2020年6月21日 (日)

マリアナ沖海戦

 今日は夏至,北半球では1年でもっとも昼の長い1日である.逆に言えば明日以降冬に向かってどんどん日が短くなっていくことになる.

 そんな夏至は昼が長いこともあり,世界史的には大軍を動かす大きな戦いが起こる時期である.振り返れば古代ローマ末期にアジアから西進してきたフン族と西ローマ・ゲルマン連合軍が戦ったカタラウヌムの戦いが451年の6月20日に起こった.また有名なナポレオンのロシア遠征が1812年6月23日,ナポレオンの敗退が確定したワーテルローの戦いが1915年6月18日,第二次世界大戦の独ソ戦の開始であるバルバロッサ作戦が1941年6月22日,同大戦のソ連側の大規模な反撃であるバグラチオン作戦が1944年6月22日に開始されている.日本史方面では明智光秀が織田信長を討った本能寺の変が1582年6月21日(天正10年6月2日)だし,応仁の乱も本格的な戦いが始まったのは1467年(応仁元年)のこの時期である.

 一方この時期に海上で発生した大きな戦いといえば,今から76年前の1944年(昭和19年)の6月19日,西太平洋において日米の機動部隊がぶつかった,いわゆるマリアナ沖海戦(アメリカ側呼称はフィリピン海海戦)がある.海戦に先立つ4日前の6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸したのを受けて,上陸軍の護衛として進出しているであろうアメリカの機動部隊(第58任務部隊)に対して日本の機動部隊(第1機動艦隊)が決戦を挑んだものである.

 実は日米の機動部隊同士が直接ぶつかるのは1942年10月の南太平洋海戦以来1年8か月ぶりのことだった.1942年中は5月の珊瑚海海戦をはじめとして,合計4度にわたって空母同士による海戦が起こるなどしのぎを削った日米両海軍だったが,一連の戦いにおいて双方とも消耗が激しく,1943年1月にガダルカナル島の戦いが終結して以降はその再建に取り組むことになった(もちろん残る少数の空母も各地での作戦には従事はしていた).アメリカ側は1943年後半以降エセックス級空母が続々と就航し戦力の充実が著しかった.一方の日本側は新造された空母は大鳳のみだったが,他艦種を改装した空母を多数取り揃えていた.

 こうして1944年6月19日にマリアナ沖に集結した機動部隊はアメリカ側が空母15隻,艦載機891機に対して日本側は空母9隻,艦載機498機だった.数的に日本はアメリカの半分強だったが,一方でサイパン島やテニアン島といった陸上基地にも航空部隊を有しており,これらと連携することで十分に対抗できると考えられていた.さらにこの戦いで日本側は俗にアウトレンジ作戦と呼ばれる戦術を採用した.これはアメリカ機に比べて航続距離の長い日本機の特徴を生かした戦法で,アメリカ側がこちらを攻撃できない距離から先に攻撃を仕掛けるというものだった.アウトレンジを成功させるためにはともかく,敵を先に発見しなければならない.日本の機動部隊は6月18日から盛んに索敵機を飛ばしてアメリカ艦隊の居場所を探した.結果,6月19日早朝ついにアメリカの機動部隊の発見に成功した.一方のアメリカ側はまだ日本艦隊の居場所は発見できていない.日本側はただちに攻撃隊を発進させ,アメリカ機動部隊の攻撃に向かった.この時司令部では勝利を確信した幕僚が多かったらしい.

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(写真左)海戦時の旗艦空母大鳳.(同右)空母瑞鶴,マリアナ沖海戦を生き延び,4か月後のレイテ沖海戦で沈んだ.この2枚はともに我が押し入れに収納されていた連合艦隊

 しかしながら作戦は日本の思惑通りには進まなかった.この時アメリカ側はレーダーによって,日本の攻撃隊の接近を察知していた.また彼らは未だ日本艦隊を発見できていなかったことから,手持ちの戦闘機をすべて迎撃に当てることができた.この時のアメリカの戦闘機は新鋭機のF6Fヘルキャットであり,総合力で日本の零戦を凌駕していた.彼らは日本の攻撃隊がやってくる方向に,より高い高度で戦闘機を待機させていた.結果待ち伏せされた形となった日本の攻撃隊は大きな被害を受ける.なんとかこの攻撃をしのいだ一部の攻撃隊がアメリカ機動部隊に殺到したが,今度はすさまじい対空砲火に晒され,次々と撃墜されていった.この頃からアメリカの高射砲にはVT信管と呼ばれる新型の信管が使われており,砲弾が飛行機に直接命中しなくても,付近を通過した時点で爆発し被害を与えられるようになっていたのである.

