2025年1月 3日 (金)

何の記念イヤー?

 今年2025年は何の記念イヤーなのか、毎年恒例ですが調べてみました。

① ラジオ放送開始100年 メディアでも話題となっているネタですが、今年は日本でラジオ放送が始まって100年の記念イヤーです。世界的にはその5年前の1920年に始まっていますが、日本では1923年の関東大震災後の情報混乱による被害が大きく、正確な情報を素早く伝える手段としてラジオ放送の開始が期待されました。そして1925年(大正14年)3月22日に東京放送局(JOAK)が放送を開始したのが始まりで、以後全国に普及していくことになります。

② 異国船打払令200年 17世紀前半から太平の世を謳歌してきたわが国ですが、19世紀に入ると欧米食の船が頻繁に姿を見せるようになりました。当初幕府は薪水給与令をだして対応していましたが、フェートン号事件や大津浜事件等を受けて、外国船は全て打払うよう方針を替えました。これが異国船打払令で、17年後に天保の薪水給与令が出るまで続けられました。

③ 近松門左衛門没後300年 17世紀後半から18世紀初頭にかけての日本では上方を中心に元禄文化が花開きました。この時代を代表するものが人形浄瑠璃や歌舞伎狂言ですが、そうした作品を数多く送り出し、時代を象徴する人物の一人とされているのが近松門左衛門です。代表作として「曽根崎心中」や「碁盤太平記」などが知られています。

④ テノチティトラン建設700年 現在のメキシコのあたりに勢力を持っていたアステカ帝国、その首都だったのがテノチティトランで現在のメキシコシティの場所に該当します。当時はテスココ湖の浮かぶ島の上に形成された都市で最盛期には30万人もの人口を誇っていたといわれています。16世紀にスペイン人コルテスによって征服され破壊された後、その上に今に続くメキシコシティの街が形成されました。そんなテノチティトランが建設されたのが今から700年前です。

⑤ チャガタイ・ハン国建国800年 13世紀前半にユーラシア大陸の大半を支配したモンゴル帝国ですが、広すぎる帝国を一元支配するのは不可能でその初期から分割しての支配が行われていました。このうち主に中央アジア方面を任されたのがチンギス・ハンの次男チャガタイで、彼の支配領域がチャガタイ・ハン国とよばれます。これが建国されたのが今から800年前です。

⑥ 遼滅亡900年 10世紀に成立した宋王朝は周辺の遊牧民国家に対して軍事面では劣勢で、周辺国に資金や物資を与えることで国の安定化を図っていました。そうした宋の周辺国の中でも有力なのが遼で、10世紀に耶律阿保機によって建国されました。五代十国時代の後晋を援助する見返りに燕雲十六州を獲得し、その後宋代になってもこの地を支配し続けるなど強勢を保っていましたが、12世紀に入って女真族の金が勃興すると、宋と金の挟撃にあい1125年に滅亡しました。

⑦ バシレイオス2世崩御1000年 もっとも切りがよく、当ブログ的な話題がこちらです。11世紀ビザンチン帝国の最盛期を作り上げた皇帝バシレイオス2世が崩御したのが今から1000年前の1025年です。7世紀以降イスラム教徒の侵攻やスラブ民族の移住等で衰退していた帝国を盛り返し、黄金期と呼ばれる時代を作り上げたのがこの皇帝です。その人生は戦争に明け暮れ華やかさはないものの、ローマ皇帝=軍人という建前をまさに具現した皇帝でした。

⑧ 第1回ニカイア公会議1700年 キリスト教が成立したあとの数世紀は、教義を巡る問題がしばしば発生しました。これを解決するために行われたのが公会議で、8世紀までに7回の公会議が行われました。その記念すべき第1回公会議となったのが第1回ニカイアの公会議です。今のトルコのニカイアが会場となり、当時教義上の問題となっていたアリウス派の扱いについて話し合いが行われ、最終的にアリウス派は異端として追放されました。

⑨ 諸葛亮の南征1800年 三国時代の重要人物である諸葛亮、その活躍は特に三国志演義において著しいのですが、劉備が没したあと北伐が始まる前に行われたのが南征です。これは当時蜀漢に対して反抗的な姿勢を見せていた現四川省南部の豪族をを従属させることを目的とした遠征となります。諸葛亮自らが遠征軍を率いたことから、その本気ぶりがうかがえます。

⑩ 後漢成立2000年 紀元前3世紀末に成立した前漢は次第に皇室が弱体化し、末期には外戚の王氏の専横が目立つようになります。紀元前10年ごろから王氏の一員である王莽の権勢が増大し、とうとう紀元8年には皇帝位を簒奪し、新という国家を樹立しました。しかし新王朝の政治はあまりにも現実を無視したものだったためすぐに立ち行かなくなり社会が混乱、このなかから赤眉軍、緑林軍による反乱(いわゆる赤眉の乱)、が起こり社会は大混乱に陥ります。その中から現れた漢王室の一人である劉秀が漢を再興して光武帝として即位したのが今から2000年前の紀元25年のことです。

