2021年12月12日 (日)

ニューカレドニアの独立問題

 ネットのニュースに上がっていた話題です.

 ニューカレドニア独立否決と公共放送

 南太平洋のフランス領ニューカレドニアで12日,フランスからの独立の是非を問う住民投票が行われ,反対多数で独立は否定されたとのことです.

 ニューカレドニアはオーストラリアの東,ソロモン諸島の南に位置する島嶼で,主島であるグランドテール島と周辺の多数の小島からなっています.日本ではイル・デ・パン島やウベア島などのビーチリゾートの地として,新婚旅行先として人気の高いところです(自分は今から20年前に新婚旅行以外で訪問しています).一方世界有数のニッケル埋蔵量を誇り,その採掘と輸出も重要な産業となっています.

 そんなニューカレドニアですが,1980年代より先住民を中心に独立運動が起こりました.世界的な脱植民地の流れもあり1987年には独立の是非を問う最初の住民投票が行われ,結果大差で独立は否決されましたが,一部独立過激派による暴動などが起こっています.その後1998年にフランス政府と独立派勢力等の間でヌメア協定が結ばれ,自治権の拡大が図られる一方で,2018年までに独立の是非を問う住民投票を行うこと,仮に否決されたとしても議会の要請があればその後2回(2020年と2022年)住民投票が実施できることになりました.

 それを受けて2018年に独立の可否を問う最初の住民投票(1987年を1回目とすれば2回目ですが)が行われましたが結果は否決でした(反対派約56%).ついで2020年に2回目の投票がありましたが再び否決(反対派約53%).そして今回3回目の投票となったものです.

 独立賛成派は現在のコロナ禍の状況の中での住民投票は延期すべきであると投票の実施に反対しており,延期が受け入れられなかったことから住民にはボイコットを呼びかけたようです.そんな中行われた今回の投票では反対約97%の圧倒的多数で独立派三度否決されました.ただ独立派がボイコットを呼びかけたことから投票率は40%台に低迷したとのことです(結果から類推すると独立賛成派の多くが投票しなかったようです).過去2回の住民投票では徐々に賛成反対の割合が拮抗してきていました.そんな流れの中で今回投票が行われたにもかかわらず独立派が投票延期を申し入れていたしかし,新型コロナの流行はニューカレドニアにも及び,結局現地政府が有効な対策を打てなかった(ワクチンの確保等結局フランス本国政府に頼らざるを得なかった)ことから独立反対派の勢いが増している状況でした.このため独立派としては今投票をするのは自分たちに不利であると考えていたようです.

 ヌメア協定では今回が最後の投票になるはずですが,独立派は今回の結果を受け入れないと表明しており今後の推移に注目です.

 ちなみにアフリカ大陸の東にコモロ諸島という4つの島(グランドコモロ島、アンジュアン島、モヘリ島、マヨット島)からなる諸島があります.ここもかつてフランス領だったのですが,1975年にマヨット島を除く3島がコモロ連合として独立しました.しかしコモロ連合は内政の不安定さから経済が低迷する一方で,フランスに残ったマヨット島は本国支援を受けてそれなりの経済を維持しており、現在その格差は非常に大きなものとなっています.ニューカレドニアの独立の話題を耳にするたびに,このコモロの例を思い出すのでした.

Caredoniad  写真は2001年にニューカレドニアのアメデ島の灯台をバックに(20年前なので2人とも若い!).

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2021年11月20日 (土)

加藤の乱

 当ブログでは普段あまり政治的な話題は取り上げないのだが今日は特別に.

 政治の世界,とりわけ国会では普段与党と野党が議論を戦わせているが,時に与党内で政争と呼ばれる大きな騒動(内輪もめ)が起こることがある.特に内閣の支持率が低い時に,党の有力者間での対立が起こったりするとそれが発生する確率が高くなる(逆に内閣支持率が高い時にはまず起こらない).わが国で政党政治が始まって以来何度もこの手の事件が起こっているが,その中でも比較的新しく,しかもメディアでその様子が一般大衆に晒された事件として有名なのが,2020年11月20日にそのクライマックスに至ったいわゆる加藤の乱である.

