2009年7月13日 (月)

宇都宮ツアー② ~日光江戸村編~

 さて一晩明けて,翌7月12日になりました.この日は日光江戸村に出かける予定です.まずはJR宇都宮駅に集合,前日ご一緒させていただいた神楽教授はドラクエ購入のために帰京,代わっておりんさんのお友だちのMIHOさんが合流です(彼女も今年のひのパレに参加していたそうです).これにコシゾウさんを加えた5人で繰り出しました.

 江戸村は江戸時代の街並みが再現されている体験型のテーマパークです.普通に観光もできますが,江戸時代の装束で練り歩くことも可能です.

 私たちは… 当然扮装です(笑).

 役柄は,私が殿様,コシゾウさんとK副長さんが浪人(コシゾウさんはどう見ても浪人でしたがhappy01,K副長は浪人というより旗本の三男坊または書生といった感じでした),おりんさんが岡っ引き,MIHOさんが武家娘です.

 着替え場所に入り,殿様衣裳を着けかつらを被ると,おおっ殿様の誕生です(2年前のしながわ宿場まつりでの井伊大老を思い出しました).

20090713131925 (写真) 参加者全員の記念写真

 その後はみなで街に繰り出します.ここでは観光客だけではなく,江戸村のスタッフもみな扮装しており,私たち扮装客にいろいろと絡んでくれるのが楽しいのでした(逆に私たちがスタッフに絡むことも可能).日曜日ということもあって,たくさんの観光客で賑わっていました.なかにはすっかり出来上がったおじさんのグループもいました(ご本人たちはただの町人だと言っていましたが,どう見ても遊侠の士だよねなどと噂していた私たちでした).

Utshunomiya_042 Utshunomiya_058

(写真左) 武家娘との真面目なhappy01写真です.(同右) 華やかな花魁行列です. 

 途中では大五郎を探している子連れ狼や,水戸黄門とはぐれた(笑)風車の弥七,江戸村のゆるきゃらにゃんまげなどと絡んで遊びました.

Utshunomiya_068 (写真) にゃんまげと絡む私

 その後は北町奉行所のお芝居を見たり,花魁道中を見学したりしたのち,ちょっと高いところにある江戸村撮影所へ.ここは高いところにあるせいか他の観光客が少なく,街の雰囲気がよく出ているところです.散策していると,何やら集団に出くわしました.お姫様に扮した美女とその姿を熱心に撮影する大勢の人々,話を聞くとグラビアアイドルの西村紗也禾(さやか)さんの撮影会なんだそうです.その艶やかな姿にうっとりしていると,何やら私を呼ぶ声が,えっ,お姫様のご指名! というわけで一緒に写真に収まってしまった私でした(ちょっと照れました 笑).

Utshunomiya_066 (写真) グラビアアイドルの西村紗也禾さんの撮影会が偶然行われており,ご指名で写真を撮っていただきましたheart04 要するにこの日殿様装束は私しかいなかったということです.

Utshunomiya_079 (写真) 同じく参加者全員との記念写真です.やっぱりお姫様は華がありますね.

 それからは随所でネタ写や動画を撮ったりしているうちに,あっという間に夕方.楽しい時間経つのが速いです.みんなこの衣装のまま帰りたい気分でした(結局まとまった昼食時間を取らないままに遊んでいました).

Utshunomiya_090 (写真) 娘にちょっかいを出す岡っ引き

Utshunomiya_082 (写真) 薬屋から出てきた浪人に「御用だ!御用だ!」

 その後はコシゾウさんに宇都宮駅まで送ってもらいました.当初新幹線で帰ろうと思ったんですが,4人で座れる場所を確保できそうになかったため,快速ラピッドのグリーン車に変更,ビールやチューハイを軽く飲みながら思い出話に花を咲かせました.そして電車は終点の上野駅に到着,ここで解散となります.実行委員長のおりんさんの「家に帰るまでが,遠足です」という言葉とともに,2日間の宇都宮ツアーは無事に終了したのでした.

Utshunomiya_033 (写真) 永倉新八と鈴木三樹三郎の偶然の出会い,両国橋にて

 企画立案のおりんさん,突然の訪問にもかかわらずお付き合いくださったコシゾウさん,参加してくれた神楽教授,K副長,MIHOさん本当にありがとうございました.

 江戸村扮装はとても楽しいので,また企画されるはずです(ね,社長).

 

 次回予告: 江戸村レポはもちろんこれで終わりではありません.次回はいよいよ多数のネタ写が登場します.乞うご期待happy01

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2009年6月 7日 (日)

相馬主計

 もう一か月近く経ちますが,まだひのパレの余韻が残っている私です.そんなわけで本日は新選組ネタです.

 新選組の局長(隊長)は誰?と聞けばおそらく100人中99人は近藤勇の名前を挙げるでしょう.江戸の試衛館の道場主で,土方歳三,沖田総司,山南敬助,井上源三郎らとともに京都に上り新選組を結成,池田屋事件で勇名をはせるなど,新選組の黄金期を支えたのですから当然といえます.

 しかし鳥羽伏見の戦い,甲州勝沼の戦いで敗れ,勇が板橋の刑場の露と消えた後も新選組はその旗を掲げ続け,各地を転戦していきます.新選組が最終的に解体したのは、明治2年5月の箱館戦争終結の時だからです.

 近藤の死後,宇都宮では土方歳三が,彼が負傷した後の会津では斎藤一こと山口二郎が実質的な隊長として指揮を執っていました.

 鶴ヶ城落城後,斎藤一は会津に残留し,新選組の残存部隊は仙台で榎本武揚の艦隊に合流して蝦夷地に渡ります(この時,桑名藩士らの一部が入隊).そして蝦夷地上陸後は箱館政府軍の一部隊として戦い続け,最後は明治二年5月15日に箱館の弁天台場にて新政府軍に降伏し,その終焉に至るのです.

Benten1 Benten2

(写真左) 弁天台場跡は今は児童公園になっており,かつての面影はありません (同右) そばにひっそりと立つ弁天台場跡の碑

 この時新選組の最後の隊長だったのが,今回のテーマ相馬主計です.

 相馬は笠間藩士船橋平八郎の子として天保六年(1835年)または天保十四年(1843年)に生まれたとされています(一般に若いというイメージのある相馬ですが,天保六年説を採ると,土方歳三と同い年になります.ただ天保十四年生まれ説が定説のようです.とすれば沖田総司の1歳上ということになります).慶応元年(1865年)に脱藩,その後の経歴ははっきりしませんが,慶応三年10月ごろに新選組に入隊したと思われています.これは同年6月の新選組隊士の幕臣取り立ての際には名簿に名がなく,その後12月の天満屋事件の際の記録にその名があるためで,おそらくは土方歳三が慶応三年に江戸に下った際の募集で入隊したもののようです.

 慶応四年1月の鳥羽伏見の戦いの後,江戸に帰還,同年3月の甲陽鎮撫隊では局長付組頭となっています.入隊からわずか半年で幹部隊士になっており,当時の新選組が人材不足とはいえ,いかに彼が優秀であったかがわかります.その後流山で近藤勇が捕らわれると,土方歳三の命で近藤の助命嘆願書を携えて板橋に出頭しましたが,そのまま官軍に囚われてしまいます.この時本来なら近藤とともに斬首されるはずでしたが,釈放されました(一説には近藤勇が助命を願ったためと言われます.この時近藤とともに捕らわれた野村利三郎も釈放されています).

 板橋脱出後は野村とともに幕府陸軍隊に所属し,その幹部として各地を転戦します.そして同年9月に仙台で土方歳三および新選組と合流し,蝦夷地に渡ることになるのです.

 蝦夷地では箱館政府軍の幹部(陸軍奉行添役)として箱館市中の取締に当たっていました.身分的には新選組隊士ではありませんが,実際に市中警護の任にあたっていたのは新選組であり,このころから実質的には新選組を統括していたようです.翌明治2年3月の宮古湾海戦にも参加していますが,ここで板橋以来の盟友野村利三郎を失ってしまいます.同年4月に新政府軍が蝦夷地に上陸すると新選組とともに市内の弁天台場に籠って戦いました.

 しかし兵力に勝る新政府軍は5月11日には箱館市内を制圧,相馬と新選組の籠る弁天台場と五稜郭は分断されてしまいます.この時、孤立した弁天台場を救うため土方歳三が大野右仲らとともに出撃し,一本木関門で戦死したことはよく知られています.その後も弁天台場の戦いは続きますが,食料,弾薬もつき,5月15日に降伏となるのです.そして当時箱館で病院を管理していた医師高松凌雲(日本の赤十字運動の先駆者とされ,慶応三年のパリ万博に幕府随員として参加している,私も注目している人物)の書簡によると,まさにこの日に相馬主計は正式に新選組の隊長に就任したとされています(ただし,2008年春の日野市立新選組のふるさと歴史館の特別展示によると,相馬の新選組隊長就任はもっと早い時期だったという新資料が見つかったとのことです).

Benten3 (写真) 土方歳三戦死の地

 結局相馬主計は新選組最後の隊長として戊辰戦争を終えたのですが,このことが意味するのは,新選組に関する戦争責任のすべてを,彼が負わなければならない立場になったという事実です.実際彼は榎本武揚ら箱館政府首脳と共に捕らえられ,東京に送られ獄に繋がれました.島田魁ら他の隊士が諸藩の預かりとなって謹慎処分のみだったのとは大違いです.

 結局相馬は坂本龍馬暗殺(当時龍馬暗殺は新選組の仕業と思われていた),伊東甲子太郎暗殺などの罪を問われ,伊豆諸島の新島に終身流刑となりました.新島では寺小屋を開いて現地の子供たちに教育を施し,島民に先生と呼ばれていたそうです.ふとした機会に島の無法者にからまれた際,一撃で無法者を投げ飛ばし子供たちの喝采を浴びたものの,これからは学問の時代であることを常に言っていたといいます.島で住居を借りていた植村家の次女マツと結婚しました.

 後,明治五年に放免となりマツを伴って東京の蔵前に住んでいました.そして,ある日突然割腹自殺を遂げたとされています.この時30歳だったそうです(天保十四年説に従えば明治六年となります).自殺の原因については妻のマツが黙して語らなかったため不明ですが,一説には相馬に対する誹謗中傷があったとも言われています.

 これが新選組最後の隊長の生涯です.

 しかし,私には以前から腑に落ちないことがありました.それは…

 相馬主計はなぜ,箱館まで行って戦ったのかという疑問です.

 土方歳三ならわかります.天領の多摩で生まれ,近藤勇らと共に京都で幕府のために戦い,盟友近藤を失ってからは倒れ行く幕府に殉じて死に場所を求めていったからです.

 しかし相馬にそのような理由があるでしょうか? 相馬の出身の笠間藩は越後長岡藩の支藩でしたが,戊辰戦争では新政府軍方に付き,会津藩攻撃にも参加しています.しかも相馬が新選組に入隊したのは慶応三年の大政奉還の後です.いかに世相に疎い者から見ても幕府の衰勢は明らかな時期です.聡明な相馬主計がその点に気づかなかったとは思えません.しかもその後の戦いで勝利するならともかく,鳥羽伏見,勝沼と相次いで敗戦を経験します.隊士の脱走が相次いでも,京都時代のように法度を適用できる秩序はありませんでした.いわば去るものは追わず状態と言ってよく,彼がその気なら新選組を見限るのは簡単なことだったでしょう.

 しかし,それでも彼は新選組について行き,最後はどう考えても自分には全くメリットのない新選組隊長就任を引き受けているのです.いったい何が彼をここまで引き込んだのでしょう.

 様々に考えてみたんですが,この慶応三年の入隊,そして入隊半年で幹部へ昇進したという点にヒントがあるような気がしました.

 相馬は江戸帰還後,土方歳三の命で近藤勇の助命活動に従事しています.また箱館に渡ってからは,歳三の陸軍奉行並に対して陸軍奉行添役,同じく歳三と共に箱館市中取締の役についています.いわば土方歳三の補佐役であったと考えられます.当時の歳三は多忙であり,実際の業務は相馬が取り仕切る場面が多かったと思われます.

 一方で当時の歳三は京都時代の鬼の副長のイメージはなく,人間的にも一回り成長し(近藤が死んで,支えるべきものがなくなったからとも言われますが),温厚で周囲から慈母のように慕われていたといいます.慶応三年入隊の相馬は,いうなれば鬼の副長時代の歳三を知らず,入隊直後から懐の深い歳三の下で戦い,その人間的魅力に触れるうちに,この人物のためになら死んでもよいという境地に達していたのではないでしょうか.とすれば,彼にとって歳三亡き後の新選組の隊長になることは損得ではなく,必然であったと言うこともできます.

 もしかして相馬主計という人物は,今に続く土方歳三を信奉する若者の走り,土方歳三フリーク第1号だったのかもしれません.

 そんな相馬主計は私にとってとても魅力的な人物です.ひのパレでも相馬役の方を見つけると必ず記念写真をお願いしているほどです(とはいってもひのパレで相馬主計役が登場したのは第11回からなんですが).

Souma11Souma12 (写真左) 第11回の相馬さん (同右) 第12回の相馬さん

 一方小説の世界では,相馬主計を扱った作品は皆無ですが,唯一といえるのが,ミステリー作家森村誠一氏による「新選組」です.1000ページ以上の大作で少年期の近藤勇が強盗を追い払った有名なエピソードから始まり,箱館戦争終結後までが描かれる大河小説です.ほぼ史実に沿ってストーリーは展開するんですが,さすがミステリー作家の小説だけあり,司馬遼太郎などの歴史小説家によるものとは一味違った味付けが楽しい作品です.特に相馬主計が非常に重要な役割を果たしているのが魅力なのでした.相馬ファンはぜひ一度お読みください.

Morishin (写真) 祥伝社文庫 新選組上巻 森村誠一著

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2009年1月26日 (月)

維新後の永倉新八

 本当~に,久しぶりの新選組ネタです.

 幕末の激動の京都で,会津藩の庇護の下,いわゆる尊攘派の浪士と死闘を繰り広げ,倒れ掛かる幕府の屋台骨を支えた剣客集団,それが新選組である.自らの命を賭して戦い続けた新選組の主要メンバーはその多くが幕末期に非業の死を遂げている.試みに,ひの新選組まつりの隊士コンテストで選出される12人の主要幹部についてみると

 局長     近藤 勇   慶応4年4月25日 板橋にて刑死

 副長     土方歳三  明治2年5月11日 函館にて戦死

 一番隊隊長 沖田総司  慶応4年5月30日 江戸にて病死

 四番隊隊長 松原忠司  慶応2年  切腹

 五番隊隊長 武田観柳斎 慶応3年  暗殺(?)

 六番隊隊長 井上源三郎 慶応4年1月5日 淀千両松の戦いにて戦死

 七番隊隊長 谷三十郎  慶応2年  暗殺(?)

 八番隊隊長 藤堂平助 慶応3年11月18日 油小路で戦死

 十番隊隊長 原田左之助 慶応4年5月 上野戦争で負傷し後死亡

 このように12人中9人までが幕末維新期に命を落としている.これ以外の幹部でも,総長の山南敬助が慶応元年2月に切腹し,参謀の伊東甲子太郎は慶応3年11月に暗殺されている.

 一方少数ながらも明治期を生き抜いた者もいた.九番隊隊長の鈴木三樹三郎(伊東甲子太郎の実弟)は伊東と共に慶応3年に御陵衛士に加わり,油小路の戦いを生き延びる.その後は薩摩藩の庇護のもと,倒幕派として活動し明治を迎えている.慶応3年12月の伏見での近藤勇襲撃事件にも参加しているし,その後は相楽総三の赤報隊にも加わり,二番隊隊長という重責を担っている.

 三番隊隊長の斉藤一は流山で近藤勇が捕われた後,新選組の残存部隊を率いて転戦し,会津戦争に参加した.しかし榎本艦隊と合流する土方らとは別れて,戦後も会津に残り,会津藩士として生涯を送っている(斗南にも行っており,今の青森県五戸町に住んでいたらしい HPの関連記事).維新後は警視庁に出仕し,西南戦争にも参加している(西南戦争では当初政府軍の主力は徴兵で集められた兵隊であり,鉄砲を撃つのは得意だったが,薩摩武士に切り込まれて肉弾戦になると,なすすべもなく崩れてしまった.このため,旧士族が集まっていた警察隊を戦地に送り,薩摩の切り込みに対抗したのである).

 そしてもう一人,維新後を生き延びた幹部隊士が今回のテーマ,新選組二番隊隊長の永倉新八である.

Hanyashiki(写真1) 地下鉄新御徒町駅近く,小島小学校付近に旧松前藩上屋敷があったそうです

 永倉新八は天保十年江戸詰めの松前藩士長倉勘治の次男として江戸の松前藩上屋敷で生まれた.名は栄治である.次男ではあったが,兄の秀松が新八3歳のときに亡くなったため,実質長男として育てられたらしい.8歳のときに江戸の岡田道場に入門し,神道無念流を学んだ.18歳の頃に脱藩して,同流の百合道場に移り,ここで終生の友となる市川卯八郎(後の芳賀宜道)と出会った.この時に実家に迷惑がかかることを恐れて,苗字を一字変えて永倉としたようである.その後心形刀流の坪内道場に師範代として招かれ,後に新選組で一緒になる島田魁と知り合ったらしい.

 脱藩後は武者修行と称して各地を歩いていたらしく,その途中で試衛館に出入りするようになったようだ.永倉の新選組顛末記によると,当時の試衛館は「武骨が過ぎて殺気みなぎるばかり」だったという.その気風が肌に合ったのか,いつしか食客として居つくようになった.文久3年の浪士組の一件を試衛館に持ち込んだのは永倉だと言われている.

 上洛し,新選組結成後は,副長助勤,二番隊隊長,撃剣師範などの要職を歴任し,常に幹部隊士として組の中枢にあった(永倉は沖田総司,斉藤一と並ぶ新選組を代表する剣客として知られる).特に沖田総司が体調を崩してからは,彼の一番隊の指揮も担当している.元治元年の池田屋事件をはじめ,油小路の戦い,鳥羽伏見の戦いなど新選組の修羅場のほとんどに参加しており,特に池田屋では近藤,沖田らとともに最初に乗り込んでいるし,鳥羽伏見では薩摩の洋式銃隊に対して切り込みを敢行し武功を挙げている.

 永倉は新選組結成時のメンバーでは試衛館派に属するが,初期の新選組の局長だった芹澤鴨とは同門(神道無念流)だったこともあり,近藤や土方らとは常に一線を画していたようである(文久3年9月の芹澤暗殺についても,彼は全く関知していなかったらしい).池田屋事件後,行動がやや尊大になってきた近藤に対して,原田左之助や島田魁らとともに,会津藩主松平容保宛に建白書を提出している.この時は容保のとりなしで大きな事件にはならなかったが,その後も微妙な影を落としたようである.ただ,永倉と近藤らは決して対立していたわけではない.後に伊東甲子太郎らが入隊し,独自の勢力を形成し始めると,永倉にも伊東から誘いがかかったが,結局彼は新選組に留まっているからである.思うに永倉という人物は,相手が誰であれ,間違っていると思うことははっきりと言うタイプの人間だったのだろう.彼自身は近藤・土方ら新選組の基本路線(勤皇・佐幕)には賛成だったと思われる(伊東は勤皇・反幕である).

