青春の歌
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さて週末です.
当初この週末は久しぶりにまったりしようかと思ってたんですが,なんと! 来年1月のコンサート( IN 盛岡&仙台)に向けての重要な練習が11月1日に入ることが判明し,11月1日はまたまた盛岡入りすることになりました(先週に引き続き2週連続だ).
さて,この週末は月曜を挟んで翌3日が祝日であることもあり,JR東日本では三連休パスを発売しています.これは連続した3日間,JR東日本と一部の他社鉄道の普通車自由席がすべて乗り放題になる(指定席も4回までならOK)というすごい切符です.実際私の家から盛岡まで往復すると,それだけで元が取れてしまうほどです.当然のように今回はこの切符を使うことにしました.
で,そうなると私の性格から単に盛岡往復で終わらせるのはもったいない気分になります.こりゃ出かけるしかないということで急きょ(?)出かけることにしました(幸いこの週末は当直が入っていなかった).行先はこんな機会でもないと行かないところにしました.
(写真) 直江津は信越本線と北陸本線の分岐点であり,またJR東日本とJR西日本の境界駅でもあります.無敵の三連休パスもここより西では使えません.
というわけで朝一の上越新幹線に飛び乗り,越後湯沢でほくほく線に乗り換えます.まさにほくほく線に進路を取れ!です.目的地は上越市,そう春日山城のある上杉謙信の居城です.実は100名城関連で春日山城には昨年7月に登城しスタンプも持っているんですが,昨年11月に立派な方の100名城スタンプ帳を手に入れたので,いつの日かそちらにもスタンプを押さなくてはと思っていたのでした.
(写真) 春日山城のふもとにあるものがたり館と復元されたお堀
秋晴れの絶好の観光日和の中再びの登城となりました.
続いて特急電車で新発田城に向かいます.理由は春日山城とおんなじです.新発田城の有名な三階櫓も既に始まっていた紅葉とのコントラストも見事でした.
その後は羽越本線,米坂線,山形新幹線を乗り継いで今夜は山形で一泊です.明日は仙台経由でお昼ごろ盛岡に入る予定です.
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いやぁ,こちらはすっかり更新が滞ってしまいました.
実はこの週末は恒例の境港妖怪検定受験のため山陰に繰り出していました.境港はゲゲゲの鬼太郎で有名な漫画家水木しげるさんの出身地です.妖怪検定は2006年から始まったご当地検定で今回で4回目となります.
第1回で初級合格,第2回不参加,第3回中級不合格の私は今年こそと意気込んで乗り込みました.金曜日の夕方仕事を終えて羽田へ.最終の飛行機で米子に飛びました.ただ受験じゃ面白くないので観光もしようと今回は松江に入りました.
松江は城下町の風情を残すしっとりとしたいい街です.今回は市内の温泉旅館に宿をとり旅装を解きました(昨年はビジネスホテル).久しぶりに大きな浴槽につかって,お酒と料理,すっかりいい気持です.翌朝には松江名産のしじみ汁(これが酒を飲んだ翌朝には最高です 笑)も堪能しました.観光としては松江城や小泉八雲の旧居,旧制松江高校関連の史跡などを歩きました.
で,肝心の試験の方ですが…
やっぱり付け焼刃の知識では粉砕されました.昨年よりは難易度が下がった気もしましたが,どう考えても7割は採れてません.来年頑張ります(考えようによっては,この検定のおかげで毎年この時期に山陰に出かけてるわけで,目標が無くなったら行かなくなってしまうのでは,なんて考えてしまいました 笑).
今年の試験の内容は明日以降アップします.
でで,日曜の夕方試験終了後,最終の飛行機で羽田に戻り,今度は東京駅23時50分発の夜行バスに乗って今日は盛岡に来ました.これまた恒例の大学講義のためです.午後の授業なら朝一の新幹線にしたんですが,授業が午前2コマ(8時50分開始)だったので,どう考えても夜行バスしかなかったのでした.
結局,朝一に盛岡入りして用足しは終了しました.明日からはまたいつもの日常に戻ります(新型の予防接種が待ってるな).結局この週末で3000キロの旅をしたことになるのでした.
追伸: 講義を終えて医局に戻ったら,テレビのワイドショーで酒井法子の初公判の話題をやってました.そこでふと思った妄想…
さかいみなとって,さかいのりこに似ているような… さかいのりこ妖怪検定,鳥取県さかいのりこ市なんてくだらない妄想に浸ったのでした(笑).
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今年のしながわ宿場まつりからほぼ3週間,恒例のレポがようやく完成いたしました.
昨年のレポが完成まで10カ月かかったことを思えば,「なんて早いんだ!」と我ながら感心しています(笑).
暑くもなく寒くもなく絶好の扮装日和だった今年のしながわ,どうぞ見てやって下さいまし.
心の声 「次は2年分たまっている旅行レポだな」.
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久しぶりの新選組ネタ.
今年のひのパレで三番隊長斎藤一役をされたへこみ隊長さんのブログで紹介されていたんですが(千住の風にふかれて!~健脚むけの史跡旅行~),東京足立区の綾瀬で新選組パレードが行われるんだそうです.
新選組終焉の地は法理学的(?)には箱館の弁天台場ですが,初期から組を率いてきた近藤勇が捕われた流山を終焉の地と考える人もいるようです.新選組が流山に入ったのは慶応四年4月2日ですが,その前日まで滞在していたのがこの足立区綾瀬(五兵衛新田)だったのです.
3月6日の勝沼の戦いで敗れた近藤以下新選組は,3月13日に五兵衛新田の名主金子家のもとにやってきました.そしてここを屯所として再起を図り,4月1日に流山に移動したわけです.
この辺の詳細は不明な点が多く私もよく知らなかったんですが,去年のひのパレのメイン会場でその間の事情について研究した本を発見し購入していたことを思い出しました.
本棚の隅から引っ張り出した本,全編100ページちょっと短いのであっという間に読めそうです.今夜は当直なので秋の夜長に読んでみようと思います.
注: 綾瀬というと,道路交通情報で綾瀬バス停付近で○○キロ渋滞というニュースが出ますが,この綾瀬は神奈川県綾瀬市で別の場所です(笑).
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ニュースによると,座敷童子が出る宿として知られていた,岩手県二戸市,金田一温泉の旅館緑風荘が火事で全焼してしまったんだそうです.
「座敷わらしの宿」全焼 「全員無事だったのはわらしのおかげかも」
座敷童子は岩手県に伝えられる子供の妖怪(精霊)で,家人に悪戯をしたりすることもあるが,一般にこれが住み着いた家は繁盛するとか,これを目撃した人には幸運が訪れるとか言われています.妖怪は妖怪でもめでたい妖怪ということになります.
柳田國男の遠野物語で有名になり,今でも岩手県内には座敷童子が目撃されるといわれる旅館が残っており,記事の金田一温泉緑風荘はそのひとつでした.特に座敷童子が住み着いているといわれる「槐の間」は3年先まで予約で一杯だったそうです.
記事によると,夜間のしかも全焼するほどの激しい火事だったにも関わらず,幸い亡くなった方はおらず,座敷童子のおかげではという声もあったようです.関係者や愛好家の間からは再建してほしいという声が強いようですが,これから座敷童子はどこに行くのかがとても気になります.
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昨日9月27日に第19回しながわ宿場まつりに参加してきました。毎年秋の恒例イベントになりつつあるこのお祭り,今年は幕末の学者&剣客である清河八郎に扮しました.
本来なら,新選組(浪士組)を引き連れて「さあ,上洛だ!」と気勢を上げるところでしたが,残念ながら今年は新選組の参加はなしとのことで,ちょっとさびしい登場となってしまいました(泣).
朝8時過ぎから着付け開始,例年だとタイミングによっては結構待たされるんですが,今年はかなりスムーズに進行しました.今年も常連の方々に加えて,今年初めて参加したという方も見られました.
パレードは12時から1時間程度歩くだけで,残りの7時間くらいはひたすら自由時間です(このお祭りの趣旨は,時代扮装した人々が商店街を散策することで昔の宿場の雰囲気を出すことにあるのでこれで正解なのです).パレードの方は例年より扮装者が少なめだったような気がしました.
今年もいろんな写真を撮ったりして遊びました.詳細は例によってHPにレポをまとめる予定(去年みたいに完成するのが10ヶ月後なんていう事態は避けたいと考えています)です.
ともに参加して下さった皆々様,ありがとうございました.
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秋の五連休です.
というわけで,実は鹿児島に来ています.夏の間お休みとなっていた(理由は暑さのため)日本100名城関係の旅行です.
で,鹿児島城(鶴丸城)に行ったんですが,鹿児島城はもちろん薩摩藩島津家の居城だったわけですが,維新後の明治34年には旧制第七高等学校造士館がこの地に創立されました(戦後は鹿児島大学医学部がこの地に置かれていましたが,現在は移転しています).
現在鹿児島城の本丸は博物館になっているんですが,その傍らに七高関係の銅像なんかがあって,寮歌愛好家の私にはたまらない環境でした(島津家より七高の方がクローズアップされてる感じ).七高の寮歌としてあまりにも有名なのが「北辰斜めに」ですが,この寮歌の歌詞が彫られたモニュメントもありました.
夜には鹿児島の繁華街天文館に繰り出しました.鹿児島と言えば黒豚と焼酎です.というわけでさっそくご賞味と相成りました.
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イスタンブールネタをいつまでも引っ張ると,このブログのタイトルと矛盾してしまうので,今回が最終回です.
さていよいよイスタンブール最終日となりました.昨夜はディナーショーで帰りが遅かったこともあり,この朝はゆっくりです.「これがイスタンブール最後の朝食か」などと感慨に浸りながら朝食です.
この日はまだ行っていない史跡を見ながら歩くことにしました.まず向かうはトプカプ宮殿隣に広がるギュルハネ公園です.いつも大勢の観光客で大賑わいのトプカプ宮殿とは対照的に公園の方はいたって静かでした.しかし別に散歩のために公園に行ったわけじゃありません.実は公園の先端,マルマラ海と金角湾,そしてボスポラス海峡が一望できる岬に一本の柱が立っているんです.この街へやって来る観光客の99%はその存在すら知らないであろうこの柱,なんとこれ,この街がコンスタンチノープルにすらなっていなかった時代,ビザンチオン時代の史跡なんです.
3世紀,ローマ帝国が弱体化し始めた頃,しばしば帝国内に侵入してきたゴート人を打ち破った皇帝クラウディウス2世の功績をたたえて建てられた柱なんです.今はゴート人の柱と呼ばれるこの柱,当時はそのてっぺんにクラウディウス2世の像が載っていたと言われています.
(写真左) ゴート人の柱,(同右) 今は柱の上にはなにもありません.
その後,近くのオープンカフェでチャイをいただき,そのまま徒歩で海沿いを歩きます.向かった先はイスタンブールのヨーロッパ側の鉄道の終点,シルケジ駅です.ヨーロッパ各地からやって来る国際列車の終着駅で,かつて有名なオリエント急行もここが終点でした.
その後はガラタ橋で釣り客を冷やかしたり,橋の近くにあるエジプシャンバザールを見学したりして過ごしました.
その後は近くのカフェでランチを摂りホテルに戻りました.14時に迎えの車がやってきて空港へ.出国審査を経て飛行機に向かおうとセキュリティチェックに行き,「そういえば飲みかけの水が余ってた.こりゃ没収だな」と係員に差し出したら,係員さん手を振って「No problem」といって突っ返してよこしました.最近国際線はすべて液体物持ち込み禁止と思ってたんですが,そうでない国もあるようです(笑).
こうして機上の人となった我々は一路懐かしい日本へ向かったのでした.
追伸: 我々の帰国直後,イスタンブールを大雨と洪水が襲い,亡くなった方もいたとのニュースが流れました.自分の運の良さを実感するとともに,被害にあわれた方々が一日も早く元の生活に戻れることをお祈りしました.
これにて本ブログでのイスタンブールネタは一応終了します.今回の旅行の詳細はいつかホームページの旅行記に,また市内の各史跡の詳細は別館ブログビザンチン大学に載せてますので,イスタンブールやビザンチン帝国に興味を持たれた方はどうぞ.
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イスタンブール滞在第5日目です.前日結構ハードに動いたこともあり,この日は少しゆったりすることにしました.
まず午前中はハマムに出かけます.ハマムとはトルコ式の蒸し風呂のことです.20年くらい前まで日本国内の繁華街にもトルコ風呂と称する施設がありましたが,もちろん全く別物です(笑).
トルコ人の入浴好きは有名で,中央アジア時代の蒸し風呂の伝統にローマ・ビザンチン風の大浴場が混じって今ある形になったらしいです.今回繰り出したのは,旧市街の中心部にある創業1741年(江戸時代中期)の老舗です(シャーロウル・ハマム).行ってみると入口はこじんまりしているものの中は広々としていました.男性用と女性用があり,ここでKと別れました.男性用に行くと,ちょうどスーパーマリオそっくりのオッサンが待っていました.マリオにチェックのタオル(これを腰に巻く)を渡され,着替え室に入るよう促されます.中には寝台もありました.ここで服を脱ぎ,浴場へ,浴場は一面大理石の広々とした造り,天井にはドームもあり光が差し込んでいます.午前中ということもあるのか他に客はおらず貸切でした.
浴場中央の大きな円形の台に寝そべります.浴場内はそれほど熱くはありませんが,じっとしているうちに汗が出てきます.しばらくしていると例のマリオが登場,マッサージ・シャンプー・垢すりとなります.ふにゃふにゃにされました(すごく気持ちよかったです 笑).
その後は再び台に寝そべって汗を流します.適当なところで浴場を出て,タオルで体を拭き,さっき着替えた部屋に入ってしばらくお休みです.気持ちよくてうとうと寝てしまいました.日本の公衆浴場なら,風呂上りにはコーヒー牛乳なんでしょうが,残念ながらここにはありませんでした.
ハマムのあとは,近くにある有名なグランドバザールに繰り出します.日本でも「バザールでござ~る」というフレーズで有名になった場所です.ここは15世紀にこの街を攻略したオスマン帝国のスルタン,メフメト2世の命で造られた屋根つきの商店街です.各種宝飾店やお土産物店などが軒を連ねています.中では怪しげな日本語で話しかけてくる店員さんも大勢いました(笑).
その後はいったんホテルに戻って休憩,そして再び外出です.今度は新市街にあるオスマン帝国末期の宮殿であるドルマバフチェ宮殿に繰り出しました.オスマン帝国最盛期の宮殿であるトプカプと比べるとこじんまりしてますが,ヨーロッパの影響を強く受けた壮麗な建物はやはりスルタンの栄華を今に伝えるものです.トルコ革命後はイスタンブールにおける大統領の執務所となり,トルコ共和国初代大統領のケマル・アタチュルクもここで執務を執っていました.
宮殿の観光後は新市街のイスティクラル通りを散策してチャイ(トルコの紅茶)をいただいたり,ドンドルマ(トルコアイス)を食べたりして過ごしました.そして夕方再びホテルに戻ってシャワーを浴びた後,ディナーショーに繰り出します.トルコの夜のエンターテイメントといえばベリーダンスです.この夜はガラタ塔最上階のレストランで開催されているベリーダンスショーを堪能しました.
(写真左) 目が回りそうなダンスです,(同右) ウチのKもスルタンに捧げられてしまいました(笑)
というわけで,明日はいよいよ帰国の日です.
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ブランド総合研究所というところの調査によると,2009年度日本でもっとも魅力的な市町村は函館市なんだそうです.
記事によると,過去3年間の1位は同じ北海道の札幌市だったそうですが,今年晴れて函館が1位になったんだそうです.
最近の函館の話題と言えば,そうイカール星人です.イカール星人の侵略効果がこんなところにも表れたのかと感心したのでした.
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まだまだイスタンブールネタが続きそうです.
さて,滞在4日目となりました.当然のように朝から快晴です(いったい2日目の午前中はなんだったのか).この日はけっこう欲張りな観光を思いつきました.旧市街北西部の見どころをずらっと回って,その後新市街にも足を伸ばそうという計画です.
イスタンブール旧市街北西部にはビザンチン関係の史跡が結構残っています.さあ出かけようとなりましたが,イスタンブールは人口1000万とほぼ東京並みの規模の都市なんですが,公共交通機関特に電車は東京とは比較にならないほど発達していません(じゃあ,ロスのようにみんなマイカー利用なのかというと,旧市街の道路の狭さから考えてそんなことはなく,要するに人口は多いけれど人の移動は少ない街だということです).特にこの地域は市電も走っていない地域なので,やむを得ずタクシー利用となりました.
向かった先はカーリエ博物館,ここはビザンチン時代コーラ修道院の付属教会堂だったところです.オスマン時代にはモスクに変更されましたが,ビザンチン時代のモザイク画やフレスコ画がたくさん残っているため,現在は博物館になっています.教科書なんかにも出てくる綺麗なモザイク画がたくさんありました.
その後は徒歩でテオドシウスの大城壁に向かいます.2日前は街の外側から城壁を眺めたんですが,この日は内側から見てみます.ところどころ登れるところがあったため挑戦してみました(高所恐怖症の人にはお勧めできません).またこの近くにはビザンチン時代の世俗建築物としては唯一現存している宮殿(テクフル・サライ)の廃墟がありました(我々が訪問した時には他に観光客はおらず,近くのコーラ修道院に団体観光客を降ろした観光バスが停まっていました).
(左 写真3) テクフル・サライ,(右 写真4) 大城壁に登ってみました
大城壁を後にして今度はコーラ修道院の反対側へひたすら歩きます.次の目的地はやはりビザンチンのモザイク画が残されているファティエ博物館です.ここもビザンチン時代は教会でオスマン時代はモスクだったところです.コーラ修道院に比べると地味ですが,綺麗なモザイク画がありました.
(左 写真5) ファティエ博物館外観,(右 写真6) 内部の様子
ファティエ博物館の次はそのまま金角湾のフェリエ地区を目指して歩きます.ここには現在のコンスタンチノープル総主教座やビザンチン時代から現在まで一貫して教会であり続けた唯一の教会,モンゴルのマリア教会がありました.
