2026年2月 3日 (火)

2026年節分

 今日2月3日は節分です。二十四節気の一つである立春の前日という節目の日ということでその名があります。なので本当なら立春以外の立夏、立秋、立冬の前日も全て節分なんですが、世間で言う節分はもっぱら立春前日のものを指しています。

 節分といえば豆まきが有名ですが、これは季節の変わり目には邪気(鬼)が生じるため、これを退治する目的で行われるものとされています(「鬼は外、福は内」など)。今でも各地の神社やお寺などで節分には豆を撒く習慣があります。現実社会でも立春前の時期は1年で最も寒く、インフルエンザなどの感染症が流行する時期なので、この「邪気を払う」というのは理にかなっていると言えます。

 日本とは四季が逆になる南半球では、この日は立秋の節分となるわけですが、当地の保健省からマラリア流行のメディアリリースが出ました。ナミビアは基本乾燥した国なので、周辺諸国に比べるとマラリアは少ないと言われるのですが、雨季にあたるこの時期は特に北部地方で蚊(ハマダラカ)が発生するためそれなりに流行します。以前は年間1~2万人とされていましたが、昨年は雨季の雨が多かった影響からか、5万人以上の患者が発生しました。ただ今回の発表によると2026年第1週から第4週までの間の症例数が8760人と昨年同期(5229人)の1.7倍に増加しています。首都ウィントフックでの発生は稀なので身近に感じることは少ないのですが、注意が必要です(たしかに最近は蚊が多くなったと感じる)。

626197464_1202595968731401_3195595561935 627046021_1202595975398067_5455376627991  そんなことを考えた2026年の節分でした。

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2026年1月26日 (月)

新しいAEDが届きました

 先日職場に新しいAEDが届きました。ただバッテリーは入っていません。なぜかというと、バッテリー(リチウム電池)は発火の恐れがあるため飛行機に預けることができないからです。人間が手荷物として持っていくが当地で購入するしかありません。

Img_7478  と言うことで当地の代理店に注文していたものが届きました。

 さっそく装着します。装着すると「テストを行います」とのアナウンスが流れて確認開始、数分で一通り終了です。あとは所定の場所に設置しておきます。これが使われずに使用期限切れになるのが最もありがたい展開ですが、そう願ってやみません。

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2026年1月20日 (火)

はじけるキャンディ

 先日近所のスーパーで買い物をしていたら興味深い商品を見つけました。

Img_1384 挿絵の雰囲気からどんな商品か想像がつきます。口に含むとパチパチとはじけるタイプのキャンディーです。元は1970年頃にアメリカで登場したポップキャンディーで、70年代末に日本でもドンパッチ、テレパッチなどの商品名で発売され大人気となったものです。2000年代以降は人気が下火になりあまり見かける機会が減ってしまいましたが、駄菓子屋などでは今でも名前を変えて販売しているそうです。

 今回見かけた商品はSTRIKINGという商品名で南アフリカ製のようで、コーラ味とビタミンC味(?)がありました。面白そうなので買って食べてみましたが、はじけたキャンディーでむせそうになり、高齢者は誤嚥の恐れがあるんじゃないかと思いました。

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2026年1月14日 (水)

記念イヤー

 2026年になって10日以上が過ぎましたが、恒例の今年は何の年?です。

① 昭和100年(1926年) 日本の歴代元号の中で最長だったのが昭和です。前時代の大正デモクラシーの風潮で、最初の数年こそ平和な時代に見えたものの、不況と政党政治の腐敗によって軍を中心とした国家改造を目指す勢力が伸張しやがて全体主義体制となり第二次世界大戦に至ります。戦後は冷戦時代の中で経済復興、高度経済成長が進み国民生活は豊かになったものの、公害など新たな問題が生じます。そして戦後の国際関係の象徴だった冷戦が終結していく過程で時代は平成へと変わります。

② ガリバー旅行記初版300年(1726年) 誰でもその名を聞いたことがあるであろう小説、ガリヴァー旅行記が出版されたのが今から300年前の1726年です。著者はアイルランドのジョナサン・スウィフトで、発売以来大人気となりました。作中に江戸時代の日本が登場することでも知られています。