 これは当時,様々な失言や閣僚のスキャンダルで支持率が10%台に低迷していた森喜朗内閣へ野党が提出する予定の内閣不信任決議案に関して,当時の自民党の有力者だった加藤紘一氏が自らの派閥を率いてこれに賛成すると宣言し,盟友だった山崎拓氏もこれに同調した結果発生した事件である.

 内閣不信任決議案は議会では少数派である野党側が提出するものであり,多数派である与党側が結束して反対すれば基本的に成立することはない.しかし前述のように与党内で政争が起こっている場合には時として成立してしまうことがある.たとえば1980年5月の大平内閣時には当時の社会党が提出した不信任案に対して,自民党の反主流派が大挙して本会議を欠席する事態になったために可決成立しそのまま解散総選挙になった.また1993年6月の宮澤内閣時には当時自民党最大派閥だった経世会(竹下派)が小渕派と羽田派に分裂し,直後に非主流派となった羽田派の面々が賛成票を投じたために不信任案が可決され同じく解散総選挙になっている.

 2000年秋もそうした展開になりそうな雰囲気で世間の注目を集めたが,自民党内の主流派からの激しい切り崩し工作を受けたことに加え,肝心の加藤氏が最終的に本会議を欠席する方針に切り替えたことから結局不信任案は否決され,乱は失敗に終わった.世間ではこうした反乱を起こす以上,加藤氏とその同志は自民党を離党するだろうと見ていたが,加藤氏にはその考えはなかった(過去に自民党を離党したグループが一時的には支持を集めてもやがて失速していった事例が多いことからとのこと).このため結果もし仮に不信任案が可決され解散総選挙となった場合,反乱を起こした加藤派のメンバーは自民党からは公認されず,かといって野党側から出ることもできず苦しい選挙戦になることが予想された.このため加藤派内には動揺が広がり,結果自民党執行部による切り崩しが成功したと考えられている(特にこの時期にはすでに現在の小選挙区比例代表並立制が確立しており,よほどの地盤を持つもの人物でなければ政党のバック無しでの当選が難しくなっていた).2000年11月20日夜,乱の失敗を受けて切り崩されなかった加藤派と山崎派のメンバーが合同議員総会を開き,席上一人で本会議に出席し不信任案に賛成票を投じると宣言した加藤氏に対して同派の幹部である谷垣禎一氏が肩をつかみながら遺留し,加藤氏が涙を浮かべるシーンはテレビ中継されこの事件を象徴する場面として知られている.

Kato  当時加藤氏は党内第2派閥の領袖として自民党次期総裁の有力候補とみられていたが,この乱の失敗により総裁候補から脱落,さらに2002年に事務所の政治資金問題が起こり,その責任をとる形で離党および議員辞職に追い込まれた.その後国政復帰したものの往年の影響力はなく2012年の総選挙で落選しそのまま政界引退となった.

 ちなみに現総理大臣の岸田文雄氏と前総理大臣の菅義偉氏はともに加藤の乱の際切り崩されなかった(すなわち加藤氏とともに本会議を欠席した)加藤派の衆議院議員である.乱から20年の時を経ているとはいえ,当時政権与党内で造反行動を取ったメンバーが国政の中枢を担っているということに深い感慨を覚えたのだった.

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2021年8月12日 (木)

相沢事件

 今日は8月12日,今から36年前の1985年(昭和60年)のこの日,羽田空港から大阪伊丹空港に向かっていた日航123便が御巣鷹山の尾根に墜落し乗員乗客520人が犠牲となる事故(日航ジャンボ機墜落事故)が起こりました.

 当時私は大学2年生で,夏休み期間中でしたが飲食店のバイトの関係で帰省はせず仙台にいました.この8月12日はバイトではなかったため,アパートでちょうどテレビを見ていたタイミングで臨時ニュースが飛び込んできた記憶があります.この事故では歌手の坂本九さんや阪神タイガースの球団社長の中埜肇さんなど著名人も犠牲になっていますが,当時自分がバイトしていた飲食店チェーンの重役の方もたまたま搭乗していて遭難しています.