ここまで見学して13時過ぎとなっていました.海沿いのこの地域まで来るとバスが走っているので,ここからはバスで直接新市街に向かいます.新市街の中心タクシム広場でバスを降り,近くのカフェでランチをとりました.その後は地下鉄で軍事博物館へ,行くとちょうどオスマン時代の有名な軍楽隊の演奏が行われていました.
その後は軍事博物館内部を見学しました.ここには1453年のオスマン軍の攻撃を防ぐためビザンチン軍が金角湾を封鎖するのに使った鉄鎖が展示されていました.また同年5月29日のオスマン軍最後の総攻撃の様子がジオラマ等で再現されていましたが,これはビザンチン帝国にとっては首都陥落の悲劇の日です.ジオラマではビザンチンの双頭の鷲の旗が引きずり降ろされている場面まで再現されており,ビザンチン皇帝にとっては涙なしには見られない光景でした.
(左 写真8) 当時金角湾を封鎖していた鉄鎖,(右 写真9) コンスタンチノープル陥落の日,中央黄色地に双頭の鷲のビザンチン帝国の旗が降ろされています
その後は地下鉄と市電,徒歩で新市街の金角湾そばに建つガラタ塔に来ました.この塔は6世紀に灯台として建てられ,その後改築を重ねてきたもので,ここに登るとイスタンブールの旧市街を一望に臨める場所です.トプカプ宮殿やアヤ・ソフィア,ブルーモスクといったこれまでに見てきた場所がよくわかりました.
その後はホテルに戻りシャワーを浴びて,日没後にラマダンで賑わうヒッポドロームに繰り出しました.イスラムのラマダンの季節は日中飲食ができないため,こうして夜になるとたくさんの屋台が立ち並び,さながら縁日のようになるのでした.
というわけで,この日は今回の旅行中もっとも充実し,密度の濃い一日でした.
(左 写真11) ガラタ塔から旧市街を望みます(緑に覆われた地域),(右 写真12) 大勢の人で賑わう夜のヒッポドローム
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本来は正しい利用法ではないんですが,日本ではエスカレーターに乗る際片側に立って残り半分のスペースを急ぐ人のために開けておくという習慣が見られます.
この際どちらを空けるかは地域性があるようで,首都圏では左に立って右を空けますが,関西では逆に右に立って左を空けるそうです.ヨーロッパとかでは見たことがない習慣なので,こんなの日本だけなんだろうと思っていたんですが,なんとイスタンブールでもありました!
イスタンブールで地下鉄に乗ったんですが,ホームに向かうエスカレーターで,見事にみんな右側に立ち,左側を人が歩いていました.
日本だけじゃないんだとちょっと感動しました(繰り返しますが,エスカレーターの利用としては望ましい方法ではありません).
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イスタンブール滞在3日目です.昨日の午前中はなぜか雨だったんですが(笑),午後からは晴れとなり,その続きで3日目も朝から快晴でした.この日はビザンチン帝国とは直接関係ないんですが,イスタンブール観光では欠かせないオスマントルコ時代の宮殿であるトプカプ宮殿を見学することにしました.トプカプ宮殿はちょうど旧市街の先端近くの高台に建っていて,旧市街はもちろん,新市街やアジア側も一望できるロケーションにあります.
チケットを買って中に入ろうとするとセキュリティチェックがありました.オスマン帝国時代の財宝が山ほどありますから,悪いことをしようとする人を排除するためかもしれません. 謁見の間や様々な門,後宮(ハレム)はもちろんですが,何といっても財宝の数々に目を見張ります.宝石が惜しげもなくちりばめられた,とても実戦には使えそうにない(笑)短剣や箱,壺や食器などが並べられていました.これらをすべて売却すればトルコ政府の債務はすべてチャラになってお釣りがくるという噂は本当だと感じました.
結局朝から昼過ぎまで見学し,宮殿内のレストランで昼食を摂りました.その後は旧市街の少し離れた史跡を見に行こうと路面電車(とはいっても松山や函館にあるような小型のものではなく,数両編成の立派な奴)で繰り出しました.
イスタンブールは海に突き出た岬に作られた街で,実は川などの水源に乏しいという弱点があります.このためビザンチン皇帝たちははるか西の水源から水をひくために立派な水道橋を作ったのです(ヴァレンス帝の水道橋).さすがに今では現役で使用されてはいませんが,4世紀に造られたその一部が現存しています(4世紀,日本でいえば邪馬台国のちょっと後くらいです).
今では水道橋のアーチの下を自動車やバスがビュンビュン走っています. その後,水道橋の近くに建つビザンチン時代の修道院で今はモスクになっているパントクラトール修道院(現ゼイレクジャミィ)を見に行きました.場所がいまいちわからず苦労してたどり着いたんですが,残念ながら工事中で外観の一部しか見られませんでした. その後はイスタンブールの地元民しか行かないようなバザールを通ってホテルに戻りました.
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先ほどイスタンブールから無事に帰還いたしました.
現地からの報告を毎日しようと張り切ってたんですが,ホテルの無線LANが不安定で,しかも自分のPCとの相性も最悪らしく,後半はどうにもならなくなったため断念した次第です.
これから随時気付いたことをアップしていきます.
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滞在2日目となりました.この日午前は街の旧市街を取り囲む大城壁を見に行きました.
今に残るこの城壁は5世紀のテオドシウス2世の時代に造られたものです.以来何度も外敵の侵入を食い止めてこの街を守った城壁です.深い堀を持つ三重の城壁で,大砲がない時代にこれを突破するのは不可能な話でした(結局1453年5月29日の陥落の日まで,この城壁は一度も破られたことがなかったのです).
勇んで出かけたんですが… なんと雨でした(晴れ男なのに).
500年以上経過しており,堀は埋め立てられてしまいましたが,残る城壁の姿から当時の威容をしのぶことができました.その後,城壁北側の高台にあるピエール・ロッティの喫茶店でチャイ(トルコ式の紅茶)をいただきました.
その後は城壁周辺の史跡を見学しようと思ってましたが,雨で断念し,旧市街の観光に切り替えます.
かつてビザンチン帝国の宮殿の床を飾ったモザイク画が展示されているモザイク博物館,6世紀に建造されたビザンチン建築の最高傑作ハギヤ・ソフィア,考古学博物館,古代オリエント博物館を見学しました.
(写真左) 古代エジプト新王国とヒッタイト帝国の間で交わされた世界最古といわれる平和条約の条文,(同右) 1453年の籠城戦で金角湾封鎖に使われた鉄鎖
結局これらを見学しているうちに天気は晴れになりました(笑).
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みなさんお元気ですか,里帰り中のビザンチン皇帝です.
さて,8月30日の午後に日本を出発して同日夜にイスタンブール入りしました.その晩はそのまま就寝し,いよいよ31日から活動開始です.というわけで,活動の様子を大雑把に報告します(詳細はいつ完成するか判らないレポで).今回宿泊したのは,イスタンブールの旧市街と呼ばれる地域です.ここはちょうどビザンチン帝国時代から街だった地域です.本来なら周辺の新市街の方に大きなホテルがあるんですが,今回見たい場所の多くが旧市街に集中しているため,利便性を考え旧市街に宿をとりました.しかし旧市街はまさに中世そのままに石畳の狭い路地のオンパレードで,大型ホテルなんて存在しません(ていうか存在できません).かわってこの地域にはオスマン帝国時代の政府高官の住居を改造したプチホテルと呼ばれるホテルが多くあり,今回はそのひとつに泊まることにしました.
(写真1) 今回宿泊のホテル
イスタンブールはアジアとヨーロッパ両大陸にまたがって広がる大都市です.同じ町でありながらアジア側とヨーロッパ側では電話番号も違うそうです.
(写真2) 海から見たイスタンブール新市街,左手に見える塔がガラタ塔です
で,アジアとヨーロッパの境目となっているのがボスポラス海峡です.初日はまず海から街を眺めようと,船に乗りました.海沿いに住居やビルが密集した街の様子は,まさに東西が入り混じるこの街の雰囲気を表していました.
(写真3) ヒッポドロームに建つオベリスク
その後旧市街に戻って,ビザンチン時代戦車競技場だったヒッポドローム,同じく当時の地下貯水場だった地下宮殿,6世紀に建てられたハギヤ・イレーネ教会,キュチュック・アヤソフィアそして17世紀のオスマン時代に建てられたブルーモスクを見て回りました.
(写真4,5) ブルーモスク
(写真6 左) 地下宮殿内のメデューサの首,(同7 右) 6世紀に建てられたハギヤ・イレーネ教会
そして夕方からはボスポラス海峡沿いにあるレストランに繰り出してオスマン料理を堪能,ビザンチン皇帝の里帰り第1日は終わりました(うーん,初日からかなり飛ばしたな 笑).
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今日8月30日は第45回衆議院選挙の投票日です.
わざとそれにぶつけたわけじゃないんですが,これからトルコのイスタンブールに旅立ちます.
イスタンブールは西暦330年5月11日から1453年5月29日までの約1100年間,ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の都として,その後は1923年にトルコ共和国が成立するまでの500年弱,オスマン帝国の都として大いに栄えた街です.
歴史の古さ,長さという点では京都・北京・パリよりも上です.それこそ古代ローマの遺跡から近代の宮殿まで史跡の宝庫というわけで,今回は一週間かけてそれらの史跡を見てきます.
大都市ゆえ,ネット環境も整備されている(ハズ)なので,現地レポを書く予定ですので,覗きに来ていただけると幸いです.
それでは行ってきます(あっ,国民の権利である選挙はちゃんと期日前投票を済ませています).
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ブログ&扮装仲間のフミヲさんとこで紹介され,一部で激しく盛り上がっているネタ.
新選組終焉の地として,はたまたウチのKの出身地として知られている(?)函館が今,侵略の危機にさらされているそうです.
侵略者の名は イカール星人… 函館市民はイカばっかり喰ってるから,逆襲に来たんだそうです
.ウェルズの宇宙戦争に出てきた宇宙人はタコ型でしたが,こっちはイカ… 素敵過ぎます.
この侵略に立ち向かうのが,五稜郭タワーが変形するタワーロボと,空中城砦ゴリョウカク.そして謎の中空土偶と妙に冷静な函館市役所
,設定は完璧です(新選組愛好家としては,宇宙戦艦弁天台場なんかが出てくると最高ですが 艦長はもちろん相馬主計で,司令官が土方歳三).
いや~,函館山は火の海になるは,見覚えのある交差点に怪獣が出現するはで,久しぶりに大笑いさせてもらいました.
これを見ていたら,函館に行きたくなりました.少なくとも観光PR動画としては100点満点じゃないかと思います.最近では関連グッズも発売されてるとか,こりゃ絶対年内に行くしかないと決意を新たにしたのでした.
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留守番が多い8月,たまったレポ作成に取り組んでおります.
というわけで,昨年3月末から4月初めに行ってきたフランス旅行記がようやく完成しました(1年半近く掛かったわけだ).
今明かされる,新選組 IN パリ の舞台裏などなど(笑).ぜひのぞいて下さい.
さあ,残るは新選組 IN アフリカとナミビア旅行記だ!
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ビザンチン皇帝,毎年恒例の夏季休暇を利用しての行幸が決定しました!行先は私にとって原点ともいえる場所です.
それは京都!
じゃなくって(それは新選組の方 笑)
ズバリ,コンスタンティノポリス(現 イスタンブール)です.ビザンチン帝国千年の都です.
普段ビザンチン皇帝を名乗っている者にとっては故郷ともいえる街ですが,実は一度も行ったことがありませんでした.もちろん行きたいのは山々なんですが,地球上には魅力的な場所がたくさんあって,たとえば砂漠とかジャングルとか極地とか,歳をとってからだと行くのが辛くなる場所もあります.ですから若いうちにそういう体力が必要な場所に行っておこうということで,近年はナミビアのナミブ砂漠とかマダガスカル島など辺境に行く機会を作るようにしました.
その流れで,今年は西アフリカのマリ共和国(ドゴン族や黄金の都トンブクツゥで知られる)や南米ベネズエラのギアナ高地を計画していました.
しかし前者は現地の治安状況が悪化したため,また後者については計画段階で例の新型インフルエンザ騒動が発生しアメリカ大陸への渡航が自粛ムードになってしまったため,結局どちらも困難になってしまったのです.
で,それではということでコンスタンティノポリスに決定した次第です.
この街はビザンチン帝国1100年,オスマン帝国500年の都です.現在ではもちろんオスマン帝国時代のものも多いのですが(トプカプ宮殿やブルーモスクなど),6世紀に建造されたハギヤ・ソフィア大聖堂や5世紀に完成したテオドシウスの大城壁,地下宮殿などビザンチン時代の建造物や遺跡なども数多く残っています.また東方正教会の総本山ともいえるコンスタンティノポリス総主教座は現在もこの街に存在します.今回はこれらをめぐってこようと考えています(それからもちろんトルコ料理やベリーダンスも).
出発は今月の末から来月はじめにかけてです.これからじっくりと計画を練っていきたいです(この計画段階が旅行の楽しみの半分を占めるという噂がありますが 笑).
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表題につき記事を書こうとしたんですが,載せる写真が膨大となりココログでは見づらくなりそうな感じとなりました.そのためHPの方にまとめてアップしました.ぜひ御覧下さい(笑).
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さて一晩明けて,翌7月12日になりました.この日は日光江戸村に出かける予定です.まずはJR宇都宮駅に集合,前日ご一緒させていただいた神楽教授はドラクエ購入のために帰京,代わっておりんさんのお友だちのMIHOさんが合流です(彼女も今年のひのパレに参加していたそうです).これにコシゾウさんを加えた5人で繰り出しました.
江戸村は江戸時代の街並みが再現されている体験型のテーマパークです.普通に観光もできますが,江戸時代の装束で練り歩くことも可能です.
私たちは… 当然扮装です(笑).
役柄は,私が殿様,コシゾウさんとK副長さんが浪人(コシゾウさんはどう見ても浪人でしたが
,K副長は浪人というより旗本の三男坊または書生といった感じでした),おりんさんが岡っ引き,MIHOさんが武家娘です.
着替え場所に入り,殿様衣裳を着けかつらを被ると,おおっ殿様の誕生です(2年前のしながわ宿場まつりでの井伊大老を思い出しました).
その後はみなで街に繰り出します.ここでは観光客だけではなく,江戸村のスタッフもみな扮装しており,私たち扮装客にいろいろと絡んでくれるのが楽しいのでした(逆に私たちがスタッフに絡むことも可能).日曜日ということもあって,たくさんの観光客で賑わっていました.なかにはすっかり出来上がったおじさんのグループもいました(ご本人たちはただの町人だと言っていましたが,どう見ても遊侠の士だよねなどと噂していた私たちでした).
(写真左) 武家娘との真面目な
写真です.(同右) 華やかな花魁行列です.
途中では大五郎を探している子連れ狼や,水戸黄門とはぐれた(笑)風車の弥七,江戸村のゆるきゃらにゃんまげなどと絡んで遊びました.
その後は北町奉行所のお芝居を見たり,花魁道中を見学したりしたのち,ちょっと高いところにある江戸村撮影所へ.ここは高いところにあるせいか他の観光客が少なく,街の雰囲気がよく出ているところです.散策していると,何やら集団に出くわしました.お姫様に扮した美女とその姿を熱心に撮影する大勢の人々,話を聞くとグラビアアイドルの西村紗也禾(さやか)さんの撮影会なんだそうです.その艶やかな姿にうっとりしていると,何やら私を呼ぶ声が,えっ,お姫様のご指名! というわけで一緒に写真に収まってしまった私でした(ちょっと照れました 笑).
(写真) グラビアアイドルの西村紗也禾さんの撮影会が偶然行われており,ご指名で写真を撮っていただきました
要するにこの日殿様装束は私しかいなかったということです.
(写真) 同じく参加者全員との記念写真です.やっぱりお姫様は華がありますね.
それからは随所でネタ写や動画を撮ったりしているうちに,あっという間に夕方.楽しい時間経つのが速いです.みんなこの衣装のまま帰りたい気分でした(結局まとまった昼食時間を取らないままに遊んでいました).
その後はコシゾウさんに宇都宮駅まで送ってもらいました.当初新幹線で帰ろうと思ったんですが,4人で座れる場所を確保できそうになかったため,快速ラピッドのグリーン車に変更,ビールやチューハイを軽く飲みながら思い出話に花を咲かせました.そして電車は終点の上野駅に到着,ここで解散となります.実行委員長のおりんさんの「家に帰るまでが,遠足です」という言葉とともに,2日間の宇都宮ツアーは無事に終了したのでした.
企画立案のおりんさん,突然の訪問にもかかわらずお付き合いくださったコシゾウさん,参加してくれた神楽教授,K副長,MIHOさん本当にありがとうございました.
江戸村扮装はとても楽しいので,また企画されるはずです(ね,社長).
次回予告: 江戸村レポはもちろんこれで終わりではありません.次回はいよいよ多数のネタ写が登場します.乞うご期待
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ひの新選組まつりでの私の盟友コシゾウさんは宇都宮でもんじゃ焼屋をやっています.そのお店に突然押し掛けて驚かそうという計画が発生しました.言いだしっぺは幕末&歴史仲間のおりんさんで,ツアーコンダクターは私,ビザンチン皇帝です(笑).この週末(7月11日~12日)に決行しました.私にとっては2年ぶりの訪問です.
メンバーは私とおりんさん,神楽教授,K副長さんの4名.
ん,なんだこのメンツは.たしかに全員ひのパレ参加者ですが,個々はあまりにも脈絡がないような気が…(笑).
この日の予定は日中は宇都宮とその周辺に残る主として戊辰戦争関係の史跡廻り,夕方からコシゾウさんのお店襲撃です.朝自宅を出発して東京駅へ.ここでおりんさんと合流,まずは腹ごしらえと駅弁屋さんにむかいます.牛肉弁当,味噌カツ弁当など朝からは食べたくない弁当が並んでいます.そんな中で見つけたあさりおこわ弁当,これにしようと2個購入して新幹線に乗り込みます.新幹線が発車すると同時に弁当を広げましたが,私が三分の二くらい食べた段階で既におりんさんは完食! お,恐るべし.その後は桃太郎や浦島太郎の血液型談義に花が咲いているうちに宇都宮に到着しました.宇都宮駅で残るお二方と合流して,ここで初めて今回の参加者が顔をそろえました.主催者あいさつ(笑)に引き続いて,さっそく観光開始です.
