2019年8月 3日 (土)

8月といえば

 8月といえば日本では先の大戦を考える月でもあります.自分自身が戦記に興味を持ったのは中学生時代でした.それ以前から(当時の)子供向けに書かれた戦車や軍艦などの解説本を読む機会はあったんですが,この手の本は「世界一の戦闘機零戦!」,「世界最大の戦艦大和!」など景気のいいことばかりが書かれていて,子供の頃は無邪気に読んでいました.ただ長ずるに従い「そんな無敵な兵器を持っていた日本がどうして戦争に負けたんだろう」という素朴な疑問がわいてきて,少し勉強してみようと思ったわけです.当時はインターネットなどという便利なものはなかったので,調べるとすれば当然書籍ということになります.本屋さんに行ってあちこちのコーナーをめぐり,しかも中学生の乏しい小遣いも考慮しつつ購入したのが,伊藤正徳著の「連合艦隊の最後」,「帝国陸軍の最後」(全5巻)でした(当時の価格で1冊約350円なので6冊合計で2000円強と中学生でもなんとかなる額だった).

Img_5141

(写真)帝国陸軍の最後全5巻(第3巻死闘編のみ表紙がないのは,一番読み込んでボロボロになっている巻だからです)

 このうち連合艦隊~は海軍の,帝国陸軍の~は陸軍の戦記です.両方購入したんですが,当時はすでに真珠湾攻撃やミッドウェー海戦など海軍関係は少し知識があったので,まずは陸軍の方から読み始めました(このシリーズ,今は光文社文庫から出ていますが,当時は角川文庫からだった).

 所々難しい箇所はありましたが,著者の文章は非常に明快で読みやすく,あっという間に読んでしまった記憶があります.太平洋戦争の陸戦史を5巻に分け,それぞれ

「侵攻編(マレー上陸戦からシンガポール,フィリピン,ジャワ,ビルマ攻略,そして昭和17年夏から秋のモレスビー攻略戦まで)」

「決戦編(ガダルカナル戦,ニューギニア戦,ビルマの第一次アキャプ会戦,大陸打通作戦等昭和17年後半から18年の戦闘)」

「死闘編(サイパン,グァム等マリアナ諸島の戦い,インパール作戦,レイテ戦など主に昭和19年の戦闘)」

「特攻編(ルソン戦,硫黄島戦,沖縄戦など昭和20年6月まで)」

「終末編(ビルマ・中国での戦闘,対ソ戦,B29との空戦,終戦への流れ)」となっています.

 著者は元々海軍記者で,軍関係の知識が豊富な方です.いろいろな方面に取材して本書をまとめたわけですが,そのスタイルはとにかく闇雲に戦争は悪だと批判するわけでも,日本は正しかったと美化することもなく,硬直した人事指揮系統やずさんな作戦に対しては厳しい目を向ける一方で,命令に従い理不尽な状況下で戦い亡くなった人たちへの敬意は忘れないというものでした(軍記者だったことから全体としてはやや軍に好意的な印象はありますが).ともかくガダルカナル戦とかレイテ戦などはこの本で初めてその実相を知りました.昭和30年代に書かれたものなので,現代の定説とはやや異なる点はありますが,戦史の入門書としては簡潔にまとまって非常に優れた本だと思います(分量も多いと感じる向きもありそうですが,むしろ膨大な太平洋戦争陸戦史をこれだけコンパクトにまとめたのは凄いかと).後に出た高木俊朗氏のインパールや,大岡正平氏のレイテ戦記などの名著でもこの伊藤氏の戦記が引用されている箇所があることからも,後世に与えた影響が非常に大きい著書だったことがわかります.

 そんな伊藤正徳氏の著書,この夏は原点に返って読んでみようかと思っているのでした.

| | コメント (0)

2019年7月 2日 (火)

ノストラダムスの命日

 いよいよ今週から7月に入りました.気が付いたら2019年も半分が終わってしまったわけです.小学校時代は1年どころか,1か月たつのも非常に長く感じられたものですが,中学・高校・大学と上がるにつれ時間の経過はどんどん早くなり,社会人となって以降はさらに加速度的に早くなっている印象です.

