2026年2月26日 (木)

2・26事件

Image_2  今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,クーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争がありました.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争という側面です.具体的には当時皇道派と呼ばれた財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという隊付きの青年将校(彼らは徴収された兵を通じて当時の農村の荒廃を痛感していた)やそれを支持する軍高官による派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいた皇道派の将官たちは統制派の中堅エリートからは目の上のたんこぶと認識されていました.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドンである真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われた結果,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物である永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようと工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わりました.

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも影響は及び,さすがに軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって皇道派は陸軍中枢から一掃され,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増大,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

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2026年1月14日 (水)

記念イヤー

 2026年になって10日以上が過ぎましたが、恒例の今年は何の年?です。

① 昭和100年(1926年) 日本の歴代元号の中で最長だったのが昭和です。前時代の大正デモクラシーの風潮で、最初の数年こそ平和な時代に見えたものの、不況と政党政治の腐敗によって軍を中心とした国家改造を目指す勢力が伸張しやがて全体主義体制となり第二次世界大戦に至ります。戦後は冷戦時代の中で経済復興、高度経済成長が進み国民生活は豊かになったものの、公害など新たな問題が生じます。そして戦後の国際関係の象徴だった冷戦が終結していく過程で時代は平成へと変わります。

② ガリバー旅行記初版300年(1726年) 誰でもその名を聞いたことがあるであろう小説、ガリヴァー旅行記が出版されたのが今から300年前の1726年です。著者はアイルランドのジョナサン・スウィフトで、発売以来大人気となりました。作中に江戸時代の日本が登場することでも知られています。

③ サン・ピエトロ寺院献納式400年(1626年) カトリックの総本山として知られるバチカンのサン・ピエトロ寺院、その建立は4世紀のローマ皇帝コンスタンティヌス1世に遡ります。当時は聖ペトロの墓所を守るための聖堂で、ローマ教皇座がある場所ではなかったそうです。14世紀のアビニョン捕囚後に教皇座となったものの、老朽化が激しかったことから15世紀末から新聖堂の建造が始まり、1626年に完成したのが今の聖堂になります。

④ ムガール帝国建国500年(1526年) 近世のインド史に残る重要な国家であるムガール帝国がバーブルによって建国されたのが今から500年前のことです。その後16世紀後半の皇帝アクバルの時代に政治体制が確立します。現代に至るまでインドというのは多様性の塊のような国ですが、アクバルはイスラム教やヒンズー教など様々な利害関係者を上手にまとめ上げて国の運営に当たりました。しかしその後皇帝アウラングゼーブの時代になるとイスラム教への偏重が強くなり国内が不安定化していくことになります。

⑤ 嘉暦の騒動700年(1326年) 鎌倉時代末期は北条得宗家の家督を巡る争いが頻発していましたが、そうした事件のひとつで得宗家の内管領の長崎氏と外戚である安達氏との争いです。

⑥ 西夏滅亡800年(1226年) 10~13世紀の東アジアは漢民族の宋を中心としながらも、周辺諸民族国家が強勢となって宋を圧迫する時代でした。特に女真族の金、契丹族の遼が有名ですが、北西部に位置していたタングート族の西夏も強力な国でした。11世紀に建国すると当初は遼と組み宋を圧迫、後に金が勃興するとこれと同盟して遼を滅ぼし、さらには金によって北宋が滅ぼされると自らの領土を広げるなど、動乱の時代をうまく泳ぎます。しかし13世紀にモンゴルが隆盛になり金が滅ぼされるともはや対抗するすべはなく、1226年に滅亡の憂き目に遭うのでした。

⑦ 北宋滅亡900年(1126年) 10世紀に趙匡胤によって建国された宋は、前時代が地方に藩鎮と呼ばれる軍閥が割拠する状態で国がまとまらなかった反省から、中央集権化、文官優遇の政策を取りました。これは国内統治にはうまくいきましたが、対外的には消極的にならざるを得なく、遼、西夏、金といった周辺国に圧迫されることになります。そして1126年に皇帝欽宗と太上皇徽宗が金に捕らわれると事件(靖康の変)が起こり北宋は滅亡します。

⑧ 渤海国滅亡1100年(926年) 東アジアネタが続きます。今の朝鮮半島北部から中国東北部、ロシア沿海州の一部に勢力を持っていた渤海という国がありました。中央の唐王朝から独立した動きをしていたそれなりに有力な国でしたが、10世紀に入ると弱体化し、当時建国間もない新興国だった遼の耶律阿保機によって攻め滅ぼされてしまいました。

