2020年3月15日 (日)

インパールへの道

 太平洋戦争後半の1944年(昭和19年)3月に,日本が当時占領していたビルマ(現ミャンマー)からインド東部にあるイギリス軍の拠点インパールを占領しようと開始したのがインパール作戦(ウ号作戦)です.作戦構想自体は壮大なものでしたが,補給を無視した杜撰な作戦は大失敗に終わり,参加した3個師団の参戦兵力の半分以上が戦死戦病死する惨憺たる敗北に終わりました.このことから史上最悪の作戦と呼ばれ,インパールという名前そのものが杜撰な作戦の代名詞にもなっています.

 そんな作戦の地であるインパール,戦史好きの自分にとっても行けるものなら行ってみたい地です.しかし,ミャンマーとインドの国境地帯は民族紛争なんかがあって治安が悪く,少なくとも陸路で国境を越える旅は不可能だろうと思っていました.

 し,しかし

 なんと!陸路インパールを目指すツアーがあるらしいのです.

 陸路で行く ミャンマーからインパール、コヒマへの道11日間

 SNS上で出ていたんですが,これは風の旅行社という主としてペルーやモンゴル,ネパールといった山岳国への旅行を得意とする会社です.以前ペルーに行く時にここも候補に入れたことがあるので覚えています.まさか,こんな企画を立てていたとは…

 こんなご時世ですが,参加できるものなら参加したいなと思って日程を見ると…

 2020年3月6日出発

 もう出発日を過ぎています.はたして催行されたのだろうか… そうでなくても来年また企画されるなら参加したいなと思ったのでした.

 奇しくも今日3月15日はインパール作戦において,側面から同地を攻撃するために第15師団(祭兵団)と第31師団(烈兵団)が作戦行動を起こし,国境であるチンドウィン河を渡り始めた日です.

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 図はインパール作戦時の各師団作戦行動図に今回のツアーの日程を重ね合わせてみました(高木俊朗著 インパールより引用改変).当時の兵団がどうしてもたどり着けなかったインパールまで矢印が伸びでいるのが感動的です.

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2020年1月27日 (月)

楽聖と楽仙

 唐の詩人に杜甫李白という人物がいます.どちらも8世紀の玄宗皇帝の時代,いわゆる盛唐と呼ばれる時代に活躍した詩人です.

800pxdufu  杜甫は自身の科挙受験の失敗や,王朝を揺るがした安史の乱による家族の離散や社会の混乱といった経験からか,世の中の実相を鋭く見つめた詩が多くあります.その人物像も眉間にしわを寄せた苦悩のイメージがあり,今では詩聖と呼ばれています.彼を代表する詩が春望で,江戸時代の俳人である松尾芭蕉の「奥の細道」にも引用されているのでご存知の方も多いでしょう.

 国破山河在     国破れて山河在り
 城春草木深     城春にして草木深し (以下略)

Libai_touxiang  一方の李白は杜甫とほぼ同時代(10歳くらい年上)に活躍した詩人です.西域の出身といわれ,長じて都の長安に出て一時は玄宗の宮廷で詩を作っていましたが,その自由奔放な性格が災いして都にいられなくなり晩年は各地を放浪することになります(最後は酔って,水面に映った月を取ろうとして溺れたという伝説もあります).ただそんな境遇であっても詩には悲壮感はなく,その作風から詩仙と呼ばれています.彼の代表的な詩が「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」です.

 故人西辞黄鶴楼   故人西の方、黄鶴楼を辞し
 煙花三月下揚州   煙花三月揚州に下る   (以下略)

800pxbeethoven  さて,杜甫の詩聖という言葉を聞いて連想するのが,音楽の世界で楽聖と呼ばれるベートーベンです.

 交響曲から小品まで数多くの名曲を世に出した一方で,私生活では飲んだくれの父親や不良の弟など家族のことで苦労し,その肖像画でも眉間にしわが寄っているところは何となく杜甫に通じるものがあって楽聖という呼び方は言い得て妙という気がします.