③ サン・ピエトロ寺院献納式400年(1626年) カトリックの総本山として知られるバチカンのサン・ピエトロ寺院、その建立は4世紀のローマ皇帝コンスタンティヌス1世に遡ります。当時は聖ペトロの墓所を守るための聖堂で、ローマ教皇座がある場所ではなかったそうです。14世紀のアビニョン捕囚後に教皇座となったものの、老朽化が激しかったことから15世紀末から新聖堂の建造が始まり、1626年に完成したのが今の聖堂になります。

④ ムガール帝国建国500年(1526年) 近世のインド史に残る重要な国家であるムガール帝国がバーブルによって建国されたのが今から500年前のことです。その後16世紀後半の皇帝アクバルの時代に政治体制が確立します。現代に至るまでインドというのは多様性の塊のような国ですが、アクバルはイスラム教やヒンズー教など様々な利害関係者を上手にまとめ上げて国の運営に当たりました。しかしその後皇帝アウラングゼーブの時代になるとイスラム教への偏重が強くなり国内が不安定化していくことになります。

⑤ 嘉暦の騒動700年(1326年) 鎌倉時代末期は北条得宗家の家督を巡る争いが頻発していましたが、そうした事件のひとつで得宗家の内管領の長崎氏と外戚である安達氏との争いです。

⑥ 西夏滅亡800年(1226年) 10~13世紀の東アジアは漢民族の宋を中心としながらも、周辺諸民族国家が強勢となって宋を圧迫する時代でした。特に女真族の金、契丹族の遼が有名ですが、北西部に位置していたタングート族の西夏も強力な国でした。11世紀に建国すると当初は遼と組み宋を圧迫、後に金が勃興するとこれと同盟して遼を滅ぼし、さらには金によって北宋が滅ぼされると自らの領土を広げるなど、動乱の時代をうまく泳ぎます。しかし13世紀にモンゴルが隆盛になり金が滅ぼされるともはや対抗するすべはなく、1226年に滅亡の憂き目に遭うのでした。

⑦ 北宋滅亡900年(1126年) 10世紀に趙匡胤によって建国された宋は、前時代が地方に藩鎮と呼ばれる軍閥が割拠する状態で国がまとまらなかった反省から、中央集権化、文官優遇の政策を取りました。これは国内統治にはうまくいきましたが、対外的には消極的にならざるを得なく、遼、西夏、金といった周辺国に圧迫されることになります。そして1126年に皇帝欽宗と太上皇徽宗が金に捕らわれると事件(靖康の変)が起こり北宋は滅亡します。

⑧ 渤海国滅亡1100年(926年) 東アジアネタが続きます。今の朝鮮半島北部から中国東北部、ロシア沿海州の一部に勢力を持っていた渤海という国がありました。中央の唐王朝から独立した動きをしていたそれなりに有力な国でしたが、10世紀に入ると弱体化し、当時建国間もない新興国だった遼の耶律阿保機によって攻め滅ぼされてしまいました。

⑨ 聖像破壊運動の始まり1300年(726年) キリスト教は元々ユダヤ教をベースにしていたこともあり、偶像崇拝は禁止されていました。しかし中世初期には布教の都合もあり、イコンと呼ばれる聖画が盛んに利用されました。しかし7世紀に東ローマ帝国がイスラム勢力の侵攻で大幅に領土を失うと、皇帝レオーン3世は偶像崇拝のために神の加護を失った結果であると考え、国中のイコンの破壊を命じました。これが聖像破壊運動で後に西のローマ教会をも巻き込んで、最終的に東西教会の分裂を引き起こすことになります。

⑩ 唐の太宗即位1400年(626年) 7~9世紀にかけて東アジアの中心として周辺諸国に影響を与えた国が唐です。その政治体制を固めたのが第2代皇帝の太宗で、その政治を貞観の治と呼んでいます。

⑪ パルティア滅亡1800年(226年) 紀元前後からローマ(当初共和政、後に帝政)が発展すると、それと西に国境を接するようになったのがパルティア王国です。ゾロアスター教を信仰するイラン系の強力な国で、紀元前1世紀から3世紀にかけてメソポタミアやシリア、アルメニアなどを巡ってローマと何度も戦っています。戦いそのものはパルティア優勢で推移するものの、相次ぐ戦争で国の土台が揺らぎ、ついには新興国ササーン朝ペルシャによって滅ぼされてしまうのでした。

