2024年8月15日 (木)

岸田首相の不出馬

 今日は終戦の日、当ブログは基本的に政治的な話題を扱わないのですが、この日だけは例外にしていることが多いのでお許しを。話題は昨日岸田総理大臣が来月行われる自民党総裁選に出馬しない意向を表明したというニュースです。

 自民党という一政党の党首と、日本の行政機関の長である内閣総理大臣は基本的に別物ですが、日本では政権与党最大政党の党首が内閣総理大臣になることが一般的であるため(村山富市氏など例外はある)、今期で自民党の総裁を退くということは、自動的に内閣総理大臣は辞任するということになります(過去には総理総裁分離論なんているのもあった時代もあるが)。いわゆる裏金問題などで世論の批判を受けたことから、そのけじめを付けるためということのようです。このタイミングになったのは、国会が閉幕し主要な外交日程が一段落したことからと思われます。その評価は人によりけりでしょうが、少なくとも外交安全保障政策に関してはよくやっていたと思います。

Img_0042  ちなみに今日のナミビアの英字紙Sunの国際面にこのニュースが載っていました。ロイター通信による記事ですが、興味深かったのが上智大学の中野晃一氏の話として、「自民党の現職総理は、勝利が確実でなければ総裁選に出馬できない。相撲の横綱と同じ、活だけではなく優雅に勝たなければならない」という話です。そういえばそうだったかなと思い調べたら、たしかに現職総理が出るときは無投票になることも多く、基本は無風なようです(ただし自分も記憶のある福田赳夫総理の時の総裁選は予備選で福田氏が大平氏に敗れて本戦に出なかったというケースがありましたが、これが勝利が確実でなければ総裁選には出られないの実例なのでしょう)。

 そんなことを考えた2024年8月15日でした。

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2024年2月26日 (月)

2・26事件

Image_2  今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,クーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争がありました.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのは皇道派の将官たちです.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドンである真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようと工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わりました.

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも影響は及び,さすがに軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって皇道派は陸軍中枢から一掃され,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増大,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

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2024年2月23日 (金)

ガインゴブ大統領の葬列

 今月4日に逝去したナミビア共和国第3代大統領 H. ガインゴブ氏、その国葬が週末に行われるのに先立ち、この日は彼の棺が市内各地を回るイベントが行われました。これには当地の生徒児童も参加するためこの日学校は休みとなったようです。その棺が通過する瞬間を目撃できました。

 明日24日は郊外のインデペンデンス・スタジアムにて追悼のセレモニーが、明後日25日は国葬が行われます。

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2024年2月 4日 (日)

ナミビア大統領逝去

 今朝、私の滞在しているナミビア共和国の大統領Hage Geingob氏が亡くなったという政府発表がありました。

 

 以前から持病があり、入退院したりなど健康不安がささやかれていたこと、先月にはがんに罹患していることが発表され、治療のためにアメリカに渡ったりしたなどの情報があったため、全くの驚きというわけではありませんでしたが、渡米の際にはそれほど重篤な感じを受けなかったため、予想以上に急な出来事だったと感じています。

 ただ元々今年大統領選挙が予定されており、憲法上現大統領は今期で勇退が決まっていたため国内には大きな動揺はないようです。元々の任期は来年の3月までなので、そこまでは副大統領が代行として任務を全うし、秋に行われる選挙で決まる新大統領に引き継がれるものと思われます。

 Geingob氏のご逝去を悼み、謹んで哀悼の意を表します

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2023年5月10日 (水)

広島旅行②~平和記念公園編~

 一夜明け5月7日になりました.一昨日以来の雨も上がり,青空が広がっています.ホテルで朝食を取りましたが,かなり混んでいた昨日と異なり同じ時間帯にも拘らず空いていました.考えてみればこの日はGW明けの月曜日,多くの観光客はすでに日常生活に戻っているわけです(世間の動きとは微妙に行動パターンをずらすのが自分らしい).

 この日の午前中は、まず市内の平和記念公園を目指します.1945年(昭和20年)8月6日に投下された原子爆弾によって広島の街は一瞬にして廃墟になり多くの市民の命が奪われました.その際投下目標とされたのが市内の本川と元安川の分岐部に架かる相生橋です(実際の爆心は橋のやや南東にあった島病院の上空と考えられている).爆心地周辺の建物はほとんど全壊したものの、奇跡的に全壊を免れたのが広島県産業奨励館で,独特のドームを持つことから戦後原爆ドームと呼ばれるようになり,核兵器の恐ろしさを後世に伝えるものとなっています(1995年国の史跡,1996年ユネスコ世界遺産).