⑨ 聖像破壊運動の始まり1300年(726年) キリスト教は元々ユダヤ教をベースにしていたこともあり、偶像崇拝は禁止されていました。しかし中世初期には布教の都合もあり、イコンと呼ばれる聖画が盛んに利用されました。しかし7世紀に東ローマ帝国がイスラム勢力の侵攻で大幅に領土を失うと、皇帝レオーン3世は偶像崇拝のために神の加護を失った結果であると考え、国中のイコンの破壊を命じました。これが聖像破壊運動で後に西のローマ教会をも巻き込んで、最終的に東西教会の分裂を引き起こすことになります。

⑩ 唐の太宗即位1400年(626年) 7~9世紀にかけて東アジアの中心として周辺諸国に影響を与えた国が唐です。その政治体制を固めたのが第2代皇帝の太宗で、その政治を貞観の治と呼んでいます。

⑪ パルティア滅亡1800年(226年) 紀元前後からローマ(当初共和政、後に帝政)が発展すると、それと西に国境を接するようになったのがパルティア王国です。ゾロアスター教を信仰するイラン系の強力な国で、紀元前1世紀から3世紀にかけてメソポタミアやシリア、アルメニアなどを巡ってローマと何度も戦っています。戦いそのものはパルティア優勢で推移するものの、相次ぐ戦争で国の土台が揺らぎ、ついには新興国ササーン朝ペルシャによって滅ぼされてしまうのでした。

 ざっとこんな出来事が出てきました。建国や国の滅亡など歴史の節目といえる事件が多い印象ですが、自分的な一番はやっぱり昭和100年でしょうか。

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2025年12月14日 (日)

元禄赤穂事件

Chushingura_20201215114601   今日12月14日は元禄赤穂事件の大きな局面である、いわゆる赤穂浪士の討ち入りが起こった日です。旧暦の元禄15年(1702年)12月14日(正確には12月15日未明)、元播州赤穂藩家老大石内蔵助以下の旧赤穂藩士四十七人が、本所松坂町の吉良邸を襲撃、吉良上野介義央の首級を挙げた事件です。国内最後の大きな争乱となった島原の乱からすでに65年、すっかり太平になれた元禄時代の人々に大きな衝撃を与えた一大武装闘争事件といえます。現在ではその前年3月に起こった江戸城松之大廊下で発生した刃傷事件と併せて赤穂事件(元禄赤穂事件)と呼ばれています。歌舞伎仮名手本忠臣蔵の題材になっており、現在でもよく知られた事件です。かつてはNHKの大河ドラマ(H.11年の元禄繚乱,S.57年の峠の群像など)や民放の年末時代劇などでもしばしば取り上げられていた題材ですが、一方で謎の多い事件であるともいわれています。

 まず討ち入りの前提になった、前年元禄14年3月14日の江戸城松之大廊下での刃傷事件があります。第一の謎はなぜ浅野内匠頭長矩があの日松之大廊下で刃傷に及んだかです。一応、浅野が「この間の遺恨覚えたか!」と叫んで吉良上野介に切りつけたことになっているので、それ以前に二人の間に何らかの禍根があったといわれているのですが、江戸城内で刃傷事件に起こすことがどれほど重大なことか、長矩が知らないはずはありません。特にこの日は幕府にとって極めて重要な、朝廷からの勅使をもてなす儀式が行われていた日、しかも長矩はその勅使を供応する役だったからです。もしも本当に切りつけたいほどの遺恨があったとしても、もっと人がいない場所で狙うととか、違う日を選ぶなどのするのが自然です。にもかかわらず、最も重要な儀式が行われている最中に、その江戸城で事件を起こしたわけですから、浅野長矩は我を忘れるほど激昂していたと考えられます。これが仮に松之廊下で吉良と浅野が言い争いをしていて、興奮した浅野が切りつけたというならまだ話はわかるのですが、長矩は不意に吉良に切りつけています。つまりなぜ長矩が事件直前に我を忘れてしまうほど激高したのかが不明なのです(外で何かがあり、怒った浅野が吉良のもとに飛んでいって切りつけたわけでもありません)。

 第二に動機です。巷では勅旨供応役を拝命した浅野が指南役だった吉良に賄賂を送らなかったために意地悪をされたとか、赤穂と吉良の塩をめぐる争いだとか言われていますがそれを示す一次資料は確認されていません。そもそも浅野長矩が勅使供応役を務めたのはこの時がはじめてでは無く、さかのぼること18年前の天和三年(1683年)にも同じ吉良義央の指南でこの役を無事に務めています。なので何も知らない長矩に吉良が意地悪をしたという構図も考えられないわけです。結局この刃傷事件は動機もはっきりせず、単に浅野長矩が錯乱して斬りつけただけだったという説を唱える学者もいます。

