2020年4月19日 (日)

東方正教の復活大祭

Istanbulk35  復活祭はキリスト教最大のイベントです.先週の日曜日はカトリックやプロテスタントなど西方教会の復活祭だったわけですが,今日はギリシャ正教などのいわゆる東方正教の復活祭(復活大祭)でした.東西で日付が異なるのは採用している暦の違いによるもので,西方教会が16世紀のローマ教皇グレゴリウス13世が制定したグレゴリオ暦を使用しているのに対し,東方正教はそれを教会暦として必ずしも採用していないことに由来します.このため双方の復活祭の日付は基本的に一致せず1週間から1か月程度ずれるのが一般的です(たまに同日になることもある).今年は1週間違いの4月19日となりました.

 日本の東方正教は明治以降入って来たロシア正教の流れをくむところが多いため,その影響を強く受けています.復活大祭当日には,「ハリストス復活!実に復活」とあいさつをするのですが,ハリストスとは”キリスト”のロシア語風の呼び方です.

 そんな東方正教の復活大祭シーズンには”パスハの讃詞”と呼ばれる聖歌が歌われます.自分が学生時代には取り寄せの外盤LPレコードでしか聴けませんでしたが,現在はyoutubeで気軽に聴くことができます.

 

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2020年4月12日 (日)

復活祭

 今日は復活祭,キリスト教では1年最大のイベントです.日本ではクリスマスの方が圧倒的にメジャーですが,教義的に重要なのはこっちの方です.

 復活祭は春分の日の後の満月後の最初の日曜日に行われる移動祝日です.早い年だと3月22日頃,最も遅い年で4月25に頃になるので,年によって約1か月の違いが現れます.最近では2008年が3月23日だったのに対し,3年後の2011年は4月24日だった例があります. 

 移動するとはいえ必ず日曜日に祝われるのがポイントです.これは前の週の日曜日(枝の主日)から始まり,聖金曜日に十字架に付けられて死んだイエスが,3日目にあたる日曜日に復活するという一連の流れの中の最後に来るからです(時々3日後によみがえると書かれたものがありますが,金曜日の3日後だと月曜になってしまうのでこれは誤りです).

 敬虔なキリスト教徒の場合,復活祭の1か月半ほど前の灰の水曜日から肉類や卵などを断ついわゆる四旬節に入ります.復活祭はこの自粛が終了する日でもあるので,キリスト教社会ではこの日にケーキを焼いたり特別の料理を作ったりします.学生でいえば試験明けに宴会に繰り出すようなイメージでしょうか(笑).

 復活祭といえば,イースターエッグが有名です.古くから豊穣のシンボルとして知られていた卵を飾って供する週間です.本来は鶏卵を使うのですが,近年は商業化もあってチョコレートなどで卵を形どったものも出回っています.また私的に忘れられないのが大中恩さん作曲による混声合唱組曲「わたしの動物園」終曲の「ひよっこ」という曲です.子供の視点から見たイースターの曲です.

 

 演奏は混声合唱団水曜会のみなさんです.

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2020年4月10日 (金)

ヴィア・ドロローサ

 今日はキリスト教の西方教会における聖金曜日です(使用する暦の関係で東方正教諸教会では来週).イエス・キリストが十字架上で受難したことを記念する日です.新約聖書のマタイ福音書27章1節~61節,マルコ福音書15章全節,ルカ福音書22章1節~65節,ヨハネ福音書18章1節~27節の部分です.

 マタイ福音書の記事によると,前夜ゲッセマネの園で捕らえられ大祭司の尋問を受けたイエスはこの日の朝,総督ピラトの官邸に連行され,ここでの裁判の結果十字架刑が言い渡され処刑されました.この出来事の舞台となったエルサレムにはこの日,イエスが歩いたとされる道が設定されており,ヴィア・ドロローサ(苦難の道)と呼ばれています.私も2016年の秋にイスラエル旅行に行った際に歩いてきました.

Erumap2(図)エルサレム旧市街図

 ヴィア・ドロローサは全部で14のステーションから構成されています.エルサレム旧市街北東部のライオン門からほど近いところの,総督ピラトの官邸があったとされる場所をを第1とし,市街を西に向かいながら、かつてゴルゴダの丘があったとされる聖墳墓教会まで続いていきます.

第1ステーション ピラトの官邸跡で現在はムスリムの学校になっています.