今回の史跡廻りは郊外にも繰り出す予定としたためレンタカーを用意しました.まずは市内の宇都宮城址へ.宇都宮城は関東七名城のひとつに数えられ,江戸時代初期の元和年間の釣天井事件で有名です(実際には創作らしいんですが).街道筋の重要な城であり,江戸時代を通じて譜代大名が置かれていました.しかし慶応四年の戊辰戦争において激戦の地となり,城を含めた市街地のほとんどが焼け野原となってしまったのです.その後宅地開発なども行われたため,城は見る影もなくなってしまいましたが,21世紀に入ってからかつての本丸の一部(堀,土塁と櫓)が復元されています.土塁の内部は資料館になっており,お城の歴史などが展示されているのですが,土方歳三が街に火をつけ,そのせいで街が焼けた的な記載があり,愛好家としてちょっと複雑な思いになりました.
城址公園の次は徒歩で城の南東にある簗瀬橋へ.ここは宇都宮城の東方を流れる田川に架かる橋です.田川はいわば宇都宮城の東の防衛ラインともいうべき川ですが,宇都宮戦争初期の慶応四年4月19日の旧幕府軍の宇都宮城攻撃の際,宇都宮藩兵がこの橋を残したまま退却したために,土方歳三率いる桑名藩兵がここを突破して一気に城に押し寄せ落城させたことで有名です.この時土方が,激戦におびえて退却しようとした兵士を斬り捨て,「退却するものはみなこうだ!」と言ったのもこの橋といわれています.橋はもちろん当時のものではありませんが,田川自体はあまり護岸工事もされておらず,当時の雰囲気をかもしだしているなと感じたのでした.
簗瀬橋に続いては城の北側にある二荒山神社へ.ここは市内中心部の高台にある神社で,戊辰戦争時には旧幕府軍の陣地が置かれていた場所です.4月23日の戦いで,新政府軍側の砲撃を受けてこの神社も灰燼に帰してしまいました.土方歳三が足に負傷したのもここと言われています.二荒山神社観光の次は昼食,近くのお店で名物の餃子を堪能しました.
午後からは,慶応四年4月23日の戦いで最大の激戦地となった六道辻へ.ここでは旧幕府軍側は大鳥圭介の伝習隊のほか,新選組や永倉新八も所属していた靖共隊も戦ったといわれます.ここでは多くの兵士が亡くなったんですが,新政府軍の戦死者が丁重に葬られたのとは逆に,旧幕府軍の戦死者は賊として,野ざらしにされていました.しかし,地元の人たちによって仮埋葬された後,明治七年になって宇都宮藩士戸田三男によってこの地に墓が作られました.これに関しては良く知られたエピソードがあります.
曰く,長岡戦争敗戦後,会津に向かっていた長岡藩家老の山本帯刀が会津の飯寺での戦いで捕らわれたとき,死を覚悟した彼は軍資金200両を敵の戸田三男に渡し,「これを貴藩に提供するので,相当の費用に当てて欲しい」と述べたといいます.後に国に帰った戸田はその時の200両をこの墓の建立に当てたそうです.
(写真5 左) 報恩寺の山門,これのみ当時をしのぶ建物といわれます.(同右) 報恩寺内の薩摩の碑
この六道辻周辺のお寺には新政府軍,旧幕府軍双方のお墓がたくさんあります.今回はその中で主に新政府軍の戦死者が埋葬された報恩寺,旧幕府軍の兵士が埋葬された一向寺,双方の戦死者が埋葬され,新政府軍・旧幕府軍双方の墓が向かい合って建っていることで知られる光琳寺を訪問しました.ここでは参加者はみな沈黙して,亡くなった人たちに手を合わせました.
六道辻周辺の観光を終えると,今度はちょうど慶応四年4月21日の大鳥圭介率いる幕府伝習隊の進撃ルートにそって車を走らせました.緒戦の勝利の勢いに乗って幕府軍は宇都宮城から南下し,当時新政府側に付いていた壬生城を攻撃しようとしましたが,途中にある姿川で食い止められここでも激しい戦いが行われたのです(安塚の戦い).この戦いで亡くなった幕府軍の兵士17名のお墓が宇都宮市幕田町にあり,そこを訪問しました.その後は壬生町に入り,当時新政府軍の本陣が置かれていた島田家や壬生城跡を訪問しました.
(写真5,6) 左が桑名藩士の墓,右が新政府軍の墓です.
そうこうしているうちに夕方となり,いよいよコシゾウさんの屯所襲撃です.レンタカーを返却し,4人でタクシーに乗って繰り出します.店に着くと,なんとコシゾウさんが窓拭きをしていました.こりゃまずいと近くのコンビニの駐車場にタクシーを乗り入れ,様子を伺いながらお店へ侵入,コシゾウさんは面子の脈絡のなさに驚いていました(笑).
(写真7、8) 左,幕田町地区の碑,右,壬生の新政府軍本陣跡
その後は美味しいもんじゃを堪能しながら,新選組やひのパレ談義に花が咲きました(コシゾウさんのお店でなつかしの昭和50年代ソングがかかっていて,酔った勢いでついつい歌いだしてしまい,すっかりおりんさんに私の真の姿がバレてしまいました 笑).
こうして宇都宮の夜は更けていきましたとさ.
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昨夜職場のレクレーション企画で箱根登山電車名物のあじさい電車に乗ってきました.
登山電車の箱根湯本-強羅間は,沿線にたくさんのあじさいが植えられていることで知られています.これらのあじさいは6月中旬ごろから咲き始めるので,毎年6月下旬から7月上旬にかけてあじさい鑑賞を目的としたあじさい電車が運行されています.
とはいえ別に特別な電車が運行されるわけではなく,車両的には普通の登山電車です.ただ,あじさい鑑賞のために車内の照明を暗くし,あじさいのビュースポットでは速度を落としたり時には停車したりして鑑賞するのです.
今回は40人近くの団体ということで,車両1両貸切でした.さっそく配られたビールを飲みながらの鑑賞です.小雨がパラつくあいにくの天気でしたが,逆にあじさいに滴が光ってとても幻想的な雰囲気を醸し出していました.
ただ登山電車は箱根湯本から強羅まで標高差が450メートルもあり,昨夜の段階では湯本付近はあじさいが綺麗に咲いていましたが,宮ノ下より上強羅付近は,まだまだこれからのようでした(2週間後に来ればちょうどいい感じでしょうか).
強羅到着後は近くの宴会場で宴会,そして10時過ぎに帰宅となりました.
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毎年6月に行われる能代寮歌を愛する会,今年は6月16日開催ということで,今日はお昼前から年次休暇を使って出かけることにしました.
午後一番の飛行機で秋田へ飛びます(本当は大館能代空港の方が近いんですが,ちょうどよい時間の便がないので).約1時間のフライトで無事に到着しました.東京は梅雨空でしたが,ここ秋田は青空が広がるいい天気です.梅雨の晴れ間といった感じでしょうか.考えてみれば北東北って,梅雨とはいっても普段よりかは雨が多いなぁ位の感じで、関東以西みたいなじとじとした梅雨ではないんですよね.
空港からはバスで市内に向かいます.田植えの終わった田んぼに日の光が輝いてとてもきれいです.私には懐かしくホッとする風景です.
バスで秋田駅に到着,当初の予定ではここから電車に乗り換えて東能代へ,そこでさらにローカル線に乗り換えて能代に入る予定だったんですが(能代の中心部は奥羽本線のルートから外れているため,東能代駅で五能線に乗り換えなければなりません),バスが予定よりも早く着いたため,秋田駅発能代行きの高速バスに乗れることになりました(なんてラッキー).
結局バスで1時間で能代につきました.ここも青空が広がる晴天です.肝心の寮歌の会は今夜行われます(おそらく参加者の中で最年少に近い私,平均年齢がそもそも私の実年齢の1.5倍を軽く超えているはずですから).
ちなみに明日は朝一の飛行機でとんぼ返りです(泣).
ところで、多田武彦氏作曲の有名な男声合唱曲「柳河風俗詩」の一曲に「梅雨の晴れ間」というのがあるんですが,youtubeで探したらこんなのがありました.作った人に拍手です.
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先週末,恒例の研究会があったため盛岡に行ってきました.その際ついでに弘前城も見てこようと,予告通り品川-弘前間の夜行バスノクターン号に乗りました(関連記事).
ノクターン号には業界最高クラスを謳うスーパーシートなる座席があるからです.どこがどうスーパーなのか,この目で確かめるべく行ってきました.
ノクターン号の基本シートは,3列シートです.フットレストも付いており,リクライニングは140度とそれなりに快適な座席です.
問題のスーパーシートはその後方に位置していました.両窓側に1席づつの2列シートです.座席幅も十分にあり,フットレストは足を完璧に伸ばせる長さ,しかもリクライニングもほぼフラットに近い状態になり,実質的に横になった状態で寝られるのでした.こりゃ凄いと感心した次第です.
(写真2) 前方のフットレストを使うと脚をまっすぐに伸ばせます
肝心の研究会の方は,発表も平和裏に終わったのでした.
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我が家のメインPCが復活しました.
先月21日に突然活動を停止してしまい,データを救出した後,メーカーに修理に出していたものが,このたび無事に帰ってきたものです.結局マザーボードの障害だったようでした.部品を交換して初期化された状態で戻ってきましたが,調子はいいようです(一安心).
さて,当初今週末に高遠城にお花見に行く予定でスケジュールを開けていたんですが,桜の開花が早まったことから予定を変更して12日に行ってしまいました.さらにいつもなら土曜の夜に参加しているイベントも今週に限っては金曜の夜ということで,期せずして今週末土日が2日ともフリーになってしまいました(喜).
こりゃ~どっか行くしかないというわけで,急きょ北陸遠征に出ることに決めました.目的はズバリ,日本100名城北陸5城一気制覇です.北陸地方の100名城は富山県の高岡城,石川県の金沢城と七尾城,福井県の丸岡城と一乗谷城です.北陸フリー切符を使って,金曜の夜の夜行で出発しようと考えています.とりあえずどういうコースで回るか思案のしどころです.
福井県の敦賀市は1年半前に水戸の天狗党関連で訪問しましたが,その他はもう10年以上ぶりになります.うーん,なにを食べよう.
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11日の宇治のお花見の後,京都に一泊して翌日は史跡めぐりをと考えていました.
しか~し,暖冬の影響で今年は全国的に桜の開花が早まっており,当初翌週末(4月18,19日)訪問するつもりだった信州高遠城の桜が,この週末に満開になりそうという情報が入ったため,予定を変更して高遠に繰り出すことにしました.
高遠城は武田信玄さらには保科正之ゆかりの山城として日本100名城にも選定されていますが,その一方天下随一の桜の名所としても知られています.
とはいえ,高遠は公共交通機関でのアプローチがしにくい場所であり,このため宇治イベント終了後19時22分の新幹線に乗ってまずは名古屋に入りました.ここで一泊し,あくる朝一の高速バスで伊那市駅前へ.ここから路線バスに乗り換えて高遠城に向かうのですが,すでにバス停には同じことを考えている(だろう)大勢の観光客が待っていました.予定ではこのバスに乗って高遠城近くのヘリポートに行ってまずは,空から桜を見物することにしています.天気は上々,絶好の桜日和です(昨日に引き続き,日頃の行いがいいからだとほくそ笑む私).
しかし,この時私の頭をよぎったいやな予感が… 今回の高遠訪問に当たって,地元の方が運営している(らしい)ホームページを参考にしていたんですが(高遠の桜),ここでの記事に”この週末は満開で,しかも例の高速道路1000円の影響もあり相当な混雑を覚悟して来て下さい”と紹介されていたからです.虫の知らせというわけでもないんでしょうが,急きょ路線バスはやめて近くに止まっていたタクシーに飛び乗りました.
(写真3,4) ソメイヨシノに比べるとピンクがかっています
運転手に行き先を告げると,「多少遠回りになるが確実に早く着けるコースで良いか」と聴かれました.どうやら地元の人しか知らない脇道があるらしいのです.異論のあろうはずもなくタクシーは出発します.運転手によると昨日今日は物凄い混雑だという,「例の1000円の影響もあるんでしょうが,こんなに混雑した年は初めてだ」とおっしゃっていました.
運転手の言う通り,タクシーの走る道路にはたしかに車がいません.「ほら,向こう見て」と運転手の言う方向を見ると,あちらのメイン道路は大渋滞,たくさんの観光バスや自家用車がズラッと並んでいました.「あの渋滞の先に交差点があって,そこが特にひどいんだ」とのことでした.
結局最後の方でちょっと混雑したものの,比較的あっさりヘリポートに到着しました.ここからはヘリに乗って上空から高遠城の桜を見物します.あらかじめ予約を入れていたので,少し待ってヘリで上空へ.一面かたまってピンク色に染まった高遠城はまるでグリコジャイアントカプリコのように鮮やかでした.
ヘリポートを後にして今度は高遠城へ.予想通り凄い人出です.昨年の7月に100名城で来た時,ほぼ貸し切り状態だったのと大違いです.まずは近くのお店に入って昼食に高遠そばを食べ,その後城内へ入ります.上空から見た時にジャイアントカプリコに見えた通り,本当に一面ピンクピンクピンクです.ここの桜はタカトオコヒガンザクラといってソメイヨシノよりは小振りながらも鮮やかな色彩で知られる桜です.特に有名な桜雲橋はまさに桜のトンネルといった感じで,遠くからだと橋を渡っている人が花に隠れて見えないほどでした.お花見といえば露店ですが,城内にはたくさんの店が並んでいましたが,私は牛の串焼きとビール,桜アイスをいただきました.
(写真左) 桜シーズンの桜雲橋,(同右) 桜シーズン以外の桜雲橋
昔から一度見てみたかった高遠の桜を満喫しているうちにあっという間に夕方,帰りは高遠から直接新宿に乗り入れる京王バスで帰りました(しかし,帰りは一般のバスルートを走ったため渋滞に巻き込まれ,さらに中央道名物の小仏トンネルで大渋滞してしまい,家局家にたどり着いたのは4月13日0時半ごろでしたとさ).
オマケ動画 上空から見た高遠城の桜
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この週末お花見に出かけてきました.まず11日土曜日は京都の宇治です.
ブログ&時代扮装仲間のフミヲさんから,宇治でお花見をしませんかと誘われたのが去年の秋,しかも雅な平安貴族のいでたちで.「こりゃ行くしかない」と二つ返事で参加を決めました.今回はウチのKも扮装に初チャレンジです.
とはいえ今年は暖冬で,各地とも例年になく桜の開花が早く,このままでは4月11日にはすっかり葉桜になっているのではと危惧されました.しかし,日頃の行いが良いのか3月末から4月初めにかけての寒の戻りのおかげでなんとか散り際には間に合いそうな感じでした.
迎えた4月11日土曜日の朝,JR宇治駅から徒歩10分の縣神社に集合です.天気は雲ひとつない快晴,気分も盛り上がります.ここで今回衣装を貸して下さる楽円さんに気付けていただきます.集まったのは皆フミヲさんのお友達で総勢10名,中には昨年のひのパレやしながわでお世話になった勝先生こと真琴さんもいました.今回の衣装は基本的に男性が狩衣,女性が壺装束なんですが,なかにはそうでない方も…
着付けが終わった人から外に出てさっそく写真を撮りまくります.すでに気分はハイテンション,その後いよいよ観光に出発です.まずは神社のお隣にある世界遺産・平等院に繰り出しました.平等院は藤原道長の別荘だったものを11世紀半ばに子の頼道が寺院に改造したもので,特に国宝に指定されている鳳凰堂は10円玉の表に描かれるほど有名です.
快晴の週末という絶好の観光日和,境内は大勢の観光客で賑わっていました.そんな中に突如出現した平安装束の一群,たちまち人々の注目を集めます.みんな口々に「何かのイベントですか?」,「ロケをやっているんですか?」,「お祭りがあるんですか?」と聞いてきます.最初のうちこそ,「仲間うちのお花見なんですが,せっかくだからと平安の心を味わうために衣装を着ているんですよ」と答えていたんですが,何回も同じことをしゃべっているうちに面倒になり,最後の方では「ただのお花見で~す」と答えていました(笑).
そんなこんなでみんなに写真を撮られたり,一緒に記念写真に納まったりしていました.中には「こんなに写真撮らせてもらって申し訳ないですね」とおっしゃる方もいたんですが,「いえいえ,撮られて困るなら最初からこんな格好で歩きませんよ」と答えていた私でした.
平等院の後はランチタイム,座敷に上がって川沿いの桜を見ながらいただきます.散り始めの時期で,風が吹くたびに桜吹雪が舞いとっても風流です.ランチの後は場所を変えてお茶の時間,みんな畏まっていただいていました(って,お茶は武家が主体では? 笑).
その後は源氏物語ミュージアムを見学したり,平等院表参道を散策してお茶屋さんに入ったりして過ごしました.結局朝10時から夕方6時過ぎまで衣装を着けたまま歩き通しでしたが,本当にあっという間に過ぎてしまった感じでした.主催していただいたフミヲさん,衣装を提供していただいた楽円さん,そして参加の皆々さまありがとうござました.
オマケ動画(宇治川のほとりの桜吹雪です)
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ここ数日気温の低い日が続いていましたが,今日は久しぶりに天気が良く少し暖かかったので,近所にある長興山紹太寺のしだれ桜を見に行ってきました.
箱根登山鉄道の入生田駅からほど近くにある長興山紹太寺は,江戸時代初期に小田原藩主だった稲葉氏の菩提寺だったお寺です.稲葉氏は3代将軍徳川家光の乳母だった春日局(おふく)の嫁ぎ先の家で,実子の稲葉正勝は家光の小姓から出世して寛永九年(1632年)に小田原藩主となったものです.
初代の正勝が亡くなった後,その子正則によって,長興山紹太寺に植えられたとされるのがこのしだれ桜です.種類はエドヒガンでその樹齢は320年以上といわれます.