 とはいえこの刃傷事件の結果、赤穂浅野家は所領没収の上改易となり、藩士たちは路頭に迷うことになりました。江戸時代の大名家というのは今でいう企業のようなもで、改易になるということは会社が倒産することと一緒、従業員たる藩士は失業して世間に放り出されることになります。戦国の世で武士が戦で死ぬ時代なら、欠員補充のために他の大名に仕官するのも比較的容易だったのですが、太平の江戸時代になると、失業した藩士の再就職は容易ではなかったのです。なので当時の武士は主君の命云々よりも、お家(大名家)の存続が大事でした(なので大石内蔵助も当初は長矩の弟、浅野長広によるお家再興を第一に考えていました)。

 その後紆余曲折を経て,翌元禄15年12月14日の討ち入りに至りますが、ここにも謎があります。刃傷事件の後同年8月に吉良が突然幕府から屋敷の移転を命ぜられていることです。元々吉良邸は江戸城に近い呉服橋(今のJR東京駅付近)にありましたが、この命令で本所松坂町に転居することになったのです。ここはJR両国駅の近くで、今でこそ都心の一部となっていますが、当時は江戸のはずれ,かなり寂しい所だったといわれています。直前に吉良義央は隠居しており、一般には隠居に伴う移転と考えられています。しかし当時は旧赤穂藩士の襲撃がウワサされており、結果的には幕府が討ち入りをさせるためにわざと転居させたのではないかとも取れるのです(郊外であれば他人の目にも触れにくい)。結局当日浪士たちは幕府の捕り方に誰何されることもなく、吉良邸討ち入りを行うことができました。

 ちなみに浅野=善玉,吉良=悪玉という構図は後の仮名手本忠臣蔵によって確立した虚構の概念であり、史実ではありません。これは「三国志演義」を読んでも歴史としての三国志を理解したことにはならないし、「燃えよ剣」から新選組の真の姿は見えてこないのと一緒です。実際には地元赤穂の領民の間での浅野家の評判は芳しくなく、逆に吉良上野介の領地での評判は良かったともいわれています。21世紀に入ってからメディアでも赤穂浪士を取り上げる頻度が激減しているのは、歴史上の人物をフィクションによる単純な善と悪という色分けで描くことに批判があるからとも思われます(実際に大河ドラマでこの事件が描かれたのは1999年の元禄繚乱が最後で、21世紀になってからは一度もない)。現代では元禄赤穂事件という呼び方が定着したこの一連の騒動も、20世紀には歌舞伎の演題そのままに忠臣蔵と呼ばれていたものです。

 そんなことを考えた2025年12月14日でした。

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2025年5月29日 (木)

コンスタンティノープルの陥落

 今日5月29日は当ブログにとっては非常に重要な日です。私はハンドルネームでビザンチン皇帝コンスタンティヌス21世を名乗っていることからわかるように、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)を愛好しています。そんな帝国の都がコンスタンティノープルで君府とも呼ばれます。11世紀の最盛期には人口50万を擁し、中世に入って都市が衰退していた当時のヨーロッパでは群を抜いて巨大な都市だったのです。

 コンスタンティノープルはその成立の日と滅亡の日がはっきりわかっている都市でもあります。すなわちローマ皇帝コンスタンテゥヌス1世(大帝)によって開都式が行われ正式に遷都したのが330年5月11日です。そして、その約1100年後にメフメト2世率いるオスマントルコ軍の攻撃を受けて陥落し帝国が滅亡に至ったのが1453年5月29日なのです。

 ビザンチン帝国というのは,別名を東ローマ帝国、中世ローマ帝国といわれるように、古代ローマ帝国の後継国家です。ビザンチンという名前はコンスタンティノープル(現イスタンブール)の古名であるビザンティウム(ビザンチオン)から来ており、国家が存在した時期はちょうど西洋史における中世と呼ばれる時代区分に一致します。

 中世という用語は、西洋史の歴史用語で古代と近代の間の時代という意味です。私が中学生頃の西洋史観では中世というのは迷信と疫病のはびこる暗黒時代とされていました。すなわち古代ギリシャ・ローマの文明が衰退ししてから、ルネッサンスによって文明が復興するまでのつなぎの時代とみなされていたわけです。もちろんこれは西欧の立場から見た歴史観であって、同じ時代イスラム圏は文明の中心として栄えていたわけですし、キリスト教世界においても西ヨーロッパは混乱していましたが、ビザンチン帝国を中心とする今の東欧圏は逆に繁栄していた時代です。これらの世界においては暗黒時代どころか黄金期だったわけです.

 現在においては西欧においても中世は何もない時代ではなく,様々な社会や文化の発展がみられた時代であるという認識に変わっています。そんな発展途上の西欧社会の人々にとって、キリスト教世界の中心地だったコンスタンティノープルが異教徒の手に落ちたことは衝撃的な事件でした。この歴史的大事件当時に作曲家として活躍していたギョーム・デュファイはコンスタンティノープル聖母マリア教会の嘆きという曲を作っています。

 そんな感慨にふけった2025年5月29日でした。

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2025年1月 3日 (金)

何の記念イヤー?

