2019年3月28日 (木)

ビザンチン皇帝の誕生日

 みなさんこんばんは.今日3月28日は当ブログの管理人ビザンチン皇帝コンスタンティヌス21世の誕生日です.かつては子供ならともかく,ある程度以上歳を重ねた人間の誕生日がどこまでめでたいのかと疑問を感じていた時期もあったのですが,今では元気で無事にこの日を迎えられたことに感謝する日と考えるようになりました.

Img_1858(写真1)諸葛亮といえば羽扇,これは台湾の露店で買ったものです

 で,自分の生年が1966年なので,とうとう三国志の名軍師諸葛亮(字は孔明)の享年といっしょになってしまいました.

 うーん,なんか感慨深いです.中高生の頃夢中になって読んでいたのが吉川英治の三国志(および横山光輝の三国志),その登場人物として非常に魅力的だったのが諸葛亮です.西暦181年に生まれ,234年に魏の司馬懿と対陣中五丈原(今の陝西省宝鶏市近郊)で病没したと伝えられています.享年53歳,この時魏の司馬懿は諸葛亮の死を悟り総攻撃に打って出ます.しかしこのことを予想していた諸葛亮は自分自身の木像を用意し,敵に向かって押し出させます.これを見た司馬懿は諸葛亮がまだ生きているのではないかと狼狽し退却したとされています.これが「死する孔明生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」という言葉です.

 そんな憧れの英雄と歳がならんだと思うと非常に感慨深い誕生日でした.

Img_4679  ちなみに周囲には,「今日はどこか美味しいものを食べに行くんですか?」と聞かれたんですが,当直だったので美味しい(?)病院の検食をいただいたのでした.

| | コメント (0)

2019年2月26日 (火)

2・26事件

Image_2  今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,官邸でクーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争があります.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのはもちろん皇道派です.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドン的な存在だった真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようといろいろ工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐くらい),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わったのです.

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも累は及び,軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって陸軍内の皇道派は壊滅状態となり,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増し,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月11日 (金)

塩の日

 2019年になってもう10日が過ぎました.2,3日前は(当地にしては)寒い日もありましたが,今日は比較的温かくて過ごしやすい1日でした.

P7130225  そんな1月11日は塩の日なんだそうです.「敵に塩を送る」のエピソードで知られる上杉謙信からの塩が,当時武田領だった松本に到着した日がこの日だったことに由来するとか.塩は人間の生存に欠かせない物質です.現代でも夏などに大量の汗をかいた時などに,「水分とともに塩分も補給しなければならない」と言われるのは,塩の欠乏により時に致死的な事態に陥るからです.

 武田信玄の領地は甲斐・信濃と内陸で海がありません.アメリカ大陸やヨーロッパなどには太古の昔海だったところが隆起したりして形成される岩塩がありますが(南米のウユニ塩湖や北米のソルトレイクが有名),日本列島にはそうした岩塩が存在しないため,必然的に塩は海水から作られたものになります.内陸国である武田氏は自領内で塩を産出できないため,必然的に外部に頼ることになります.当時武田氏に塩を供給していたのは駿河の今川氏でしたが,永禄10年(1567年)両氏の間で戦いが起こると,今川氏は武田領への塩の輸送にストップをかけました.これで窮地に陥った武田に救いの手を差し伸べたのが上杉謙信だったというものです.義理堅いと言われた謙信らしいエピソードですが,一方で今川からの塩が止り,塩価が高騰した武田領に自国の塩を持ち込んで高く売るという,謙信の商売だったともいわれています.

Dsc_1969  何はともあれ,そんな人間の生存に欠かせない塩の日の昼,近くのラーメン屋さんで味噌バターコーンラーメンをいただきました.塩といえば,摂りすぎると高血圧など人体に悪影響を及ぼします.ラーメンもとかく高血圧絡みで話題になることも多い食品ですが,何事もほどほどが大切だと思いながらいただきました(笑).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月 5日 (水)

モーツァルト週間

 12月に入ったとはいうものの,まだまだ気温が高い日が続いています(本当に冬なのか? 笑).