 そんな7月ですが,日本では梅雨が明けて夏本番を迎える月となります.関東では昨年は6月中に梅雨が明けてしまうという異常気象でしたが,今年は今のところは,曇り空でしとしと雨が降る梅雨っぽい雰囲気となっています(九州や西日本は集中豪雨のところもあるようですが).そんな天候ですから,例年7月はあまり活動的にならない自分です(1年でもっとも活動しないのが8月で,7月はそれに続く印象.ただし母親を巻き込んだ家族旅行が例年7月にあるので,そこだけ見ると派手に活動しているようにも見える).

Nostradamus_by_cesar  さて話は変わりますが,今日7月2日は表題にあるように日本では大予言で知られるノストラダムスの命日です.16世紀ヴァロア朝時代のフランスで活躍した文化人で,フランス風に読むとだとミシェル・ド・ノートルダムとなり(先日火災があったパリのノートルダム寺院と同じ名前ですが,ノートルダムはフランス語で「われらの貴婦人」という意味になり,これは聖母マリアを表します),ノストラダムスはそのラテン語読みです.大予言のイメージが強い人物ですが,この時代の文化人の多くがそうであるように,彼もまた占星術,医術をはじめ多彩な分野の学問を修めています.日本では主著となった「予言集」があまりにも有名ですが,他に「化粧品とジャム論」という世の女性が喜びそうな本も出しています.

 日本での大予言ブームを引き起こしたのは,1970年代の五島勉氏による一連の著作からということになります.当時の日本は公害問題やオイルショックなど未来を悲観するような空気がありました.そんな世相にうまく乗ったのが彼の著作で,世は終末ブームとなり小松左京の「日本沈没」の映画化をはじめ,角川の「復活の日」,そのものずばりの「ノストラダムスの大予言」といった終末映画が作られました.

 ノストラダムスの大予言でもっとも有名なのが,「1999年第7の月~」というもので,ここから1999年7月に人類が滅亡するとまことしやかに語られたものです(ただノストラダムスの原文では人類が滅亡するとは書いていない).もちろん1999年に人類は滅亡せず今に至っているわけですが,そういえば今年の7月は人類滅亡20周年の7月だったなぁと,しみじみと思ったのでした.そんなノストラダムスが亡くなったのが1566年7月2日なのでした(日本でいえば戦国時代,室町幕府13代将軍足利義輝が暗殺された頃).

| | コメント (0)

2019年6月21日 (金)

夏至の頃

 気が付いたら6月も半ばを過ぎました.明日6月22日は北半球の一年でもっとも昼が長いとされている夏至です.夏に至るとはいうものの,暑さの夏としてはむしろこれからが本番となります.ただ日の長さという意味でいえば,明日の夏至がピークとなり,それ以降12月下旬の冬至に向かってどんどん日が短くなっていくことになります.

 ひと口に日が長いといいますが,緯度によってその様相は大きく異なります.東南アジアやインドなどの低緯度地方では夏と冬の昼の長さはそれほど変わらないのに対して,北欧やアラスカといった高緯度地方ではその差が極端になります.試みに東南アジアのクアラルンプール(北緯3度)の夏至と冬至の昼の長さを調べてみると,夏至が12時間20分,冬至が11時間58分とその差は22分しかありません.一方で北欧のストックホルム(北緯59度)の夏至の昼は18時間43分,冬至のそれは6時間9分とその差はなんと!12時間以上となります.

