2020年11月14日 (土)

足利義詮の墓

 時々出張で静岡県沼津市に行っています.以前は電車利用でしたが,今年の春以降は感染リスクの軽減のため自家用車を利用するようにしています.国道1号線(小田原から箱根峠までは箱根新道)経由で行くんですが,途中三島市内の東海道本線のこ線橋を越えたあたりでカーナビに気になるスポットがありました.

Img_6782  足利義詮の墓です.

 足利義詮は室町幕府を立てた足利尊氏の嫡男で,第2代将軍となった人物です.室町幕府の最盛期を築いた3代将軍足利義満の父でもあります.日本史的には超メジャーな人物とはいえませんが,それでも征夷大将軍であり,そんな人物の墓がどうしてここにあるのか不思議です.興味がありつつも,いつもここを通過するのは夕方か早朝だったため立ち寄る機会がなかったんですが,今日は帰りが土曜日の午前中だったため寄ってみることにしました.

Img_6777 Img_6780  国道1号線からわき道に入り少し行ったところにある宝鏡院にそれはあります.案内板によるとこの宝鏡院を建立したのが足利義詮なのだそうです.彼が亡くなった地は定説では京都だとされていますが,建立のいきさつからここにも墓所があるものと思われました.

Img_6778 Img_6779  墓所には堀越公方足利政知も眠っています.堀越公方というのは,室町幕府の体制で主に関東地方を将軍に変わって治める人物で,本来は鎌倉公方と呼ばれていたものの,関東の政争の中で政知は鎌倉に入ることができなかったため,伊豆の堀越を拠点としたためそう呼ばれたものです.

 久しぶりに歴史関連の散策となりました.

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2020年11月11日 (水)

11月11日

 今日11月11日は数字の「1」が4つ並ぶ日です.その見た目から日本では細長いものに関連する記念日が目白押しで「ポッキーの日」,「麺の日」,「もやしの日」などに指定されています.

1974__2 Publicdomainq0026828lmk Fotolia_122918345_subscription_monthly_m  一方で世界史的には第一次世界大戦の休戦が成立した日として知られています(1918年11月11日).

 日本では自らが大きな傷を負うことになった第二次世界大戦の陰に隠れて印象が薄い戦争ですが,19世紀の帝国主義時代のヨーロッパの複雑な国家関係の破綻によって始まり,やがて第二次世界大戦の原因にもなった重要な戦争がこの第一次世界大戦です.この辺の話をすると非常に長くなるので今日は止めますが,ともかくそんな世界史上重要な戦争が収まったのがこの日なのでした.

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2020年6月21日 (日)

マリアナ沖海戦

 今日は夏至,北半球では1年でもっとも昼の長い1日である.逆に言えば明日以降冬に向かってどんどん日が短くなっていくことになる.

 そんな夏至は昼が長いこともあり,世界史的には大軍を動かす大きな戦いが起こる時期である.振り返れば古代ローマ末期にアジアから西進してきたフン族と西ローマ・ゲルマン連合軍が戦ったカタラウヌムの戦いが451年の6月20日に起こった.また有名なナポレオンのロシア遠征が1812年6月23日,ナポレオンの敗退が確定したワーテルローの戦いが1915年6月18日,第二次世界大戦の独ソ戦の開始であるバルバロッサ作戦が1941年6月22日,同大戦のソ連側の大規模な反撃であるバグラチオン作戦が1944年6月22日に開始されている.日本史方面では明智光秀が織田信長を討った本能寺の変が1582年6月21日(天正10年6月2日)だし,応仁の乱も本格的な戦いが始まったのは1467年(応仁元年)のこの時期である.

 一方この時期に海上で発生した大きな戦いといえば,今から76年前の1944年(昭和19年)の6月19日,西太平洋において日米の機動部隊がぶつかった,いわゆるマリアナ沖海戦(アメリカ側呼称はフィリピン海海戦)がある.海戦に先立つ4日前の6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸したのを受けて,上陸軍の護衛として進出しているであろうアメリカの機動部隊(第58任務部隊)に対して日本の機動部隊(第1機動艦隊)が決戦を挑んだものである.