入生田駅から徒歩で階段や坂道を上ること20分,見事なしだれ桜が現れました.満開にはもう少しという感じ(7分咲き?)でしたが,日曜ということもあり周囲には団子やおでんなどを売る露店が立ち,大勢の花見客がお弁当を食べたりしていました(さすがに酔って騒いでいる人はいなかった).
今年は各地で桜の開花が例年より早いようですが,皆さんのところはいかがですか?
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ニュースによると,今日九州の福岡で桜(ソメイヨシノ)の開花が発表されたらしい.
平年に比べて13日早く,全国でも史上2番目に早い開花だそうである.今年は暖冬で2月~3月上旬の気温が高かったことから一気に開花したものらしい.この分では今年は全国的に桜の開花が早まることが予想される.
そうなってくると心配なのが弘前のサクラである.弘前城のサクラは非常に有名で,観桜会シーズンともなると,全国から大勢の観光客がやってきて賑わう(200万人以上とも).
この弘前城のサクラが有名なのは,お城ときれいなサクラの妙が素晴らしいのはもちろんであるが,開花の時期がちょうどゴールデンウィークに重なるのも大きい.これが年度初めの忙しい時期ならこれほどの人出は得られないだろう.
(写真) 学生時代の観桜会での扮装(ドラクエⅢ 右端の賢者が私)
観光シーズンの弘前城公園のメイン部分は有料になっており,その入場料は弘前市にとって貴重な収入源である.しかし近年は暖冬のシーズンが多く,年々開花が早まる傾向にあるらしい.このため肝心の桜まつり期間にはサクラが散った後… なんていうことも起こりうるのである.これを避けるべく,開花が早まりそうな年には市の職員が岩木山から持ってきた雪を桜の根元にかけて木を冷やし,開花を遅らせようとするなどの涙ぐましい努力が払われているのである.
今後本当に桜の開花が早まるとゴールデンウィークのサクラの名所は札幌の円山公園になるのかもしれない.
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先日盛岡から自動車を陸送してきた私,ただ運転だけしてくるはずがありません.というわけで,ちょうど梅が見ごろを迎えた水戸の偕楽園に寄ってみました.
水戸の偕楽園は金沢の兼六園,岡山の後楽園とともに俗に日本三名園などとも呼ばれる庭園です.江戸時代天保年間に有名な水戸藩主徳川斉昭(徳川幕府最後の将軍徳川慶喜の実父)が造営した庭園です.名前の由来は「みんな(偕)でたのしむ(楽)」からきているんだそうです.梅の名所として知られていますが,私は残念ながら梅の季節に訪問したことはありませんでした.
この日3月1日は曇り時々晴れといった天気でしたが,日曜ということで大勢の観光客が繰り出し,露店もたくさん並んでいました.
園内には約3000本の梅があるとのことでしたが,ちょうど満開であちこちに赤白様々な色彩の花が咲いていました.中でも水戸の六名木と呼ばれる木があるとのことで,園内を探し回りました(こういうシリーズものにハマりやすい性格です 笑).
(写真左) 水戸六名木のひとつ裂公梅,(同右) 偕楽園というと梅林が有名ですが,竹林もあります.
先日訪問した曽我の梅林もきれいでしたが,満開時期にあたったこちらも見事でした.
ついでに弘道館にも寄ってみたんですが,な,なんと!普段は閉まっている正門が開いているではないですか.係員の話では弘道館の正門は江戸時代には殿様が来たときのみ,明治以後は皇族の来館時のみに使用されているそうですが,近年梅まつり期間中の土日に限り一般人の通行も認めているとのことでした(普段は正門脇にひっそりとたたずむ通用門から出入りする).ビザンチン皇帝の私が来たから開けてくれたわけではないようですが(笑),嬉しくなって何回も出入りしました.
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昨日は当直で一日中病院にいたんですが,直明けの今日もいい天気,というわけで近くに繰り出すことにしました.出かけたのは曽我の梅林,その名のとおり梅の名所です.
東北では梅も桃も桜もほぼ同じ頃に咲いてしまうので,花見というとどうしても一番派手な桜(特にソメイヨシノ)に目が行ってしまいます.そのため梅を観賞する機会はなかなかないのですが,せっかくこっちに来たのだからと繰り出しました.
梅まつりの会場はJR御殿場線の下曽我駅の周辺に散らばっています.今日は駅から歩いて向かいました.天気もよく暖かい日曜日ということで,焼きそばやたこ焼きなどの露天がたち並び,大勢の観光客でごった返していました.
早咲きの品種は既に散った後でしたが,遅咲きの白加賀やしだれ梅などがほぼ満開でした(これでウグイスの鳴き声が聞こえてくれば最高だったなと思った).
(写真左) 遅咲きの白加賀,(同右) こちらはややピンクがかっています
途中なにやら短冊のようなものが下がっているなと思ってみたら…
「人生は女って,なんじゃこりゃ!」と思っていたら足元にちぎれた短冊の切れ端が落ちていました.
曽我といえば,日本三大仇討ちで知られる曽我兄弟が育った土地です.兄弟ゆかりの城前寺には兄弟の像も置かれていました.
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実は先週末から今週はじめにかけて南国に逃避してました.行き先はサイパンです.
私の冬の南国逃避はほぼ2年に1回の割合で,2年前にグアムに行って以来でした.
今時分のミクロネシアはちょうど乾季で気候もよく,しかも値段が安いのが魅力です.今回も連日晴天に恵まれ,ふにゃふにゃになってました.
遠くに繰り出すときはどこか旅行会社に頼むんですが,今回は自分で手配しました.航空券に関してはいわゆる航空会社のマイレージプログラムの特典航空券を利用しました.今までためてきたマイルもあるんですが,何より最近ではクレジットカードのポイントをマイルに移行できるサービスがあってそれをふんだんに使ったわけです(我が家では電気・ガス・NHK他カードが使える場面では極力カードを使うので結構ポイントが溜まります).
サイパンは日本人が良く行く観光地であり,中心街には居酒屋もたくさんあるので,食べ物に困らないというのも魅力です.
明日からまた日常の世界
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本当~に,久しぶりの新選組ネタです.
幕末の激動の京都で,会津藩の庇護の下,いわゆる尊攘派の浪士と死闘を繰り広げ,倒れ掛かる幕府の屋台骨を支えた剣客集団,それが新選組である.自らの命を賭して戦い続けた新選組の主要メンバーはその多くが幕末期に非業の死を遂げている.試みに,ひの新選組まつりの隊士コンテストで選出される12人の主要幹部についてみると
局長 近藤 勇 慶応4年4月25日 板橋にて刑死
副長 土方歳三 明治2年5月11日 函館にて戦死
一番隊隊長 沖田総司 慶応4年5月30日 江戸にて病死
四番隊隊長 松原忠司 慶応2年 切腹
五番隊隊長 武田観柳斎 慶応3年 暗殺(?)
六番隊隊長 井上源三郎 慶応4年1月5日 淀千両松の戦いにて戦死
七番隊隊長 谷三十郎 慶応2年 暗殺(?)
八番隊隊長 藤堂平助 慶応3年11月18日 油小路で戦死
十番隊隊長 原田左之助 慶応4年5月 上野戦争で負傷し後死亡
このように12人中9人までが幕末維新期に命を落としている.これ以外の幹部でも,総長の山南敬助が慶応元年2月に切腹し,参謀の伊東甲子太郎は慶応3年11月に暗殺されている.
一方少数ながらも明治期を生き抜いた者もいた.九番隊隊長の鈴木三樹三郎(伊東甲子太郎の実弟)は伊東と共に慶応3年に御陵衛士に加わり,油小路の戦いを生き延びる.その後は薩摩藩の庇護のもと,倒幕派として活動し明治を迎えている.慶応3年12月の伏見での近藤勇襲撃事件にも参加しているし,その後は相楽総三の赤報隊にも加わり,二番隊隊長という重責を担っている.
三番隊隊長の斉藤一は流山で近藤勇が捕われた後,新選組の残存部隊を率いて転戦し,会津戦争に参加した.しかし榎本艦隊と合流する土方らとは別れて,戦後も会津に残り,会津藩士として生涯を送っている(斗南にも行っており,今の青森県五戸町に住んでいたらしい HPの関連記事).維新後は警視庁に出仕し,西南戦争にも参加している(西南戦争では当初政府軍の主力は徴兵で集められた兵隊であり,鉄砲を撃つのは得意だったが,薩摩武士に切り込まれて肉弾戦になると,なすすべもなく崩れてしまった.このため,旧士族が集まっていた警察隊を戦地に送り,薩摩の切り込みに対抗したのである).
そしてもう一人,維新後を生き延びた幹部隊士が今回のテーマ,新選組二番隊隊長の永倉新八である.
(写真1) 地下鉄新御徒町駅近く,小島小学校付近に旧松前藩上屋敷があったそうです
永倉新八は天保十年江戸詰めの松前藩士長倉勘治の次男として江戸の松前藩上屋敷で生まれた.名は栄治である.次男ではあったが,兄の秀松が新八3歳のときに亡くなったため,実質長男として育てられたらしい.8歳のときに江戸の岡田道場に入門し,神道無念流を学んだ.18歳の頃に脱藩して,同流の百合道場に移り,ここで終生の友となる市川卯八郎(後の芳賀宜道)と出会った.この時に実家に迷惑がかかることを恐れて,苗字を一字変えて永倉としたようである.その後心形刀流の坪内道場に師範代として招かれ,後に新選組で一緒になる島田魁と知り合ったらしい.
脱藩後は武者修行と称して各地を歩いていたらしく,その途中で試衛館に出入りするようになったようだ.永倉の新選組顛末記によると,当時の試衛館は「武骨が過ぎて殺気みなぎるばかり」だったという.その気風が肌に合ったのか,いつしか食客として居つくようになった.文久3年の浪士組の一件を試衛館に持ち込んだのは永倉だと言われている.
上洛し,新選組結成後は,副長助勤,二番隊隊長,撃剣師範などの要職を歴任し,常に幹部隊士として組の中枢にあった(永倉は沖田総司,斉藤一と並ぶ新選組を代表する剣客として知られる).特に沖田総司が体調を崩してからは,彼の一番隊の指揮も担当している.元治元年の池田屋事件をはじめ,油小路の戦い,鳥羽伏見の戦いなど新選組の修羅場のほとんどに参加しており,特に池田屋では近藤,沖田らとともに最初に乗り込んでいるし,鳥羽伏見では薩摩の洋式銃隊に対して切り込みを敢行し武功を挙げている.
永倉は新選組結成時のメンバーでは試衛館派に属するが,初期の新選組の局長だった芹澤鴨とは同門(神道無念流)だったこともあり,近藤や土方らとは常に一線を画していたようである(文久3年9月の芹澤暗殺についても,彼は全く関知していなかったらしい).池田屋事件後,行動がやや尊大になってきた近藤に対して,原田左之助や島田魁らとともに,会津藩主松平容保宛に建白書を提出している.この時は容保のとりなしで大きな事件にはならなかったが,その後も微妙な影を落としたようである.ただ,永倉と近藤らは決して対立していたわけではない.後に伊東甲子太郎らが入隊し,独自の勢力を形成し始めると,永倉にも伊東から誘いがかかったが,結局彼は新選組に留まっているからである.思うに永倉という人物は,相手が誰であれ,間違っていると思うことははっきりと言うタイプの人間だったのだろう.彼自身は近藤・土方ら新選組の基本路線(勤皇・佐幕)には賛成だったと思われる(伊東は勤皇・反幕である).
しかし,時代の流れは新選組にとって逆風となり,鳥羽伏見の戦い,その後の甲陽鎮撫隊の敗戦の後,近藤らと袂を分かつことになった.その後は旧友の市川卯八郎(芳賀宜道)らとともに靖共隊を結成し北に向かって転戦,米沢に至って雲井龍雄と交流している.しかし,明治元年9月の会津藩降伏によって芳賀とともに江戸に戻った.
江戸に戻った後,しばらくは浅草の芳賀の家に潜伏していたが,明治2年1月に芳賀が義兄(妻の兄,藤野亦八郎)に殺されると,永倉も身を隠しきれないと感じ,松前藩に帰参を願い出て許された.この時永倉があっさりと帰参を許されたのは,長倉家が藩内でそれなりの地位を占める家柄だったからとも言われている(浅田次郎氏の壬生義士伝で有名になった南部藩の下級武士だった吉村貫一郎が鳥羽伏見の戦い後,大阪の南部藩邸に帰参を申し出ながら,許されず切腹になったのと対照的である).
新選組顛末記によると,ある日両国橋を歩いていた永倉は,偶然にも鈴木三樹三郎と再会した.以下は顛末記からの引用である.
一日永倉はおりからの休みをさいわいに気保養がてら市中を散策していると、ふと両国橋の上で新選組で前年暗殺した伊東甲子太郎の実弟鈴木三樹三郎に出会った。永倉はしまったとは思ったがいまさらひきかえすこともできぬ。両人のあいだはしだいにちかよって鈴木の眼には異様の光がかがやいた。そして、
「やァしばらくでござったナ、貴公はただいまいずこにおられるか」と鈴木が聞くので、永倉は、
「拙者は松前藩に帰参いたしてござる」
「それではいずれまたお目にかかる機会もござろう」とすれちがったので、永倉も会釈してわかれた。
しかし鈴木は兄伊東の仇敵として永倉をそのまま見逃すはずがない。ただちにひきかえして斬りつくるのではあるまいかと永倉がふりかえると、鈴木もふりかえってじっと見ている。永倉はさてこそとかくごして袴の股立をとりしたくをして待っていたが鈴木はとてもかまわぬと思ったか、そのまま黙っていってしまう。それから数日たつとはたして鈴木の一味が永倉をつけまわし、門外一歩をふみだそうものなら、たちまち手をくだす気勢をしめした。
途中の,「しまったと思った」というくだりからは,永倉といえども,戊辰戦争後の追われる身としての心の不安が感じられる.結局この事件とその後明治3年12月に盟友雲井龍雄が処刑されたことによって,江戸に留まることの危険を感じた永倉は,藩の勧めもあり地元松前の藩医である杉村松柏の養子に入ることになって江戸を去った(明治4年1月).この時から杉村治備(後に義衛)から名乗ることになった(ただし本稿では混乱を避けるため以後も永倉新八で統一する).
松前に移ってからの永倉は当地で藩の軍役についたりしていたが,間もなく廃藩置県となり多くの藩士が松前を去っていった.永倉も家族とともに明治6年に小樽に転居している.
当時の小樽はニシン漁で栄え,北海道随一の賑やかな街だったらしい.ここで養父の杉村松柏は本業である医業を始めた.しかしそれも永くは続かず,翌明治7年8月に松柏はこの地で亡くなってしまう.永倉は藩医杉村家の養子とはいえ,医業の知識があったわけではないから家業を継ぐわけにはいかない.結局彼が選んだのは家族とともに東京に戻ることであった.彼の東京在住は明治8年から15年までである.この間各地で剣術の指南などをやって暮らしていたといわれるが,特筆すべきは現JR板橋駅東口に建つ新選組顕彰碑の建立である.
戊辰戦争期に朝敵の汚名を着せられた新撰組であるが,次第名誉回復の動きが出てきた.その流れの中で永倉は医師の松本良順(明治後は松本順と改名)や多摩の近藤・土方の縁者,生き残った他の新撰組隊士らとともに奔走し,明治9年顕彰碑の建立に至ったのである.
その後明治15年になり,永倉は再び北海道に渡った.行先は開拓使庁の置かれた札幌からさらに石狩川の上流にある樺戸集治監である.樺戸集治監は監獄機能に加えて,囚人を使っての開墾や道路建設などの土木事業などを行わせるための施設である.背景として廃藩置県後頻発した旧士族の反乱(佐賀の乱,萩の乱など)や高まる反政府運動などで政治犯が激増し治安が悪化していたことがある.前年明治14年に初代典獄(刑務所長のようなもの)の月形潔のもとで開設されていた.
(写真3) 永倉が剣術を指導した樺戸集治監は今博物館になっている
ただこの集治監には腕の立つ囚人も多く,万一暴動などが発生した場合に応援を呼ぶすべもない土地柄であり,看守に対する剣術指南の重要性が考えられていた.このため永倉に白羽の矢が立ったものらしい.当時この集治監のあった場所はまさに辺境であり,彼も家族は小樽に残しての単身赴任であった.ここで明治19年まで剣術師範の職にあったようである.
実は私の好きな大河ドラマ「獅子の時代」にこの樺戸集治監が登場する.主人公で元会津藩士の平沼銑次(演じるは菅原文太)が大久保利通暗殺の罪を着せられ,ここに収監されるのである.ただドラマでは銑次が樺戸にやってきたのは明治14年で翌15年の春には脱獄しているので,残念ながら銑次と永倉の接点はないのであった.
(写真4) 永倉が晩年をすごした地にはこのように碑が建っている(現小樽市役所付近)
それはさておき,永倉を樺戸に招いた月形が明治18年に職を辞すと,永倉も翌明治19年に樺戸を去った.その後三度東京に戻り道場などを開いていたといわれるが,明治32年に小樽に引っ越し,以後死ぬまでその地にとどまった.
この晩年の小樽時代のエピソードとして,小樽の映画館から孫とともに出てきたところ地元のヤクザに絡まれたものの,彼が睨むと相手はその眼光で圧倒されて退散した話や,老境の永倉が北海道帝大の撃剣部の学生に教えを請われ,引き受けて札幌に出向き,一通り型を披露したものの,激しく動きすぎて卒倒してしまい帰りは馬車に乗せられて小樽に帰った話が知られている.
大正2年からは地元の小樽新聞に「永倉新八」のタイトルで新撰組時代の話を連載している.これをまとめたものが今日「新撰組顛末記」と呼ばれる書籍であり,新撰組研究の貴重な資料となっているものである.またこの小樽時代に近藤勇の娘といわれる山田音羽の訪問を受けている.
このように幕末維新期を生き抜いた永倉新八であったが,大正4年1月5日に小樽で亡くなった.伝えられるところによると口腔内感染からの敗血症だったとされる.
永倉新八は幕末の最終段階で近藤・土方らと袂を分かったものの,後年は新撰組の復権に努力するなど,今日我々が新撰組について知っている多くのことを教えてくれたのである.