800pxtessan_nagata_2  そんな8月12日ですが,歴史をさかのぼるとほかにも大きな事件が起こっています.日航機事故のちょうど50年前,1935年(昭和10年)に起こったのが今回テーマに掲げた相沢事件です.これは当時の陸軍省軍務局長だった永田鉄山少将が相沢三郎中佐により白昼局長室で斬殺された事件です.

 当時日本は満州事変とその後の国際連盟脱退で国際的な孤立を深めていた時期でした.こうした状況の中で陸軍内には軍が中心となって国家経済を統制し,国を高度国防国家へと改造していこうという動きがありました.これを主導していたのが主に陸軍大学校出身のエリート軍人たちで一般に「統制派」と呼ばれています.永田少将はこの統制派のリーダーと目されていました.ただ軍内には当時の政治家や財界の腐敗を糾弾し,天皇親政による国家改造を行おうと考えるグループ(皇道派)もいて,両者による対立が起こっていました.

 昭和10年7月16日に皇道派のドンと目されていた真崎甚三郎大将が教育総監を罷免されると,これが皇道派を軍中央から排除しようという統制派の陰謀であると考えた相沢中佐は8月12日に陸軍省を訪れ,軍務局長室に侵入して凶行に及んだのでした(後に軍法会議にて相沢は銃殺刑となる).この事件により皇道派と統制派の対立は一層激しくなり,翌1936年(昭和11年)の2・26事件でその頂点に達することになるのです.

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2021年3月18日 (木)

緊急事態宣言の解除

 新型コロナウイルス感染症に関連して首都圏の1都3県に出されている緊急事態宣言について,政府は期限となる3月21日をもって解除することを決めたようです.

 1都3県の緊急事態宣言解除へ 諮問委員会が政府方針を了承

 今回の緊急事態宣言は年末年始の感染急拡大を受けて,年明けの1月7日に東京,埼玉,千葉,神奈川の1都3県に出され,その後13日に栃木県、岐阜県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県及び福岡県の2府5県が追加されていたものです.その後感染が縮小傾向を示したものの,当初の期限だった2月7日では解除されたのは栃木県のみで,その他の1都2府7県は1か月の延長が発表されました.このうち東海2県と関西2府2県,福岡県に関しては2月末での解除となりましたが,首都圏の1都3県は期限の3月7日にさらに2週間の延長となっていました.

 昨年3月に都知事がロックダウンという言葉を使ったことが話題になりましたが,日本の法律では国民の移動を禁止あるいは拘束することは不可能で(逮捕状による逮捕や精神疾患に関連する措置入院といった例外を除く),基本的にはすべてお願いに留まります.飲食店に対しては時短要請に応じない事業者に対して知事が命令することはできますが,社会全体を規制するには程遠いものです.これは憲法に謳われている基本的人権の尊重の精神が最大限生かされ,国民の行動を権力が規制できない法体系になっているからです.海外では強制隔離や外出禁止令を出せる国は多く,そうした措置が大々的に行われている国との違いは歴然です.

 そんなユルイ緊急事態宣言なんて意味あるのかという声が聞こえてきそうですが,一方で日本人は同調圧力や空気に弱いので,緊急事態!という言葉にビビッてなんとなく世間全体がおとなしくなるのと,世界の中では国や自治体の言うことに素直に従う国民が非常に多いので,それでも出せば効果が現れるわけです.

 ただ所詮は法的根拠のない空気ですから,時間が長引けば長引くほど慣れてきてしまい,効果が薄くなります.最近ニュースなどで都市部の人出が増えている報道がありますが,そうした慣れを反映しているのでしょう.こうなってくるともう,宣言そのものが意味をなさなくなるのは必然なのでこのタイミングでの解除は必然と思われます.

 一方で東京都などは解除明けの3月22日から3月31日までの期間について,引き続き不要不急の外出は避けること,飲食店には時短要請をすること(ただし宣言中の20時までから1時間延長して21時まで),イベント入場者数の上限等を掲げており,内容的には宣言期間中とあまり変わらないことになっています(宣言が終わっても中身は変わらない).