 実は日米の機動部隊同士が直接ぶつかるのは1942年10月の南太平洋海戦以来1年8か月ぶりのことだった.1942年中は5月の珊瑚海海戦をはじめとして,合計4度にわたって空母同士による海戦が起こるなどしのぎを削った日米両海軍だったが,一連の戦いにおいて双方とも消耗が激しく,1943年1月にガダルカナル島の戦いが終結して以降はその再建に取り組むことになった(もちろん残る少数の空母も各地での作戦には従事はしていた).アメリカ側は1943年後半以降エセックス級空母が続々と就航し戦力の充実が著しかった.一方の日本側は新造された空母は大鳳のみだったが,他艦種を改装した空母を多数取り揃えていた.

 こうして1944年6月19日にマリアナ沖に集結した機動部隊はアメリカ側が空母15隻,艦載機891機に対して日本側は空母9隻,艦載機498機だった.数的に日本はアメリカの半分強だったが,一方でサイパン島やテニアン島といった陸上基地にも航空部隊を有しており,これらと連携することで十分に対抗できると考えられていた.さらにこの戦いで日本側は俗にアウトレンジ作戦と呼ばれる戦術を採用した.これはアメリカ機に比べて航続距離の長い日本機の特徴を生かした戦法で,アメリカ側がこちらを攻撃できない距離から先に攻撃を仕掛けるというものだった.アウトレンジを成功させるためにはともかく,敵を先に発見しなければならない.日本の機動部隊は6月18日から盛んに索敵機を飛ばしてアメリカ艦隊の居場所を探した.結果,6月19日早朝ついにアメリカの機動部隊の発見に成功した.一方のアメリカ側はまだ日本艦隊の居場所は発見できていない.日本側はただちに攻撃隊を発進させ,アメリカ機動部隊の攻撃に向かった.この時司令部では勝利を確信した幕僚が多かったらしい.

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(写真左)海戦時の旗艦空母大鳳.(同右)空母瑞鶴,マリアナ沖海戦を生き延び,4か月後のレイテ沖海戦で沈んだ.この2枚はともに我が押し入れに収納されていた連合艦隊

 しかしながら作戦は日本の思惑通りには進まなかった.この時アメリカ側はレーダーによって,日本の攻撃隊の接近を察知していた.また彼らは未だ日本艦隊を発見できていなかったことから,手持ちの戦闘機をすべて迎撃に当てることができた.この時のアメリカの戦闘機は新鋭機のF6Fヘルキャットであり,総合力で日本の零戦を凌駕していた.彼らは日本の攻撃隊がやってくる方向に,より高い高度で戦闘機を待機させていた.結果待ち伏せされた形となった日本の攻撃隊は大きな被害を受ける.なんとかこの攻撃をしのいだ一部の攻撃隊がアメリカ機動部隊に殺到したが,今度はすさまじい対空砲火に晒され,次々と撃墜されていった.この頃からアメリカの高射砲にはVT信管と呼ばれる新型の信管が使われており,砲弾が飛行機に直接命中しなくても,付近を通過した時点で爆発し被害を与えられるようになっていたのである.

 一方,アメリカ機動部隊は日本艦隊を発見できていなかったが,彼らの潜水艦は日本空母の動向を探っていた.6月19日日本側が攻撃隊を発進させた直後,アメリカの潜水艦が日本艦隊に接近,魚雷攻撃を仕掛けた.この攻撃により空母翔鶴は4本の魚雷を受けて轟沈,同じく空母大鳳が受けた魚雷は1本だけで損傷は軽微だったが,気化したガソリンが爆発するという悲運に見舞われて同じく沈没してしまった.こうして6月19日の戦闘は日本側が先に敵艦隊を発見しアウトレンジ攻撃をかけたものの,迎撃によって航空部隊は大損害を受け,逆に自らの空母は潜水艦によって死角から攻撃され撃沈されるという結果になった.