Is  さて12月5日は著明な作曲家W. A. モーツァルトの命日です.1756年オーストリアのザルツブルク(当時はザルツブルク大司教領)で生を受けたモーツァルトは,幼い頃から音楽家で教育者でもあった父親から手ほどきを受けると,めきめきとその才能を発揮し,神童ともてはやされました.当初は父とともにザルツブルクの宮廷音楽家として活動していたものの,大司教の束縛から思うような作曲活動ができないことへの不満等が高まり,1781年以降活動の拠点をウィーンに移し,以後フリーの音楽家として活動していくことになります.

 そんなモーツァルトですが,1791年秋ごろから体調を崩し,この年の12月5日にわずか35歳で亡くなりました.死因に関しては諸説ありますが,当時の記録からは溶連菌感染に起因する多臓器不全(特に心不全,腎不全)だったのではないかと思われます.

 我が家では特にウチのKが大のモーツァルト好きということもあり,オペラを中心にモーツァルト関連のコンサートに出かける機会もあります.2006年の生誕250年の年には夏季休暇の旅行でウィーンやザルツブルクに行きました.ただその後旅行の主眼が秘境系に移っていったこともあり,これ以降クラシック音楽関係の旅行は2013年の合唱団の演奏旅行の他にはありません.

 が,我が家では最近急に音楽関係の旅行に行ってみようじゃないか,という気分が盛り上がっています.すなわち毎年1月下旬にザルツブルクで開催れているモーツァルト週間に行ってみようじゃないかというわけです.これは毎年モーツァルトの誕生日である1月27日を中心として約10日間ザルツブルクで開催されている音楽イベントです.ザルツブルクのイベントといえば夏のザルツブルク音楽祭が有名ですが,あちらは夏の観光シーズンと重なることもあり,それこそチケット代含めた旅行代金は凄いことになります.一方でこちらのモーツァルト週間は真冬で通常の観光客が少ない時期ということもあるのか,価格もだいぶお財布に優しい設定になっています(出演する団体はウィーンフィルをはじめ,夏に負けないんですが).すなわちどうせ行くなら冬の方がお得だぞということで,今回なんとか休暇をひねり出して行ってこようと決意したのでした.とはいえ全日程参加するほどは休めないので,イベントの後半に絞った企画で参加してきます.案内によると主な演目として,交響曲20番,25番,ピアノ協奏曲19番,20番をはじめ,ミサ曲ハ短調やレクイエム,エジプト王タモスなどがあるようです.

 ほぼコンサート漬けの旅行になる予定なんですが,非常に楽しみなのでした.

 動画はモーツァルトが生前完成させ自ら指揮をした最後の作品といわれる,フリーメイソンのための小カンタータ「われらが喜びを高らかに告げよ」 K.623 です.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月23日 (金)

天正遣欧使節団とグレゴリウス13世

 今日3月23日は世界気象デーなんだそうですが,一方で安土桃山時代の天正年間に,当時日本に滞在していたイエズス会士ヴァリニャーノの発案で,九州のキリシタン大名(大友宗麟,大村純忠,有馬晴信)の名代としてヨーロッパに派遣された少年たち,いわゆる天正遣欧使節団が時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した日なのだそうです(1585年3月23日).

Japanesedelegatesandpopegregory13  グレゴリウス13世といえば,今世界の標準暦として使われているグレゴリオ暦の制定者として知られています.キリスト教で最も重要な行事が復活祭ですが,この復活祭の日にちを決める春分の日が当時のユリウス暦の日付と現実の春分の現象が乖離してきていたのが制定の動機です.このグレゴリオ暦はユリウス暦1582年10月4日の翌日を10月15日とすることで開始されました.件の遣欧使節団がヨーロッパに到着したのはまさにこの改暦のちょっと後だったことになります.