 しかし,時代の流れは新選組にとって逆風となり,鳥羽伏見の戦い,その後の甲陽鎮撫隊の敗戦の後,近藤らと袂を分かつことになった.その後は旧友の市川卯八郎(芳賀宜道)らとともに靖共隊を結成し北に向かって転戦,米沢に至って雲井龍雄と交流している.しかし,明治元年9月の会津藩降伏によって芳賀とともに江戸に戻った.

 江戸に戻った後,しばらくは浅草の芳賀の家に潜伏していたが,明治2年1月に芳賀が義兄(妻の兄,藤野亦八郎)に殺されると,永倉も身を隠しきれないと感じ,松前藩に帰参を願い出て許された.この時永倉があっさりと帰参を許されたのは,長倉家が藩内でそれなりの地位を占める家柄だったからとも言われている(浅田次郎氏の壬生義士伝で有名になった南部藩の下級武士だった吉村貫一郎が鳥羽伏見の戦い後,大阪の南部藩邸に帰参を申し出ながら,許されず切腹になったのと対照的である).

 新選組顛末記によると,ある日両国橋を歩いていた永倉は,偶然にも鈴木三樹三郎と再会した.以下は顛末記からの引用である.

 一日永倉はおりからの休みをさいわいに気保養がてら市中を散策していると、ふと両国橋の上で新選組で前年暗殺した伊東甲子太郎の実弟鈴木三樹三郎に出会った。永倉はしまったとは思ったがいまさらひきかえすこともできぬ。両人のあいだはしだいにちかよって鈴木の眼には異様の光がかがやいた。そして、

 「やァしばらくでござったナ、貴公はただいまいずこにおられるか」と鈴木が聞くので、永倉は、

 「拙者は松前藩に帰参いたしてござる」

 「それではいずれまたお目にかかる機会もござろう」とすれちがったので、永倉も会釈してわかれた。

 しかし鈴木は兄伊東の仇敵として永倉をそのまま見逃すはずがない。ただちにひきかえして斬りつくるのではあるまいかと永倉がふりかえると、鈴木もふりかえってじっと見ている。永倉はさてこそとかくごして袴の股立をとりしたくをして待っていたが鈴木はとてもかまわぬと思ったか、そのまま黙っていってしまう。それから数日たつとはたして鈴木の一味が永倉をつけまわし、門外一歩をふみだそうものなら、たちまち手をくだす気勢をしめした。

 途中の,「しまったと思った」というくだりからは,永倉といえども,戊辰戦争後の追われる身としての心の不安が感じられる.結局この事件とその後明治3年12月に盟友雲井龍雄が処刑されたことによって,江戸に留まることの危険を感じた永倉は,藩の勧めもあり地元松前の藩医である杉村松柏の養子に入ることになって江戸を去った(明治4年1月).この時から杉村治備(後に義衛)から名乗ることになった(ただし本稿では混乱を避けるため以後も永倉新八で統一する).

 松前に移ってからの永倉は当地で藩の軍役についたりしていたが,間もなく廃藩置県となり多くの藩士が松前を去っていった.永倉も家族とともに明治6年に小樽に転居している.

 当時の小樽はニシン漁で栄え,北海道随一の賑やかな街だったらしい.ここで養父の杉村松柏は本業である医業を始めた.しかしそれも永くは続かず,翌明治7年8月に松柏はこの地で亡くなってしまう.永倉は藩医杉村家の養子とはいえ,医業の知識があったわけではないから家業を継ぐわけにはいかない.結局彼が選んだのは家族とともに東京に戻ることであった.彼の東京在住は明治8年から15年までである.この間各地で剣術の指南などをやって暮らしていたといわれるが,特筆すべきは現JR板橋駅東口に建つ新選組顕彰碑の建立である.

P1250011 (写真2) JR板橋駅前に建つ顕彰碑

 戊辰戦争期に朝敵の汚名を着せられた新撰組であるが,次第名誉回復の動きが出てきた.その流れの中で永倉は医師の松本良順(明治後は松本順と改名)や多摩の近藤・土方の縁者,生き残った他の新撰組隊士らとともに奔走し,明治9年顕彰碑の建立に至ったのである.

 その後明治15年になり,永倉は再び北海道に渡った.行先は開拓使庁の置かれた札幌からさらに石狩川の上流にある樺戸集治監である.樺戸集治監は監獄機能に加えて,囚人を使っての開墾や道路建設などの土木事業などを行わせるための施設である.背景として廃藩置県後頻発した旧士族の反乱(佐賀の乱,萩の乱など)や高まる反政府運動などで政治犯が激増し治安が悪化していたことがある.前年明治14年に初代典獄(刑務所長のようなもの)の月形潔のもとで開設されていた.

P9160135 (写真3) 永倉が剣術を指導した樺戸集治監は今博物館になっている

 ただこの集治監には腕の立つ囚人も多く,万一暴動などが発生した場合に応援を呼ぶすべもない土地柄であり,看守に対する剣術指南の重要性が考えられていた.このため永倉に白羽の矢が立ったものらしい.当時この集治監のあった場所はまさに辺境であり,彼も家族は小樽に残しての単身赴任であった.ここで明治19年まで剣術師範の職にあったようである.

 実は私の好きな大河ドラマ「獅子の時代」にこの樺戸集治監が登場する.主人公で元会津藩士の平沼銑次(演じるは菅原文太)が大久保利通暗殺の罪を着せられ,ここに収監されるのである.ただドラマでは銑次が樺戸にやってきたのは明治14年で翌15年の春には脱獄しているので,残念ながら銑次と永倉の接点はないのであった.

P9150024 (写真4) 永倉が晩年をすごした地にはこのように碑が建っている(現小樽市役所付近)

 それはさておき,永倉を樺戸に招いた月形が明治18年に職を辞すと,永倉も翌明治19年に樺戸を去った.その後三度東京に戻り道場などを開いていたといわれるが,明治32年に小樽に引っ越し,以後死ぬまでその地にとどまった.

 この晩年の小樽時代のエピソードとして,小樽の映画館から孫とともに出てきたところ地元のヤクザに絡まれたものの,彼が睨むと相手はその眼光で圧倒されて退散した話や,老境の永倉が北海道帝大の撃剣部の学生に教えを請われ,引き受けて札幌に出向き,一通り型を披露したものの,激しく動きすぎて卒倒してしまい帰りは馬車に乗せられて小樽に帰った話が知られている.

P9150043 (写真5) 小樽市郊外にある永倉新八(杉村義衛)の墓所

 大正2年からは地元の小樽新聞に「永倉新八」のタイトルで新撰組時代の話を連載している.これをまとめたものが今日「新撰組顛末記」と呼ばれる書籍であり,新撰組研究の貴重な資料となっているものである.またこの小樽時代に近藤勇の娘といわれる山田音羽の訪問を受けている.

Img360 (写真6) 永倉の話を基にした新撰組の資料

 このように幕末維新期を生き抜いた永倉新八であったが,大正4年1月5日に小樽で亡くなった.伝えられるところによると口腔内感染からの敗血症だったとされる.

 永倉新八は幕末の最終段階で近藤・土方らと袂を分かったものの,後年は新撰組の復権に努力するなど,今日我々が新撰組について知っている多くのことを教えてくれたのである.

 注) 今回の記事は2007年秋の北海道旅行で訪問したネタを中心に構成しています(やっと完成した 感).

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2008年7月14日 (月)

ラ・セーヌの星

 今日7月14日はフランスの革命記念日です.

 1789年のこの日,市民がパリのバスチーユ監獄を襲撃,これが全国に波及してフランス革命がはじまりました.日本ではクレール監督の戦前の映画”Quatorze Juillet”の邦題である「巴里祭」の名でも知られています(もちろんこれは日本人が勝手につけた名前であり,現地にそういう名前のお祭りがあるわけではありません).

 さてフランス革命を題材にしたアニメといえば,なんといっても池田理代子さんのベルサイユのばらが有名ですが,それとはちょっと違ったテイストなのが本日の表題,ラ・セーヌの星です.放送されたのが1975年(昭和50年)ですから,なんとアニメ作品としてはベルばらよりも古いことになります.シモーヌというパリの花屋の娘が主人公で,昼間は可憐な少女ですが,夜になると仮面の剣士ラ・セーヌの星となって盗賊や庶民を苦しめる横暴な権力者と戦うというお話です.ベルばらがオスカルやマリーアントワネットら貴族中心に展開していくのと対照的に,こちらはパリの下町の人々が中心で,庶民=虐げられるかわいそうな存在,貴族=横暴な権力者という構図が見られます(王妃も贅沢ばかりする悪い人っぽいイメージで描かれます.もちろん一部に良い貴族もいます).

 これだけならただの勧善懲悪もので,別にフランスを舞台にする必要もないんですが,実はシモーヌがフランス王妃マリー・アントワネットの腹違いの妹という設定がされているのです(マリーの母マリアテレジアは道徳的にむちゃくちゃ厳しい人だから,もし本当に夫フランツ1世に隠し子がいたら,当時敵国だったフランスに隠すというのはありそうな話である).番組前半は勧善懲悪時代劇っぽい感じで進んでいきますが(熱気球を発明したモンゴルフィエ兄弟やパリ滞在中のモーツァルトも出てきます),後半物語は一気に緊張感を増します.三部会の召集から国民議会の結成,バスチーユ襲撃と歴史的事実にそって展開,これまでの市民=弱者,貴族=強者とはいえない状況になってきます.善と悪の境界がはっきりしなくなりシモーヌも自分の役割について悩みます(出生の秘密も知ってしまい悩みが深まります).

Rasenu (写真) ラ・セーヌの星,一部でヤッターマンに出てくるドロンジョ様の若い頃という噂があった

 作風の変化は途中で監督が代わったためとのことですが,かなり見ごたえのある作品だったと思います(ぜひまた見てみたい).どうでもいですが,設定や登場人物からシモーヌは1760年頃の生まれと思われ,そうすると最終回マリーアントワネットが処刑される時30過ぎになっているはずなんですが,とてもそうは見えません(顔認証ではビールが買えそうにありません 笑).

 

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2008年3月10日 (月)

清河八郎の故郷

 新選組結成に当たって清河八郎の果たした役割は決定的に大きい.

 歴史にたらればは禁物だが,文久二年に八郎が時の幕府政事総裁職の松平春嶽に急務三策を提言しなかったら,おそらくは浪士組の結成もなく,従って近藤勇土方歳三が幕末史の表舞台に出てくることもなかったであろう.

 そんな清河八郎だが,彼にはどうしても策士のイメージが付きまとう.当初は将軍警護のためと称して浪士を集めたのに,京都に着いたとたんこれらを尊皇攘夷の尖兵とするよう画策するなどは.どう考えても一般的ではない.結局八郎は孝明天皇の勅諚を得たものの(一介の浪人が勅諚を貰ったというのも凄い話だが),幕府に警戒されて浪士組は江戸帰還することになり,これに反発した近藤や芹澤らが分離して後に新選組となったのは周知の事実である.

 江戸帰還は表向き生麦事件後の不穏な空気から,外国との戦いに備えるという名目だったが,実際には浪士たちを自分らの手の届くところに置いときたいとの幕府の意向であろう.結局江戸帰還後も攘夷運動を進めていた八郎は,文久三年4月13日に佐々木只三郎らによって殺されてしまった.

 そんな清河八郎の出身地は山形県の庄内地方である.現在の行政区分では庄内町の清川地区になる.ここには清河八郎記念館も存在し,地元では偉人として扱われているようだ.実際に個人の能力という点では八郎の文武両道ぶりは際立っている.長州の桂小五郎や新選組から御陵衛士になった伊東甲子太郎も文武両道とは言われるが,二人とも道場ではともかく,実線経験は未知数であるのに,八郎の場合は大刀一閃,相手の首が2メートルも吹っ飛んで瀬戸物屋のどんぶりに収まったというエピソードがあるほどの使い手でもある.

Hachikine (写真) 清河八郎記念館

 実は先週末,所属する学会の地方会があって出かけたのだが,せっかくだからと庄内まで足を伸ばしてきたのだった.目指す清河八郎記念館は街中にひっそりと立っていた.隣接して八郎を祭った清河神社もありそこには八郎の銅像も立っているのだが,なんと神社は雪に埋もれて冬季閉鎖状態,参拝が不可能な状況であった.八郎の銅像も青いシートに囲われていた(泣).空は快晴で結構気温も高かったのだが,さすが庄内は雪深い土地だと改めて感動したのだった.

 雪に閉ざされるためか,清河八郎記念館は冬季閉鎖である.3月に入って開館したばかりのようだった.

Huyujinja Natshujinja (写真左) 雪に埋もれた清河神社,青いシートの中に清河八郎がいる. (同右) 夏に来るとこんな感じらしい.

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2008年1月22日 (火)

大学入試センター試験

 この週末大学入試センター試験が行われた.この試験は元々昭和54年に国公立大学受験者用の共通一次試験として始まり,その後私立大学も参加する形で平成2年から大学入試センター試験となっているものである.私にとっても非常に懐かしい試験である.

 受験生とその関係者以外には用のない試験ではあるが,歴史愛好家の私は毎年このセンター試験の世界史の問題にチャレンジしている.今年もさっそくやってみた.

 共通一次時代から問題を見てきて感じるのだが,世界史の問題の質は格段に上がっていると思う.昔の共通一次時代は,出題者側もマークシートの選択形式の試験に馴れていなかったこともあり,単純に年を選ばせる問題や,文章中の空欄に入る人名を選ばせるような問題が多かった.このような問題では,たまたま知っていた人が正答できることから,「歴史は暗記物」という誤ったイメージが広がってしまったのである.これに対して最近の問題は,単に教科書を暗記しているだけでは正答できない問題が多くなっている(例えば,ある時代の文章を読ませて,この時代について正しいのはどれかなど,知識と共に時代の流れなどが判らないと答えられない問題).

 今年の世界史Bの問題は大問が4問である.それぞれテーマが与えられており,

第1問 ユーラシア大陸(ユーラシア大陸の東端の東アジアと西端のヨーロッパおよびその間に入る,諸民族などを取り上げて,東西文明の交流などを問う問題 合計25点)

第2問 島について(地中海におけるシチリア島やコルシカ島,インド洋のマダガスカルやセイロン,東南アジアの島々を取り上げ,大陸の文化の影響を受けながら,独自の価値観などを形成していった島々の歴史について 合計25点)

第3問 敗者からみた歴史(これは思いっきり私の琴線をくすぐる問題である.歴史を学ぶとは,当時の記録を読み解くことであるが,そのほとんどは勝者の記録によっている.実際の歴史では敗者もまた歴史を構成しているのだが,この敗者に視点をあてた問題である.例として紀元前202年に垓下の戦いで漢の高祖に敗れた楚の項羽と,同じ年にザマの戦いでローマのスキピオに敗れたカルタゴの将軍ハンニバルなど 合計25点)

第4問 被服(歴史上被服は単に体を覆うということではなく,たとえば身分を表すなど様々な役割を担っていた.またその原料となる繊維や布が歴史上重要な役割を果たすこともあった.合計25問)

 そんな今年のセンター試験世界史Bの私の得点は… ジャスト70点でした.おそらく平均点が60点台後半と予想されるので,ゼロ勉にしてはよくできたと思う反面,歴史愛好家としてはもっとできなきゃダメじゃないかとも思い,なんとなく複雑な気分であった.

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2007年12月29日 (土)

2008年の記念イヤー

 さて2007年も残すところ今日を含めて3日となった.昨年2006年はあのW.A.モーツァルトの生誕250年ということで大いに盛り上がったのだが,2007年は大してインパクトのある記念イヤーがなかった.そこで来る2008年にはどんな記念イヤーがあるのか探してみた.

① ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100年

 のっけから凄いぞこれは.モーツァルトと並ぶザルツブルグの誇りである,大指揮者カラヤンの生誕100年である.グラモフォンあたりで記念企画がありそうだ.

② リムスキー・コルサコフ、松平定敬、西太后没後100年

 一方没後100年はこの人たち.松平定敬は元桑名藩主で会津藩主松平容保の実弟です.その筋では有名な人です.

③ 足利義満没後600年

 室町幕府第3代将軍です.アニメ「一休さん」では一休さんと金閣で絡むシーンがありますが,実際の一休宗純は室町時代中期の人で,義満との接点はありません(奇しくも義満が亡くなった1394.年が,一休宗純の生年です)

④ 源氏物語絵巻の成立900年

 今に伝わる源氏物語の絵巻が完成したのは1108.年(嘉承三年)のことだそうです.

⑤ 菅原孝標女生誕1000年

 古典の時間に習った「更級日記」の作者の生誕1000年です.一番きりがいいような気がします.来年はみんなで「更級日記」を読みましょう(大学入試センター試験に出たりして).

⑥ 和同開珎鋳造1300年

 わが国最初の鋳造貨幣和同開珎ができて1300年です.

⑦ 赤壁の戦い1800年

 三国志のクライマックス,赤壁の戦いから1800年の記念イヤーです.現地は凄いことになるんでしょうか(私は行ったことはないんですが,赤壁にいくと川岸の断崖に「赤壁」と赤い文字で書いてあるんだそうです.ローレライみたいだ 笑).

⑧ 前漢滅亡(新建国)2000年

 現在に続く中国文化の基礎が形成された時代といわれる漢代.その前半部をしめる前漢王朝が,外戚の王莽に簒奪されて滅亡してから2000年の記念イヤーです.王莽の建てた国はといいますが,政策的には逆で周代の政治に戻そうとして失敗し,短命に終わってますからむしろという国号の方がピッタリだと思います(笑).

 いろいろある2008年の記念イヤー,個人的にはカラヤンと赤壁の戦いでしょうか.

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2007年12月19日 (水)

幕末検定

 職場の売店でこんな本を見つけた.

Img283

 最近各地で検定ものがはやっているが,その一環なのだろう.幕末に関する問題に答えて,その点数によって評価するという企画だ.問題は全部で110問,すべて四択形式である.カテゴリーは

 ① 幕末の人物

 ② 幕末の事件・戦い

 ③ 新選組

 ④ 女・大奥

 ⑤ 生活・風俗

 ⑥ 外国人

 ⑦ 文明開化

 に分かれており,カテゴリー毎に採点してA~Cの評価をつけ,さらに全カテゴリーでの総合評価に進むという評価方法となっている(大学の卒業評価みたい).

 普段幕末愛好家を自負しているものとしては,見逃せない.早速購入してやってみた.問題は簡単なもの(★ひとつ)が3点,中くらいのもの(★ふたつ)が5点,難しいもの(★みっつ)が10点という配分だ.要するに簡単な問題しか解けないとぜんぜん点数が上がらないことになる.順番に回答して採点、さあ結果は!

  総合判定  藩主・家老級

 (上から順に英雄級藩主・家老級奉行級与力・同心級凡民級の5階級)

 うーん,これが今の自分の実力かと納得しつつも,もっと修行せねばと思ったのでした(ちなみに②,③はさすがに高得点だったが,④や意外に①に苦戦した).

 

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2007年12月15日 (土)

赤穂浪士

 昨日12月14日は討ち入りの日だった.旧暦の元禄15年(1702年)12月14日(正確には12月15日未明),元播州赤穂藩家老大石内蔵助以下の浪士四十七人が,本所松坂町の吉良邸を襲撃,吉良上野介義央の首級を挙げた.太平といわれる元禄時代に起こった一大武装闘争事件である.

 仮名手本忠臣蔵の題材になった事件でもあり,現在でも非常に有名である.NHKの大河ドラマ(H.11年の元禄繚乱,S.57年の峠の群像など)や民放の年末時代劇などでもしばしば取り上げられている.ただ非常に有名な事件でありながら,その一方謎の多い事件でもある.