 昼が長く,しかも温かいこの季節は大勢の人間を混乱なく動かすには都合がいい時期でもあり,歴史的には大きな軍事作戦がこの時期に行われてきました.具体例を挙げると,古くは古代ローマ末期にアジアから西進してきたフン族と西ローマ・ゲルマン連合軍が戦ったカタラウヌムの戦いが451年の6月20日に起こりました.また有名なナポレオンのロシア遠征が1812年6月23日,ワーテルローの戦いが1915年6月18日,第二次世界大戦の独ソ戦の開始であるバルバロッサ作戦が1941年6月22日,同大戦のソ連側の大規模な反撃であるバグラチオン作戦が1944年6月22日に開始されています.日本史方面を見ると本能寺の変が1582年6月21日(天正10年6月2日)のことですし,応仁の乱も本格的な戦いが始まったのは1467年(応仁元年)のこの時期です.

 秋の夜長は読書がいいなどと言いますが,昼長のこの季節は外での活動が推奨されるということのようです.そんなことを考えた2019年夏至前夜でした.

10ji (写真)北緯80度スヴァールバル諸島のこの時期の真夜中の太陽(これで午前1時です)

| | コメント (0)

2019年6月18日 (火)

新選組まつりの同窓会

 5月のひの新選組まつりから約1か月が経過しました.10年以上にわたって出続けているお祭りで,過去は新選組隊士での参加が基本でした.ただ近年は新選組と同時代の人々の枠での参加も多くなっていて,今年は幕臣勝海舟役をいただきました.

Img020_1 (写真)今年の同時代の人々公式写真

 この新選組と同時代の人々というのは,全くの烏合の衆(笑)で,幕臣や倒幕派の志士に加えて,新選組幹部でありながらなぜか本隊からハブられた(笑)山南総長や伊東参謀もいるなど本当にごった煮状態です.そんな隊ですから参加者の好みも様々で,本隊に比べると全体的にゆる~い雰囲気になります.お祭りにおける扱いもかなり微妙で,具体的に上げると

① 新選組本隊は朝と夕方に出陣式,帰陣式というイベントがあり大いに気分が盛り上がるが,同時代の人々は呼ばれない💦.

② 昼食は本隊は普通の幕の内弁当だが,同時代はセブンイレブンのコンビニ弁当である(笑)

③ パレード中も本隊はパフォーマンスコンテストがあったり,新政府軍との銃撃戦があったりとイベント盛りだくさんだが,同時代は基本放置,スルーである.

④ 移動のバスもほぼ最後で,本隊が高幡不動尊に戻った後もしばらく小学校で放置される.

⑤ 参加費は最も高い(これは衣装代がかかっているから仕方ないのですが)

 そんな扱いを受けている隊ですからお祭りが終わったらそのまま解散,さようなら~ ( ^^) _U~~ となるのが普通なんですが,今年は違いました.こういう虐げられた(笑)思いを強く抱いたメンバー多かったせいか,お祭り後もSNSで活発な交流が行われるなど,例年とは違った流れになっていました.その延長線上で,せっかくだから集まって日野を散策しようということになり,この日曜日に同窓会が行われたのです.自分も参加させていただきました.

Img_2114 (写真)宝泉寺

 参加者は全部で8人(お祭りでは多摩の歳三,近藤勇の奥方のつねさん,伊庭八郎,坂本龍馬,高杉晋作,西郷隆盛,そして勝海舟,山本八重さんは後程合流),あの日は総勢12人でしたから,なんと!2/3の出席率です.お天気が心配されていたんですが,かつて降水確率100%を30%に下げた実績のある自分が参加するのに雨なんてありえない!と意気込んでいたせいか,見事に晴れ.午前10時にJR日野駅に集合でした.待っていたら世田谷の小学生社会科部のグループがフィールドワークで来ていました(やるな! それにしても年齢も様々な大人の集団,彼らの目にはどう映ったのだろう).してまずは宝泉寺へ.ここは井上源三郎さんの墓所です.私もここに来たのは数年ぶりでした.墓前に手を合わせるんですが,お線香を持参されていた方がいたのが感動的でした.