P8310606  そんな天正遣欧使節団の存在を自分が初めて知ったのは歴史の授業ではなく,NHKの人形劇でした.それは昭和53年4月から翌年3月まで放送されていた人形劇「紅孔雀」,舞台は江戸時代初期の紀伊半島ですが,主人公那智の小四郎の父親が若い頃に遣欧使節の世話役としてローマに行ったという設定になっていたからです(使節の4人の少年ではない).

 使節団には4少年のほかに教育係や技術留学生的な役割の日本人が同行していたとされているので,そうした人物の一人だったという設定だと思われます(こうしたメイン人物が歴史的派遣団の一員だったという展開は,大河ドラマ「獅子の時代」に似ている).

 この紅孔雀はまだビデオテープが高価だった時代の作品であり,NHKにも映像が残っていない幻の作品だったのですが,何年か前に民間でビデオが発見されたというニュースがありました.後作品のプリンプリン物語と一緒ですが,プリンプリンがBSとはいえ再放送されたのに対して,紅孔雀の方はそんな気配はありません.個人的に好きな作品だったので,一部でいいからぜひ放送してほしい(あるいは販売でもいい)と思っています.

 天正遣欧使節から紅孔雀まで,話題が膨らんだ3月23日でした.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 7日 (日)

ユリウス暦のクリスマス

P9171231  今日1月7日はユリウス暦のクリスマスです.

 「クリスマスは12月25日じゃないの?」という声が聞こえてきそうなんですが,まさにその通りで,12月25日がクリスマスなのは間違いないんですが,つい2週間ほど前に祝われたクリスマスはグレゴリオ暦でのクリスマス,そう暦が違えばクリスマスも違うというわけです.

 イエスやその弟子たちが活動していた1世紀半ば,当時使われていた暦はその100年前に制定されたユリウス暦でした.これは基本的に1年を365日とし,4年に1回うるう年を設けてその年のみ366日とするものです.これによる1年は365.25日であり,実際の地球の公転周期(太陽の周りを1周するのに要する時間)365.2422日との誤差は0.0078日(≒11.23分)/年となります.1年でわずか11分ですから当時としては問題にならない誤差だったわけですが,塵も積もればなんとやらで,16世紀のルネッサンスや大航海時代になるとその誤差は10日ほどになってさすがに無視できなくなってきました.そこで当時のローマ教皇グレゴリウス13世の命によって新しい暦が制定されます.これがグレゴリオ暦で,4年に1度のうるう年という基本はユリウス暦と一緒ですが,例外規定として「100で割り切れる年は基本うるう年なし,ただし400で割り切れる年はうるう年」が追加されました.この暦による1年は365.2425日となり公転周期との誤差は1年で25秒ほどになりほとんど無視できるレベルになったのです(近年ではさらに時々うるう秒を導入して正確を図っている).

 ただここで問題になるのがグレゴリオ暦を導入したのがローマ教皇だったということです.カトリック世界は何の問題もないのですが,当時ローマ教会と対立していたプロテスタント諸教会や東方正教会は宗教上の対立相手であるローマ教皇の定めた暦を認めようとしなかったのです.それでも西ヨーロッパのプロテスタント諸教会は18世紀にはグレゴリオ暦に移行したのですが,東方正教会の多くは近代になっても少なくとも教会の行事に関してはユリウス暦を使い続けているのです.特に東方正教を信仰する大国であるロシアは20世紀のロシア革命に至るまで実生活でもユリウス暦を使い続けていました.日本はすでに明治6年からグレゴリオ暦の採用に踏み切っていたため,1904~1905年の日露戦争においては同じ戦いでありながら日露双方で日付が異なるという奇妙な現象も起こっています(有名な日本海海戦も日本では5月27日ですがロシアでは5月14日でした).

