2022年7月20日 (水)

しながわ宿場まつり中止

20shina12  秋の恒例イベントになっているのがしながわ宿場まつりです.江戸時代の扮装をしたままワインを飲んだり自由行動ができるゆる~い楽しいイベントなので,基本的に参加できる年は参加しています.新型コロナウイルス感染症流行の影響で2020年と2021年は中止になっていましたが、今年は規模を縮小して開催する旨がアナウンスされていました(関連記事).開催されるならばぜひとも参加したいと張り切っていたのですが,今日改めて公式ホームページを見たら…

 中止のお知らせが出ていました💦

 今月に入ってからのいわゆる感染第7波の拡大に伴う措置のようです.7月に入って,もうしかしたらそうなるかなぁと思っていたため驚きはありませんが,もしかしたらコロナ後初の扮装イベントかもと楽しみにしていただけに残念です.

Shinachu  ところで,来月28日は3年ぶりの日本寮歌祭も予定されていますが,こちらは果たしてどうなるのでしょうか(屋外のパレードが中止なら…).

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2022年7月14日 (木)

巴里祭

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 今日は7月14日はフランスの革命記念日です.1789年のこの日,折からの不景気等による生活苦から不満を募らせた民衆がパリのバスチーユ牢獄を襲撃,この暴動が全国に波及することでフランス革命が始まったとされています.同国ではこの日は祝日とされ,市内では様々な行事が行われます.

 フランスという国は独特の文化や風土を持った国です.日本から見ると欧米諸国,西ヨーロッパ諸国などと一緒くたにされるイメージがありますが,政治的には現代のグローバリゼーションの中心にある米英とは常に一線を画した行動をとっています(それは今のウクライナの問題でもそうです).文化面でもかつて日本や中東との間で物議を醸しだした風刺画文化や性への意識など,禁欲的なプロテスタントのイメージのある特にアメリカとは明らかに異なっています.食文化に関しても,質素&ジャンクなイメージでお世辞にも美味といいにくい(笑)米英とはきわめて対照的にフランス料理はは洗練されています.

 このような現代に続くフランス人のアイデンティティの原点となったのがフランス革命なのです.そしてこの革命記念日をテーマにしたフランス映画がQuatorze Juilletで意味はそのまま7月14日となります.これはルネ・クレール監督によって1933年に作られたモノクロ映画で,特に革命をテーマにしているわけではなく,1930年代のこの日に繰り広げられた庶民の恋愛をほんわかと描いたものです.日本ではこの映画を輸入配給した東和商事社長,川喜多長政氏らによる翻案で巴里祭という題で人気を博しました.この影響からフランス革命記念日自体も日本では巴里祭といういい方をすることがありますが,フランス人に向かってこの7月14日を "Festival de Paris" といってももちろん通用しません(笑).

(↑ 映画巴里祭のメイン音楽)

 自分も学生時代ある年の7月14日にレンタルビデオ店でこの作品を借りてきて,観たのを覚えています.

 そんなことを思い出した2022年7月14日でした.

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2022年6月20日 (月)

渋沢栄一の里

 先日の埼玉旅行,ときがわ温泉と並ぶ柱が渋沢栄一の里を訪ねることでした.2021年の大河ドラマ青天を衝けの主人公であり,日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一の出身地血洗島村は今の深谷市にあります.ドラマが放送されていた昨年のうちに行ってみたかったんですが,ちょうど新型コロナのデルタ株が流行っていたタイミングだったために断念したものです.今回ようやく行くことができました.

 まず向かうのは渋沢栄一記念館,ここには渋沢栄一に関する書簡や写真などの資料が多数展示されているほか,講義室では渋沢のアンドロイドによる講義を聴くことができます(予約制).この日は課外学習と思われる中学生グループが来ていました.