Img_09261 Img_09291(左写真1)原爆ドーム,(右同2)元安川から先の相生橋を望む

 徒歩と路面電車を利用して現地へ.やはりGW明けの平日ということで一般観光客の姿は少なく,修学旅行生や外国人観光客の姿が目立ちました.まずは原爆ドームへ,ここに来たのは学生時代以来なので30年は経っているはずです.テレビではあのドームの建物しか見えませんが,実際に現地で見ると敷地内に多くの瓦礫が散らばっているのが分かり,そちらの方がより当時の惨状を思わせるように感じます.

Img_09301 Img_09341(左写真3)慰霊碑,(右同4)平和の鐘

 その後は橋を渡って平和記念公園へ.ここには小グループに分かれた修学旅行生が多かったです.毎年8月6日の記念式典の会場になる場所ですが,青々とした緑が広がる光景は廃墟から復興したこの街の思いを感じさせます.公園の中心にある慰霊碑からは原爆ドームの姿を望むことができました(反対側が平和資料館).様々なことを思いながら頭を垂れた我々でした.

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2022年6月26日 (日)

期日前投票

 去る6月22日に第26回参議院議員通常選挙が公示されました.投票日は7月10日です.解散のある衆議院と異なり,参議院は6年の任期が保障されているため3年ごとに半数が改選されるシステムとなっています.有権者の一人として与えられた貴重な一票を大切にしたいと思います.

 が,肝心の投票日である7月10日は出張が入っているため投票できません.ということでこっそりと期日前投票に行ってきました(笑).

 会場内は一方通行で,入口で宣誓書を記載して中に入ります.選挙区,比例代表の潤に投票を行いそのまま会場の外に出ます.そこには腕章を付けた人が待っていました.これが出口調査というやつです.N○Kと名乗っていました(笑).昔は紙にチェックするスタイルでしたが,今はタブレットで答える仕組みに代わっています(この辺に時代の変化を感じる).答えながら「実際の投票行動と違う回答をしたらどうなるんだろう」と考えてしまいました.根が善良(笑)なのでそんなことはしませんでしたが,思えば昨年の衆議院議員選挙では,投票締め切り直後のマスメディアの予測と実際の結果にズレが生じて話題になりました.当時案外出口調査で実際の投票行動と異なる回答をした有権者が一定数いたのではなどと考えていましたが,まあ正直に答える義務はないのでそれ自体を責めるとはできません.

 こうした実際の行動と調査の回答との乖離といえば,2016年アメリカ大統領選挙が有名です.この選挙で実際に当選したのは共和党のトランプ候補でしたが,事前予測では民主党のクリントン候補の方が優勢とされていました.これは当時過激な言動で知られたトランプ氏を支持していると社会的に公言しにくい雰囲気があったために,調査では正直な回答をしない有権者が多く,メディア側がそれを読み誤ったため(隠れトランプ)とされています.近年の日本の選挙報道にもこうした影響が出ているのかもしれません.

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2022年5月 3日 (火)

憲法記念日

 今日5月3日は憲法記念日です.日本国憲法が1947年のこの日に施行されたことを記念して制定された祝日です(公布は前年1946年11月3日でこちらは文化の日になっています).日本国の最高法規として制定されて70年以上,最近はその改正論議も話題になっています.

 この5月3日というのは世界史的にもいろんな事件が起こっているんですが,その中でも興味深いのが1791年のこの日に当時のポーランド王国でヨーロッパ初の近代的成文憲法が成立したことです.18世紀のヨーロッパは王朝全盛期の時代です.フランスやプロイセン,スペイン,ロシアなど大陸諸国は軒並み絶対王政あるいは貴族を含めた寡占政であり憲法に基づく法の支配の概念は未発達でした.イギリスだけは17世紀の革命を経て国王の権力が制限された議会政治が始まっていましたが,同国の憲法は慣習法なので成文化された憲法はありませんでした.そんな時代にポーランドでヨーロッパ発の近代憲法が制定されたのです.この憲法は三権分立,法の支配が明確に規定された画期的なものでした.