14424745_1078590615571636_81746154736358 14380148_1078591275571570_14164833666734(左)ライオン門,(右)ピラト官邸跡

第2ステーション イエスが十字架を背負わされローマ兵によって鞭打たれたとされる場所です.今は鞭打ちの教会が立っています.

14425520_1078596585571039_90734714099936 14444867_1078596825571015_60605324128448(左)鞭打ちの教会,(右)内部のステンドグラスもその様子が

14435353_1078599752237389_91009239880784(写真)エッケ・ホモアーチ

 そこから少し西に行ったところにエッケ・ホモ教会があります.これは「この人を見よ」の意でピラトがイエスをさして群衆にそう呼びかけた記事に由来します.ここには十字架も置かれていました(毎週金曜日の午後,フランシスコ会の修道士が十字架を持って実際このルートをたどるそうです).

14352564_1078599665570731_18896938581091 14425388_1078600278904003_11415822302201(左)エッケホモ教会,(右)十字架があります

第3ステーション イエスが最初につまずいたとされる場所です.ただこのエピソードは聖書にはなく他の伝承によるものです.現在ここにはアルメニア正教の教会が建っています.

14379736_1079344138829617_12030808311249 14434851_1079344218829609_62632734762016(左)第3ステーション,(右)教会内部

第4ステーション 十字架を背負ったイエスをマリアが目撃した場所となっています.ここも現在はアルメニア正教の教会が建っています.教会内部の古い床にはビザンチン時代のモザイクがあってそこにはマリアのサンダルが描かれています.

14409433_1079344345496263_56853461431687 14352383_1079344538829577_46833075422456(左)アルメニア正教会,(右)教会内部

第5ステーション 兵士たちがイエスの十字架をキレネ人のシモンに担がせたとされるポイントです(マルコ福音書の15章に記事あり).ここの壁にはイエスが触れたとされる岩があって,歴史上数えきれない巡礼者たちが触ったため,かなりすり減っています.

14352571_1079354748828556_53968094634992 14409839_1079354942161870_33224216895474(左)第5ステーション,(右)イエスが触れたとされる壁

第6ステーション ベロニカという女がイエスの顔をハンカチで拭ったとされる場所,ベロニカはマルコ第5章においてイエスの服に触れたことで血の病が癒された女とされています.今はギリシャ正教の聖堂が建っています.

14425340_1079362732161091_77756583327036 14362463_1079362835494414_10109835379304(左)第6ステーション,(右)聖堂内部

第7ステーション イエスが2度目につまづいたとされる場所です.当時ここにイエスの罪状が掲げられたとされています.ちなみに1世紀当時エルサレム市街はここまでで,ここに市外への城門があったとされます(今でこそゴルゴダの丘とされる聖墳墓教会は市内にありますが,穢れを極端に嫌うユダヤ教世界において市内に処刑場があったとは考えにくいと言われています).

14425564_1079362882161076_17989918040027(写真)第7ステーション

第8ステーション イエスがエルサレムの娘たちに語ったとされる場所です(ルカ23章).ここにもギリシャ正教の教会が建っていて,壁には十字架が描かれています(右側の写真の左端).

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第9ステーション イエスが3度目につまづいた場所とされ,ここから先が当時ゴルゴダの丘があったとされる地点に建つ聖墳墓教会になります.

14435017_1079376925493005_20396040378896 14207853_1079376815493016_63917785143162

 (左)第9ステーション,先に見える入り口はコプト教会です.(右)聖墳墓教会のドーム

14361281_1079398565490841_35463576539594(写真)聖墳墓教会入り口

 聖墳墓教会はキリスト教における一大聖地であり,今でもギリシャ正教・アルメニア正教・コプト教・シリア正教・エチオピア正教,そしてローマカトリックが変な言い方をすれば仲悪く共存しています.特に教会の入り口のドアをどこが管理するかでもめるため,現在ここのカギはイスラム教徒が管理しています.ちなみにエチオピア正教はオスマントルコの時代からここを守ってきた重要な教会ですが,19世紀以降に起こった他教会との勢力争いに敗れ,聖堂は外にひっそりと建っています(言われなければ見過ごすほど). 

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14380105_1079398682157496_69516104037549 (写真)エチオピア教会内部

今の聖墳墓教会を聖地として整備するのに重要な貢献をしたのが4世紀のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母ヘレナです.教会入り口には彼女の聖堂のドームがあります.先日この聖墳墓教会も今回の新型コロナウイルスの問題で閉鎖されたというニュースがありました.