Img_8369 Img_8383(左写真1)渋沢栄一記念館、(右同2)渋沢栄一のアンドロイド

 続いては記念館から車で数分の旧渋沢邸中の家(なかんち)です.ここは渋沢栄一の生家があった場所で,現在ある屋敷は明治28年に建てられました.栄一は晩年になっても時間を作ってはこの地を訪れていたそうです.ただ今年の春から耐震工事に入ったらしく今は外観しか見ることができないのが残念でした(我々が行くと工事中というケースは結構多く,過去にはアヤソフィア寺院,アンコールワット,延暦寺根本中堂などがそうだった).

Img_8389 Img_8390(左写真3)渋沢栄一生家中の家、(右同4)若き渋沢の像

 次は幼少期の栄一にとって学問の師でもあった尾高惇忠の生家を訪ねます.中の家が明治期に新築された建物であるのに対し,ここは江戸時代後期の建物が残っているという,違う意味でも重要なところです.内部は土間を通路として部屋の一部を見学するスタイルでした(ここの2階に文久三年の「高崎城乗っ取り計画」の謀議が行われた部屋があるが現在は非公開).ここには藍玉や藍の葉も植えられていました.

Img_8399 Img_8400(左写真5)尾高惇忠生家、(右同6)内部の様子

 尾高惇忠の生家訪問を終えたタイミングでちょうど昼時,この日は地元の小料理屋さんで深谷名物の煮ぼうとうをいただきました.ほうとうといえば山梨が有名ですが,味噌味でかぼちゃが入った山梨版に対して,こちらは醤油味であっさりした感じでした(二日酔いのお昼にいい感じ 笑).

Img_8401(写真7)煮ぼうとう

 昼食後は誠之堂・清風亭へ.こちらも渋沢栄一ゆかりの場所です.誠之堂は栄一の喜寿を祝って大正5年に当時の第一銀行の行員たちの出資により建てられた煉瓦造り・洋風の建物(イギリスの農家をイメージしたらしい),一方の清風亭は大正15年に第一銀行頭取の佐々木勇之助の古希を祝って誠之堂の隣に建てられた白壁が特徴的な建物です.どちらも当時東京世田谷にあった第一銀行の保養施設清和園内にありましたが平成11年に深谷市に移築され今に至っています.

Img_8404 Img_8408 Img_8414 Img_8416(左上写真8)誠之堂、(右上同9)誠之堂内部、(左下同10)清風亭、(右下同11)清風亭内部

 この後は郊外の畠山重忠公史跡公園へ.ここは鎌倉時代初期の有力御家人畠山重忠の館跡に整備された公園です.青天を衝けに続いて放送されている鎌倉殿の13人にも登場する武将でそのキャラから坂東武者の鑑と称賛された人物です.近くの道の駅でも渋沢栄一と並んで畠山重忠グッズが売られており,うまく時流に合わせているな(笑)と感心したのでした.

Img_8425 Img_8421(左写真12)畠山重忠墓所、(右同13)しげただの像

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2022年5月31日 (火)

もうひとつの五稜郭

 5月29日日曜日はふと思い立って長野県の佐久市に繰り出しました.目的は続日本100名城の一つである龍岡城を訪問することです.

 龍岡城は龍岡藩1万6千石の藩庁で,築城が開始されたのは幕末の元治元年で一応の完成を見たのが慶応3年です.日本100名城正続200城の中で最も歴史が新し城郭になります.そしてこの龍岡城が特記すべきなのは,これが西洋風の五芒星星形城郭(いわゆる五稜郭)であることです.

P5290588 Img_8196(左写真1)龍岡城大手門跡,(右同2)堀と郭

 星形要塞は近世以降のヨーロッパで発達した城郭の形態で,敵の火砲による攻撃を防ぎつつ,攻め寄せる敵兵に効果的に射撃を浴びせることを目的としています.中世までの城は高い城壁を持つことがより強力な防御を持つことを意味しましたが,火砲が発達すると高い城壁は格好の目標となり容易に破壊されうるようになりました.この対策としてより低く厚い城壁が求められるようになったのです.ただし日本では大型の火砲が多数配備される前に戦国の世が終わったこともあり,城はシンボル的なものとなり高い城壁,派手な天守や櫓などを持つ形態のまま幕末に至りました.