 というわけで,楽聖といういい方があるのなら楽仙というのはないんでしょうか.残念ながら世間ではそういうのはないようですが,あえてふさわしい人物を探すとすると… 思い当たる人物は一人しかいません.

800pxwolfgangamadeusmozart_1  W. A. モーツァルトですね (^。^)

 あふれ出る才能で数多くの名曲を書いた一方で自由奔放で善良そうな性格は,水面の月を追い求めそうなイメージです.モーツァルトというと晩年は貧乏で借金というイメージを持ってる方もいるようですが,晩年のモーツァルトも結構収入は多く,ただ収入以上に支出が多かったために借金をしていたというのが実際のようです(年収2000万円の人が3000万円使って借金漬けというイメージ (+o+)).そういえば年が十数年,聖より仙の方が上というのも共通です.今日1月27日はそんなW. A. モーツァルトの誕生日なのでした.

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2019年12月14日 (土)

元禄赤穂事件と南極

 12月14日は元禄赤穂事件の日です.元禄十五年のこの日,大石内蔵助をリーダーとする赤穂浪士47名が江戸郊外本所松坂町にある吉良義央の屋敷を襲撃し,その首を挙げました.後に人気となった歌舞伎や浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」の元ネタとなった事件です.この仮名手本忠臣蔵をベースに現在に至るまで何度も映画やテレビドラマなどに取り上げられていることから,歴史に興味ない人であっても,「ああ,あの事件か」とわかっていただけると思います.

Chushingura  映画やドラマでは赤穂浪士=義士,吉良義央=悪者のイメージが定着していますが,それはあくまでもフィクションであり,すべてが歴史的事実ではないのは言うまでもありません(この辺は羅貫中の「三国志演義」や司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んでこれを史実だと勘違いするのに似ている).たとえばこの事件を現代的な視点で見れば,「非合法の武装集団が深夜,郊外の個人宅を襲撃してその主人と使用人を殺害した」という恐るべきテロ事件ということになります.主君の仇を討つということが大義名分に掲げられていますが,そもそも仇となるようなことが本当にあったのかも実はよくわかっていません.ただ当時の世論が浪士たちに同情的だったのは確かなようで,結局幕府は浪士たちに切腹という名誉ある死を与えることになります.

Amunzen  そんな12月14日ですが,世界史的には人類が初めて南極点に到達した日として記憶されています.その偉業を達成したのはノルウェーの探検家ロアルド・アムンゼンを隊長とする5人の隊であり,時に1911年12月14日でした.このアムンゼン隊の栄光の一方で,イギリスのスコット隊の悲劇もよく知られています(アムンゼンに遅れること約1か月,1912年1月17日に南極点に到達したものの,帰路全員が遭難死した).

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2019年9月16日 (月)

三国志展に行ってきました

Img_5696  音楽好き,旅行好きな私ですが,それに負けず劣らず歴史好きです.日本史ももちろん好きなんですが,メインにしているのは世界史です.本業(笑)である中世ヨーロッパ史に加え,イスラム史,中国史など興味が尽きないのですが,とりわけ中国史は漢民族が文書記録を残すのが大好きな人々で資料が豊富であることから小さい頃から興味深い分野でした.中国史といえば平和な時代と激動の時代が交互にやってくる歴史ですが,子供心にワクワクするのはやっぱり激動の時代です(まあ民衆にとっては不幸な時代かもしれませんが).とりわけ後漢末から西晋に至る2世紀末から3世紀前半いわゆる三国時代は好きな時代です.

Img_5462 (写真1)関羽像

 三国時代の正史である三国志は西晋時代に陳寿によって著されましたが,世間にこの時代を認知させたのはより後の時代,明代の羅貫中によって書かれた「三国志演義(三国演義)」によるところが大です.三国志演義はすでに江戸時代には我が国でも広く知られるようになっていたようで,いつしか日本では三国時代の歴史=三国志演義という構図が出来上がってしまい,そのまま現代に至っています.