 今年2025年は何の記念イヤーなのか、毎年恒例ですが調べてみました。

① ラジオ放送開始100年 メディアでも話題となっているネタですが、今年は日本でラジオ放送が始まって100年の記念イヤーです。世界的にはその5年前の1920年に始まっていますが、日本では1923年の関東大震災後の情報混乱による被害が大きく、正確な情報を素早く伝える手段としてラジオ放送の開始が期待されました。そして1925年(大正14年)3月22日に東京放送局(JOAK)が放送を開始したのが始まりで、以後全国に普及していくことになります。

② 異国船打払令200年 17世紀前半から太平の世を謳歌してきたわが国ですが、19世紀に入ると欧米食の船が頻繁に姿を見せるようになりました。当初幕府は薪水給与令をだして対応していましたが、フェートン号事件や大津浜事件等を受けて、外国船は全て打払うよう方針を替えました。これが異国船打払令で、17年後に天保の薪水給与令が出るまで続けられました。

③ 近松門左衛門没後300年 17世紀後半から18世紀初頭にかけての日本では上方を中心に元禄文化が花開きました。この時代を代表するものが人形浄瑠璃や歌舞伎狂言ですが、そうした作品を数多く送り出し、時代を象徴する人物の一人とされているのが近松門左衛門です。代表作として「曽根崎心中」や「碁盤太平記」などが知られています。

④ テノチティトラン建設700年 現在のメキシコのあたりに勢力を持っていたアステカ帝国、その首都だったのがテノチティトランで現在のメキシコシティの場所に該当します。当時はテスココ湖の浮かぶ島の上に形成された都市で最盛期には30万人もの人口を誇っていたといわれています。16世紀にスペイン人コルテスによって征服され破壊された後、その上に今に続くメキシコシティの街が形成されました。そんなテノチティトランが建設されたのが今から700年前です。

⑤ チャガタイ・ハン国建国800年 13世紀前半にユーラシア大陸の大半を支配したモンゴル帝国ですが、広すぎる帝国を一元支配するのは不可能でその初期から分割しての支配が行われていました。このうち主に中央アジア方面を任されたのがチンギス・ハンの次男チャガタイで、彼の支配領域がチャガタイ・ハン国とよばれます。これが建国されたのが今から800年前です。

⑥ 遼滅亡900年 10世紀に成立した宋王朝は周辺の遊牧民国家に対して軍事面では劣勢で、周辺国に資金や物資を与えることで国の安定化を図っていました。そうした宋の周辺国の中でも有力なのが遼で、10世紀に耶律阿保機によって建国されました。五代十国時代の後晋を援助する見返りに燕雲十六州を獲得し、その後宋代になってもこの地を支配し続けるなど強勢を保っていましたが、12世紀に入って女真族の金が勃興すると、宋と金の挟撃にあい1125年に滅亡しました。

⑦ バシレイオス2世崩御1000年 もっとも切りがよく、当ブログ的な話題がこちらです。11世紀ビザンチン帝国の最盛期を作り上げた皇帝バシレイオス2世が崩御したのが今から1000年前の1025年です。7世紀以降イスラム教徒の侵攻やスラブ民族の移住等で衰退していた帝国を盛り返し、黄金期と呼ばれる時代を作り上げたのがこの皇帝です。その人生は戦争に明け暮れ華やかさはないものの、ローマ皇帝=軍人という建前をまさに具現した皇帝でした。

⑧ 第1回ニカイア公会議1700年 キリスト教が成立したあとの数世紀は、教義を巡る問題がしばしば発生しました。これを解決するために行われたのが公会議で、8世紀までに7回の公会議が行われました。その記念すべき第1回公会議となったのが第1回ニカイアの公会議です。今のトルコのニカイアが会場となり、当時教義上の問題となっていたアリウス派の扱いについて話し合いが行われ、最終的にアリウス派は異端として追放されました。

⑨ 諸葛亮の南征1800年 三国時代の重要人物である諸葛亮、その活躍は特に三国志演義において著しいのですが、劉備が没したあと北伐が始まる前に行われたのが南征です。これは当時蜀漢に対して反抗的な姿勢を見せていた現四川省南部の豪族をを従属させることを目的とした遠征となります。諸葛亮自らが遠征軍を率いたことから、その本気ぶりがうかがえます。