 まず討ち入りの前提になった,前年元禄14年3月14日の江戸城松之大廊下での刃傷事件から謎に満ちている.第一の謎はなぜ浅野内匠頭長矩一があの日松之大廊下で刃傷に及んだかである.一応,浅野が「この間の遺恨覚えたか!」と叫んで,吉良上野介に切りつけたことになっているのだが,江戸城内で刃傷事件に起こすことがどれほど重大なことか,知らない大名はいないはずである.そんな中で事件が起こったのだから,浅野長矩は我を忘れるほど激昂していたことになる.であるから,松之廊下で吉良と浅野が言い争いをしていて,興奮した浅野が切りつけたというなら話はわかる.しかし実際には浅野が不意に吉良に切りつけたようなのである.つまり事件直前に浅野が我を忘れてしまった理由が不明なのである(外で何かがあり,怒った浅野が吉良のもとに飛んでいって切りつけたわけでもないようだ).

 第二に動機である.巷では勅旨供応役を拝命した浅野が指南役だった吉良に賄賂を送らなかったために意地悪をされたとか,赤穂と吉良の塩をめぐる争いだとか言われているが証拠はないようである.結局この刃傷事件は動機もはっきりせず,単に浅野長矩が錯乱して斬りつけただけだったという説もある.

 しかしこの刃傷事件の結果,赤穂浅野家は改易となり,藩士は路頭に迷うことになった.その後紆余曲折を経て,翌元禄15年12月14日の討ち入りに至るのだが,ここにも謎はある.刃傷事件の後同年8月に吉良が突然幕府から屋敷の移転を命ぜられていることだ.

 元々吉良邸は江戸城に近い呉服橋(JR東京駅付近)にあったのだが,この命令で本所松坂町に転居となった.ここはJR両国駅の近くで,今では都心といった感じだが,当時は江戸のはずれの雰囲気で,かなり寂しい所だったらしい.これは何を意味するのか.直前に吉良義央は隠居しており,隠居に伴う移転ということも考えられる.しかし旧赤穂藩士の襲撃がウワサされている時期でもあり,幕府が討ち入りをさせるために転居させたとも取れるのである(郊外であれば他人の目にも触れにくい).

 結局当日浪士たちは,幕府の捕り方に誰何されることもなく,吉良邸討ち入りを行うことができたのであった.

 ちなみに浅野=善玉,吉良=悪玉という構図は後の仮名手本忠臣蔵によって確立した概念であり,必ずしも史実ではない(たとえば地元赤穂の領民の間での浅野家の評判は芳しくなく,逆に吉良上野介の領地での評判は良かったらしいとか).

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2007年11月24日 (土)

東ローマ帝国の滅亡

 BS iで放送されていた東ローマ帝国の特番「東ローマ帝国~繁栄と滅亡・皇帝たちの軌跡~」が11月22日に最終回を迎えた.これは2003年に放送された東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のスペシャル番組の再々々‥放送で,今回は10月11日から木曜日ごとに放送されていたものである.普段からビザンチン皇帝を名乗っているものにとっては,絶対に見逃せない番組で,私も何度か見ている.

 最終回は,第5回「滅びゆく全世界の支配者」と題して,十字軍から帝都コンスタンチノープルを奪回した後の,パライオロゴス朝時代の物語であった(時代的には13世紀後半から15世紀半ばまで).この時代西ヨーロッパでは国王を中心とした中央集権国家が形成されはじめ,ベネチアやジェノヴァといったイタリアの商業都市が隆盛し、地中海貿易の実権を握っていた.東方では新興イスラム国家であるオスマン・トルコが勃興していた.東ローマ帝国は往年の栄光をすっかり失い,首都とその近郊および小アジア北東部とペロポネソス半島付近にわずかに領土を持つだけの小国家になっていた.かつては世界の富の3分の2が集まるといわれたコンスタンチノープルも,商業上の利益はすべてイタリア都市に持っていかれる有様で衰退していた.小アジアからはトルコが,バルカン半島からはセルビア王国が帝国を脅かしていた….

 と堅い話は置いといて,番組中東方正教を受け入れたセルビアの教会の話が出ていたのだが,その教会の名前に目が点になった.

Pb230002 サボールナ教会(さぼるな教会?)って…,凄い名前だ.礼拝を2回続けてサボると破門されるとか,何か激しそうな教会です.

 今回これを発見したのはKです.過去何回か見ていた私は気がつきませんでした(笑).

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2007年10月26日 (金)

東ローマ帝国再放送

 ものすごく久しぶりのビザンチンネタ.

 最近このブログのアクセス解析で,「東ローマ帝国 BS i」というキーワードが急増している.なんだろうと思って調べてみたら,どうやらBS i で”東ローマ帝国~繁栄と滅亡・皇帝たちの軌跡~”の再放送が行われているらしい(いったい何度目の再放送なんだろう).今回は毎週木曜日の夜8時から放送しているようだ.

 BS i の”東ローマ帝国~”は中世に東西世界の中間にあって,1000年の長きにわたって存在し,繁栄と衰亡を繰り返した大帝国(東ローマ帝国)の物語である.東ローマ帝国とは,このブログのタイトルにもなっているビザンチン帝国とほぼ同義語である(ビザンチン帝国の歴史についてはHPの私の拙文ビザンチン帝国についてを参照下さい).普段ビザンチン皇帝を名乗っているものにとっては見逃すことのできない番組で,私も以前の放送を録画したものを時々見ている.番組は全5回のシリーズで,帝国史上重要な役割を果たした皇帝にスポットをあてた構成となっている.当時の帝国の中心部であったトルコやギリシャはもちろん,イタリア,ウクライナなど周辺国にも取材し,豊富な映像をちりばめた造りとなっており,TBSの木村郁美アナの司会で,一橋大学の大月康弘教授(本放送時は助教授)の解説,さらには夏木マリ氏の朗読を交えながら進行していく.全5回の構成は

 第1話 もうひとつのローマはこうして作られた 

 都をコンスタンチノープルに移したコンスタンチヌス1世の話である.当時4分割されていたローマ帝国の中で,コンスタンチヌス1世が当時は異教とされていたキリスト教を取り入れ,帝国の覇権を争うトーナメント戦に勝利して,帝国を再統一し,やがて東の地に新しい都コンスタンチノープルを建設する様子を描いている.

 第2話 最強の皇帝が残した華麗なる芸術 

 西ローマ帝国の滅亡後,地方の農民出身でありながら,志を掲げて都に上り,軍人として活躍し,ついには皇帝にまで上り詰めた6世紀のユスチニアヌス1世の物語である.内政的にはニカの乱など波乱含みでもあったが,后妃テオドラの助けもあり,彼の時代に帝国はその最大版図を記録した.文化的にも国内各地にモザイク画が作られた.

 第3話 帝国の黄金期に潜む陰謀と策略 

 帝国の最盛期である10~11世紀のマケドニア朝の諸皇帝の話である.元々ビザンチン皇帝位は必ずしも世襲ではなく,運と実力があれば誰でもなることができた.しかし社会が安定してくると,次第に血統を重視する考えもでてくる.そして血統と実力を兼ね備えた皇帝バシレイオス2世が登場し,帝国は最盛期を迎えた.

 第4話 十字軍に救いを求めた大国の誤算 

 12~13世紀の十字軍の時代である.11世紀後半小アジアにセルジュク・トルコが勃興し,国内では内乱が起こるなど帝国は危機を迎える.この時久々に軍人から皇帝になったアレクシオス1世は国内の政治体制を一新するとともに,西方世界に救援を求めた.こうして十字軍が始まり,その間隙を縫って帝国は勢力を盛り返した.しかし,それはまた滅亡の始まりでもあった.

 第5話 滅びゆく「全世界の支配者」

 14~15世紀のパライオロゴス朝の諸皇帝の物語である.かつての栄光を失い小国に転落した帝国に,東から新興国家オスマン・トルコの脅威が迫る.滅亡の危機の中,皇帝マヌエル2世,ヨハネス8世は西方に救援を求める旅に出た.しかし援軍はなく,帝国はついに最後の日を迎える.

Constantinus111 東ローマ帝国(ビザンチン帝国)最後の皇帝コンスタンチヌス11世(私の先祖です ウソ).

 昨日はこのうち第3話の再放送(再々々々放送くらいか)であり,久しぶりにじっくりと見たのでした.

 追伸: BS-i はTBS系である.TBSといえば最近の亀田家騒動を始め,ゴルフの石川遼選手の肉声盗聴未遂事件,朝ズバでの不二家捏造事件などブラックな話題が豊富な放送局である(古くはオウムビデオ事件や石原都知事の発言捏造事件なんてのもあった).しかし,BSの世界ではBS-i はこの「東ローマ帝国~」をはじめ,良質な番組を多く放送していると思う.このギャップは何なのだろうか.関わっているスタッフが違うのだろうが,BSではあまり視聴率を気にしなくてもいいからだろうか(だから思い切った番組が作れるのか?).地上波のTBSの惨状とBS-i を比べると,とても同じ系列とは思えないのだった.

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2007年10月 1日 (月)

しながわ宿場まつり

 私にとって秋は1年でもっともイベントの多い季節ですが,今週末もイベントが目白押しでした.

 まずは9月29日土曜日,この日は私も所属している合唱団のメンバーの結婚式披露宴があり,合唱団の面々と祝福の演奏をするため高原のホテルへ.そこで演奏を無事に済ませると,そのまま盛岡駅に直行,18時40分の新幹線に飛び乗った.目的は翌30日に行われる”しながわ宿場まつり”に参加するためである.この週末岩手県は秋晴れの予報,一方首都圏は…,なんかイヤーな予感を感じながら出掛けた私でした.

 品川のホテルに一泊して,翌朝目を覚まし外を見ると…,予感的中の雨降りでした(しかも降水確率80% 泣).しかも時間と共に雨脚はどんどん強くなっていく,これでパレードができるのかと不安になりましたが,強気の実行委員会の下,無事(?)に行われました.詳細は後日レポにまとめます.いやー疲れたけど面白かった.

P9300104 私が扮したのは近江彦根藩第13代藩主,大老井伊直弼です.

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2007年8月14日 (火)

幕末の水戸藩

 久々の幕末モノ長文です.先日の水戸訪問で撮った写真を使っています.時間のある方はお付き合い下さい.

 幕末期において,水戸藩ほど悲劇的だった藩はなかったのではないだろうか.悲劇的といえば,会津藩もそうなのだが,会津藩の場合は藩としてひとつの思想の下に突き進んだものの,時代が彼らに味方しなかったという感じだ.それゆえ悲劇的ではあるのだが,京都での新選組や藩主容保と孝明天皇の結びつき,そして会津戦争での白虎隊などそこには我々の胸に響く歴史がちりばめられている.しかし水戸藩の場合は,藩を上げて活動する以前に,内部抗争で崩壊してしまった点に,より悲劇性を感じる.

P8040004 JR水戸駅前の水戸黄門御一行の像

 水戸藩は言うまでもなく徳川御三家のひとつである.徳川家康の十一男徳川頼房を藩祖とし,二代藩主には有名な水戸黄門こと徳川光圀がいる.水戸藩主は参勤交代のない江戸常府の大名であり,そのため常に江戸にいて,将軍を補佐する役割として”天下の副将軍”などと呼ばれる(実際には幕政を動かすのは,譜代大名から選ばれる老中や大老であり,御三家を初めとする親藩大名には幕政参加の権利はないのだが).ただ水戸藩は,実高は25万石程度に過ぎなかったのに,御三家という高い格式を重んじて,表高38万石を標榜したため,常に経済的には苦しかった.このため自然と質素・尚武の気風が養われていった.

P8040098 大日本史完成の地碑

 水戸藩は光圀の大日本史の編纂で知られるように,学問の気風が強い藩である.その水戸学の基本思想は尊王論であり,この思想は幕末の尊皇攘夷思想につながっていく.幕末期にこの水戸学の大家として全国の尊攘派の志士に大きな思想的影響を与えたのが,藤田東湖会沢正志斎である.東湖は同じく水戸学者で彰孝館(水戸光圀が設立した学問所)総裁だった藤田幽谷の子として文化3年(1806年)に生まれた.文政12年(1829年)に徳川斉昭が藩主になると,その側近として藩政改革に活躍すると共に,その尊王攘夷論でもって全国の志士たちのオピニオンリーダーとなった.一方の会沢正志斎は天明2年(1782年)に生まれ,東湖と同じく斉昭の藩主就任と共に重用され,藤田幽谷の死後は彰孝館の総裁になった.文政7年(1824年)にイギリスの捕鯨船が遭難して,船員が常陸大津浜に上陸するという事件が起こると,彼は藩命によりイギリス人を捕らえ,彼らを尋問する任務を果たしている.この直後に彼が著したのが「新論」で,強い尊皇攘夷思想が述べられたこの本は,全国の若い尊攘志士たちのバイブルとなった.このように東湖や正志斎の影響は強く,薩摩の西郷隆盛や長州の吉田松陰,越前の橋本左内らも彼らの薫陶を受けた志士である.こうして水戸発の尊攘思想は時代をリードする思想となった.

P8040046 藤田東湖誕生の地に立つ東湖の像

 ここで話を水戸藩の政局に移す.元来水戸藩の内部には保守派と改革派の対立があった.その根源は寛政期の藤田幽谷立原翠軒による「大日本史」の編集方針の対立であったという.これ以後藤田派が改革派(尊攘派),立原派が保守派(佐幕派)となる.両派は事あるごとに対立したが,文政12年(1829年)に改革派に支えられた斉昭が藩主に就任することで,保守派は一掃されていた.しかし,安政2年(1855)10月2日に江戸を襲った大地震で改革派のトップとも言うべき東湖が圧死すると藩を取り巻く状況は暗転する(地震の時東湖は,屋敷から逃げ出したものの,母親がまだ屋敷内にいることを知って引き返し,母を逃がした直後に落下してきた梁の下敷きになったという).

P8040099 水戸藩9代藩主斉昭とその子,後の徳川幕府15代将軍慶喜の像

 嘉永6年(1853年)の黒船来航以来の中央政局は,通商条約を結ぶかどうかの問題(通商問題)と第14代将軍を誰にするかの問題(将軍継嗣問題)が複雑に絡んで混乱していた.将軍継嗣問題では水戸藩は斉昭の下,薩摩の島津斉彬,越前の松平春嶽らと組んでいわゆる,一橋派(斉昭の実子,一橋慶喜を推す一派)を形成していた.しかし,安政5年(1858年)4月に彦根藩主井伊直弼が大老に就任すると状況は一変,条約は締結され,14代将軍は紀州藩主徳川慶福と決した.朝廷の勅許を得ない調印に激怒した斉昭は江戸城に押しかけ,井伊に抗議したが,逆に無断登城を咎められ永蟄居となってしまった.斉昭の失脚によって,水戸藩内の保守派は俄然勢力を盛り返した.

P8040021 水戸の弘道館内に残る尊攘の文字

 こうした中,安政5年8月突如として密勅降下事件が起こる.「幕府を動かして攘夷を実行せよ」との勅状が朝廷から水戸藩に直接下されたのである.まさに幕府の権威をないがしろにした大事件である(井伊との抗争に敗れた斉昭が朝廷を動かしたといわれるが,逆に井伊の陰謀であったという説もある).幕府は水戸藩の保守派にテコ入れして勅状を返還するよう圧力をかけるとともに,勅状降下に関与したとして改革派の水戸藩家老安島帯刀を捕縛する挙にでた.御三家の家老が幕府に逮捕されるというのは前代未聞の異常事態である.これに反発する改革派(これ以降は激派と呼ぶべきか)は返還を実力で阻止するため,江戸に通じる街道を占拠し,通行人の身体改めをするという行為に出た.こうして藩内は大混乱に陥っていく.

P8040067 桜田門外の変之図(水戸 回天館)

 その後安政6年にかけて日本国内には安政の大獄が吹き荒れ,井伊直弼に反対する勢力は次々に逮捕され断罪されていった.この中には先に逮捕された安島帯刀ら水戸藩の改革派のものも多く含まれている.翌万延元年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊は暗殺されるが,暗殺者18人のうち17人が水戸脱藩浪人であった.

 白昼,大老が暗殺されるなど,幕府にとっては面目丸つぶれである.いかに脱藩浪人とはいえ,暗殺者の大半が水戸であったことから,幕府による水戸藩過激派の取り締まりはますます強くなった.さらに同年8月に斉昭が急死,重石を失った藩内の混乱に拍車がかかる.過激派は文久元年(1861年)5月に高輪のイギリス公使館を襲撃,さらに翌文久2年1月には坂下門外の変で老中安藤信行を襲撃するなどのテロ行為を繰り返したが,幕吏の手に掛かり多くのものが逮捕,斬罪されていった.

 そして元治元年(1864年)3月についに天狗党の乱が起こる.天狗党とは水戸藩激派のことである.当時藩政は保守派に握られていたことから,天狗党は攘夷の先駆けとなるべく筑波山で挙兵したのだった(この天狗党の挙兵に対し長州の桂小五郎が資金協力をしていた).この頃の藩内の状況は,従来の幕府に恭順する保守派(諸生党)と反対する激派の対立構造から,激派自体が藤田小四郎(藤田東湖の息子)ら最過激派(天狗党)と会沢正志斎,武田耕雲斎ら穏健派とに分裂し,三つ巴の情況を呈していた.天狗党の乱を起したのは最過激派の藤田小四郎らである.

P8040063 天狗党の進路を記した地図.太平洋岸の那珂湊から日本海側の敦賀までざっと600kmもの距離があります.

 攘夷を実行すべく挙兵した天狗党だが,実際には藩内の派閥抗争の様相を呈してきた.この頃になると,敵の留守宅を襲撃し,妻子を捕らえて虐殺するなどの事件も続発してきたため,お互いの憎しみはますます増大し,戦いは陰惨さを増していった.

 筑波山周辺での泥沼の戦いは数ヶ月続いたが決着は付かない.筑波山による小四郎ら天狗党,水戸を押さえ政権を牛耳っている市川三左衛門ら保守派(諸生党),磯浜による武田耕雲斎らの中間派,さらには天狗党討伐のため派遣された幕府軍などが入り乱れた状況であった.家老の武田耕雲斎は藤田東湖と共に斉昭の藩政改革を支えた人物で,元々激派に属していた.しかし小四郎ら最過激派の行動には批判的で,中間派を形成していた.天狗党の乱が起こると,当初は江戸の藩主徳川慶篤の命で乱を鎮めるべく水戸に向かったが,市川ら諸生党に水戸入城を拒絶され,逆に攻撃される有様であった.ここにいたり耕雲斎ら中間派も天狗党に合流することになった.

P8040071 本来小四郎らの挙兵には反対であったが,やむなく天狗党の首領にされた武田耕雲斎

 戦闘は幕府軍の増援がやって来て,次第に天狗党に不利な状況になってきた.こうした中,天狗党では状況を打開するために京都に上って,将軍後見職の一橋慶喜を通して,朝廷に直接尊皇攘夷の赤心を訴えようということに決し,11月1日に京都に向かって進軍を開始した.幕府は天狗党を追討するよう諸藩に命じたが,諸藩では天狗党が歴戦の精鋭であることや,藩士の中に天狗党を支持するものも多かったことから,実際にはあまり戦闘は起こっていない(諸藩では天狗党が主要街道を通過すると戦わざるをえないため,ひそかに路銀を渡して間道を通るように誘導する始末であった).そして12月11日一行はついに越前の国新保に到着した.

