2017年8月25日 (金)

富士総合火力演習

Img169  お盆を過ぎて,そろそろ秋の気配かな,なんて思っていたら逆に暑くなってきた印象のある当地です.そんな暑かった昨日,陸上自衛隊の富士総合火力演習(総火演)に行ってきました.

 もっとも総火演の本番はあさって,8月27日(日)になります.この日に行われたのは総火演の予行,いわばリハーサルということです.ただ予行とはいえ,行われるプログラムは本番と同じです.今回は縁あってチケットが手に入ったので知人らといってきました.

Dsc_0053(写真2) チケットと駐車券

 ただこのイベント,観覧するブロックは決まっているものの,基本的に自由席なので,良い席はお早めにということで自宅発はなんと!朝3時(笑). 県境を越えて,静岡県に入り駐車場として指定されている海苔川駐車場に向かいます.4時過ぎに到着しましたが,すでに20台くらいの車列ができていました(ナンバーも全国様々).

P8240004 (写真3) 駐車場開場待ちの車列

 待つこと2時間近く,6時になりようやく開門,駐車場に車を置いてシャトルバスで会場に向かいます.会場にはすでにたくさんの人が来ていて長蛇の列でしたが,我々もなんとかEブロックのスタンド席を確保できました(総火演にはスタンド席と地べたにシートが敷かれたシート席があって,高い位置から観覧できるスタンド席の方が人気がある).

P8240183 (写真4) 富士山がきれいです

 この段階で朝8時,駐車場に到着から4時間経っています(汗).演習は10時からですが,この時間帯はその演習の演習が行われていました.各種自走砲やヘリなども登場していて早くもテンションが上がります.

 その後演習が行われる広場の整備を行いつつ,9時頃からは音楽隊による演奏と続きます.そして10時いよいよ演習の開始です.演習は陸上自衛隊の装備品を紹介する前段演習と,日本の島嶼部に侵入し上陸した敵を撃破することを想定した後段演習とで構成されます.この演習の肝は普段は見ることのない実弾射撃が見られることにあります.

P8240266_2 P8240287 (左写真5) 各種榴弾砲の射撃,(右同6) 弾着

 各種榴弾砲や迫撃砲もすごかったんですが,なんといっても初速の速い戦車砲の迫力は別格で,予告されてから発射するのでイイんですが,不意に撃たれたらショックで倒れる人が出るんじゃないかと思いました(今回実感したのは,砲身から炎が見えた直後に衝撃波を感じ,少し遅れてドーンという爆発音が聞こえること.昔物理で習った,速度は光>衝撃波>音であることを実体験できた).

Sensha3 (写真7) 90式戦車

Sensha4 (写真8) 10式戦車の射撃

Sensha6_2 (写真9) 74式戦車の射撃

 また今年は総火演初登場の機動戦闘車(MCV)と水陸両用車(AAV)の機動展示もありました.

P8240615P8240620(左写真10) 機動戦闘車,(右同11) 水陸両用車

 今回はウユニ塩湖に行く際に購入したミラーレス一眼を使って撮ったんですが,あとで写真を確認したところ気が付いたポイントがありました.それは,迫撃砲だと砲身から出た火焔が納まるくらいの段階でようやく砲弾が飛び出してくるのに対して,初速が圧倒的に速い戦車砲だと火焔が出た段階ですでに砲弾はかなりの距離を飛んでいるということでした.

P8240340P8240341 P8240342 (写真12,13,14) 迫撃砲弾は火焔が収束したのち飛び出す.

Sensha2 (写真15) 10式戦車の砲弾は火焔が出た段階でもうこんなに飛んでいる(方角から見て左の戦車の砲弾です)

 後段演習ではF2戦闘機も登場したんですが,かなり低い位置を飛行していて爆音が凄かったです(毎年来ている方が,「こんなに低空飛ぶのは見たことない」とおっしゃってました).

 演習終了後は装備品の展示です.どの装備品もたくさんの人だかりができていました(笑).

P8240740 P8240756 (左写真16) 74式戦車と記念撮影,(右同17) 87式偵察警戒車の砲塔って昔の九七式中戦車改の砲塔になんか似てる

 演習中オートバイに乗った偵察隊が飛ぶジャンプ台があるんですが,その下に並ぶのがこちら

P8240780  これは隊員の安全を祈願するお守りのようなものなんだそうです.

 装備品展示も14時には終了,シャトルバスと車を乗り換えて帰宅の途に就いたのでした(充実した一日だった).