 翌6月20日も先にアメリカ艦隊を発見した日本の残りの空母部隊が攻撃を仕掛けるも,やはり前日と同様の結果に終わる.そしてこの日の16時近くになってようやくアメリカ側も日本艦隊を発見,反撃を開始する.この攻撃によってさらに空母1隻(飛鷹)とタンカー2隻が撃沈された.一方これが夕方の攻撃になったため,アメリカ側の航空部隊も空母への帰還ができずかなりの損害を出している.

 かくして連合艦隊が乾坤一擲の決戦を企図して臨んだマリアナ沖海戦は日本の大敗に終わる.沈没した空母の数だけでいえばミッドウェー海戦よりも少なかったが(ミッドウェーが4隻,マリアナは3隻),敵の空母を1隻も沈めることができなかったことや,約1年半かけてようやく再建した母艦航空隊を一気に喪失したことは非常に厳しく,これ以降連合艦隊は機動部隊を運用する作戦を行うことが不可能になってしまう.この海戦は日本の作戦通りに始まり,敵の発見も早いなど大きな齟齬はなかった.にもかかわらずこのような敗戦に終わったのは,この時期のアメリカ軍はレーダーを用いた防空システムやVT信管などの新型機器・システムが運用されており,旧態依然としていた連合艦隊とはハード・ソフト両面で大きな差がついてしまっていたからである.仮にマリアナ沖海戦が1942年秋に起こっていたら日本側が勝利する可能性もあったろうが,1年8か月という時間はを隔てるて、連合艦隊にとってアメリカの機動部隊は全く別物になっていたのである.

 私はマリアナ沖海戦は「高校受験に失敗した生徒が2年間宅浪して必死に勉強し,中学の教科書を完璧にマスターして試験に臨んだら,まわりはすでに大学受験になっていた」という比喩がふさわしいのではないかと思っている.

 そんなことを想像した2020年の夏至の日だった.

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2020年6月 4日 (木)

満州某重大事件

 今日は6月4日,今から31年前に北京で天安門事件が起こった日として知られます.当時民主化を求めて集まっていたデモ隊に中国人民解放軍が武力介入し,多数の犠牲者を出した事件です.世界中に衝撃が走り,中国は国際社会から強い非難を浴びました.

 この事件が起こった日,私はたまたま仙台の友人の家に滞在していたんですが,この時ニュースに度々登場したのが北京飯店です.市内にある高級ホテルで,当時日本からの特派員や駐在員の多くがここに滞在していたからです.ただ当時は(今もかもしれませんが)飯店という用語が中華圏でホテルの意味であることが知られていなかったこともあって,テレビを見ていた友人が「北京飯店って中華料理屋じゃないのか?」と言っていたのが強烈に印象に残っています(笑).

 そんな6月4日ですが,今から98年前の1928年(昭和3年)のこの日に同じ中国大陸で地味に大きな事件が起こっています.それが表題の満州某重大事件です.これは当時の日本政府内で使用されていた用語で,世間的には張作霖爆殺事件の名で知られています.

Zhang_zuolin (写真)軍閥張作霖

 1911年の辛亥革命後,清は国民党政府による中華民国として生まれ変わったとされていますが,実際には国民党政府の力が全土に及んでいたわけではなく,地方には軍閥が割拠するという混乱の中にありました(三国志や唐末期みたいな感じ).こうした地方軍閥の中でも有力だったのが満州の奉天(現瀋陽)を拠点にしていた張作霖で,1920年代にはしばしば軍を南下させ北京や揚子江付近まで進出していました.この張作霖を支援していたのが日本の関東軍です.1904~1905年の日露戦争に勝利し満州の権益を手に入れた日本でしたが,続く第1次世界大戦後の民族自決の国際世論の中では,なかなか表立ってそれを強化することができませんでした(特に当時中国大陸に足がかりがなかったアメリカの警戒が強かった).そのため日本としては満州の有力軍閥である張作霖を支援して,彼を利用することにより間接的に満州の利権を独占しようと考えていたのです.