 しかしここで彼らを待っていたのは,頼みの慶喜自身が追討軍を率いてやってくるという知らせであった.慶喜に弓を引くことはできない,やむなく彼らは12月17日,所在の加賀藩に降伏した.

 当初加賀藩は降伏した天狗党を敦賀の3ヶ所の寺に収容した.加賀藩の永原甚七郎は彼らを武士として丁重に扱い,正月には餅や酒も振舞われたという.しかし,明くる元治2年1月29日,幕府の若年寄田沼意尊がやって来ると状況は一変する.田沼は天狗党の面々に手枷足枷をはめて,海岸の鰊倉にぶち込んだのである.暖房も布団もない鰊倉は真冬の寒さと,魚の異臭が漂い極めて劣悪な環境であった.そして簡単な取調べが行われたのみで,2月4日から武田耕雲斎,藤田小四郎以下400人近い人々が死刑になった.これが幕末維新史で最も凄惨な事件といわれる天狗党始末である(この時天狗党の処刑を担当したのが,桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった).

P8040073 天狗党が収容された鰊倉 

 それにしてもひとつの事件で400人近くもの人間が死刑になるなど例のないことである.あの安政の大獄でも1年間で死刑になったのは8人であるし,天狗党の乱との類似性が指摘されている昭和の二・二六事件でも死刑は19人である.いかに天狗党の始末が常軌を逸しているかがわかる.

P8040087 水戸の妙雲寺にある武田耕雲斎の墓所(耕雲斎の墓は彼が処刑された敦賀にもあります).

 天狗党の処刑の後国許では,市川ら諸生党の攻撃がエスカレートし,天狗党に連なる人たちが老若男女問わず大量に処刑された(武田耕雲斎の一族も皆殺しにされている).こうして天狗党の乱によって水戸藩の尊攘派は壊滅状態となり,以後慶応年間を通じて水戸藩は佐幕藩となった(今年のひのパレの隊士コンテスト2次審査のネタが慶応3年冬の二条城における近藤勇と水戸藩重臣とのやり取りであった.この中で近藤が「我らは幕府のために命を懸けて戦ってきたが,貴公たちは何をしてきたのか」と凄むシーンがあったのだが,新選組が命懸けで不逞浪士と戦っている間,水戸藩は内部抗争に明け暮れていたのである).

 しかし,慶応3年大政奉還が行われ,翌正月鳥羽伏見の戦いが起こり,幕府の衰勢が明らかになると,水戸藩の諸生党は苦境に立たされた.この時かつての激派の残党が勢力を盛り返し,藩の実権を握った.市川ら諸生党は水戸を脱出し会津に向かったが,同年9月会津が降伏すると,再び水戸に舞い戻り藩校の弘道館によって,水戸城の激派と戦った(弘道館の戦い).戦いは激派の勝利となり,市川三左衛門は処刑され,諸生党は大打撃を受けた(この時,かつての天狗党の敵とばかり,諸生党の一族への迫害が起こった).明治になっても両派の争いは収まらず,明治2年に成立したばかりの新政府から,内部抗争をやめるように命令されるほどの状況であった.

P8040058 幕末の抗争で非業の死を遂げた水戸藩士達の共同墓地.まさに死屍累々です.

 こうして幕末の水戸藩は,尊王攘夷思想の魁でありながら,内部抗争で有為な人材をことごとく失ってしまった.明治政府が成立したとき,その要職に就いた水戸出身者はただの一人もいなかったのである.

 追伸: 今年のひのパレで私が演じた新選組五番隊隊長”武田観柳斎”はここで出てきた武田耕雲斎の親戚ではありません.

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2007年8月 9日 (木)

本能寺の焼け瓦

 昨日テッペンカケタカの記事を書いている最中に,信長時代の本能寺のものと思われる遺構が発見されたというニュースが流れていた.

 焼けた?瓦出土、本能寺の変「史実を裏付ける貴重な発見」(読売新聞)

 1582年(天正10年)6月2日未明に本能寺に滞在していた織田信長は,明智光秀の軍勢に襲撃され寺に火を放って自害して果てたとされている.これが世に言う本能寺の変で,坂本龍馬暗殺などと並ぶ日本史の謎のひとつである.明智光秀が織田信長を襲撃したという点は確からしいのだが,動機に関しては今でも謎とされている.実行者は光秀なのだが,光秀の単独行動なのか,背後に黒幕がいたのかなどもわかっていない.黒幕については,朝廷説,足利義昭説,秀吉説,はたまたイエズス会説,フリーメイスン陰謀説なんてのもある(どうでもいいけどフリーメイスンができたのは18世紀だと思うのだが… 笑).

 本能寺はこの変で全焼してしまい,後に別の場所に再建されて現在に至っている.従って信長時代の本能寺の様子はこれまで知られていなかった.しかし,今回の発見によって,当時の本能寺の様子の一部が判ってきたそうである.これまで,本能寺の変で信長側は無防備な状態で光秀軍を迎えたとされていたが,発見された遺構には堀や石垣などもあり,当時の本能寺が単なる寺ではなく,砦の機能も併せ持った施設であったようだ(確かに当時は僧兵などが武装した寺院も多かったから、本能寺に軍事設備があったとしても不思議ではない).

 今後の研究が待たれる話であるが,テッペンカケタカの上演と時を同じくしてのこの話題,なんか不思議な縁を感じた私であった.

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2007年8月 8日 (水)

テッペンカケタカ

 先週末首都圏に出向いた私でしたが,その目的のひとつが劇団エル・プロダクツ(以下エルプロ)の公演を鑑賞することでした.エルプロはひの新選組まつりの隊士パレードで井上源三郎率いる六番隊の隊士を務めている人たちの劇団で,新選組を初めとする時代物を数多く取り上げて活動しています.私は縁あって昨年(2006年)のひのパレで井上源三郎役をやらせていただいたため,面識を得ることができました.エルプロの昨年の公演は「はなさかづき」,戊辰の会津戦争を描いた感動的な作品でした(関連記事はなさかづき).

Dscf0021 第9回ひのパレにてエルプロの皆さんと

 そのエルプロの第10回という節目の公演がこの「テッペンカケタカ」であります.場面は戦国時代,あの織田信長の生き様を描いた作品です.信長といえば,赤穂浪士の討ち入りと並ぶ,日本史のメジャーアイテムであります.そういうネタを扱う以上,通り一遍の解釈や演出では評価を得ることは難しく,相当なオリジナリティーを出す必要があるのではと思いました.HP「斬心」上に公演の案内が掲載され,ポスター(チラシ?)も掲示されたのですが,真っ赤な空とまばらな木が生えた大きな岩,添えられたキャッチコピーは「天辺の欠けた隙間から降りてくるのは何者なのか…」,「人々の願いを叶えるのは誰でもいい。神でも、悪魔でも」と.これを見ただけで「ムム,これはただの作品ではない」と期待を抱かせます.

Img176 テッペンカケタカのチラシ

 さて,肝心の舞台の方ですが,プロローグは信長誕生,子供は母親の愛情を受けて育つ,でももし母の愛が受けられなかったら…,なんとなく将来の暗い雲が予感されます.そして信長の天下布武の戦いが始まります.既存の価値観にとらわれず,政敵を容赦なく排除する信長,その傍には森蘭丸が控えています.しかし蘭丸には単なる小姓とは思えない,ただならぬ雰囲気が漂っています.時に自分のやっていることが本当に正しいのか自問する信長,しかしそんな時には,彼の分身とも言うべき吉法師が現れ,覇道を進んで王になれと囁きます.そんな信長の苦悩をただ一人理解していたのが明智光秀でした.

 物語のコンセプトは,本能寺の変で主君信長とともに非業の死を遂げた森蘭丸の無念の心が,時代を越えて過去に転生し,信長を王にすべく暗躍するというものでした.そして信長を中心に,秀吉や家康,光秀などの武将たち,蘭丸に協力するために同じく転生した細川ガラシャ,キリスト教の宣教師,さらには群集などが絡んでいくのでした(武将や大衆などの役はコロスという人たちが声色を変えて演じていました).ただ歴史のやり直しを演じている森蘭丸自身も,自分と信長の死についての記憶は失われているのでした.

 物語終盤,真の心を取り戻した信長は呪縛を振り切るべく光秀に自分を倒すよう命じます.驚きつつも信長の苦悩を知っている光秀は本能寺へと向かうのでした.

 この舞台,過去への転生や心を支配しようとするものの存在などSFタッチの作品となっています.人間の強い無念の心が魂を過去に転生させる,という筋立ては1980年代のRPGの名作ファイナルファンタジーを彷彿させました.歴史にifは禁物といいますが,本作品のように歴史の大筋には手を加えず,あくまでもその経過に新たな解釈を入れて,もしこういう背景があったらどのように展開しただろうかと考える筋立て(ある種の知的な遊び心)に非常に好感を抱きました.

 最後は歴史どおりの展開となるため,本能寺にて蘭丸は信長と共に命を落とします.物語の始まりが,非業の死を遂げた蘭丸の無念が過去に転生するというものでしたから,もしかしたら彼の心は再び過去に転生し,三度歴史のやり直しが起こるのではないか,ふと私はそう思いました(もしかすると永遠に繰り返される輪廻の世界では?).しかし舞台のラストに母の愛に包まれ,幸せに満ちた吉法師の姿が演じられました.私はこのシーンを見て,これで輪廻の鎖は断ち切られるだろうと確信しました.あれほど主君を愛した蘭丸が,主君の幸せな表情を見て歴史をもう一度リセットしようなどとは思わないだろうからです.

 戦国モノのお芝居や映画は数多いでしょうが,かなり斬新な脚本で,2時間があっという間でした.役者さんも皆個性は揃いで素晴らしかったです(ひのパレの殺陣とはまた違った楽しさがありました.わずか2日間の公演はもったいないとも思いました).

 追伸: 表題のテッペンカケタカというのはホトトギスの鳴き声だそうです(ホトトギスの鳴き声としては他に特許許可局というのもあって,私はそっちの方が近いのではと思ってたりします).初めてチラシを見たとき,「テッペンハゲタカ」かと思い,しかも配役に宣教師のフロイスの名が…,てっきりフランシスコ・ザビエルの頭の話(てっぺん禿げたか)かと思いました(笑).

Zabieru 髪の毛がテッペンカケテル,F・ザビエルです

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2007年7月10日 (火)

早稲田の校歌100周年

 実は今日2007年7月10日は早稲田大学の校歌が制定されてちょうど100年になると,午後2時台のNHK総合の番組でやっていた.早稲田大学の校歌といえば,「都の西北早稲田の杜に~」で始まる,おそらくは日本の大学校歌で最も有名な曲であろう.なにしろ,赤塚不二夫の天才バカボンにも,「都の西北早稲田のとなり~」で始まるバカ田大学というパロディーまででてくるほどである.そんな早稲田の校歌が制定されたのが1907年(明治40年)7月10日なのだそうである.ちなみに作詞者は相馬御風,作曲者は東儀鉄笛とのことであった.

早稲田の校歌はこちらから聴けます

 さて,番組中に触れられていたのだが,この早稲田の校歌,実はアメリカのアイビーリーグの名門イェール大学の愛唱歌の旋律に類似しているらしい.番組中にもイェール大学の愛唱歌も流れていたが,確かに似ている.特にサビの部分「早稲田,早稲田~」の部分はそっくりであった.実際に当時の書簡から,早稲田の校歌にイェール大学の歌が影響を与えたのは間違いないらしい.

 しかし,だからといってこれを単純にパクリだと突き放すのは正しくはない.校歌というものは元々みんなが簡単に愛唱できることが重要であり,他の有名な曲などを引っ張ってきて校歌にするのは世界各地で行われていることらしい.我が岩手県にある盛岡一高の校歌が軍艦マーチの旋律であり,同じく一関一高の校歌が旧制一高の寮歌「春爛漫」であるのも同様の理由であろう.

 ちなみに日本の大学で校歌があるのはもっぱら私立大学で,国立大学で校歌がある大学はほとんど聞いたことが無い(大概の国立大学には学生歌と呼ばれる曲があるが,合唱部などを除いては一般の学生にはほとんど知られていない(例 東北大学 青葉萌ゆる).

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2007年6月 2日 (土)

ビザンチン帝国の滅亡とユリウス暦

 気がつけばもう6月である.5月はひのパレがあったり,学会があったり本当にあっという間に過ぎてしまった感じだ.

 実は私のHP&blogにとってきわめて重要な日がこの5月にあるのだがすっかり忘れていた.それは5月29日,これはビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルが陥落し,帝国が滅亡した日なのである(1453年のこと).普段ビザンチン皇帝を名乗っているものとしては,厳粛な気分でこの日を迎えなければならないはずだったのに……(ますます名が体を表さないサイトになってしまう 泣).

 しかし,ふと思ったのだが,現在私たちが用いている暦はグレゴリオ暦といって16世紀のローマ教皇グレゴリオ13世が制定した暦法である.これ以前の西洋の暦はユリウス暦といい,紀元前1世紀にローマのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が制定したものである.

 ユリウス暦は1年を,平年は365日とする.そして4年に一度閏年を設けてこの年のみ,1年を366日とする暦である.これに従うと1年の平均は365.25日になる.ところが実際の1年は365.2422日なので(これを計算したのは有名なコペルニクスだそうです.頭が下がります),1年に0.0078日(11.232分)の誤差が出る.1年間に11分なんて大したことないと思うが,塵も積もればで,ユリウス暦制定から1600年経過した16世紀半ばにはその誤差は10日以上となってしまった.このため,教会暦で春分の日は3月21日と固定されているにもかかわらず,実際の春分は3月10日ごろという困った事態になったのである.

 そこで,1582年(日本では本能寺の変で織田信長が死んだ年)の10月4日木曜日の翌日を10月15日金曜日にすると同時に,新しい暦(グレゴリオ暦)の採用と相成ったのである.グレゴリオ暦では4年に1度の閏年は基本的に変わらないが,西暦で100で割り切れる年は閏年なし,ただし400で割り切れる年は閏年ありとする暦法である.この暦による1年は365.2425日となり,1年の誤差は26秒と非常に少なくなった(3000年で1日の誤差になる).

 さて,コンスタンティノープル陥落の1453年5月29日はまだグレゴリオ暦が作られていないから当然ユリウス暦である.じゃあこの日を,仮に当時グレゴリオ暦が存在したとして換算するといつになるのか,計算してみた(暇だなぁ~).それは…

 1453年6月7日である(1582年当時でユリウス暦とグレゴリオ暦の差は10日,このまま逆算していくと1453年当時の誤差は9日となる).

 かくして今年はこの日に一人で追悼行事を行うことにしようと決意したのでした.

 注) もちろん当時存在しない暦を使って議論するのはナンセンスです(泣).

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2007年5月27日 (日)

神秘の里Ⅰ~キリストの墓~

 2週間かかったひのパレレポも完成し,ようやくひとつの区切りになったと思う.私にとっての日常が戻ってきたというわけで,さあ早速ビザンチン皇帝の日常の再開です(笑).

 今日この辺の天気は良くなかったが,私にはどうしても行きたかった場所があった.それは”青森県新郷村”.青森県南部(いわゆる三八上北地方)にある人口4,000人の小さな村だ.農業が主体の何の変哲もない村に思えるが…,実は世界的に重要な村である.それは…

 なんとこの村には,”イエス・キリストの墓””世界最古のピラミッド”があるのだ.冗談ではない,本当にあるんだから仕方がない.実はこの存在は学生時代から知っており,十数年前に一度行ったことがあるのだが,その後どうなっているのか気にかかっていたのである.

 この新郷村,実は私の家からそう遠くない,距離にして100km弱,車で2時間ほどだ.新郷村の中心部からやや西に入ったところに,まずキリストの墓が出現する.

Christkan1 キリストの墓とピラミッドを示す看板.冷静に考えると,とても恐ろしい看板です.

 いうまでもなくイエスはキリスト教の救世主で,エルサレムなどで神の教えを説くが,ユダヤ教の大祭司や律法学者の反感を買い,また弟子のユダの裏切りもあり捕えられて総督ピラトの下に引き出され,十字架に架けられる.これが聖書にも載っている物語である.

 しか~し,昭和10年に発見された竹内文書によると,十字架上で死んだのはイエスではなく,弟のイスキリであり,イエスは弟子とともに逃れ,4年後の2月26日(妙に具体的だ)に八戸に上陸して,今の新郷村に定住したのだという.イエスはこの地で結婚し,106歳の長寿を全うしたのだという.

Hakateamae ここの高台にキリストの墓があります

Chrihakakan キリストの墓の由来が記されています.

 イエスがこの地に来たという証拠として以下のものが挙げられている.

 ① 墓のある地名「戸来(へらい)」はヘブライがなまったものである.

 ② この地域では子供が産まれ,その子をはじめて戸外に出す時に額に墨で十字を書く.

 ③ この地の名家沢口家の家紋はダビデの星である.

 ④ この地に伝わる盆踊りの歌詞「ナニャドヤラー,ナニャドナサレノ…」はヘブライ語で「御前に聖名をほめ讃えん…」と読める.

Chrihaka これがキリストの墓です.ちなみにこの墓の隣には,ゴルゴダの丘でイエスの身代わりになって死んだ弟イスキリの墓があります.

 これに対する反論も数多くあるのだが(有名な民俗学者の柳田國男氏は「ナニャドヤラ」の歌詞は単純な男女の語り合いからきているという説を採っている),とりあえず今もこの説を元に地元では毎年お祭りが行われている.それが…

 「キリスト祭り」である.

 しかも6月初旬の日曜日(今年は6月10日)に行われる.クリスマスやイースターと全く関係ない時期に行われるが,元々十字架上でイエスが死んでいないことを前提にしているのだから当然だ.

Chrifes 6月10日(ちょうど2週間後)にキリスト祭が行われるそうです.44回目ということで,なんと!ひの新選組まつりの4倍もの歴史があります.

 村内には今年のキリスト祭りのポスターも多数貼られていた.ポスターを良く見ると,キリスト慰霊祭などが行われるのだが,その中身はというと,牧師さんや司祭さんの説教などは一切なく,詩吟奉納や神事,玉串奉奠など純和風のお祭りが繰り広げられるらしかった(十字架上でイエスが死んでいないのだから,カトリックもプロテスタントも全くナンセンスなのだった).ペテロやパウロがこれを知ったらどう思うだろうか….

Fespos1 キリスト祭りのポスターです.2007年6月10日にキリストの墓のある,キリストの里公園(そのまんま)で行われます.

Fespos2 拡大した写真.キリスト慰霊祭は純和風に行われます.

 本来ならお祭り当日に訪れたかったのだが,6月10日は他の用事があり,参加できないため今日とりあえず訪問した次第であった.

 キリストの墓そばには,イスラエル政府から送られた碑文もあった.考えてみればイスラエルはユダヤ教であり,イエスは重要な存在ではないから村に協力してくれたのだろう(バチカンなら絶対に協力してくれそうにない).

Christsake そしてお土産にはこれ,キリストの里というブランドの日本酒です.

 さらにこの新郷村には,もうひとつピラミッドという恐るべき観光名所があるのだが,これについてはまた明日.

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2007年5月 4日 (金)

武田観柳斎と武田耕雲斎

 第10回ひの新選組まつりまであと1週間,いよいよ気分も盛り上がってきている.昨年のコンテストで,「希望の隊士は?」と聞かれた私は,「武田観柳斎!」と答えた.どちらかといえば学問派で,剣術の方はあまり得意でなさそうなところが,何となく自分に共通するような気がしたからと思われる.そんなわけで今日の話題は武田観柳斎である.