 ざっとこんな出来事が出てきました。建国や国の滅亡など歴史の節目といえる事件が多い印象ですが、自分的な一番はやっぱり昭和100年でしょうか。

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2026年1月 5日 (月)

ラハイナ・ヌーン

 南北の緯度23度26分から赤道にかけての地域では原則として年に2回、お昼に太陽が真上に来る日があります。いわゆるラハイナ・ヌーンというやつで、この時理論的には影がなくなります。年に2回の間隔は緯度に依存しており、赤道直下では春分と秋分という半年おきになり、それよりも南北にずれる(すなわち緯度が上がる)と、夏至を挟んでほぼ対象の日に来ます。ちなみに緯度23度26分の南北回帰線上では夏至の日1回のみとなります。

 ナミビアの首都ウィントフックも南緯22度33分と南回帰線よりも北に位置しているので、年に2回この日がやっています。ただ今シーズン1回目の昨年12月6日は残念ながら曇り空で影のない瞬間をみることはできませんでした。

 そして今日1月5日は今シーズン2回目のラハイナヌーンの日です。幸いお昼に晴れていたため、当地の太陽高度が最高となる時間(すなわち北中時刻)に外に出てみました。

Img_7463_20260127215701 01bdbcd68c514300a03cfbc0f771cde9  付近にあった電灯を見ると、たしかに傘の部分の影はあるものの、柱部分の影はありません(原理的には影がなくなると言いますが、物体には厚みがあるため本当の意味で影がなくなることはありません)。自分の写真も撮ってもらいましたが、頭と肩部分は影が残っています。

 ちなみにこのラハイナ・ヌーン、日本の領土ではは沖ノ鳥島以外では見ることができません。

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2026年1月 1日 (木)

謹賀新年

Kinga 

 当ブログにお越しの皆様(そんな奇特な人がどれだけいるのかは不明ですが 笑)、新年明けましておめでとうございます。今年2026年は60年に1回の丙午の年に当たります。昔は「丙午の年に生まれる女性は夫を食い殺す」的な迷信があり、前回の丙午だった1966年(昭和41年)には実際に出生者数が前後に比べて大きく減ったことが知られています(具体的には私が在学していた中学校では当時1学年9クラスが通常でしたが、昭和41年度生まれの代が8クラスと1クラス少なかったのに対して、その1学年下昭和42年度生は反動で10クラスと多くなりました。

 少子化が叫ばれている現代ですから、今年度の反動が来年来るとは思えないのですが、丙午生まれの自分にとっては非常に感慨深い1年の始まりなのでした(ついに自分が還暦かぁ~ 笑)。

 ちなみに当地では一般的な馬よりもシマウマの方がずっと身近な印象です。

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2025年12月31日 (水)

2025年大晦日

 気がつけば2025年12月31日、いわゆる大晦日です。

 日本ならテレビで特別番組が編成され、お店でも特別な商品が販売されたりと、特別感満載の一日ですが、こちらナミビアは特にいつもと変わったことのない一日です。何よりこちらは今は夏で日も長いため、お正月というよりも、とある夏休みの一日といった趣です。

 そんなナミビアの大晦日ですが、何もしないのも寂しいので、自宅で職場の仲間数人と年越しの会を開催しました。お酒を飲んで蕎麦を食べようという企画です。夕方から始めて、気がついたら午前2時くらいまでわいわいやっていました。途中日付の変わる12時過ぎには市内中心部で花火も上がっていました。

Img_0143_20260127223601  そんな大晦日の特別感が全くないナミビアの大晦日でした。

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2025年12月24日 (水)