⑩ 後漢成立2000年 紀元前3世紀末に成立した前漢は次第に皇室が弱体化し、末期には外戚の王氏の専横が目立つようになります。紀元前10年ごろから王氏の一員である王莽の権勢が増大し、とうとう紀元8年には皇帝位を簒奪し、新という国家を樹立しました。しかし新王朝の政治はあまりにも現実を無視したものだったためすぐに立ち行かなくなり社会が混乱、このなかから赤眉軍、緑林軍による反乱(いわゆる赤眉の乱)、が起こり社会は大混乱に陥ります。その中から現れた漢王室の一人である劉秀が漢を再興して光武帝として即位したのが今から2000年前の紀元25年のことです。

⑪ 晋滅亡2400年 春秋時代と戦国時代の境目をどこに置くかは議論がありますが、一般には春秋時代の大国晋が韓魏趙3国に分裂した時(紀元前403年)とされています。しかしこの時も旧宗主国である晋はわずかな領地とともに存続を許されていました。しかし時代が進み紀元前376年になると韓・魏連合軍によって晋は最終的に滅ぼされたのでした。

⑫ 古代オリンピック発祥2700年 近代オリンピックはフランスのクーベルタン男爵によって19世紀に始められた体育競技会ですが、その元となったのが古代ギリシャで行われていた古代オリンピックです。参加資格がギリシャ人である成人男性のみに限られるなどの制約はあったものの、競技会期間中は戦争が中断されるなど、後の平和の祭典としてのオリンピックの萌芽が見られます。そんな古代オリンピックが始まったのが今から2700年前のことなのです。

 こうしてみるといろいろな出来事がありますが、注目したのはバシレイオス2世の崩御、後漢の成立、古代オリンピックの開始でしょうか。

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2024年12月14日 (土)

元禄赤穂事件の日

Chushingura_20201215114601  今日12月14日は元禄赤穂事件の大きな局面である、いわゆる赤穂浪士の討ち入りの日です。旧暦の元禄15年(1702年)12月14日(正確には12月15日未明),元播州赤穂藩家老大石内蔵助以下の旧赤穂藩士四十七人が,本所松坂町の吉良邸を襲撃,吉良上野介義央の首級を挙げた事件です。国内最後の大きな争乱となった島原の乱からすでに65年,太平にすっかりなれた元禄時代の人々に大きな衝撃を与えた一大武装闘争事件といえます。現在ではその前年3月に起こった江戸城松之大廊下で発生した刃傷事件と併せて赤穂事件(元禄赤穂事件)と呼ばれています。歌舞伎仮名手本忠臣蔵の題材になった事件であり,現在でも非常に有名です。かつてはNHKの大河ドラマ(H.11年の元禄繚乱,S.57年の峠の群像など)や民放の年末時代劇などでもしばしば取り上げられていた題材ですが、一方で謎の多い事件であるともいわれています。

 まず討ち入りの前提になった,前年元禄14年3月14日の江戸城松之大廊下での刃傷事件です。第一の謎はなぜ浅野内匠頭長矩があの日松之大廊下で刃傷に及んだか。一応,浅野が「この間の遺恨覚えたか!」と叫んで,吉良上野介に切りつけたことになっているので、それ以前に二人の間に何らかの禍根があったといわれているのですが,江戸城内で刃傷事件に起こすことがどれほど重大なことか,長矩が知らないはずはありません。特にこの日は幕府にとって極めて重要な朝廷からの勅使をもてなす儀式が行われていた日、しかも長矩はその勅使を供応する役だったからです。もしも本当に切りつけたいほどの遺恨があったとしても,もっと人がいない場所で狙うととか、違う日を選ぶなどのするのが自然です。にもかかわらず、最も重要な儀式が行われている最中に、その江戸城で事件を起こしたわけですから,浅野長矩は我を忘れるほど激昂していたと考えられます。これが仮に松之廊下で吉良と浅野が言い争いをしていて,興奮した浅野が切りつけたというならまだ話はわかるのですが、長矩は不意に吉良に切りつけています.つまりなぜ長矩が事件直前に我を忘れてしまうほど激高したのかが不明なのです(外で何かがあり,怒った浅野が吉良のもとに飛んでいって切りつけたわけでもありません).