 武田観柳斎(?~1867)は出雲の国松江藩の支藩,母里(もり)藩の出身で,元の名前を福田要というらしい(中公文庫 新選組事典より).郷里では医学生だったという.福田は尊王論に惹かれていたが,松江藩主は親藩の松平氏だから,藩論はバリバリの佐幕派である.そんな環境に嫌気がさしたのか,脱藩して江戸に出た(不穏分子として藩に捕らえられ,脱獄して江戸に出たとも言われる).そこで甲州流軍学を学んだらしい.この時,武田信玄にあやかって武田観柳斎と名乗るようになった.その後の足取りは不明だが,文久3年の秋頃に新選組に入隊している.剣客揃いの新選組で,彼の軍学の知識は貴重な存在であった.隊内では副長助勤,文学師範から後には五番組長などを歴任した.上に対してはおべっかを使う一方で,下に対しては過度に厳しく当たる面があり,一般隊士には人気がなかったようだが,局長近藤勇の信用も厚く,元治元年の江戸行き,慶応元年の長州行きの際には軍師格として近藤に同行している.

 しかし幕府の軍制がフランス式に改められると,武田観柳斎の軍学は時代遅れのものとなり,徐々に隊内での地位も不安定になっていった.そこで彼は新選組から分離した伊東甲子太郎一派(御陵衛士)に接近したが断られている(伊東が新選組から分離する際に,以後新選組と御陵衛士間の隊士の移動は認めないという取り決めがあったためといわれているが,伊東自身に観柳斎に対する不信があったのかもしれない).

 行き場を失った観柳斎は薩摩藩に接近する.当時の薩摩藩は表向き公武合体派を標榜していたが,既に慶応2年1月に薩長同盟を結ぶなど,倒幕の動きを見せており,新選組からも敵方と認識されていた藩である.この薩摩藩との接触が露見し,慶応2年9月に斎藤一と篠原泰之進に斬られたと言われている.その一方,慶応2年後半に新選組を除隊し,その後独自に尊王攘夷活動を行ったために,慶応3年6月に新選組に殺されたという説もある.また子母澤寛の新選組物語によると,男色の気があったともいう.

Matsue 武田観柳斎の出身地,出雲の国松江です.今は近代的なビルが並びます.

Izumosoba そして,出雲といえば名物出雲そばです(写真は割子そばです).

 ところで,幕末に武田姓を名乗った有名人がもう一人いる.水戸藩の家老,武田耕雲斎(1803~1865)である.歴史的インパクトではこの耕雲斎の方が上であろう.水戸黄門で有名な水戸藩は尊王思想の本家ともいうべきところで,幕末期の藩主徳川斉昭と水戸学者の藤田東湖は,全国の尊攘派志士に強い精神的影響を与えたことで有名だ.この幕末の水戸藩で徳川斉昭を支えたのが武田耕雲斎である.こちらは元の名前を跡部正生といい,跡目を継いだ際に,武田信玄の末裔を称して武田姓を名乗ったものらしい.

 ペリー来航から安政年間にかけて,全国の尊攘活動をリードしていた水戸藩であるが,1855年(安政2年)の安政大地震で藤田東湖が圧死し,1860年(万延元年)に徳川斉昭が死ぬと,保守派と改革派の対立が激化して藩内は大混乱に陥る.この保守派と改革派の抗争はこの時期,どこの藩でも大なり小なり見られたことで,珍しいことではない.特に長州藩では,藩主がリーダーシップを発揮しなかったこともあり,両派の抗争で政権が保守派になったり,改革派になったりを繰り返していた.ただ長州藩の場合は抗争があっても,せいぜい敵方を追放する程度で,一族を根絶やしにするようなことはしていない.ところが幕末の水戸藩では政争で勝った側が反対派を一族郎党全て殺してしまうような,血で血を洗う激烈な抗争が繰り広げられたのだった(安政期には尊皇攘夷といえば水戸藩の専売特許みたいなもので,特に過激な水戸藩士が安政の大獄で井伊直弼に徹底的に弾圧され,その報復として桜田門外の変が起こったのである).

 こうして両派の報復合戦によって,水戸藩は有能な人材を失っていった.そして1864年(元治元年)3月に天狗党の乱が起こる.これは一向に攘夷を決行しない幕府に対して,藤田小四郎(藤田東湖の子)ら水戸藩の過激派が筑波山で挙兵したものである.武田耕雲斎は尊攘派ではあったが,過激派ではなく,この時藤田小四郎らの挙兵に対しては批判的であった.彼は過激派を説得すべく水戸に向かったが,逆に説得されて天狗党の首領に祭り上げられてしまった.この時耕雲斎61歳であった.

Kouunsai 天狗党の乱で悲劇的な最期を遂げる水戸藩家老,武田耕雲斎

 尊皇攘夷の決行を掲げて挙兵した天狗党だったが,早くも戦いはは水戸藩内の保守派との内戦の様相を呈してきた(このころ水戸を押さえた保守派は,過激派の留守宅を襲い,過激派の妻子を殺したりしたらしい).幕府や周辺の諸藩の干渉もあり戦いは泥沼化する.そんな中状況を打破するため,天狗党の面々は,将軍後見職の一橋慶喜(徳川斉昭の子)を通じて朝廷に自分達の赤心を訴えてもらおうと,京都に行くことを決定,天狗党800人余りが進軍を開始した.元治元年秋のことである.

 幕府や諸藩の軍と戦いながらも彼らは12月11日に越前の新保(現福井県敦賀市)に到着した.しかし彼らはそこで,頼みの一橋慶喜自身が追討軍を率いてやってくることを知った.もはやこれまでと観念した天狗党は12月17日に加賀藩に対して降伏した.

 天狗党に対する加賀藩の処遇は寛大なもので,1月1日には酒なども振舞われたらしい.また幕府に対しても寛大な処分を要請した.しかし幕府は当初から厳罰で臨む方針であり,天狗党の身柄を福井,彦根,小浜の各藩に委ねた.その結果彼らは敦賀の鰊倉にぶち込まれ,ろくな取調べもされないまま,首領の武田耕雲斎,藤田小四郎以下なんと400人近い人々が首を刎ねられた.この処刑を担当したのが桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった.

 この天狗党の大量処分は,血なまぐさい事件の多い幕末でも,ひときわ凄惨な事件である.この乱で水戸藩の尊攘派は壊滅状態となり,これ以降の水戸は王政復古まで佐幕藩となるのである.

 ちなみに武田観柳斎武田耕雲斎,何となく似た名前ですがもちろん血縁関係はありません.

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2007年5月 2日 (水)

渡辺崋山と高野長英

 ひの新選組まつりまであと10日となった.新選組が京都で活躍したのは1863年(文久3年)以降,幕末の最終段階のことである.いつからを幕末と呼ぶかについては,1853年(嘉永6年)のペリー来航(黒船来航)からという考え方が一般的である.しかし,このペリー来航も青天の霹靂のように起こった事件ではなく,少なくとも当時の知識人の間では,いずれ起こるだろうと予想された出来事であった.すなわちペリー来航以前のいわば,プレ幕末期とでもいうべき時期があったのである.

 江戸時代の日本は鎖国を行っていたとはいえ,隣国の李氏朝鮮やオランダとは通信・交易を行っていた.特にオランダからは,近年の西欧諸国の目覚しい進歩に関する情報がもたらされていた.19世紀に入ってから日本近海にはアメリカ,イギリス,ロシアなどの船が出没するようになっていたが,これに対して幕府は1825年(文政3年)に異国船打払令を出して,日本に近づく外国船は全て砲撃して追い払う方針を採っていた.そんな中,1837年(天保8年)にアメリカの商船モリソン号が浦賀沖に現れた.モリソン号は日本人の漂流民を伴ってやってきたのだが,浦賀奉行所は異国船打払令に従ってモリソン号に砲撃を加え,漂流民も受け取らずに追い払ってしまった(モリソン号事件).このような幕府の政策に批判の声を挙げたのが,当時西洋事情を研究していた蘭学者たちであった.すなわち渡辺崋山は「慎機論」を,高野長英は「夢物語」を著して幕政を批判したのであった(曰く,モリソン号は日本人の漂流民を伴って来たものであり,これを受け取ることもなく,砲撃して追い払うごときは,仁義に反するものである.このようなことをしては,いたずらに外国の不信を招き,侵略の口実を与えてしまう.それゆえ,ひとまずは入港を許し,漂流民を受け取った後,国法に従って交易に関しては拒否すべきである).

Watanabekazan Takanochoei

来るべき幕末の混乱に対して警鐘を鳴らした蘭学者(左 渡辺崋山,右 高野長英).歴史の教科書ではこの二人はセットで扱われる.

 しかし当時幕政批判は重罪であり,崋山や長英の論文も思いを同じくする仲間内で回し読みされただけであった.しかし,彼らの著作は以外に反響を呼び,特に「夢物語」は多くの人に読まれたようである.人の口に戸は建てられず,ついには幕府の知るところとなり,崋山や長英は逮捕されてしまった.これが世に言う「蛮社の獄」である(この時迫害の先頭に立ったのが,目付で後の江戸南町奉行の鳥居耀蔵であった.彼は遠山の金さんこと北町奉行の遠山景元のライバルでもある).この時の処罰が,田原藩家老であった崋山が国元蟄居であるのに,町医者だった長英は江戸で永牢(無期懲役)と身分によって異なっているのが興味深い.

 先日中部地方在住の友人を訪れた際,近所に渡辺崋山の記念館があるという話を聞いて早速出かけてきた次第である.実は高野長英は私の地元岩手県の水沢(現奥州市)出身で,長英については学校で習う機会もあったのだが,片割れの崋山の方はイマイチ印象が薄かったのである.

Kazanzou 渡辺崋山が晩年を過ごした家は,池之原公園となっており,崋山の銅像も建っています.

 渡辺崋山は三河の国田原藩(渥美半島にある,現田原市)の家老である.田原藩は12000石という小さな藩であるが,崋山の優れた政治手腕もあり,有名な天保の大飢饉の際には藩内で1名の餓死者も出さなかったといわれている(食料の備蓄庫である”報民倉”を作っていた).そんな優れた政治家である一方,画家としても有名であった.

 その後外国船が頻繁に日本近海に出没するようになると,西洋事情を研究するために蘭学者の高野長英らとともに尚歯会(当時洋学は禁止されていたわけではなかったが,集団で洋学を研究することははばかられたため,歯を大事にする会という意味の尚歯会と名乗った.一方鳥居耀蔵ら蘭学嫌いの役人はこの集団を蛮社と呼び警戒した)を作って活動した.そんな時に前述のモリソン号事件が起こり,崋山らは幕府を批判,これが幕府内保守派の鳥居耀蔵に睨まれて,1839年の蛮社の獄に至るのである.この時高野長英は江戸で永牢となったが,後に脱獄し,諸国を潜伏した後,江戸に戻ったところを幕吏に襲われ死亡した(1850年).

 一方の崋山は国元蟄居となったが,家族の生活のために弟子の勧めで自作の絵を売るようになった.しかし,これが幕府の目に留まり,「罪人の分際で身をわきまえていない」との悪評が立ち,藩に迷惑がかかることを恐れた崋山は1841年(天保12年)10月11日に自刃して果てたのであった.享年49歳,この時「不忠不孝渡辺登」と大書された遺書が遺されていた.

Kazanannai 池ノ原公園の崋山の幽居跡.

 こうして崋山や長英は志半ばで無念の死を迎えたが,彼らの思想は生き残った仲間の江川太郎左衛門らを通して,佐久間象山や勝海舟らに受け継がれていったのである.そして実際に崋山の死から12年,長英の死からわずか3年後にペリーが来航,彼らが憂いたとおりに日本は激動の幕末に入っていくのである.

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2007年4月23日 (月)

宮古湾海戦

 私が住んでいる岩手県と新選組副長土方歳三はほとんど結びつきがないのだが,唯一の接点といえるものに,明治2年3月25日に起こった「宮古湾海戦」がある.

 戊辰戦争初期段階では,地上部隊の装備では新政府軍が勝っていたが,海軍力では旧幕府側が圧倒的に優位であった.慶応4年3月13日の勝・西郷会談で江戸城の無血開城に関する話し合いが行われ,旧幕府軍の軍艦の新政府軍への引渡しが決まったが,榎本武揚は引渡しを拒否し,艦隊を率いて江戸を脱出した.途中仙台で土方歳三や大鳥圭介などと合流し,10月下旬に鷲ノ木(現北海道森町)に上陸,直ちに進撃を開始し10月中には箱館・五稜郭を占領した.ついで松前城を攻略し,蝦夷地の平定に成功する.しかし,この戦いで主力艦の開陽と神速を悪天候で失い,その海軍力は大きく低下した.一方新政府軍は,最新鋭艦である甲鉄をアメリカから入手したため,たのみの海軍でも新政府軍が優勢となり,新政府軍の反撃は時間の問題となった.

Jodogahama 宮古市を代表する景勝地「浄土ヶ浜」です.

 こうした状況下,土方歳三の提案(といわれる)で決行されたのが,Abordage(アボルダージュ)と呼ばれる,敵艦強奪作戦であった.すなわち当時宮古湾に停泊していた新政府軍艦隊を奇襲し,敵艦に乗り移って,船を奪い去ろうというもの凄い作戦である.勿論普通に接近すると怪しまれるため,最初はアメリカ国旗を掲げてアメリカ艦のふりをして接近し,攻撃直前に旗を替えて攻撃することになっていた(なんだか凄くずるい作戦のように思えるが,実は国際公法上許されるらしい).

Miyakaisen1 鈴木善幸氏による記念碑です.

 当初旧幕府軍は回天,高雄,蟠龍の3艦で作戦を決行する予定であったが,嵐で蟠龍が離脱,さらに高雄が機関故障で離脱したため,結局回天1艦での作戦となった.不意を衝かれた新政府軍は混乱し,甲鉄も回天の接舷を許したが,回天の甲板が甲鉄より3mも高く,兵士の乗り移りは容易でなかった.それでも,新選組の野村利三郎らが甲鉄に乗り移ったが,体勢を立て直した新政府軍の反撃で死傷者続出,結局約30分の戦いで旧幕府軍の敗北に終わったのである.

Kaisensetu1 Kaisensetu2

臼木山にある海戦の解説碑です.土方歳三と東郷平八郎が並んでいます.

 宮古市を代表する景勝地,浄土ヶ浜には元総理大臣の故・鈴木善幸氏による「宮古港海戦記念碑」が,また宮古湾を望む臼木山頂には海戦の解説碑が設置されている.この石碑には土方歳三の写真とともに,後に日露戦争の日本海海戦で勇名をはせる東郷平八郎の写真もあった.これは,若き日の東郷がこの海戦で軍艦「春日」に乗艦していたことによる.

Bakuheibochi 幕軍無名戦士の墓です.

 また,国道45号線そばには,旧幕府軍無名兵士の墓もある(ここに眠っているのは,新選組の野村利三郎とも言われている).このように宮古市は岩手県内の数少ない新選組関連史跡がある土地であった.

Usosu 宮古市の北田野畑村にある景勝地「鵜の巣断崖」です.

Foodikki2 Foodikki1 途中国道45号線沿いで見つけた「フード一揆」という謎の店です.

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2007年4月15日 (日)

徳川慶喜という人

 久しぶりの幕末物長文です.ヒマな方はお付合い下さい.

 大河ドラマ「新選組!」再放送が終了した.「新選組!」だけの再放送なのかと思ったら,来週からは「義経」の再放送もあるらしい.もしかすると,この時間帯は大河の再放送枠になるのだろうか.とすれば,幕末好きの私としては,「獅子の時代」や「徳川慶喜」の再放送も是非やってもらいたい.そういうわけで今日は幕末のキーパーソンの一人である徳川慶喜について考えてみた.

 徳川慶喜の大坂城脱出が戊辰戦争のターニングポイントだったというのは有力な説であろう.錦の御旗がひるがえり,緒戦に敗れたとはいえ,この段階ではまだ旧幕府側にも十分勝機があったはずだ.地上部隊の総合的な装備では薩長側が勝っていたといっても,後に新政府軍の主力となる,肥前鍋島藩のアームストロング砲などの近代的火器はまだ登場していないし,幕府にも最新装備の伝習隊がある.さらに海軍力では圧倒的に幕府側が有利だった.当時はまだどっちに付くか模様眺めをしていた藩が多く,要害の大坂城に籠もったうえで,陸海共同で薩長軍を迎え撃ったら,勝機は十分である(特に海軍を使って薩長方の補給路を攻撃すればかなり有利になる).錦の御旗にしても,京の公家衆は結構アバウトだから,幕府が有利とわかれば今度は幕府側に御旗をよこすだろう.

 しかし,実際には徳川慶喜が夜陰にまぎれて戦線を離脱,幕府軍は江戸に帰ることになった.この段階で万事休すである.以後諸藩は雪崩をうって薩長側に付き,勝敗は決した(もっとも,幕府側が気合を入れて大坂で勝利したとしても,歴史が良い方向に向かったかは判らない.フランスの影響力が強まって,案外「幕末未来人」のようにフランスの植民地になってしまったかもしれない).

 さて,本日のテーマ徳川慶喜公(ケイキさん)である.徳川幕府第15代将軍だ.「新選組!」では,なんだか信用できない人物に描かれていたが,1998年の大河ドラマ「徳川慶喜」では主人公であり,役者に本木雅弘さんが起用されていたこともあって,それなりに苦悩する若い将軍として描かれていた.

Keiki1 徳川幕府最後の将軍徳川慶喜公

 「新選組!」では最後のほうにちょっとだけ出てきたイメージのケイキさんだが,実際には文久2年に将軍後見職を拝命して以来,松平容保とともに京都で活躍している(まだ新選組ができる前).彼は天保8年(1847年)に水戸藩9代藩主徳川斉昭の七男として生まれた.幼少時から英明の呼び声が高く,古くは嘉永年間に,第12代将軍家慶が自分の後継にしようと考えていたらしい.嫡子の家定が病弱だったからである.ただ嘉永6年(1853年)の黒船来航直後に家慶は急死してしまったため,この時は嫡子の家定が第13代将軍となった.しかし,黒船来航以後の風雲急を告げる情勢下,病弱な家定が将軍では心もとないため,第14代将軍を誰にするかという将軍継嗣問題がさっそく持ち上がる.候補は慶喜と紀州藩主徳川慶福であった.慶喜派(一橋派)は年長・英明を主張すれば,慶福派(南紀派)は血筋を主張する(慶福が英明でなかったわけではない).安政期の幕府はこの将軍継嗣問題と条約問題(諸外国との交易に関する問題)が複雑に絡み合って揺れる.結局この問題は南紀派の井伊直弼が大老に就任して,その豪腕によって反対派を粛清することによって一気にけりがついた.慶喜はまたしても将軍になりそこなったのである.

 しかし激動する時代はケイキさんを放ってはおかなかった.文久2年(1862年),彼は将軍後見職として政治の表舞台に登場し,獅子奮迅の活躍をするのであった.

Keiki2 ケイキさんはフランスの影響を強く受けていた.これは将軍時代の写真である.