⑪ 晋滅亡2400年 春秋時代と戦国時代の境目をどこに置くかは議論がありますが、一般には春秋時代の大国晋が韓魏趙3国に分裂した時(紀元前403年)とされています。しかしこの時も旧宗主国である晋はわずかな領地とともに存続を許されていました。しかし時代が進み紀元前376年になると韓・魏連合軍によって晋は最終的に滅ぼされたのでした。

⑫ 古代オリンピック発祥2700年 近代オリンピックはフランスのクーベルタン男爵によって19世紀に始められた体育競技会ですが、その元となったのが古代ギリシャで行われていた古代オリンピックです。参加資格がギリシャ人である成人男性のみに限られるなどの制約はあったものの、競技会期間中は戦争が中断されるなど、後の平和の祭典としてのオリンピックの萌芽が見られます。そんな古代オリンピックが始まったのが今から2700年前のことなのです。

 こうしてみるといろいろな出来事がありますが、注目したのはバシレイオス2世の崩御、後漢の成立、古代オリンピックの開始でしょうか。

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2024年12月14日 (土)

元禄赤穂事件の日

Chushingura_20201215114601  今日12月14日は元禄赤穂事件の大きな局面である、いわゆる赤穂浪士の討ち入りの日です。旧暦の元禄15年(1702年)12月14日(正確には12月15日未明),元播州赤穂藩家老大石内蔵助以下の旧赤穂藩士四十七人が,本所松坂町の吉良邸を襲撃,吉良上野介義央の首級を挙げた事件です。国内最後の大きな争乱となった島原の乱からすでに65年,太平にすっかりなれた元禄時代の人々に大きな衝撃を与えた一大武装闘争事件といえます。現在ではその前年3月に起こった江戸城松之大廊下で発生した刃傷事件と併せて赤穂事件(元禄赤穂事件)と呼ばれています。歌舞伎仮名手本忠臣蔵の題材になった事件であり,現在でも非常に有名です。かつてはNHKの大河ドラマ(H.11年の元禄繚乱,S.57年の峠の群像など)や民放の年末時代劇などでもしばしば取り上げられていた題材ですが、一方で謎の多い事件であるともいわれています。

 まず討ち入りの前提になった,前年元禄14年3月14日の江戸城松之大廊下での刃傷事件です。第一の謎はなぜ浅野内匠頭長矩があの日松之大廊下で刃傷に及んだか。一応,浅野が「この間の遺恨覚えたか!」と叫んで,吉良上野介に切りつけたことになっているので、それ以前に二人の間に何らかの禍根があったといわれているのですが,江戸城内で刃傷事件に起こすことがどれほど重大なことか,長矩が知らないはずはありません。特にこの日は幕府にとって極めて重要な朝廷からの勅使をもてなす儀式が行われていた日、しかも長矩はその勅使を供応する役だったからです。もしも本当に切りつけたいほどの遺恨があったとしても,もっと人がいない場所で狙うととか、違う日を選ぶなどのするのが自然です。にもかかわらず、最も重要な儀式が行われている最中に、その江戸城で事件を起こしたわけですから,浅野長矩は我を忘れるほど激昂していたと考えられます。これが仮に松之廊下で吉良と浅野が言い争いをしていて,興奮した浅野が切りつけたというならまだ話はわかるのですが、長矩は不意に吉良に切りつけています.つまりなぜ長矩が事件直前に我を忘れてしまうほど激高したのかが不明なのです(外で何かがあり,怒った浅野が吉良のもとに飛んでいって切りつけたわけでもありません).

 第二に動機です。巷では勅旨供応役を拝命した浅野が指南役だった吉良に賄賂を送らなかったために意地悪をされたとか,赤穂と吉良の塩をめぐる争いだとか言われていますがそれを示す一次資料は確認されていません。そもそも浅野長矩が勅使供応役を務めたのはこの時がはじめてでは無く、さかのぼること18年前の天和三年(1683年)にも同じ吉良義央の指南でこの役を無事に務めています。なので何も知らない長矩に吉良が意地悪をしたということは考えられないわけです。結局この刃傷事件は動機もはっきりせず,単に浅野長矩が錯乱して斬りつけただけだったという説もあります。

 とはいえこの刃傷事件の結果,赤穂浅野家は所領没収の上改易となり,藩士たちは路頭に迷うことになりました。江戸時代の大名家というのは今でいう企業のようなもで、改易になるということは会社が倒産することと一緒、従業員たる藩士は失業してしまうことになります。戦国の世で武士が戦で死ぬ時代なら、欠員を補充のために他の大名に仕官するのも比較的容易だったのですが、太平の江戸時代になると、失業した藩士の再就職は容易ではなかったのです。なので当時の武士は主君の命云々よりも、お家(大名家)の存続が大事でした。

 その後紆余曲折を経て,翌元禄15年12月14日の討ち入りに至りますが、ここにも謎があります。刃傷事件の後同年8月に吉良が突然幕府から屋敷の移転を命ぜられていることです。元々吉良邸は江戸城に近い呉服橋(JR東京駅付近)にありましたが、この命令で本所松坂町に転居することになったのです。ここはJR両国駅の近くで,今では都心の一部となっていますが、当時は江戸のはずれの雰囲気で,かなり寂しい所だったといわれています。直前に吉良義央は隠居しており,一般には隠居に伴う移転と考えられています。しかし当時は旧赤穂藩士の襲撃がウワサされており、結果的には幕府が討ち入りをさせるためにわざと転居させたのではないかとも取れるのです(郊外であれば他人の目にも触れにくい)。結局当日浪士たちは幕府の捕り方に誰何されることもなく,吉良邸討ち入りを行うことができました。

