2024年5月30日 (木)

当地のミネラルウォーター

 日本は水道水が問題なく飲める国ですが、これは世界的にみると珍しい部類に入ります。海外での水道水は日本のように飲用で問題がない国は少数派で、多くの国では加熱調理や歯磨きでは問題ないレベルのや、歯磨きすら憚られるレベルだったりします。そうした中ナミビアは一応飲用も可能な国とされています。

 ただこの国の水は非常に金属成分(アルカリ土類金属はもちろん、鉄なども)が多いため、日本人が飲用するとお腹を壊す可能性があるとされています。これは日本の水が水道水も含めてミネラルが少ない軟水であり、日本人の胃腸がミネラルの多い硬水に慣れていないためとされています。

 水の硬度は含まれるミネラル、特にカルシウムイオンとマグネシウムイオンの量で決まりますが、これは市販されているボトル入りの飲用水(いわゆるミネラルウォーター)も例外ではありません。例えば1990年代に日本で有名になったフランス産のミネラルウォーター evian の成分を見ると

 カルシウムイオン 80mg/L、マグネシウムイオン 26mg/L で硬度は約300です。

 一方国産ミネラルウォーター大手のサントリー天然水(採水地によって成分が異なるので今回は山梨県北杜市のもの(以前南アルプス天然水として売られていたもの)は

 カルシウムイオン 9.7mg/L、マグネシウムイオン 1.5mg/L で硬度は30です。

 比較すると一目瞭然ですが、evianとサントリー天然水では硬度が10倍も違うわけです(注 硬度=カルシウムイオン×2.5 + マグネシウムイオン×4.1 で計算できます)。この場合サントリーは軟水でevianは硬水です。

 軟水か硬水かは地域性が非常に大きいものがあります。ヨーロッパは石灰岩質が多く、地形も平坦で水が長期にわたって滞留するため地質からミネラルが溶け込み硬水になるのに対して、日本は一般に雨量が多くて河川の流れも速く、水が滞留する時間が短いためミネラルが溶け込む時間が無く軟水になるといわれます。ただ日本でも岩手県岩泉町で採水される龍泉洞の水は、地質が石灰岩質で比較的水が滞留するため、硬度約100と例外的に硬水です。

Img_2700 Img_2697 Img_2705 Img_2699(写真)ナミビアで売られているミネラルウォーター(一部)

 さて翻ってナミビアですが、当地もスーパーなどに行くとたくさんのボトル入り飲用水を売っています。はたしてどんな成分なのか、興味があったので調べてみました。水道水の様子から見て硬水が多いんだろうなと予想していましたが、実は商品毎の差が激しいことがわかりました。例えば当地のスーパー大手であるCheckersでよく見かける飲用水 OASIS の成分は

 カルシウムイオン 133mg/L、マグネシウムイオン 22mg/L で硬度423とevianの1.5倍近くもあります。

一方で別なスーパー系列であるSPARで売られている自社ブランド、SPAR Still spring water

 カルシウムイオン 0.4mg/L、マグネシウムイオン 0.2mg/L でその硬度はわずか2!、サントリー天然水の10分の1以下という超軟水です。どうしてこんなに違うのかと思ったのですが、その秘密は採水地にあるようです。OASISの採水地はナミビア北部のOMARURUという土地、ナミビア北部は元々雨が(ナミビアにしては)多い地域なので、その地下からくみ上げた水は硬度が高いようです。一方SPARの水の採水地は南アフリカのCeres Valleyという場所でした。Ceresの地層等は詳しくわからないのですが、やはり地質的な点から軟水になるのではと想像されます(降水量自体はそんなに多くないようですが)。

 水からそんなことを考えてしまいました。

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2024年5月 9日 (木)

リューデリッツ旅行④

 明けて5月4日、リューデリッツを去る日になりました。休みは明日いっぱいまであるんですが、なにせリューデリッツは遠く、ウィントフックまで800キロ以上あります。安全にたどり着きたいというわけで、復路も2日かけて戻ることにしているからです。

 そんなわけで出発はゆっくり、まずはホテルで朝食です。昨日はパスした卵料理もしっかりといただきました(この日どこからの集団が泊っていて、朝礼なのか何なのかをやっていて賑やかだった 笑)。

 朝食後荷物の片づけをしてホテルをチェックアウト、来たときと同じB4号線を東に進みます。1時間ちょっとで3日前に宿泊したアウスの町に到着、ここでガソリンの給与と休憩をします。ナミビアはもともと人口密度が極端に小さい国ですが、その中でも南部地域はさらに小さく、町と町の間200kmくらい砂漠で何もないところも多いので、給油できる時に給油するのが鉄則だからです。しばしの休憩後B4号を再び東進、2時間ほどでケートマンスフープに到着です。ここは初日にも給油&休憩をしたところですが、ナミビア南部では比較的大きな町です(ガソリンスタンドが複数あるほか大型スーパーもある)。時間的にもちょうどいいのでここで昼食を摂ることにしました。Googleマップでカフェを探していたら目の前にケンタッキー・フライドチキン(KFC)を発見、入ることにします(マックやスタバといったアメリカ系ショップがほとんどないナミビアですがケンタッキーだけはやたらあるのは、あの味がナミビア人の琴線に触れるからかなどと思っているのでした)。店に入ろうとしたら子供が「自分が車を見張っていてあげる」みたいなことを言ってきます。もちろんチップ目当てですが、「まあいいか」と同意しました(結局店内から自分の車が見える場所に座ったので自分自身で見張れるポジションでしたが、件の子供がちゃんと見張っているかを見張れることになりました(笑)。