 今回上野の国立博物館で「三国志展」が開催されているという話は聞いていたんですが,ふと調べたら会期が9月16日までとなっていたので,慌てて出かけてきました(最後の3連休は混むに違いないと確信したため,その前日12日(金)の夜に行った).

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(左写真2)東京国立博物館,(右同3)三国志展があるのは奥の平成館

 当地から新幹線と上野東京ラインを乗り継いで上野駅の公園口から出ます.公園内を通って博物館の入り口に来ましたがチケット売り場にはほとんど人がいません.「おっ!これは空いているな」とほくそ笑んで中に入ろうとしたんですが,そばに「三国志展は混雑中です」の張り紙が… 入り口はこんなに空いているのに… と思いながら構内に入りました.そのまま三国志展が開催されている平成館へ,ここでチケットを見せていよいよ入館します.展示室のある2回に向かうエスカレーターはまあまあの人でした.

Img_5454 Img_5542 (左写真4)横山光輝三国志第1巻,(右同5)部屋一面で再現された孔明の矢狩り

 2階に上がりいよいよ見学開始です.今回の展示は日中文化交流協定締結40周年を記念して行われるもので,三国志を虚像と実像から迫ろうという趣向です.虚像の三国志といえば日本では横山光輝の「三国志」とNHK人形劇「三国志」が双璧です.今回はマンガの一部や川本喜八郎氏制作の人形が展示されていました.また虚像の三国志のハイライトである赤壁の戦いの前哨戦における孔明の”矢狩り”のイメージが部屋いっぱいで表現されていたのが興味深かったです.

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Img_5492(写真6~7)川本喜八郎氏製作の人形(左から曹操,劉備,孫権)

 一方で実像の方はというと,当時使用されていた印や食器の展示および今世紀に入って発見された曹操の墓”曹操高陵”の埋葬品の展示がされていました(曹操は遺言で自分の葬儀は質素にせよと命じていたとのことでしたが,実際に当時の権力者にしては質素だったらしいです).平日の夕方とはいえ,それなりの人出,ボリュームたっぷりの展示だったので3時間の滞在ながら最後の方は駆け足になってしまいました.

Img_5527 Img_5525Img_5691  (左写真8)お墓を照らす多層灯,(中同9)鏡台,(右同10)揺銭樹

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(左写真11)獅子像,(右同12)再現された曹操高陵

 そんなわけで久しぶりに三国志の世界を堪能いたしました(この展覧会は東京では終了,来月1日から福岡で開催されるとのことです).

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2019年8月 3日 (土)

8月といえば

 8月といえば日本では先の大戦を考える月でもあります.自分自身が戦記に興味を持ったのは中学生時代でした.それ以前から(当時の)子供向けに書かれた戦車や軍艦などの解説本を読む機会はあったんですが,この手の本は「世界一の戦闘機零戦!」,「世界最大の戦艦大和!」など景気のいいことばかりが書かれていて,子供の頃は無邪気に読んでいました.ただ長ずるに従い「そんな無敵な兵器を持っていた日本がどうして戦争に負けたんだろう」という素朴な疑問がわいてきて,少し勉強してみようと思ったわけです.当時はインターネットなどという便利なものはなかったので,調べるとすれば当然書籍ということになります.本屋さんに行ってあちこちのコーナーをめぐり,しかも中学生の乏しい小遣いも考慮しつつ購入したのが,伊藤正徳著の「連合艦隊の最後」,「帝国陸軍の最後」(全5巻)でした(当時の価格で1冊約350円なので6冊合計で2000円強と中学生でもなんとかなる額だった).

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(写真)帝国陸軍の最後全5巻(第3巻死闘編のみ表紙がないのは,一番読み込んでボロボロになっている巻だからです)

 このうち連合艦隊~は海軍の,帝国陸軍の~は陸軍の戦記です.両方購入したんですが,当時はすでに真珠湾攻撃やミッドウェー海戦など海軍関係は少し知識があったので,まずは陸軍の方から読み始めました(このシリーズ,今は光文社文庫から出ていますが,当時は角川文庫からだった).