P5290605 Img_8191(左写真3)現存する唯一の建物である御台所,(右同4)龍岡城隣にある五稜郭公園

 しかし列強の脅威が迫る中で従来の城郭ではとても拠点を守ることは困難であり,西洋風の城郭が作られることになります.もちろん代表例は函館の五稜郭ですが,信州佐久にも同じコンセプトの城郭が作られていたのです.ただ龍岡城の広さは函館五稜郭の4分の1と小ぶりで,堀も狭く,付近の小高い山から全体が一望できるなど,とても実戦に耐えうるとは思えず,これは西洋文化に造詣が深かった藩主松平乗謨の個人的な趣味によるものではと考えられています。

 明治後廃城となり大半の建物は破却あるいは売却されましたが,唯一御台所のみ現存しています.また現在城内は佐久市立田口小学校の敷地となっています.

Img_8203(写真5)展望所から見た龍岡城,周囲の緑が五角形を示しています

 五稜郭といえばその全体像を眺めてこそその感慨が味わえます.函館の五稜郭はすぐそばに高さ107mのタワーがありますが,龍岡城にはそのような塔はありません.その代わり城の北東部の山の中腹に展望所があり,そこから全体像を把握することができます.

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2022年5月29日 (日)

コンスタンティノープルの陥落

 今日5月29日は当ブログにとっては非常に重要な日です.私はハンドルネームでビザンチン皇帝コンスタンティヌス21世を名乗っていることからわかるように、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)を愛好しています。そんな帝国の都がコンスタンティノープルで君府とも呼ばれます。11世紀の最盛期には人口50万を擁し,中世に入って都市が衰退していた当時のヨーロッパでは群を抜いて巨大な都市だったのです。コンスタンティノープルはその成立の日と滅亡の日がはっきりわかっている年です。すなわちローマ皇帝コンスタンテゥヌス1世(大帝)により330年5月11日に開都式が開催され、その約1100年後にメフメト2世率いるオスマントルコ軍の攻撃を受け,1453年5月29日についに陥落して帝国は滅亡に至ったのです。

 ビザンチン帝国というのは,別名を東ローマ帝国,中世ローマ帝国といわれるように、古代ローマ帝国の後継国家です。ビザンチンという名前はコンスタンティノープル(現イスタンブール)の古名であるビザンティウム(ビザンチオン)から来ており,国家が存在した時期はちょうど西洋史における中世と呼ばれる時代区分に一致します.

 中世という言葉は,西洋史の歴史用語で古代と近代の間の時代という意味です.私が中学生頃の西洋史観では中世というのは迷信と疫病のはびこる暗黒時代とされていました.すなわち古代ギリシャ・ローマの文明が衰退し,ルネッサンスによって復興するまでのつなぎの時代とみなされていたわけです.もちろんこれは西欧の立場から見た話しであって,同じ時代イスラム圏は文明の中心として栄えていたわけですし,キリスト教世界においてもビザンチン帝国がその中心として繁栄していました.これらの世界においては暗黒時代どころか黄金期だったわけです.

 現在においては西欧においても中世は何もない時代ではなく,様々な社会や文化の発展がみられた時代であるという認識に変わっています.そんな発展途上の西欧社会の人々にとって,キリスト教世界の中心地だったコンスタンティノープルが異教徒の手に落ちたことは衝撃的な事件でした.この歴史的大事件当時に作曲家として活躍していたギョーム・デュファイはコンスタンティノープル聖母マリア教会の嘆きという曲を作っています.

 そんな感慨にふけった2022年5月29日でした.

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2022年5月 3日 (火)

憲法記念日

 今日5月3日は憲法記念日です.日本国憲法が1947年のこの日に施行されたことを記念して制定された祝日です(公布は前年1946年11月3日でこちらは文化の日になっています).日本国の最高法規として制定されて70年以上,最近はその改正論議も話題になっています.