第10ステーション 聖墳墓教会に入り階段を登った先,イエスが衣をはぎ取られた場所とされています.今はカトリックの小さな聖堂になっています.

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第11ステーション イエスが十字架に打ち付けらえた場所とされています.大勢の巡礼者で賑わっています.

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(左)第11ステーション,(右)大勢の巡礼者たち

第12ステーション イエスが息を引き取った場所,まさにゴルゴダの丘の十字架が立てらていた場所とされています(そのポイントには星が描かれていて,そこに触れようとする人々が行列を作っています).

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(左)第12ステーション,(右)十字架のまさにポイント

第13ステーション マリアがイエスの遺骸を引き取ったとされる地点です.今はひっそりと祭壇が置かれています.

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(写真)第13ステーション

第14ステーション 最終ステーションです.ここはイエスが埋葬されたとされる場所です.巨大なドーム内に小さなドームがあってその内部に石棺があります.最大の聖地のためたくさんの巡礼者で長い行列ができています(自分が行ったときは30~40分で入れたんですが,ガイドさんによるとこれはかなり短い方でひどいときは2~3時間待ちになるとのことです).受付の司祭さん(?)に5~6人ずつ中に誘導されて参拝するんですが,30~40秒ほどでさっさと出されます(そうでないといつまでもここにいる人が現れてきりがないのでしょう).この日は写真撮影はダメと言われました.もっともキリスト教の教義ではイエスは復活しますから別にここに遺骸があるわけではなく,そのためこの聖堂は復活聖堂と呼ばれています.

14425421_1079424402154924_74874718274115 14409402_1079424505488247_59383259134303(左)大ドームの中に小ドームがあるマトリョシカ状態,(右)やっぱりギリシャ正教風です

 石棺のある聖堂の向かいには殉教聖堂というギリシャ正教の華やかな聖堂があり,ちょうどミサが行われていました.聖堂の近くにはイエスの遺骸に香油を塗ったとされる石があり,ここでもたくさんの巡礼者が手を触れていました.

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2019年6月 3日 (月)

新郷村のキリスト祭

 さて,あっという間に6月に入りました.例年私が活動的になる季節です.昨年は6月にボリビア&チリ旅行という大型の海外旅行がありましたが,今年はそういう大型イベントがない代わりに小さいイベントがたくさん用意(?)されています.まず最初の日曜日である6月2日は表題にある,青森県新郷村で開催された第56回キリスト祭にウチのKともども行ってきました.

 新郷村というのは青森県東部,八戸市と十和田湖の中間に位置する小さな自治体です.なんでここでキリスト祭なのかというと,昭和初期にこの地を訪問した竹内巨磨という人物が,村の戸来地区の丘にあった土盛をさして「これこそキリストの墓である!」と言い出したことに由来します.竹内巨磨さんというのは,超古代に日本に高度な文明があったと主張していた人物で,彼の家に代々伝わっていた(とされている)竹内文書によると,ゴルゴダの丘で十字架にかけられたイエスは密かに脱出し,日本のこの地にやってきてここで亡くなったからなのです.にわかには(というか普通は)信じがたい話ですが,このネタを村おこしに利用したい当時の村長の思惑も絡み,徐々にこの話が広がり今に至っているわけです(この辺の話はホームページ本編に記事があります).

 竹内文書自身がすでに偽書であるとの評価が定まっているので,何をかいわんやなんですが,ともかくキリスト祭はこの地で亡くなった(とされる)キリストの霊を慰めるイベントとして,半世紀以上続いている伝統あるお祭りなのです.私の琴線を大いにくすぐるイベントで,いつか参加してみたいと思っていたのですが,今回ついに参加することになりました.

 前日の6月1日は夕方から合唱団の練習に参加,その後来年のコンサートで共演するオーケストラの方々との打ち合わせ&懇親会へと流れました.そして夜11時40分池袋発の夜行バスに乗ります.とはいえこの時間では青森方面まで行くバスはすでに出発しているため,この日のバスは毎度おなじみ盛岡行きのらくちん号でした(笑).