 所々難しい箇所はありましたが,著者の文章は非常に明快で読みやすく,あっという間に読んでしまった記憶があります.太平洋戦争の陸戦史を5巻に分け,それぞれ

「侵攻編(マレー上陸戦からシンガポール,フィリピン,ジャワ,ビルマ攻略,そして昭和17年夏から秋のモレスビー攻略戦まで)」

「決戦編(ガダルカナル戦,ニューギニア戦,ビルマの第一次アキャプ会戦,大陸打通作戦等昭和17年後半から18年の戦闘)」

「死闘編(サイパン,グァム等マリアナ諸島の戦い,インパール作戦,レイテ戦など主に昭和19年の戦闘)」

「特攻編(ルソン戦,硫黄島戦,沖縄戦など昭和20年6月まで)」

「終末編(ビルマ・中国での戦闘,対ソ戦,B29との空戦,終戦への流れ)」となっています.

 著者は元々海軍記者で,軍関係の知識が豊富な方です.いろいろな方面に取材して本書をまとめたわけですが,そのスタイルはとにかく闇雲に戦争は悪だと批判するわけでも,日本は正しかったと美化することもなく,硬直した人事指揮系統やずさんな作戦に対しては厳しい目を向ける一方で,命令に従い理不尽な状況下で戦い亡くなった人たちへの敬意は忘れないというものでした(軍記者だったことから全体としてはやや軍に好意的な印象はありますが).ともかくガダルカナル戦とかレイテ戦などはこの本で初めてその実相を知りました.昭和30年代に書かれたものなので,現代の定説とはやや異なる点はありますが,戦史の入門書としては簡潔にまとまって非常に優れた本だと思います(分量も多いと感じる向きもありそうですが,むしろ膨大な太平洋戦争陸戦史をこれだけコンパクトにまとめたのは凄いかと).後に出た高木俊朗氏のインパールや,大岡正平氏のレイテ戦記などの名著でもこの伊藤氏の戦記が引用されている箇所があることからも,後世に与えた影響が非常に大きい著書だったことがわかります.

 そんな伊藤正徳氏の著書,この夏は原点に返って読んでみようかと思っているのでした.

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2019年7月 2日 (火)

ノストラダムスの命日

 いよいよ今週から7月に入りました.気が付いたら2019年も半分が終わってしまったわけです.小学校時代は1年どころか,1か月たつのも非常に長く感じられたものですが,中学・高校・大学と上がるにつれ時間の経過はどんどん早くなり,社会人となって以降はさらに加速度的に早くなっている印象です.

 そんな7月ですが,日本では梅雨が明けて夏本番を迎える月となります.関東では昨年は6月中に梅雨が明けてしまうという異常気象でしたが,今年は今のところは,曇り空でしとしと雨が降る梅雨っぽい雰囲気となっています(九州や西日本は集中豪雨のところもあるようですが).そんな天候ですから,例年7月はあまり活動的にならない自分です(1年でもっとも活動しないのが8月で,7月はそれに続く印象.ただし母親を巻き込んだ家族旅行が例年7月にあるので,そこだけ見ると派手に活動しているようにも見える).

Nostradamus_by_cesar  さて話は変わりますが,今日7月2日は表題にあるように日本では大予言で知られるノストラダムスの命日です.16世紀ヴァロア朝時代のフランスで活躍した文化人で,フランス風に読むとだとミシェル・ド・ノートルダムとなり(先日火災があったパリのノートルダム寺院と同じ名前ですが,ノートルダムはフランス語で「われらの貴婦人」という意味になり,これは聖母マリアを表します),ノストラダムスはそのラテン語読みです.大予言のイメージが強い人物ですが,この時代の文化人の多くがそうであるように,彼もまた占星術,医術をはじめ多彩な分野の学問を修めています.日本では主著となった「予言集」があまりにも有名ですが,他に「化粧品とジャム論」という世の女性が喜びそうな本も出しています.