 徳川慶喜は方針がコロコロ変わることでも有名であった.開国派かと思いきや,攘夷派にふるまったり,将軍後見職の辞表を叩き付けたりとその行動は多彩で,ために京都守護職の松平容保はじめ,土佐の山内容堂や越前の松平春嶽といった佐幕派の諸侯を困らせている.ただケイキさんのために言っておくと,これらの行動は政治的駆け引きの側面が強い.彼にしてみれば,江戸の将軍家茂は安政期に第14代将軍を争った相手であり,その幕閣は自分に対して好意的ではない.将軍後見職にしても幕府から請われて就任したわけではなく,薩摩の島津久光のごり押しで就任したいきさつがあり,幕府は自分を猜疑の目で見ている.にもかかわらず,将軍の代理として攘夷に燃える朝廷との交渉をしなければならないのだから,その苦労は大変なものだ.

 ここで彼が取った行動がすごい.まずは朝廷に対し文久3年(1863年)5月10日をもって攘夷を実行しますと宣言する.そして,準備があるといって江戸に帰還する.しかも寄り道しながら‥.結局江戸に着いたのは5月8日,攘夷実行期限の2日前だ.翌5月9日,彼は幕閣に向かって,「5月10日に攘夷を実行するから準備しろ」と命令する.あっけにとられる幕閣たち,そりゃそうだ,外国との戦争の準備が1日でできるはずがない.結局5月10日になっても攘夷は実行されなかった.しかしここまでは彼にとって織り込み済みである.

 5月10日を過ぎても攘夷が実行されない状況に,ケイキさんは幕閣に怒りをぶつける(ふりをする?).曰く,「お前達がまじめに攘夷を行わないから,自分は朝廷に対して嘘をついてしまった.かくなるうえは,責任をとって将軍後見職を辞任する」,と辞表を叩きつけたのだ.さあ,こんどは朝廷が困った.孝明天皇はガチガチの攘夷派であるが,長州系の尊攘志士が大嫌いで,コチコチの佐幕派でもあるからだ.今の状況下で幕府と朝廷の間を取り持てるのはケイキさんしかおらず,結局彼の辞表は受理されなかった.ケイキさんの作戦勝ちである.

 かの有名な大政奉還も,ケイキさん一流の策略になるはずだった.大政奉還のシナリオは坂本龍馬の船中八策を後藤象二郎が山内容堂に進言し,それに徳川慶喜が乗ったものであるが(慶応3年10月14日),その背景には武力倒幕を目指す薩摩の西郷隆盛や大久保利通,公家の岩倉具視らの機先を制する狙いがあった.当時彼らは倒幕の密勅を引き出していたからである(この密勅はどうやら偽勅らしいのだが).

Taiseihoukan 慶喜にとっては起死回生の大政奉還だったが…

 案の定,大政奉還によって朝廷内の空気は一変した.政権を返上されたところで,朝廷には政治を行うノウハウも資金もなかったからだ.徳川家康以来の統制によって朝廷は赤貧状態に置かれていた(朝廷用として禁裏御料3万石があったが,実際には幕府から派遣された禁裏付の旗本が目を光らせているため,自由に使えるお金はほとんどなかったらしい).結局朝廷は自分に泣きついてくるはずと慶喜は考えていたのも理のないことではない(実際に一時はそうなりかけた).

 しかし,西郷や岩倉ら武力討幕派は若い天皇を抱きこんで,一気に巻き返しに出た.王政復古のクーデターである.慶応3年12月8日宮中において,徳川慶喜や山内容堂欠席の中,一部公卿や大名(安芸,尾張,越前など)で朝議が行われ,岩倉や三条実美の蟄居取り消し,元治元年以来の長州藩の朝敵取り消しが決定した.その直後蟄居を解かれたばかりの岩倉が登場し,勅命による王政復古を宣言したのである.さらに翌12月9日未明には,薩摩などの王政復古派の藩兵が御所を襲撃,警備についていた会津,桑名の藩兵を追い出し御所を制圧した.こうした中で開かれた小御所会議で,徳川慶喜の辞官・納地が決定したのである.慶喜にとっては予想外の展開であった.

 当然ながらこの決定に対し,会津・桑名両藩や新選組は激昂し事態は一触即発となる.ここでケイキさんは軍を大坂城に引き上げ,対峙する構えを見せた.王政復古といっても,新政府には政治を行う組織もお金もない.また新政府内も武力討幕派一色ではなく,山内容堂や松平春嶽など穏健派もいて勢力は拮抗していた.国内外に問題が山積している時代であり,政治の空白は許されない.従ってこのまま時間が経過すればするほど,新政府の立場は不利になり,諸外国にも相手にされなくなって,必ず自分に泣きついてくるだろうと考えたのである.慧眼である.桂小五郎をして「徳川家康の再来ではないか」と言わしめたのもうなずける.

 しか~し,策略という点では西郷隆盛の方が一枚上手だった.西郷は配下の浪士達を江戸に侵入させ,薩摩藩邸を拠点に放火や破壊などの乱暴狼藉を働かせたのである(この中に,後に赤報隊ニセ官軍事件で処刑される相楽総三も混じっている).この薩摩の挑発に江戸の新徴組が乗ってしまい,薩摩藩邸を襲撃する.この話が大坂に伝えられ,いよいよ会津・桑名ら諸藩の怒りは沸騰寸前になり,もはや誰も抑えられなくなってしまった.ついにケイキさんもキレてしまい,「勝手にしろ!」と言ってしまった.

 こうして慶応4年(1868年)1月3日鳥羽・伏見の戦いが勃発したのである.その後の展開は歴史が示すとおりであるが,慶喜は「自分もここで戦うぞ」と宣言しておきながら,1月6日夜こっそりと大坂城を脱出し,江戸に逃げ帰ってしまったのである.かくして徳川幕府の命運は尽きた.江戸に帰ってからのケイキさんは,残務処理は勝海舟にまかせ,薩長の矛先は会津藩に向けさせ,自分はひたすら恭順の姿勢をとったのである.

Katsu 鳥羽伏見の戦い後,江戸城無血開城を実現させた勝海舟.

 維新後のケイキさんは政治にかかわることはなく,楽隠居として写真や乗馬などの趣味に生きる生活をして,大正2年(1913年)に77歳で亡くなった.歴史上の人物の評価は難しいが,徳川慶喜の場合は,幕末の最終段階までは持てる才能をフル回転させて,倒幕派と対峙したものの,最後の最後でキレてしまい,自己保身に走ったといえるのではないか.最高責任者として「勝手にしろ」と言って戦争を始めながら,さっさと逃げ出し,責任を部下(松平容保以下会津藩)に押し付けるがごとき行為は君主失格といわれても仕方がないかもしれない(もちろん彼を擁護する議論もあるのだが).

 翻って,第14代将軍徳川家茂の方が若年ではあるものの,人格にもすぐれ多くの人々の敬愛を集めていたという(勝海舟をはじめ,家茂の人に惹かれた幕臣は多い).江戸城明け渡し後,多くの旧幕臣が各地で戦ったのも,慶喜のためというより,先代家茂のためだったのかもしれない.

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2007年4月 9日 (月)

函館にて

 ウチのKの出身地は函館である.函館といえば,土方歳三最期の地新選組終焉の地として知られている.実は最近Kの姉夫婦が函館市内に家を建てたため,今週末に見物がてら遊びに行ってきた.

 新築の洒落た家に上がりこんで,散々飲み食いした私だったが,折角函館まで来たのだからと,新選組関連の史跡も訪問した.

Hiji1 土方歳三最期の地碑の説明文です.

 まず訪ねたのは「土方歳三最期の地碑」.函館駅から程近い,福祉センター前の公園の中にそれはあった.土方歳三は明治2年5月11日未明に,一本木関門で指揮を取っている最中,敵の銃弾を受けて戦死した(弁天台場に陣取っていた新選組本隊の救援に向かう途中とも言われている).遺体がどこに埋葬されたのかについては諸説があってはっきりしない(五稜郭内に埋葬されたという説もある).一本木関門と書かれた関所の門のそばに,石碑が立っていた.碑には花が添えられ,土方歳三の写真の他,土方歳三ノートなんてのもあった(雨に濡れないようにタッパに入れられていた.全国各地から訪ねて来た人たちの書き込みがあった).

Hiji3 一本木関門です

Hiji2 石碑には今も花が絶えません.

Hiji4 土方歳三の写真なども飾ってあります

 ちなみにこの石碑,以前は目の前の道路の中央分離帯のグリーンベルトの中にあったらしい(Kの通学路だったそうだ).

 続いて向かったのは,箱館戦争における旧幕府軍側の墓「碧血碑」である.当時旧幕府軍は賊軍とされ,戦後しばらくは遺体の埋葬も許されなかった.そんな中箱館の侠客柳川熊吉が独自に遺体を回収し,埋葬したという.後明治8年に大鳥圭介や榎本武揚の協力を得て,この地に碑が建てられた.題字は大鳥圭介によるといわれている.碧血とは「義に殉じて流した武人の血は三年たつと碧色になる」という中国の故事によるそうです.この碧血碑は函館山の中腹,立待岬の近くにある.

Heki1 これが碧血碑です.かなり高いです.

Heki2 碧血碑の説明文です.英文がMOMUMENTになっているのは気にしないで下さい.

 その次に行ったのは,新選組終焉の地,弁天岬台場跡である.土方歳三が戦死した4日後,明治2年5月15日にこの地に立てこもっていた,新選組を含む旧幕府軍は降伏した(五稜郭が降伏するのは更に3日後である).この時新選組最後の隊長だったのが相馬主計である.

 弁天台場は六角形の形をした保塁だったが,明治29年に取り壊されて埋め立てられたため,当時の面影は全くなく,小さな公園になっていた(市電函館ドッグ前下車徒歩30秒の距離です).

Benten2 弁天台場跡の説明文です.

Benten1 台場跡は今は小さな公園になっています.

 このほかにも函館には五稜郭や函館山の夜景,サスペンスドラマでよく人が殺される金森倉庫,さらには歌人石川啄木がらみの史跡も多い.

Hakodateyama 世界三大夜景といわれる函館の夜景です.

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2007年3月 4日 (日)

幕末と桃の節句

 昨日3月3日は桃の節句である.実は幕末期の3月3日(勿論旧暦だが)には意外に大事件が多い.まずは

 安政元年(1854年)3月3日 日米和親条約締結

Abe 弱冠25歳で老中に就任した阿部正弘.

 前年嘉永6年6月に黒船4隻を引き連れて浦賀沖に現れたペリーは,アメリカ大統領からの国書を手渡すと,来年また来ると言い残してひとまず去った.そして約束どおり安政元年1月に再来航し,幕府に対して開国を迫った.老中阿部正弘は開国やむなしとして,3月3日に12か条からなる「日米和親条約」を締結した.

 そして次なる桃の節句大事件はその6年後

 万延元年(1860年)3月3日 桜田門外の変

Ii 彦根藩主の十四男に生まれたものの,運命から大老の地位に上り詰めた赤鬼.

 一応開国した幕府にとって,次なる問題は「通商問題」(日米和親条約では通商については取り決めがなされなかった.このため来日したアメリカ領事のハリスは幕府に対して通商を強く求めた)と「将軍継嗣問題」(第14代将軍を誰にするかと言う問題)であった.諸大名の思惑が交差する中,大老に就任した井伊直弼は,豪腕政治で両問題を一気に解決する.すなわち安政5年に「日米修好通商条約」を締結し,同年次期将軍は紀州藩主徳川慶福とする旨を発表したのである.当然井伊の独断専行に反対派は激しく反発する.これに対して井伊は「安政の大獄」によって徹底的な弾圧を加えたのだった.特に水戸藩への弾圧は激しく,これに激高した水戸藩士が脱藩して,万延元年3月3日上巳の節句で登城する井伊を襲撃したのが,「桜田門外の変」である(このとき井伊は水戸浪士の襲撃計画を知っていたと言われている).

 さらなる桃の節句事件は,幕府崩壊後

 慶応4年(1868年)3月3日 相楽総三処刑(赤報隊ニセ官軍事件)

Saigou 相楽総三を利用して江戸の街に動乱を起こし,幕府を戊辰戦争に引きずり込んだ西郷隆盛.

 大政奉還後,王政復古のクーデターから鳥羽伏見の戦いを経て,薩長を中心とした軍は官軍として東征の途についた.この際相楽総三を隊長とする赤報隊が先鋒として先発した(赤報隊は3隊からなり,厳密に言えば相楽は1番隊の隊長である).赤報隊は藩兵によらない,浪士らによる部隊(いわゆる草莽隊)であり,相楽自身も草莽の志士であった.彼は民衆の支持を受けるため,「年貢半減」を布告するよう新政府に願い出た.新政府もこれを認め,相楽らは「年貢半減」布告しつつ東山道を進軍していった.しかし,当時財政が逼迫していた新政府には「年貢半減」を実行できる能力があるはずもなく,資金援助をしていた豪商の意向もあり,わずか10日で「年貢半減」は撤回となる.しかし,世間体を気にした政府は,「年貢半減」の布告は,相楽らが勝手に触れ回っていることで,新政府は一切関与していないという態度をとった.あまつさえ,相楽ら赤報隊1番隊を偽官軍であるとして,諸藩に討伐を命じたのだった.そんな陰謀を知らない相楽らは,官軍総督府の呼び出しに応じて出頭したところを捕らえられた.彼らは雨の中一昼夜の間,縛られた状態で屋外に放置され,何の取調べもされないまま,3月3日に処刑されたのである.これが明治維新の暗部といわれる「赤報隊ニセ官軍事件」である.

 幕末維新の動乱期に相楽ら草莽の志士が果たした役割は大きい(清河八郎や雲井龍雄,佐幕派では近藤勇など新選組の面々も草莽の志士といえる).だが,彼らの多くは悲劇的な最期を迎えている.草莽の志士は時の権力者に利用され,偉業がなった後は邪魔者として排除されていく運命にあったのである(まさに「飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる」である.前日の記事参照).

 このように幕末の3月3日は意外と大事件が起こっていたのである.

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2007年3月 3日 (土)

淮陰侯 韓信

 人間,身の処し方は難しい.特に高い地位にいた人物ほと,世の中の変化に飲み込まれて哀れな晩年を送るケースが多い.ある能力に秀でた者は,その能力が不要な時代になると,途端に取り残されてしまうことになる.紀元前3世紀末の秦滅亡から漢建国にいたる間に活躍した,漢の軍人韓信は,まさにそういう人生を歩んだ典型例である.

 楚漢の興亡は司馬遷の名著「史記」のハイライトのひとつであり,私も大好きな場面だ.楚の項羽との戦いに最終的に勝利した漢の高祖(劉邦)だが,彼自身は決して有能な人物ではなかったようだ.個人的な能力としては項羽の方が遥かに勝っていたであろう(シミュレーションゲーム的にいえば,武力100,統率力95,知力80といったところだろうか).しかし劉邦が勝利することができたのは,彼自身が自分の能力の限界を自覚し,他の有能な人物をうまく使いこなしたからである(劉邦は適材適所の名人である).劉邦の配下のうち,特に優れた3人を「高祖の三傑」と称し,張良蕭何韓信の3人を指す.

Choryo 中国史上稀有な名軍師といわれる張良(河出書房新社 世界の歴史3 中国のあけぼのより)

 張良は戦国七雄のひとつ韓の重臣の家柄に生まれた貴族で,祖国滅亡後は始皇帝の暗殺を計画するなど過激な活動をしていた.劉邦と出会ってからは,その客分として彼の側で主として外交に活躍した(劉邦によると「帷幄のなかに謀をめぐらし,千里の外に勝利を決する」といわれた).蕭何は劉邦と同郷の元下級役人で,法令の虫と言われるほど実務能力に長けていた(秦の都咸陽に入ったとき,他の武将がみな財宝漁りをしているとき,蕭何のみ書庫にあった全国地図や公文書類をかき集めていたという).楚漢攻防戦の間は常に都の長安にいて,劉邦に兵や兵糧・軍事物資を補給し続けたのである(項羽に連戦連敗の劉邦軍が総崩れにならなかったのは,蕭何の功績である).

Shouka 常に前線の兵を餓えさせることがなかったのは,専ら蕭何の功績.(河出書房新社 世界の歴史3 中国のあけぼのより)

 さて残る韓信であるが,淮陰(今の江蘇省)の平民出身と言われている.苦学をして兵法を学んだものの,若い頃は経済的には全く恵まれず,近所の婆さんに食べ物を恵んでもらっていたという.そんな韓信が,ある日町の荒くれ者どもに絡まれた.荒くれ者は「俺の胸を刺してみろ,できなきゃ股をくぐれ」といった.相手は多勢,胸を刺そうとすれば反撃に会い殺されてしまう.韓信は恥を偲んで相手の股をくぐった.これが有名な韓信の股くぐりである.

 韓信は当初項羽に仕えていたが,全く登用されないため,脱走して劉邦の下に行った.ここで蕭何に見出され,彼の推挙で漢軍の大将軍に任命されたのだった(このとき蕭何は「韓信こそ国士無双」と表現した.麻雀の役「国士無双」はこれが出典である).韓信に率いられた漢軍は連戦連勝,たちまち関中(長安を中心とした地域)を奪還する.その後は漢軍主力の指揮を劉邦に渡し,自身は別働隊を率いて北部を転戦した.皮肉にも劉邦の漢軍主力は項羽に大苦戦し,滎陽の線で何度も危機的な状況に陥った.それに対して韓信の軍は趙や燕・斉など北部諸国を順調に攻略していった.こうして紀元前202年の段階で韓信は項羽,劉邦に比肩しうる一大勢力となっていた.この時彼に対して,劉邦の元を離れ,独立勢力として天下を望むよう進言するものがあったが,結局彼は劉邦のために戦い,項羽を破った(垓下の戦い).

Kanshin 蕭何をして,国士無双とまで言わしめた大軍司令官韓信.(河出書房新社 世界の歴史3 中国のあけぼのより)

 楚漢戦争終盤,既に斉王になっていた韓信は,戦後楚王に国替えになった.この時が彼の人生の絶頂期である.いうまでもなく楚は項羽の旧領であり,土地は広く,豊かであった.こういう豊饒の地に用兵の天才とも言うべき韓信が君臨していることは,漢にとっては不気味なことである.更に韓信が,項羽配下の武将鍾離昩を匿っていたことで,高祖の不信を買った.こういう状況下,紀元前201年に「韓信に反心あり」と讒訴するものがあり,彼は捕縛される.これは全くの濡れ衣であったが,楚王から淮陰侯に格下げにされてしまった.この時彼は「飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる」(飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓はお蔵入りになり,兎がいなくなれば猟犬は食べられてしまう)という,戦国時代の軍師范蠡の言葉を引用して高祖をなじったという.

 高祖の仕打ちに不満を募らせた韓信は紀元前196年に今度は本当に謀反を計画したが,これは事前に知られるところとなり,捕らえられ処刑されてしまった.死に望んでの最後の言葉は「蒯通の勧めに従わなかったことが残念だ」(楚漢戦争の最終盤,蒯通は韓信に劉邦の下を離れることを進言したが,劉邦への義理を感じていた韓信はこの進言を拒否した),であったという.

 韓信はその功績が大であるだけに,後半生の転落ぶりが悲劇的である.日本での源義経のようなものであろう.時に主君を越える能力を持つものが,主君に疎まれるのは世の習いである.あれほど気前が良かった高祖が,漢帝国成立後,人が変わったように疑心暗鬼になり功臣の粛清を行ったのも,その一例である.それだけに,家臣としては疑われないよう細心の注意を払うべきだろう.