 第二に動機です。巷では勅旨供応役を拝命した浅野が指南役だった吉良に賄賂を送らなかったために意地悪をされたとか,赤穂と吉良の塩をめぐる争いだとか言われていますがそれを示す一次資料は確認されていません。そもそも浅野長矩が勅使供応役を務めたのはこの時がはじめてでは無く、さかのぼること18年前の天和三年(1683年)にも同じ吉良義央の指南でこの役を無事に務めています。なので何も知らない長矩に吉良が意地悪をしたということは考えられないわけです。結局この刃傷事件は動機もはっきりせず,単に浅野長矩が錯乱して斬りつけただけだったという説もあります。

 とはいえこの刃傷事件の結果,赤穂浅野家は所領没収の上改易となり,藩士たちは路頭に迷うことになりました。江戸時代の大名家というのは今でいう企業のようなもで、改易になるということは会社が倒産することと一緒、従業員たる藩士は失業してしまうことになります。戦国の世で武士が戦で死ぬ時代なら、欠員を補充のために他の大名に仕官するのも比較的容易だったのですが、太平の江戸時代になると、失業した藩士の再就職は容易ではなかったのです。なので当時の武士は主君の命云々よりも、お家(大名家)の存続が大事でした。

 その後紆余曲折を経て,翌元禄15年12月14日の討ち入りに至りますが、ここにも謎があります。刃傷事件の後同年8月に吉良が突然幕府から屋敷の移転を命ぜられていることです。元々吉良邸は江戸城に近い呉服橋(JR東京駅付近)にありましたが、この命令で本所松坂町に転居することになったのです。ここはJR両国駅の近くで,今では都心の一部となっていますが、当時は江戸のはずれの雰囲気で,かなり寂しい所だったといわれています。直前に吉良義央は隠居しており,一般には隠居に伴う移転と考えられています。しかし当時は旧赤穂藩士の襲撃がウワサされており、結果的には幕府が討ち入りをさせるためにわざと転居させたのではないかとも取れるのです(郊外であれば他人の目にも触れにくい)。結局当日浪士たちは幕府の捕り方に誰何されることもなく,吉良邸討ち入りを行うことができました。

 ちなみに浅野=善玉,吉良=悪玉という構図は後の仮名手本忠臣蔵によって確立した虚構の概念であり、史実ではありません。これは「三国志演義」を読んでも歴史としての三国志を理解したことにはならないし、「燃えよ剣」から新選組の真の姿は見えてこないのと一緒です。実際には地元赤穂の領民の間での浅野家の評判は芳しくなく、逆に吉良上野介の領地での評判は良かったともいわれています。21世紀に入ってからメディアでも赤穂浪士を取り上げる頻度が激減しているのは、歴史上の人物をフィクションによる単純な善と悪という色分けで描くことに批判があるからとも思われます(実際に大河ドラマでこの事件が描かれたのは1999年の元禄繚乱が最後となっている)。現代では元禄赤穂事件という呼び方が定着したこの一連の騒動も、20世紀には歌舞伎の演題そのままに忠臣蔵と呼ばれていたものです。

 そんなことを考えた2024年12月14日でした。

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2024年8月 7日 (水)

ラ・セーヌの星

 パリオリンピックも佳境ですが、今日はフランスを舞台としたアニメ作品の話題です。フランスが舞台というと池田理代子先生のベルサイユのばらが浮かびますが、今回のテーマは1975年に放映されたラ・セーヌの星です。ベルばら同様フランス革命を描いた作品ですが、基本登場人物が貴族であるベルばらと違い、こちらは主に庶民目線の作品となっています。

Rasenu  作品の基本設定は、パリのシテ島(セーヌ川に浮かぶ中州)で普段は花屋を営むシモーヌという美少女が変装してラ・セーヌの星と名乗り、剣を振るって私欲を肥やす悪徳商人や無慈悲な官憲を成敗するというものです。イメージとしてはフランスを舞台にした桃太郎侍といった趣です。しかもシモーヌが実は王妃マリー・アントワネットの異母妹という設定になっているため、暴れん坊将軍という見方もできます。ただこれだけだと「ふ~ん」という感じになるんですが、物語は後半フランス革命が始まると俄然様相が変わってきます。単なる勧善懲悪の時代劇ではなく、歴史の流れに翻弄される人々の姿が赤裸々に描かれていきます(それは主人公のシモーヌも例外ではない)。この後半部分がラ・セーヌの星が素晴らしい作品と言われるゆえんで、私を含めこの作品でフランス革命の流れを学んだという人は多いと思われます。革命が先鋭化して当初は虐げられる側だった民衆が最後、王妃の子供たちを虐待しようとするに至ると、そうした民衆に対して剣を振るいます。この時「ラ・セーヌの星はわれわれ民衆の味方じゃないのか」という人々に対して、「ラ・セーヌの星は弱いものの見方です」と毅然と答える場面はこの作品を象徴する場面だと思います。

 後年このラ・セーヌの星の後半部分を監督したのが富野由悠季(当時は富野喜幸)だと知ったとき、「そりゃぁ、盛り上がるはずだ」と納得した思い出があります。そんなラ・セーヌの星、現在UNEXTやFuluなどの配信サービスでは見られないのが残念ですが、youtubeでは時々上がってくるので今回その一部を鑑賞し、改めて凄い作品だったなと感じたのでした。

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2024年4月 9日 (火)