 日本での大予言ブームを引き起こしたのは,1970年代の五島勉氏による一連の著作からということになります.当時の日本は公害問題やオイルショックなど未来を悲観するような空気がありました.そんな世相にうまく乗ったのが彼の著作で,世は終末ブームとなり小松左京の「日本沈没」の映画化をはじめ,角川の「復活の日」,そのものずばりの「ノストラダムスの大予言」といった終末映画が作られました.

 ノストラダムスの大予言でもっとも有名なのが,「1999年第7の月~」というもので,ここから1999年7月に人類が滅亡するとまことしやかに語られたものです(ただノストラダムスの原文では人類が滅亡するとは書いていない).もちろん1999年に人類は滅亡せず今に至っているわけですが,そういえば今年の7月は人類滅亡20周年の7月だったなぁと,しみじみと思ったのでした.そんなノストラダムスが亡くなったのが1566年7月2日なのでした(日本でいえば戦国時代,室町幕府13代将軍足利義輝が暗殺された頃).

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2019年6月21日 (金)

夏至の頃

 気が付いたら6月も半ばを過ぎました.明日6月22日は北半球の一年でもっとも昼が長いとされている夏至です.夏に至るとはいうものの,暑さの夏としてはむしろこれからが本番となります.ただ日の長さという意味でいえば,明日の夏至がピークとなり,それ以降12月下旬の冬至に向かってどんどん日が短くなっていくことになります.

 ひと口に日が長いといいますが,緯度によってその様相は大きく異なります.東南アジアやインドなどの低緯度地方では夏と冬の昼の長さはそれほど変わらないのに対して,北欧やアラスカといった高緯度地方ではその差が極端になります.試みに東南アジアのクアラルンプール(北緯3度)の夏至と冬至の昼の長さを調べてみると,夏至が12時間20分,冬至が11時間58分とその差は22分しかありません.一方で北欧のストックホルム(北緯59度)の夏至の昼は18時間43分,冬至のそれは6時間9分とその差はなんと!12時間以上となります.

 昼が長く,しかも温かいこの季節は大勢の人間を混乱なく動かすには都合がいい時期でもあり,歴史的には大きな軍事作戦がこの時期に行われてきました.具体例を挙げると,古くは古代ローマ末期にアジアから西進してきたフン族と西ローマ・ゲルマン連合軍が戦ったカタラウヌムの戦いが451年の6月20日に起こりました.また有名なナポレオンのロシア遠征が1812年6月23日,ワーテルローの戦いが1915年6月18日,第二次世界大戦の独ソ戦の開始であるバルバロッサ作戦が1941年6月22日,同大戦のソ連側の大規模な反撃であるバグラチオン作戦が1944年6月22日に開始されています.日本史方面を見ると本能寺の変が1582年6月21日(天正10年6月2日)のことですし,応仁の乱も本格的な戦いが始まったのは1467年(応仁元年)のこの時期です.

 秋の夜長は読書がいいなどと言いますが,昼長のこの季節は外での活動が推奨されるということのようです.そんなことを考えた2019年夏至前夜でした.

10ji (写真)北緯80度スヴァールバル諸島のこの時期の真夜中の太陽(これで午前1時です)

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2019年6月18日 (火)

新選組まつりの同窓会

 5月のひの新選組まつりから約1か月が経過しました.10年以上にわたって出続けているお祭りで,過去は新選組隊士での参加が基本でした.ただ近年は新選組と同時代の人々の枠での参加も多くなっていて,今年は幕臣勝海舟役をいただきました.

Img020_1 (写真)今年の同時代の人々公式写真

 この新選組と同時代の人々というのは,全くの烏合の衆(笑)で,幕臣や倒幕派の志士に加えて,新選組幹部でありながらなぜか本隊からハブられた(笑)山南総長や伊東参謀もいるなど本当にごった煮状態です.そんな隊ですから参加者の好みも様々で,本隊に比べると全体的にゆる~い雰囲気になります.お祭りにおける扱いもかなり微妙で,具体的に上げると

① 新選組本隊は朝と夕方に出陣式,帰陣式というイベントがあり大いに気分が盛り上がるが,同時代の人々は呼ばれない💦.