 ちなみに浅野=善玉,吉良=悪玉という構図は後の仮名手本忠臣蔵によって確立した虚構の概念であり、史実ではありません。これは「三国志演義」を読んでも歴史としての三国志を理解したことにはならないし、「燃えよ剣」から新選組の真の姿は見えてこないのと一緒です。実際には地元赤穂の領民の間での浅野家の評判は芳しくなく、逆に吉良上野介の領地での評判は良かったともいわれています。21世紀に入ってからメディアでも赤穂浪士を取り上げる頻度が激減しているのは、歴史上の人物をフィクションによる単純な善と悪という色分けで描くことに批判があるからとも思われます(実際に大河ドラマでこの事件が描かれたのは1999年の元禄繚乱が最後となっている)。現代では元禄赤穂事件という呼び方が定着したこの一連の騒動も、20世紀には歌舞伎の演題そのままに忠臣蔵と呼ばれていたものです。

 そんなことを考えた2024年12月14日でした。

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2024年8月 7日 (水)

ラ・セーヌの星

 パリオリンピックも佳境ですが、今日はフランスを舞台としたアニメ作品の話題です。フランスが舞台というと池田理代子先生のベルサイユのばらが浮かびますが、今回のテーマは1975年に放映されたラ・セーヌの星です。ベルばら同様フランス革命を描いた作品ですが、基本登場人物が貴族であるベルばらと違い、こちらは主に庶民目線の作品となっています。

Rasenu  作品の基本設定は、パリのシテ島(セーヌ川に浮かぶ中州)で普段は花屋を営むシモーヌという美少女が変装してラ・セーヌの星と名乗り、剣を振るって私欲を肥やす悪徳商人や無慈悲な官憲を成敗するというものです。イメージとしてはフランスを舞台にした桃太郎侍といった趣です。しかもシモーヌが実は王妃マリー・アントワネットの異母妹という設定になっているため、暴れん坊将軍という見方もできます。ただこれだけだと「ふ~ん」という感じになるんですが、物語は後半フランス革命が始まると俄然様相が変わってきます。単なる勧善懲悪の時代劇ではなく、歴史の流れに翻弄される人々の姿が赤裸々に描かれていきます(それは主人公のシモーヌも例外ではない)。この後半部分がラ・セーヌの星が素晴らしい作品と言われるゆえんで、私を含めこの作品でフランス革命の流れを学んだという人は多いと思われます。革命が先鋭化して当初は虐げられる側だった民衆が最後、王妃の子供たちを虐待しようとするに至ると、そうした民衆に対して剣を振るいます。この時「ラ・セーヌの星はわれわれ民衆の味方じゃないのか」という人々に対して、「ラ・セーヌの星は弱いものの見方です」と毅然と答える場面はこの作品を象徴する場面だと思います。

 後年このラ・セーヌの星の後半部分を監督したのが富野由悠季(当時は富野喜幸)だと知ったとき、「そりゃぁ、盛り上がるはずだ」と納得した思い出があります。そんなラ・セーヌの星、現在UNEXTやFuluなどの配信サービスでは見られないのが残念ですが、youtubeでは時々上がってくるので今回その一部を鑑賞し、改めて凄い作品だったなと感じたのでした。

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2024年4月 9日 (火)

仁淀川周辺の観光

 一夜明け4月9日になりました。前日は雨も混じるいまいちな天気でしたが、この日は朝から抜けるような青空が広がっていました。朝食を食べてホテルをチェックアウト、そのまま歩いて高知城に向かいます。関ヶ原の戦いの論功行賞で土佐一国を与えられた山内一豊によって作られた城郭です。最初の日本100名城にも含まれる名城ですが、そちら目的での訪問はすでに2009年に済ませているので今回はまったりとした観光です。

 高知城は全国で12しかない現存天守を持つ城郭ですが、さらにすごいのが本丸が当時のままほぼ保存されているということです。すなわち天守だけではなく本丸御殿や詰門も残されています。内部は資料館的なものになってはいますが、木造のギシギシいう建物を歩くと、本当に昔の城郭に来たなと強く感じるのでした。

Img_1814 Img_1833(左写真1)大手門と天守を一望できるスポット、(右同2)高知城本丸

Img_1868(写真3)仁淀ブルーのにこ淵

 約1時間ほど見学した後は国道33号線を西に向かいさらに194号に折れて北上します。しばらく山の中を走ってこの日2つ目の観光ポイントに到着、仁淀ブルーで知られるにこ淵です。一条の滝と一面ブルーの滝つぼが織りなす絶景スポットとして名高い場所ですが、地元では聖地とされている大切な場所だそうです。年度初めの平日ということもあり、観光客の姿はまばらでしたが、おかげでこの素晴らしい光景をじっくり堪能できました(少なくともナミビアにはこんなブルーはない 笑)。