26173474_1584351891662170_339895385  そんなユリウス暦のクリスマス,自分は朝から当直なんですが,昨夜のクリスマスイブ(ユリウス暦の)は都内の合唱団の新年会だったので,クリスマスを兼ねて飲み歌ってきました(笑).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 5日 (金)

今年は何の記念イヤー?

 さて,2018年も5日が過ぎました.今日はこれまた新年恒例となっている,「今年は何の記念イヤー?」の話題です.

① ハプスブルク帝国崩壊100年

 中世末期から近代にかけて中央ヨーロッパに覇を唱えてきたのが歴代神聖ローマ帝国皇帝位を独占したハプスブルク家です.16世紀にはスペインもその傘下に収め,文字通りヨーロッパの主となっていました.しかし近代以降帝国が空中分解し,さらには第一次世界大戦の敗戦により歴史あるハプスブルク帝国は終焉を迎えました.それが今から100年前の1918年のことです.

② きよしこの夜初演200年

 クリスマスの歌としておそらくは誰でもが知っているであろう曲として「きよしこの夜」があります.実はこの曲が作られたのが今から200年前の1818年の事です.作詞はヨゼフ・モール,作曲はフランツ・グルーバーでオリジナルはドイツ語で”Stille Nacht”です.

③ 三十年戦争勃発400年

 ルネッサンス以降イギリス,フランス,オランダといった西ヨーロッパ諸国は封建社会から国王を中心とした中央集権国家へ脱皮し,急速に近代化を進めていきました.一方でドイツを中心とした中央ヨーロッパは逆に国家が分裂し長い停滞期に入ってしまいます.そのきっかけとなったのが今から400年前に勃発した三十年戦争です.当初はドイツ内部におけるカトリックとプロテスタントの宗教戦争として始まったものの,周辺諸国の思惑が絡んで政治的な国際紛争となりました.結局1648年のヴェストファーレン条約によって終結しますが,この戦争でドイツの分裂は決定的となってしまいます.

④ 後醍醐天皇即位700年

 鎌倉幕府滅亡後の建武の新政で知られる後醍醐天皇が即位したのが,今から700年前の1318年のことです.新政自体は1333年の幕府滅亡後に実現しましたが,性急な改革や恩賞を巡る武士たちの不満が大きく,わずか2年で崩壊してしまいました.

⑤ 平清盛生誕900年

 こちらも日本史絡みの話題です.平安末期に一代で権力を握った平清盛が生まれてから900年になります.

⑥ バシレイオス2世によるバルカン半島統一1000年

 当ブログ的には一番の話題です.6世紀のユスティニアヌスの時代に一度領土的な最盛期を迎えたビザンチン帝国は,彼の死後急速に衰退し8世紀には大幅に領土を失って一時は存亡の危機にいたります.しかしその後徐々に勢力を盛り返し,11世紀初めのバシレイオス2世の時代に最盛期を迎えます.その仕上げとなったブルガリア帝国の打倒が完成したのが今からちょうど1000年前の1018年のことです.

⑦ コンスタンティノープル攻囲1300年

 ⑥の記事と関連がありますが,8世紀の初め当時地中海世界を席巻していたウマイヤ朝アラブ帝国によるコンスタンティノープル包囲が行われたのが今から1300年前のことです.ビザンチン帝国最大の危機でしたが,皇帝レオン3世の指導と新兵器”ギリシャの火”の活躍により撃退に成功,この後帝国は復活への道を歩むことになります.

⑧ 唐建国1400年

 中国史では中世期の大国唐が成立したのが今から1400年前の618年です.この年隋の煬帝が殺されて隋が滅亡,同時に李淵が即位して唐が建国されたのです.

⑨ 西ゴート王国建国1600年

 一般にヨーロッパの中世はゲルマン人の大移動とその後の西ローマ帝国の滅亡から始まるとされています.当時西ローマ帝国領だった地域には多数のゲルマン人国家が作られましたが,そのうちイベリア半島に418年に建国されたのがこの西ゴート王国です.当初はキリスト教アリウス派を信仰していたことからローマ教会と対立していましたがのちにカトリックに改宗しています.そして8世紀初頭のウマイヤ朝の地中海世界制覇の渦にのみこまれて滅亡したのは,奇しくも⑦のコンスタンティノープル攻囲の年です.