Img_2613(写真1)B4号線

 食事後はちゃんと見張っていた子供にチップを渡して出発、ここからはB1号線を北上します。ケートマンスフープから先もほとんど無人地帯を走ります。交通量は少なく、たまにすれ違う車の多くは大型トラック、鉄道輸送がほとんどないこの国の流通を支えているのはこうした大型トラックということになります(そのためガソリンなどは首都と地方での価格差が大きい)。そんな道路を2時間ちょい走り、これまた初日に立ち寄ったマリエンタールの少し手前を左折して20分ほど西進したところがこの日の宿泊先のアフリカ・サファリロッジです。そのまんまな名前が素晴らしいロッジです。駐車場に車を置き、チェックインをいてまず部屋へ。ロッジというだけあってコテージタイプの部屋が並んでいるのですが、なんと冷房付き! 初日のアウスやリューデリッツのホテルはエアコンなしだったので、こんな町はずれにエアコンがあるだけでもすごいなと思ったのでした。このロッジ、ホームページではゲームドライブがあるということが書かれ、駐車場にもそれらしい車が停まっていたため申し込もうとしたら「今日明日はやってない」とのこと。もしかしたらこの日は客が少ないので催行されないパターンかと思いました(実際この日は宿泊客が少なかった)。ただ、部屋からでも動物はたくさん見られるとのことで期待して部屋に戻りました。

Img_2667 Img_2663P1010170 P1010151 (左上写真2)プールもありますが水が冷たい💦、(右上同3)動物がいます、(左下同4)サイです、(右下同5)こちらはレイヨウの仲間

 その後バーでビールを飲んで寛いでいたら、なんと近くにサイが複数出現したではないですか! サイといえば2月に北部のウォーターバーグで観察しましたが、まさかロッジの中でみられる場所があるとはと感動したのでした(その他にもいろんな動物が見られた)。周辺は砂漠とサバンナが広がるロケーション、ほかに食事する場所もないので必然的に食事はロッジになります。この日の夕食は決められたコース料理でした(前菜がでメインがチキン)。料理のお供はもちろんワインですがこの日はスパークリングワインにしました(夕食中もサイが比較的近いところまで迫ってきた 笑)。食事後は動物を観察したり星空を眺めたりしながらゆったりとしたアフリカの時間を過ごしました。

Img_2634 Img_2639 Img_2640 Img_2645 Img_2628 Img_2653(左上写真6)レストランそばにもサイが、(右上同7)夕食のワイン、(左中同8)前菜、(右中同9)メインのチキン、(左下同10)夕陽、(右下同11)夜にはウサギが

 そして翌日はチェックアウト時間までゆっくりして、そのままウィントフックに戻ったのでした。

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2024年5月 8日 (水)

リューデリッツ旅行③

 リューデリッツの夜が明けて5月3日になりました。日本は憲法記念日の祝日ですがナミビアは普通の金曜日です(笑)。この日は午前中クルーズ船でペンギンの観察、その後は今回の旅行最大の目的であるエビ祭りを堪能するという日程です。

 クルーズ船の集合時間が午前7時45分と早いため、この日は朝食開始時刻とともに会場に入りました(ほぼ一番乗り)。このホテルの朝食はパンとハム、チーズ、コーヒーといったシンプルなものです(一応卵料理もあるのだがこの日は時間がないので省略)結局7時半ごろにホテルを出て桟橋に向かいます(ホテルから桟橋まで5分程度)、着いたらほかのお客さんはまだ来ておらずここでも一番乗りのようでした。

Img_2490 Img_2492(左写真1)クルーズ船、(右同2)出航です

 我々の姿を見つけた係員がやってきて受付を済ませます。料金を支払おうとしたら「それは後でいい」とのことでした。その後三々五々参加者がやてきて、結局この日の乗客は十数人でした(アジア系は我々のほかに中華系の人が数人いた)。定刻の8時に船は出航、一路ペンギンの島を目指します。昨日の記事でも挙げたようにリューデリッツは風が強く、特に海上は気候が厳しいので係員の案内で船内席に座っていたのですが、我々の日頃の行いがいいのかこの日はほとんど風がなく、明らかに船外席の方が快適そうに見えます。というわけで我々も船外席に移動しました。

P1010118 P1010091(左写真3)海鳥のコロニー、(右同4)ケープペンギンがいます

 桟橋を出た船は昨日見たシャークアイランドの岬を回り込むように西に進んでいきます。そのまま進んでいき、しばらくすると小さな島付近に停船します。どうやらここが目指す島のよう。見ると内陸の方にペンギンが寄り添うように集まっています。その数はどっちかというと少な目、話によると近年ペンギンが減少傾向にあるのだとか、もしかしたらこれも地球温暖化の影響なのかもしれません。船はその後周辺を散策、海鳥やイルカなども観察しながら元の桟橋に戻りました。