Img_1884_20240509152601(写真4)つがにそば

 にこ淵の見学の後は近くの道の駅で昼食、この日は当地の名産品(?)のつがにそばをいただきました。つがにというのは当地のモクズガニのことです。自分の業界ではモクズガニといえば寄生虫の中間宿主のイメージが強いのですが、もちろんこれは生で食べるわけではないので大丈夫です。本来はつがに汁の形で食されるようですが、ここではそばやうどんとして提供されていました。毛ガニやタラバガニといった海のカニとは違った微妙な苦みが旨いのでした。

 食事後はそこから15分ほど南に行った場所にある浅尾沈下橋へ。高知県内の河川には、欄干がなく増水時にはあえて水面下に沈めてしまう沈下橋が多くあります。かつてはそれだけ川の増水が頻繁で通常の橋だと流されてしまうことが多かったのだろうと思われます。近年はより高い場所に立派な橋が作られるケースが増えているため、こうした沈下橋の役割は縮小しつつはありますが、今でも多くが生活道路として利用されています。通常の水の時期ならば、徒歩で渡る分には心配ないのですが、自動車で渡る際にはかなり緊張するものがあります(そういえばパラオにもこうしたタイプの橋が結構あって、時々酔っ払い運転の現地人が落っこちるという話を聞いた)。

Img_1889 Img_1891(左写真5)浅尾沈下橋、(右同6)狭い橋です

 恐る恐る沈下橋を渡った後はさらに南下し佐川町へ。ここは昨年の朝ドラの主人公のモデル牧野富太郎博士の出身地です。佐川の地ももちろん土佐藩領の一部ではあるんですが、この地は藩筆頭家老深尾氏が治めていた場所で佐川はその城下町でした。そうした特殊な土地ということもあり、当地出身者には独特のプライドがあるのか、明治維新後結構有名な人物が排出されています。牧野博士もその一人ですが、ほかにも政治家の田中光顕や日本の土木業の基礎を作った広井勇などがいます。街並みなど非常に風情があり、ゆっくりと散策を楽しみました(やっぱりナミビアにはこういう場所はない 笑)。

Img_1897 Img_1901 Img_1903 Img_1910(左上写真7)佐川の街並み、(右上同8)藩校名教館、(左下同9)旧青山文庫、(右下同10)牧野博士の生家

 佐川町の街歩きを終えると後はひたすら西進、四万十川周辺や宿毛などほかにも魅力的な場所はありますが今回はスルー、一気に県境を越えて愛媛県愛南町に入ります。この日は愛南町のホテルにチェックイン、その後地元の居酒屋で夕食としました。

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2024年3月27日 (水)

平泉を歩く

 休暇の第2クールは主に盛岡の実家で過ごしています。岩手時代にお世話になった合唱団(盛岡バッハ・カンタータ・フェライン)の練習にお邪魔したり、ウィントフックに戻る際に持って行きたい物品の購入をしたりしながら過ごしています。とはいえ岩手でぼーっとしているのもつまらないので日帰りで出かけることにしました。

 行き先は平泉です。奥州藤原氏の本拠地として歴史上有名なところです。私も小中学校時代は遠足やフィールドワークで出かけたことがありますが、その後は”近くにいると行かない”の法則に嵌まったのか、まったく行く機会が無いまま云十年経ったという次第です。日本にいた頃は休みは貴重なので、できるだけ普段とは縁遠い遠方ばかりに出かけていたというのも理由です。ただ今回はまとまった休み、しかも実家滞在ということで行ってみようという気分になったのでした。

Img_1464(写真1)中尊寺の入り口

 家から平泉までは90キロくらいあるんですが幸い高速道路が通っているためそれほど時間はかかりません(途中制限速度120キロの区間もある)。インターを出てまずは中尊寺を目指します。平安時代前期に円仁が開山した天台宗の寺院ですが、今に残る姿にしたのは奥州藤原氏初代の清衡です。年度末の平日ということもあるのか駐車場は空いていました。ここから境内に入っていきます。大昔に訪問した際の印象では境内に入るとすぐに金色堂があったような気がしたのですが、実際には金色堂に至るまでに多くの寺院等があり、しかも結構な登り坂が続く構内でした。昔過ぎて記憶が飛んでいるのと、当時は元気で体力もあったので坂道で苦労した記憶が無いせいかもしれません。

Img_1472 Img_1493(左写真2)薬師堂、(右同3)経蔵

 そんな坂道を上った先にようやく金色堂が登場します。とはいえ目の前に見えるのは覆堂で金色堂はその中、さらにガラスケースに守られた中にあります(これは昔からそう)。金色に輝くお堂に加え周囲の装飾が素晴らしく、当時の平泉が京都や鎌倉と対等に渡り合えるだけの勢力だったことを感じます。ただ本来中央の段に並んでいるはずの仏像がありませんでした。これはこの時東京の国立博物館で「中尊寺金色堂」特別展が開催されているため、仏像一式そちらに貸し出されているからでした(まあそれはそれで貴重な経験)。見学後昼食を摂り周辺にある旧覆堂や能楽殿などを見学したのち駐車場に戻りました。