 三傑の他の二人はその点はしっかりしており,張良は,楚漢戦争終了後すぐに故郷の留に引退して,政治の世界にかかわることなく,高祖の粛清を免れた.蕭何の場合その立場はより危険であった.彼は楚漢戦争中常に都にあって,内政に手腕を発揮していた.その気になればいつでも劉邦に取って代われる地位にあったわけである.そのため彼は,劉邦に無用な嫌疑を受けぬよう,自分の一族の男たちの中で従軍できそうなものを片っ端から戦地に送ったり,時には都でわざと悪政を行い,自分の評判を落とすなど涙ぐましい努力をしている(戦地にいた高祖は,蕭何が賄賂を取っているというウワサを耳にして安心したという).

 韓信の場合功績は抜群ながら,「これだけの功績がある自分が罰せられるはずがない」という驕りというか,世の中に対する甘さがあったと言われても仕方がないであろう.

 追) 楚漢の攻防については,司馬遼太郎の「項羽と劉邦」も名著だが,個人的にはこの作品に出てくる韓信が,なんか覇気がないというか,意識が悪そうな感じでなじめないのであった.

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2007年2月23日 (金)

コンスタンチヌス10世

 だいぶ前の記事に書いたが,今年2007年は昨年のモーツァルトのような,著名音楽家の生没年に関連した記念イヤーはない.歴史的事件では,唐滅亡1100年(907年),法隆寺創建1400年(607年),聖山事件2500年(紀元前494年,古代ローマの貴族と平民の政治闘争),ソロンの改革2600年(紀元前594年,古代アテネの政治改革)などがある.ちなみに来年2008年は,お隣の中国では前漢滅亡2000年(8年,漢の外戚王莽が帝位を簒奪),赤壁の戦い1800年(208年)というビッグイヤーが控えており,北京オリンピックと併せて大いなる盛り上がりが予想される(笑).

Koumei 呉の魯粛とともに,赤壁の戦いの仕掛け人となった三国志の超有名人”諸葛亮孔明”です(守屋洋 著 中国宰相列伝 教養文庫より引用).

 それはさておき,実は今年2007年はビザンチン皇帝コンスタンチヌス10世(1007~1067年)生誕1000年の記念イヤーである.ビザンチン帝国の始まりをいつに置くかについては昔から様々な議論があるが,330年のコンスタンチヌス1世によるコンスタンチノープル遷都をもって始まりとする説がある(昨年末BS iで放送した東ローマ帝国特番でもこの説を採用していた).

 その一方、滅亡については1453年のコンスタンチノープルが陥落し,最後の皇帝コンスタンチヌス11世が戦死した時とすることについてはほとんど異論がない.つまりビザンチン帝国にとってコンスタンチヌスとは始まりと終わりを表す極めて重要な名前ということになる.その偉大なる10代目を名乗る皇帝なのだから,さぞ凄い人物かと思いきや,さにあらず,コンスタンチヌス10世についてはほとんど記録がない.

Byzantine3 ビザンチン帝国の紋章”双頭の鷲”です.

 彼が皇帝であった11世紀半ばは,バシレイオス2世を頂点とする帝国の絶頂期が終わりを告げ,東方からセルジュク・トルコの脅威が迫ってくる時代であった.この時代に即位したコンスタンチヌス10世の治世がどんなものだったか,恐らくは何もなされない無為の時代だったと思われる.結局,彼の次の皇帝ロマノス4世の時,帝国はトルコに決定的な敗北を喫するからである.

 結局2007年はこういうよくわからない皇帝の記念イヤーしかないのであった.

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2007年1月20日 (土)

幕末未来人と山南敬助

 先日ひの新選組まつりの話題を取り上げたついでに,今日は新選組総長山南敬助について考えてみた.

 山南敬助は近藤勇にとって試衛館以来の同志であり,新選組では総長というナンバー2の地位にあった人物である.しかも彼は永倉新八や原田左之助のような食客ではなく,天然理心流に入門しており,沖田総司や土方歳三と同門ということにもなる.しかし,総長の地位にあった割りには彼の存在感は薄い.新選組で活躍した期間が短いのだから仕方ないともいえるが,それにしても近藤や土方は別格としても,斎藤一や藤堂平助,更には伊東甲子太郎あたりと比べても存在感の薄さは否めない.

 山南敬助は仙台藩を脱藩し,千葉周作の下で北辰一刀流を学んだと言われ,免許皆伝の腕前であった.学問にも秀で,その一方で性格は温厚であったという.今で言えば非の打ち所のない人物であるが,幕末のような個性派が幅を利かせる時代ではどうしても地味な存在になってしまうのかもしれない.そんなわけで新選組を扱った映画やドラマでもやっぱり地味な存在なのであった.そんな中,2004年の大河ドラマ「新選組!」で山南敬助を演じた堺雅人さんのインパクトは大きいのかもしれない(私の周りでも,アレで山南敬助の存在を知ったという人は多いのである).

 しか~し!私にとっての山南敬助は,なんといっても少年ドラマシリーズ「幕末未来人」に出てきた山南敬助である.幕末未来人は昭和50年代の高校生二人組みが幕末にタイムスリップしてしまうお話であるが,二人組みの片割れがなんと!新選組に入隊する.そして,ちょっとした事件で沖田総司を死に至らしめてしまうのだが(悪い奴の陰謀で歴史が徐々に変わってしまい,文久3年に沖田が死んでしまう),屯所で沖田の死を知った山南が烈火のごとく怒って件の高校生に,「腹を切れ!自分でできないのなら,俺が冥途に送ってやる」,更には助命に駆けつけた少女(古手川祐子が演じている)にも「沖田の供養に,その可愛い首を刎ねてやる」などと過激なことを言い,近藤勇にたしなめられていた.

Yamanami 幕末未来人のひとコマ,高校生に切腹を迫る山南敬助.

 考えてみれば昭和50年代の新選組といえば,殺伐とした暗殺集団というイメージが強く(何といっても正義の味方”鞍馬天狗”の敵は新選組だったのである),そんな集団の総長と言えば,さぞ恐ろしい人物だったに違いないというイメージがあったのである(幕末未来人には新選組幹部として近藤,土方,沖田,山南の4人が登場するが,圧倒的に山南敬助が過激である.一番温厚なのは沖田総司).

Bakumira1 少女を演じる,今から30年前の古手川祐子さんです(なんて若いんだ).

 

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2007年1月17日 (水)

第10回ひの新選組まつり

 日野市観光協会のHPによると,第10回ひの新選組まつり「隊士パレード」の隊士募集が始まったようです(第10回ひの新選組まつり「隊士パレード」隊士募集).今年のまつりは5月12日(土),13日(日)です.

 例年5月は学会シーズンで,日程が重なったりしてなかなか参加できなかったのだが,今年は神経学会総会が5月16日~18日(名古屋),温泉気候物理医学会総会が5月18日~19日(箱根)と見事に重なっておらず,昨年に引き続き参加できそうな気配である.衣装を虫干しして準備しておこうと決意したのであった.

Shutsujin 2006年5月14日に行われた第9回ひの新選組まつりの集合写真です(私も写っています 笑).

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2007年1月13日 (土)

坂本龍馬は新選組だった!

 すごいタイトルの本を見つけた.「坂本龍馬は新撰組だった!」思わずタイトルに惹かれて買ってしまった(帯の文句も”尊皇攘夷は坂本龍馬の陰謀である!!」とある).

 出版は”ぶんか社文庫”,ここのシリーズには他にも「家康の父親は武田信玄だった!」,「信長殺しの犯人は秀吉だった!」,「豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった!」という東スポ的見出しの本がならんでいる(豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった,というのは全くの虚構ではなく,関が原の戦いで加藤清正や福島正則といった秀吉子飼いの武将たちが家康に味方した一因が北政所であるのは事実である).

 内容はネタバレになるので詳述しないが,全編”と”の香りがする本であった.

Shinsho

 この本によると,幕末維新の流れは”北辰一刀流一派”のシナリオに沿って動いており,坂本龍馬は清河八郎と並ぶ,北辰一刀流の両巨魁であったとされている.新撰組もこの両者によってプロデュースされたもので,藤堂平助や山南敬助は北辰一刀流から送り込まれたスパイなのだそうだ.池田屋事件で近藤隊に藤堂が入っているのも,20名以上の志士がいる池田屋に少人数の近藤,沖田らを誘いこんで,隙あらば抹殺する計画だったのだそうだ(土方歳三が予想外の早さで池田屋に応援に来たため,計画は失敗したらしい).また,最終的に龍馬が暗殺されてしまったのは,伊東甲子太郎ら北辰一刀流が新撰組を離脱したため,新撰組内部にスパイがいなくなったことが原因らしい.

 内容もすごいが,この”北辰一刀流一派”(彼らは文武を兼ね備えたエリート集団なのだそうだ)が歴史を動かすという構図は,世の中に氾濫している”世界の歴史を影から動かすフリーメイスン”という構図にそっくりだと思ってしまったのだった(笑).

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2006年12月25日 (月)

特番!東ローマ帝国

 今週BSiでビザンチン帝国の特番がある.題して「東ローマ帝国~繁栄と滅亡・皇帝たちの軌跡~」である.1回2時間全5回シリーズという,かなり気合の入った作品だ.

 実はこれ,今回初めて放送されるわけではなく,過去に何度か放送はされていた作品である.普段ビザンチン皇帝を名乗っているものとしては絶対に見逃せない作品だったハズだが,困ったことに,他に用事があったり,放送されていることに気づかなかったり(泣)して見逃していたのである(NHKでやっていたビザンチンの特番の方は見ている).今回あらかじめ再放送があることを知って,我が家のDVDレコーダーに録画しておくことにした(放送時間が夕方6時から8時という家にいる可能性がほとんどない時間帯なため).

 この5回シリーズは

 1.第1話 もうひとつのローマはこうして作られた

   (4~5世紀 古代ローマの混乱と分裂)

 2.第2話 最強の皇帝が残した華麗なる芸術

   (6世紀 ユスチニアヌスの時代)

 3.第3話 帝国の黄金期に潜む陰謀と策略

   (10~11世紀 マケドニア朝の黄金時代)

 4.第4話 十字軍に救いを求めた大国の誤算

   (12~13世紀 十字軍の時代)

 5.第5話 滅びゆく「全世界の支配者」

   (14~15世紀 帝国の黄昏)

という構成である.妥当な分け方といえよう(欲を言えば,7~8世紀の帝国の暗黒時代についても特集して欲しかったが‥).ビザンチン帝国1000年の歴史については,ホームページ本編の私の拙文(ビザンチン帝国とは?)を参照していただきたいが,波乱万丈の激動の1000年である(残念ながらわが国の世界史の授業ではビザンチン帝国史は系統的には扱われない).

Yustinianus ビザンチン帝国の最大版図を作り上げた皇帝ユスチニアヌス1世(483-565)

 最近世間をにぎわせた,高校の未履修問題であるが,そもそも世界史というものは受験のために勉強するなどという,情けない理由ではなく,国際人として生きていく基礎教養として是非とも学んで欲しい科目である.歴史というのは「面白い!」と思えば,特に勉強する気がなくても,どんどん知識が勝手に頭の中に入ってくるものである.人それぞれ好みはあると思うが,世の高校生諸君には,何か自分の好きな時代(古代エジプトでも三国志でもフランス革命でも何でもいい)を見つけて,歴史に興味を持って欲しいものである.

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2006年11月27日 (月)

メモリアルイヤー

 今年2006年はモーツァルト生誕250年の記念イヤーというわけで,巷でもかなりの盛り上がりを見せている(ショスタコービッチ生誕100年の方は,ロシアのプーチン大統領の肝いりもありながら,全く盛り上がっていない).テレビでもNHKの「毎日モーツァルト」をはじめ,民放でもモーツァルト特番を放送していた.我が家でもKが大のモーツァルト好きということもあり,「毎日モーツァルト」をそれこそ毎日見たり,モーツァルトのCDや書籍の購入,さらにはモーツァルトが活躍したウィーンやザルツブルグに実際に行ってみるなど,モーツァルトがらみのイベントが多い年であった.

 しかし,始めがあれば終わりがあるのたとえ通り,モーツァルトメモリアルイヤーも残すところあと1ヶ月である.毎日モーツァルトでもいよいよラストイヤーの1791年の話題になっている.うちのKなどは「これほど過ぎてしまうのが寂しい年はない」などといっている(勿論来年になったからといって,モーツァルトが無くなってしまうわけではないが).

 さて,モーツァルトに沸いた2006年に続く,2007年にはどんなメモリアルがあるのだろうか?挙げてみよう.

 1. 井上靖,淡谷のり子,中原中也生誕100年(1907年) えーっ!淡谷のり子と中原中也って同い年だったの?

 2. ヘーゲルの「精神現象学」執筆200年(1807年) 我々一般人にはとても最後まで読めない本ですが…….

 3. 唐滅亡1100年(907年)  李白・杜甫・楊貴妃で有名な唐王朝が滅亡して1100年 

 4. ビザンチン皇帝コンスタンチヌス10世生誕1000年(1007年) 一番きりがいい.でも誰も知らない(泣).

 5. 法隆寺創建1400年(607年),同じく聖徳太子の国書を持った小野妹子が隋の煬帝を怒らせて1400年(いわゆる「日出づる処の天子~」の国書) これはすごい事件だ!

 6. 諸葛亮孔明デビュー1800年(207年) 三顧の礼を受けた諸葛亮が劉備の軍師になる(これもすごい事件.ちなみに劉備の子劉禅が生まれたのもこの年).

 7. 後漢の蔡倫没後1900年(107年) 紙の発明者です.

 8. 倭の奴国王が後漢の皇帝から倭奴国王印を授けられて1950年(57年) 有名な金印です.

 9. 聖山事件2500年(紀元前494年) 古代ローマで起こった貴族と平民の争い(世界史で習った.懐かしい).

 10. ソロンの改革2600年(紀元前594年) 古代ギリシャの有名な政治改革.

 音楽関係のネタがないのが残念ですが,一番の話題は諸葛孔明デビュー1800年でしょうか(ビザンチン皇帝を名乗るものとしては,コンスタンチヌス10世生誕1000年も捨てがたいが…).来年は三国志で盛り上がりますか(笑).

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2006年11月20日 (月)

晩秋の京都Ⅰ ~幕末編~

 この週末京都に行ってきた.最大の目的は来日中のニコラウス・アーノンクール指揮のメサイア演奏会を聴くためである.当初は,ついでに晩秋の京都観光と洒落てみたかったのだが,コンサート翌日の11月19日に盛岡で絶対に休めない重要な練習が入っていたため,結局京都滞在はわずか24時間になってしまった.

 前日11月17日の夜,仕事を片付けた後,自動車で盛岡に行った.駅前に車を置いて,こまちで秋田に行く(ウチのKはこまちに乗るのは初めてだと言っていた).秋田から寝台特急「日本海4号」に乗って,一路京都を目指す(京都行きのルートは,この「日本海」を使うコースと,東京まで行って急行「銀河」(10月の山陰遠征で使った列車)を使うコースがあるのだが,どっちがいいかKに聴いたところ即座に「日本海!」といわれてしまった).日本海4号は普通のB寝台車を基本にして1両だけA寝台車「シングルデラックス」が付いている.今回我々はこのシングルデラックスを利用した.

Nihonkai2 秋田駅に入線する寝台特急「日本海4号」

Nihonkai1 Nihonkai3

 日本海4号シングルデラックスの中です.

 日本海のシングルデラックスは1両に10室,シャワー室も付いたA寝台である.内装的には「サンライズ瀬戸」,「サンライズ出雲」にはかなわないものの,「はやぶさ」,「富士」のシングルデラックスよりははるかにマシである(実は,昔東京-下関を結んでいた寝台特急「あさかぜ」のシングルデラックスがこの「日本海4号」と同じものである).我々はビールを飲み,モーツァルトを聴きながら優雅(?)に寝台列車の旅を楽しんだ.

 翌朝9時40分に京都に到着,我々はまず明日利用する,伊丹空港行きのバス乗り場を確認した(京都駅の南口にあった.地下鉄京都駅のホーム一番南のエスカレーターから行くと近い).その後,今日の宿舎であるアランヴェールホテル京都(地下鉄五条駅近く,最上階に展望大浴場がある)に行き,荷物を預けて活動を開始した.

 アーノンクールのコンサートが夕方5時から始まるため,我々に与えられた時間は4~5時間しかない.この限られた時間を有効に使うため,今回は鴨川近く,木屋町通りを中心に攻めることにした.

 木屋町通りは鴨川と高瀬川の間にある狭い通りである(それだけに昔の風情を残した通りであるが).幕末にはこのあたりには長州藩邸などがあり,主に長州系の志士が活躍した地域である.そんな木屋町通りと四条通りの交差点付近には,まず有名な古高俊太郎の枡屋跡がある.元治元年(1864年)6月5日朝,かねてからこの店が怪しいとにらんでいた新選組が枡屋を襲撃し,主人の古高俊太郎を捕縛したところから池田屋事件が始まる.屯所に連行された古高は,土方歳三の拷問(逆さづりにして,足の甲から五寸釘を打ち,突き抜けた反対側に百目ろうそくを立てて火を付けるというもの.流れしたたる蝋が傷口に流れ込み,その苦痛は想像を絶する)によって,クーデター計画を白状した.それは,風の強い日に御所に火をつけ,あわてて参内してきた京都守護職松平容保(会津藩主)らを殺害,その混乱に乗じて天皇を長州に連れて行こうというものすごい計画であった(もしこれが実現していれば,ローマ教皇のバビロン捕囚と並ぶ大事件として史上語り継がれたであろう).

Hurutaka3 古高俊太郎の碑

Hurutaka2 Hurutaka1

枡屋の跡地はなにやら料理屋になっています.

 しかしこの計画は古高の自供によって新選組の知るところとなり,彼らは直ちに行動を開始する(この辺のフットワークの軽さが,新選組の魅力でもある.一般に日本の組織は根回し等に時間をかけすぎて時期を逸するパターンが多い).同日夜には,古高が捕らえられたこと対する浪士側の対策会議が池田屋で開かれ,そこに新選組が急襲をかけたのである.この池田屋跡は今はパチンコ店になっている(風情もまったくない).

Ikedaya2 明治維新が1年遅れたといわれる池田屋事件の碑(池田屋騒動と称されているのがもの悲しい).

Ikedaya1 今の池田屋はパチンコ店になっています(泣).

Sinsen2 Sinsen3

高瀬川にはなにやら放り投げられたような自転車が.いったいこれは‥‥

Sinsen4 Sinsen1

道路にはなにやら駐輪禁止の看板が.も,もしかして,これは新選組によって切り捨てられた不逞自転車だったのか(笑).

 その他,この周辺には佐久間象山暗殺の碑,大村益次郎(長州藩士.徴兵制を導入し,日本陸軍生みの親といわれる.戦術家としても有名.ただ,彼が早くに暗殺されたため,後の陸軍は同じ長州藩士の山縣有朋が主導するようになり,今も知られる旧日本陸軍らしくなっていく)暗殺の碑がある.

Oumura 佐久間象山の碑と大村益次郎の碑は同じ石版に彫られています.