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2017年8月16日 (水)

インパール作戦

 昨日はいわゆる終戦の日,72年前に日本がポツダム宣言を受諾した日であった(ただし国際法的には日本政府の代表が降伏文書に調印した9月2日が本当の終戦の日である).

 毎年この季節になるとテレビなどでも戦争関係の話題が出てくる.で,私が毎年注目しているのがこの日のNHKの特番,なぜならおそらく彼らが最も力を入れたいテーマがその日に来るだろうからだ.そんなNHKの今年の話題はインパール作戦だった.

 インパール作戦は戦史に興味のある方ならば知っている人も多いであろう有名な作戦である.1944年(昭和19年)3月に当時のビルマ(現ミャンマー)に展開していた日本陸軍の第15軍の3個師団が,そのころ連合国が中華民国の蒋介石政府を支援するために使用したルート,いわゆる援蒋ルートを遮断するために,ビルマとインドの国境を突破してインド側にあるイギリスの拠点インパールを攻略しようとした作戦である.作戦の概要はまず第31師団(烈兵団)が国境を越えてインパール北部にあるコヒマを占領し,インパールを孤立させる.それと前後して第33師団(弓兵団)が南から,第15師団(祭兵団)が東からインパールに迫り攻略するというものだ.

Img154 (図 高木俊朗著「インパール」より引用)

 概要だけ聞くと,なるほどと思えるのだが,問題はその実態である.まずミャンマーとインドの国境には乾季でも川幅300メートルものチンドウィン川がある.もちろん橋なんかない.当時すでに制空権は連合軍側に握られていたため,渡河は夜間に限られた.そしてそこを越えると標高2000メートル級のアラカン山系がそびえたつ.南方から向かう弓兵団方面にはまだ道があったが(なのでここに戦車や重砲も配属された),祭兵団,烈兵団正面には道らしい道はなく,兵士は60キロもの装備品を担いでの登山同様の行軍を強いられた.そんな行軍環境であるからこの2個師団が持っていける武器も各自の小銃や手榴弾に機関銃,擲弾筒程度で,大砲については比較的小型で分解可能な歩兵砲が少数あるだけだった.もちろんそんな道路事情であるから,食料や弾薬等の補給は絶望的である.

 このように作戦は補給のめどが全く立たず,軽装備の部隊が重装備で待ち構える敵陣地を攻撃する形が予想されたため,軍内部でも反対意見が多かった.しかし作戦を実施する当事者である第15軍司令官の牟田口中将が実施を強く主張,上級部隊であるビルマ方面軍司令官や南方総軍総司令官,さらには大本営もこれを支持し,反対する参謀(第15軍参謀長の小畑少将や南方総軍総参謀副長の稲田少将ら)を左遷したため,結局作戦は決行されることになった.この時作戦認可を渋る大本営の真田穣一郎作戦部長に対して杉山参謀総長が「寺内さん(南方総軍総司令官)たっての頼みだからやらせてやってくれ」と言ったとされ,この意思決定プロセスが情緒的であると批判されている.確かにその通りなのだが,実際には当時日本政府が支援していた自由インド仮政府主席チャンドラ・ボースの影響などもあり事情は簡単ではない.

 3月上旬に始まった作戦はイギリス軍が国境付近での衝突を避けたこともあり,緒戦は見かけ上日本軍が進撃する形になった.特に烈兵団方面では,イギリス側がこんな道もない山を越えて師団規模の大軍がやって来ることを想定していなかったこともあり,同兵団は戦略目標であるコヒマの確保に成功する.コヒマを抑えたことで北からインパールに向かう道路は遮断され,予定通りインパールは孤立する形になった.南からは弓兵団,東からは祭兵団が迫っている.見かけ上インパールは包囲された.ここまでは日本軍の作戦通りである.

 通常なら包囲された軍は士気が下がる.援軍が期待できず殲滅されてしまう恐れがあるからだ.しかしインパールのイギリス軍はそうはならなかった.彼らは飛行機を使って空から補給を続けた.一方で包囲しているはずの日本軍は補給がなく戦力は漸減する一方だった.前線の部隊からは補給を求める電文がしきりに飛んだが,後方の軍司令部は何の手も打たなかった(打たなかったというか打てなかったのが正解だが).皮肉なことにイギリス軍の空中補給物資が風向きで日本軍陣地に流されてくることがあり,こうした物資を日本兵はチャーチル給与と呼んで歓迎した.日が経つにつれて包囲されたイギリス軍の戦力が充実し,逆に包囲する日本軍の戦力が枯渇していった.軍司令部からはただ攻撃命令だけが届いたが,そんな戦力差であるから攻撃が成功することはなく,いたずらに犠牲が増えるばかりであった.