Img_1486 Img_1488 Img_1496_20240427164401 Img_1500(左上写真4)今年は金色堂建立900年とのこと、(右上同5)金色堂の覆堂、(左下同6)旧覆堂、(右下同7)能楽殿

Img_1505(写真8)毛越寺山門

 続いては毛越寺に向かいます。ここも中尊寺と同じく平安初期に円仁によって開山された寺院ですが、その後長らく荒廃していたものを再建したのが奥州藤原氏二代目の基衡でした。ただその後の火災や戦国時代の兵火によって再び荒廃し、江戸時代にはほとんど何もない状態になってしまいました。明治以降発掘調査が行われた結果、基衡時代の遺構がよく遺っていることがわかり、学術的な考証の上に本堂などが再建され、中央の大泉が池などとともに往年の趣を感じさせる景観となっています(本堂の再建が平成元年なので私が昔来た頃には存在しなかった)。

Img_1509 Img_1513(左写真9)本堂、(右同10)大泉が池

 この日はあいにくの天気だったのですが、こうして云十年ぶりに地元の名勝(世界遺産でもある)を訪問出来てよかったなと思ったのでした。

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2024年2月29日 (木)

ロッシーニの誕生日

 今年はうるう年、すなわち約4年に一度2月29日が存在する年です。で、この2月29日生まれの著名人に19世の作曲家G. ロッシーニがいます。彼は1792年のこの日にイタリアのペーザロ市(当時は教皇領)で生まれました。彼の生家は本業ではないものの音楽一家で、彼自身も小さいころから音楽の才能があったようです。18歳で最初のオペラを作曲し、20代で「アルジェのイタリア女」、「セビリアの理髪師」、「チェネレントラ」といった今でも名高い傑作を次々に発表し当時のウィーンで大人気となりました。彼の人気があまりに凄いので、同じ時期ウィーンにいたベートーベンも嫉妬していたとされています。

Rossini1 Rossini2(写真左)晩年のロッシーニ、(同右)若い頃のロッシーニ

 ロッシーニは76年の生涯の中で,作曲として活躍していたのは前半生のみで,37才のときに「ウイリアム・テル」を作曲すると,以後はオペラ作曲の筆を折り,残りの40年は食っちゃ寝の生活をしていたという羨ましい人生を送った人でもあります.尤もまったく作曲をしなかったわけではなく,私的にはいくつかの作品は遺しています(私も好きな小ミサ・ソレムニス)は彼の晩年の作品である).

 ロッシーニの名前は音楽だけではなく、料理の世界にも残っていますが、残念ながらナミビアにはフランス料理店と呼べる店がなく、今は〇△のロッシーニ風という料理には縁がないのが寂しいところです。

Img_6 Mukaka(写真左)牛フィレ肉のロッシーニ風、(同右)無花果のロッシーニ風

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2024年1月 4日 (木)

今年は何の記念イヤー?

 2024年になって数日たちましたが、当ブログ恒例の「今年は何の記念イヤー?」です。

① 甲子園球場竣工100年

 春や夏の高校野球大会が開催される球場、あるいは昨年久しぶりに日本一になった阪神タイガースの本本拠地が阪神甲子園球場です。今年はその球場が竣工して100年なのだそうです。今年もタイガースの活躍はあるのでしょうか?

② ベートーベン交響曲第9番初演200年

 日本では年末になると、なぜか各地で演奏されるのがベートーベンの交響曲第9番です(「合唱付き」などとも呼ばれる)。実はその第九が初演されたのが1824年5月7日のウィーンでした。今年は初演200年の記念イヤーです。

③ バッハのヨハネ受難曲初演300年

 後期バロック音楽を代表する作曲家がJ.S.バッハです。数多くの器楽曲なども作曲していますが、そのメインは教会音楽です。特にバッハの4大宗教曲として知られるのが、マタイ受難曲、ロ短調ミサ曲、ヨハネ受難曲、クリスマス・オラトリオです。このうちヨハネ受難曲が初演されたのが1724年4月7日(金)でした。

④ ドイツ農民戦争500年

 16世紀のドイツは軍事技術の発展による騎士階級の没落やルターによる宗教改革など社会の変革期でした。そうした時代背景の中で発生したのが農民の大反乱で、これをドイツ農民戦争と呼びます(日本だと江戸時代の百姓一揆を連想しますが、ドイツの方がはるかに規模が大きいので戦争という呼称なのでしょう)。この事件が起こったのが今から500年前の1524年です。

⑤ 永楽帝崩御600年

 14世紀後半に朱元璋(洪武帝)によって建国された明の最初の首都は南京でした。しかし洪武帝の死後、跡を継いだ建文帝が同族の王たちを排除するようになると、危機感を抱いた健文帝の叔父朱棣は反乱を起こし帝位を簒奪するとともに都を北京に移します。これが永楽帝で彼の時代に明の基礎が確立しました。今年はその永楽帝没後600年です。

⑥ 正中の変700年

 鎌倉時代末期、後醍醐天皇とその腹心たちが倒幕計画を立てたものの事前に露呈し失敗した事件が正中の変です。首謀者が後醍醐天皇であることは周知の事実でしたが幕府側があまり事を荒立てないようにしたかったのか、天皇の罪は問われませんでした。しかし後醍醐はこの後も倒幕計画を継続し、9年後についに成功します。今年はそんな鎌倉幕府滅亡の始まりとなった事件の700年記念です。