注) 今回の記事は2007年秋の北海道旅行で訪問したネタを中心に構成しています(やっと完成した 感).
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アフリカ西部,現マリ共和国の中央部にトンブクトゥという町があります.サハラ砂漠の最南部,ニジェール川の北にある小さな町です.
今は砂にまみれた寂しい町ですが,中世のマリ王国・ソンガイ王国時代にはサハラ経由での北アフリカと中央アフリカの交易拠点として繁栄を謳歌した都市でした.14世紀にマリ王マンサ・ムーサがメッカに巡礼した際に,莫大な黄金を惜しげもなく喜捨したため,当地の金の相場が大暴落したという伝説は有名です.中世の旅行家イブン・バツータやレオ・アフリカヌスがこの街の繁栄ぶりを紹介したことから,ヨーロッパでも黄金の都トンブクトゥとして多くの人々の憧れの地となりました.
しかし16世紀以降,ヨーロッパ人によってサハラを介さない海路での交易が盛んになるとこの街の繁栄も終わりを告げ,さらにはモロッコ軍の侵略による荒廃も重なり,19世紀にヨーロッパ人として初めてこの地に足を踏み入れたルネ・カイエの時代には,砂漠化した泥の街に過ぎなくなっていたそうです.
そんなトンブクトゥ,珍しもの好きの私の琴線を大いに刺激する憧れの地なのでした.毎年行きたいと思いつつ行けないでいます.今年の抱負にも書いたように,今年こそ行きたいな~と思っていたんですが…
先日BSでやっている海外安全情報という番組を見ていたら,
なんと! トンブクトゥ-付近の危険情報が引き上げられたとのことでした.
外務省の海外安全情報では,その国・地域を訪問する際の危険度をランク付け5段階で表わしています.簡単にいえば
1.表記なし:
海外に来ているという基本的な注意を守ればまあ大丈夫でしょう.
2.十分注意してください:
結構ヤバいところもあるので,それなりに注意してください.
3.渡航の是非を検討してください:
危険,絶対行くなとは言わないが,できればやめといた方がいい.行くならそれなりの準備を.
4.渡航の延期をお勧めします:
相当に危険,行くのはよしましょう.命にかかわる可能性があります.
5.退避を勧告します,渡航は延期して下さい:
激しく危険,今いる人はすぐに避難を.行くなんて問題外,行ったら死にます.
となっています.ちなみにフランスやドイツなどの先進国はおおむね1,昨年・一昨年私が行ったナミビア・マダガスカルは2に該当します.ちなみにソマリアやアフガニスタンは5です.これがどんなに凄いことかは,今現に戦争が起こっているガザ地区ですら4だという事実が如実に物語っています.
さて,これまでマリはほぼ全土が2,一部3だったんですが,今回トンブクトゥを含む一帯が3に引き上げられたそうです.トンブクトゥの町自体は2のままのようですが,周辺が引き上げられたことから訪問に黄色信号が灯ってしまいました.
さらには最近発表されたルックJTBの地球の詩シリーズのアフリカ編最新版からトンブクトゥが消えてしまいました(地球の詩アフリカ 泣).やっぱりマニアックすぎて,商売が成り立たなかったんでしょうか.他の旅行会社がどう出るのか気になります.
私はトンブクトゥに行けるのか?
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この三連休,四国遠征に行ってまいりました.純粋に100名城に特化した遠征のため,いわゆる名所・名物とは全く無縁の旅行となってしまいました(笑).
四国には100名城に選定された城郭が9か所あり,これを3日で回るわけですから,1日3か所ということになります.1か所につき最低2時間,できれば3時間は欲しいため,まさに夜明けから日没まで活動することになります.特にスタンプの置いてある場所(お城の天守だったり博物館だったりしますが)は9時~17時の営業の場合が多く注意が必要です.このため,実際の行動は,早朝まずは城郭を探索し9時の開館と同時に入場してスタンプを押し,その日の最後は逆に初めにスタンプを押してから城郭を探索して日没というパターンになります.
そんなわけで今回は
1月9日夜 飛行機で高知入り宿泊
1月10日 早朝に高知城(7:00~10:00),徳島に移動(2時間半)して徳島城(12:30~14:30),高松に移動(1時間)して高松城(15:30~18:00)その後讃岐うどんを食べて丸亀に移動(30分)して宿泊
1月11日 早朝に丸亀城(7:00~10:00),今治に移動(1時間半)して今治城(11:30~14:00),松山に移動(30分)して松山城(14:30~17:30),宿泊
1月12日 早朝に湯築城(7:00~10:00),大洲に移動(40分)して大洲城(10:50~13:00),宇和島に移動(40分)して宇和島城(13:50~16:30),その後松山にとんぼ返りして最終の飛行機で帰宅
という日程でした.
(写真中) 左から丸亀城,今治城,松山城
(写真下) 左から湯築城,大洲城,宇和島城
充実した3日間でした.途中の町で発見したお店の看板がこれです.クラブ「チャイナ」だそうです(ローマ字表記というのも初めて見た 笑).
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ビザンチン皇帝の四国遠征,1月10日の朝から
高知→徳島→高松→丸亀→今治→松山
と流れてきました.ほぼ城散策・移動のみで終わってしまうため,高知では坂本龍馬関連の史跡はすべて無視,カツオ・クジラも無視,徳島では徳島ラーメンを無視,松山でも道後温泉・坂の上の雲・坊ちゃん関連もすべて無視と一体何しに来てるんだ状態です.
お天気が心配された連休ですが,雨雲の方はブログ仲間のまーうささんがすべて引き受けてくれたらしく(ごめんなさい),当地は大体良いお天気です.ただ気温は意外に低く,風が吹くと結構寒く感じます(とはいえ,盛岡に比べると寒いうちには入りませんが).そんなわけで,冷えた体にピッタリの讃岐うどんだけは賞味することにしました.
今回訪問したのは,高松郊外にある釜揚げうどんの店わら家に出向きました.寒い日には生姜がばっちり効いた釜揚げうどんが最高です.
(写真左) うどんが出てくるまで,薬味の生姜を自分でおろします.(同右) 釜揚げうどん,大盛りになるとタライに入って出てきます.
予定では明日愛媛県の大洲,宇和島の2城を攻略して,晴れて四国9城制覇となります(あさってから仕事というのが辛いなぁ).
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お正月休みも終わって,さあいよいよ観光シーズンの始まりである(なんのこっちゃ).
今年は元旦から働いていた関係もあり,この週末三連休は2009年ビザンチン皇帝最初の遠征です.
行先は,オーストラリア! じゃなくて四国です(形が似ているだけじゃないか).
今回は100名城に特化した遠征になる予定です.四国には100名城に選出された城郭が9か所あるんですが,今回は3日間で9か所を一気に制覇する予定です.1日3か所ですからかなりハードな行程になりそうですが,幸い四国の100名城は交通の便が良いところが多いのと,過去に登城した高知城・松山城・宇和島城は簡潔に済ますことでなんとか頑張りたいと思います.
せっかく高知に行くのに,坂本龍馬関係の史跡に全く行かないという初めての旅行になりそうです(笑).
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先日掃除をしていたら懐かしいものが出てきた.
(写真1) 上高地駐車場の整理券.1987年9月28日というのが時代を感じさせます
実はこれ,上高地にある駐車場の整理券なんです.
整理券なんて珍しくも何ともないじゃないか,と思う向きはちょっと甘い.今では絶対に手に入れられないものだからです.
上高地は日本を代表する山岳リゾート地として知られています(ミシュランの旅行ガイドで二つ星らしい).ここは北アルプスの山中に,まるでそこだけが別世界のように広がる平野です(標高1500メートルの高地にこれだけの平野が広がるのは日本では珍しいんだそうです).
江戸時代には地元の人が薪の伐採に入る程度でしたが,明治になってイギリス人のゴーラントやウエストンがここを日本アルプスと紹介し,山岳リゾートとしての上高地の歴史が始まります.
昭和初期には上高地への自動車道である釜トンネルも開通し,帝国ホテルの営業もはじまりました.
第二次大戦後,国民の生活が豊かになるとこの地を訪れる人も増えていきます.さらに高度成長期を迎えてマイカーが普及すると,元々交通不便のこの地に多数の自家用車が殺到することになったのです.元々昭和初期に造られた釜トンネルは急カーブ,急勾配,幅が非常に狭いトンネルだったため(通行に当たっては必ずローギアで走行することにされていた),対向車とのすれ違いは不可能で,常に青数分,赤十数分という片側交互通行が行われていました.このためいつも渋滞が途切れない有様でした.しかも狭い上高地に多数の自動車が入り込んだため,駐車場に収まりきれない車による狭い道路上への違法駐車も後を絶たず,これが渋滞にハ拍車をかけるという悪循環でした.
また大量の自動車が出す排ガスの環境への悪影響(上高地は標高が高く山に囲まれているため,いったん排ガスが溜まるとなかなか浄化されにくい懸念もあった.メキシコシティのようなものですね)も懸念されました.このため昭和50年頃から土日,祝祭日のマイカー規制が始まり,徐々に強化されていったのです.そして平成に入るとマイカーは通年禁止となり,さらに最近では観光バスの乗り入れも規制され始めています(入れるのは路線バスとタクシーのみ).
この整理券は,秋の平日にはマイカーでの乗り入れが許されていた1987年に友人と出かけた際のものです(ちょうど試験明けの休みだった).秋の平日ということで,混雑もそれほどではなく,静かな上高地を探索した思い出があります.
最近は新しいトンネル(新釜トンネル)も開通したらしい上高地,また行ってみたいなと思ったのでした.
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先週末お正月休みの最後に冬の青春18きっぷを使って東海地方の未制覇だった城郭,岩村城に行ってきた.
とはいってもこの城,JRだけでは登城できず,中央線の恵那駅から明知鉄道というローカル鉄道に乗り換えて行かなければならない.この明知鉄道が非常にいい味を出している路線なのである.
まず第一に切符である.なんと!硬券なのである.硬券とはその名の通り厚紙でできた硬い切符である.今では全国ほとんどの鉄道が自動券売機から出てくるフニャフニャの軟券なのに対して,この明知鉄道では今でも駅に券売機を置かず,切符は窓口で駅員さんから購入するスタイルを守っているのである.
(写真2) 昔懐かしの往復切符,今もあるとは思いませんでした.
今回恵那駅から岩村駅まで往復で切符を買ったのだが,これがまた私の世代には涙が出てくるくらい懐かしい往復切符であった.これは1枚の切符を半分にちぎって使うようになっているスタイルである.ただ,そのままではちぎるのが大変なので,駅員さんが鋏を入れてくれるのである.
そしてまた,駅名にも楽しいものがある.今回の目的地岩村駅のひとつ前の駅が,なんと極楽駅なのである.当然ここを目的地とした切符を購入すれば,それは極楽行きということになり,なんだかめでたいのかめでたくないのかよくわからない切符なのであった.
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さて先週末のビザンチン皇帝の根室旅行,根室といえば外せないのが花咲ガニである.北海道のカニというと,ズワイガニ・タラバガニ・毛ガニと並んでこの花咲ガニが知られている.このうち前3種は各地で食べる機会があるのだが,最後の花咲ガニはなかなか他所ではお目にかかれない.名前の由来は根室の花咲港にちなんだとも,茹でると真っ赤に花が咲いたように見えるからとも言われている.
(写真1) 茹でた花咲ガニはこのように真赤になります.長い棘も特徴です.
せっかく根室まで来たのだからと,11月29日夜に根室の老舗の料理屋「まるしめ本店」さんにお邪魔した.ここはカニを一杯いくらで買って,それをお好みで調理してもらう仕組みである.今回はお刺身と茹でガニ,にぎり,鉄砲汁に挑戦した.
(写真2) 花咲ガニの刺身,茹でる前なので体表の色が異なります.
まずはお刺身である.以前ズワイやタラバの刺身は食べたことがあるのだが,花咲は初体験,ワクワクして登場を待つ.やってきた花咲ガニの刺身は白くてプリッとしている.一口食べるとやや硬くて淡白な味わいだった(わさび醤油を付けるといい感じ).以前食べたズワイガニのトロっとした食感とは全く異なる感じであった.
次に登場したのが,茹でガニである.花咲ガニは浜茹でに限るという意見が多いだけあって,これが実に美味い.先ほどの刺身とは打って変わって,甘味が多く,濃厚でやや脂っぽい味だ.当然酒と一緒に飲みたくなることは言うまでもない.
その次が花咲ガニの握りである.浜茹でしたカニをネタにしたお寿司であったが,濃厚なカニの味とさっぱりしたシャリの妙が素敵な感じだった.
(写真5) カニのぶつ切りが入った鉄砲汁は飲んだ後に最高です.
そして,締めが鉄砲汁である.これは早い話がカニの味噌汁なんですが,カニの出汁がきいた味噌汁は実に美味なのでした.カニ汁といえば昔学生時代に知床半島東岸の羅臼にある民宿まるみという宿で朝食に出たカニ汁が絶品で,いまだに忘れられない(機会があればまた行ってみたい).
こうして花咲ガニを堪能した夜であった.
ちなみに花咲ガニとタラバガニは厳密にはカニではなくヤドカリの仲間である(ズワイや毛ガニと比べると脚が一対少ない).この「まるしめ本店」さんのカニ料理のメニューはすべてタラバと花咲だったので,本当はヤドカリ料理なのではと心の中で突っ込んだのは内緒である(笑).
(写真6) 生け簀のカニ達.心なしか恨めしそうにこっちを見ている気がしました.
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久しぶりの幕末ネタ.
幕末の会津藩の家老に梶原平馬という人物がいます.天保十三年(1842年)に会津藩家老格の内藤信順の次男として生まれました.兄で長男の介右衛門が内藤家を継ぎ,次男の彼は会津藩の名門梶原家の養子に入りました.この時には梶原景武と名乗ってます.そして同じく重臣である山川大蔵(浩)の姉二葉と結婚しています.
幼少時には泣き虫で引っ込み思案だったそうですが,成長とともに武芸・学問に秀でるようになり,文久二年に藩主松平容保が京都守護職に任じられると,その側近として上洛しています.慶応元年(1865年)に若年寄,翌二年(1866年)には24歳という若さで家老に昇進し容保を支えました(このころから平馬と名乗ったらしい).
慶応四年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いの時は江戸にいたため戦いには参加していません.戦後徳川慶喜が恭順謹慎すると藩主容保は追われるように帰国しましたが,平馬は江戸や横浜に留まり武器商人のスネルから武器弾薬を調達します.そして同年4月に調達した物資とともに帰国しました(海路で新潟経由で戻ったそうです).
当時藩内は主戦派と恭順派の対立がありましたが,平馬は主戦派で奥羽越列藩同盟の締結に尽力します.会津戦争中は城中にあって戦争指導に当たりましたが,武運なく敗戦・開城となります.戦後は新政府側との折衝に当たり,嫡子容大による斗南藩としての再興に努力しました.明治三年(1870年)に他の藩士たちとともに斗南へ,移住地は今の青森県五戸町の上市川というところです.しかし当時の斗南は作物の実らない不毛の地で藩士たちは厳しい窮乏生活を強いられました.そんな中翌明治4年に廃藩置県が行われて斗南藩は消滅,多くの藩士は斗南を去ります.平馬は青森に移り青森県庁の職を得ますが間もなく職を辞し姿を消しました(この頃妻の二葉とも離縁をしています).
その後彼の姿を見たものはない…
となっていたんですが,それから100年以上後の昭和63年(1988年)に平馬のお墓がなんと根室で発見されたのです.見つけたのは平馬の兄内藤介右衛門の孫にあたる萱野恒雄氏でした.青森を去った平馬は一時東京に行き,そこで水野貞という女性と再婚,彼女は教育者で東京の女学校で教鞭をとっていましたが,明治十四年(1881年)北海道に渡り平馬も同行しました.彼女は当初函館の学校で教えていましたが,翌明治十五年に請われて根室に移住しています.根室では平馬は文房具屋を営んでいたそうです.そして明治二十二年にこの地で没したとのことです.一方の貞は平馬の死後も根室で教育にあたり昭和二年(1927年)まで生きていたとのことです.彼女は根室では著名な教育者であり,その関係で平馬の墓所の発見にいたったもののようでした.
会津・新撰組贔屓の私としてもぜひ訪れてみたい場所であり,今回根室訪問の目的の一つとなったのです.梶原平馬のお墓は根室市の中心部のやや西側にある西浜墓地にありました.古く小さな墓石にはかろうじて読める彼の戒名「鳳樹院泰庵霊明居士」が刻まれていました.
ちなみに平馬の兄,内藤介右衛門の墓地は青森県五戸町にあります(関連記事)
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最近結構忙しくてこのブログの更新もままならない状態でした.しかし,だからといって休みの日におとなしく家で寝ていることができない性分でもあります.何とか時間をやりくりして活動したい.というわけで,この週末行ってきました.根室へ.
(写真1) 広大な根釧台地が広がる道東は最も北海道らしい雰囲気を醸し出しています.
「なぜにそんな遠いところへ」という声が聞こえてきそうですが,見たいところがいくつかあっったんです.それでも決行には二の足を踏んでいたんですが,なんと「羽田-釧路 1万円」の航空券を見つけてしまい,「こりゃ行くしかない」となったわけです(東京-盛岡の新幹線より安い!).
羽田からわずか1時間40分で,釧路空港に到着.飛行機の偉大さを実感しつつ外に出る.第一声は「うっ,寒い」,東京より10℃以上低かったです.空港からバスで釧路市内へ,目指す根室はここからさらに汽車で2時間かかります.
HPの方の本州四端の記事でも述べているんですが,正確な日本の最東端は東京都南鳥島です(東経153度59分 北方領土の択捉島よりも東にあります).しかし南鳥島は絶海の孤島で気象庁や海上自衛隊など特殊な業務の人しか立ち入れないことになっているため,一般人が簡単に行ける日本の最東端は根室市郊外の納沙布(ノサップ)岬(東経145度49分)ということになります.
夏には多くの観光客でにぎわうこの地も,晩秋(初冬というべきか)の今は訪れる人もほとんどなくひっそりとしていました.