 下船後はいよいよCrayfish Festival(エビ祭り🦐)の会場へ。先ほどの桟橋そばのいわゆるウォーターフロント地区が会場です。ここにはたくさんの露店(?)が出店しかなりの賑わいを見せていました。ウォーターフロント地区に数十件の露店が立ち並んでいますが、だいたい前半部分がエビを中心に海鮮のお店で、後半が食品以外の雑貨店という感じです。またビールなどのアルコールを提供する店もありそこも大賑わいでした。

Img_2562Img_2571(左写真5)エビ祭り会場、(右同6)セレモニーが行われています

 我々も露店を眺めながら、よさげなお店でエビを焼いてもらって食べ歩きました(もちろんビールなどのアルコールもいただき昼間から出来上がっていたのは言うまでもありません)。ここのエビはさすがにロブスターというわけではありませんが、それなりのエビが1尾20~30ナミビアドル(日本円にして200円前後)で食べられるのでした。結局この日はペンギンクルーズの後は夕方までエビ祭り会場でうだうだしていました(笑)。途中政府の偉い人がやってきての公式ランチ(?)もあったようで厳重な警備も行われていました(これだけ警察が集まっていればこの日の当地の治安は問題ないのではと感じました)。

Img_2565 Img_2578 Img_5007 Img_2579(左上写真7)注文後エビを焼いてもらいます、(右上同8)焼きあがりました、(左下同9)エビを頂きます、(右下同10)嬉しそう

 夕方近くにいったんホテルに退却、一休みに続いてはこの町を代表する教会を見学に行きます。その名もFelsenkirche日本語に訳せば岩の教会となります(一般には岸壁教会という名前で呼ばれる)。

Img_2588(写真11)岩の教会

 町の高台に位置するドイツ風の教会です。外観だけなら一日中見られるのですが、内部が見学できるのは毎日夕方5時から6時の間だけ、というわけでこの時間にやってきました。行くとちょうどオープンしたところ、数人の参拝客が来ていました。この教会外観も素晴らしいのですが、内部のステンドグラスの美しさも中々です。またこの地からドイツ兵として出征して亡くなった方々についての記録も記されていました。

Img_2600 Img_2591(左写真12)教会内部、(右同13)美しいステンドグラス

 教会の見学の後は夕食の時間、この日はエビ祭り会場そばにあるレストラン"EssenZeit"(日本語に訳せば飯時か)で生牡蠣とステーキをいただきました(昨日今日で海鮮は散々いただいたので締めは肉 笑)。2日間リューデリッツを堪能した我々でした。

Img_2607 Img_2608(左写真14)生牡蠣、(右同15)牛ステーキ

 

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2024年5月 7日 (火)

リューデリッツ旅行②

 明けて5月2日です。アウスのホテルで朝食を済ませた我々はそのままチェックアウトをして一路西を目指します。いよいよリューデリッツ観光が始まるわけです(ここまでで丸一日かかっている 笑)。周囲は相変わらず砂漠が広がっています。この日はまずリューデリッツから東へ10キロほど内陸のコールマンスコップというところを観光します。リューデリッツは19世紀に最初にドイツが進出した拠点ですが、その内陸でなんとダイヤモンドが発見されたのです。そのダイヤ鉱山を中心にできたのがコールマンスコップの集落でした。しかし第一次世界大戦後になるとこの地のダイヤ鉱山は衰退し、集落は見捨てられてゴーストタウンになってしまいます。ただ当時の建物がいまだに残っており、今では砂漠の中のゴーストタウンを見学できる場所として人気の観光スポットになっています。ただ観光できるのは午後1時までなので午前中に来なければならない場所なのでした。

Img_4483 Img_2440(左写真1)途中でダチョウを発見、(右同2)コールマンスコップ

 我々が到着したのは午前10時頃、入り口で料金を払ってそのまま車で構内に入ります。駐車場に車を置いてさっそく見学開始、実は朝9時30分と11時に専用ガイドツアーがあるので1時間待ってツアーに参加することも考えたのですが、じっくり見学したいなと思い結局自力で回ることにしました。

Img_2289 Img_2277(左写真3)集会所のホール、(右同4)ボーリング場

 まずは受付や土産物屋が入っている建物へ、ここはかつて村の集会所だったところで舞台付きのホールやなんと!ボーリング場も併設されていました。今は資料館として村の歴史や当時使用されていた物品の展示などがされています。ちなみにボーリング場はピンが9本のスタイルです(今の10本ピンスタイルは禁酒法時代のアメリカが発祥とされているので時代的にもそうなるんでしょう)。

Img_4707(写真5)ボーリングの張り紙

 集会場から駐車場とは反対側の外に出ると、砂漠の中にゴーストタウンが広がる光景が目に入ります。ここからは各建物を見学、技師の家、鉱山管理者の家等からさらには病院までありました。基本的に自由に出入りできますが自己責任でという注意書きがあります。実際内部はかなり砂に埋まっており、それなりに注意が必要です(とはいえ100年以上前の建物とはいえ比較的良く保存されていると感じる)。結局午後1時まで3時間じっくりと見学できました。

Img_2293 Img_2296 Img_2361 Img_2370Img_2416 Img_2419(左上写真6)建築家の家、(右上同7)内部、(左中同8)当時の病院、(右中同9)内部、(左下同10)製氷施設、(右下同11)内部