② 昼食は本隊は普通の幕の内弁当だが,同時代はセブンイレブンのコンビニ弁当である(笑)

③ パレード中も本隊はパフォーマンスコンテストがあったり,新政府軍との銃撃戦があったりとイベント盛りだくさんだが,同時代は基本放置,スルーである.

④ 移動のバスもほぼ最後で,本隊が高幡不動尊に戻った後もしばらく小学校で放置される.

⑤ 参加費は最も高い(これは衣装代がかかっているから仕方ないのですが)

 そんな扱いを受けている隊ですからお祭りが終わったらそのまま解散,さようなら~ ( ^^) _U~~ となるのが普通なんですが,今年は違いました.こういう虐げられた(笑)思いを強く抱いたメンバー多かったせいか,お祭り後もSNSで活発な交流が行われるなど,例年とは違った流れになっていました.その延長線上で,せっかくだから集まって日野を散策しようということになり,この日曜日に同窓会が行われたのです.自分も参加させていただきました.

Img_2114 (写真)宝泉寺

 参加者は全部で8人(お祭りでは多摩の歳三,近藤勇の奥方のつねさん,伊庭八郎,坂本龍馬,高杉晋作,西郷隆盛,そして勝海舟,山本八重さんは後程合流),あの日は総勢12人でしたから,なんと!2/3の出席率です.お天気が心配されていたんですが,かつて降水確率100%を30%に下げた実績のある自分が参加するのに雨なんてありえない!と意気込んでいたせいか,見事に晴れ.午前10時にJR日野駅に集合でした.待っていたら世田谷の小学生社会科部のグループがフィールドワークで来ていました(やるな! それにしても年齢も様々な大人の集団,彼らの目にはどう映ったのだろう).してまずは宝泉寺へ.ここは井上源三郎さんの墓所です.私もここに来たのは数年ぶりでした.墓前に手を合わせるんですが,お線香を持参されていた方がいたのが感動的でした.

20190619144624 (写真)新選組のふるさと歴史館

 その次に向かったのは新選組のふるさと歴史館,ここは2004年の大河ドラマを受けてできたところです.徐々に気温が上がってきたのと,駅からだと坂を上ることになるのでこの日はバス利用でした(かつてはこの坂がパレードコースだったんだなと感慨に浸りながら).歴史館では常設展のほか,企画展も行われていて,現在は土方歳三没後150年ということで,「土方歳三-資料から見たその実像-」という企画をやっていました.ここも数年ぶりの訪問でした(パレード参加者は当日こうした観光スポットを訪れることができないので).思い思いに展示を見ていたんですが,前の方にいたグループに説明している声に聞き覚えがあるなぁと思っていたら,毎年パレードでお世話になっているガイドの会のS川さんでした.

Img_2118 (写真)資料館の撮影スポット

 続いては佐藤彦五郎新選組資料館へ.来た道を戻るわけですが,下りなのでそのまま歩くことになりました.途中から川沿いの細い道に曲がって,「ここパレードのコースだったよね」などと話しながら,ちょうど1か月前に集合していた第一小学校を横目で見ながら資料館にお邪魔しました.この日は館長様は不在でしたが,貴重なお話を伺いながら資料を見学する一同でした(この頃に八重さんが合流).

20190619144257 Img_2128 (写真左)手打ちそばのちばいさん,(同右)こうしてみると悪人顔だな自分(笑)

 この段階で午後1時,昼食の時間ということでこの日はすぐそばにある「ちばい」さんでお蕎麦をいただきました.私はとろろそばに加えて日本酒をいただいたのは言うまでもありません(飲ん兵衛だな 笑).食事をしながらいろんな歴史談議に花が咲くんですが,今回のメンバーはみんな歴史好きなのは当然として,いろんな視点を持った方がいらっしゃるので,「こんな見方もあるのか!」といった目からウロコ的な話が聞けて楽しかったです.