⑦ 北条義時没後800年

 一昨年の大河ドラマの主人公にして、鎌倉幕府第2代執権が北条義時です。彼の時代に幕府は将軍を中心とする組織から、北条得宗家を中心とする組織へと変わりました。そんな北条義時が亡くなったのが1224年(元仁元年)のことです。

⑧ 中尊寺金色堂建立900年

 奥州藤原氏の栄華を今に伝えるのが、平泉町中尊寺にある金色堂です。実際の金色堂は風雪からの保護のために鞘堂と呼ばれる建物の中にあり、さらには周囲をガラスケースで覆われるなど感動は今一つです(笑)。ただし、近くにある歴史公園奥州藤原の郷には実寸大のレプリカが展示されており、日に当たって輝くさまは感動的です。そんな金色堂は1124年(天治元年)藤原清衡によって建てられました。

⑨ ローマ憲法制定1200年

 このローマ憲法というのはビザンチン皇帝ユスティニアヌスによるローマ法大全とは別のもので、800年にカール大帝が西ローマ皇帝として戴冠を受けた後、皇帝と教会、諸侯の関係を定めた法律になります。今年はこれが制定されて1200年の年です。

⑩ 聖武天皇即位1300年

 奈良時代を代表する天皇が聖武天皇です。ただ彼の時代は長屋王の変や天然痘の流行、藤原広嗣の乱といった社会不安が広がっていた時代でもあり、それに対応するために仏教に帰依し東大寺の大仏も作られています。

⑪ 武則天生誕1400年

 中国史上唯一の女帝である武則天、唐第3代皇帝高宗の皇后でしたが病気がちだった皇帝に代わって政治の実権を握り、690年ついに自ら皇帝の位についたものです。彼女の治世には皇族や反対勢力の粛清など血なまぐさい事件も多かったのですが、自身が貴族階級からの支持を得られないという自覚があったため、身分が低くても有能な官僚を登用、政権はむしろ安定したといわれます。

⑫ コンスタンティヌス大帝統一1700年

 ローマ帝国は3世紀のディオクレティアヌス帝以降、広くなりすぎた帝国を効率よく統治するため正帝、副帝複数の支配者による分割統治が行われるようになりました。そして4世紀初頭には西のコンスタンティヌスと東のリキニウスによって統治されていたが、両者の対立が深まり戦いとなります。そして今から1700年前の324年に戦いに勝利したコンスタンティヌスにより帝国は久しぶりに単独皇帝の支配になったのです。

⑬ パルティア王国滅亡1800年

 紀元前3世紀半ばに中央アジアに起こり、今のイランやイラク方面に勢力を拡大していった国がパルティア王国です。西部国境では当初はアレキサンダーの後継国家であるセレウコス朝シリアと、その後はローマ帝国と接しシリアやメソポタミアの支配権をめぐって何度も戦いを繰り広げました。その中で徐々に国力をすり減らし、224年に新興国ササン朝ペルシャによって滅ぼされました。

⑭ ストラボン没後2000年

 紀元前後に活躍した著名な地理学者がストラボンです。彼は主に初代ローマ皇帝アウグストゥスの時代に地中海およびその周辺を旅し、後に「地理誌」という書物を書きました。この本には地中海世界の地図も描かれていて、この時代としてはかなり正確なものでした。そんなストラボンが亡くなったのが今から2000年前のことです。

⑮ デロス同盟結成2500年

 ペルシャ戦争はアテネやスパルタの奮戦によってペルシャが退却したため一応終結しました。しかしペルシャが再び来襲する可能性は高くそのための備えが必要と考えられました。戦後アテネとスパルタの対立を受け、アテネを中心としたポリス連合としてデロス同盟が結成されました。それが今から2500年前の紀元前477年のことです。

 こうしてみるといろんな出来事があったようです。個人的にはベートーベンの第九とバッハのヨハネ受難曲が印象深いです。

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2023年5月10日 (水)

広島旅行②~平和記念公園編~

 一夜明け5月7日になりました.一昨日以来の雨も上がり,青空が広がっています.ホテルで朝食を取りましたが,かなり混んでいた昨日と異なり同じ時間帯にも拘らず空いていました.考えてみればこの日はGW明けの月曜日,多くの観光客はすでに日常生活に戻っているわけです(世間の動きとは微妙に行動パターンをずらすのが自分らしい).

 この日の午前中は、まず市内の平和記念公園を目指します.1945年(昭和20年)8月6日に投下された原子爆弾によって広島の街は一瞬にして廃墟になり多くの市民の命が奪われました.その際投下目標とされたのが市内の本川と元安川の分岐部に架かる相生橋です(実際の爆心は橋のやや南東にあった島病院の上空と考えられている).爆心地周辺の建物はほとんど全壊したものの、奇跡的に全壊を免れたのが広島県産業奨励館で,独特のドームを持つことから戦後原爆ドームと呼ばれるようになり,核兵器の恐ろしさを後世に伝えるものとなっています(1995年国の史跡,1996年ユネスコ世界遺産).