 しかし張作霖は次第に日本の思惑通りに動かなくなり,逆に当時日本との対立が芽生え始めていたアメリカやイギリスに接近し始め,逆に日本の権益を脅かすようになったため,日本の関係者は彼を見限ります.そして1928年に入り,ほかの軍閥を支配下におさめて力を付けた国民党の蒋介石による北伐が本格化すると,国民党軍との戦いを避けて北京から満州に帰還することになりました.この帰還途中だった張作霖の乗った列車が奉天郊外で爆破され,暗殺されたのが事件の概要です.

Zhang_zuolin_20200605100001 (写真)事件現場の様子

 当初は敵対していた国民党軍による犯行とされていましたが,その後関東軍の高級参謀河本大作大佐による謀略であったことが判明しており,後に頻発する関東軍独走の端緒的な事件となりました.この事件によって当時の田中義一内閣が倒れるなど日本の政治にも大きな影響を与えました.しかしながら首謀者とされる河本大佐は軍法会議にかけられることもなく予備役となって軍を離れたのみで,その後は満鉄(南満州鉄道)関連の役員として大陸で活動し続けたと言われています.

 そんな事件もあった6月4日でした.

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2020年5月12日 (火)

しながわ宿場まつり中止

 昨夜フェイスブック上に,毎年9月下旬に開催されているしながわ宿場まつりが,今年は中止になるという発表がされていました.

 

 私にとっては毎年秋恒例の扮装イベントです.パレードはありますが,それよりも江戸時代の人々に扮して,界隈を散策し当時の宿場の雰囲気を醸し出すというコンセプトが私にぴったりで,可能な限り参加しているお祭りです.昨年は医師会合唱団のイベントと被ったため不参加となっていましたが,今年は出たいと思っていただけに残念です.屋外パレードではありますが,たしかに着替え会場はは密だなぁ💦.今年は春の行事はもちろん,各地の夏祭りも軒並み中止,ついに秋のイベントまで中止の余波が広がってきています.

P9300544(写真)一昨年の様子(旅人に扮しました)

 かくしてまたひとつ,今年のイベントが消えてしまいました.残すは夏の日本寮歌祭ですが,まだ事務局からなにも来ていませんが,おそらくは無理だろうなと感じています.なにせあのイベント3密に加え,参加者がハイリスク者ばっかりですから.

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2020年5月11日 (月)

エアひの新選組まつり

 昨日の日曜日(2020年5月10日)は本来,第23回ひの新選組まつりパレードの日でした.しかし新型コロナウイルスの感染拡大の影響で3月25日に早々に中止が決定しました.その後4月に入り政府から緊急事態宣言が出され,世間もコロナ一色の空気になっていきました.GWもいわゆる"Stay Home”で終始し,気が付いたら5月第2週末,すなわち本来ひのパレが行われる(ハズ)の時期となっていました.

 ですが,このまま何もなく終わってしまうのは寂しすぎるのではないかということで,一部よりツイッター上で”エアひの新選組まつり”が盛り上がりました.この辺は少し前に会った”エアコミケ”の影響もあるのかもしれません.”エアひのパレ”の開催日となった5月9日&10日はたくさんの人たちが関連のツイートを流しタイムライン上を賑わせてくれました.自分もいくつか呟きましたが,一方でしょれに触発され,一年間放置されていた昨年のレポを一気に仕上げました.当初はエアひのパレが開催されているうちに完成させようともくろんでたんですが,若干伸びてしまい,結局一部完成してHP上にアップしたのが5月11日未明,完成したのが11日夜になりました.1日遅れですが,5月11日といえば土方歳三の命日ですから,これはこれで許されるんじゃないかと思っています.相変わらず自分中心,しかも1年経って記憶が薄れている中で仕上げたレポですので,分量の割には内容が薄いです.よろしければ見てやってくださいまし.

