2017年8月16日 (水)

インパール作戦

 昨日はいわゆる終戦の日,72年前に日本がポツダム宣言を受諾した日であった(ただし国際法的には日本政府の代表が降伏文書に調印した9月2日が本当の終戦の日である).

 毎年この季節になるとテレビなどでも戦争関係の話題が出てくる.で,私が毎年注目しているのがこの日のNHKの特番,なぜならおそらく彼らが最も力を入れたいテーマがその日に来るだろうからだ.そんなNHKの今年の話題はインパール作戦だった.

 インパール作戦は戦史に興味のある方ならば知っている人も多いであろう有名な作戦である.1944年(昭和19年)3月に当時のビルマ(現ミャンマー)に展開していた日本陸軍の第15軍の3個師団が,そのころ連合国が中華民国の蒋介石政府を支援するために使用したルート,いわゆる援蒋ルートを遮断するために,ビルマとインドの国境を突破してインド側にあるイギリスの拠点インパールを攻略しようとした作戦である.作戦の概要はまず第31師団(烈兵団)が国境を越えてインパール北部にあるコヒマを占領し,インパールを孤立させる.それと前後して第33師団(弓兵団)が南から,第15師団(祭兵団)が東からインパールに迫り攻略するというものだ.

Img154 (図 高木俊朗著「インパール」より引用)

 概要だけ聞くと,なるほどと思えるのだが,問題はその実態である.まずミャンマーとインドの国境には乾季でも川幅300メートルものチンドウィン川がある.もちろん橋なんかない.当時すでに制空権は連合軍側に握られていたため,渡河は夜間に限られた.そしてそこを越えると標高2000メートル級のアラカン山系がそびえたつ.南方から向かう弓兵団方面にはまだ道があったが(なのでここに戦車や重砲も配属された),祭兵団,烈兵団正面には道らしい道はなく,兵士は60キロもの装備品を担いでの登山同様の行軍を強いられた.そんな行軍環境であるからこの2個師団が持っていける武器も各自の小銃や手榴弾に機関銃,擲弾筒程度で,大砲については比較的小型で分解可能な歩兵砲が少数あるだけだった.もちろんそんな道路事情であるから,食料や弾薬等の補給は絶望的である.

 このように作戦は補給のめどが全く立たず,軽装備の部隊が重装備で待ち構える敵陣地を攻撃する形が予想されたため,軍内部でも反対意見が多かった.しかし作戦を実施する当事者である第15軍司令官の牟田口中将が実施を強く主張,上級部隊であるビルマ方面軍司令官や南方総軍総司令官,さらには大本営もこれを支持し,反対する参謀(第15軍参謀長の小畑少将や南方総軍総参謀副長の稲田少将ら)を左遷したため,結局作戦は決行されることになった.この時作戦認可を渋る大本営の真田穣一郎作戦部長に対して杉山参謀総長が「寺内さん(南方総軍総司令官)たっての頼みだからやらせてやってくれ」と言ったとされ,この意思決定プロセスが情緒的であると批判されている.確かにその通りなのだが,実際には当時日本政府が支援していた自由インド仮政府主席チャンドラ・ボースの影響などもあり事情は簡単ではない.

 3月上旬に始まった作戦はイギリス軍が国境付近での衝突を避けたこともあり,緒戦は見かけ上日本軍が進撃する形になった.特に烈兵団方面では,イギリス側がこんな道もない山を越えて師団規模の大軍がやって来ることを想定していなかったこともあり,同兵団は戦略目標であるコヒマの確保に成功する.コヒマを抑えたことで北からインパールに向かう道路は遮断され,予定通りインパールは孤立する形になった.南からは弓兵団,東からは祭兵団が迫っている.見かけ上インパールは包囲された.ここまでは日本軍の作戦通りである.

 通常なら包囲された軍は士気が下がる.援軍が期待できず殲滅されてしまう恐れがあるからだ.しかしインパールのイギリス軍はそうはならなかった.彼らは飛行機を使って空から補給を続けた.一方で包囲しているはずの日本軍は補給がなく戦力は漸減する一方だった.前線の部隊からは補給を求める電文がしきりに飛んだが,後方の軍司令部は何の手も打たなかった(打たなかったというか打てなかったのが正解だが).皮肉なことにイギリス軍の空中補給物資が風向きで日本軍陣地に流されてくることがあり,こうした物資を日本兵はチャーチル給与と呼んで歓迎した.日が経つにつれて包囲されたイギリス軍の戦力が充実し,逆に包囲する日本軍の戦力が枯渇していった.軍司令部からはただ攻撃命令だけが届いたが,そんな戦力差であるから攻撃が成功することはなく,いたずらに犠牲が増えるばかりであった.