20190619144624 (写真)新選組のふるさと歴史館

 その次に向かったのは新選組のふるさと歴史館,ここは2004年の大河ドラマを受けてできたところです.徐々に気温が上がってきたのと,駅からだと坂を上ることになるのでこの日はバス利用でした(かつてはこの坂がパレードコースだったんだなと感慨に浸りながら).歴史館では常設展のほか,企画展も行われていて,現在は土方歳三没後150年ということで,「土方歳三-資料から見たその実像-」という企画をやっていました.ここも数年ぶりの訪問でした(パレード参加者は当日こうした観光スポットを訪れることができないので).思い思いに展示を見ていたんですが,前の方にいたグループに説明している声に聞き覚えがあるなぁと思っていたら,毎年パレードでお世話になっているガイドの会のS川さんでした.

Img_2118 (写真)資料館の撮影スポット

 続いては佐藤彦五郎新選組資料館へ.来た道を戻るわけですが,下りなのでそのまま歩くことになりました.途中から川沿いの細い道に曲がって,「ここパレードのコースだったよね」などと話しながら,ちょうど1か月前に集合していた第一小学校を横目で見ながら資料館にお邪魔しました.この日は館長様は不在でしたが,貴重なお話を伺いながら資料を見学する一同でした(この頃に八重さんが合流).

20190619144257 Img_2128 (写真左)手打ちそばのちばいさん,(同右)こうしてみると悪人顔だな自分(笑)

 この段階で午後1時,昼食の時間ということでこの日はすぐそばにある「ちばい」さんでお蕎麦をいただきました.私はとろろそばに加えて日本酒をいただいたのは言うまでもありません(飲ん兵衛だな 笑).食事をしながらいろんな歴史談議に花が咲くんですが,今回のメンバーはみんな歴史好きなのは当然として,いろんな視点を持った方がいらっしゃるので,「こんな見方もあるのか!」といった目からウロコ的な話が聞けて楽しかったです.

Img_2137 (写真)石田寺

 歴史談議に夢中になるあまり,気が付いたら3時ぐらいになっていたので(笑)次に行こうとしていた本陣はパスして,土方歳三資料館&石田寺へ向かいました(あまり時間がなかったのでタクシー利用).最初資料館に入ろうとしたらちょうど団体がいたのでまずは石田寺へ.ここも何年ぶりだろうという感じで,新選組愛好家にあるまじき自分でした(それにしてもここは本当に土方さんが多いと改めて感動).ほとぼりが冷めた頃を見計らって再び資料館へ,今度は大丈夫でした(ここも数年ぶりだ💦).ここには当時の鉢がねや鎖帷子などが展示されていますが,自分的な注目は石田散薬関連でした(笑).

20190617093156 (写真)土方歳三資料館の庭にて記念撮影

Img_2139 (写真)あじさい祭り開催中の高幡不動尊

 その後はモノレールで高幡不動へ.今の時期はちょうどあじさい祭りをやっています.せっかくだから少し観察しようということで歩くことにします.案内図を見ていたら「歳三錦」というあじさいがあるらしく,それを見てみようということに.境内にはたくさんおあじさいがあり,さらに細かい小道がたくさんあるのでちょっと迷ってしまいましたが,なんとかそれらしいあじさいを発見することができました(〇△錦ってなんだかサクランボ🍒みたいな名前だな 笑).

Img_2141 Img_2142 Img_2143(写真)いろんなあじさいが咲いています.一番右端が歳三錦のようです

Img_2145 (写真)この構図の歳三さんが一番カッコいいんだそうです (^^)v

 あじさいの観察後は駅前のファミレスで軽く打ち上げ,自分はと言うとここでもアルコールをいただいて周辺に呆れられたのでした.いやぁ本当に楽しかった.参加者の皆さんありがとうございました(写真は参加者の方からいただいたものがあります.それにしても祭り本編レポよりも先に同窓会レポが完成するとは… 汗).

| | コメント (0)

2019年3月28日 (木)

ビザンチン皇帝の誕生日

 みなさんこんばんは.今日3月28日は当ブログの管理人ビザンチン皇帝コンスタンティヌス21世の誕生日です.かつては子供ならともかく,ある程度以上歳を重ねた人間の誕生日がどこまでめでたいのかと疑問を感じていた時期もあったのですが,今では元気で無事にこの日を迎えられたことに感謝する日と考えるようになりました.