Img_2444(写真12)ここからリューデリッツ

 コールマンスコップを後にしていよいよリューデリッツ市内に入ります。ナミビア最古の近代的な街ではありますが、首都機能が内陸のウィントフックに、港湾機能が北のウォルビスベイに移ってしまったことで、今は人口1万人あまりの小さな街です。ただ市内に入ると繁華街には大勢の人がいました。やっぱりエビ祭りでたくさんの観光客が来ているようです。とはいえエビ祭りの見学は後に回してまずは市内西部の北に突き出すシャークアイランドと呼ばれる半島の先端を目指します。ここには展望が美しいビューポイントがあります。大西洋の青い海が広がっていますが、見ただけで冷たそうな感じ、さすが寒流の影響だなと思いました。またここには20世紀初頭にドイツ人によって虐殺されたナミビアの原住民(ヘレロ族、マナ族)を慰霊する碑もあるなどナミビアの負の歴史の一面もうかがえます。

Img_2451 Img_2448(左写真13)シャークアイランド先端の碑、(右同14)岬からの大西洋

 シャーク島を見学した後はちょっと遅い昼食、この日はこの町で一番旨いとされるポルトガル料理店The Portuguese Fisherman Restaurantへ。まだ車移動中のためアルコールは無しでしたが、ここのおすすめメニューの一つである海鮮煮込み(?)をいただきました。

Img_2455 Img_2453(左写真15)ポルトガル料理レストラン、(右同16)海鮮煮込み

 昼食後は再び車で移動、今度は市街地よりも西側にあるリューデリッツ半島の北ディアス・クロスと呼ばれるポイントを目指します。ここにはヨーロッパ人としてはじめて喜望峰に到達したポルトガル人バルトロミュー・ディアスが1488年にこの地に上陸したことを記念する十字架が立てられています(今あるのはレプリカで、本物は本国にあるらしい)。市街地からここへ向かう道路はほぼ砂利道ですが、観光地に向かう道だけあって決して悪路ではありません。途中にはフラミンゴの姿も見られました。

P1010011 P1010040(左写真17)フラミンゴの群れ、(右同18)海鳥

 市街地から30分ほどで目的地の駐車場に到着、ここからは歩いてポイントへ、ですが岬に向かう木道が壊れています。どうしようかと思ったのですが、どうやら磯を歩いてもいけそう(この時間帯は干潮なので)ということで岩場を歩きながら十字架スポットに着きました。ここも絶景です。他の方の旅行記などでリューデリッツはとにかく風が強いという話があったのですが、この日は穏やかで快適に観光ができました。

Img_2465 Img_2468(左写真19)ディアスクロス、(右同20)本当は木道で行くのですが壊れています

Img_2469(写真21)レプリカの十字架

 ディアス・クロス見学の後はフラミンゴや海鳥を観察しながら市街地に戻ります。そしてこの日から連泊のホテルにチェックインしたのでした。

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2024年5月 6日 (月)

リューデリッツ旅行①

 さて、日本ではGWとなる4月末から5月初めですが、実は当地でもこの時期には祝日があります。まず5月1日は日本でもメーデーの名で知られるように労働者の日です。日本では休日にはなっていませんが、ここナミビアでは祝日の休日です。またこちらは移動祝祭日になりますがキリスト教の昇天祭(復活祭から数えて40日目)も休日でちなみに今年2024年は5月9日に当たります。

 今年は5月1日がちょうど週の真ん中にあたる水曜日だったため、隣の月火あるいは木金のどちらかを休みにすれば5連休になるという感じでした。

 で、ナミビア南西部にあるリューデリッツという街で4月28日から5月5日までの一週間、Crayfish Fwstival(日本語に訳すと「エビ祭り🦐」)が行われるという話を耳にしていました。「これは行くしかない!」というわけで、5月2日(木)、3日(金)に有休をとって出かけることにしたのでした。

 リューデリッツはナミビア南西部の大西洋岸にあり、首都ウィントフックから直線距離でも500kmほどあります。車で行く場合は全線舗装道路なら830kmほど、グラベルロードと呼ばれる砂利道経由でも700km近くになりどちらも一日がかりの距離になります。これだけ遠いと航空便もあるのですが、現地での移動手段の問題もあるため、今回は頑張って自家用車で行くことにしました。ちなみにルートは舗装路の方です(砂利道の方が150kmほど短いんですが、当然平均速度が遅くなるのと、パンクのリスクが高くなるため距離は長くとも舗装を選択しました。

 5月1日出発の日です。この日は朝出発してリューデリッツよりも120kmほど手前にあるアウスという町までの行程です。一気にリューデリッツまで行くことも不可能ではないんですが、経過によっては現地着が日没後になる可能性もあるため、安全を期して確実に日没前に到着できるだろうアウスまでとした次第です。朝8時半ごろ自宅を出て国道B1号線をひたすら南下します(ナミビアの国道はAからDまで分類されていて、Aが高規格4車線道路、Bがよく整備された舗装2車線道路、Cが普通の2車線道路(砂利道が多いが舗装区間もある)、Dが砂利道となっている)。約1時間ほどででレホボスという町を通過、そこからさらに南下して1時間半(すなわち家を出てから2時間半)でマリエンタールの町に到着です。ここで最初の休憩ということで町に入ってガソリンスタンドを探しますがこの日は休日のためか休みの店が多いようです。結局探した結果町はずれに開いているスタンドを発見、給油およびトイレ休憩となりました。