仁淀川周辺の観光

 一夜明け4月9日になりました。前日は雨も混じるいまいちな天気でしたが、この日は朝から抜けるような青空が広がっていました。朝食を食べてホテルをチェックアウト、そのまま歩いて高知城に向かいます。関ヶ原の戦いの論功行賞で土佐一国を与えられた山内一豊によって作られた城郭です。最初の日本100名城にも含まれる名城ですが、そちら目的での訪問はすでに2009年に済ませているので今回はまったりとした観光です。

 高知城は全国で12しかない現存天守を持つ城郭ですが、さらにすごいのが本丸が当時のままほぼ保存されているということです。すなわち天守だけではなく本丸御殿や詰門も残されています。内部は資料館的なものになってはいますが、木造のギシギシいう建物を歩くと、本当に昔の城郭に来たなと強く感じるのでした。

Img_1814 Img_1833(左写真1)大手門と天守を一望できるスポット、(右同2)高知城本丸

Img_1868(写真3)仁淀ブルーのにこ淵

 約1時間ほど見学した後は国道33号線を西に向かいさらに194号に折れて北上します。しばらく山の中を走ってこの日2つ目の観光ポイントに到着、仁淀ブルーで知られるにこ淵です。一条の滝と一面ブルーの滝つぼが織りなす絶景スポットとして名高い場所ですが、地元では聖地とされている大切な場所だそうです。年度初めの平日ということもあり、観光客の姿はまばらでしたが、おかげでこの素晴らしい光景をじっくり堪能できました(少なくともナミビアにはこんなブルーはない 笑)。

Img_1884_20240509152601(写真4)つがにそば

 にこ淵の見学の後は近くの道の駅で昼食、この日は当地の名産品(?)のつがにそばをいただきました。つがにというのは当地のモクズガニのことです。自分の業界ではモクズガニといえば寄生虫の中間宿主のイメージが強いのですが、もちろんこれは生で食べるわけではないので大丈夫です。本来はつがに汁の形で食されるようですが、ここではそばやうどんとして提供されていました。毛ガニやタラバガニといった海のカニとは違った微妙な苦みが旨いのでした。

 食事後はそこから15分ほど南に行った場所にある浅尾沈下橋へ。高知県内の河川には、欄干がなく増水時にはあえて水面下に沈めてしまう沈下橋が多くあります。かつてはそれだけ川の増水が頻繁で通常の橋だと流されてしまうことが多かったのだろうと思われます。近年はより高い場所に立派な橋が作られるケースが増えているため、こうした沈下橋の役割は縮小しつつはありますが、今でも多くが生活道路として利用されています。通常の水の時期ならば、徒歩で渡る分には心配ないのですが、自動車で渡る際にはかなり緊張するものがあります(そういえばパラオにもこうしたタイプの橋が結構あって、時々酔っ払い運転の現地人が落っこちるという話を聞いた)。

Img_1889 Img_1891(左写真5)浅尾沈下橋、(右同6)狭い橋です

 恐る恐る沈下橋を渡った後はさらに南下し佐川町へ。ここは昨年の朝ドラの主人公のモデル牧野富太郎博士の出身地です。佐川の地ももちろん土佐藩領の一部ではあるんですが、この地は藩筆頭家老深尾氏が治めていた場所で佐川はその城下町でした。そうした特殊な土地ということもあり、当地出身者には独特のプライドがあるのか、明治維新後結構有名な人物が排出されています。牧野博士もその一人ですが、ほかにも政治家の田中光顕や日本の土木業の基礎を作った広井勇などがいます。街並みなど非常に風情があり、ゆっくりと散策を楽しみました(やっぱりナミビアにはこういう場所はない 笑)。

Img_1897 Img_1901 Img_1903 Img_1910(左上写真7)佐川の街並み、(右上同8)藩校名教館、(左下同9)旧青山文庫、(右下同10)牧野博士の生家

 佐川町の街歩きを終えると後はひたすら西進、四万十川周辺や宿毛などほかにも魅力的な場所はありますが今回はスルー、一気に県境を越えて愛媛県愛南町に入ります。この日は愛南町のホテルにチェックイン、その後地元の居酒屋で夕食としました。

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2024年3月27日 (水)

平泉を歩く

 休暇の第2クールは主に盛岡の実家で過ごしています。岩手時代にお世話になった合唱団(盛岡バッハ・カンタータ・フェライン)の練習にお邪魔したり、ウィントフックに戻る際に持って行きたい物品の購入をしたりしながら過ごしています。とはいえ岩手でぼーっとしているのもつまらないので日帰りで出かけることにしました。