 どうして当時のポーランドでこうした憲法が作られたのか,それは当時の同国をめぐる状況に由来します.10~11世紀に建国されたポーランドは16世紀には穀物輸出国として繁栄しました.内政的には国王の権力が制限された貴族政で大小の貴族によるセイムという名の合議制を取っていました.特筆すべきは国王はセイムの同意なしに法律を制定することができないことに加えて,セイム構成員の貴族一人一人に拒否権が与えられていたことです.すなわち全貴族による全会一致が大原則の政治体制だったのです.国勢が盛んな時期はそれで特に問題は起こらなかったものの,17世紀以降新大陸からの穀物輸入が始まり,ヨーロッパが穀物不況になると状況が変化します.不況により貧富の差が拡大すると貴族の中でもマグナートと呼ばれる大貴族の力が強まり,彼らは自己の利益を最優先して自らに不都合や政策には拒否権を濫用するようになったため国政の停滞が起こります.さらにはこの頃から東にロシア,西にプロイセンが勃興してきたためポーランドはその圧迫を受けるようになりました.18世紀に入ると周辺国からの圧力はますます強まり,次第に領土を侵食されるようになります.時あたかも啓蒙主義の時代であり,この状況を打開するためには政治改革による体制の一新しかないと考えた国王スタニスワフ2世ら改革派はフランスのルソーら啓蒙主義者の助言を受けながら憲法の草案を作成,ついに1791年5月3日に画期的な憲法が制定されたのです.

 しかしこの時すでにフランス革命が始まっており,プロイセンやロシア,オーストリアなどの周辺国は革命が自国に波及することを危惧していました.そうしたタイミングでポーランドに新憲法が制定されることは非常に危険なものと認識され,憲法制定のわずか1年後国内の改革反対派と結託したロシア軍が侵入,改革は頓挫し1795年までにポーランドはロシア,プロイセン,オーストリアによって分割され滅亡することになってしまいました.

 現在ウクライナで起こっている戦争のニュースを見聞きすると,およそ200年前のポーランドの憲法記念日のことが強く思い出されます.5月3日はポーランドでも「5月3日憲法」記念日として祝日になっているそうです.

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2022年2月26日 (土)

2・26事件

Image_2  今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,官邸でクーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争があります.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのはもちろん皇道派です.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドン的な存在だった真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようといろいろ工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐くらい),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わりました.

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも累は及び,軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって陸軍内の皇道派は壊滅状態となり,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増大,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

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2021年12月12日 (日)

ニューカレドニアの独立問題

 ネットのニュースに上がっていた話題です.

 ニューカレドニア独立否決と公共放送

 南太平洋のフランス領ニューカレドニアで12日,フランスからの独立の是非を問う住民投票が行われ,反対多数で独立は否定されたとのことです.

 ニューカレドニアはオーストラリアの東,ソロモン諸島の南に位置する島嶼で,主島であるグランドテール島と周辺の多数の小島からなっています.日本ではイル・デ・パン島やウベア島などのビーチリゾートの地として,新婚旅行先として人気の高いところです(自分は今から20年前に新婚旅行以外で訪問しています).一方世界有数のニッケル埋蔵量を誇り,その採掘と輸出も重要な産業となっています.

 そんなニューカレドニアですが,1980年代より先住民を中心に独立運動が起こりました.世界的な脱植民地の流れもあり1987年には独立の是非を問う最初の住民投票が行われ,結果大差で独立は否決されましたが,一部独立過激派による暴動などが起こっています.その後1998年にフランス政府と独立派勢力等の間でヌメア協定が結ばれ,自治権の拡大が図られる一方で,2018年までに独立の是非を問う住民投票を行うこと,仮に否決されたとしても議会の要請があればその後2回(2020年と2022年)住民投票が実施できることになりました.

 それを受けて2018年に独立の可否を問う最初の住民投票(1987年を1回目とすれば2回目ですが)が行われましたが結果は否決でした(反対派約56%).ついで2020年に2回目の投票がありましたが再び否決(反対派約53%).そして今回3回目の投票となったものです.

 独立賛成派は現在のコロナ禍の状況の中での住民投票は延期すべきであると投票の実施に反対しており,延期が受け入れられなかったことから住民にはボイコットを呼びかけたようです.そんな中行われた今回の投票では反対約97%の圧倒的多数で独立派三度否決されました.ただ独立派がボイコットを呼びかけたことから投票率は40%台に低迷したとのことです(結果から類推すると独立賛成派の多くが投票しなかったようです).過去2回の住民投票では徐々に賛成反対の割合が拮抗してきていました.そんな流れの中で今回投票が行われたにもかかわらず独立派が投票延期を申し入れていたしかし,新型コロナの流行はニューカレドニアにも及び,結局現地政府が有効な対策を打てなかった(ワクチンの確保等結局フランス本国政府に頼らざるを得なかった)ことから独立反対派の勢いが増している状況でした.このため独立派としては今投票をするのは自分たちに不利であると考えていたようです.

 ヌメア協定では今回が最後の投票になるはずですが,独立派は今回の結果を受け入れないと表明しており今後の推移に注目です.