Img_1858(写真1)諸葛亮といえば羽扇,これは台湾の露店で買ったものです

 で,自分の生年が1966年なので,とうとう三国志の名軍師諸葛亮(字は孔明)の享年といっしょになってしまいました.

 うーん,なんか感慨深いです.中高生の頃夢中になって読んでいたのが吉川英治の三国志(および横山光輝の三国志),その登場人物として非常に魅力的だったのが諸葛亮です.西暦181年に生まれ,234年に魏の司馬懿と対陣中五丈原(今の陝西省宝鶏市近郊)で病没したと伝えられています.享年53歳,この時魏の司馬懿は諸葛亮の死を悟り総攻撃に打って出ます.しかしこのことを予想していた諸葛亮は自分自身の木像を用意し,敵に向かって押し出させます.これを見た司馬懿は諸葛亮がまだ生きているのではないかと狼狽し退却したとされています.これが「死する孔明生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」という言葉です.

 そんな憧れの英雄と歳がならんだと思うと非常に感慨深い誕生日でした.

Img_4679  ちなみに周囲には,「今日はどこか美味しいものを食べに行くんですか?」と聞かれたんですが,当直だったので美味しい(?)病院の検食をいただいたのでした.

| | コメント (0)

2019年2月26日 (火)

2・26事件

Image_2  今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,官邸でクーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争があります.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのはもちろん皇道派です.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドン的な存在だった真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようといろいろ工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐くらい),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わったのです.

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも累は及び,軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって陸軍内の皇道派は壊滅状態となり,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増し,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月11日 (金)

塩の日

 2019年になってもう10日が過ぎました.2,3日前は(当地にしては)寒い日もありましたが,今日は比較的温かくて過ごしやすい1日でした.

P7130225  そんな1月11日は塩の日なんだそうです.「敵に塩を送る」のエピソードで知られる上杉謙信からの塩が,当時武田領だった松本に到着した日がこの日だったことに由来するとか.塩は人間の生存に欠かせない物質です.現代でも夏などに大量の汗をかいた時などに,「水分とともに塩分も補給しなければならない」と言われるのは,塩の欠乏により時に致死的な事態に陥るからです.

 武田信玄の領地は甲斐・信濃と内陸で海がありません.アメリカ大陸やヨーロッパなどには太古の昔海だったところが隆起したりして形成される岩塩がありますが(南米のウユニ塩湖や北米のソルトレイクが有名),日本列島にはそうした岩塩が存在しないため,必然的に塩は海水から作られたものになります.内陸国である武田氏は自領内で塩を産出できないため,必然的に外部に頼ることになります.当時武田氏に塩を供給していたのは駿河の今川氏でしたが,永禄10年(1567年)両氏の間で戦いが起こると,今川氏は武田領への塩の輸送にストップをかけました.これで窮地に陥った武田に救いの手を差し伸べたのが上杉謙信だったというものです.義理堅いと言われた謙信らしいエピソードですが,一方で今川からの塩が止り,塩価が高騰した武田領に自国の塩を持ち込んで高く売るという,謙信の商売だったともいわれています.

Dsc_1969  何はともあれ,そんな人間の生存に欠かせない塩の日の昼,近くのラーメン屋さんで味噌バターコーンラーメンをいただきました.塩といえば,摂りすぎると高血圧など人体に悪影響を及ぼします.ラーメンもとかく高血圧絡みで話題になることも多い食品ですが,何事もほどほどが大切だと思いながらいただきました(笑).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月 5日 (水)

モーツァルト週間

 12月に入ったとはいうものの,まだまだ気温が高い日が続いています(本当に冬なのか? 笑).