 第22回ひの新選組まつりレポ

22hino97  ひのパレレポは毎年お祭り後に作成していますが,年によってはお幅に遅れたり,いまだ未完な回があったりします.第9回から第22回までで参加した13回のうちレポが完成しているのは10回分,未完なのは第13回,第15回,第19回の3回です.これだけ未完なのは,この3回に思い入れが少ないからかと感じるかもしれませんがさにあらず.第13回は自分にとって頂点ともいえる回で,史上唯一の3部構成になるはずだった回です.第15回は松本良順,第19回は清河八郎とどちらも自分でやりたくて役を選び参加した回と思い入れはむしろ他の回以上と思います.にもかかわらずここだけ放置されているのは,この思い入れが仇になっているからかもしれません.来年のひのパレまでにこの3つ,何とか完成させたいと決意を新たにしたのでした.

 追記:5月11日は実はコンスタンティノープルの開都の日でもあり,自分にとっては二重の意味で感慨深い日です.

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2020年4月19日 (日)

東方正教の復活大祭

Istanbulk35  復活祭はキリスト教最大のイベントです.先週の日曜日はカトリックやプロテスタントなど西方教会の復活祭だったわけですが,今日はギリシャ正教などのいわゆる東方正教の復活祭(復活大祭)でした.東西で日付が異なるのは採用している暦の違いによるもので,西方教会が16世紀のローマ教皇グレゴリウス13世が制定したグレゴリオ暦を使用しているのに対し,東方正教はそれを教会暦として必ずしも採用していないことに由来します.このため双方の復活祭の日付は基本的に一致せず1週間から1か月程度ずれるのが一般的です(たまに同日になることもある).今年は1週間違いの4月19日となりました.

 日本の東方正教は明治以降入って来たロシア正教の流れをくむところが多いため,その影響を強く受けています.復活大祭当日には,「ハリストス復活!実に復活」とあいさつをするのですが,ハリストスとは”キリスト”のロシア語風の呼び方です.

 そんな東方正教の復活大祭シーズンには”パスハの讃詞”と呼ばれる聖歌が歌われます.自分が学生時代には取り寄せの外盤LPレコードでしか聴けませんでしたが,現在はyoutubeで気軽に聴くことができます.

 

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2020年4月10日 (金)

ヴィア・ドロローサ

 今日はキリスト教の西方教会における聖金曜日です(使用する暦の関係で東方正教諸教会では来週).イエス・キリストが十字架上で受難したことを記念する日です.新約聖書のマタイ福音書27章1節~61節,マルコ福音書15章全節,ルカ福音書22章1節~65節,ヨハネ福音書18章1節~27節の部分です.

 マタイ福音書の記事によると,前夜ゲッセマネの園で捕らえられ大祭司の尋問を受けたイエスはこの日の朝,総督ピラトの官邸に連行され,ここでの裁判の結果十字架刑が言い渡され処刑されました.この出来事の舞台となったエルサレムにはこの日,イエスが歩いたとされる道が設定されており,ヴィア・ドロローサ(苦難の道)と呼ばれています.私も2016年の秋にイスラエル旅行に行った際に歩いてきました.

Erumap2(図)エルサレム旧市街図

 ヴィア・ドロローサは全部で14のステーションから構成されています.エルサレム旧市街北東部のライオン門からほど近いところの,総督ピラトの官邸があったとされる場所をを第1とし,市街を西に向かいながら、かつてゴルゴダの丘があったとされる聖墳墓教会まで続いていきます.

第1ステーション ピラトの官邸跡で現在はムスリムの学校になっています.

14424745_1078590615571636_81746154736358 14380148_1078591275571570_14164833666734(左)ライオン門,(右)ピラト官邸跡

第2ステーション イエスが十字架を背負わされローマ兵によって鞭打たれたとされる場所です.今は鞭打ちの教会が立っています.