 実は日本軍はこのインパール作戦のちょっと前に同様のパターンで痛い目にあっている.それが同年2月にビルマ南西部で起こった第二次アキャブ会戦である.第二次とあるのはそのさらに1年前(1943年)に第一次アキャブ会戦があったからだ.第一次アキャプ戦はビルマ方面におけるイギリス軍最初の反攻作戦だったが,日本軍がイギリス軍を包囲殲滅し返り討ちにしている.その1年後にほぼ同じ場所で起こったのが第二次アキャブ戦である.この時も前回同様日本軍はイギリス軍の主力を包囲することに成功し勝利は確実と思われたが,結果は第一次と同じようにはならなかった.包囲されたイギリス軍は空から物資や兵員を補給して抵抗したからだ.戦況は包囲したはずの日本軍がジリ貧になり,退却を余儀なくされることになってしまったのである.インパール作戦の展開はこの第二次アキャブ戦をより大規模にしたようなものであった.

 インパールを目前にして諸兵団が苦戦しているうちに雨季がやって来た.当地の雨季はすさまじい.日本の夕立がひたすら続くようなイメージである.軽装備の日本軍はたちまち身動きが取れなくなった.さらにはマラリアやアメーバ赤痢といった感染症も兵士たちを苦しめる.5月末に至りもはや勝機がないのは誰の目にも明らかとなった.インパールの北部を抑えていた烈兵団の佐藤幸徳中将は味方の惨状と状況を理解せず無茶な命令を繰り返す軍に対し,師団の独断退却を決行する.師団長という親補職(天皇直々に任命される役職,文官でいえば大臣や帝国大学総長並み)にあるものが公然と軍命に背くのは過去に例のない異常事態である.烈兵団の独断退却により,残された祭・弓両兵団の崩壊は決定的となった.そんな中,6月5日に第15軍司令官牟田口中将とビルマ方面軍司令官河辺中将の会談が行われたが,両者とも作戦の中止を言い出した方が責任を取らされると思ったのか,作戦の可否が議題にあがることはなかった.

 結局インパール作戦は7月に入りビルマ方面軍から上級司令部への具申によってようやく中止が決まった.以後前線に展開した各部隊の撤退が始まったが,それは進撃時の何倍もの苦難を伴うものだった.各部隊はイギリス軍の追撃を受けながらビルマを目指して退却したが,数か月の過酷な戦闘で衰弱しきった兵士には耐えられるものではなく,行き倒れるものが続出した.この日本軍の退却路には倒れた日本兵の遺体が並び,白骨街道などと呼ばれた.結局全軍の撤退が完了したのは同年暮れのことであった.

 戦後インパール作戦は「史上最悪の作戦」と称されるほど悪い意味で有名な戦いとなった.この作戦には軍人や兵士だけではなく,従軍記者も多数参加していたこともあり,戦後たくさんの戦記や研究書が発表されることになった.古くは服部卓四郎(当時の大本営作戦課長)による「戦史叢書」や軍事評論家伊藤正徳による「帝国陸軍の最後3死闘編」,高木俊朗の「インパール」他一連の著作などが有名だ.1980年代以降も続々と新しいものが発表されており,それは今も続いている.現在ではインパール作戦そのものに関しては,当時の戦況全般から鑑みて必要のない作戦だったというのが定説になっている.一方で,作戦の決定プロセスや中止が遅れたこと,作戦の失敗後に関係者が誰も責任を取っていないことなどに注目し,ここに悪しき日本の組織論が見られるという主張もしばしば取り上げられている.戸部良一らによる「失敗の本質」や1990年代にNHKで放送された特番の書籍化である「太平洋戦争日本の敗因4 責任なき戦場 インパール」などである.

Img153 Myambon3  昔から戦史に興味があった自分もこの作戦には非常に興味があり,いろんな本を読んできた.今回のNHKの特番がどういうものになるのか非常に興味深かったが,特に新しい解釈といえるものはなく,内容的には正直期待外れだったというのが率直な感想である(牟田口中将のお孫さんが出てきたのは驚きだったが).ただ,以前のNHKの特番からすでに20年経過していることを思えば,若い人たちにこういう戦いがあったという歴史を伝える意味はあったのかなとは思った.