 実は日本軍はこのインパール作戦のちょっと前に同様のパターンで痛い目にあっている.それが同年2月にビルマ南西部で起こった第二次アキャブ会戦である.第二次とあるのはそのさらに1年前(1943年)に第一次アキャブ会戦があったからだ.第一次アキャプ戦はビルマ方面におけるイギリス軍最初の反攻作戦だったが,日本軍がイギリス軍を包囲殲滅し返り討ちにしている.その1年後にほぼ同じ場所で起こったのが第二次アキャブ戦である.この時も前回同様日本軍はイギリス軍の主力を包囲することに成功し勝利は確実と思われたが,結果は第一次と同じようにはならなかった.包囲されたイギリス軍は空から物資や兵員を補給して抵抗したからだ.戦況は包囲したはずの日本軍がジリ貧になり,退却を余儀なくされることになってしまったのである.インパール作戦の展開はこの第二次アキャブ戦をより大規模にしたようなものであった.

 インパールを目前にして諸兵団が苦戦しているうちに雨季がやって来た.当地の雨季はすさまじい.日本の夕立がひたすら続くようなイメージである.軽装備の日本軍はたちまち身動きが取れなくなった.さらにはマラリアやアメーバ赤痢といった感染症も兵士たちを苦しめる.5月末に至りもはや勝機がないのは誰の目にも明らかとなった.インパールの北部を抑えていた烈兵団の佐藤幸徳中将は味方の惨状と状況を理解せず無茶な命令を繰り返す軍に対し,師団の独断退却を決行する.師団長という親補職(天皇直々に任命される役職,文官でいえば大臣や帝国大学総長並み)にあるものが公然と軍命に背くのは過去に例のない異常事態である.烈兵団の独断退却により,残された祭・弓両兵団の崩壊は決定的となった.そんな中,6月5日に第15軍司令官牟田口中将とビルマ方面軍司令官河辺中将の会談が行われたが,両者とも作戦の中止を言い出した方が責任を取らされると思ったのか,作戦の可否が議題にあがることはなかった.

 結局インパール作戦は7月に入りビルマ方面軍から上級司令部への具申によってようやく中止が決まった.以後前線に展開した各部隊の撤退が始まったが,それは進撃時の何倍もの苦難を伴うものだった.各部隊はイギリス軍の追撃を受けながらビルマを目指して退却したが,数か月の過酷な戦闘で衰弱しきった兵士には耐えられるものではなく,行き倒れるものが続出した.この日本軍の退却路には倒れた日本兵の遺体が並び,白骨街道などと呼ばれた.結局全軍の撤退が完了したのは同年暮れのことであった.

 戦後インパール作戦は「史上最悪の作戦」と称されるほど悪い意味で有名な戦いとなった.この作戦には軍人や兵士だけではなく,従軍記者も多数参加していたこともあり,戦後たくさんの戦記や研究書が発表されることになった.古くは服部卓四郎(当時の大本営作戦課長)による「戦史叢書」や軍事評論家伊藤正徳による「帝国陸軍の最後3死闘編」,高木俊朗の「インパール」他一連の著作などが有名だ.1980年代以降も続々と新しいものが発表されており,それは今も続いている.現在ではインパール作戦そのものに関しては,当時の戦況全般から鑑みて必要のない作戦だったというのが定説になっている.一方で,作戦の決定プロセスや中止が遅れたこと,作戦の失敗後に関係者が誰も責任を取っていないことなどに注目し,ここに悪しき日本の組織論が見られるという主張もしばしば取り上げられている.戸部良一らによる「失敗の本質」や1990年代にNHKで放送された特番の書籍化である「太平洋戦争日本の敗因4 責任なき戦場 インパール」などである.

Img153 Myambon3  昔から戦史に興味があった自分もこの作戦には非常に興味があり,いろんな本を読んできた.今回のNHKの特番がどういうものになるのか非常に興味深かったが,特に新しい解釈といえるものはなく,内容的には正直期待外れだったというのが率直な感想である(牟田口中将のお孫さんが出てきたのは驚きだったが).ただ,以前のNHKの特番からすでに20年経過していることを思えば,若い人たちにこういう戦いがあったという歴史を伝える意味はあったのかなとは思った.