 国家が感染症を制御するのは不可能で,結局は国民一人一人の予防行動が重要です.日本が世界水準でいえばこんなユルイ緊急事態宣言で欧米に比べて圧倒的に少ない感染者数,死亡者数に留まっているはひとえに国民一人一人の感染症対策が優れていることの証左です.宣言解除後も対策は徹底しながら食事や旅行も楽しんでいきたいものです.

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2021年2月16日 (火)

記憶にございません

Img_4384  今日は2月16日,バレンタインデーの翌々日です.病院というところは女子率の高い職場なので義理チョコをもらう機会が多いのですが,私自身チョコレート🍫が好きな方ではなく,数年にわたり「義理チョコいらないから義理ワイン🍷下さい」キャンペーンをやった結果,ようやく近年はワインがもらえるようになりました.

 ただ今年はバレンタインデーが日曜日に当たったことも影響し,もらえたワインは例年に比べて少数にとどまりまっています.

 さて実は今日の本題はバレンタインデーではなく、表題の「記憶にございません」というセリフです.実はこれ,今から45年前の今日,衆議院予算委員会で当時世間を騒がせていたロッキード事件を巡る証人喚問が開催された際,証人として出頭した当時の国際興業社長の故・小佐野賢治氏が疑惑を追及する議員からの質問に対して何度も発したセリフなんです(議事録によると正確には「記憶はございません」、「記憶がありません」だったようです).

Osano01  国会の証人喚問は議院証言法という法律に定められてあるように,証人には正しい証言が求められます.噓の証言をした場合,3か月以上10年以下の懲役が課されることになります(議院証言法第6条).議員たちは当然疑惑の有無について聞いてくるわけですが,仮に「そのような事実はありません」と証言した場合,後に虚偽であることが判明すれば,先の議院証言法により処罰を受けることになります.一方で「記憶にありません」なら,本当のところはどうなのか外部からはわからないので法律に引っかからないのではと認識していたと想像されます.まあ本当に無関係なら「そんな事実はありません」といえるはずなので、そういわない段階で世間では「これはクロだな」という空気が広がりました.

 この「記憶にございません」は当時流行語になり,小学生も使っていたのを覚えてます(自分も小学生でした).

 そんなことを思い出した2月16日でした.

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2021年2月 9日 (火)

スバールバル条約

0212  今日2月9日はスバールバル条約締結の日です.

 スバールバル諸島とは,ノルウェー本土最北端のノールカップからさらに北へ約1000キロ,北極点とのほぼ中間地点に位置する群島です.最大の島がスピッツベルゲン島で,人が定住する街があるところとしては世界最北になります(一番大きな町が人口1400人のロングイヤービーエンでここにジェット機が離着陸できる空港があります).

Hyo9 Malls (左)エスマルヒ氷河,(右)ロングイヤービーエン中心部の商業エリア

 この諸島が歴史に登場するのは1596年で,のオランダ人Willem Barentszがここを「尖った山」という意味でスピッツベルゲン諸島と名づけたのが始まりとされています.その後17世紀から19世紀にかけてはヨーロッパ人による狩猟や沿岸での捕鯨が行われる程度でしたが,18~19世紀に始まった産業革命によって石炭の需要が急増すると,石炭を豊富に埋蔵していたこの島は俄然注目を集めるようになります.20世紀に入って炭鉱が開かれるなど開発が進みました.ただ帝国主義時代だったこともありノルウェーの他,各国が領有権を主張するなど政治的に不安定な状態でした.そのため第一次世界大戦後,1920年2月9日にパリで締結されたのがスバールバル条約です.この条約によって政治的にはノルウェー領と決定しましたが,条約加盟国国民は等しく査証なしで入島でき,自由に経済活動が行うことができるようになりました(加盟国国民ならその気になれば自由に行って一旗揚げる権利がある).ちなみに日本はこの条約の原加盟国14か国のひとつです.

10ji_20210209164001 (写真)真夜中の太陽

 私がスバールバル諸島を訪問したのが2003年6月でした.夏至に近い白夜真っただ中の時期です.真夜中1時だというのに真昼のような明るさで感動したのを覚えています.