 ちなみにインパール作戦に参加したのは3個師団であるが,従来の戦記物などではこのうち北の第31師団と南の第33師団を扱ったものが圧倒的に多くい.これは第33師団については作戦正面と位置づけられ,戦車や重砲も多数配備されたことから激しい戦闘が多く,記者もたくさん従軍していて彼らによる記事も多いこと,第31師団に関してはなんといっても歴史に残る抗命事件(師団長が軍命令に背いて独断で師団を退却させたこと)の当事者であること,暗い話題ばかりの同作戦中唯一,戦術的にも人間的にも優れた指揮官といわれ人気の高い宮崎繁三郎少将(当時第31歩兵団長,インパール作戦関係の将官としては牟田口中将と対極に位置する人物といわれることが多い)が所属し活躍した部隊だったためと思われる.この両師団に対して中間にいた第15師団を扱った作品は極めて少ない.高木俊朗氏の一連の作品でもこの師団を扱った作品「憤死」はシリーズでも最後の方であり,他作品と違って電子図書化もされていない.第15師団は3個師団中最も貧弱な装備で作戦に投入され,多くの犠牲者をだした悲劇の部隊なのだが,今回のNHKの特番でも見事に無視されていたのが感慨深かった.

 そんなことを考えた今年の終戦記念日特番だった.

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2017年1月11日 (水)

新元号は?

 昨年以来政治的に話題になっているものに天皇陛下の譲位の問題があります.

 天皇の譲位は古代からたくさん例があるので,たとえ前例主義に固まった役所でもその点では問題になりません.問題なのは法律的な裏付けの方で,現在の日本国憲法も皇室典範も天皇の生前退位を想定しないからです.特に日本が法治国家となった明治22年以降,皇位の継承は天皇の崩御の場合に限るとなっています.生前退位に関しては明治の旧皇室典範制定の際に議論になったといわれています.しかし最終的には皇室典範には盛り込まれませんでした.これは譲位の規定を作った場合,実力のある臣下によって皇位が政治的に利用される可能性があります.それゆえそういった厄介な問題の種を排除したかったと思われます(平安時代の摂関政治など).その一方で,昔は平均寿命く,高齢で公務に支障をきたす事態が考えられていなかったこともあるでしょう.いずれにせよ今後国会等で議論がなされると思います.

 で,昨日譲位に伴う改元の話題が出ていました.

 19年元日に新天皇即位、元号は半年前までに

 日本では国際的に使われている西暦の外に元号が存在します.これに関しては元号法という法律の規定があり,その第2条によると,皇位の継承の際に元号の変更が行われることになっています.これまで皇位の継承は天皇の崩御の場合に限定されていましたから,元号の変更もそれに合わせて行われました.崩御の時期は誰にも読めませんから,元号の変更も緊急に行われるのが常でした.

 しかし今回はあらかじめ皇位の継承が予定されることになるため,事前に次の元号が周知されることになるようです.カレンダーや手帳を作る会社に配慮しているのかもしれません.

 で,その新元号,自分的には「光文」だったら面白いなと考えています.光文は大正から昭和への改元の際に,東京日日新聞(今の毎日新聞)がやらかした誤報事件で登場した幻の元号です.実は宮内庁(当時宮内省)が用意した候補に光文はなかったらしいんですが,「本当は光文だったが,毎日のスクープに腹を立てた宮内省が昭和に変更した」という都市伝説も出るなど話題になったお話です.さらには眉村卓さんのSF「名残の雪」を原作にしたNHKの少年ドラマシリーズ「幕末未来人」では,歴史が徐々に変わってしまい,劇中慶応の次の元号として公示されたのが光文でした.

 このように非常に思い出深い幻の元号が光文でした.

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2016年12月20日 (火)

選挙人の裏切りその後

 報道によると,去る12月19日に全米各地で来年の1月に就任するアメリカ大統領選挙の本選が行われ,ドナルド・トランプ氏の当選が確実になったようだ.

 ドナルド・トランプ氏、大統領当選が正式に決まる

 以前ここにも書いたように,アメリカ大統領選挙というのは直接選挙ではなく,国民によって選ばれるのは特定の大統領&副大統領コンビに投票予定の選挙人であり,この選挙人の投票によって大統領が選出される形式をとっている.なので,先月8日に行われた選挙の結果はあくまでも,トランプ氏に投票を予定している選挙人が本番の選挙で当選するのに必要な人数を越えたということに過ぎない.この選挙人はもちろん,特定の候補者に投票することを宣言して出ているわけだが,実は彼らの投票行動を縛る法律は存在せず,仮に宣言していた人物以外に投票したとしても法で裁かれることはないらしい(あくまでも各人の良心に期待されているということのようだ.ただし法的にはフリーでも,選挙人を出した政党内での処分はあり得る模様).

