諸兵団が苦戦しているうちに雨季がやって来た.当地の雨季はすさまじい.日本の夕立がひたすら続くようなイメージである.軽装備の日本軍はたちまち身動きが取れなくなった.さらにはマラリアやアメーバ赤痢といった感染症も兵士たちを苦しめる.5月末に至りもはや勝機がないのは誰の目にも明らかとなった.インパールの北部を抑えていた烈兵団の佐藤幸徳中将は味方の惨状と状況を理解せず無茶な命令を繰り返す軍に対し,師団の独断退却を決行する.師団長という親補職(天皇直々に任命される役職,文官でいえば大臣や帝国大学総長並み)にあるものが公然と軍命に背くのは過去に例のない異常事態である.烈兵団の独断退却により,残された祭・弓両兵団の崩壊は決定的となった.そんな中,6月5日に第15軍司令官牟田口中将とビルマ方面軍司令官河辺中将の会談が行われたが,両者とも作戦の中止を言い出した方が責任を取らされると思ったのか,作戦の可否が議題にあがることはなかった.

 結局インパール作戦は7月に入りビルマ方面軍から上級司令部への具申によってようやく中止が決まった.以後前線に展開した各部隊の撤退が始まったが,それは進撃時の何倍もの苦難を伴うものだった.各部隊はイギリス軍の追撃を受けながらビルマを目指して退却したが,数か月の過酷な戦闘で衰弱しきった兵士には耐えられるものではなく,行き倒れるものが続出した.この日本軍の退却路には倒れた日本兵の遺体が並び,白骨街道などと呼ばれた.結局全軍の撤退が完了したのは同年暮れのことであった.

 戦後インパール作戦は「史上最悪の作戦」と称されるほど悪い意味で有名な戦いとなった.この作戦には軍人や兵士だけではなく,従軍記者も多数参加していたこともあり,戦後たくさんの戦記や研究書が発表されることになった.古くは服部卓四郎(当時の大本営作戦課長)による「戦史叢書」や軍事評論家伊藤正徳による「帝国陸軍の最後3死闘編」,高木俊朗の「インパール」他一連の著作などが有名だ.1980年代以降も続々と新しいものが発表されており,それは今も続いている.現在ではインパール作戦そのものに関しては,当時の戦況全般から鑑みて必要のない作戦だったというのが定説になっている.一方で,作戦の決定プロセスや中止が遅れたこと,作戦の失敗後に関係者が誰も責任を取っていないことなどに注目し,ここに悪しき日本の組織論が見られるという主張もしばしば取り上げられている.戸部良一らによる「失敗の本質」や1990年代にNHKで放送された特番の書籍化である「太平洋戦争日本の敗因4 責任なき戦場 インパール」などである.

Img153 Myambon3  昔から戦史に興味があった自分もこの作戦には非常に興味があり,いろんな本を読んできた.今回のNHKの特番がどういうものになるのか非常に興味深かったが,特に新しい解釈といえるものはなく,内容的には正直期待外れだったというのが率直な感想である(牟田口中将のお孫さんが出てきたのは驚きだったが).ただ,以前のNHKの特番からすでに20年経過していることを思えば,若い人たちにこういう戦いがあったという歴史を伝える意味はあったのかなとは思った.

 ちなみにインパール作戦に参加したのは3個師団であるが,従来の戦記物などではこのうち北の第31師団と南の第33師団を扱ったものが圧倒的に多くい.これは第33師団については作戦正面と位置づけられ,戦車や重砲も多数配備されたことから激しい戦闘が多く,記者もたくさん従軍していて彼らによる記事も多いこと,第31師団に関してはなんといっても歴史に残る抗命事件(師団長が軍命令に背いて独断で師団を退却させたこと)の当事者であること,暗い話題ばかりの同作戦中唯一,戦術的にも人間的にも優れた指揮官といわれ人気の高い宮崎繁三郎少将(当時第31歩兵団長,インパール作戦関係の将官としては牟田口中将と対極に位置する人物といわれることが多い)が所属し活躍した部隊だったためと思われる.この両師団に対して中間にいた第15師団を扱った作品は極めて少ない.高木俊朗氏の一連の作品でもこの師団を扱った作品「憤死」はシリーズでも最後の方であり,他作品と違って電子図書化もされていない.第15師団は3個師団中最も貧弱な装備で作戦に投入され,多くの犠牲者をだした悲劇の部隊なのだが,今回のNHKの特番でも見事に無視されていたのが感慨深かった.