ところで日の出と日没は東に行けばいくほど早くなります.したがってこの納沙布岬は日本で一番早く日の出が見られる場所です(冬には緯度が高いと日が短くなるため年中一番というわけではありませんが).その代り日没の方もメチャクチャ早くて,訪問した11月29日には午後3時ですっかり夕方の様相でした.
(写真3) 2008年11月29日15時15分の根室の夕日です(16時には真っ暗になります).
また根室には日本最東端の鉄道駅もあるんですが,実は終着駅の根室ではなく,その一つ手前の東根室駅なのでした(鉄道が根室市街地の南から回り込む形で走っているため).この路線は根室本線といいますが,最近では愛称の花咲線で呼ばれることが多いようです.
(写真4) 日本の鉄道駅の最東端に位置する東根室駅です.
一般に最果てというと同じ北海道の宗谷岬や知床半島がイメージされますが,宗谷岬のある稚内は東京や札幌から直接飛行機で行くことができます.また知床は確かに遠い場所ですが,自然のイメージが強くあまり生活感はありません.その点この根室納沙布岬は最寄りの空港である中標津空港からでさえ1時間半かかり,しかも生活感が強く,遠くに来たことを実感させてくれる場所だと思います.
(写真5) 根室本線の終点根室駅にて,ここで線路が終わっています.東京1607kmという標識にゾクゾクします.
そんなことを思いながら夜の根室の街を歩いていたら,こんなものを発見.
(写真6) ご存じカラオケ全国チェーンのビッグエコーです.店内には都会でも見られるような若者がいて,一瞬自分が根室にいることを忘れてしまいました.
情報・流通の発達で,今では全国どこに行っても同じような店が見られるようになりました.その一方旅の風情が少し失われてしまった気がします.
(写真7) 最東端到達証明書です.北方領土等もあるため本道最東端という表現になっています.
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この三連休,2年ぶりに上洛してきました.
おおっ,幕末史跡めぐりができるじゃんと思ったんですが,今回の趣旨は別なところにあったため断念しました.
実は私の母親が「京都に紅葉を見に行きたいから連れて行け」というもので,彼女とその姉(私にとっては伯母にあたる)らを引き連れて行ってきたと言うわけです(「紅葉なら八幡平でも見られるじゃないか」という心の叫びと共に 笑).
紅葉も素晴らしかったんですが,それよりも秋の観光シーズンたけなわ,しかも三連休の京都はもの凄い 人,人,人でした.特に嵐山の渡月橋なんか,歩いて交差点を通過するだけで10分以上かかるんじゃないかという程の人ごみで,自然豊かな土地で通勤電車の体験をするというのが面白かったです.
帰ってきてネットのニュースを見たら
こんな記事が載っていました.京阪電車内で起こった事件だそうです.最近殺伐とした嫌な事件が続いていましたが,この事件では少なくとも怪我をしたり死んだ人はいないでしょうから,なんとなく不思議な気分になりました(なんかレベルが小学生のような事件.ニュースでは最近18件も同様な事件があったそうですが,同一犯なのかは不明なようです).
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NHK BS2の毎週月曜から木曜日までの昼12時35分~13時,BS名作アニメ劇場というのをやっています.現在放送しているのが「母をたずねて三千里」で,これは私が小学校時分の作品です.今ではアニメファンでなくてもその名を知っているだろう,高畑勲さんが監督,宮崎駿さんが場面設定を担当している作品です.ちょうどお昼時間でもあり,可能な限り見ています.
本放送,その後の再放送を見た記憶はあるんですが,こうして改めて10年以上ぶり見ていると,実にすばらしい作品であることがわかります.
原作者は19世紀イタリアのエドモンド・デ・アミーチスという作家なんですが,実は「母を訪ねて三千里」という独立した作品があるわけではなく,彼の代表作である「クオレ」中の一挿話が元になっています.挿話ですから非常に短く,原作のままではとても1年間のシリーズ作品にはできないため,アニメでは製作スタッフオリジナルのエピソードや登場人物がたくさん登場しています.ただ,こういった手法は時に裏目にでることもあるんですが,この作品においては成功していると言えます.昔原作も読んだことがありますが,前述の通り短いため,場面の設定などが不十分で,アニメでは見事にその設定の穴を埋めていると思います.
そんな母をたずねて三千里,今週は主人公マルコがお母さんを追って,アルゼンチンの首都ブエノスアイレスからパラナ川沿いの街ロサリオを経て内陸部のコルドバにたどり着くところまででした.コルドバはアルゼンチンでも歴史の古い町で,南米最古の大学(コルドバ大学)もあります.名前の由来はスペインにある同名の町で,こちらの方は中世にはイスラム教国(後ウマイヤ朝,西カリフ国)の都として非常に有名です.
マルコの旅はいよいよ佳境ですが,何事にも影響を受けやすい私,マルコの足跡をたどるアルゼンチンの旅なんて企画をやってみたくなりました.汽車・船・馬車・牛車・徒歩と非常に激しい旅になりそうです(ヒマと体力がないと無理だな 笑).
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この週末は3連休でした.普段なら休みが続くと絶対にどこかに出かける私ですが,今回は連休の中日に当直が入っていたりしたため,結局遠出はしませんでした.
とはいえ今日は天気も良かったので近場に繰り出すことにしました.行った先は江ノ島,もちろん北海道の島牧江ノ島(マイナーすぎ 島牧村の海)ではなく湘南の片瀬江ノ島の方です(笑).
生き物好きの我が家では動物園や水族館が大好きでちょくちょく出かけるのですが,ここは初めてでした.館内は休日とあって家族連れなどで大賑わい,定番のイルカ&アシカのショーは立ち見も出るほどの盛況でした.
(写真2) 江ノ島水族館で私の琴線をくすぐった生き物,深海に住むオオグソクムシ(ダンゴムシの仲間らしい)です.ワルそうな顔がたまりません.
ひと通りにて回った後,海岸を散策することにしました.サザンオールスターズなどで知られた湘南の海,夏場には海水浴客でイモ洗い状態になるんですが,もう10月だし静かなんだろうと思ってましたが,甘かった…
相変わらず大賑わい,さすがに泳いでる人はあんまりいませんでしたが,サーファーやら浜辺で遊ぶ子供やらで賑わっていました.昨年の9月の3連休に八戸の白浜海岸に行った時は,「今は~もう秋,誰もいない海~」状態だった(関連記事 今はもう秋)のとは大きな違いでした(笑).
(写真4) 当地で見つけたラーメン屋さんです.キリスト教系なのかどうかわかりません.ヨハネラーメンとかパウロ定食とかあるんでしょうか.
今日は日中結構暖かかったんですが,日暮れと共に結構寒くなってきました.もう10月半ばですからねぇ(これでも岩手よりはよっぽど暖かいですが).
(写真5) 本日16時30分の江ノ島から見た太陽です.この後夕日写真にチャレンジしましたが残念ながら雲に隠れてしまいました.
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日本100名城シリーズ28に頂いた,扮装&歴史仲間の爺!!さんのコメントに「金山神社」が出ていました.この神社は神奈川県川崎市にある神社で,毎年4月には子孫繁栄を願う(?)お祭りが盛大に行われており,今では国際的にも有名なんだそうです.
以前から変なもの大好きな我が家では,日本あるいは世界の変なものに憧れ,機会があれば行って見たいと目論んでいます.世界では南太平洋バヌアツにあるエ○マ○ガ島とか,中央アフリカにあるチ○○川なんかが挙げられます.
一方日本国内では各地で行われている楽しいお祭りがあり,件の金山神社のお祭りもその一つです.
そんな日本各地の愉快なお祭りをまとめた本がこれ
凄いタイトルの本です.中には全国各地の楽しい普通でないお祭りが紹介されていて,大分前の記事で紹介した青森県新郷村のキリスト祭りももちろん紹介されています(関連記事 キリストの墓).
興味のある方は是非ご覧あれ(笑).
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この週末出張で山口(長州)に行ってきました.さっき無事に帰宅したんですが,ただ講習のみに参加するのはアホらしいのであちこち行ってきました.
今年の5月から開始した100名城のからみで日本海岸の萩にも行ってきました.萩は江戸時代の長州藩の城下町だった町で,いまでも昔風の街並みが良く残っていて着物で出歩きたくなるところです(今年2月に新選組装束で走りました).
そんな萩の町に関して昔から抱いていた疑問が
「萩におはぎはあるのか?」
おはぎとはもち米を適度にブレンドしたおにぎり状のものに餡をまぶしたものである.彼岸の季節に出されることからおはぎと呼ばれる(ぼたもちという説も).御萩とも書かれるくらいだから萩の町と関係があるのではと年少時分には思っていた.
(写真左) 萩バスセンターの近くのお菓子屋さんです (同右) おはぎが…
萩といえば夏みかんやかまぼこは有名で,名店も多いのだがガイドブックを見てもおはぎについては触れていない.はたしておはぎを売っている店があるのか,町をうろついてみた.町の中心部バスセンター周囲を探していたら,なんとお菓子屋さんを発見,さっそく行ってみると… なんとおはぎがあるではないか.さっそく購入したことは言うまでもない(美味でした).
(写真) 萩の手作りおはぎです
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先日ナミビアに行った際いろいろなものを食したんですが,意外とおいしいものが多かったです.
まずは 牡蠣(オイスター)
(写真1) ナミビアの海岸でとれた新鮮な牡蠣です.生で食べても大丈夫でした.
牡蠣は日本でも北海道の厚岸や東北の松島なんかにいくと旨いのが食べられますが,ナミビアの沿岸もグッド,なんと生で食べられます.今回私たちのグループに帯同してくれた白人ガイド氏も沿岸滞在中は食いまくってました.
次が後半の宿泊地となったロストックリッツ・デザートロッジの昼食で食べた
ワニ(クロコダイル)
(写真2) ワニです.昔ヤクルトスワローズにいた外国人選手パリッシュが大好物だったと話題になっていました.
丸い形をしているのは尻尾の部分だからで,真ん中に骨があります.味の方はちょっと脂っこくて柔らかい鶏のような感じでしょうか.とても美味しかったです(日本では愛知県のリトルワールド内でお手軽に食べられます).
そして締めは同じくロストックリッツ・デザートロッジの昼食で同じグループで参加されていた方が注文したこれ,
海老(ロブスター)
ちょっとおすそ分けしてもらいましたが,これまた美味でした.
このようにナミビアは海の幸を中心になかなか美味しいものがありました.
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ナミビアの首都、ウイントフックから北部地域を回って,9月17日夕方にウワサのドロナワーズ・ロッジ(Doro Nawas)に到着しました.
小型機でロッジのすぐそばにある滑走路(ドロナワ飛行場と勝手に命名)に乗りつけ,そこから迎えの車でロッジに入りました.
本当に人跡未踏のサバンナにポツンとあるロッジでした(周囲はいくら見渡しても集落などは全くなく,そばの滑走路のみが唯一の人工物).ロッジは小高い丘の上にレストランなどのある管理棟が建ち,その周囲にロッジが配置されたつくりになっていました.遠くから見るとまるで砦か何かのように見えるこのロッジ,実は3年前にできたばかりの新しいロッジのようでした.電気は自家発電,水は地下水をくみ上げて使用しており(当然飲用には全く適さない),食料品等の必要物資は週に1回大型トラックでウイントフックから運んでくるんだそうです.
(写真左) 丘の上に建つ管理棟,(同右) これがロッジです.
意外と小奇麗なロッジでしたが,欠点はシャワーのお湯の出がイマイチなのと,夜間の寒さでした.ナミビアは極度に乾燥しているため,夜間の放射冷却がきつく,朝夕はかなり冷え込むからです(そのかわり日中はかなり暑くなる).
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今,ナミビアの首都ウィントフックに来ています.
いやぁー,遠かった.日本を発ったのが9月15日の19時頃,約5時間で香港到着,そこで乗り換えて13時間で,南アフリカのヨハネスブルグへ(半分以上寝ていたので記憶少なし).ヨハネスブルグと言えば,現在紛争状態にない都市の中では最も治安が悪いといわれる町だ.しかしさすがに空港はセキュリテイーもしっかりしており,心配はなかった.
(写真1) ヨハネスブルグのコカコーラの自販機の前で楽しそうな私
そんなヨハネスからさらに2時間乗り継いで、ナミビアの首都ウィントフックに到着しました.
ナミビアは面積は日本の2倍以上ありますが,人口は200万人くらいしかおらず,全体的にひっそりしています.首都のウィントフックも人口は24万程度と小さな町です.
(写真左) 空港から首都に続くとは思えないサバンナの道.(同右) いまにも野生動物がでてきそうな雰囲気です.
こじんまりした空港から現地の迎え車で首都に向かう幹線道路を走りますが,周囲はさっそくサバンナの様相,本当にこっちで大丈夫か不安になりつつ無事にホテルに着きました.
明日は一気にアンゴラとの国境近くの村を訪問,その後は南下して世界遺産のトゥエイフェルフォンテイン,大西洋岸,スケルトンコースト、ナミブ砂漠と迫っていく予定です.
明日の宿泊先は件の「ドロナワーズロッジ」ネット環境など存在するはずもない雰囲気ですが,その後大西洋岸の宿泊先では何とかなりそうなのでお楽しみに.
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いよいよ来週夏休みを取ってナミビアに行ってきます.
今回はクレジットカードの旅行デスクに企画を丸投げしています.日程等詳細が決まり,企画書もとっくに完成しているんですが昨日突然携帯に電話が…
出るとデスクからで,現地がちょっと混乱して当初予定のホテルが取れず,やむなく代替の宿舎になってしまうがいいかとのこと.特に異論のあろうハズもなく(そもそもどんなホテルがあるのかすら良く知らない.少なくとも東横インやサンルートホテルはなさそうだ).
私 「なんていうホテルになるんですか」
デスクの人 「えーっとですね.ドロナワーズロッジだそうです.」
私 「えっ! ドロナワ(泥縄)ロッジ!」
現地が混乱して泥縄式に決めたホテルかとちょっと不安になったのだが,ネットで調べたらワイルドな感じの私好みのロッジだった.本当はどんなところか行って見てのお楽しみである.
http://www.imagineafrica.co.uk/Namibia/Damaraland/Dora_Nawas_Camp.html
↑ ドロナワーズロッジ(Dora Nawasと書くそうです)の様子です.
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今年の5月から日本100名城スタンプラリーを始めたんですが,こういった企画って外国にはないんでしょうかね.
たとえばヨーロッパでは,ドイツやフランスには中世の城なんかがたくさん残っている(中には売りに出されている城もあるらしい.買っても維持が大変そう).さらにスペインにはイスラム時代の城もあったりする.十分に魅力的だ.そんな城郭にスタンプを置いたらたくさんの観光客が集めるんじゃないだろうか.
仮にフランス100名城スタンプラリーなんてのをはじめたら,絶対に入るのはまずはベルサイユ宮殿,パリのルーブル宮殿,そして南仏のカルカソンヌだろうか.フランス政府観光局にはぜひ検討してもらいたい.
追伸: ラリーを開始したら,”集めてるのは日本人ばかり”ということになる可能性もあるなぁと,ふと思った(なにせ江戸時代からコレクションが好きな国民性ですから).
(写真) フランス100名城に入りそうなロワール川沿いにあるシャンボール城(ここには会津若松のさざえ堂と同じようなすれ違わないらせん通路があります).
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この週末,青春18きっぷを利用して東海地方の100名城制覇に出かけてきた.
青春18きっぷはJRの全線の普通列車(および快速列車)の自由席が乗り放題という切符で,昭和59年頃から存在する.5日分有効で1日当たり2,000円強という安さが自慢である(発売当初はピンクの1日券4枚と青い2日券1枚がセットになっており,合計6日有効だった).
土曜(23日)の朝一に出発し,この日は駿府城・掛川城・長篠城・岡崎城を廻って岐阜で一泊した.翌日曜日(24日)は岐阜城・犬山城を見て,山城で有名な岩村城を目指そうと考えたのだが,天気予報がイマイチで雨の中の山城は危険と判断したため,ちょっと足を延ばして彦根城に出かけた(結局この日の天気は晴れだったが).
夕方の電車を乗り継ぎ帰宅,かくして約4000円の交通費で東海7城制覇のはずだった.
しかし…
列車を乗り継いで浜松あたりまで来たときに,この先の乗り継ぎ時刻が知りたくて携帯で検索していたら ”!東海道本線運行情報” の文字が.なんだなんだと思って見たら,「東海道本線は大雨の影響で小田原-熱海間で運転を見合わせており,再開のめどはたっていません」とのこと,岐阜の方は晴れていたのに小田原はそんなすごいことになっていたのかと驚きつつ,「そ,そんな.これから向かう方向じゃないか」と嘆いてみたが仕方がない.
幸い東海道新幹線は遅れながらも走っているらしかった.青春18きっぷは普通列車のみで,新幹線を使う場合は乗車券も含めて買いなおさなければならない.とりあえず普通列車で静岡まで行き,泣く泣く静岡-小田原の乗車券+特急券(3300円と18きっぷ1日分より高い)を購入した.
ホームに行ってみると新幹線上りは30~40分の遅れとある.しばらく待っていたら列車がやってきた.乗り込んでさあ出発と思っていたら…
「東海道新幹線は大雨の影響で三島-小田原間で速度を落として運行していましたが,24時間の雨量が基準値を超えたため,運転を見合わせています.再開には時間がかかる模様です」との放送が.
結局そのまま足止めを喰い,なんだかんだで小田原に着いた時のは午前1時を過ぎだった.在来線もないためタクシーで帰宅する羽目になったのだが,タクシー乗り場も長蛇の列.結局家に着いたのは2時を軽く過ぎていましたとさ.
追伸: 今年に入ってから本当に列車が止まるなぁ.
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夏休みシーズンである.学校は無論のこと,社会人の方々も休暇をとる季節である.ウチの職場でも,一人1週間程度ずつ交代で休暇を取っている.
さて私の場合,休暇=旅行である.したがっていつ休みを取るかは旅行先に左右される.近年は6月に早めの休暇をとることが多かった.6月はあまり休暇を取る人が少なく,旅行代金が安いからである.しかも目的地がヨーロッパだとコンサートシーズンの最後に当たり,また気候がよく日が長いのも魅力である.その一方7月,8月は普通の人の休暇シーズンにあたるため,旅行代金が高く,しかもどこへ行っても混んでいる.というわけで私にとって6月が旅行のベストシーズンといえるのである.