 この5月3日というのは世界史的にもいろんな事件が起こっているんですが,その中でも興味深いのが1791年のこの日に当時のポーランド王国でヨーロッパ初の近代的成文憲法が成立したことです.18世紀のヨーロッパは王朝全盛期の時代です.フランスやプロイセン,スペイン,ロシアなど大陸諸国は軒並み絶対王政あるいは貴族を含めた寡占政であり憲法に基づく法の支配の概念は未発達でした.イギリスだけは17世紀の革命を経て国王の権力が制限された議会政治が始まっていましたが,同国の憲法は慣習法なので成文化された憲法はありませんでした.そんな時代にポーランドでヨーロッパ発の近代憲法が制定されたのです.この憲法は三権分立,法の支配が明確に規定された画期的なものでした.

 どうして当時のポーランドでこうした憲法が作られたのか,それは当時の同国をめぐる状況に由来します.10~11世紀に建国されたポーランドは16世紀には穀物輸出国として繁栄しました.内政的には国王の権力が制限された貴族政で大小の貴族によるセイムという名の合議制を取っていました.特筆すべきは国王はセイムの同意なしに法律を制定することができないことに加えて,セイム構成員の貴族一人一人に拒否権が与えられていたことです.すなわち全貴族による全会一致が大原則の政治体制だったのです.国勢が盛んな時期はそれで特に問題は起こらなかったものの,17世紀以降新大陸からの穀物輸入が始まり,ヨーロッパが穀物不況になると状況が変化します.不況により貧富の差が拡大すると貴族の中でもマグナートと呼ばれる大貴族の力が強まり,彼らは自己の利益を最優先して自らに不都合や政策には拒否権を濫用するようになったため国政の停滞が起こります.さらにはこの頃から東にロシア,西にプロイセンが勃興してきたためポーランドはその圧迫を受けるようになりました.18世紀に入ると周辺国からの圧力はますます強まり,次第に領土を侵食されるようになります.時あたかも啓蒙主義の時代であり,この状況を打開するためには政治改革による体制の一新しかないと考えた国王スタニスワフ2世ら改革派はフランスのルソーら啓蒙主義者の助言を受けながら憲法の草案を作成,ついに1791年5月3日に画期的な憲法が制定されたのです.

 しかしこの時すでにフランス革命が始まっており,プロイセンやロシア,オーストリアなどの周辺国は革命が自国に波及することを危惧していました.そうしたタイミングでポーランドに新憲法が制定されることは非常に危険なものと認識され,憲法制定のわずか1年後国内の改革反対派と結託したロシア軍が侵入,改革は頓挫し1795年までにポーランドはロシア,プロイセン,オーストリアによって分割され滅亡することになってしまいました.

 現在ウクライナで起こっている戦争のニュースを見聞きすると,およそ200年前のポーランドの憲法記念日のことが強く思い出されます.5月3日はポーランドでも「5月3日憲法」記念日として祝日になっているそうです.

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2022年5月 1日 (日)

新田義貞の側室の墓

 小田原駅周辺から国道1号線箱根方面へは休日を中心に交通量が多く、時に大渋滞になることもあります.そんな場合の抜け道として地元民が利用しているのが小田原駅新幹線口付近城山地区の山間部を通って国道1号線の風祭入生田地区に抜ける裏道です.私も時々利用する道なんですが,その途中に以前から気になっていた看板がありました.

Img_7877(写真1)新田義貞側室の墓の看板

 新田義貞の側室妙貞尼の墓と書かれています.

 新田義貞は鎌倉時代末期から南北朝時代初め頃の武将で,上野国新田荘(今の群馬県太田市や桐生市の辺り)を本拠にした御家人です.後醍醐天皇による討幕運動である元弘の乱において天皇方に付き,足利尊氏とともに鎌倉幕府打倒の立役者となりました(義貞,尊氏ともに当初は幕府方で戦っていたが,途中で寝がえり尊氏は京都の六波羅探題を攻略し,義貞は鎌倉を攻めて北条得宗の北条高時を討った).