 その後さらに南下、周囲は大平原が広がります。マリエンタールから1時間ほど進んだ場所にある駐車スペースで昼食休憩、この日は家から持参したお弁当をいただきました(おにぎりと豚汁)。スペースからの見た周囲の景色はだだっ広い半砂漠半草原が広がる雄大なもの、日本では絶対に見ることのできない景色です。

Img_2255 Img_2261(左写真1)ナミビアの主要道にある休憩所、(右同2)アウスのホテル

 昼食後は再び南下、1時間半ほどでケートマンスフープの町に到着、ここで2回目の給油、トイレ休憩です。ちょうど午後2時くらいで非常に暑かったのでスタンド併設のショップでアイスを購入して食べました。このケートマンスフープからはB1号線と分かれてB4号線に入り西に進みます(このままB1号を南下すると最終的に南アフリカのケープタウンにたどり着く)。この辺に来ると周囲はほぼ砂漠が広がる景色になります。そんな中を1本の舗装道路がひたすら延びていく感じ、こんなところで車が故障したら涙目だなと思いました(実際にはある程度の交通量はあるので助けを呼ぶことは可能)。そしてケートマンスフープから2時間、夕方4時過ぎにこの日の目的地アウスのホテルに到着です。チェックイン手続きをして部屋に入りしばしの休息です。そして夕方6時に夕食のためレストランへ、このあたりは食事をする場所がほとんど無いので、どこのホテルもレストランを併設しています。この日もホテルのレストランでの食事、スターターはエビフライ(実際には半分くらいオニオンリング)、メインはステーキを選択しました。

Img_2265 Img_2267(左写真3)エビフライ、(右同4)ステーキ

Img_2269(写真5)星空

 日が暮れて夜になりました。ふと外の中庭に出てみると、周囲に明かりがないせいか、星がとてもきれいです。天の川やその中の南十字座もバッチリ見えて感動に浸ったのでした。

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2024年4月23日 (火)

きのこの山とたけのこの里

 日本からナミビアに戻ってくるにあたりこちらの人たちのためにお土産を買ってきました。いくつかあったんですが、そのうちの一つとして日本でも非常に有名なお菓子、きのこの山たけのこの里があります。

05780  俗にきのこたけのこ戦争と呼ばれるほど、どちらが好きか日本では激しい論争(笑)が起こりますが、果たしてナミビア人がこのお菓子をどう感じるのか興味があったからです。

 職場のナミビア人に両方のお菓子を食べてもらい、どっちが美味しいと思うか投票してもらいました。その結果は・・・

438826205_7430286173735350_2271884034891  たけのこの里の圧勝でした。同じメーカーなのでチョコの質は変わらないと思うので、きのこのカリっとしたクラッカーとたけのこのサクッとしたクッキーのどちらが好まれるかというポイントなんですが、どうやらナミビア人の感覚ではクッキーのサクサク感が好まれたようです。

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2024年4月12日 (金)

もうひとつの人生

 道後温泉を堪能した翌日4月12日は今回の四国旅行の最終日です。実は今回愛媛県を訪問するにあたってぜひ訪れたい場所がありました。それが松山市の郊外東温市にある愛媛大学医学部です。

 私は1990年に再受験で医学部に入りました。当時の国公立大学はA・B日程と前期・後期日程が併存していた時代で、実質2つの大学を受験することができました(前期後期日程の場合は同じ大学2回受験も可能)。ただ絶対に1回で決めるという目標を掲げていたため、どこの大学に入りたいかではなく、どこの大学なら合格できるかという基準で受験校を検討していました(ぶっちゃけ医師免許を取って医師になることが目標であり、学会の偉い人や教授になろうなどという考えはみじんもないため学閥とかそういうのは一切考慮しない)。そのため秋ごろから模試を受けまくり、その判定具合から受験校を検討していました。そして1990年1月に行われた第1回の大学入試センター試験を受験(平均点が非常に高かった回です)、その結果を受験産業各社に送りすべての会社でもっとも合格可能性が高いと判定された大学(すなわち各社そろってA判定が出た大学)を受験することにしました。それが弘前大学の前期日程と愛媛大学のB日程でした。弘前は実家のある盛岡から車で2時間の場所、愛媛は当時まだ行ったことのない未知の場所でした。

 1990年2月下旬、まずは前期日程の受験のため弘前へ、この日の弘前は一面雲が広がり、しかも吹雪いていました。雪の中宿泊していた旅館から歩いて大学に向かいました。この当時の弘前大学医学部や附属病院の建物は古く、どんよりした天気と併せて、ぜひここで学びたいという気分にならなかったというのが正直な感想です。試験の方は初日の筆記試験、2日目の面接ともまずまずの感じ、再受験生にとって面接は大きな壁になるのですが、弘前は集団面接だったため周囲の反応を見ながらそれなりに対応できました(この辺のコミュニケーション能力は得意な方と自負している)。