 そういう状況であるから,選挙人が裏切って反対陣営の候補者に投票するなんてことも理屈の上ではありうることになる.私はこれを選挙人の裏切りと呼んでいるが,もちろん過去に選挙人の裏切りによって,国民の投票行動と異なる大統領が誕生した例はない.

 ただ,今回の大統領選挙に関しては,様々な発言等で話題となったトランプ氏が当選しそうだということで,俄然この選挙人の裏切りがクローズアップされていたわけである.例えば選挙後,なにか決定的な大スキャンダルや大失言が飛び出し,国民世論が選挙人の裏切りもアリだ(いや裏切ってくれなきゃ困る)なんて雰囲気になる可能性も想定されていたからだ.それを意識してるのかは不明だが,11月8日以降のトランプ氏は従来の過激発言を封印し,比較的無難な行動を取っていた(Twitterなどでは時々従来の主張をすることもあるようだが).

 結果,今回の本選挙ではトランプ氏が無事に大統領に選出されたということである.ちなみに選挙人の裏切りであるが,別の報道によると今回は7人の選挙人が本来とはことなる投票行動をしたらしい.ただしその内訳は共和党2人に対して民主党5人ということで,トランプ氏を裏切った選挙人よりもクリントン氏を裏切った選挙人の方が多かったということである.

 それにしても,アメリカ大統領選挙の本選(選挙人による投票)なんて,これまでの大統領選挙だったらニュースにもならなかったが,今回話題として取り上げられたのもトランプ効果なんだろうなと感じたのだった.

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2016年11月 9日 (水)

アメリカ大統領選挙2016

 2016年11月8日(日本時間同9日),4年に一度のアメリカ大統領選挙が行われ,共和党のトランプ候補の当選が確実になったらしい.日本のテレビなど各種メディアでも盛んに取り上げられているようだ.

 下馬評では民主党のクリントン候補が優勢と伝えられていただけに,この結果を受けて為替や株では結構動きがあるらしい.

 選挙結果云々はこのブログの管轄外なので深くは触れないが,自分の率直な印象としては,「クリントンさんって本当に嫌われてたんだなぁ」の一言に尽きる.

 選挙期間中を通してメディアの多くはトランプ氏に批判的だった.過去のあまり上品とは言えない発言や直前に飛び出したセクハラ騒動など,普通ここまで叩かれたら立ち直れないだろう(日本で言えば兵庫県の号泣県議なみのいじられ方だ)という状況にありながら,結局ふたを開けてみたら当選しちゃったんだから.アメリカの有権者にしてみたら,そんなボロボロのトランプ氏でもクリントン氏よりもマシということなのだから,いかにクリントン氏がアメリカ国民に不人気だったかがわかるようである.

 選挙期間中いろいろと過激な発言で騒がれたトランプ氏だが,アメリカ大統領というのはロシアの大統領や中国の指導者とは違って,議会の同意が得られないと勝手なことはできないようになっているので,これから突然トンデモナイ事態になるとは思えないが,注目していきたいと思う.

 日本に対する影響だが,仮にクリントンさんが当選した方が風当たりが強くなりそうだと思っていたので(1990年代の夫クリントン大統領時代に日米関係はかなりギクシャクした),案外トランプさんの方がうまくやっていけるかもしれない(基本的には共和党政権の方が日米関係は安定するが,今回はかなり特異なキャラなので,これから選ばれるだろうホワイトハウスの大統領補佐官や閣僚人事と議会共和党の動きに注目である).

 ただ正確を期すと,今日を持ってトランプ氏が大統領に当選したというわけではない.アメリカ大統領選挙というのはかなり変わったシステムを取っており,国民が選ぶのは大統領ではなく,大統領候補に投票する選挙人だからである.今回の選挙の結果明らかになったのは,今後行われる(本番の)大統領選挙において,トランプ候補に投票する予定の選挙人の人数がクリントン候補のそれを上回ったということにすぎない.なので本当の結果は来月の大統領選挙本番になるまで確定しない.あくまでも可能性とすれば,トランプ氏に投票する予定の選挙人が裏切ってクリントン氏に投票するなんてこともあり得るからである.過去の大統領選挙において,選挙人の裏切りで当選者がひっくり返った例はないのだが,選挙人裏切り自体は例があるらしい.なにかと発言や行動が話題なトランプ氏だけに,これからの1か月間に決定的なスーパー・ウルトラ・大スキャンダルが発生すれば,選挙人が大挙して裏切るなんてこともあるかもしれない.そんな意味ではまだまだ油断ができないアメリカ大統領選挙である.