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(左写真1)八戸駅にて,(右同2)いよいよ新郷村に入りました

 翌朝6時30分過ぎにバスは無事に快晴の盛岡駅に到着,コンビニで朝食を調達して朝一の新幹線で八戸へ.ここでレンタカーを借りて一路新郷村に向かいます(新郷村への公共交通機関は非常に不便なので,事実上レンタカーかタクシーになる).村内に入ると,さっそくキリストの墓,ピラミッドなどと書かれた看板が出現しワクワクさせられます.

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(左写真3)キリストの里公園です,(右同4)キリストの里伝承館

 村の中心部を過ぎて5分ほどで戸来地区に到着,ここでは係員が駐車場に誘導してくれました(8時40分頃には到着したため,会場に近い場所に停められた).知る人ぞ知るスポットなので普段はほとんど人がいないところなんですが,今日は年1回のお祭りの日ということで,たくさんの人でにぎわっていました.会場に向かう緩やかな坂にはキリスト祭と書かれた幟が多数はためいていて,非常にシュールな光景でした.

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(左写真5)奥の土盛がキリストの墓,(右同6)慰霊祭は神式です

P6071266(写真7)式次第

 坂を上ったところから階段を上がると2つの土盛りがあり,向かって左側の十代塚がイエスの身代わりとなってゴルゴダの丘で死んだ弟イスキリの墓,右側の戸来塚がイエスの墓とされています.この2つの塚を見上げる広場には来賓用の椅子が並べられ,正面には慰霊祭用のしめ縄や飾り付けがなされていました.そう,キリスト祭(キリスト慰霊祭)はなんと!神式で行われるのです

 開会まで1時間ほどあったので,付近を散策します.お祭り会場からさらに上ったところには十字架が描かれた教会風の建物があります.これがキリストの里伝承館で,竹内文書に描かれたキリスト伝説や当地の風俗などが紹介されています.ここもいつもは貸し切り状態なんですが,この日はたくさんの人で賑わっていました(入場料が一般200円と非常にリーズナブルです).ここでは当地名産の南部せんべいや飲むヨーグルトも売られています.

Img_4935 Img_4956 (左写真8)いよいよ始まりました,(右同9)ナニャドヤラの奉納

 やがて開始時間が近づいたため会場広場に戻り,よさげなポイントで開始を待ちます.時間になりいよいよ第56回キリスト祭の開始です.観光協会の人の挨拶に始まり町長や県知事(代理),地元選出の衆参両院議員の祝辞を経て,いよいよ神主さんの祝詞が始まります.「畏み畏み~」から始まって,いろいろ喋っていくんですが,一番のツボは「イエスキリストの御霊~」という部分,真面目に唱えれば唱えるほどウケてしまうのでした.祝詞に続いて玉串の奉納,その後は地元の人たちによる墓前でのナニャドヤラへと進みます.これは当地に伝わる盆踊りの一種で,「ナニャドヤラ、ナニャドナサレノ」という不思議な歌詞が有名なんですが,キリスト伝説によるとこれはヘブライ語で「御前に聖名をほめ讃えん」という意味になるのだそうです.

 ところでキリスト祭りが神式で行われ,神主さんが登場するのに,キリスト教の神父さんや牧師さんが登場しないのはなぜなんだろうと不思議に思う向きもあるようなので解説します.先のお話でも分かるように新郷村のキリスト伝説ではイエスは十字架上で死なずに日本に逃れてきたという設定になっています.ここがミソで,そもそもキリスト教とはイエスが十字架上で人々の罪を背負って死に,3日目に復活したという教義から発生した宗教です.新郷村伝説ではそこが完全に否定されているので,これは完全にキリスト教とは無縁の存在となってしまうのです.このためこの伝説はキリスト教の異端どころか,風変わりなユダヤ教のラビが迫害されて国外に逃亡しただけという話であり,キリスト教の聖職者にとっては関わってはいけない存在となっているのです(だから当慰霊祭が神式であるのは必然です).キリスト教では救い主イエスだが,新郷村では逃亡者イエスとなるわけですね.

Img_2009 (写真10)乾杯用のヨーグルト

 踊りの後は全員乾杯でお開きとなります.乾杯といえば普通はお酒になりますが,なにせ新郷村は交通の便が悪く,やってきた観光客の大半は車なので,なんと!地元の飲むヨーグルトが振る舞われて乾杯でした(濃厚で美味しかったです (^^)v).かくして慰霊祭は滞りなく終了しました.

Img_4962 Img_2065 (左写真11)キリストっぷ,(右同12)ロゴが素敵です!