 行き先は平泉です。奥州藤原氏の本拠地として歴史上有名なところです。私も小中学校時代は遠足やフィールドワークで出かけたことがありますが、その後は”近くにいると行かない”の法則に嵌まったのか、まったく行く機会が無いまま云十年経ったという次第です。日本にいた頃は休みは貴重なので、できるだけ普段とは縁遠い遠方ばかりに出かけていたというのも理由です。ただ今回はまとまった休み、しかも実家滞在ということで行ってみようという気分になったのでした。

Img_1464(写真1)中尊寺の入り口

 家から平泉までは90キロくらいあるんですが幸い高速道路が通っているためそれほど時間はかかりません(途中制限速度120キロの区間もある)。インターを出てまずは中尊寺を目指します。平安時代前期に円仁が開山した天台宗の寺院ですが、今に残る姿にしたのは奥州藤原氏初代の清衡です。年度末の平日ということもあるのか駐車場は空いていました。ここから境内に入っていきます。大昔に訪問した際の印象では境内に入るとすぐに金色堂があったような気がしたのですが、実際には金色堂に至るまでに多くの寺院等があり、しかも結構な登り坂が続く構内でした。昔過ぎて記憶が飛んでいるのと、当時は元気で体力もあったので坂道で苦労した記憶が無いせいかもしれません。

Img_1472 Img_1493(左写真2)薬師堂、(右同3)経蔵

 そんな坂道を上った先にようやく金色堂が登場します。とはいえ目の前に見えるのは覆堂で金色堂はその中、さらにガラスケースに守られた中にあります(これは昔からそう)。金色に輝くお堂に加え周囲の装飾が素晴らしく、当時の平泉が京都や鎌倉と対等に渡り合えるだけの勢力だったことを感じます。ただ本来中央の段に並んでいるはずの仏像がありませんでした。これはこの時東京の国立博物館で「中尊寺金色堂」特別展が開催されているため、仏像一式そちらに貸し出されているからでした(まあそれはそれで貴重な経験)。見学後昼食を摂り周辺にある旧覆堂や能楽殿などを見学したのち駐車場に戻りました。

Img_1486 Img_1488 Img_1496_20240427164401 Img_1500(左上写真4)今年は金色堂建立900年とのこと、(右上同5)金色堂の覆堂、(左下同6)旧覆堂、(右下同7)能楽殿

Img_1505(写真8)毛越寺山門

 続いては毛越寺に向かいます。ここも中尊寺と同じく平安初期に円仁によって開山された寺院ですが、その後長らく荒廃していたものを再建したのが奥州藤原氏二代目の基衡でした。ただその後の火災や戦国時代の兵火によって再び荒廃し、江戸時代にはほとんど何もない状態になってしまいました。明治以降発掘調査が行われた結果、基衡時代の遺構がよく遺っていることがわかり、学術的な考証の上に本堂などが再建され、中央の大泉が池などとともに往年の趣を感じさせる景観となっています(本堂の再建が平成元年なので私が昔来た頃には存在しなかった)。

Img_1509 Img_1513(左写真9)本堂、(右同10)大泉が池

 この日はあいにくの天気だったのですが、こうして云十年ぶりに地元の名勝(世界遺産でもある)を訪問出来てよかったなと思ったのでした。

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2024年2月29日 (木)

ロッシーニの誕生日

 今年はうるう年、すなわち約4年に一度2月29日が存在する年です。で、この2月29日生まれの著名人に19世の作曲家G. ロッシーニがいます。彼は1792年のこの日にイタリアのペーザロ市(当時は教皇領)で生まれました。彼の生家は本業ではないものの音楽一家で、彼自身も小さいころから音楽の才能があったようです。18歳で最初のオペラを作曲し、20代で「アルジェのイタリア女」、「セビリアの理髪師」、「チェネレントラ」といった今でも名高い傑作を次々に発表し当時のウィーンで大人気となりました。彼の人気があまりに凄いので、同じ時期ウィーンにいたベートーベンも嫉妬していたとされています。

Rossini1 Rossini2(写真左)晩年のロッシーニ、(同右)若い頃のロッシーニ

 ロッシーニは76年の生涯の中で,作曲として活躍していたのは前半生のみで,37才のときに「ウイリアム・テル」を作曲すると,以後はオペラ作曲の筆を折り,残りの40年は食っちゃ寝の生活をしていたという羨ましい人生を送った人でもあります.尤もまったく作曲をしなかったわけではなく,私的にはいくつかの作品は遺しています(私も好きな小ミサ・ソレムニス)は彼の晩年の作品である).

 ロッシーニの名前は音楽だけではなく、料理の世界にも残っていますが、残念ながらナミビアにはフランス料理店と呼べる店がなく、今は〇△のロッシーニ風という料理には縁がないのが寂しいところです。

Img_6 Mukaka(写真左)牛フィレ肉のロッシーニ風、(同右)無花果のロッシーニ風

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