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2016年8月15日 (月)

終戦の日に思う

 今日8月15日は終戦の日である.当ブログは基本的に政治的な話題を取り扱わないのであるが,この8月15日だけは時々そうでないこともある(笑).というわけで今日は政治の話題.

 今日このようなニュースが出ていた.

 学生団体「SEALDs」きょう解散

 昨年夏,ちょうど安保法制に関する法案の国会審議がなされていた頃に,同法案に反対することを主張する学生たち(たぶん)によって結成された団体である.同年秋の法案成立後も現政権に対する対決姿勢を継続し,改憲阻止のためとして野党共闘を主張していた.それが今日解散するということである.

 彼らの活動が成功だったのか失敗だったのかといえば,安保法制が成立し参議院選挙も与党側の勝利に終わった結果から見れば失敗だったと言わざるを得ないだろう.野党共闘に一定の成果をあげたという声もあるようだが,彼らがいたから野党共闘が成立したと言えるのかは疑問である.

 では彼らの失敗の原因はなんだったのだろうか.まず思いつくのは彼らの発言に品がないことである.正直言って彼らの言葉遣いは汚い.政権が嫌いなのはいいのだが,仲間内の飲み会ならいざ知らず,公衆の面前で汚い言葉で相手を罵る様子は,共感を呼ぶどころか,逆に違和感と嫌悪感しか感じなかった.彼ら自身は「自分たちの主張が正しければ言い方は問題ではない」,「むしろ自分たち自身の言葉をストレートにぶつけた」という認識なのかもしれないが,やっぱり言葉遣いが悪い人の話をまともに聴こうという気分にはならない.

 第2は彼らの主張に論理性が感じられなかったことである.安全保障という極めて重要な重要なテーマにも関わらず,安保法=戦争法と単純化し,法案が成立すれば戦争になる,徴兵制になるといった主張は論理というよりもただ思いついたことを発言してるようにしか聞こえなかった.

 ただ自分がそう感じるのは自分自身がオッサンだからかとも思っていたのだが,先日の参議院選挙における10代の有権者の投票行動(他の世代に比べても与党の支持が高く,野党への支持が低い)を見る限り若い人たちの多くも自分と同じように感じていたようだ.一部マスコミでは彼らを若者の代表であるかのように持ち上げていたところもあったが,選挙結果等からはどうもそうではない実態が見て取れる.

 そんな彼ら,今日解散に当たって「市民が立ち上げる政治は、ようやく始まったばかり。この動きを末永くねばり強く続けていく必要がある」などとするコメントを発表したらしい.市民が立ち上げる政治というものがどういうものなのかは不明だが,彼らの行動で分かったことは,「感情のままに発言し,一部メディアがそれを持ち上げても,大衆の支持は得られない」ということであろう.

 それは今に始まったことではなく,そういう世間の反応は1960年~70年代のいわゆる学生運動の時代から変わってはいない.当時の彼らも自分たちの主張が正しければ,やり方が強引でも正当化されるという感じだったが,結果世間から遊離しどんどんマイナー化していった.東西冷戦というまだ国際情勢が単純だった時代ですらそうなのだから,冷戦が終わって世界全体が内向きになる中,国家の利害対立が表面化しやすく,さらには国家を超えた組織によるテロなど新しい種類の脅威にさらされている情勢を考えれば,「安保法ができれば戦争になる」といった根拠の乏しい主張をただ垂れ流している彼らが世間の賛同を得られなかったことは必然だったのだろう.

 そんなことを考えた2016年8月15日だった.

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2015年4月13日 (月)

独自の戦い

 「独自の戦い」

 この表記を見てピンときた人は結構な選挙報道通であろう.この文言は,一般に当選する可能性が極めて低いと予想されている候補者(いわゆる泡沫候補)の選挙活動について触れる際のマスメディア(特に新聞)の決まり文句なのである.

 民主国家である我が国では,公職選挙法等に定められた例外規定(禁固以上の刑に処されて所定の年月が経っていない,年齢制限等)を除けば基本的には誰でも立候補ができることになっている.とはいっても,国会議員選挙や大規模な自治体の首長選挙(東京都知事選や政令市長選など)など有権者数の多い選挙の場合は,実際に当選するのは有力な政党の公認・推薦候補で,まったくの無所属やマイナー政治団体の候補者は,よっぽど本人に知名度がない限り当選は難しい.