⑩ 赤眉の乱2000年

 今から2000年前という非常にキリのいい年に起こった事件がこちらです.西暦8年に前漢から禅譲形式で,王莽による新国家「新」が成立しました.しかしこの国はその名に反して(?)復古主義的な政策(周代の政治を理想とした)をとったため,現実政治との乖離がはなはだしく,たちまち民心の離反を招きます.こうした中で起こったのが赤眉の乱で,その混乱の中で王莽は殺されて新はあっという間に滅亡したのでした.

⑪ ハンニバル没後2200年

 第二次ポエニ戦争の主人公ともいうべき人物がカルタゴの将軍ハンニバルです.有名なアルプス越えによってイタリア半島に侵入し,当時の共和制ローマに打撃を与えましたが,最終的に敗北,戦後はカルタゴの再建に活躍したものの政争から国を追われ,亡命先のセレウコス朝シリアで客死したのです.これが今から2200年前の紀元前183年で,奇しくもポエニ戦争で彼の好敵手だったスキピオ・アフリカヌスも同年に亡くなっています.

⑫ 完璧2300年

 完璧という言葉の語源となったのは,戦国時代に秦の昭襄王が趙王の持つ宝物「和氏の璧」を領土を交換しようと持ちかけた際に,その話を怪しんだ趙の使者として秦に赴いた藺相如が自国の面子を失わずに璧も無事に持ち帰った故事によります.その事件が起こったのが今から2300年前の紀元前283年といわれています.

⑬ バビロン第7王朝成立3000年

 古代においてバビロンを都とした王朝はたくさんあり,特に紀元前18世紀ごろのハムラビ王で知られるバビロン第1王朝が有名です.そんなバビロンの諸王朝の中で,国王の名前が1人しか知られていないのがバビロン第7王朝で,その唯一の王マール・ビティ・アプラ・ウスルが即位したのが今から3000年前の紀元前983年のことだそうです(この辺まで来ると「お前見たのか」というレベルではあります 笑).

 というわけで今年もいろんな記念イヤーのある年なのでした.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月18日 (土)

歴史教科書の話題

 3日前のニュースで話題になっていたお話です.

 坂本龍馬が歴史教科書から消えるぜよ!?高知に激震  

 これは高校や大学の教員,民間の有識者などから構成される高大連携歴史教育研究会が,現在の歴史教育(特に高校)は暗記に偏重しており,このことが生徒の学ぶ意欲を失わせる一因になっているとして,現在の日本史および世界史に使われている用語を減らすべきであると提言したことによるものです.この研究会の提言では日本史,世界史それぞれ現在約3500前後ある用語を2000弱に厳選しています(一方的に減らすだけではなく,新たに必要と思われるものは追加する).厳選の基準としては,歴史の大きな転換点や時代の特徴などを説明するのに必要な用語を選ぶ一方で,細かすぎたり羅列的な固有名詞などは削っていくとしています(その提言のリンク).

 この提言は具体的に○○を削るという表現はされておらず,各人が興味を持っている,あるいは知っていてこれまで教科書に載っていた用語がこの提言のリストに入っていなければ削られたんだなとわかるものです.記事にある幕末の坂本龍馬,吉田松陰や戦国時代の上杉謙信もリストには入っていません.幕末期の人物でいえば残っているのは井伊直弼,徳川慶喜,勝海舟ら数名のみです.また戦国大名に関しては基本的に毛利氏,武田氏,伊達氏といった感じに姓のみになっており,個人としての武田信玄や伊達政宗などは削られています.他方世界史に関して言えば,古代オリエントで人名として出てくるのはモーゼ,ダレイオス1世(アケメネス朝ペルシャの王),アレキサンダー程度で,エジプトのトトメス3世やアッカドのサルゴン1世,新バビロニアのネブカドネザルなどはすべてカット,聖書世界でも異邦人への伝道で知られるパウロは残った一方,十二使徒筆頭のペテロは削除されています.中世ヨーロッパの大事件であるカノッサの屈辱の当事者であったハインリヒ4世とグレゴリウス7世に至っては喧嘩両成敗なのか(笑)両者とも削られていました.また古代中国史では思想家以外では秦の始皇帝以前の人物はまったく触れられていませんでした.