 その後の建武の新政下において次第に足利尊氏と対立するようになり,尊氏が反旗を翻すと義貞は事実上の総大将としてその討伐に参加しました(名目上の大将は尊良親王).各地で起こった足利軍との戦いは徐々に劣勢になり,延元三年(1338年)越前藤島(今の福井市)で討ち死にしました.そんな新田義貞の側室の墓がどうしてここに!という感じがします.以前から気になっていましたが,時間があったので行ってみました.

Img_7879 Img_7881(左写真2)あぜ道レベル,(右同3)なにやら看板が

 看板の脇にあるあぜ道のようなところを歩いていきます.しばらく歩いていくと,ほとんど獣道のような感じに… 本当にお墓なんかあるのかと不安になる頃,前方に何やら看板のような人工物が見えます.なんとかそこまで行ってみると…

 ありました.新田義貞の側室妙貞尼のお墓です.途中の道のレベルとは全く違う立派なお墓でした.

Img_7882 Img_7883(左写真4)ありました!,(右同5)お墓です

 傍にあった碑文を読むと,妙貞尼は上野国の豪族澤保氏の娘とのこと.義貞と妙貞尼の間に生まれたのが原澤将監といい,今の群馬県にある原澤家の祖になるのだそうです.このお墓も原澤家の子孫の方が建てたもののようです.

Img_7884(写真6)由来が記された碑文

 それにしてもそんな人物のお墓がなぜここにあるのか.義貞は建武二年足利尊氏討伐のため東下し,箱根・竹之下の戦いに参加しています.もしかしたらその際に同行していてここで亡くなったのかもしれません.戦場に側室を連れてくるんだろうかという疑問もありますが,あるいは元々この地にいたのが,やってきた義貞に見初められたのかも).いずれにせよどのような人生を送ったのか,ネットで調べてもほとんど情報の出てこない人物でした.

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2022年2月26日 (土)

2・26事件

Image_2  今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,官邸でクーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争があります.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのはもちろん皇道派です.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドン的な存在だった真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようといろいろ工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐くらい),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わりました.

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも累は及び,軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって陸軍内の皇道派は壊滅状態となり,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増大,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

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2022年1月25日 (火)

カノッサの屈辱

 今日は1月25日、暦的には1月20日大寒から2月4日の立春の間ということで年間で最も寒いシーズンに当たります.

 そんな1月25日は過去にどんな事件が起こっているのか、調べてみると興味深いものが出てきました.

① 1902年1月25日 旭川で-41℃を記録(現在日本での公式最寒記録)

 まさにこの時期にふさわしい出来事です.ただし気象庁の公式記録の対象からは外れているものの、1978年に幌加内町母子里で-41.2℃が記録されています.

② 1573年1月25日(元亀三年12月22日) 三方ヶ原の戦い

 武田信玄の西上作戦に対応して迎撃に出た徳川・織田連合軍でしたが、三方ヶ原で完敗を喫し、一時は家康自身も危機に陥ったとされています.

③ 1077年1月25日 カノッサの屈辱

 そしてもっともインパクトが大きいのがこのカノッサの屈辱でしょう.キリスト教が社会に深く根を下ろした中世ヨーロッパでは教会の権威は絶大なものがありました.さらに中世期を通じて教会は多くの土地の寄進を受けたことにより領主としての権力をも手にしました.その結果中世が本格化する9~10世紀以降世俗の権力者であった神聖ローマ皇帝と対立する場面が増えてきました.具体的には各地に建てられた教会や修道院の人事をめぐる,いわゆる叙任権問題です.ローマ教皇を頂点としたカトリック教会という大きな組織なんだから,その人事権は教皇に属するように思うのはあくまでも現代の感覚です.当時は王や諸侯,騎士たちがそれぞれ所領を持ち独自の基準で政治を行っていた時代でした(封建社会).各地の教会もローマ教会が計画的に立てていたわけではなく,それぞれの領主が自らの領地の都合により造っていたのです.ですからそこに着任する司教や司祭などの聖職者人事もそこの領主が握っていました.