 お祭りの後を少し堪能した後は,公園そばにある売店に向かいます.ここが,その名もキリストっぷというお店,ロゴは某コンビニチェーンを彷彿させます.開店時間が「十字架ら3時まで」とぶっ飛んでいます.以前来たときは平日だったので閉まっていたんですが,この日は開店営業中のキリストっぷが見られました.いろんなキリストグッズが売られていましたが,この日はステッカーやキリストの遺言手ぬぐいなどを購入しました(併設されたカウンターでは軽食も出されていて,外国人観光客がカレーを食べていた).

Img_4970 Img_4966 (左写真13)ラーメン亭えびす屋さん,(右同14)おすすめはキリストラーメン

 キリストっぷを後にして我々が向かったのは地元では有名なラーメン屋さん,もちろん昼食のためですが,ここにはなんと!キリストラーメンがあるのです.出てきたラーメンは醤油味で山菜やキノコなど健康的なもの.どこがどうキリストなのかは謎でした(思うに2枚載った山芋スライスが2つの塚をイメージしているのだろう).こうして新郷村訪問は完了したのでした.

Img_4968(写真15)これがキリストラーメン!

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2019年4月17日 (水)

ノートルダム大聖堂

 パリの有名な歴史的建造物であるノートルダム大聖堂が,4月15日(現地時間)火災にあったというニュースが流れていました.現在は鎮火されたようですが,尖塔や屋根など広い範囲が焼失したとのことです.

P4020088  パリを流れるセーヌ川の中州のひとつであるシテ島があります.この島はパリ発祥の地と言われる場所で,中世以来パリの街の中心地だった場所です.この街の中心に12世紀後半から建築が始まったのがノートルダム大聖堂です.完成まで200年近い年月を要したとされていますから,気の遠くなるような話です.中世ヨーロッパの建築様式としてはロマネスク様式(ローマ風様式)がありましたが,12世紀ごろから始まった新しい様式がゴシック様式です.このパリのノートルダム大聖堂は初期ゴシック様式の最高傑作と言われています.

 パリを代表するランドマークとしてはエッフェル塔や凱旋門も有名ですが,この2つは作られたのが近代以降(どちらも19世紀)であり,歴史の古さという点では大聖堂の足元にも及びません.

P4020099  このように歴史ある素晴らしい文化財が火災で被害を受けたことはとても残念でなりません.フランスのマクロン大統領は再建することを明言していますが,歴史的な考証に耐えうる再建になることを願っています(大阪城状態で再建されるとは思っていませんが…).ただ,現存していたからこその価値というのもあって,これについてはもはや戻ってきません(日本各地の城郭にある天守も現存しているのは12か所にすぎません).

Img010  ちなみに自分は過去3回パリに訪問したことがあり(1991年,1998年,2008年),そのうち最低2回はここを訪問しています.

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2019年1月 6日 (日)

ユリウス暦のクリスマス

 今夜はクリスマスイブです!

 

 ??? という空気になりそうですが,実はユリウス暦では今日が12月24日,今夜がクリスマスイブということになります.

 

 暦というものは相対的なもので,現在世界で主流となっているグレゴリオ暦は16世紀のローマ教皇グレゴリウス13世が制定したものです.1年を365日とし,4年に1回の閏年,ただし100で割り切れる年は閏年としないが,400で割り切れる年は閏年とするとするこの暦は1年の誤差が30秒弱と極めて正確な暦です(それ以前の暦は紀元前1世紀にユリウス・カエサルが制定したユリウス暦).

 

 しかし,制定したのがローマ教皇ということで,フランスやスペインなどのカトリック諸国ではすぐに採用されましたが,宗教的に対立関係にあったプロテスタントが優勢な地域では採用が遅れ,さらに歴史的な対立が深い東方正教諸国では20世紀になっても採用されない国もありました.代表的なのがロシアで,実はここがグレゴリオ暦を採用したのはロシア革命で帝政が倒れた後のことでした(有名な日露戦争の日本海海戦も,当時すでにグレゴリオ暦を採用していた日本では1905年5月27日ですが,未だユリウス暦だったロシアでは5月14日と記録されています).

 

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 現在では実生活ではほぼすべての地域でグレゴリオ暦が使用されています(これだけグローバル化が進んだ時代に暦が違っては商売もできません).しかし,宗教上の暦に関しては話は別で,東方正教の一部教会では教会暦としてはいまだにユリウス暦を使用しているのです.ロシア正教や歴史的にその影響を受けている日本の正教会もそうで,それらの教会では今夜クリスマスイブの礼拝(降誕祭 晩堂大課)が行われているのでした.