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2020年12月 8日 (火)

79年前の今日

 今日は12月8日,今から79年前の1941年(昭和16年)のこの日,日本はアメリカ・イギリスに対して戦闘を開始しました.これにより1937年(昭和12年)に始まっていた日中戦争(双方とも宣戦布告がなされていなかったため,建前としてはあくまでも地域紛争だった),1939年(昭和14年)に始まっていたヨーロッパの戦争と完全にリンクし第二次世界大戦は文字通り世界大戦に拡大しました(戦争の呼称については同年12月12日の閣議で「大東亜戦争」とすると決定されましたが,アメリカ側の呼称である太平洋戦争が用いられることが多い).

 この日のNHKラジオは朝から開戦を報じる臨時ニュースを流していました.有名なニュースですが,これによると「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」とあります.西太平洋というのは普段あまり使われない用語ですが,定義としては日付変更線よりも西側の太平洋ということになります.実際には同日海軍が真珠湾攻撃,フィリピン各地のアメリカ軍基地の爆撃,陸軍がマレー半島のコタバル上陸戦,香港攻略戦を同時進行で行っているので,西太平洋という表現で間違っていないわけですが(ハワイは日付変更線よりも東であり,正確には東太平洋じゃないかというツッコミはあります),これは臨時ニュース発表時にまだ作戦が継続中であり,詳細な地名を出すのが憚られたという事情もあると思われます.

 開戦に至る経緯や評価に関しては当ブログの守備範囲外なので割愛しますが,歴史的な一日に思いをはせているのでした.

 

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2020年11月11日 (水)

11月11日

 今日11月11日は数字の「1」が4つ並ぶ日です.その見た目から日本では細長いものに関連する記念日が目白押しで「ポッキーの日」,「麺の日」,「もやしの日」などに指定されています.

1974__2 Publicdomainq0026828lmk Fotolia_122918345_subscription_monthly_m  一方で世界史的には第一次世界大戦の休戦が成立した日として知られています(1918年11月11日).

 日本では自らが大きな傷を負うことになった第二次世界大戦の陰に隠れて印象が薄い戦争ですが,19世紀の帝国主義時代のヨーロッパの複雑な国家関係の破綻によって始まり,やがて第二次世界大戦の原因にもなった重要な戦争がこの第一次世界大戦です.この辺の話をすると非常に長くなるので今日は止めますが,ともかくそんな世界史上重要な戦争が収まったのがこの日なのでした.

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2020年6月 4日 (木)

満州某重大事件

 今日は6月4日,今から31年前に北京で天安門事件が起こった日として知られます.当時民主化を求めて集まっていたデモ隊に中国人民解放軍が武力介入し,多数の犠牲者を出した事件です.世界中に衝撃が走り,中国は国際社会から強い非難を浴びました.

 この事件が起こった日,私はたまたま仙台の友人の家に滞在していたんですが,この時ニュースに度々登場したのが北京飯店です.市内にある高級ホテルで,当時日本からの特派員や駐在員の多くがここに滞在していたからです.ただ当時は(今もかもしれませんが)飯店という用語が中華圏でホテルの意味であることが知られていなかったこともあって,テレビを見ていた友人が「北京飯店って中華料理屋じゃないのか?」と言っていたのが強烈に印象に残っています(笑).

 そんな6月4日ですが,今から98年前の1928年(昭和3年)のこの日に同じ中国大陸で地味に大きな事件が起こっています.それが表題の満州某重大事件です.これは当時の日本政府内で使用されていた用語で,世間的には張作霖爆殺事件の名で知られています.

Zhang_zuolin (写真)軍閥張作霖

 1911年の辛亥革命後,清は国民党政府による中華民国として生まれ変わったとされていますが,実際には国民党政府の力が全土に及んでいたわけではなく,地方には軍閥が割拠するという混乱の中にありました(三国志や唐末期みたいな感じ).こうした地方軍閥の中でも有力だったのが満州の奉天(現瀋陽)を拠点にしていた張作霖で,1920年代にはしばしば軍を南下させ北京や揚子江付近まで進出していました.この張作霖を支援していたのが日本の関東軍です.1904~1905年の日露戦争に勝利し満州の権益を手に入れた日本でしたが,続く第1次世界大戦後の民族自決の国際世論の中では,なかなか表立ってそれを強化することができませんでした(特に当時中国大陸に足がかりがなかったアメリカの警戒が強かった).そのため日本としては満州の有力軍閥である張作霖を支援して,彼を利用することにより間接的に満州の利権を独占しようと考えていたのです.