Img_09261 Img_09291(左写真1)原爆ドーム,(右同2)元安川から先の相生橋を望む

 徒歩と路面電車を利用して現地へ.やはりGW明けの平日ということで一般観光客の姿は少なく,修学旅行生や外国人観光客の姿が目立ちました.まずは原爆ドームへ,ここに来たのは学生時代以来なので30年は経っているはずです.テレビではあのドームの建物しか見えませんが,実際に現地で見ると敷地内に多くの瓦礫が散らばっているのが分かり,そちらの方がより当時の惨状を思わせるように感じます.

Img_09301 Img_09341(左写真3)慰霊碑,(右同4)平和の鐘

 その後は橋を渡って平和記念公園へ.ここには小グループに分かれた修学旅行生が多かったです.毎年8月6日の記念式典の会場になる場所ですが,青々とした緑が広がる光景は廃墟から復興したこの街の思いを感じさせます.公園の中心にある慰霊碑からは原爆ドームの姿を望むことができました(反対側が平和資料館).様々なことを思いながら頭を垂れた我々でした.

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2023年5月 9日 (火)

広島旅行①~呉編~

 基本的におとなしめのGWを過ごしたビザンチン皇帝ですが,終盤からちょっと本気を出しました(笑).6日のお昼に知人のコンサートを鑑賞した後は直ちに東京駅に移動し,そのまま東海道新幹線に乗車し西に向かいました.行先は広島県です.旅好きの私はもちろん47都道府県すべてに行ったことがあるわけですが,観光の量に関してはかなりの濃淡があります.北海道やかつて住んでいた東北地方はもちろん濃い部類ですが,一方で薄い部分の最上位に来るのが広島県です.もちろん行ったことはあるんですが,例えば同じ中国地方で比較しても,出張でちょくちょく行く岡山は別格として,鳥取・島根・山口と比較しても広島県の訪問頻度はかなり少ないものがあります.県庁所在地の広島市も例外ではなく,最後に訪問したのが2008年10月なのでもう15年前です(新幹線で通過ならしている).そんな本州の都府県で最も訪問濃度の薄い広島県を満喫しようというのが今回の企画です.

 新幹線は快調に西へ,がしかし,新大阪を過ぎたあたりから周囲は雨模様に(まあ天気予報がそうだったから覚悟はしていた).広島駅に着いた時には本格的な雨になっていました.慣れない広島駅でちょっと迷いながら,この日宿泊のホテルにチェックインしました(結局夕食は駅弁で済ませた).

 翌5月7日は朝から活動開始,JR呉線に乗って40分の呉に向かいました.呉といえば軍港,そっち関係に興味がある自分には外せないポイントです.実は訪問頻度の少ない広島県の中でも呉は初訪問なのでした.

Img_09011(写真1)10分の1サイズの戦艦大和

 雨の中到着後まず向かったのは大和ミュージアム,大戦中の日本最大の戦艦大和をはじめ,呉と海軍の博物館です.名物の10分の1サイズの大和の模型のほか,実物の零式艦上戦闘機や特攻兵器として知られる人間魚雷「回天」なども展示されています.普段のほほんと生きている者として気が引き締まる思いがしました.

Img_08401 Img_08301(左写真2)零式艦上戦闘機,(右同3)回天

 一通り見学した後は歩いて10分ほどの場所にある海上自衛隊呉地方総監部の青山門へ.隔週の日曜日に一般公開されている旧海軍関係の施設を見学するためです(事前に申し込みが必要で,希望者が多い場合は抽選).11時から受付が始まり中に入ります.ここでは係員(多分海曹の方)の案内で見学が進みます.まずは旧呉鎮守府庁舎(現海上自衛隊呉地方総監部第1庁舎)です.中央にドームを持つ煉瓦造りの建物は明治40年に竣工したもので,今でも現役で使用されています.我々が向かった青山門方面が正面とされていますが,海に面した側が正面ではないかという議論もあるようです(海に面した側に海岸に降りる急階段がある).

Img_08531(写真4)旧呉鎮守府庁舎

 鎮守府庁舎に続いて,旧海軍電話交換所へ.ここはさすがに現役では使われていないものの,空襲にも耐えられる強度を誇っています.戦中の使用目的はよくわかっていないそうですが,戦後すぐには電話交換所として使用されていたようです.すぐ近くには当地の地下に張めぐされていた地下通路への入口もあります(危険なので立ち入りはできない).全体で1時間ほどの見学でした.

Img_08721 Img_08781(左写真5)電話交換所,(右同6)内部

 その後は市街地に戻り,ハイカラ食堂でランチタイムです.海自&海軍に特化した食堂ですが,この日はもちろん定番の海自カレー(潜水艦そうりゅうのカレー)をいただきました(どうでもいいですがこのお店,一部界隈の人たちが発狂すること間違いなしです 笑).