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2017年10月31日 (火)

宗教改革500周年

 今日は10月31日,近年日本ではハロウィーンのイメージが定着しているが,世界史的にはマルティン・ルターの宗教改革記念日として知られている.

 

 帝政ローマ初期に誕生したキリスト教は,時の皇帝によるたびたびの迫害に会いながらも徐々に地中海世界に広まり,3世紀には社会的に無視できない勢力となっていった.そして4世紀前半のローマ皇帝コンスタンティヌス大帝による公認を経て,5世紀のテオドシウス帝の時代に至り帝国の国教とされるまでになった.

 

 中世に入ると特に西ヨーロッパで世俗権力が弱体化し,小国分立の様相を呈してきたこともあって,超国家的な組織である教会の権威・権力は大いに高まった.この間イスラム勢力の勃興や聖像礼拝を巡る問題もあって,西のローマ教会と東のコンスタンティノポリス教会の対立が深刻化し,11世紀に決定的な分裂にいたる.以後西ヨーロッパはローマカトリック教会の独壇場となり,その権力は11世紀末から13世紀の十字軍時代に絶頂を迎えた.

 

 十字軍の失敗後には,さすがにその権勢にも陰りが見え始めたが,世俗領主の側面も持つ高位聖職者の実力はまだまだ強いものがあった.一方でこうした聖職者の堕落も著しく,中世末期から近世にかけてはしばしば教会改革の動きも見られた(この時代の教会の歴史は高位聖職者が堕落してくると,修道院出身の気合の入った聖職者が登場して引き締めに走るといったパターンが多い).一方で学者など外部からの教会批判に対しては厳しい押さえつけが行われた(15世紀ボヘミアのフスの処刑など).

 

 ルネサンス期になるとフランスやイギリス,スペインなどでは国王による中央集権が進んだ結果,これらの地域からの教会収入は大きく減ってしまった.このためローマ教会は,中小諸侯が乱立し,教会領も多い神聖ローマ帝国(ほぼ現在のドイツ語圏)に目をつけ,この地を主な収入源とするようになった.こうした中16世紀初めのローマ教皇レオ10世はサン=ピエトロ寺院修復などを目的として,ドイツ国内で大量の免罪符の販売を開始した.

 

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 これに異議を唱えたのがヴィッテンベルク大学で教鞭をとり,自らも下位聖職者だったマルティン・ルターである.彼は免罪符販売を批判し,当地の教会にいわゆる「95か条の論題」を打ち付けた.時に1517年10月31日,これが宗教改革の始まりとされている.このルターの宗教改革以後も多くの動きがあり,その後西ヨーロッパのキリスト教世界はローマカトリック教会とプロテスタント諸教会に分かれていくことになる.

 

 今日はそんな宗教改革500周年というものすごい節目の年である.ただルター派の多いドイツではそれなりに盛り上がっていそうだが,キリスト教世界の中では多数派であろうカトリック教徒や正教徒にとっては,宗教的な意味はない普通の日なんだろうと想像した.

 

 ちなみにルター派の教会である聖トーマス教会のカントールだったJ. S. バッハはこの宗教改革記念日のためのカンタータも作曲しており,カンタータ80番「神はわが堅き砦」はルターが作曲したコラール旋律を使用した作品として名高い.

 

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2017年7月16日 (日)

シスマ

 連日本当に梅雨なのかという暑く晴れ渡る日が続いていましたが,今日はやや曇った一日になっています(とはいえ暑いことに変わりはないですが 💦).職場のあじさいも連日の暑さですべて干からびてしまったかと思ってたんですが,まだ元気に咲いている株もありました.

 

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 さて今日は7月16日,10年前のちょうどこの日新潟県中越沖地震があった日です.このブログのバックナンバーを探したら当日の記事もありました(地震と雷 こうしてあらためて昔の記事を見ると今よりもよっぽど充実しているな).