 ちなみにインパール作戦に参加したのは3個師団であるが,従来の戦記物などではこのうち北の第31師団と南の第33師団を扱ったものが圧倒的に多くい.これは第33師団については作戦正面と位置づけられ,戦車や重砲も多数配備されたことから激しい戦闘が多く,記者もたくさん従軍していて彼らによる記事も多いこと,第31師団に関してはなんといっても歴史に残る抗命事件(師団長が軍命令に背いて独断で師団を退却させたこと)の当事者であること,暗い話題ばかりの同作戦中唯一,戦術的にも人間的にも優れた指揮官といわれ人気の高い宮崎繁三郎少将(当時第31歩兵団長,インパール作戦関係の将官としては牟田口中将と対極に位置する人物といわれることが多い)が所属し活躍した部隊だったためと思われる.この両師団に対して中間にいた第15師団を扱った作品は極めて少ない.高木俊朗氏の一連の作品でもこの師団を扱った作品「憤死」はシリーズでも最後の方であり,他作品と違って電子図書化もされていない.第15師団は3個師団中最も貧弱な装備で作戦に投入され,多くの犠牲者をだした悲劇の部隊なのだが,今回のNHKの特番でも見事に無視されていたのが感慨深かった.

 そんなことを考えた今年の終戦記念日特番だった.

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2017年7月16日 (日)

シスマ

 連日本当に梅雨なのかという暑く晴れ渡る日が続いていましたが,今日はやや曇った一日になっています(とはいえ暑いことに変わりはないですが 💦).職場のあじさいも連日の暑さですべて干からびてしまったかと思ってたんですが,まだ元気に咲いている株もありました.

Img_3156  さて今日は7月16日,10年前のちょうどこの日新潟県中越沖地震があった日です.このブログのバックナンバーを探したら当日の記事もありました(地震と雷 こうしてあらためて昔の記事を見ると今よりもよっぽど充実しているな).

 先日は九州の方で豪雨による水害がありましたが,日本は昔から災害の多い国です.2007年の中越沖地震後だけでも,2011年の東日本大震災,2014年の御岳山の噴火,昨年春の熊本の地震のほか,2015年&2016年夏には東日本を中心に台風による水害があったのは記憶に新しところです.こうした災害多発地帯に住んでいるがゆえに,たとえ災害があっても助け合い,落ち着いて行動する国民性が形成されたとも言えます(日本で大きな災害が起こるたびに,外国ではよくある略奪や暴動系の事件がほとんど起こらないことは海外メディアが驚くところです).災害は忘れた頃にやって来るというのはまさにその通りです.この機会に自宅の防災用品等のチェックを行いたいと思いました.

 で,本日のブログのタイトルであるシスマ,これはラテン語で分裂という意味です.一般名詞ではあるんですが,特に日本の学術の世界ではキリスト教会の分裂の意味で使われます.キリスト教の歴史はまさに分裂の歴史であるわけですが,その中でももっとも大きいのが中世におけるローマカトリック教会と東方正教会の分裂です.この分裂劇そのものは数百年かけて徐々に進行したわけですが,それを象徴するような事件が1054年7月6日に起こりました.

Istanbul1_233  当時のキリスト教会の中心地は西方のローマと東方のコンスタンティノープルでした.ローマはもちろんローマ教皇庁のあるところですが,一方のコンスタンティノープルは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の都です.一応聖職者としての格ではローマ教皇の方がコンスタンティノープル総主教よりも上なんですが,ローマ皇帝とい大君主をバックに持つコンスタンティノープル総主教の権勢も大きく,特に7世以降教義などの点から両者の対立は大きなものとなっていました.

 こうした状況を打開するためにローマ教皇から使節として枢機卿フンベルトがコンスタンティノープルに派遣されていました.しかしながら政治的な思惑もあってコンスタンティノープル総主教のミハイル1世はなかなか使節に会おうとはしませんでした.1054年7月16日こうした総主教側の対応に怒ったフンベルトは,ミハイル1世の破門状を当時総主教座が置かれていた聖ソフィア大聖堂の宝座に叩きつけて立ち去ったのです.これに対して総主教側も相手を破門し両者の対立は決定的になりました.

 これが世界史上シスマと呼ばれる事件です.書籍によってはローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が相互に破門し合ったと書かれているものもありますが,前述のようにローマカトリック側の当事者は枢機卿フンベルトです.しかもこの時彼を使節として派遣した教皇レオ9世はすでに亡くなっていたので,総主教の破門が教皇の意志だったのかは不透明です(激怒した枢機卿の個人的な行動ともとれます).また総主教側が破門した相手はあくまでもフンベルト枢機卿(とその従者)であり,ローマ教皇は含まれていません.

Isutanbul2_156  というわけで,この日をもって東西教会が正式に分裂したというわけではなく,あくまでも象徴的な事件の日として記憶されているのでした.ちなみにフンベルトが破門状を叩きつけた宝座は大聖堂の至聖所という本来は聖職者しか立ち入ることのできない場所にあるわけですが,聖ソフィア大聖堂は現在無宗教施設であるアヤソフィア博物館となっているため,今は誰でも立ち入ることができます(ドームの一番奥,今はミフラーブがあるあたりです).