 そんなことを考えた今年の終戦記念日特番だった.

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2017年7月16日 (日)

シスマ

 連日本当に梅雨なのかという暑く晴れ渡る日が続いていましたが,今日はやや曇った一日になっています(とはいえ暑いことに変わりはないですが 💦).職場のあじさいも連日の暑さですべて干からびてしまったかと思ってたんですが,まだ元気に咲いている株もありました.

Img_3156  さて今日は7月16日,10年前のちょうどこの日新潟県中越沖地震があった日です.このブログのバックナンバーを探したら当日の記事もありました(地震と雷 こうしてあらためて昔の記事を見ると今よりもよっぽど充実しているな).

 先日は九州の方で豪雨による水害がありましたが,日本は昔から災害の多い国です.2007年の中越沖地震後だけでも,2011年の東日本大震災,2014年の御岳山の噴火,昨年春の熊本の地震のほか,2015年&2016年夏には東日本を中心に台風による水害があったのは記憶に新しところです.こうした災害多発地帯に住んでいるがゆえに,たとえ災害があっても助け合い,落ち着いて行動する国民性が形成されたとも言えます(日本で大きな災害が起こるたびに,外国ではよくある略奪や暴動系の事件がほとんど起こらないことは海外メディアが驚くところです).災害は忘れた頃にやって来るというのはまさにその通りです.この機会に自宅の防災用品等のチェックを行いたいと思いました.

 で,本日のブログのタイトルであるシスマ,これはラテン語で分裂という意味です.一般名詞ではあるんですが,特に日本の学術の世界ではキリスト教会の分裂の意味で使われます.キリスト教の歴史はまさに分裂の歴史であるわけですが,その中でももっとも大きいのが中世におけるローマカトリック教会と東方正教会の分裂です.この分裂劇そのものは数百年かけて徐々に進行したわけですが,それを象徴するような事件が1054年7月6日に起こりました.

Istanbul1_233  当時のキリスト教会の中心地は西方のローマと東方のコンスタンティノープルでした.ローマはもちろんローマ教皇庁のあるところですが,一方のコンスタンティノープルは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の都です.一応聖職者としての格ではローマ教皇の方がコンスタンティノープル総主教よりも上なんですが,ローマ皇帝とい大君主をバックに持つコンスタンティノープル総主教の権勢も大きく,特に7世以降教義などの点から両者の対立は大きなものとなっていました.

 こうした状況を打開するためにローマ教皇から使節として枢機卿フンベルトがコンスタンティノープルに派遣されていました.しかしながら政治的な思惑もあってコンスタンティノープル総主教のミハイル1世はなかなか使節に会おうとはしませんでした.1054年7月16日こうした総主教側の対応に怒ったフンベルトは,ミハイル1世の破門状を当時総主教座が置かれていた聖ソフィア大聖堂の宝座に叩きつけて立ち去ったのです.これに対して総主教側も相手を破門し両者の対立は決定的になりました.

 これが世界史上シスマと呼ばれる事件です.書籍によってはローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が相互に破門し合ったと書かれているものもありますが,前述のようにローマカトリック側の当事者は枢機卿フンベルトです.しかもこの時彼を使節として派遣した教皇レオ9世はすでに亡くなっていたので,総主教の破門が教皇の意志だったのかは不透明です(激怒した枢機卿の個人的な行動ともとれます).また総主教側が破門した相手はあくまでもフンベルト枢機卿(とその従者)であり,ローマ教皇は含まれていません.

Isutanbul2_156  というわけで,この日をもって東西教会が正式に分裂したというわけではなく,あくまでも象徴的な事件の日として記憶されているのでした.ちなみにフンベルトが破門状を叩きつけた宝座は大聖堂の至聖所という本来は聖職者しか立ち入ることのできない場所にあるわけですが,聖ソフィア大聖堂は現在無宗教施設であるアヤソフィア博物館となっているため,今は誰でも立ち入ることができます(ドームの一番奥,今はミフラーブがあるあたりです).

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