 歴史好きな自分にとってはこの提言のリストを眺めて,あっ!あの用語が削除されていると考えるのも楽しいのですが,最初に出した記事に関して言えば,完全にメディアのミスリードだと思います.というのは,この高大連携歴史教育研究会は文科省の諮問機関などではなく,あくまでも民間の個人参加の研究会であって,この提言に従って文科省が次期教科書検定を行うわけではないからです.言ってみれば,各人がブログやSNSで勝手に言ってることと大差はなく,少なくともこの提言によって直ちに坂本龍馬が教科書から消えることにはならないからです(完全に話題先行の記事です).

 自分としては歴史を学ぶことは決して暗記ではなく,世の中がどういう流れでどう変化していったか,この重大な事件はどういう流れから起こったかという考察が重要という当研究会の趣旨は理解できるのですが,一方で歴史は魅力的な個々の人間の集合によって流れていくという見方も好きなので,こうした細かい用語が削除されるのも寂しいなと感じました(子供時代は古代インドマウルヤ朝の王チャンドラグプタ,首都のパータリプトラとか,金の建国者・完顔阿骨打(わんやんあくだ)いった用語を覚えるのが好きだったので 笑).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月14日 (火)

ユスティニアヌスと趙匡胤

Meister_von_san_vitale_in_ravenna  今日は11月14日,世界史的には6世紀のビザンチン皇帝ユスティニアヌスが亡くなった日である(565年11月14日).

 1000年以上の歴史を持つビザンチン帝国だがその国情はまさに波乱万丈であった.この国の歴史上,国が隆盛を誇ったピークは2度あり,その最初のピークが6世紀,この時代に活躍した皇帝がユスティニアヌスである(もう1回のピークは10世紀末から11世紀初頭のマケドニア朝の時代).

 ユスティニアヌスの業績としてまず挙げられるのは西方の領土を大幅に回復したことである.4世紀末に最終的に東西に分裂したローマ帝国だが,西半分は5世紀後半に滅び,跡地にはゲルマン人諸部族が割拠する状況になっていた.ユスティニアヌスは533年に将軍ぺリサリウスを北アフリカに派遣,西方領土回復の戦争を開始した.帝国軍は苦戦をしながらもイタリア半島や北アフリカの地中海岸一帯,さらにはイベリア半島の一部も占領し,大幅に領土を回復することに成功したのである(この時がビザンチン帝国の領土的な最盛期).

Istanbul1_233  さらにユスティニアヌスの功績はこれだけではない.文化的には今も残るイスタンブールの聖ソフィア大聖堂を建てたのも彼であるし,従来の複雑なローマ法を整理したローマ法大全を完成させたのも彼である(ローマ法大全は後のヨーロッパ諸国の法典の基礎となり,その流れは現代日本の法体系にも影響を及ぼしている.そんなユスティニアヌスの命日が今日11月14日なのだった.

 で,調べていたら同じ11月14日が没日である皇帝がいた.それが宋の趙匡胤である.中国の歴代王朝,とりわけ統一王朝の中で,宋という国は地味な印象がある.それは北宋南宋併せて300年余りの間,常に遼・西夏・金・モンゴルと強力な外敵に圧迫され続けていたという歴史があるからだろう.ただ唐末から五代十国の時代を経て,従来の支配者層だった貴族階級が没落し,新しい新興地主層が登場した.