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2017年7月14日 (金)

巴里祭

 久しぶりの更新となりました.7月に入ってから先週は恒例の家族旅行に出かけていたりいろいろ活動していました(旅行の話題は後日こちらにアップします).

 さて,暑い日が続いています.九州北部では豪雨で大きな被害がでているところもあるわけですが,当地はまだ梅雨が明けていないというのが信じられないような夏本番の日が続いています.

Degpesuqaabiljpg_large  (写真1) 職場のアサガオもお疲れモードです(笑)

 さて今日は7月14日はフランスの革命記念日です.1789年のこの日,折からの不景気等による生活苦から不満を募らせた民衆がパリのバスチーユ牢獄を襲撃,この暴動が全国に波及することでフランス革命が始まったとされています.このため同国ではこの日は祝日とされ,市内では様々な行事が行われています.

Paris59 (写真2) パリの目抜き通りシャンゼリゼ通り(2008年3月訪問時)

 フランスという国は独特の文化や風土のある国です.日本から見ると欧米諸国,西ヨーロッパ諸国と一緒くたにされたイメージがありますが,政治的には現代のグローバリゼーションの中心にある米英とは常に一線を画した行動をとっています.文化的にも禁欲的なプロテスタントのイメージがある(特にアメリカ)とちがい,たとえば以前話題になった風刺画文化など,時にはちょっと??なことも平気で行ったりします.食事関しても,お世辞にも質素&ジャンクなイメージでお世辞にも美味といいにくい(笑)米英とはきわめて対照的にフランスの食は洗練されています.

 このような現代に続くフランス人のアイデンティティの原点となったのがフランス革命なのです.

Img_0  この革命記念日をテーマにしたフランス映画がQuatorze Juillet で意味はそのまま7月14日です.これはルネ・クレール監督によって1933年に作られた作品で,特に革命をテーマにしているわけではなく,1930年代のこの日に繰り広げられた庶民の恋愛劇です.,日本では巴里祭という題で公開され人気を博しました.



 自分も学生時代ある年の7月14日にレンタルビデオ店でこの作品を借りてきて,観たのを覚えています.

 そんなことを思い出した2017年7月14日でした.

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2017年5月15日 (月)

第20回ひの新選組まつりに参加してきました!

Img153  5月14日に東京の日野市で開催された第20回ひの新選組まつり隊士パレードに参加してきました.2006年の第9回以来毎年参加しているこのお祭り,お祭り自体は土日の2日間開催なんですが,近年は所要が被るケースも多いこともあり日曜日のパレードのみの参加が多くなっています(今年も前日は同窓会の総会だった).

 以前からここでも書いているんですが,今年自分に与えられた役柄は,長州藩士高杉晋作です.

 ある意味新選組まつりと対極に位置する人物なんですが,同じく長州の桂小五郎,土佐の坂本龍馬や薩摩の西郷吉之助と共に,新選組と同時代の人々(以前の名称は新選組と出会った人々)枠の定番となっています.

 で,パレードに参加した感想

 アウェイ感がハンパない ( ;∀;)

 いやぁ,新選組,新選組,会津,会津,新選組とそれに歓声を上げるお客さんの中を行進する長州藩士… 完全アウェイってこういうのをいうんだろうと実感しました💦.元々自分自身が佐幕派で会津&新選組びいきなこともあって,沿道の誠の旗や会津の旗はまともに見られませんでした ( ;∀;).ホント強烈です(笑).

 同時代枠での参加は4回目ですが,かつて扮した松本良順(幕医),井上松五郎(井上源三郎さんの兄)は完全に幕府方の人物だし,昨年の清河八郎(庄内藩)も尊攘派とはいえ,出身は東北の庄内で,しかも新選組の前身浪士組のプロデューサーということもありそれほど違和感はなかったんですが,今年は徹頭徹尾反幕的行動を取っていた革命家の高杉晋作のアウェイっぷりは突出していました.

 とはいえ,そんなことでめげるビザンチン皇帝ではありません.今回は高杉といえばこれだろう!というアイテム,三味線を持参して爪弾きながらパレードに臨みました.詳細は後日,いつ完成するか不明なレポ(まだ第13回,第15回,第19回が未完)になりますが,同じ枠の方々が個性的で素晴らしい方々ばかりだったこともあり,楽しい一日でした.

P5140798 P5140023 (左写真2) 功山寺決起! (右同3) ひのパレのレジェンド神楽教授と

P5140019 C_ywir9uwaejcfvjpg_large (左写真4) 今年のミスター&局長とちゃっかり記念撮影(きゃぁ~撃たないで 笑),(右同5) 沖田総司とのネタ写「労咳コンビ」

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2017年5月11日 (木)

記念の日

 今日は5月11日,実は当ブログにとっては非常に大切な日である.