 とはいえ,大都市部の国会議員選や東京都知事選など全国から注目される選挙になると,主要政党以外からもたくさんの候補者が乱立する傾向があり,たとえば2014年の東京都知事選には16人もの候補者が立っている.しかし,それらの候補の中で実際に当落線上で争うのは主要な数人だけであり,他の大半の候補者はほとんど得票を得られずに消えていくことになる(泡のように消え去ることから泡沫候補と呼ばれる).

 選挙報道というものは本来特定候補に偏らず公平であるべきなのだが,現実にはそうではない.たとえば選挙中に各紙に掲載される,「○△選終盤の情勢」なんていう特集記事でも,有力候補に関しては「○△氏は保守層に浸透」とか,「◆●氏は組織を何割固めた」といったように詳しく解説されるのに対して,泡沫候補については「▲×氏は独自の戦い」の一行で済まされるのがほとんどだ.この独自の戦いという言葉の言外には「選挙の主要争点とは離れたところで一人で活動している」的なニュアンスが感じられる.

 さて,こうした泡沫候補と呼ばれる候補者たちの中でも,まったく話題にもならない無名な人もいれば,ドクター中松のように,それなりに知名度があって,まったくの泡沫ともいえない人もいる.

 今日のニュースで,そんなそれなりに知名度のある名物候補だった三上誠一氏が亡くなったという話題が出ていた.

 「羽柴秀吉」の名で選挙に出馬…三上誠一氏死去

 青森県出身の三上氏は羽柴秀吉の名前で各地の選挙に出馬,最終的に当選には至らなかったものの,名物候補としてメディアでもそれなりの扱い(少なくとも晩年は「独自の戦い」の一言では片づけられていなかった)を受けていた.特に2007年の夕張市長選の時は主要政党がほとんど独自候補を出さなかったこともあって,当選の一歩手前まで行ったこともある.

 近年出馬のニュースを聞かないなぁと思っていたが,闘病のためだったということを今回の訃報で知ったのだった.

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2014年3月 3日 (月)

東京駅の歴史的場所

 今日3月3日は桃の節句です.ひな祭りなど華やかなイメージがある日ですが,一方で幕末期にはこの日に結構大きな事件が起こっています.

 まず安政元年(1854年)の3月3日には日本の開国の嚆矢ともいうべき日米和親条約の締結が行われました.また安政七年(1860年)の3月3日には江戸で時の大老井伊直弼が水戸浪士らの襲撃を受けて暗殺されるという大事件が起こっています(桜田門外の変).さらに慶応四年(1868年)のこの日には幕末の草莽隊のひとつである赤報隊一番隊の相楽総三以下が処刑される事件(いわゆる赤報隊ニセ官軍事件)も起こっています.特に桜田門外の変は時の最高権力者が白昼堂々と浪人に襲撃されるという,幕府としては前例のない不祥事であり,幕府の威信が著しく低下していることを世間に印象付けました.

 政府首脳の暗殺事件というと,世間に与える不安は非常に大きいものがあります.ちなみに日本の近現代史において,現職の総理大臣が暗殺事件に巻き込まれた例として,大正10年の原敬,昭和5年の濱口雄幸,昭和6年の犬養毅(いわゆる5・15事件)が知られています.このうち原敬と犬養毅は即日死亡,濱口雄幸は事件で重傷を負い後に死亡しています.

Pc110051(写真1) 東京駅丸の内口

 この3件のうち犬飼は首相官邸で遭難しましたが,のこりの2件の舞台はいずれも今のJR東京駅で起こっており,駅にはそのことを示す碑があります.先日用があったついで見学してきました.

 平民宰相と呼ばれた原敬が暗殺されたのは大正10年11月4日の夜でした.この日彼は立憲政友会の京都支部大会に向かうため東京駅を訪れそこで難にあったものです.犯人は当時大塚駅の職員でした.事件の起こった場所は,東京駅の丸の内南口にあります.

P3011382P3011383(左写真2) 原敬殉難の場所,(右同3) 事件に触れたプレート

 一方で濱口雄幸首相が襲撃を受けたのが昭和5年11月14日朝,同日から岡山県で行われる陸軍の特別大演習視察に向かう途中でした.犯人は右翼活動家の青年で,事件直後に逮捕されています.濱口の受難場所は今の新幹線中央乗換口付近になります.

P3011375P3011376(左写真4) 濱口雄幸受難の場所,(右同5) 事件のプレート

 大勢の人々が行きかう場所ですが,あまり知られていないのかプレートに注目している人はほとんどいませんでした.

P3011378(写真6) 事件の場所を示す印

 床には事件の起こった場所を示す印も埋め込まれています.

 そんな日本の近代史に思いを馳せた桃の節句でした.