 そして弘前受験の10日後B日程受験のため東北・東海道山陽新幹線と生まれて初めての予讃線特急「しおかぜ」を乗り継いで愛媛県松山市にやってきました。駅を降りた瞬間、温かい空気に包まれました。なんと!桜も咲いており、そこは完全に春の陽気です。10日前の弘前とは全くの別世界、「同じ日本でもこんなに違うんだ」と感動した瞬間でした。そして嬉しさのあまり自分が受験生であることを忘れ、松山城などを観光したのでし、さらに前泊の旅館では岩手出身の出稼ぎの方と遭遇し意気投合、酒盛りという受験生とは思えないことをしていたのでした(もっとも当時23歳なので法的にはなんら問題なし 笑)。

 そして翌日、伊予鉄横河原線で愛媛大学医学部に向かいます(愛媛大学は基本松山市にあるが医学部のみ東の重信町(現東温市)にあった)。最寄りの愛大医学部南口駅で下車、そのまま歩いてキャンパスに入ります。しばらくして医学部や附属病院の姿が見えてきました。白くて高い近代的な建物群に感動した思い出があります。この時、もし入学するならこっちがいいなというのが当時の感想です。こちらの入試も日程は2日間、初日の筆記試験の手ごたえもまずます、2日目の面接も終始和やかな感じに終始しました(岩手からどうしてわざわざやってきたのかという話や、東北地方の偉人の話題で盛り上がった)。この段階で多分これは合格できるんじゃないかなと感じました。

 松山から自宅にもどって数日後、前期日程の合格発表の日です。自分が現役の時は大学まで発表を見に行ったものですが、さすがに今回はそこまではしません。昔は自治会などがやっている合否電報で結果を知りましたが、この頃は大学が発送する合格者の受験番号が印字された電子郵便に代わっていました。朝10時ごろ郵便受けの方からカタっという音が、電子郵便が来たなと思い玄関へ、予想通り電子郵便でした。そのままハサミで封を切り中身を取り出します。そこに自分の受験番号を見つけた瞬間は、嬉しさよりもホッとしたというのが正直なところでした。

 さて、合格したのは素直に嬉しいのですが、私の中では愛媛のキラキラしたイメージが残っています。正直どちらかを選べと言われたら愛媛を選びたいところでした。弘前がA日程ならば、B日程の愛媛の結果を待っての選択ができるのですが、弘前は前期日程、B日程の合格発表の前に手続きをしなければなりません。ここで手続きをしなければ入学辞退の扱いとなり、仮にB日程の結果が不合格だった場合、一度合格したにもかかわらずどこにも入れないというこれ以上ない悲劇が待っています。ちょっと悩んだのですが、結局素直に手続きをすることにしました。理由は絶対に1回で決めると決意し、その権利が与えられたこと、自分が合格したことで不合格になった受験生もいるということを思い出したこと、愛媛に手ごたえがあったとはいえそれはあくまでも自分の主観であり、100%合格している保証はないことからでした。

 弘前の入学手続きを済ませたことで、自動的に愛媛の合否判定の対象からは外されます。このため実際に私が愛媛大学の合格圏に入っていたかは永遠の謎となりました。しかし、もしも自分が愛媛大学医学部に入学していたらいったいどんな人生を歩んでいるのかは興味があるところです。実際にはその後の学生時代に父親が亡くなるという現実は変わらないでしょうから、遅かれ早かれ東北に戻ってきているとは思います。ただウチのKと出会ったのは弘前時代ですし、日本にいた時ずっとお世話になっていた合唱の先生と久々の再会をしたのも弘前でした。ですから愛媛に行っていた場合は仮に盛岡に戻ったとしても、結婚相手はまったく別な人でしょうし(あるいはいまだ独身の可能性も)、合唱活動に関しても盛岡に戻ってすぐのタイミングで再開したとは考えられません。今とはかなり違った趣味や人生になっただろうことは想像できます。

Img_2168_20240512124201 Img_2170(左写真1)愛媛大学医学部、(右同2)同附属病院

 今回の高知愛媛旅行の最後に当たり当時と同じく伊予鉄松山市駅から電車で愛媛大学を目指しました。駅を降りて、こんな感じだったかなと歩き大学や附属病院の建物を見た瞬間、当時の感慨がよみがえりました。人生にやり直しはないし、歴史にもしもはないけれど、ここに入学したもうひとつの自分の人生というものに思いをはせたのでした。

Img_2163 Img_2162 (左写真3)愛大医学部南口駅、(右同4)伊予鉄電車

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2024年4月11日 (木)

宇和島城と内子座

 空けて4月11日です。一週間後はもうウィントフックに戻っているんだなぁと感慨深く感じます。この日の朝もホテルをチェックアウトするんですが寝坊して朝食を食べそこなった(笑)ためまずは食事ができるところを探します。港近くの道の駅があったので行ってみましたが残念ながらまだ営業時間外、仕方ないのでその向かいにあたマックに入りました。マックなんて日本的ではないイメージですが、実はナミビアにはないのでこれはこれでいいのかもしれません(大手ファストフードチェーンではナミビアには唯一ケンタッキーのみがある)。

 朝食後は宇和島城へ、ここも一昨日訪問した高知城と並び現存12天守のひとつで日本100名城でもあります。過去に何度か訪問していますが非常に味わいのある城郭です。宇和島城を建てたのは築城の名手と呼ばれる藤堂高虎ですが、実際に城主として江戸時代を過ごしたのは伊達政宗の庶長子の伊達秀宗を祖とする宇和島藩でした。宇和島伊達家としては幕末の藩主宗城が有名です。年度初めの平日ということでこの日の宇和島城は観光客も少なくのんびりと観光できました。この城郭は入り口から天守まで結構な登り坂が続くので大変ですが、本丸には葉っぱがかなり出てきたとはいえ桜の花が残っていたのは感動でした。