Que10106633850  さらに宋代には,これまでの王朝が有力な軍人によってしばしば政治的な干渉を受け国政が混乱しあるいは帝位を簒奪されてきたという反省を生かして,軍人の権限を縮小するとともに,科挙によって登用した官僚のみを重要な役職に就ける政策を取った(文治主義).さらにはこの科挙の最終試験を皇帝自らが行うことで,皇帝と高級官僚の結びつきを強くし,より皇帝に権力が集中する体制を作ったのである.こうした大きな政治改革を行ったのが北宋初代皇帝の趙匡胤なのだった.

 本日11月14日はそのような日なのだった.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月31日 (火)

宗教改革500周年

 今日は10月31日,近年日本ではハロウィーンのイメージが定着しているが,世界史的にはマルティン・ルターの宗教改革記念日として知られている.

 帝政ローマ初期に誕生したキリスト教は,時の皇帝によるたびたびの迫害に会いながらも徐々に地中海世界に広まり,3世紀には社会的に無視できない勢力となっていった.そして4世紀前半のローマ皇帝コンスタンティヌス大帝による公認を経て,5世紀のテオドシウス帝の時代に至り帝国の国教とされるまでになった.

 中世に入ると特に西ヨーロッパで世俗権力が弱体化し,小国分立の様相を呈してきたこともあって,超国家的な組織である教会の権威・権力は大いに高まった.この間イスラム勢力の勃興や聖像礼拝を巡る問題もあって,西のローマ教会と東のコンスタンティノポリス教会の対立が深刻化し,11世紀に決定的な分裂にいたる.以後西ヨーロッパはローマカトリック教会の独壇場となり,その権力は11世紀末から13世紀の十字軍時代に絶頂を迎えた.

 十字軍の失敗後には,さすがにその権勢にも陰りが見え始めたが,世俗領主の側面も持つ高位聖職者の実力はまだまだ強いものがあった.一方でこうした聖職者の堕落も著しく,中世末期から近世にかけてはしばしば教会改革の動きも見られた(この時代の教会の歴史は高位聖職者が堕落してくると,修道院出身の気合の入った聖職者が登場して引き締めに走るといったパターンが多い).一方で学者など外部からの教会批判に対しては厳しい押さえつけが行われた(15世紀ボヘミアのフスの処刑など).

 ルネサンス期になるとフランスやイギリス,スペインなどでは国王による中央集権が進んだ結果,これらの地域からの教会収入は大きく減ってしまった.このためローマ教会は,中小諸侯が乱立し,教会領も多い神聖ローマ帝国(ほぼ現在のドイツ語圏)に目をつけ,この地を主な収入源とするようになった.こうした中16世紀初めのローマ教皇レオ10世はサン=ピエトロ寺院修復などを目的として,ドイツ国内で大量の免罪符の販売を開始した.

Lucas_cranach_i_workshop__martin_lu  これに異議を唱えたのがヴィッテンベルク大学で教鞭をとり,自らも下位聖職者だったマルティン・ルターである.彼は免罪符販売を批判し,当地の教会にいわゆる「95か条の論題」を打ち付けた.時に1517年10月31日,これが宗教改革の始まりとされている.このルターの宗教改革以後も多くの動きがあり,その後西ヨーロッパのキリスト教世界はローマカトリック教会とプロテスタント諸教会に分かれていくことになる.

 今日はそんな宗教改革500周年というものすごい節目の年である.ただルター派の多いドイツではそれなりに盛り上がっていそうだが,キリスト教世界の中では多数派であろうカトリック教徒や正教徒にとっては,宗教的な意味はない普通の日なんだろうと想像した.

 ちなみにルター派の教会である聖トーマス教会のカントールだったJ. S. バッハはこの宗教改革記念日のためのカンタータも作曲しており,カンタータ80番「神はわが堅き砦」はルターが作曲したコラール旋律を使用した作品として名高い.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