Hugovcluny_heinrichiv_mathildevtuszien_c  しかし世俗の君主が教会の人事権を持つことで聖職者の地位の売買や腐敗などが起こるようになります.こうした事態に危機感を抱いたローマ教皇側は聖職者の叙任権を教会に取り戻そうと画策し始めます.特に1073年に教皇となったグレゴリウス7世はこの方針に積極的で皇帝や諸侯による聖職者の任命を禁止する勅書を発しました.当時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はこれに強く反発し,教皇を廃位させようと動きます.これに対してグレゴリウス7世は1076年2月にハインリヒ4世を破門するという行動に出ます.当時ハインリヒ4世を取り巻く政治状況は微妙であり,教皇に破門され教会の保護を失うみた反皇帝派の諸侯は新しい皇帝を立てようと画策し始めます.苦境に陥ったハインリヒ4世はやむなく翌1077年1月25日に当時北イタリアのカノッサ城に滞在していたグレゴリウス7世のもとを訪れ,降りしきる雪の中裸足で三日間立ち続けて許しを請いました.これが有名なカノッサの屈辱と呼ばれる事件で,皇帝権に対する教皇権の優位を印象付ける出来事とされています.温暖化が叫ばれている現代でさえ寒いこの季節に3日間裸足で立っているというのは想像しただけでも震えがきそうです.

 結局この事件は教皇が皇帝の謝罪を受け入れ破門は解除されました.しかし体制を立て直した皇帝が反撃に転じます.1080年に教皇は再び皇帝を破門しますが今度は反皇帝派の動きは鈍く,逆に対立教皇(クレメンス3世)を立てられローマは包囲されました.結局グレゴリウス7世は救出されシチリア島のサレルノに逃れたものの,1085年同地で失意の中亡くなりました.

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2022年1月22日 (土)

対面石

 1月から新大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まりました。鎌倉幕府を立てた源頼朝を補佐した有力御家人たちを中心とした物語です。大河ドラマの題材は圧倒的に戦国と幕末が多く、今回のような平安末期から鎌倉初期を描く作品は21世紀に入ってからは2005年の「義経」と2012年の「平清盛」に続いて3作品目です(21世紀になってからの作品は戦国10、幕末維新7、その他5)。

 時々静岡県東部の病院に応援出張に出かけているんですが、実はその途中に平安末期の治承四年(1180年)の富士川の戦いに際して挙兵した源頼朝とこれに応じて奥州から駆けつけた源義経が対面したとされる八幡神社があります。そしてその境内には二人が対面の際に腰掛けた石(対面石)が残されています。昨夜は向こうに泊まりだったのでその帰りに寄ってみることにしました。

Img_7130 Img_7112(左写真1)正面大鳥居、(右同2)中鳥居

 八幡神社は静岡県清水町の住宅地に立つこじんまりとした神社です。バス通りに面したところに正面大鳥居がありそこから参道を歩くと中鳥居が見えてきます(中鳥居の手前に駐車場がある)。鳥居を潜ってまっすぐ行くと本殿、寒さ対策なのか感染対策なのか自動ドア形式になっていました。参拝しついでに御神籤も引いてみたら中吉、まあまあです。

Img_7120 Img_7119(左写真3)本殿、(右同4)自動ドアになっています

 参拝後本殿お左奥に進んでいくと、目指す対面石が鎮座していました。2つの石が並んでいるんですが、向かって左側がやや高くなっていることから左に頼朝が、右に義経が座ったと思われます。

Img_7117 Img_7122 (左写真5)中吉でした、(右同6)対面石

 頼朝が座ったと思われる石の側には絡み合った二本の柿の木が生えています。これはねじり柿と呼ばれるもので兄弟が対面した際に頼朝が柿を食したもののそれが渋柿だったためにその種を捻って捨てたところ芽を出した。その二本がお互い幹を絡ませねじり合うように成長したためと言われています。
Img_7128 (写真7)ねじり柿

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