Img_2085_20240511171401 Img_2083 Img_2062 Img_2066 (左上写真1)宇和島城の上り立ち門、(右上同2)登城します、(左上同3)天守と石垣、(右下同4)現存天守

 宇和島城観光の後は一路北上し次の目的地内子町を目指します。内子は古くから大洲街道の要衝だったのですが、江戸時代から明治にかけて高品質な木蝋生産によって経済的に大いに栄えた町です。今でも当時の街並みが保存維持されていて、その通りは八日市道路として日本の道100選になっています。この日は街並みの散策に加えて、ここでの木蝋生産の様子がわかる上芳我邸や大正年間に建設され今に至るまで活用されている内子座も見学しました(内子座はまもなく耐震工事のため長期休館になるらしく、このタイミングで訪問しなければしばらく見られなかったもよう💦)。

Img_2105 Img_2103 Img_2106 Img_2116(左上写真5)内子町の八日町道路、(右上同6)日本の道100選の碑、(左下同7)内子座、(右下同8)同内部

 その後は再び北上して松山市内へ、この日は道後温泉の大和屋本店さんに宿泊です。日本酒が飲めるコーナーやミカンジュースがでる蛇口などもあっていろいろと楽しめる施設でした。特に大浴場はおそらく今回の帰国では最後の大浴場になることが予想されるため何度も入浴し堪能したのでした。

Img_2132 Img_2133(左写真9)地酒の飲み比べ、(右同10)鯛そうめん

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2024年4月10日 (水)

南予観光

 一夜明け4月10日になりました。この日も昨日に続き快晴の良いお天気です。ホテルの朝食後チェックアウトをしてまずは愛南町南部にある紫電改展示館に向かいます。紫電改は第二次世界大戦時の日本海軍の主力戦闘機のひとつで、陸軍の四式戦闘機「疾風」とともに大戦後期の苦しい戦況の中で活躍した戦闘機です。大戦初期の1000馬力級だったゼロ戦や一式戦「隼」を大きく上回る2000馬力級のエンジンを搭載した機体でしたが当時の日本の技術力では手に余るものがあり、整備が非常に難しく稼働率が低いなど問題を多く抱えた機体でもあります。それでも整備がうまく行った部隊などでは期待に違わない活躍を見せています。当館に展示されている機体は昭和53年に付近の久良湾に原型を保ったまま沈んでいた機体が引き上げられたもので、日本に存在する機体としては唯一のものです。今は何も言わず鎮座している紫電改を見て改めて戦争と平和について考えました。

Img_1921 Img_1912(左写真1)紫電改展示館、(右同2)海底から引き揚げられた紫電改

 紫電改展示館を後にして北上、まずは途中の須ノ川公園に立ち寄ります。ここは主にキャンプ場として利用されているところですが、平日の日中ということで誰もおらず、きれいな南予の海を眺望できるスポットでした。この後は津島町にある日本の道100選の南予レク道路を見てさらに北上、この日宿泊予定の宇和島市を通過して高知県との県境にある松野町に入ります。実はこの町には続日本100名城のひとつ河後森城と日本の滝100選のひとつ雪輪の滝があるのです(正直この日は100関連の場所ばかり観光していた)。

Img_1923 Img_1932(左写真3)須ノ川公園、(右同4)カメが!

Img_1942(写真5)あおさのりうどん

 途中寄り道をしたこともあり、この段階でお昼、まずは食事をということで松野町の道の駅へ、この日は海老天入りのあおさのりうどんになりました(あおさのりを練りこんだうどんが美味)。食事後はまずは河後森城へ、ここは戦国時代の山城跡で土佐と伊予の国境に位置する重要な拠点でした。ここを治めていたのは公家の一条氏の諸流の渡辺氏でした。名門であり当地の盟主的な存在だったのですが、土佐の長曾我部氏が勢力を拡張する中で城を追われてしまいました。後に豊臣秀吉による四国遠征が行われるとこの地には藤堂高虎が、江戸時代になると伊達家が治めるようになり、最終的に元和の一国一城令によって廃城になっています。山頂に本郭が、尾根筋に沿って多くの郭がU字型に設置されるなど典型的な山城ですが、使用されたのがむしろ安土桃山時代だったことから一部石垣のほか、櫓や天守もあったとされています。城跡としてよく整備されていて当時の姿を想像することができる場所でした。