 まずは,ブログ名にもなっているビザンチン帝国の都コンスタンティノープル(現イスタンブール)の開都記念日であることだ.古代ローマ帝国の都はもちろんローマ市だったわけだが,3世紀以降産業の衰退が激しく,街には無産市民や無能な元老院が跋扈しているありさまで,まともな政治が行える環境ではなくなっていた(それどころか下手にこの街にいると政争に巻き込まれて殺される恐れもあり,まともな皇帝はローマに寄り付こうとはしなくなった).一方でこの頃から東方に勃興してきた大国(パルチア王国,ササン朝ペルシャ帝国)に対応するためにも,ローマよりももっと東側に新しい都が望まれていた.

 この時に白羽の矢が立ったのが,ビザンチウム(ビザンチオン)と呼ばれるバルカン半島の南東部,ボスポラス海峡に面した港町である.この街は金角湾という良港を備えるほか,3方を海に囲まれた要害の地でもあり,東方ににらみを利かせる新首都として相応しいと考えられたのからある.折しもディオクレティアヌス帝亡き後の後継者争いに勝利したコンスタンティヌス1世が正式にこの街を新首都とし,その開都式を行ったのが330年5月11日なのである.

Isutanbul22_015 Istanbul1_233 (左写真1) 幼子と聖母マリアに捧げものをするコンスタンティヌス1世(右)とユスティニアヌス1世(左),(右同2) イスタンブールの象徴アヤ・ソフィア(聖ソフィア大聖堂) ともに2009年9月訪問

 続いては同じくビザンチン帝国の話題.ローマ帝国は395年のテオドシウス帝の死後完全に東西に分裂したが,西の帝国の衰退は激しく476年に滅亡する.その旧領はゲルマン人諸部族が群雄割拠する土地となったが,その失われた領土を回復したのが6世紀のビザンチン皇帝ユスティニアヌス1世である.彼の時代帝国は領土的な最盛期を現出した(ただし経済面を含めた全盛期は10世紀末~11世紀初頭のマケドニア朝といわれる).そんなユスティニアヌスが生まれたのが483年5月11日のことである.

 そして3つ目は新選組関係の話題,近藤勇や沖田総司とともに新選組でもっとも有名な人物の1人である土方歳三が函館で戦死した日である.慶応四年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争は,その後の上野戦争や会津戦争等を経て,翌明治二年の箱館戦争に至る.この間新選組は佐幕派勢力として常に闘い続けてきたが,土方歳三もまた彼らとともに戦いこの箱館までやってきていた.しかしながら新政府軍の攻勢の前に形勢不利となり,5月11日一本木関門付近の戦いにて戦死したとされている(弁天台場に立てこもっていた新選組は5月14日に,五稜郭の本隊は5月18日に降伏した).

Hiji3 Hiji2 (左写真3) 現在の一本木関門,(右同4) 同地にある土方歳三の碑(ともに2007年4月訪問)

 このように5月11日はビザンチン帝国と新選組を愛好する当ブログにとって非常に重要な日なのである.

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2017年3月12日 (日)

第20回ひの新選組まつり参加通知

 この週末は仙台での祈りのコンサート等で走り回っていたんですが,その間に自宅のポストに1枚のハガキが届いていました.そう,5月に開催されるひの新選組まつりの参加通知です.

 2006年の第9回からほぼフル参加しているお祭りです(震災で中止になった2011年5月の代替で同年秋にひっそりと開催された第14回除く).当初はコンテストから参加がデフォだったんですが,震災を挟んだ心境の変化に加えて,世代交代が進んでいること,当初一緒に参加していた仲間たちの大半が卒業してしまったことなどからコンテストへの情熱も失われてしまい,近年はパレードのみの参加,特にここ数年は衣装持ち込みの本隊参加と新選組と出会った人々枠での参加が半々程度という感じになっています.

 今年に関して言えば,参加したいという思いは相変わらずなんですが,前日に同窓会が入ることが確定している都合もあり,自前衣裳を持って移動するのは面倒なので,準備の不要な出会った人々枠で申し込んでいました.例年だとこの枠は,当初募集されている役柄とお祭り当日に登場する役柄が違っているなど,そのファジーさも楽しかったりするんですが,今年に関して言えば,希望する役柄に対する思いをアピールする欄が用意するなど,単なるオマケとはいえない感じになっていました.

 ただ自分的には何が何でもこの役を!というほどのものはなかったこともあり,特に希望はなしで申し込んでいました.そんな私に与えられた役は…

Img_2949  高杉晋作 ( ゚Д゚)

Takasugisugata  長州藩,バリバリの倒幕派です.