14425520_1078596585571039_90734714099936 14444867_1078596825571015_60605324128448(左)鞭打ちの教会,(右)内部のステンドグラスもその様子が

14435353_1078599752237389_91009239880784(写真)エッケ・ホモアーチ

 そこから少し西に行ったところにエッケ・ホモ教会があります.これは「この人を見よ」の意でピラトがイエスをさして群衆にそう呼びかけた記事に由来します.ここには十字架も置かれていました(毎週金曜日の午後,フランシスコ会の修道士が十字架を持って実際このルートをたどるそうです).

14352564_1078599665570731_18896938581091 14425388_1078600278904003_11415822302201(左)エッケホモ教会,(右)十字架があります

第3ステーション イエスが最初につまずいたとされる場所です.ただこのエピソードは聖書にはなく他の伝承によるものです.現在ここにはアルメニア正教の教会が建っています.

14379736_1079344138829617_12030808311249 14434851_1079344218829609_62632734762016(左)第3ステーション,(右)教会内部

第4ステーション 十字架を背負ったイエスをマリアが目撃した場所となっています.ここも現在はアルメニア正教の教会が建っています.教会内部の古い床にはビザンチン時代のモザイクがあってそこにはマリアのサンダルが描かれています.

14409433_1079344345496263_56853461431687 14352383_1079344538829577_46833075422456(左)アルメニア正教会,(右)教会内部

第5ステーション 兵士たちがイエスの十字架をキレネ人のシモンに担がせたとされるポイントです(マルコ福音書の15章に記事あり).ここの壁にはイエスが触れたとされる岩があって,歴史上数えきれない巡礼者たちが触ったため,かなりすり減っています.

14352571_1079354748828556_53968094634992 14409839_1079354942161870_33224216895474(左)第5ステーション,(右)イエスが触れたとされる壁

第6ステーション ベロニカという女がイエスの顔をハンカチで拭ったとされる場所,ベロニカはマルコ第5章においてイエスの服に触れたことで血の病が癒された女とされています.今はギリシャ正教の聖堂が建っています.

14425340_1079362732161091_77756583327036 14362463_1079362835494414_10109835379304(左)第6ステーション,(右)聖堂内部

第7ステーション イエスが2度目につまづいたとされる場所です.当時ここにイエスの罪状が掲げられたとされています.ちなみに1世紀当時エルサレム市街はここまでで,ここに市外への城門があったとされます(今でこそゴルゴダの丘とされる聖墳墓教会は市内にありますが,穢れを極端に嫌うユダヤ教世界において市内に処刑場があったとは考えにくいと言われています).

14425564_1079362882161076_17989918040027(写真)第7ステーション

第8ステーション イエスがエルサレムの娘たちに語ったとされる場所です(ルカ23章).ここにもギリシャ正教の教会が建っていて,壁には十字架が描かれています(右側の写真の左端).

14380098_1079376538826377_88275227340063 92357775_613918205827371_683591281208721(左)第8ステーション,(右)壁に十字架が

第9ステーション イエスが3度目につまづいた場所とされ,ここから先が当時ゴルゴダの丘があったとされる地点に建つ聖墳墓教会になります.

14435017_1079376925493005_20396040378896 14207853_1079376815493016_63917785143162

 (左)第9ステーション,先に見える入り口はコプト教会です.(右)聖墳墓教会のドーム

14361281_1079398565490841_35463576539594(写真)聖墳墓教会入り口

 聖墳墓教会はキリスト教における一大聖地であり,今でもギリシャ正教・アルメニア正教・コプト教・シリア正教・エチオピア正教,そしてローマカトリックが変な言い方をすれば仲悪く共存しています.特に教会の入り口のドアをどこが管理するかでもめるため,現在ここのカギはイスラム教徒が管理しています.ちなみにエチオピア正教はオスマントルコの時代からここを守ってきた重要な教会ですが,19世紀以降に起こった他教会との勢力争いに敗れ,聖堂は外にひっそりと建っています(言われなければ見過ごすほど). 