Img_2137 (写真)石田寺

 歴史談議に夢中になるあまり,気が付いたら3時ぐらいになっていたので(笑)次に行こうとしていた本陣はパスして,土方歳三資料館&石田寺へ向かいました(あまり時間がなかったのでタクシー利用).最初資料館に入ろうとしたらちょうど団体がいたのでまずは石田寺へ.ここも何年ぶりだろうという感じで,新選組愛好家にあるまじき自分でした(それにしてもここは本当に土方さんが多いと改めて感動).ほとぼりが冷めた頃を見計らって再び資料館へ,今度は大丈夫でした(ここも数年ぶりだ💦).ここには当時の鉢がねや鎖帷子などが展示されていますが,自分的な注目は石田散薬関連でした(笑).

20190617093156 (写真)土方歳三資料館の庭にて記念撮影

Img_2139 (写真)あじさい祭り開催中の高幡不動尊

 その後はモノレールで高幡不動へ.今の時期はちょうどあじさい祭りをやっています.せっかくだから少し観察しようということで歩くことにします.案内図を見ていたら「歳三錦」というあじさいがあるらしく,それを見てみようということに.境内にはたくさんおあじさいがあり,さらに細かい小道がたくさんあるのでちょっと迷ってしまいましたが,なんとかそれらしいあじさいを発見することができました(〇△錦ってなんだかサクランボ🍒みたいな名前だな 笑).

Img_2141 Img_2142 Img_2143(写真)いろんなあじさいが咲いています.一番右端が歳三錦のようです

Img_2145 (写真)この構図の歳三さんが一番カッコいいんだそうです (^^)v

 あじさいの観察後は駅前のファミレスで軽く打ち上げ,自分はと言うとここでもアルコールをいただいて周辺に呆れられたのでした.いやぁ本当に楽しかった.参加者の皆さんありがとうございました(写真は参加者の方からいただいたものがあります.それにしても祭り本編レポよりも先に同窓会レポが完成するとは… 汗).

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2019年3月28日 (木)

ビザンチン皇帝の誕生日

 みなさんこんばんは.今日3月28日は当ブログの管理人ビザンチン皇帝コンスタンティヌス21世の誕生日です.かつては子供ならともかく,ある程度以上歳を重ねた人間の誕生日がどこまでめでたいのかと疑問を感じていた時期もあったのですが,今では元気で無事にこの日を迎えられたことに感謝する日と考えるようになりました.

Img_1858(写真1)諸葛亮といえば羽扇,これは台湾の露店で買ったものです

 で,自分の生年が1966年なので,とうとう三国志の名軍師諸葛亮(字は孔明)の享年といっしょになってしまいました.

 うーん,なんか感慨深いです.中高生の頃夢中になって読んでいたのが吉川英治の三国志(および横山光輝の三国志),その登場人物として非常に魅力的だったのが諸葛亮です.西暦181年に生まれ,234年に魏の司馬懿と対陣中五丈原(今の陝西省宝鶏市近郊)で病没したと伝えられています.享年53歳,この時魏の司馬懿は諸葛亮の死を悟り総攻撃に打って出ます.しかしこのことを予想していた諸葛亮は自分自身の木像を用意し,敵に向かって押し出させます.これを見た司馬懿は諸葛亮がまだ生きているのではないかと狼狽し退却したとされています.これが「死する孔明生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」という言葉です.

 そんな憧れの英雄と歳がならんだと思うと非常に感慨深い誕生日でした.

Img_4679  ちなみに周囲には,「今日はどこか美味しいものを食べに行くんですか?」と聞かれたんですが,当直だったので美味しい(?)病院の検食をいただいたのでした.

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2019年2月26日 (火)

2・26事件

Image_2  今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,官邸でクーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争があります.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのはもちろん皇道派です.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドン的な存在だった真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようといろいろ工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐くらい),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わったのです.

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも累は及び,軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって陸軍内の皇道派は壊滅状態となり,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増し,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

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