2025年のクリスマスイブ

_res_blogd445_constantinus21_folder_1734  今夜はクリスマスイブです。キリスト教においてイエスの誕生を祝うのがクリスマスで、それが12月25日です。ただ聖書にはイエスの誕生日については記載はなく、12月25日は誕生日ではなくあくまでもイエスの誕生を記念する祝日という位置づけです。そしてイエスが生まれたのは夜なので,その聖なる夜(聖夜)をクリスマスイブと呼んでいます。現在では真夜中の12時から日付が変わりますが,キリスト教のベースとなったユダヤ教の暦では日没から日付が変わりました。このため今の暦でいうと12月24日の日没から25日が始まるため,24日の夜がクリスマスイブということになります。時々世間では「クリスマスイブの夜」という表現を見かけますが、これは「アメリカに渡米する」、「馬から落馬する」と同様の重言になります。このようにクリスマスイブは12月24日を指す言葉ではないのですが、日本でその種の誤解があるのは本祭の前夜に行われる宵宮の概念があるからかと思ってたりします。

 イエスの誕生を祝うのがどうして12月25日になったのかについては諸説ありますが、古代末期から中世にキリスト教を受け入れたゲルマン人に冬至を祝う習慣(冬至以降日が長くなるので太陽の復活の日と考えられていた)があったため、それに初期の教会がイエスの誕生が結びつけたものと考えられています。クリスマスの定番モミの木飾りも、キリスト教が誕生した中東ではなく、ヨーロッパの森を連想させるのもその辺に理由がありそうです。

 聖書の記述(ルカ福音書)によると、イエスが誕生した晩野宿をしていた羊飼いのところに天使が現れ、そのことを告げることになっています。聖書の舞台となったイスラエルは決して暑い国ではなく、特にイエスが生まれたとされるベツレヘム周辺は乾燥していて標高も高く、冬は寒くてとても野宿などできる環境にないので、実際のイエスの誕生時期は夏頃だったのではないかと言われています。そんなことを考えた2025年クリスマスイブでした。

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2025年12月21日 (日)

2025年夏至

 今日12月21日は当地の夏至でした。日本では冬至の時期に当たります。、今年の日本の冬至は12月22日ですが、地球の軌道の関係で日本より西にあるナミビアの夏至は1日早くなっています(これは毎年ではなく、今年がたまたまそうということ)。

 夏至と言えば1年のうちで最も昼が長い日というのはよく知られています(逆に冬至の日は一番昼が短い)。この夏と冬での昼の時間の差はその地の緯度に関係し、高緯度ほど極端になっていきます(よく知られているように緯度66.7度よりも高緯度になると夏至には一日中日が沈まない白夜になる一方、冬至には一日中日が昇らない極夜となります)。ナミビアのウィントフックの緯度は南緯23度程度と比較的低いため、夏と冬の差は極端ではありませんが、それでも夜8時でようやく日没という感じになります。

Img_7320 ウィントフック夏至の夕方

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2025年12月14日 (日)

元禄赤穂事件

Chushingura_20201215114601   今日12月14日は元禄赤穂事件の大きな局面である、いわゆる赤穂浪士の討ち入りが起こった日です。旧暦の元禄15年(1702年)12月14日(正確には12月15日未明)、元播州赤穂藩家老大石内蔵助以下の旧赤穂藩士四十七人が、本所松坂町の吉良邸を襲撃、吉良上野介義央の首級を挙げた事件です。国内最後の大きな争乱となった島原の乱からすでに65年、すっかり太平になれた元禄時代の人々に大きな衝撃を与えた一大武装闘争事件といえます。現在ではその前年3月に起こった江戸城松之大廊下で発生した刃傷事件と併せて赤穂事件(元禄赤穂事件)と呼ばれています。歌舞伎仮名手本忠臣蔵の題材になっており、現在でもよく知られた事件です。かつてはNHKの大河ドラマ(H.11年の元禄繚乱,S.57年の峠の群像など)や民放の年末時代劇などでもしばしば取り上げられていた題材ですが、一方で謎の多い事件であるともいわれています。