 幕末のスーパースター坂本龍馬が暗殺された近江屋もこの辺にある(近江屋跡は旅行代理店になっている).この近江屋は土佐藩邸と目と鼻の先にあり,龍馬は自分の出身藩邸のそばで殺されたことになる(やはり脱藩者の立場は厳しかったのだろうか).また,龍馬が当時投宿していた材木屋の「酢屋」もすぐ近くである.酢屋の二階では坂本龍馬ゆかりの品々が展示されていた(海援隊の日誌など当時の貴重な文書もあった).案内してくれたお店の方が,「坂本龍馬が殺されたのは慶応三年のちょうど三日前,11月15日なんですよね」といっていたが,それを聞いて気が付いたのは「そうか,今日は11月18日,油小路で新選組を脱隊した伊東甲子太郎や藤堂平助が死んだ日だ」ということであった.

Oumiya1 坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡.現在は旅行代理店になっており,往年の面影はありません.

Suya2 Suya1

当時坂本龍馬が投宿していた店はいまでもあります.今の主人は当時から数えて4代目だそうです.

 その他この地域には桂小五郎が幾松と潜んでいた場所や長州藩邸跡(いまは京都ホテルオークラになっている)などがあった.我々は,是非伊東甲子太郎が死んだ油小路(七条油小路から本光寺前.新選組の襲撃を受けた伊東はここで「奸賊ばら!」と叫んで絶命したという)も是非行きたかったが時間がなく断念した(次回京都に行ったら必ず行く!と決意した私だった).

Katsura2 Katsura1

桂小五郎が潜んでいたところは今は料理屋になっています.京都ホテルオークラ前には桂小五郎の像が立っています.

 時間がきたためホテルに戻り,いよいよアーノンクールであった.

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2006年11月16日 (木)

モーツァルトと坂本龍馬

 地元出身の有名人を使って地域振興を図るのは,世の東西を問わない.私の地元岩手では,宮沢賢治石川啄木が良く引っ張り出される.隣県の仙台市では伊達政宗が,東京の日野市では土方歳三が,鳥取県境港市ではゲゲゲの鬼太郎(水木しげる氏)が有名だ.しかし,その中でも高知の坂本龍馬ほど,地元・訪問客の双方から熱く語られる人物はいないだろう.

 高知を訪れたことがある人にはわかると思うが,高知における坂本龍馬の存在は絶大である.市内,特に桂浜に行くと龍馬の銅像がデンと構えており,一方土産物屋はひたすら,「龍馬,龍馬,龍馬」のオンパレードである.キャラクターグッズもTシャツや携帯ストラップから,ビールに至るまでなんでもある.おまけに空港まで“高知龍馬空港”と命名されており,高知人の龍馬にかける思いの強さが偲ばれる.おそらく,地元民の期待の高さでは日本一ではないかと思う(2006年は大河ドラマに山内一豊が取り上げられたこともあり,高知城などでは,一豊やその妻千代も露出しているが,存在感としては,坂本龍馬の足もとにも及ばない.個人的には一豊より,幕末の土佐藩主山内容堂のほうに関心がある).Ryouma2_1

Ryouma3_1

桂浜の土産物屋はこの通り,「龍馬!龍馬!龍馬!」である.左の写真にある龍馬ラーメン・うどんって一体….

海外においても状況は似たようなもので,お隣の中国の成都では三国志の英雄,関羽が祭られている.また.泰山の近くでは,孔子の子孫が観光客相手に,論語の一節を色紙に書いて売るという商売をやっているらしい(これは,作家の棟田博氏の著作,続・陸軍よもやま物語に出てくるエピソードである).

ヨーロッパではドイツのライプツィヒのバッハや,同じくドイツのハーメルンでの笛吹き男(現地ではネズミ捕り男というそうです.ねずみ男ではありません 笑)などが知られているが,何といっても凄いのは,ザルツブルグのモーツァルトである.特に今年は生誕250年ということで,ザルツブルグの街は完全にモーツァルト一色になっている(10月に放送された,NHKの“毎日モーツァルト”の特番でも,ザルツブルグを訪ねた山本耕史が「それにしても,どこを見渡しても“モーツァルト”,“モーツァルト”」と感心しているのか,呆れているのかよくわからないことを言っていた.私も今年の夏ザルツブルグを訪れたが,やはり街中が“モーツァルト”,“モーツァルト”であったのは強く印象に残っている(空港名まで“ザルツブルグW.A.モーツァルト空港”であり,この熱の入れようは高知の坂本龍馬そっくりだ).

Moz2

Moz5_1

今年は街中が「モーツァルト!モーツァルト!モーツァルト」です.ついにはこんなTシャツまで登場(笑).

そんなわけで,東西の2大ご当地スターともいうべき坂本龍馬とモーツァルトであるが,意外な共通点がある.それは,「故郷を捨てて他所で活躍した」という点である(その他,お姉さんの存在も).

モーツァルトは父とともに,生地ザルツブルグの宮廷楽員として働いていたが,雇い主である大司教コロレドと喧嘩別れして,ウィーンに移り住み,フリーの音楽家として数々の名曲を世に送り出した.そして生涯を通じて故郷に帰ったことは数えるほどしかなかった.一方ザルツブルグ側でも,モーツァルトの死後しばらくまで,彼の存在をあえて無視していた様子が見られる(モーツァルトがウィーンで脚光を浴びている事実は伝えられているはずだが……).モーツァルト自身もザルツブルグに対する思い入れはあまりなかったと伝えられている.

 翻って坂本龍馬であるが,彼は土佐藩の郷士身分(下級武士,坂本家は武士ではあるが,生活のため商売もやっていたらしい)で,一時は武市半平太の土佐勤皇党に所属していたこともあったが,一念発起し何と脱藩して江戸に出たのであった(やはり土佐藩という小さな枠組みのなかではなにもできないと思ったのだろうか).江戸に出た龍馬は,勝海舟の弟子になって海軍の創設に奔走し,後には亀山社中,海援隊を作って海運業に活躍した(亀山社中は日本最初の商社といわれる).政治的にも薩長同盟の斡旋や船中八策による,大政奉還への流れを作るなど,幕末維新史に果たした役割はきわめて大きい.

 こんな龍馬であるが,ふるさと土佐への思いはどうだったのだろうか.脱藩後も土佐藩士との付き合いも多かったから,モーツァルトのように冷ややかだったとは考えにくいが,やはりふるさと以上の思い入れはなかったように感じられる.モーツァルトがザルツブルグの枠に収まりきらなかったように,龍馬もまた土佐という枠を超えて,日本というより大きな枠で動いていたからである.

 かくして今日も,東西のご当地スターの故郷には多くの観光客が訪れていると思われる(当の二人は地元での盛り上がりをどう感じているのだろうか?).

Moz1 Ryouma

東西の2大ご当地スター(ザルツブルグのモーツァルト像と高知桂浜の坂本龍馬像).

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2006年10月26日 (木)

第一と第二

 私は10月24日に行われた,”能代寮歌を愛する会”に参加した.寮歌は主として旧制高等学校(新制大学の教養課程に相当する)や大学の予科の寄宿舎の歌である.旧制高校には,明治期にできた番号で呼ばれる学校(ナンバースクール,第一高等学校から第八高等学校まである)と,大正期以降にできた地名を冠した学校(ネームスクール,弘前高等学校,松江高等学校など)とがある.

 ナンバースクールのうち,第一高等学校の所在地は東京であり,第二高等学校は仙台にあった.この事実を知った時,「どうして仙台なんだろう」というのが正直な感想であった.第一が東京にあるのは理解できる.首都なんだから,まあそういうもんだろう.しかし,どうして第二が仙台なのか.町の規模や歴史から言っても,大阪や京都,名古屋あたりの方が適当なんじゃないかと思ったのである.しかも時代は明治である.戊辰戦争で仙台は奥羽越列藩同盟を作って薩長新政府軍に対抗した都市である.こうした朝敵の汚名を着せられたところに,第二と銘打った高等学校ができたというのが意外だったのである.薩長藩閥政府の時代なのだから,彼らの地元の山口や鹿児島に作っても良さそうなものをと思ったりもした(ちなみに鹿児島には明治34年に第七高等学校造士館が,山口には大正8年に山口高等学校が設置されている).

 実はこの,第一(東京),第二(仙台)というパターンを持つものがもうひとつある.それは旧日本陸軍の師団司令部の所在地である.師団というのは司令部を有し,単独で作戦を遂行できる能力を持った戦略単位と呼ばれる部隊である.規模は1万人(平時)~2万人(戦時)で,歩兵・砲兵以下,工兵(道路の修理や架橋,線路の敷設を行う兵種)や補給部隊,野戦病院なども含まれている.戦前の陸軍にはこうした師団が数多くあったが,そのうち第一師団司令部が東京に置かれ,第二師団司令部が仙台に置かれたのである.第一はともかく,なぜ第二が仙台なのかはよく分からない(ちなみに今の陸上自衛隊では第1師団は東京で,第2師団は北海道にある.東西冷戦時代北海道が日本の最前線だったからである).

 以下に旧制高校(ナンバースクール)の所在地と陸軍師団司令部の所在地を示します(第一と第二はいずれも東京と仙台ですが,第三以降はバラバラです).

旧制高校の所在地

陸軍師団司令部の所在地

第一

東京

東京

第二

仙台

仙台

第三

京都

名古屋

第四

金沢

大阪

第五

熊本

広島

第六

岡山

熊本

第七

鹿児島

旭川

第八

名古屋

弘前

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2006年8月30日 (水)

はなさかづきその後

 8月5日に東京でエルプロの公演”はなさかづき”を観た.戊辰戦争期の会津藩が舞台で,鳥羽伏見の戦いから鶴ヶ城落城までが描かれていた.白虎隊をはじめとする会津戦争についてはこれまでも多くのドラマや舞台で取り上げられているが,その後の会津藩士のたどった道については余り語られることがないように思う.戦後所領を没収された会津は明治3年に陸奥の国(今の北東北)に斗南(となみ)藩として再興を許され,藩士およびその家族併せて17000人がここに移住したのである.

 ”はなさかづき”に触発されて斗南藩について調べていたが,なんと!下北半島大間町に斗南藩士の末裔の方がやっている”会津斗南藩資料館”があることが判明,こりゃ行くしかないと先週末さっそく出かけたのだった.

 私の住んでいるところから下北半島の中心都市むつ市まで約180km,8月26日お昼前に出発して(途中寄り道をしながら),夕方にむつ市に着いた.まず向かう先は同市大湊にある,斗南藩士上陸の地である.約17000名の会津の人々は陸路,海路様々なルートで斗南にやってきたが,新潟から海路でやってきた人たちが初めて上陸したのがここ大湊である.ここには上陸の碑がひっそりと建てられていた.港は現在では護岸工事がされているため往年の面影はないが,港から見える釜臥山の風景は昔から変わっていないはずである.初めて斗南の地に上陸した人々は,どんな思いでこの山を見たのだろうか.

Tonami1  (写真1) 大湊にある”斗南藩士上陸の地”の碑.鶴ヶ城の石垣と同じ石を使っており,会津の方角に向かって建っているそうです.

Tonami2  (写真2) 大湊から見える釜臥山.上陸した藩士たちはどんな夢を抱いてこの山を見たのでしょうか.

 上陸の碑を見た後は日が暮れたため市内に宿泊した(むつ市の繁華街をぶらぶらしたが,結構活気があって,少なくとも私が住んでいる町よりは栄えていると感じた).

 翌27日,まずは市内田名部にある円通寺に行った.ここは今では恐山の本坊として知られているが,当時ここに斗南藩の藩庁がおかれ,藩校の日新館も開かれた.境内には招魂碑(明治23年に藩主だった松平容大公による揮毫という)が建てられている.

Tonami4  (写真3) 円通寺.当時斗南藩の藩庁がここに置かれた.

Topnami3  (写真4) 境内にある招魂碑.

 円通寺を後にして今度は下北半島の北東端の尻屋崎を目指す.市内から数キロ走った道の左側に斗南ヶ丘と呼ばれるところがある.ここが移住当時に藩士たちが街を作ろうと開拓した土地である.現在当時がしのばれる建物などはなく,荒れた山林の中に碑(土塀跡という寂しい印しがわずかに残るのみ)が建っているだけであった(厳しい風雪で建物はすぐに倒壊してしまったらしい.それほど厳しい気候なのである).またここには秩父宮殿下斗南ヶ丘巡遊記念碑もある(秩父宮妃は松平容保公の孫勢津子であり,御成婚にあたっての会津人の感激は大きなものだったという).

Tonami5 (写真5) 斗南ヶ丘にある当時の市街地跡.今では市街地があった痕跡はほとんどない.

Tonami6  

 斗南ヶ丘の後,旧斗南藩士の墓に行こうとしたのだが,通り過ぎてしまったのか見つけられなかったため今回は断念,その後いよいよ本日のメインイベント,大間町の資料館訪問となった.

 尻屋崎から車を走らせること1時間強,大間町郵便局の向かいにそれはあった.生花店の2階が資料館になっているとのことであったが,見ると「本日はお休みします」という紙が.ガーン,そ,そんなとショックを受けたが,「御用の方はインターホンでどうぞ」とも書いてあったため,とりあえずインターホンを鳴らす.応答があったため,資料館に伺った旨をお話しすると中に案内していただけた(生花店の方はお休みだが,資料館の方は遠方から来るお客さんも多いため呼ばれれば開けているとのこと).感謝しつつ中に入った.

 資料館はお店の2階になっており,一部屋に様々な資料がきれいに並んでいた.容保公の写真各種や,当時の会津城下の地図,新潟から海路斗南にやって来た藩士が乗船した蒸気船ヤンシー号の絵,当時の名簿や書簡(はなさかづき関連では佐川官兵衛の写真や山川大蔵の書簡などもあった),短剣などが展示されていた.なかでもとりわけ貴重なのが,松平容保公が斗南を去るにあたって書いた直筆の掛け軸(向陽処.自分たちは賊軍の汚名を着せられ流されたが,いつかは陽のあたる処に出ることもあろう.その日まで会津藩士の誇りを失うことなく努力しようという意味らしい)である.これらは全てこの家に所蔵されていた品々である.一通り見て回った後,館長の方とお話しをした.それにしても,どうしてこんな貴重な資料がここにあるのか不思議に思ったが,この家のご先祖が斗南藩の史生(藩の記録を残す役職)であったため,これらの資料が残っているとのことであった.今でも新しい資料や事実がわかってきているとのことで,はなさかづきにも出てきた梶原兵馬が実はその後北海道に渡って根室で死んだというお話も伺った(お墓といわれる写真もあった).最後にお店においてあった星 亮一著「会津藩 斗南へ」を購入して御暇したのだった.

Tonami7

 大間町にすむ斗南藩の末裔の方が開いた会津斗南資料館は郵便局の向かいにあります.ホームページは下.

斗南藩士末裔による手作り資料館と生花店

  その後国道338号を海沿いに南下し,湯野川温泉の濃濃(じょうじょう)館という共同浴場で入浴して家に帰ったのである.下北半島にはこの他にも柴五郎(後の陸軍大将)の居宅跡などゆかりの地がある.いずれまた再訪したいと思った次第である(この下北半島訪問記はホームページ本編に詳細してあります 下北半島斗南藩紀行 ).

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2006年8月 8日 (火)

はなさかづき

 先週末江戸表に出向いた最大の目的は5月のひの新選組まつりでお世話になったエル・プロダクツ(エルプロ)の公演を見に行くためであった.エルプロは主に時代ものを取り上げて活動している女性ばかりの劇団である.私は今年のひのパレで思いがけなくも六番隊隊長井上源三郎の役をやらせていただいたのだが(ひのパレのレポートについてはホームページの方にアップしてあります第9回ひの新選組まつり参戦記録),この時六番隊の隊士を務めていただいたのがエルプロの皆さんなのであった.パレードの合間に行われた殺陣のパフォーマンスも見事で,これは是非公演を見に行かなくてはと思っていた次第である.

 今回の演目は”はなさかづき”,これは戊辰戦争における会津藩がテーマである.会津藩といえば幕末に京都守護職であった松平容保公の治める藩である.孝明天皇の信頼も厚く,最も勤皇でありながら戊辰戦争では朝敵の汚名を着せられた悲劇の藩として知られている.維新後も不毛の地”斗南”(今の下北半島)に移封され辛酸を舐めさせられている(最もこの斗南移封については,会津藩士自身が猪苗代と斗南のうち斗南を選択したともいわれている).そんな会津の戦いをテーマにした作品であった.

 8月6日11時の公演を観に行くため東京は銀座へと向かう(山高シャッポにロイドめがねではなかったが…… って誰もわからないか 笑).会場は銀座みゆき館劇場という小さな劇場,最初に入った時はあまりにこじんまりとしていてちょっと驚いた.

 さて,舞台である.物語は慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いから9月の会津藩降伏までの出来事が演じられている.会津藩家老で,北越戦争に参加し鬼官兵衛と恐れられた佐川官兵衛とその側近,桜庭百太郎を中心とし,それに会津で小料理屋を営む結城孫八という無駄に男前な店主と,情報屋の田所一矢が絡む形で進んでいく.基本的には史実にそって話は進んでいくのだが,所々に創作やお笑いも交えていた.飯盛山での白虎隊自刃の場面では独自の解釈(城下の炎を城が燃えていると誤認して自刃したとされている部分を,まだ城は燃えていないことを知りつつ,帰還が困難であることを悟って魂となって城を守ろうと自刃したことにした)を出して白虎隊隊士の純粋さを高めるのに成功していたと思う.また会津の伝統芸能である彼岸獅子が所々に登場して演出効果を上げていた(彼岸獅子については,日光口の戦闘で大鳥圭介とともに善戦していた家老の山川大蔵が会津に帰還した際,鶴ヶ城が既に敵に包囲されていたため,彼岸獅子を舞って敵の目を欺いて入城したという話が有名である.このエピソードは昭和55年のNHK大河ドラマ”獅子の時代”でも描かれていたのを覚えている).役者もみな個性的で良かったと思う(特に佐川や山川のキャラクターが良かった).

 とにかくあっという間の2時間であった.私は昔から涙腺が弱く,ちょっと感動するとすぐに涙が出てくるのだが(ハクション大魔王の最終回や赤毛のアンのマシューが死んだ回などは未だに涙なしでは見られない),今回も大いに感動した次第であった.

Hanasakaduki (写真)今回の公演のチラシです.いったいどこで撮影したのでしょうか?

斬心 (エルプロの活動や公演についての情報が見られるサイトです)

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2006年8月 3日 (木)

ついに梅雨明け!

 昨日8月2日でついに東北地方の梅雨が明けたらしい.今日は早速気温も上がり夏らしくなってきた.元々私の住む岩手県沿岸北部は夏でもあまり気温の上がらない地域である.一般に東北地方北部(青森,秋田,岩手)は緯度が同じならば,太平洋側に比べて日本海側のほうが温暖である.青森県津軽地方や秋田県は米どころとして知られているのに,反対の太平洋側はちょっとした冷夏であっという間に米の作況指数が低下してしまうのであった.これは北東北太平洋岸にはヤマセという冷たい北東の風(極偏東風)が吹き込んでくるためである.このため同じ青森県でも津軽半島は古くから栄えてきたのに,反対側の下北半島は明治になってからようやく開発が始まったのであった.戊辰戦争後に会津藩の人々が移封された斗南藩はこの下北半島地域にあり,平成の現在でも稲作が難しい地域である(このことからも,当時の会津藩の人たちの苦労がしのばれる).ちなみに新選組副長助勤で,維新後会津藩と行動をともにした斎藤一が斗南藩時代住んでいた地域は五戸(ごのへ)といって,青森県の太平洋側(三八上北地方)にあり,私が住んでいるところから比較的近い.このことからも私の住む地域の夏があまり暑くないことがわかるのであった.

 

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