 南部藩出身,会津・新選組びいきの自分が長州とは… (^^;).たしかに昨年は尊王攘夷派の清河八郎をやりましたが,彼は新選組の前身浪士組の創設者であり東北の庄内藩出身,一方の高杉晋作は生粋の長州藩士です.かつて「新選組 in 長州」なんていうイベントをやって遊んでいた自分が,長州藩の代表的人物になるとは想像もしていませんでしたが,これもなにかの縁,頑張ってみたいと思います(まあ政治色が強い桂小五郎や薩摩の大久保一蔵よりは抵抗が少ないか 笑).参加さらる皆様今年もよろしくお願いします.

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2017年1月 5日 (木)

今年は何の記念イヤー?

 正月三が日もあっという間に終わってしまい,昨日からすでに日常が始まっています.とはいえ,すぐに日常のネタに戻るのも面白くないので,今日は今年記念イヤーとなる出来事を探してみることにします.

① ロシア革命100年 

Russian_revolution_of_1917  ロシア革命が起こったのが今から100年前の1917年のことである.当時は第一次世界大戦の最中で,相次ぐ敗戦と食糧不足に不満を抱いた民衆のデモやストライキが頻発,これに軍の反乱が加わって革命に至った(2月革命).ただこれによって成立した臨時政府は戦争継続の方針だったために,やがてレーニンによる10月革命に至り,世界初の社会主義国家ソビエト連邦が成立した.

② 江戸町奉行大岡越前誕生300年 

Ohokatadasuke_2  時代劇「大岡越前」で知られる大岡忠相が江戸町奉行(南町奉行)に任命されたのが1717年(享保二年)のことである.以後八代将軍徳川吉宗の享保の改革で活躍,元文元年(1736年)に寺社奉行に転任した(同じ奉行という名前だが,旗本が就く町奉行と異なり,寺社奉行は大名が就く役職でありこれは栄転である).

③ 宗教改革500年 

Augsburgerreichstag  今年最大の記念日はこれかもしれない.マルチン・ルターが当時のカトリック教会を批判してヴィッテンベルクの教会に95か条の論題を掲げたことから宗教改革が始まり,現在あるプロテスタント諸教会の先駆けとなった事件が発生したのが今から500年前のことである.

④ シスマ(教会大分裂)収束600年 

Palaisdespapes116475_960_720  もう一つキリスト教関係の話題.14世紀の後半(1378年)にローマで教皇位についたウルバヌス6世に対して,主としてフランス人の枢機卿たちが反発してアヴィニヨンにクレメンス7世が立ち,2人の教皇が対立する事態となった.これが教会大分裂(シスマ)と呼ばれるものだが,それが終息したのが今から600年前のことである.

⑤ 藤原頼道摂政就任1000年

800pxfujiwara_yorimichi  もっともキリがいい記念イヤーがこちら.父藤原道長とともに平安中期の摂関政治の全盛期を担った頼道が摂政に任命されてちょうど1000年です.彼は同じ年に藤原氏の氏長者にも任命されているが,父道長が健在であり,あくまでもその後見を受けた存在であった(徳川家康存命中の2代将軍秀忠みたいな感じ).

⑥ レオン3世即位1300年

Solidusleo_iii_and_constantine_vsb1  もっとも当ブログにふさわしい記念イヤー.ビザンチン帝国史にその名を残すレオン3世が即位して1300年である.当時はイスラム帝国(ウマイヤ朝)による地中海世界席巻の時代であり,ビザンチン帝国の領土は大幅に後退し,首都のコンスタンティノポリスもしばしばイスラム教徒の包囲にさらされていた.そんな時代に即位したレオン3世は翌718年にイスラム軍を撃退し,帝国の危機は一段落し,その後徐々に復興の時代になる.そんなビザンチン帝国のどん底を支えた皇帝の即位イヤーである.

⑦ ローマ帝国最大版図1900年

Traianus_glyptothek_munich_72  古代ローマ帝国の全盛期であった五賢帝時代.その2人目がトラヤヌス帝である.彼は117年に現在のイランにあった強国パルティアを破り,ローマ帝国の最大版図を実現した(ただしその翌年には反乱がおこり,その版図は縮小に向かう).

⑧ 済西の戦い2300年

Img_0_2  中国の戦国時代後半,燕の楽毅将軍が秦・燕・韓・魏・趙五か国連合軍を率いて斉を打ち破った済西の戦いから2300年の年である(燕の楽毅は斉の管仲と共に諸葛亮が自らを重ね合わせた人物でもある.斉の国を滅亡一歩手前まで追い込んだが,敵将田単の離間の計によって亡命を余儀なくされた).