Img_1943_20240509172801 Img_1968_20240509172801 Img_1976_20240509172801

Img_1977_20240509172801(左上写真6)河後森城案内図、(右上同7)郭がよく残っています、(左下同8)石垣、(右下同9)本郭

 河後森城の後は同じ松野町内の山の中に入っていきます。目指すは滑床渓谷と呼ばれるところです。途中から対向車が来ると怖いような狭い道が続きますが、幸い平日のためかほとんど出会うことはありませんでした。走ること30分で渓谷入り口にあるロッジに到着、ここから歩いて滝を目指します。ロッジの人からマップをいただきそれを見ながら歩いていきます。川に沿って渓谷を歩くというのは山梨の西沢渓谷や熊本の菊池渓谷をほうふつさせます。この日は往路を右岸、復路を左岸というコースを取ったんですが、結果的に正解でした(右岸は少しアップダウンはあるものの景色がよく、一方左岸は平坦だが渓谷が見えない地帯が続く)。約30分ほどで目的地の雪輪の滝に到着、豪快に落ちる滝ではなく、一枚岩を滑りながら水が流れる滝でした。水流が渦を巻く様が雪輪のように見えることからこの名があるそうですが、一方で夏のシーズンには天然のウォータースライダーが楽しめるんだそうです(要ガイド)。

Img_2019 Img_2033(左写真10)滑床渓谷、(右同11)雪輪の滝

 しばし滝を堪能した後は駐車場に戻りそのまま宇和島市内へ。駅近くのホテルにチェックインした後は地元の料理屋さんで鯛などの南予の美味しいものを堪能したのでした。

Img_2040(写真12)南予名物鯛の刺身

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2024年4月 9日 (火)

仁淀川周辺の観光

 一夜明け4月9日になりました。前日は雨も混じるいまいちな天気でしたが、この日は朝から抜けるような青空が広がっていました。朝食を食べてホテルをチェックアウト、そのまま歩いて高知城に向かいます。関ヶ原の戦いの論功行賞で土佐一国を与えられた山内一豊によって作られた城郭です。最初の日本100名城にも含まれる名城ですが、そちら目的での訪問はすでに2009年に済ませているので今回はまったりとした観光です。

 高知城は全国で12しかない現存天守を持つ城郭ですが、さらにすごいのが本丸が当時のままほぼ保存されているということです。すなわち天守だけではなく本丸御殿や詰門も残されています。内部は資料館的なものになってはいますが、木造のギシギシいう建物を歩くと、本当に昔の城郭に来たなと強く感じるのでした。

Img_1814 Img_1833(左写真1)大手門と天守を一望できるスポット、(右同2)高知城本丸

Img_1868(写真3)仁淀ブルーのにこ淵

 約1時間ほど見学した後は国道33号線を西に向かいさらに194号に折れて北上します。しばらく山の中を走ってこの日2つ目の観光ポイントに到着、仁淀ブルーで知られるにこ淵です。一条の滝と一面ブルーの滝つぼが織りなす絶景スポットとして名高い場所ですが、地元では聖地とされている大切な場所だそうです。年度初めの平日ということもあり、観光客の姿はまばらでしたが、おかげでこの素晴らしい光景をじっくり堪能できました(少なくともナミビアにはこんなブルーはない 笑)。

Img_1884_20240509152601(写真4)つがにそば

 にこ淵の見学の後は近くの道の駅で昼食、この日は当地の名産品(?)のつがにそばをいただきました。つがにというのは当地のモクズガニのことです。自分の業界ではモクズガニといえば寄生虫の中間宿主のイメージが強いのですが、もちろんこれは生で食べるわけではないので大丈夫です。本来はつがに汁の形で食されるようですが、ここではそばやうどんとして提供されていました。毛ガニやタラバガニといった海のカニとは違った微妙な苦みが旨いのでした。

 食事後はそこから15分ほど南に行った場所にある浅尾沈下橋へ。高知県内の河川には、欄干がなく増水時にはあえて水面下に沈めてしまう沈下橋が多くあります。かつてはそれだけ川の増水が頻繁で通常の橋だと流されてしまうことが多かったのだろうと思われます。近年はより高い場所に立派な橋が作られるケースが増えているため、こうした沈下橋の役割は縮小しつつはありますが、今でも多くが生活道路として利用されています。通常の水の時期ならば、徒歩で渡る分には心配ないのですが、自動車で渡る際にはかなり緊張するものがあります(そういえばパラオにもこうしたタイプの橋が結構あって、時々酔っ払い運転の現地人が落っこちるという話を聞いた)。

Img_1889 Img_1891(左写真5)浅尾沈下橋、(右同6)狭い橋です

 恐る恐る沈下橋を渡った後はさらに南下し佐川町へ。ここは昨年の朝ドラの主人公のモデル牧野富太郎博士の出身地です。佐川の地ももちろん土佐藩領の一部ではあるんですが、この地は藩筆頭家老深尾氏が治めていた場所で佐川はその城下町でした。そうした特殊な土地ということもあり、当地出身者には独特のプライドがあるのか、明治維新後結構有名な人物が排出されています。牧野博士もその一人ですが、ほかにも政治家の田中光顕や日本の土木業の基礎を作った広井勇などがいます。街並みなど非常に風情があり、ゆっくりと散策を楽しみました(やっぱりナミビアにはこういう場所はない 笑)。

Img_1897 Img_1901 Img_1903 Img_1910(左上写真7)佐川の街並み、(右上同8)藩校名教館、(左下同9)旧青山文庫、(右下同10)牧野博士の生家

 佐川町の街歩きを終えると後はひたすら西進、四万十川周辺や宿毛などほかにも魅力的な場所はありますが今回はスルー、一気に県境を越えて愛媛県愛南町に入ります。この日は愛南町のホテルにチェックイン、その後地元の居酒屋で夕食としました。

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