しかし,今年は転勤等の混乱もあり,6月の休暇は困難であった.というわけで今年は9月に取ることに決定,行先はいろいろ考えた末,アフリカ大陸南西部のナミビアになった.とはいっても多くの人には「どこなのそれ?」と言われそうである.
ナミビアはアフリカ南西部,南アフリカの北西に位置する国である.19世紀末にドイツの植民地となった.第一次世界大戦時には南アフリカに占領され,戦後その委任統治領となった.ところが第二次大戦後,委任統治の依頼元である国際連盟が解散したドサクサに,強引に南アフリカによって併合された.その後は南アフリカの統治が続いていたが,国際的な非難もあり1990年にようやく独立を果たしている.
政治的な混乱が続くアフリカ諸国の中でナミビアは政治的に安定している国である.国土の大半が砂漠で,首都のウィントフックは標高1600メートルの高地にある人口28万ほどの小さな町だ.なんでそんな処に行くのかとの疑念が湧きそうだが,日本人にはなじみの薄いナミビアも実はヨーロッパ人(特にドイツ人)には人気の観光地なのだ.
まずは世界最古と言われるナミブ砂漠.極度に乾燥した真っ赤な砂漠は「世界でもっとも砂漠らしい砂漠」といわれている(その赤茶けた景色は,そこで写真を撮って,ここは火星ですといっても通用するかも 笑).また砂漠に生える植物ウェルウィッチア(奇想天外),世界遺産にもなっているブッシュマンの壁画など魅力に富んでいる.
そんなわけで,来月ナミビアに行ってくる予定の私であった.
追伸: 日本からナミビアへの直行便は無く,まずは香港に飛び(4時間半),そこから南アフリカ航空でヨハネスブルグへ(13時間半),さらにそこで飛行機を乗り換えてウィントフックに入ることになります(1時間 計約20時間!!)
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変なもの大好き人間の私.日々いろいろ変なものを探して(?)いる.
その一方,地理や歴史といった社会科が大好きで,理系だったくせに大学の二次試験に社会化があればどんなにいいだろうとも思っていた(その一方国語・外国語が苦手だった).
そんな私の変なもの好き・社会科好きを一挙に満足させてくれる本が出た.それが白夜書房から出た
”世界一へんな地図帳”
これは世界各地の変な地名,変な法律,変な政治などを集めた雑学本である.例えば「大統領の権限で様々な変な法律ができた国(トルクメニスタン)」とか,世界の珍地名の「エロマンガ島・スケベニンゲン市・アホ市・イロイロ州」,「地図上に存在しない国(マルタ騎士団)」,「世界一腰の低い王様がいるハット・リバー公国」などなど.
まさに世界は広いことを実感させてくれる内容になっている.
追伸: 実はこの本の85ページに載っているスバールバル諸島の写真は,ウチのホームページの写真だったりします.出版側から掲載の依頼が来て同意したものです(だからといって,この本が売れてもウチには1銭も入りませんが 笑).
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暑い日が続いている.こんな日には冷たいそばが食べたくなる.
実は先週末炎天下の中,甲斐・信濃方面の城巡りに行ってきたのだが,せっかくだからと長野市郊外の戸隠まで足を延ばした.戸隠はそば処信州の中でも特に知られた場所で,俗にいう日本三大そばにも入っている.
そばは一般に冷涼な土地でも育つため,コメなどの栽培に適さない環境で栽培されている.岩手県北部もそうであるが,ここ戸隠も標高が高く,とても米はできそうにないところだ.今回は長野市内から車で20分ほど登った高原にある大久保の茶屋というお店に入った(途中七曲りという物凄い急勾配&つづら折れの道を走る).
戸隠そばは円形のざるに,ぼっち盛りと呼ばれる独特の盛り付けを施し,ざるそばにも拘わらず刻み海苔がかからないのが特徴である(注).水で締められたそばを蕎麦汁に絡めてズルズルッと食べると蕎麦の香りが口の中に広がるのだった.
(写真3) 戸隠そばは円形のざるにこのような独特の盛り付けをします
蕎麦好きの私にはたまらない瞬間であった.
注: 一般には海苔がかかったのがザル蕎麦,ないのが盛り蕎麦といわれるが,実際には盛りとざるの違いは海苔の有無ではなく,ザルに盛って良いつけ汁を使うのがザル,そうでないのが盛りとされているらしい.
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日本一長い川は? と聞かれるとおそらく多くの人は「信濃川」と答えるであろう.クイズの本にもそう書いてあるし,学校時代に使った国土地理院発行の地図帳に出ている日本の河川の欄にもそう出ている.
しかしこの信濃川,最初から最後まで信濃川ではない.地図帳をよく見るとわかるのだが,長野県内を流れている部分は千曲川と書かれている.同じ川なのにどうして名前が違うのか疑問に思っていた.学生時代の友人の一人は,「千曲川と犀川が合流して信濃川になるんじゃないか」(千曲川と犀川は長野市の郊外で合流する.ここが有名な川中島の合戦の舞台)と言っていたが,地図帳をみると犀川と合流した後も千曲川のままである.結局県境を越えて新潟県に入ってようやく信濃川になるようであった(武田信玄と上杉謙信の対立の構図なのか?).
(写真) 県境を挟んで長野側は千曲川,新潟側は信濃川と書かれています(黄色い円内).
外部の人間にとっては学校で習った信濃川のほうがピンと来るのだが,これが長野県の人にとっては違うらしい.大学の後輩で長野出身の女性は「えー,千曲川ですよ.誰も信濃川なんて言いませんよ.」と力説していた.
所変われば名前が変わるものとしては,東北本線が上野-黒磯間を宇都宮線と呼んでいることや,北海道ではズワイガニといわれるものが,福井あたりでは越前ガニ,京都や兵庫の日本海側では松葉ガニと呼ばれることなどがある.
それにしても信濃川が新潟県内のみとすると,日本一長いと言えないんじゃないだろうか.群馬・埼玉・茨城・千葉と一貫して名前が変わらない利根川の方が実は長いのかもしれない(いっそ信濃川+千曲川で信越川とか千信川とかにするとか).
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今日7月14日はフランスの革命記念日です.
1789年のこの日,市民がパリのバスチーユ監獄を襲撃,これが全国に波及してフランス革命がはじまりました.日本ではクレール監督の戦前の映画”Quatorze Juillet”の邦題である「巴里祭」の名でも知られています(もちろんこれは日本人が勝手につけた名前であり,現地にそういう名前のお祭りがあるわけではありません).
さてフランス革命を題材にしたアニメといえば,なんといっても池田理代子さんのベルサイユのばらが有名ですが,それとはちょっと違ったテイストなのが本日の表題,ラ・セーヌの星です.放送されたのが1975年(昭和50年)ですから,なんとアニメ作品としてはベルばらよりも古いことになります.シモーヌというパリの花屋の娘が主人公で,昼間は可憐な少女ですが,夜になると仮面の剣士ラ・セーヌの星となって盗賊や庶民を苦しめる横暴な権力者と戦うというお話です.ベルばらがオスカルやマリーアントワネットら貴族中心に展開していくのと対照的に,こちらはパリの下町の人々が中心で,庶民=虐げられるかわいそうな存在,貴族=横暴な権力者という構図が見られます(王妃も贅沢ばかりする悪い人っぽいイメージで描かれます.もちろん一部に良い貴族もいます).
これだけならただの勧善懲悪もので,別にフランスを舞台にする必要もないんですが,実はシモーヌがフランス王妃マリー・アントワネットの腹違いの妹という設定がされているのです(マリーの母マリアテレジアは道徳的にむちゃくちゃ厳しい人だから,もし本当に夫フランツ1世に隠し子がいたら,当時敵国だったフランスに隠すというのはありそうな話である).番組前半は勧善懲悪時代劇っぽい感じで進んでいきますが(熱気球を発明したモンゴルフィエ兄弟やパリ滞在中のモーツァルトも出てきます),後半物語は一気に緊張感を増します.三部会の召集から国民議会の結成,バスチーユ襲撃と歴史的事実にそって展開,これまでの市民=弱者,貴族=強者とはいえない状況になってきます.善と悪の境界がはっきりしなくなりシモーヌも自分の役割について悩みます(出生の秘密も知ってしまい悩みが深まります).
(写真) ラ・セーヌの星,一部でヤッターマンに出てくるドロンジョ様の若い頃という噂があった
作風の変化は途中で監督が代わったためとのことですが,かなり見ごたえのある作品だったと思います(ぜひまた見てみたい).どうでもいですが,設定や登場人物からシモーヌは1760年頃の生まれと思われ,そうすると最終回マリーアントワネットが処刑される時30過ぎになっているはずなんですが,とてもそうは見えません(顔認証ではビールが買えそうにありません 笑).
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いよいよ今週の土曜日は夏至です.
夏至は北半球では1年でもっとも昼が長く夜が短い日です.ただ昼の時間と夜の時間のアンバランスさは緯度によって大きく異なり,赤道付近では昼と夜の長さはほぼ一緒ですが,緯度が上がるほど昼の長さが長くなり,北緯66度33分以北(北極圏)では一日中太陽が沈まない白夜(英語ではmidnight sun)になります.
ただ一口に白夜といっても違いがあり,北極圏でも比較的緯度が低い場所(北緯70度付近)では,真夜中には太陽は地平線の近くまで降りてくるため,夕方のような趣になります.
これに対して北緯80度以北の超高緯度になると太陽の高さが一日中変わらなくなるため,24時間昼間のような感じになります(ちなみに北極点での夏至の日は太陽は仰角23.67度の空を一周します).こういう景色を私はスーパー白夜と勝手に命名し憧れの景色でした.
このため2003年に北緯80度のスバールバル諸島に出かけた際,同じ場所から様々な時刻の写真を撮ってみました.ちなみに場所は世界最北の町,ロングイヤービーエンにあるスピッツベルゲンホテル前から北の方向を向いています.
(写真1) 午前4時の様子です.明け方ということになります.
(写真2) 午前8時の様子です.朝食時間ということになります.
(写真3) 午後8時の様子です.夕食時ということになります.写真2と比べると太陽の位置が逆になっているため,朝は日陰だった右端の建物に日が当たっています.
(写真4) そして真夜中の12時から1時くらいの様子です.太陽が真北にくる(北中)という日本では絶対に見られない光景です.
ちなみに夏至の季節の当地では一日中外の明るさは変わりません.
また夏至の日に北回帰線(北緯23度26分)上では,真昼に太陽が真上にくるため,影がなくなります(井戸の底まで太陽の光が届く).
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昨日の地震の影響で心配された東北新幹線も、今朝は正常化しており、無事に車上の人となった私。
順調に南下していました、が、今度はなんと信号機の故障だそうです。
果たしていつ家に帰れるのか?
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今日6月14日は仕事に関する会合が盛岡であった.すなわち岩手県を拠点とする専門を同じくする人間の年に1回の集まりである(同門会という).
私は4月から遠隔地に異動になった.それゆえ、もしこの会を意味なく欠席すると,「あいつは医局を脱するつもりじゃないか」と疑われ,捕まって切腹させられる可能性があるため,早々に出席の返事を出していた.
会は今日の15時からなので,12時に東京発のはやてに乗れば十分間に合う.したがってもしこの会に参加するだけなら朝10時に家を出ればいい.最初からそうしていれば話は簡単だった.
しか~し,私の性格からして,そんな会に出るためだけに700キロもの移動をするはずもないのだった.しかも今は日本100名城にハマッている.せっかくだから北東北の100名城も一緒に制覇しようと考えるのが自然な発想である(私にとっては).
実は前日13日夜に東京の赤坂の教会でコンサートがあり,ウチのKともども出かけてきた.コンサート自体は素晴らしかったのだが(女人心),その後Kは帰宅,私は品川から夜行バスノクターン号に乗り込んだ.行き先は青森県弘前市,ここには東北屈指の名城弘前城がある.”翌朝(14日)弘前城を探索して,その後八戸に移動,お昼に同じく100名城の根城を探索して,その後盛岡に移動,例の会に出席してその日は盛岡泊まり”という予定である.
本当は寝台列車あけぼの号が良かったのだが,これだと弘前到着が遅くなってしまい,八戸を回る余裕がなくなるため夜行バスにしたのである.
3列シートのノクターン号は結構リクライニングの角度もあり,国際線エコにミークラスよりは寝やすいが,それでも浅くしか眠られなかった.とはいえ予定通り朝7時に弘前に到着,コインロッカーに荷物を入れ,弘前城公園へ.早朝の公園を散策し,ちょうど本丸に入った8時40分過ぎ,地面が揺れているのを感じた.「おっ,地震だ」と思ったが,ゆれはたいしたことはない.ただゆれの時間が長かったような気がしたがそれ以上は気にも留めなかった.これが後ほど私に大きな影響を及ぼすとは知る由もない.
9時に天主が開くのを待ってスタンプを押し,さあ駅に戻ろうと思った9時過ぎに携帯が鳴る.見ると愛知県在住の友人だ.「おう,岩手県で大地震があったらしいから電話したぞ」,「今弘前なんだ.ここは大して揺れなかったから大丈夫だ」などと会話して,そのまま駅に戻ってみると…
奥羽本線・五能線は地震のため運転を見合わせています
「えっ!」.改札口には結構人が集まっている.近くのテレビでは,岩手県南部で強い地震,震度6強とか言っている.盛岡の実家と医局に電話したが,通信規制がかかっているらしくつながらなかった.
ただこの段階では,「この辺は大して揺れなかったしすぐに再開するだろう」と楽観していた.案の定,まもなく運転再開,発車を待っていた特急つがる号に乗り込む.列車自体は1時間遅れだが,私の予定では10分程度の遅れだ.まだまだ余裕の私だった.
そうこうしているうちに八戸に近づく,ここで車内放送が「今朝8時○分の地震の影響で東北新幹線は運転を見合わせており,再開には時間がかかる模様です」とのこと.
約12時に八戸に到着したが,たしかに新幹線は動いていない.ここにいたり,「もしかして盛岡に行けないかも」と考え医局に電話したがやっぱり通じない.メールのほうが通じるかと医局秘書の女の子に「地震の影響で新幹線が動きません.もしかしたら行けないかも」とメールする.しばらくすると返信が,「わかりました.教授も東京出張から今日新幹線で帰ってくる予定で,どうなるかわかりませんから先生も無理なさらずに」とのこと.無理するも何も歩いていくわけにはいかないよなぁ,などと考えたが,駅でボーっとしていてもしょうがないので,予定通り根城に繰り出すことにした(この辺の切り替えは早い).
根城を見学しスタンプを押して駅に戻る.予定なら盛岡行きの新幹線に乗る時間だ.
しかし…,新幹線は動かない.この段階に至り盛岡には行けないことを確信した.客の中には「どうしても今日中に東京に行かなくちゃならないんですけど」と主張していた人もがいた.とはいえ動かないんじゃ仕方ないので昼食にしようと駅構内の回転寿司に入る.「さすが八戸は回転すしでも旨いな」などと感心していると,ふと考えが
「新幹線がダメなら在来線は?」
食い終わって改札に戻る.聞くと在来線はダイヤは乱れているらしいが,動き始めたとのこと.さっそくJRの切符をキャンセルして青い森鉄道に買い換えた.ホームに入り止っている電車に乗り込むと,いつになく混んでいる.しかもこの辺っぽくない人が多い.どうやら同じ事を考えている人が多いらしい.見るとさっきどうしても東京に行くと言っていた方もいた.やっぱり人間は少しでも近くへ近くへと移動したがるものらしい.
しばらくして電車は動き始めた.新幹線なら40分の八戸-盛岡間だが,在来線しかも再開直後のため時間がかかる.
それでもなんとか無事,盛岡駅にごとうちゃーく! 時刻は夕方5時半,会が終わる時間である.意味ないじゃん!
この段階で私に与えられた選択肢は2つ.
① 会はダメでもその後の宴会に顔を出す.
② 新幹線が止まっていることはわかっており,切腹になることはないのだから,明日以降のことを考えてなるべく家に向かって進む.
であった.いろいろ考えた挙句,結局②を選択した.新幹線・東北本線は止まっていたが,高速道路は復旧しており高速バスは走っているというウワサがあったからだ.
というわけで,荷物を引きずり盛岡駅の高速バスチケット販売所に行くと,窓口に張り紙が
アーバン号本日運休(アーバン号とは盛岡-仙台の高速バスの名前です)
ガーン,高速バスもダメかと思ったら,なにやら隣で話し声が…,聞くとJRの職員が,盛岡-仙台の代行バスを手配していること,盛岡-仙台の乗車券で乗れること.さっそく買ったのは言うまでもない.
誘導されるがままに盛岡駅西口バス停で行列を作って待つ人々だった.日が暮れて寒くなってくる.待てども待てどもバスは来ない.そうこうしているうちにJRの職員が,
「八方手を尽くしましたが,バスの手配がつきません(泣)」
とのこと,結局盛岡泊まり.これなら宴会に行けばよかったと思ったがafter festivalで,仕方なく盛岡駅前に宿を取った私でした.
というわけで,6月14日23時現在まだ盛岡にいるビザンチン皇帝でした.ちなみに盛岡は地震があった気配もなく,駅以外は全くいつも通りなのでした(みなさんご心配なく).明日は復旧しているといいな.
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新選組&ブログ仲間のまーうささんが素敵な企画を立ち上げています.
全国各地の夏至の夕方6時の様子を写真に撮ろうという企画です.
言うまでもなく夏至は1年間でもっとも日が長い日です.私も夏至が大好きです(実は冬至も好き,要するに極端なのが好きなんである).夏至の原則は「北に行くほど日没が遅くなり,一方東に行くほど日没は早くなる」なんですが,日本は東西南北に意外に長い国なので,たとえば日本最東端だがかなり北に位置する北海道根室市と南だが日本最西端にある石垣島ではどっちが日没が遅いのかなど非常に興味深い(昼の長さは断然根室ですが).
さて夏至好きの私,過去に意外と6月に夏季休暇をとることが多かったのでした.そこで,夏至とはいかないまでも,私が撮影した6月下旬の世界各地の夕陽を集めてみました.