 

 先日は九州の方で豪雨による水害がありましたが,日本は昔から災害の多い国です.2007年の中越沖地震後だけでも,2011年の東日本大震災,2014年の御岳山の噴火,昨年春の熊本の地震のほか,2015年&2016年夏には東日本を中心に台風による水害があったのは記憶に新しところです.こうした災害多発地帯に住んでいるがゆえに,たとえ災害があっても助け合い,落ち着いて行動する国民性が形成されたとも言えます(日本で大きな災害が起こるたびに,外国ではよくある略奪や暴動系の事件がほとんど起こらないことは海外メディアが驚くところです).災害は忘れた頃にやって来るというのはまさにその通りです.この機会に自宅の防災用品等のチェックを行いたいと思いました.

 

 で,本日のブログのタイトルであるシスマ,これはラテン語で分裂という意味です.一般名詞ではあるんですが,特に日本の学術の世界ではキリスト教会の分裂の意味で使われます.キリスト教の歴史はまさに分裂の歴史であるわけですが,その中でももっとも大きいのが中世におけるローマカトリック教会と東方正教会の分裂です.この分裂劇そのものは数百年かけて徐々に進行したわけですが,それを象徴するような事件が1054年7月6日に起こりました.

 

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 当時のキリスト教会の中心地は西方のローマと東方のコンスタンティノープルでした.ローマはもちろんローマ教皇庁のあるところですが,一方のコンスタンティノープルは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の都です.一応聖職者としての格ではローマ教皇の方がコンスタンティノープル総主教よりも上なんですが,ローマ皇帝とい大君主をバックに持つコンスタンティノープル総主教の権勢も大きく,特に7世以降教義などの点から両者の対立は大きなものとなっていました.

 

 こうした状況を打開するためにローマ教皇から使節として枢機卿フンベルトがコンスタンティノープルに派遣されていました.しかしながら政治的な思惑もあってコンスタンティノープル総主教のミハイル1世はなかなか使節に会おうとはしませんでした.1054年7月16日こうした総主教側の対応に怒ったフンベルトは,ミハイル1世の破門状を当時総主教座が置かれていた聖ソフィア大聖堂の宝座に叩きつけて立ち去ったのです.これに対して総主教側も相手を破門し両者の対立は決定的になりました.

 

 これが世界史上シスマと呼ばれる事件です.書籍によってはローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が相互に破門し合ったと書かれているものもありますが,前述のようにローマカトリック側の当事者は枢機卿フンベルトです.しかもこの時彼を使節として派遣した教皇レオ9世はすでに亡くなっていたので,総主教の破門が教皇の意志だったのかは不透明です(激怒した枢機卿の個人的な行動ともとれます).また総主教側が破門した相手はあくまでもフンベルト枢機卿(とその従者)であり,ローマ教皇は含まれていません.

 

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 というわけで,この日をもって東西教会が正式に分裂したというわけではなく,あくまでも象徴的な事件の日として記憶されているのでした.ちなみにフンベルトが破門状を叩きつけた宝座は大聖堂の至聖所という本来は聖職者しか立ち入ることのできない場所にあるわけですが,聖ソフィア大聖堂は現在無宗教施設であるアヤソフィア博物館となっているため,今は誰でも立ち入ることができます(ドームの一番奥,今はミフラーブがあるあたりです).

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2017年1月 7日 (土)

ユリウス暦のクリスマスの朝

 一夜明け,今朝はユリウス暦のクリスマスです.この日各地の正教会ではキリスト(正教ではハリストス)の降誕を祝う降誕祭聖体礼儀が行われています(カトリックで言うクリスマスミサ).

 

 で,昨夜は病院籠りだった私にクリスマスの朝に与えられたものは

 

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 七草粥…

 

 そう,今日はご節句のひとつ人日の節句で,日本では七草粥を食べる習慣があるからでした.

 

 年末からお正月にかけて豪勢に飲み食いをする機会が多いことから,毎年この時期には胃腸が悲鳴を上げている人も多いハズ,そんな人々の胃腸を慰め整えるのが七草粥です.もちろん美味しくいただきました.

 

 クリスマスの朝と七草粥,由来も異なる偶然の一致ですが,なんでも自分風にアレンジしてしまう日本人です.この機会に,「クリスマスの朝には七草粥を食べよう」なんて感じに世間を盛り上げたらどうだろうか? 

 

 などと考えた,ユリウス暦のクリスマスでした.

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2017年1月 6日 (金)

ユリウス暦のクリスマスイブ

 今夜はクリスマスイブです

 

 といっても,多くの方々は????となると思います.