 まず討ち入りの前提になった、前年元禄14年3月14日の江戸城松之大廊下での刃傷事件があります。第一の謎はなぜ浅野内匠頭長矩があの日松之大廊下で刃傷に及んだかです。一応、浅野が「この間の遺恨覚えたか!」と叫んで吉良上野介に切りつけたことになっているので、それ以前に二人の間に何らかの禍根があったといわれているのですが、江戸城内で刃傷事件に起こすことがどれほど重大なことか、長矩が知らないはずはありません。特にこの日は幕府にとって極めて重要な、朝廷からの勅使をもてなす儀式が行われていた日、しかも長矩はその勅使を供応する役だったからです。もしも本当に切りつけたいほどの遺恨があったとしても、もっと人がいない場所で狙うととか、違う日を選ぶなどのするのが自然です。にもかかわらず、最も重要な儀式が行われている最中に、その江戸城で事件を起こしたわけですから、浅野長矩は我を忘れるほど激昂していたと考えられます。これが仮に松之廊下で吉良と浅野が言い争いをしていて、興奮した浅野が切りつけたというならまだ話はわかるのですが、長矩は不意に吉良に切りつけています。つまりなぜ長矩が事件直前に我を忘れてしまうほど激高したのかが不明なのです(外で何かがあり、怒った浅野が吉良のもとに飛んでいって切りつけたわけでもありません)。

 第二に動機です。巷では勅旨供応役を拝命した浅野が指南役だった吉良に賄賂を送らなかったために意地悪をされたとか、赤穂と吉良の塩をめぐる争いだとか言われていますがそれを示す一次資料は確認されていません。そもそも浅野長矩が勅使供応役を務めたのはこの時がはじめてでは無く、さかのぼること18年前の天和三年(1683年)にも同じ吉良義央の指南でこの役を無事に務めています。なので何も知らない長矩に吉良が意地悪をしたという構図も考えられないわけです。結局この刃傷事件は動機もはっきりせず、単に浅野長矩が錯乱して斬りつけただけだったという説を唱える学者もいます。

 とはいえこの刃傷事件の結果、赤穂浅野家は所領没収の上改易となり、藩士たちは路頭に迷うことになりました。江戸時代の大名家というのは今でいう企業のようなもで、改易になるということは会社が倒産することと一緒、従業員たる藩士は失業して世間に放り出されることになります。戦国の世で武士が戦で死ぬ時代なら、欠員補充のために他の大名に仕官するのも比較的容易だったのですが、太平の江戸時代になると、失業した藩士の再就職は容易ではなかったのです。なので当時の武士は主君の命云々よりも、お家(大名家)の存続が大事でした(なので大石内蔵助も当初は長矩の弟、浅野長広によるお家再興を第一に考えていました)。

 その後紆余曲折を経て,翌元禄15年12月14日の討ち入りに至りますが、ここにも謎があります。刃傷事件の後同年8月に吉良が突然幕府から屋敷の移転を命ぜられていることです。元々吉良邸は江戸城に近い呉服橋(今のJR東京駅付近)にありましたが、この命令で本所松坂町に転居することになったのです。ここはJR両国駅の近くで、今でこそ都心の一部となっていますが、当時は江戸のはずれ,かなり寂しい所だったといわれています。直前に吉良義央は隠居しており、一般には隠居に伴う移転と考えられています。しかし当時は旧赤穂藩士の襲撃がウワサされており、結果的には幕府が討ち入りをさせるためにわざと転居させたのではないかとも取れるのです(郊外であれば他人の目にも触れにくい)。結局当日浪士たちは幕府の捕り方に誰何されることもなく、吉良邸討ち入りを行うことができました。

 ちなみに浅野=善玉,吉良=悪玉という構図は後の仮名手本忠臣蔵によって確立した虚構の概念であり、史実ではありません。これは「三国志演義」を読んでも歴史としての三国志を理解したことにはならないし、「燃えよ剣」から新選組の真の姿は見えてこないのと一緒です。実際には地元赤穂の領民の間での浅野家の評判は芳しくなく、逆に吉良上野介の領地での評判は良かったともいわれています。21世紀に入ってからメディアでも赤穂浪士を取り上げる頻度が激減しているのは、歴史上の人物をフィクションによる単純な善と悪という色分けで描くことに批判があるからとも思われます(実際に大河ドラマでこの事件が描かれたのは1999年の元禄繚乱が最後で、21世紀になってからは一度もない)。現代では元禄赤穂事件という呼び方が定着したこの一連の騒動も、20世紀には歌舞伎の演題そのままに忠臣蔵と呼ばれていたものです。

 そんなことを考えた2025年12月14日でした。

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