Is  さて12月5日は著明な作曲家W. A. モーツァルトの命日です.1756年オーストリアのザルツブルク(当時はザルツブルク大司教領)で生を受けたモーツァルトは,幼い頃から音楽家で教育者でもあった父親から手ほどきを受けると,めきめきとその才能を発揮し,神童ともてはやされました.当初は父とともにザルツブルクの宮廷音楽家として活動していたものの,大司教の束縛から思うような作曲活動ができないことへの不満等が高まり,1781年以降活動の拠点をウィーンに移し,以後フリーの音楽家として活動していくことになります.

 そんなモーツァルトですが,1791年秋ごろから体調を崩し,この年の12月5日にわずか35歳で亡くなりました.死因に関しては諸説ありますが,当時の記録からは溶連菌感染に起因する多臓器不全(特に心不全,腎不全)だったのではないかと思われます.

 我が家では特にウチのKが大のモーツァルト好きということもあり,オペラを中心にモーツァルト関連のコンサートに出かける機会もあります.2006年の生誕250年の年には夏季休暇の旅行でウィーンやザルツブルクに行きました.ただその後旅行の主眼が秘境系に移っていったこともあり,これ以降クラシック音楽関係の旅行は2013年の合唱団の演奏旅行の他にはありません.

 が,我が家では最近急に音楽関係の旅行に行ってみようじゃないか,という気分が盛り上がっています.すなわち毎年1月下旬にザルツブルクで開催れているモーツァルト週間に行ってみようじゃないかというわけです.これは毎年モーツァルトの誕生日である1月27日を中心として約10日間ザルツブルクで開催されている音楽イベントです.ザルツブルクのイベントといえば夏のザルツブルク音楽祭が有名ですが,あちらは夏の観光シーズンと重なることもあり,それこそチケット代含めた旅行代金は凄いことになります.一方でこちらのモーツァルト週間は真冬で通常の観光客が少ない時期ということもあるのか,価格もだいぶお財布に優しい設定になっています(出演する団体はウィーンフィルをはじめ,夏に負けないんですが).すなわちどうせ行くなら冬の方がお得だぞということで,今回なんとか休暇をひねり出して行ってこようと決意したのでした.とはいえ全日程参加するほどは休めないので,イベントの後半に絞った企画で参加してきます.案内によると主な演目として,交響曲20番,25番,ピアノ協奏曲19番,20番をはじめ,ミサ曲ハ短調やレクイエム,エジプト王タモスなどがあるようです.

 ほぼコンサート漬けの旅行になる予定なんですが,非常に楽しみなのでした.

 動画はモーツァルトが生前完成させ自ら指揮をした最後の作品といわれる,フリーメイソンのための小カンタータ「われらが喜びを高らかに告げよ」 K.623 です.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年3月23日 (金)

天正遣欧使節団とグレゴリウス13世

 今日3月23日は世界気象デーなんだそうですが,一方で安土桃山時代の天正年間に,当時日本に滞在していたイエズス会士ヴァリニャーノの発案で,九州のキリシタン大名(大友宗麟,大村純忠,有馬晴信)の名代としてヨーロッパに派遣された少年たち,いわゆる天正遣欧使節団が時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した日なのだそうです(1585年3月23日).

Japanesedelegatesandpopegregory13  グレゴリウス13世といえば,今世界の標準暦として使われているグレゴリオ暦の制定者として知られています.キリスト教で最も重要な行事が復活祭ですが,この復活祭の日にちを決める春分の日が当時のユリウス暦の日付と現実の春分の現象が乖離してきていたのが制定の動機です.このグレゴリオ暦はユリウス暦1582年10月4日の翌日を10月15日とすることで開始されました.件の遣欧使節団がヨーロッパに到着したのはまさにこの改暦のちょっと後だったことになります.