14352385_1079398905490807_54741224623916 14435421_1079398608824170_83940083164653(左)ヘレナの聖堂のドーム,(右)エチオピア正教の教会入り口

14380105_1079398682157496_69516104037549 (写真)エチオピア教会内部

今の聖墳墓教会を聖地として整備するのに重要な貢献をしたのが4世紀のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母ヘレナです.教会入り口には彼女の聖堂のドームがあります.先日この聖墳墓教会も今回の新型コロナウイルスの問題で閉鎖されたというニュースがありました.

第10ステーション 聖墳墓教会に入り階段を登った先,イエスが衣をはぎ取られた場所とされています.今はカトリックの小さな聖堂になっています.

14352386_1079410658822965_25267904794793 14435371_1079410728822958_63083895223576 (左)第10ステーション,(右)小さな聖堂です

第11ステーション イエスが十字架に打ち付けらえた場所とされています.大勢の巡礼者で賑わっています.

14195936_1079411612156203_70429922968631 14380035_1079411715489526_51510310424019

(左)第11ステーション,(右)大勢の巡礼者たち

第12ステーション イエスが息を引き取った場所,まさにゴルゴダの丘の十字架が立てらていた場所とされています(そのポイントには星が描かれていて,そこに触れようとする人々が行列を作っています).

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(左)第12ステーション,(右)十字架のまさにポイント

第13ステーション マリアがイエスの遺骸を引き取ったとされる地点です.今はひっそりと祭壇が置かれています.

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(写真)第13ステーション

第14ステーション 最終ステーションです.ここはイエスが埋葬されたとされる場所です.巨大なドーム内に小さなドームがあってその内部に石棺があります.最大の聖地のためたくさんの巡礼者で長い行列ができています(自分が行ったときは30~40分で入れたんですが,ガイドさんによるとこれはかなり短い方でひどいときは2~3時間待ちになるとのことです).受付の司祭さん(?)に5~6人ずつ中に誘導されて参拝するんですが,30~40秒ほどでさっさと出されます(そうでないといつまでもここにいる人が現れてきりがないのでしょう).この日は写真撮影はダメと言われました.もっともキリスト教の教義ではイエスは復活しますから別にここに遺骸があるわけではなく,そのためこの聖堂は復活聖堂と呼ばれています.

14425421_1079424402154924_74874718274115 14409402_1079424505488247_59383259134303(左)大ドームの中に小ドームがあるマトリョシカ状態,(右)やっぱりギリシャ正教風です

 石棺のある聖堂の向かいには殉教聖堂というギリシャ正教の華やかな聖堂があり,ちょうどミサが行われていました.聖堂の近くにはイエスの遺骸に香油を塗ったとされる石があり,ここでもたくさんの巡礼者が手を触れていました.

14409539_1079424832154881_3075860924131314372079_1079424905488207_11196942440967 (左)殉教聖堂,(右)塗油の石

 

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2020年3月15日 (日)

インパールへの道

 太平洋戦争後半の1944年(昭和19年)3月に,日本が当時占領していたビルマ(現ミャンマー)からインド東部にあるイギリス軍の拠点インパールを占領しようと開始したのがインパール作戦(ウ号作戦)です.作戦構想自体は壮大なものでしたが,補給を無視した杜撰な作戦は大失敗に終わり,参加した3個師団の参戦兵力の半分以上が戦死戦病死する惨憺たる敗北に終わりました.このことから史上最悪の作戦と呼ばれ,インパールという名前そのものが杜撰な作戦の代名詞にもなっています.

 そんな作戦の地であるインパール,戦史好きの自分にとっても行けるものなら行ってみたい地です.しかし,ミャンマーとインドの国境地帯は民族紛争なんかがあって治安が悪く,少なくとも陸路で国境を越える旅は不可能だろうと思っていました.