 しかし張作霖は次第に日本の思惑通りに動かなくなり,逆に当時日本との対立が芽生え始めていたアメリカやイギリスに接近し始め,逆に日本の権益を脅かすようになったため,日本の関係者は彼を見限ります.そして1928年に入り,ほかの軍閥を支配下におさめて力を付けた国民党の蒋介石による北伐が本格化すると,国民党軍との戦いを避けて北京から満州に帰還することになりました.この帰還途中だった張作霖の乗った列車が奉天郊外で爆破され,暗殺されたのが事件の概要です.

Zhang_zuolin_20200605100001 (写真)事件現場の様子

 当初は敵対していた国民党軍による犯行とされていましたが,その後関東軍の高級参謀河本大作大佐による謀略であったことが判明しており,後に頻発する関東軍独走の端緒的な事件となりました.この事件によって当時の田中義一内閣が倒れるなど日本の政治にも大きな影響を与えました.しかしながら首謀者とされる河本大佐は軍法会議にかけられることもなく予備役となって軍を離れたのみで,その後は満鉄(南満州鉄道)関連の役員として大陸で活動し続けたと言われています.

 そんな事件もあった6月4日でした.

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2020年4月28日 (火)

UFOの話題

 今日ネットのニュースでアメリカの国防総省がUFOの映像を公開したという話題が出ていました.

 米軍、UFO撮影に成功か 「謎の現象」映像公開(産経新聞)

 記事によるとアメリカ海軍が過去に撮影した3種類の「謎の空中現象」の映像を公開,その中に未確認飛行物体(UFO)のような円盤状の物体が雲の上を高速で飛んでいるような様子も記録されていたそうで,同省によるとは「映像に残された現象の正体は分からないままだ」としているとのことでした.

 これを受けて,今日の午前中の記者会見で河野太郎防衛大臣が,自衛隊がUFOに遭遇した際に備えて「(対応の)手順をしっかり定めたい」と述べたという関連記事も出ていました.

 UFOとの遭遇に備え「手順定めたい」 河野防衛相(産経新聞)

 大臣自身はUFOの存在を信じてはいないそうですが,万一自衛隊がUFOに遭遇した場合の対処法について自衛隊に検討を求めたということです.

 政治の世界とUFOという組み合わせが面白いですが,日本でも1980年代には「宇宙人との友好を進めよう」,「各国政府はUFOに関する機密を開示すべき」と主張する団体としてUFO党(後に「開星論」のUFO党)があり参議院選の比例代表区に候補を建てていた時代もありました(泡沫盛唐の悲しさからか当選者はゼロ).バブルが崩壊後こうした泡沫団体の活動は縮小してしまいましたが,それでもたまに取り上げられることがあります.平成30年2月に立憲民主党の逢坂逢坂誠二議員が提出した質問主意書の中で,「政府は、地球外から飛来してきたと思われる未確認飛行物体の存在を確認したことはあるか」,「我が国への武力攻撃には地球外から飛来してきたと思われる飛行物体によるものも含まれるのか」というような質問がなされたことがあります.

 それに対して「「UFOの存在を確認したことはない」,「UFOが攻めてきた場合の対応は検討していない」というような答弁が出ており,一応これが今の日本政府のUFOに対する公式の見解です.今朝の大臣の発言は,この時の答弁から一歩踏み込んだものであり,個人的には注目しています.

 ちなみに世間では UFO=空飛ぶ円盤=宇宙人の乗り物 という認識ですが,UFOとは本来”unidentified flying object”(未確認飛行物体)の略であり,発見段階でその正体が不明な飛行物体はすべてUFOであること,円盤型である必要は全くないことがわかります.宇宙人の乗り物が円盤型になったのはジョージ・アダムスキーが提唱した空飛ぶ円盤のイメージが広がったためです.

 折からの感染症で混乱する世界の中で,アメリカの国防省がこういう話題を出してきたというのは,地球外生命体の存在が確認されつつあることの傍証ではないかという人もいて興味深いと思いました.

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