Img_08991 Img_09001(左写真7)ハイカラ食堂,(右同8)そうりゅうカレー

 ランチ後は再び大和ミュージアムへ(再入場できるのが良い).先ほどはパスした特別展を中心に見学しました.そして14時40分頃にタクシーで呉基地のFバースに向かいます.今度は海上自衛隊の護衛艦の一般公開に参加するためです(午前中の鎮守府と同様隔週の日曜日に事前申込制で開催).この時間帯になると雨脚も強まっていました.雨の中見学開始,この日乗船できる艦艇はATS-4203訓練支援艦てんりゅうでした.全長100メートルのヘリ甲板を持つ艦艇で,対空射撃訓練用の標的機を発射する支援艦です.この日甲板には小型の標的機チャカⅢが展示されていました.ヘリ甲板にも立ち入りできましたが,こんなところでジンギスカンとかやったら楽しそうだなと思いました(100%懲戒処分の対象になりそうですが 笑).その後は他の護衛艦の外観を見学,一部しか見えませんでしたが海自最大の護衛艦である「かが」も停泊していました.

Dsc_2601 Img_09021 Img_09061 Dsc_2614(左上写真9)訓練支援艦てんりゅう,(右上同10)76mm速射砲,(左下同11)標的機チャカⅢ,(右下同12)壮観です

 1時間ちょっとで見学時間は終了,バスで市街地に戻り,この日最後の観光ポイントである,海上自衛隊呉資料館「てつのくじら館」に行きました.ここは海自の大きな任務である「掃海」をテーマにした展示のほか,退役した潜水艦「あきしお」の内部が見学できるのも魅力となっています(なので”てつのくじら”の異名がある).旧海軍が日露戦争の成功体験から艦隊決戦での勝利に力を注ぎすぎたことから,結果として本来日本の生命線であるはずのシーレーン防衛がおざなりにされ,結果大戦後半にはアメリカ軍によるシーレーンの破壊によって,日本は経済的に干上がってしまい戦争継続が不可能になりました.その反省から戦後の海上自衛隊は海上の安全確保を主要任務とし,掃海もその一環として最重要視されているのでした(朝鮮戦争に日本は基本的に参加していませんが,実はGHQの要請により当時の海上保安庁が掃海活動に当たっており殉職者も出ている).

Img_09141(写真13)潜水艦の野外展示

 掃海展示の後はいよいよ潜水艦の見学の時間,昔読んだ本で旧海軍の潜水艦の居住性は最悪だったとありましたが,あきしおは戦後の艦艇なので,それなりに居住性のも考慮が払われているようでした(とはいっても,この中で何週間も作戦行動をとるというのは,訓練以上に個人の適性が重要だろうなと感じた).

 資料館の見学でこの日の呉観光は終了,JR線で広島に戻り駅ビル内の店で広島の牡蠣を堪能したのでした.

Img_09231 Img_09241(写真14,15)広島の牡蠣(もちろん生)

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2023年1月16日 (月)

紀元

 今日は1月16日、Wikipediaによると紀元前27年のこの日に古代ローマが共和政から帝政に移行したとあります.紀元前27年1月16日に約100年に渡る共和政末期の混乱を終結させたオクタヴィアヌスに対してローマの元老院がアウグストゥスの称号を贈りました.当時すでにコンスル,プロコンスルとして政治軍事両面での権力を握っていた彼に対して元老院が特別な名称を与えて権威付けしたことから,この時からローマは帝政に移行したとみなされています.ただ当時はまだ共和政を望む人々の影響力も無視できず,事実上皇帝ではあってもあくまでも市民の第一人者(プリンケプス)という体裁を取ったところに特徴があります(元首政).これが一般にイメージされるような帝政の姿になったのは3世紀のディオクレティアヌスの時代以降です(専制君主政).

Caesar_augustus(写真)執政官(コンスル)のアウグストゥス 

 このローマが共和政から帝政に移行した時期に登場したのがキリスト教です.後にヨーロッパがキリスト教世界に入ると,イエス・キリストが生まれた年を紀元1年とする暦が作られました.これがいま私たちが使っている西暦です(ただしイエスの生年に関しては今の紀元1年ではなく,それよりも数年前の紀元前4年ごろとされる).

 一方紀元1年よりも前の時代については紀元前という言葉が付され,一般にはBC(Before Christの略)の語句が用いられます(紀元後はAnno Dominiの略ADとなるがこちらは省略されることが多い).紀元と紀元前の関係というと数学における自然数と負の数との関係が連想されますが,暦には0年という概念がないため,紀元1年の前年は紀元0年ではなく紀元前1年になります.このため紀元10年の20年前は紀元前10年ではなく紀元前11年になるなど計算に注意する必要があります.

 紀元の概念は後付けなので,この前後で何かが大きく変わったというようなことは無いはずですが,キリスト教のお膝元である地中海世界ではローマが共和政から帝政に変わりました.一方で東アジアに目をやると前漢(紀元前202年~8年)から後漢(25年~220年)に変わっていく時期と符合します.偶然とはいえ非常に感慨深いものがあります.ちなみに紀元前後に活躍した世界史上の著名人としては前漢を簒奪して滅ぼした王莽がいます.彼は一時中央を追われていたものの,紀元前1年に哀帝の崩御によって復権し,翌1年に平帝の太傅となって権力を握っています.

Wang_mang(写真)紀元前後に活躍した前漢の外戚王莽

 そんなことを考えた1月16日でした.

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