 ちなみにアフリカ大陸の東にコモロ諸島という4つの島(グランドコモロ島、アンジュアン島、モヘリ島、マヨット島)からなる諸島があります.ここもかつてフランス領だったのですが,1975年にマヨット島を除く3島がコモロ連合として独立しました.しかしコモロ連合は内政の不安定さから経済が低迷する一方で,フランスに残ったマヨット島は本国支援を受けてそれなりの経済を維持しており、現在その格差は非常に大きなものとなっています.ニューカレドニアの独立の話題を耳にするたびに,このコモロの例を思い出すのでした.

Caredoniad  写真は2001年にニューカレドニアのアメデ島の灯台をバックに(20年前なので2人とも若い!).

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2021年11月20日 (土)

加藤の乱

 当ブログでは普段あまり政治的な話題は取り上げないのだが今日は特別に.

 政治の世界,とりわけ国会では普段与党と野党が議論を戦わせているが,時に与党内で政争と呼ばれる大きな騒動(内輪もめ)が起こることがある.特に内閣の支持率が低い時に,党の有力者間での対立が起こったりするとそれが発生する確率が高くなる(逆に内閣支持率が高い時にはまず起こらない).わが国で政党政治が始まって以来何度もこの手の事件が起こっているが,その中でも比較的新しく,しかもメディアでその様子が一般大衆に晒された事件として有名なのが,2020年11月20日にそのクライマックスに至ったいわゆる加藤の乱である.

 これは当時,様々な失言や閣僚のスキャンダルで支持率が10%台に低迷していた森喜朗内閣へ野党が提出する予定の内閣不信任決議案に関して,当時の自民党の有力者だった加藤紘一氏が自らの派閥を率いてこれに賛成すると宣言し,盟友だった山崎拓氏もこれに同調した結果発生した事件である.

 内閣不信任決議案は議会では少数派である野党側が提出するものであり,多数派である与党側が結束して反対すれば基本的に成立することはない.しかし前述のように与党内で政争が起こっている場合には時として成立してしまうことがある.たとえば1980年5月の大平内閣時には当時の社会党が提出した不信任案に対して,自民党の反主流派が大挙して本会議を欠席する事態になったために可決成立しそのまま解散総選挙になった.また1993年6月の宮澤内閣時には当時自民党最大派閥だった経世会(竹下派)が小渕派と羽田派に分裂し,直後に非主流派となった羽田派の面々が賛成票を投じたために不信任案が可決され同じく解散総選挙になっている.

 2000年秋もそうした展開になりそうな雰囲気で世間の注目を集めたが,自民党内の主流派からの激しい切り崩し工作を受けたことに加え,肝心の加藤氏が最終的に本会議を欠席する方針に切り替えたことから結局不信任案は否決され,乱は失敗に終わった.世間ではこうした反乱を起こす以上,加藤氏とその同志は自民党を離党するだろうと見ていたが,加藤氏にはその考えはなかった(過去に自民党を離党したグループが一時的には支持を集めてもやがて失速していった事例が多いことからとのこと).このため結果もし仮に不信任案が可決され解散総選挙となった場合,反乱を起こした加藤派のメンバーは自民党からは公認されず,かといって野党側から出ることもできず苦しい選挙戦になることが予想された.このため加藤派内には動揺が広がり,結果自民党執行部による切り崩しが成功したと考えられている(特にこの時期にはすでに現在の小選挙区比例代表並立制が確立しており,よほどの地盤を持つもの人物でなければ政党のバック無しでの当選が難しくなっていた).2000年11月20日夜,乱の失敗を受けて切り崩されなかった加藤派と山崎派のメンバーが合同議員総会を開き,席上一人で本会議に出席し不信任案に賛成票を投じると宣言した加藤氏に対して同派の幹部である谷垣禎一氏が肩をつかみながら遺留し,加藤氏が涙を浮かべるシーンはテレビ中継されこの事件を象徴する場面として知られている.

Kato  当時加藤氏は党内第2派閥の領袖として自民党次期総裁の有力候補とみられていたが,この乱の失敗により総裁候補から脱落,さらに2002年に事務所の政治資金問題が起こり,その責任をとる形で離党および議員辞職に追い込まれた.その後国政復帰したものの往年の影響力はなく2012年の総選挙で落選しそのまま政界引退となった.

 ちなみに現総理大臣の岸田文雄氏と前総理大臣の菅義偉氏はともに加藤の乱の際切り崩されなかった(すなわち加藤氏とともに本会議を欠席した)加藤派の衆議院議員である.乱から20年の時を経ているとはいえ,当時政権与党内で造反行動を取ったメンバーが国政の中枢を担っているということに深い感慨を覚えたのだった.

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