① 赤道直下セイシェルのインド洋に沈む夕陽です.赤道は年中日の長さが一定なので,夕方6時にはこのように夕陽が見られます(2004年6月).
② 北緯71度ヨーロッパ最北端,ノルウェーのノールカップのバレンツ海に沈む夕陽です.夏至の季節はちょうど白夜のため深夜12時でようやく夕陽が見られます(この後太陽は沈むことなく再び昇っていきます 1999年6月).
③ 北緯80度世界最北の街ロングイヤービーエン(スバールバル諸島スピッツベルゲン島)の夜中の12時半です.これでも一番太陽が地平線に近づいた時間なんですが,真昼のような明るさです.ここでは夏至の季節に夕陽は見られません(2003年6月).
④ 北半球の夏至は南半球では冬至にあたります.これは南半球にあるマダガスカル島の6月のある日,午後5時18分です(2007年6月).手前の木はバオバブです.
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ココログのアクセス解析の中にアクセス地域を解析する機能があります.全国のどの地域からアクセスがあるのか分かって楽しいのですが,試みに過去4ヶ月間のデータを見てみると
第1位 東京,第2位 千葉,第3位 神奈川
でした.まあ人口が多いのと,このブログの訪問者はひのパレ参加者関係の方が多いので妥当なところと思います.続いて
第4位 大阪,第5位 岩手
となり,人口の多い大阪,地元で友人も多い岩手というのも自然の流れでしょう.
第6位以下は 青森,埼玉,愛知,北海道,宮城,兵庫…と続いていきます.
そして,もっともアクセスが少なかった第47位が本日の表題,佐賀なのでした.
考えてみれば私自身佐賀県は通過したことしかなく,まともにに訪問したことがありません.
しかし幕末関連では佐賀は,アームストロング砲をはじめ当時最強の軍事力を誇った肥前鍋島藩の土地です.人物としては初代司法卿の江藤新平や大隈重信などもおり,魅力はたっぷりです.日本100名城にも佐賀城と吉野ヶ里遺跡が指定されており,なんとか時間を工面して行ってみたいものです.頑張れ佐賀!
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明日6月1日盛岡に用事があるんですが,東京-盛岡は東北新幹線はやてを使うとわずか2時間半です.それではあんまり味気ないということで,前日から出かけることにしました.
題して
新幹線各駅停車の旅
普段はやてにばっかり乗っているので,うっかりすると忘れてしまいそうになりますが,東北新幹線にはたくさんの駅があります.これらの駅を眺めながらのんびり北上することにしました.
東京駅で乗り込んだのは東北新幹線の各停列車なすの,東京と福島県の郡山を結んでいます.
東京駅を出発して,上野,大宮と停車,ここまでははやてと変わらない.大宮を出てしばらく走るとアナウンスが
「まもなく小山に停車します.両毛線,水戸線はお乗換えです.」
お,小山だ.そういえば学生時代ここ出身のやつがいたななどと考え駅の風景を眺めていた.
小山の次は宇都宮,ここははやては停まらないが,盛岡始発のやまびこが停まるので知っている.宇都宮を出ると…
「まもなく那須塩原に停車します」
きたー,那須塩原.那須というと御用邸のイメージもあるが,ここは栃木県北部の拠点駅です(在来線では黒磯駅).近くの大田原市出身の友人が複数いたのを思い出しました(大田原と小田原ってなんだか親戚みたいですが,名は体を表さず,人口では小田原のほうが遥かに多いです).
那須塩原駅で数分停車,出発すると次が今回最初の下車駅新白河駅です(ここまでで東京から1時間40分,はやてなら仙台に着いています 笑).
ここにやってきたのはもちろん,日本100名城のスタンプのためでした.新白河で下車して在来線に乗り換え次の駅が奥羽最南端の城,白河小峰城のある白河駅です.
その後もゆっくり北上し,本日は途中で一泊です.
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皆様お待たせいたしました(誰も待ってないか),第11回ひの新選組まつりレポが完成しました.2週間で完成させると宣言して何とか2週間で完成しました.ぜひ見てやって下さいませ.
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今日見つけたネットのニュース記事
またまた風評被害である.しかも「湖の魚も危ない」というデマも飛んでいるらしい.去年の冬の牡蠣,その前のカイワレの時もそうだったが,原因の大部分は無知に由来する誤解と不安である.これでは14世紀のペストの大流行の時に,「ユダヤ人が毒をまいた」という話と変わらない.人類はこの700年間あまり進歩していないようだ.
風評被害と戦う私としては,この機会にぜひ十和田湖畔を訪れたくなったのであった(これから十和田湖は新緑でもっとも美しい季節になる).
(写真) ちなみに冬はこんな感じで八甲田山死の彷徨の雰囲気です(場所は同じ発荷峠).生えている木と発荷峠と書かれた棒に注目.
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先日行われた第11回ひの新選組まつりのパレード.井上源三郎役だったのは昨年のミスター土方,コシゾウさんである.
しかし今年は井上源三郎没後140年ということで,過去のコンテストで源さんだった人間を集めて六番隊に編入するという企画がひそかに行われていた(六番隊には本物の源さん(コシゾウさん)の他に,井上源三郎の袖章を着けた元源さんが3人いた).まさに井上源三郎祭りである.
そんなわけで私にも井上源三郎の袖章が(実際の隊士名は宮川数馬,鳥羽伏見の戦いにて戦死したらしい).観客の中には私を源さんと間違えて一緒に記念写真を撮ってた人もいた(ごめんなさい).
源さんというと,性格は温和,皆に好かれていたというイメージがある.
そんな源さんのネタ写です.
(写真) 争いを好まない源さんは龍馬だって見逃します.周囲のお客さんが楽しそうにこちらを見ています(喜).
こんな記事ばっかり書いてるから本レポ製作が進まないんだ(頑張ります).
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3月末から4月頭にかけてパリに旅行に行った.フランスと日本との関係というと,なんとなく文化が中心というイメージがあり,アメリカやイギリスと違って政治的な結びつきはわきにくい.第2次世界大戦では連合国側であったものの,日本とは直接戦火を交えたわけではないのも一因だろう.
しかしそんなパリに日本のそれも幕末の遺物があると聞けば驚く向きも多いかもしれない.実は元治元年7月の馬関戦争の際に戦利品として持ち去られた長州藩の大砲がパリのアンヴァリッド(廃兵院)に展示されているである.
(写真1) フランス軍によって占領された長州藩の砲台.この中のどれかなのだろうか.
正門から入ってすぐ右手,ずらっと砲身がならんだ一群の中にそれはあった.砲身にははっきりと長州毛利家の家紋である一文字に三つ星が描かれていた.その他に漢字も彫られていたが,長い年月の風化のためか判読は困難であった.馬関戦争から140年余りも異国に置かれた長州藩の大砲,もしかして高杉晋作や久坂玄瑞も触ったかもしれない砲身手を触れると,新撰組愛好家の自分でさえ,身震いを禁じえないのだった.
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昨日今日と2日間に渡って行われた第11回ひの新選組まつりから先ほど帰宅いたしました.毎年毎年書いていることですが,恐ろしく充実した2日間でした.コンテストには落っこちてしまいましたが,とても楽しい2日間でした.その内容はとてもここでは語りつくせないため,後日レポにアップいたします.しばらくお待ち下さい.
ともに過ごした皆様楽しい時をありがとうございました.
をホームページの方にアップいたします(笑).
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先日の小田原北條五代祭りの記事を書くためにネットで調べものをしていたらこんなものを発見した.
日本城郭協会というのもはじめて聞いたが,昨年春からスタンプラリーを創めたらしい.公式ガイドブックもあるというのでさっそく購入した.
協会が認定した全国100名城(北は根室半島から南は沖縄まで)にスタンプが置かれてあり,それを集めるというもの.ご丁寧にガイドブックにはスタンプ帳までついている手回しの良さ,こりゃ私に集めろということか(こういうのにハマリ易い性格だからなぁ).
というわけでさっそく第1号として小田原城に行ってきました.100ヶ所集めるのにどれだけ時間がかかるかわかりませんが(単純計算で3日に1ヶ所回ると1年かかる),頑張ってみます.
追伸: 五稜郭,鶴ヶ城,萩城は最近行ってきたばかりなのに…(泣),知っていたらスタンプを押してくるんだった(後の祭り、after festival).
(写真3) このようにスタンプ帳は100名城全て押す場所が決まっています(失敗したら悲劇,これはプレッシャーだ 笑).23番が小田原城です.
尚,100名城登城に際して,その疲労度・難易度から★の数で一つ,二つ,三つで評価したいと思います(これはルックJTB地球の詩シリーズの旅のハード指数のパクリです 笑).
★☆☆ ハードではありません(老若男女誰でも登城できます)
★★☆ ややハードです(足腰の弱い方・心臓に持病のある方には辛い登城です.山道の登りなどがあり,最終目的地までの登りがおおむね30分以内であるもの)
★★★ かなりハードです(上記の条件で,最終目的地への登りが30分を超えるもの,もしくは登山道が著しい悪路であるもの)
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昨日こういうものが届きました.
題して「本州四端踏破証明書」
実は本州の四端にあたる青森県大間町(最北端),岩手県宮古市(最東端),和歌山県串本町(最南端),山口県下関市(最西端)の4つの自治体が共同でやっている観光事業として本州四端踏破ラリーというのがあり,4つの端で発行されている証明書のコピーもしくは端で写っている自分の写真を送ると,もれなく表題の証明書とオリジナル携帯ストラップがもらえるという企画である.
今年2月に最後に残っていた本州最西端毘沙ノ鼻を制覇し,必要書類を送っていたのだがようやく届いたというわけだ.
シリアルナンバーは201番,平成19年いっぱいで182人という話だったので,今年に入って19人目というわけだ.これが多いのか少ないのかはわからないがめでたい事には変わりないだろう.
よく見るとこの証明書には四自治体の首長の直筆サインが入っている.応募してから届くまで時間がかかったのは,案外この4人のサインを集めるところが律速段階になっていたからかもしれない.
次は本土四端にチャレンジしようかなどと考えている私でした.
追記: 本州四端(本州四端訪問の記事をホームページの方にアップしました)
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第11回ひの新選組まつりのポスターが完成したようです.昨年のミスター土方こと,コシゾウさんの騎乗の写真を中心にした構成となっています.ポスターを詳しく見てみると,左上に井上源三郎没後140年の文字が見えます.
新選組創成期からのメンバーで副長助勤,六番組長を歴任した井上源三郎は慶応4年1月5日(1868年1月29日)に淀千両松の戦いで戦死しました.ともに従軍していた甥の井上泰助がその首級を持ち帰ろうとしましたが,その重さから断念し近くの寺に埋めたものの,その場所は不明であるとされていました.
しかし最近になってその埋葬地が明らかになり,日野市の井上源三郎資料館の館長様をはじめ関係者の方々が訪ねられたとのことでした.
井上源三郎資料館 (関係記事が掲載されています)
4月はじめの引越し以来どこにも出かけていなかったのですが,ようやく家のほうが片付いたので来月のお祭りの前に一足先に高幡不動に出かけてきました.土曜日でしたが天気がイマイチのためかあまり人はいませんでした.大日堂の前ひっそりとしていましたが,来月にはまたここに200人もの隊士が結集するのかと想像すると胸が高鳴りました.
新選組ゆかりの各私設資料館は土曜日はやっていないため,市役所近くの「新撰組のふるさと歴史館」を見学し(現在特別展「新選組 戊辰戦争のなかで」開催中),その後はJR日野駅前にある宝泉寺を訪ねました.ここは井上源三郎の菩提寺となっている場所です.
私は一昨年の第9回ひの新選組まつりで図らずも井上源三郎役をいただき,その年のパレードで六番隊を率いてお参りさせていただいた身としては,140年という節目に当ってぜひとも再訪したいと思っていたからです(ひのパレ当日はお参りに行く余裕はなさそうなため).
立派な門をくぐってどんどん進んでいくと,駐車場のような開けた場所に出て右側に源三郎の顕彰碑が建っています.さらに進んで行くと井上家の方々のお墓が集まったところがあり,その一角に源三郎のお墓もあります(戒名は誠願元忠居士).
井上源三郎は近藤勇や土方歳三,沖田総司などに比べると地味な存在でしたが,大河ドラマの影響などで最近は良く知られるようになっています.没後140年の今年地元での盛り上がりをどう感じているのでしょうか.
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ひの新選組まつりまであと1ヶ月を切った.参加決定通知が届き,すでに参加費も振り込んでいる.
昨年の今頃はコンテストでどういうPRをしようか盛んに考えていた.居合いの真似事をやって,1本のタクワンがダダダッときれいに輪切りになるというネタや,新選組は坂本龍馬だったネタなど,いろんなネタが浮かんでは消えしていた(最終的に医局中法度ネタが完成したのは連休ごろであった).
その点今年はすでにネタは完成,あとは日の目を見るだけという状態なので気分的にはだいぶ楽である(もちろん細かい段取りの練習は必要だが).
ただ日野新選組同好会のHPによると,今年のパレードは本隊のみで230人以上と過去最大規模とのことであった.さすればコンテスト参加者の方もかなりの人数になることが予想され,例年以上の激戦になることは間違いない.並みいる全国の強豪を向こうに回してどれだけ自分のPRができるかが大きな問題である.期待と不安が大きく膨らんでいる今日この頃である(このワクワク感がたまらないというウワサもありますが).
全国の参加者の皆さんよろしくお願いいたします.一緒にお祭りを盛り上げていきましょう.
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今朝目が覚めるとはっきりとした声が聞こえた.
「鉄郎,999に乗りなさい」
懐かしいメーテルの声だった.僕は飛び起きて銀河ステーションへと走った.
駅にはあの999が停まっていた.そしてメーテルも.
彼女は僕に1枚のパスをくれた.これは宇宙のどんなところへも,アンドロメダだろうがイスカンダルだろうが,はたまたサザンクロスや石炭袋,さらには幻想第四次にも行けるというパスなのだそうだ.
汽車に乗ってどこに行くのか,まだ僕には分からない.ただそこにはこれから先,何かで必要になるはずの出来事が待っているような気がする.そう考えながら僕は汽車に乗った.
こうして少年の旅が再び始まった.
なんて感慨に浸る暇もなく,いよいよ勤務地を離れ旅に出たのでした.昨年暮れに一緒に999ネタをやっていただいたメーテルさんともお別れです.
(写真上) 銀河鉄道のパス,(写真下) 少年とメーテルの旅が再び始まります.
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新選組結成に当たって清河八郎の果たした役割は決定的に大きい.
歴史にたら,ればは禁物だが,文久二年に八郎が時の幕府政事総裁職の松平春嶽に急務三策を提言しなかったら,おそらくは浪士組の結成もなく,従って近藤勇や土方歳三が幕末史の表舞台に出てくることもなかったであろう.
そんな清河八郎だが,彼にはどうしても策士のイメージが付きまとう.当初は将軍警護のためと称して浪士を集めたのに,京都に着いたとたんこれらを尊皇攘夷の尖兵とするよう画策するなどは.どう考えても一般的ではない.結局八郎は孝明天皇の勅諚を得たものの(一介の浪人が勅諚を貰ったというのも凄い話だが),幕府に警戒されて浪士組は江戸帰還することになり,これに反発した近藤や芹澤らが分離して後に新選組となったのは周知の事実である.
江戸帰還は表向き生麦事件後の不穏な空気から,外国との戦いに備えるという名目だったが,実際には浪士たちを自分らの手の届くところに置いときたいとの幕府の意向であろう.結局江戸帰還後も攘夷運動を進めていた八郎は,文久三年4月13日に佐々木只三郎らによって殺されてしまった.
そんな清河八郎の出身地は山形県の庄内地方である.現在の行政区分では庄内町の清川地区になる.ここには清河八郎記念館も存在し,地元では偉人として扱われているようだ.実際に個人の能力という点では八郎の文武両道ぶりは際立っている.長州の桂小五郎や新選組から御陵衛士になった伊東甲子太郎も文武両道とは言われるが,二人とも道場ではともかく,実線経験は未知数であるのに,八郎の場合は大刀一閃,相手の首が2メートルも吹っ飛んで瀬戸物屋のどんぶりに収まったというエピソードがあるほどの使い手でもある.
実は先週末,所属する学会の地方会があって出かけたのだが,せっかくだからと庄内まで足を伸ばしてきたのだった.目指す清河八郎記念館は街中にひっそりと立っていた.隣接して八郎を祭った清河神社もありそこには八郎の銅像も立っているのだが,なんと神社は雪に埋もれて冬季閉鎖状態,参拝が不可能な状況であった.八郎の銅像も青いシートに囲われていた(泣).空は快晴で結構気温も高かったのだが,さすが庄内は雪深い土地だと改めて感動したのだった.
雪に閉ざされるためか,清河八郎記念館は冬季閉鎖である.3月に入って開館したばかりのようだった.
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来る5月10日~11日に行われる第11回ひの新選組まつり,私もぜひ参加したいと考え,どういった形で参加するか思案していました.いろいろと悩んだんですが,結局今年も隊士として参加することに決めました(衣装一式持込なので②ですね).そして性懲りもなく,今年もコンテストから参加します.どういったネタで臨むかも自分なりに決めました.これから2ヶ月じっくりと準備に取り掛かりたいと思います.当日何が飛び出すのか,乞うご期待(って余り期待させておいてショボイ内容だと寒いので,あまり期待しないで下さい 笑).
追伸: コンテストでの持ち時間,一昨年は一人2~3分だったが去年は1分だった.時間に合わせてネタも何種類か準備した方がいいのか?
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2月の3連休に長州に繰り出したのだが,主たる目的は”新選組 IN 長州”の実現だった.その他に本州最西端到達,特牛駅訪問などの目的もあったが,実はもう一つ密かな目的があった.それが…
幻の「薩長同盟弁当」である.
実はこの弁当一昨年山口に行った際駅でその存在を知ったのである.私のような新選組愛好家にはチト厳しい弁当なのだが,存在を知るとやはり気になって仕方がない.ただこの時は品切れで手に入れることはできなかった.
その後調べたところでは,この弁当土日祝日限
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