⑨ アリストテレス生誕2400年

200pxaristotle_altemps_inv8575_2  古代ギリシャの著名な哲学者アリストテレス生誕2400年である.プラトンの弟子である彼は,同時にオリエント世界とギリシャ世界を統一するアレキサンダー大王の家庭教師でもあった.今で言うなら哲学者兼科学者兼教育者という感じの万能人のイメージである(代表作は二コマコス倫理学).

⑩ 伍子胥没後2500年

020355ec0_3  司馬遷の史記にも登場する伍子胥,元は楚の人間だったが,平王によって父と兄を殺されたため呉に亡命,その後は呉王闔閭,夫差を補佐して楚を打ち破り,平王の墓を暴いてその死体に鞭打って復讐を果たした(これが死体に鞭打つの語源).しかしやがて夫差との関係が悪化し,最後は讒言によって自殺に追い込まれてしまう.それが今から2500年前の紀元前484年である.

 このようにたくさんの記念日がある2017年であった.

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2016年9月29日 (木)

第26回しながわ宿場まつりに参加してきました

 すでに4日経過してしまいましたが,さる9月25日に開催されたしながわ宿場まつりの江戸風俗行列に参加してきました.秋の定番扮装イベントとなっています.

 今年扮したのは八丁堀の同心!

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 あれっ? 以前もやってなかったっけ,とツッコんでくれる方は正しい.実は2013年にも同じ役で参加しているからです.まあ当初希望していた役が被ってしまい,こちらに回ったというのが正解なんですが !(^^)!.ちなみにウチのKは寺子屋の先生になりました.

P9251368 (写真) 悪代官と碁を打つ同心

 前日は都内で用事があったため宿泊して,朝着替え場所となる北品川二丁目町会会館に向かいました.出向いた時間は昨年とほぼ一緒の8時半ごろだったんですが,比較的スムーズに支度が完了した昨年とは打って変わって,今年はメイクが律速段階になります.特に女性陣の支度は大渋滞で,ウチのKが完成して出てきたのは会場入りの1時間半後でした(( ゚Д゚)).

P9251359 (写真) 魚心あれば水心

 このお祭り,常連さんの参加率が非常に高くて,毎年この日だけお会いする方がたくさんいるのも魅力です.着替えを待つ時間などにそんな方々と旧交を温めました.

 パレードは12時から開始,参加者は三々五々集まってきます(この辺のユルさがこのお祭りの魅力です).例年先頭は交通安全パレードになり,一日署長として女性アイドルが参加するんですが,今年は福田彩乃さんだったそうです(よく知らない 泣).

P9251385 (写真) パレードの先頭車

 予想通り12時を結構過ぎてからパレード開始,ここから品川寺までの1.5キロを練り歩きます.自分がイスラエルから帰国してから涼しい日&雨の日が続いていて,すっかり秋めいたなぁなどと感慨に浸っていたんですが,この日は朝から晴れの良いお天気,気温や湿度も高くなりました.

Dsc_1126 (写真) 休憩中

 そんな中でのパレードでしたから,後半特にバテ気味になったんですが(笑),まあなんとか歩き切りました(最後足が攣りかかりました.終了後品川寺で休憩なんですが,例年だと早々に切り上げて活動再開となるはずが,今年は疲労回復のために少し長めに休憩を取った).

 例年沿道は大勢の観客で賑わうんですが,今年は明らかに外国人と思われる方がたくさんいて,さかんにカメラのシャッターを押していました(自分もどれだけ写真を撮られただろう 笑).

Dsc_1113 (写真) テレビの取材も入ってました

 パレード後は沿道をゆったりと歩く時間です.例年書いているんですが,しながわ宿場まつりのツボはパレード後の自由時間にあります(パレードははっきり言えばオマケで,こうして扮装した人たちが道を三々五々歩くことで,往年の宿場の雰囲気を醸し出そうというのがメインテーマだったりします).この日も沿道に出ていたお酒コーナー(やっぱりそこか 笑)を巡ったりして宿場の雰囲気を盛り上げました.

P9251414 P9251416 (写真) 勤め人の悲哀(左 岡っ引きに威張る同心も → 右 殿さまにはペコペコ)

P9251404 P9251407 (写真) お姫様の家庭教師(ついつい手が出てしまう 笑)

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2016年8月29日 (月)

しながわ宿場まつりの通知

 実は昨日から今日の午前中にかけて盛岡に帰ってました.合唱団の強化練習やら実家に帰っての用足しやらがあったんですが,今日の夕方久しぶりに家のポストを覗いたら一通の封書が… 見たら

 しながわ宿場まつりの通知でした \(^o^)/

Img_2675  今年は紆余曲折の末(笑),八丁堀の同心になりました.実は以前にもやったことがあるキャラなんですが,公務員系が似合うと言われているのでまた挑戦する次第です.ご参加の皆様よろしくお願いいたします.

 で,今日職場でこんなものを頂きました.