 し,しかし

 なんと!陸路インパールを目指すツアーがあるらしいのです.

 陸路で行く ミャンマーからインパール、コヒマへの道11日間

 SNS上で出ていたんですが,これは風の旅行社という主としてペルーやモンゴル,ネパールといった山岳国への旅行を得意とする会社です.以前ペルーに行く時にここも候補に入れたことがあるので覚えています.まさか,こんな企画を立てていたとは…

 こんなご時世ですが,参加できるものなら参加したいなと思って日程を見ると…

 2020年3月6日出発

 もう出発日を過ぎています.はたして催行されたのだろうか… そうでなくても来年また企画されるなら参加したいなと思ったのでした.

 奇しくも今日3月15日はインパール作戦において,側面から同地を攻撃するために第15師団(祭兵団)と第31師団(烈兵団)が作戦行動を起こし,国境であるチンドウィン河を渡り始めた日です.

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 図はインパール作戦時の各師団作戦行動図に今回のツアーの日程を重ね合わせてみました(高木俊朗著 インパールより引用改変).当時の兵団がどうしてもたどり着けなかったインパールまで矢印が伸びでいるのが感動的です.

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2020年1月27日 (月)

楽聖と楽仙

 唐の詩人に杜甫李白という人物がいます.どちらも8世紀の玄宗皇帝の時代,いわゆる盛唐と呼ばれる時代に活躍した詩人です.

800pxdufu  杜甫は自身の科挙受験の失敗や,王朝を揺るがした安史の乱による家族の離散や社会の混乱といった経験からか,世の中の実相を鋭く見つめた詩が多くあります.その人物像も眉間にしわを寄せた苦悩のイメージがあり,今では詩聖と呼ばれています.彼を代表する詩が春望で,江戸時代の俳人である松尾芭蕉の「奥の細道」にも引用されているのでご存知の方も多いでしょう.

 国破山河在     国破れて山河在り
 城春草木深     城春にして草木深し (以下略)

Libai_touxiang  一方の李白は杜甫とほぼ同時代(10歳くらい年上)に活躍した詩人です.西域の出身といわれ,長じて都の長安に出て一時は玄宗の宮廷で詩を作っていましたが,その自由奔放な性格が災いして都にいられなくなり晩年は各地を放浪することになります(最後は酔って,水面に映った月を取ろうとして溺れたという伝説もあります).ただそんな境遇であっても詩には悲壮感はなく,その作風から詩仙と呼ばれています.彼の代表的な詩が「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」です.

 故人西辞黄鶴楼   故人西の方、黄鶴楼を辞し
 煙花三月下揚州   煙花三月揚州に下る   (以下略)

800pxbeethoven  さて,杜甫の詩聖という言葉を聞いて連想するのが,音楽の世界で楽聖と呼ばれるベートーベンです.

 交響曲から小品まで数多くの名曲を世に出した一方で,私生活では飲んだくれの父親や不良の弟など家族のことで苦労し,その肖像画でも眉間にしわが寄っているところは何となく杜甫に通じるものがあって楽聖という呼び方は言い得て妙という気がします.

 というわけで,楽聖といういい方があるのなら楽仙というのはないんでしょうか.残念ながら世間ではそういうのはないようですが,あえてふさわしい人物を探すとすると… 思い当たる人物は一人しかいません.

800pxwolfgangamadeusmozart_1  W. A. モーツァルトですね (^。^)

 あふれ出る才能で数多くの名曲を書いた一方で自由奔放で善良そうな性格は,水面の月を追い求めそうなイメージです.モーツァルトというと晩年は貧乏で借金というイメージを持ってる方もいるようですが,晩年のモーツァルトも結構収入は多く,ただ収入以上に支出が多かったために借金をしていたというのが実際のようです(年収2000万円の人が3000万円使って借金漬けというイメージ (+o+)).そういえば年が十数年,聖より仙の方が上というのも共通です.今日1月27日はそんなW. A. モーツァルトの誕生日なのでした.

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