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2013年1月28日 (月)

マリの情勢

 私にとって憧れの地の1つである西アフリカ,マリ共和国北部の町トンブクトゥ,元々政情が不安定な地域であり,ここも危機に瀕した世界遺産と言われていた時期が続きました.しかしながら21世紀に入ってやや情勢が安定化,それに伴いここを訪れるツアーもぼちぼち開催されるようになっていました.

Img_1818477_67544771_0(写真) トンブクトゥの泥のモスク

 しかしながらここ2年ほどの間に再び外国人の誘拐事件がおこるなど治安が急速に悪化,それに伴い旅行会社のツアーも開催されなくなっていました.それに追い打ちをかけたのが昨年4月に発生した武装勢力の決起によるトンブクトゥの陥落です.マリ政府自体がクーデターなどで混乱を極めていた時期の出来事であり,これを期に情勢はさらにひどいことになり,在マリの日本大使館も閉鎖,外務省の海外安全情報ではマリ全土が最高危険度の「退避を勧告します」になっていました(全土が退避勧告はソマリア並みです).

 こんな状況では,今後20年は渡航は無理じゃないかと思っていました.しかし今日のニュースによると現地の状況が大きく変わりつつあるようです.

 <マリ>政府・仏軍、世界遺産都市トンブクトゥを制圧

 先月以来マリや周辺国の要請で軍事介入しているフランス軍がトンブクトゥを奪回したというのです.武装勢力側の状況も不透明なため今後どうなるのかは予断を許さないのですが,ひとまずは収拾に向かってくれるのなら嬉しい話題です.

 とはいえ,トンブクトゥにあったイスラム教の貴重な史跡が武装勢力によって破壊されたという話もあり,街がどんなことになっているのか心配でなりません.史跡の破壊というとアフガニスタンのタリバンによるバーミヤンの大仏像の破壊が知られています.タリバンの方を持つ気はないんですが,これはとりあえず異教徒を敵視するという大義名分が言えますが,トンブクトゥの武装勢力は同じイスラム教徒です.イスラム教徒がイスラムの史跡を破壊するなんて,罰が当たらないのかと思ってしまうのでした.

 最近大きなニュースになっているアルジェリアの事件もこのマリ情勢と大きくつながっています.この地域の一日も早い情勢の安定化を願っています.

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2012年4月 2日 (月)

マリの政情

 旅行好きの私,行ってみたいところはそれこそ世界各地にあるんですが,その筆頭格に挙げられるのが西アフリカのマリ共和国北部,サハラ砂漠の最南部に位置する街トンブクトゥです.

 ここは中世から近世にかけてサハラ交易の拠点としておおいに栄えた街です.14世紀にこの地を治めていた王マンサ・ムーサがメッカに巡礼した際,旅の途中でたくさんの黄金を惜しげもなく喜捨したため,アラビア世界での金相場が暴落したのはよく知られた話です.同時期にこの街を訪れた旅行家のイブン・バトゥータによって広く世に知られるようになり,ヨーロッパでは黄金の都として人々の憧れの街となったのです.

Ryoko_2(写真) イブン・バトゥータの大旅行記,今では電子書籍でも読めます.

 しかし,16世紀以降サハラを介さない海路による通商が盛んになるとこの街は衰退,19世紀にヨーロッパ人がようやくこの地に入った時には往年の繁栄はもはやなく,砂と泥の街になっていたのでした.

 その後この街は世界遺産に登録され,私もいつか行ってみたい場所になっています.とはいえ,近年治安の悪化からトンブクトゥを扱う旅行会社がなくなり(大手はもちろん,道祖神のようにアフリカ専門の会社でも取り扱いが中止になっています),政情が安定することを祈ってたんですが…

 武装勢力、北部制圧へ

 なんと!マリ北部で武装勢力が決起,急速に勢力を広め,この地域で唯一政府側の拠点だったトンブクトゥが陥落したというのです.先ほど外務省の海外安全ホームページを見たら,マリ全域で危険度が引き上げられていました(外務省 海外安全情報).

 マリでは先月下旬政府に不満を持つ軍がクーデターを敢行,その混乱に乗じてマリからの独立を要求する北部のトゥアレグ族武装勢力が決起,急激に勢力を伸ばしているようです(ちなみにこのトゥアレグ族がトンブクトゥの街を築いた部族です).

 こうなってしまったら旅行なんて論外,黄金の都への渡航は夢のまた夢にになりそうです(現在マリへの観光はトンブクトゥを含まない,バマコやジェンネなど南西部を中心とした商品が出ているんですが,今回の件でそちらも中止になりそうな予感だなぁ).

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