Img_2674  この週末行われていた総火演(陸上自衛隊富士総合火力演習)のお土産です(職場の仲間が行ってきた).

 自分も行きたかったなぁ~ と思うことしきりのイベントでした(チケットを取るのが至難なイベントでもありますが).

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2016年5月18日 (水)

大河ドラマで見たいネタ

 時代劇の老舗とでもいうべきNHKの大河ドラマ.今年は堺雅人さんの主演による真田丸である.三谷幸喜氏の脚本や充実した共演陣も相まって人気のようだ.

 大河ドラマといえば,戦国モノは特に人気で,だいたい2年に1回はその系統の作品となっている(それ以外の年は幕末や平安末期など).戦国の雄といえば愛知県三人衆(信長・秀吉・家康)に甲斐の武田信玄,越後の上杉謙信あたりが有名で,過去にはかれらを主役あるいは準主役とした作品が数多く作られてきた(1965年太閤記,1969年天と地と,1983年徳川家康,1988年武田信玄,1992年信長,1996年秀吉etc.).

 ただこれらのメジャー人物は大河以外の民放を含めた多くの作品で取り上げられているこため,オリジナリティを出すのが難しくなってきているのか,特に2000年以降はこうしたメジャーキャラの周辺で動いていた人物に光を当てた作品が多くなっている.2002年の功名が辻の山内一豊,2007年風林火山の山本勘助,2014年軍師官兵衛の黒田官兵衛などであり,さらには2011年には浅井長政の三女江姫という普通の戦国ドラマなら空気のような存在まで主人公になっている(まあ徳川秀忠に嫁いでいるから次女の初よりは存在感はあるが 笑).こうした人物が主人公になるドラマの面白さは,その人物目線での歴史観となるため,従来ならステレオタイプ的に描かれがちだった重要人物の描かれ方が大きく変わることにある.例えば石田三成なんかは直江兼次や真田幸村目線だとカッコよく描かれるが,前田利家や黒田官兵衛目線だと嫌なヤツに描かれている.

 さて,近年ではそうしたNHKの動向を理解しているのか,各地で我が町の英雄を大河の主人公に!というような動きも出ている.小田原の北条家もそうだし,高遠藩主で後に会津藩主となった保科正之にもそういう動きがある.

 一方で自分的に,ぜひこの人が主役の大河ドラマが見たいという人物がいる.それが

 陶晴賢

 うわぁ!マイナー (゜o゜) という声が聞こえてきそうだ.

 陶晴賢は戦国大名大内家の重臣である.元は陶隆房という名で大内家第16代当主大内義隆の元で活躍,特に安芸の毛利元就が絶体絶命の危機に見舞われた天文九年(1540年)の吉田郡山城の戦いでは大内家の援軍として大いに奮戦した.しかし後年主君義隆が政治に興味を失って文人生活に入ると次第に冷遇され,大内家内での立場を失っていく.そして天文二十年(1551年)に反乱を起こして主君義隆を自害に追い込み,事実上大内家を乗っ取る.しかし大内家与党だった各地の国人領主,とりわけこの頃勢力を増してきていた毛利元就が反旗を翻して戦いとなり,弘治元年(1555年)の厳島合戦に敗れて自害したのである.

 簡単に言えば,主君を裏切ったものの周辺の理解が得られず滅ぼされるという明智光秀的な立ち位置である.そこを大河ドラマでいかにカッコよく描くかを見たいわけである.ドラマなんだから,歴史的なイベントの流れにさえ沿っていれば,多少の脚色は許される(そうでなければ江姫が主人公のドラマは成立しない).

 そう考えた大河ドラマ「陶晴賢(仮題)」の描かれ方はこんな感じか.まずは晴賢の反逆も大内家や領民を守るためのやむなき決起であり,晴賢には主君を自害に追い込むつもりなどもちろんなかった.手違いから義隆が死んだときには号泣!という形になるだろう.一方で毛利元就は策謀家であり,彼こそが大内家をひっくり返そうとして晴賢を謀反に追い込んだ人物である.ただ元就の長男隆元はいいヤツで,彼が山口で人質になっていた頃には晴賢とは親しく交流,後に毛利家が危機に陥った際には隆元との友情から晴賢は主君を説得して毛利への援軍を出す.そして最後の厳島の戦いはもちろんドラマのクライマックスで,元就の陰謀によって窮地に追い込まれた晴賢は戦場で隆元と遭遇,友情に感謝しつつ自害するという感じであろうか(史実での毛利隆元は陶晴賢討伐の急先鋒だったらしいがもちろんそんなの気にしない 笑).歴史を脚色していかに面白くするのかが大河ドラマのミソであるから,こうしたマイナス評価の多い人物をぜひとも取り上げてほしいものだ.

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