P8310606  そんな天正遣欧使節団の存在を自分が初めて知ったのは歴史の授業ではなく,NHKの人形劇でした.それは昭和53年4月から翌年3月まで放送されていた人形劇「紅孔雀」,舞台は江戸時代初期の紀伊半島ですが,主人公那智の小四郎の父親が若い頃に遣欧使節の世話役としてローマに行ったという設定になっていたからです(使節の4人の少年ではない).

 使節団には4少年のほかに教育係や技術留学生的な役割の日本人が同行していたとされているので,そうした人物の一人だったという設定だと思われます(こうしたメイン人物が歴史的派遣団の一員だったという展開は,大河ドラマ「獅子の時代」に似ている).

 この紅孔雀はまだビデオテープが高価だった時代の作品であり,NHKにも映像が残っていない幻の作品だったのですが,何年か前に民間でビデオが発見されたというニュースがありました.後作品のプリンプリン物語と一緒ですが,プリンプリンがBSとはいえ再放送されたのに対して,紅孔雀の方はそんな気配はありません.個人的に好きな作品だったので,一部でいいからぜひ放送してほしい(あるいは販売でもいい)と思っています.

 天正遣欧使節から紅孔雀まで,話題が膨らんだ3月23日でした.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 7日 (日)

ユリウス暦のクリスマス

P9171231  今日1月7日はユリウス暦のクリスマスです.

 「クリスマスは12月25日じゃないの?」という声が聞こえてきそうなんですが,まさにその通りで,12月25日がクリスマスなのは間違いないんですが,つい2週間ほど前に祝われたクリスマスはグレゴリオ暦でのクリスマス,そう暦が違えばクリスマスも違うというわけです.

 イエスやその弟子たちが活動していた1世紀半ば,当時使われていた暦はその100年前に制定されたユリウス暦でした.これは基本的に1年を365日とし,4年に1回うるう年を設けてその年のみ366日とするものです.これによる1年は365.25日であり,実際の地球の公転周期(太陽の周りを1周するのに要する時間)365.2422日との誤差は0.0078日(≒11.23分)/年となります.1年でわずか11分ですから当時としては問題にならない誤差だったわけですが,塵も積もればなんとやらで,16世紀のルネッサンスや大航海時代になるとその誤差は10日ほどになってさすがに無視できなくなってきました.そこで当時のローマ教皇グレゴリウス13世の命によって新しい暦が制定されます.これがグレゴリオ暦で,4年に1度のうるう年という基本はユリウス暦と一緒ですが,例外規定として「100で割り切れる年は基本うるう年なし,ただし400で割り切れる年はうるう年」が追加されました.この暦による1年は365.2425日となり公転周期との誤差は1年で25秒ほどになりほとんど無視できるレベルになったのです(近年ではさらに時々うるう秒を導入して正確を図っている).

 ただここで問題になるのがグレゴリオ暦を導入したのがローマ教皇だったということです.カトリック世界は何の問題もないのですが,当時ローマ教会と対立していたプロテスタント諸教会や東方正教会は宗教上の対立相手であるローマ教皇の定めた暦を認めようとしなかったのです.それでも西ヨーロッパのプロテスタント諸教会は18世紀にはグレゴリオ暦に移行したのですが,東方正教会の多くは近代になっても少なくとも教会の行事に関してはユリウス暦を使い続けているのです.特に東方正教を信仰する大国であるロシアは20世紀のロシア革命に至るまで実生活でもユリウス暦を使い続けていました.日本はすでに明治6年からグレゴリオ暦の採用に踏み切っていたため,1904~1905年の日露戦争においては同じ戦いでありながら日露双方で日付が異なるという奇妙な現象も起こっています(有名な日本海海戦も日本では5月27日ですがロシアでは5月14日でした).

26173474_1584351891662170_339895385  そんなユリウス暦のクリスマス,自分は朝から当直なんですが,昨夜のクリスマスイブ(ユリウス暦の)は都内の合唱団の新年会だったので,クリスマスを兼ねて飲み歌ってきました(笑).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