 

 クリスマスは12月25日,ただしユダヤ教の暦は日没から始まるため,12月24日の日没からクリスマスが始まり,翌25日の日没で終わります(24日の日没から25日の夜明けまでがクリスマスイブ).

 

 「それはわかってる.でも今日は1月6日じゃないか!」という声が聞こえてきそうです.その通り,今日は1月6日です.グレゴリオ暦では…

 

 そう,今日が1月6日というのはグレゴリオ暦での話で,暦が違えば日にちも変わってくるのです(江戸時代の日本は和暦を使用していたため,例えば池田屋事件は和暦だと元治元年6月5日ですが,グレゴリオ暦では1864年7月8日となります).

 

 「とはいえ,グローバリズムが浸透した21世紀,世界中の地域で使用されている暦はグレゴリオ暦,イスラム暦とかもあるけど,キリスト教のイベントで違う暦を持ち出してもしょうがないんじゃ」という声も聞こえてきます.

 

 しか~し! キリスト教だからこそ異なる暦が問題になってくるのです.イエスやその使徒たちの時代に使われていた暦はユリウス暦です.これは共和政ローマ末期の政治家,ユリウス・カエサル(英語だとジュリアス・シーザー)が制定した暦です.それによると1年を平年365日とし,4年に1度うるう年を設けて366日となります.この暦を使うと1年は365.25日の計算ですが,実際の地球の公転周期(太陽の周りを1周する時間)は365.2422日なので,1年に0.0078日の誤差が生じます.ただ制定当時としては実用上問題ないものでした.

 

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(写真1) ユリウス暦を制定したユリウス・カエサル

 

 しかし,塵も積もれば…の例えもあるように,その後ローマ帝国が衰退し中世を経てルネサンス期になると,その誤差が無視できないようになってきました.具体的には復活祭の基準になる春分の日が明らかに遅くなってきたからです.すなわちユリウス暦制定から1600年を経て,当初の誤差0.0078日が10日ほどの誤差になってきたのです.そこで16世紀のローマ教皇グレゴリウス13世の肝いりで新しい暦が制定されました.これがグレゴリオ暦で,この暦では3年の平年と1年のうるう年という基本概念はユリウス暦と一緒ですが,例外規定として西暦で100で割り切れる年は基本うるう年とはせず,さらに400で割り切れる年はうるう年とするというものです.この暦を使うと1年は365.2425日となり公転周期との誤差は0.0003日となり,さらに精度の高い暦となりました.

 

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(写真2) 東方正教の聖堂

 

 このグレゴリオ暦が現在基本の暦なわけですが,ここで問題が発生しました.それは暦を制定したのがローマ教皇だったこと.すなわち当時ローマカトリックと対立していたプロテスタントや東方正教はこの暦を認めなかったからです.特に東方正教諸教会は自分たちこそが正統という意識があるため,「ローマ教皇なんていう異端の頭目が作った暦なんか使えるか!」という感じで拒否反応が強かったようです.しかしながら国際交流が盛んになる近代以降になると,さすがに日常生活でも独自にユリウス暦を使い続けるのは困難となり,現在ではこれらの地域でも世俗生活ではグレゴリオ暦を使っています.ただ教会暦だけはかたくなにユリウス暦の使用にこだわっているということです.

 

 なので,東方正教会の多くでは教会暦はユリウス暦であり,クリスマスもユリウス暦の12月25日,グレゴリオ暦では1月7日となっているのです(このグレゴリオ暦で1月7日というのも絶対ではなく,22世紀にはさらに誤差が広がり,今より1日遅れの1月8日になる予定).

 

C1fetmaukaeu2upjpg_large (写真3) 私のクリスマスケーキ(笑)

 

 ちなみにグレゴリオ暦のクリスマスイブ同様,ユリウス暦のクリスマスイブも当直の自分,一人でケーキを食べています(笑).

 

 追記: 東方正教のひとつロシア正教のあるロシアは世俗的にもグレゴリオ暦の採用が遅く,なんと!20世紀のロシア革命後のことになります.ロシア革命の局面である3月革命,11月革命をそれぞれ2月革命,10月革命と呼ぶのも当時のロシアが公式にユリウス暦を使っていたからです.ちなみに日本がグレゴリオ暦を採用したのは1873年(明治6年)である.このため1904~1905年の日露戦争時,日本はグレゴリオ暦だったのに対してロシアはユリウス暦であり,有名な日本海海戦も日本では5月27日とされていますが,ロシアでは5月14日となります).

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