 一方,アメリカ機動部隊は日本艦隊を発見できていなかったが,彼らの潜水艦は日本空母の動向を探っていた.6月19日日本側が攻撃隊を発進させた直後,アメリカの潜水艦が日本艦隊に接近,魚雷攻撃を仕掛けた.この攻撃により空母翔鶴は4本の魚雷を受けて轟沈,同じく空母大鳳が受けた魚雷は1本だけで損傷は軽微だったが,気化したガソリンが爆発するという悲運に見舞われて同じく沈没してしまった.こうして6月19日の戦闘は日本側が先に敵艦隊を発見しアウトレンジ攻撃をかけたものの,迎撃によって航空部隊は大損害を受け,逆に自らの空母は潜水艦によって死角から攻撃され撃沈されるという結果になった.

 翌6月20日も先にアメリカ艦隊を発見した日本の残りの空母部隊が攻撃を仕掛けるも,やはり前日と同様の結果に終わる.そしてこの日の16時近くになってようやくアメリカ側も日本艦隊を発見,反撃を開始する.この攻撃によってさらに空母1隻(飛鷹)とタンカー2隻が撃沈された.一方これが夕方の攻撃になったため,アメリカ側の航空部隊も空母への帰還ができずかなりの損害を出している.

 かくして連合艦隊が乾坤一擲の決戦を企図して臨んだマリアナ沖海戦は日本の大敗に終わる.沈没した空母の数だけでいえばミッドウェー海戦よりも少なかったが(ミッドウェーが4隻,マリアナは3隻),敵の空母を1隻も沈めることができなかったことや,約1年半かけてようやく再建した母艦航空隊を一気に喪失したことは非常に厳しく,これ以降連合艦隊は機動部隊を運用する作戦を行うことが不可能になってしまう.この海戦は日本の作戦通りに始まり,敵の発見も早いなど大きな齟齬はなかった.にもかかわらずこのような敗戦に終わったのは,この時期のアメリカ軍はレーダーを用いた防空システムやVT信管などの新型機器・システムが運用されており,旧態依然としていた連合艦隊とはハード・ソフト両面で大きな差がついてしまっていたからである.仮にマリアナ沖海戦が1942年秋に起こっていたら日本側が勝利する可能性もあったろうが,1年8か月という時間はを隔てるて、連合艦隊にとってアメリカの機動部隊は全く別物になっていたのである.

 私はマリアナ沖海戦は「高校受験に失敗した生徒が2年間宅浪して必死に勉強し,中学の教科書を完璧にマスターして試験に臨んだら,まわりはすでに大学受験になっていた」という比喩がふさわしいのではないかと思っている.

 そんなことを想像した2020年の夏至の日だった.

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2020年3月15日 (日)

インパールへの道

 太平洋戦争後半の1944年(昭和19年)3月に,日本が当時占領していたビルマ(現ミャンマー)からインド東部にあるイギリス軍の拠点インパールを占領しようと開始したのがインパール作戦(ウ号作戦)です.作戦構想自体は壮大なものでしたが,補給を無視した杜撰な作戦は大失敗に終わり,参加した3個師団の参戦兵力の半分以上が戦死戦病死する惨憺たる敗北に終わりました.このことから史上最悪の作戦と呼ばれ,インパールという名前そのものが杜撰な作戦の代名詞にもなっています.

 そんな作戦の地であるインパール,戦史好きの自分にとっても行けるものなら行ってみたい地です.しかし,ミャンマーとインドの国境地帯は民族紛争なんかがあって治安が悪く,少なくとも陸路で国境を越える旅は不可能だろうと思っていました.

 し,しかし

 なんと!陸路インパールを目指すツアーがあるらしいのです.

 陸路で行く ミャンマーからインパール、コヒマへの道11日間

 SNS上で出ていたんですが,これは風の旅行社という主としてペルーやモンゴル,ネパールといった山岳国への旅行を得意とする会社です.以前ペルーに行く時にここも候補に入れたことがあるので覚えています.まさか,こんな企画を立てていたとは…

 こんなご時世ですが,参加できるものなら参加したいなと思って日程を見ると…

 2020年3月6日出発

 もう出発日を過ぎています.はたして催行されたのだろうか… そうでなくても来年また企画されるなら参加したいなと思ったのでした.

 奇しくも今日3月15日はインパール作戦において,側面から同地を攻撃するために第15師団(祭兵団)と第31師団(烈兵団)が作戦行動を起こし,国境であるチンドウィン河を渡り始めた日です.

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 図はインパール作戦時の各師団作戦行動図に今回のツアーの日程を重ね合わせてみました(高木俊朗著 インパールより引用改変).当時の兵団がどうしてもたどり着けなかったインパールまで矢印が伸びでいるのが感動的です.

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2019年2月26日 (火)

2・26事件

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 今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,官邸でクーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争があります.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのはもちろん皇道派です.

 

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドン的な存在だった真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようといろいろ工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐くらい),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わったのです.

 

 

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも累は及び,軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 

 この事件によって陸軍内の皇道派は壊滅状態となり,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増し,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

 

 

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2017年8月16日 (水)

インパール作戦

 昨日はいわゆる終戦の日,72年前に日本がポツダム宣言を受諾した日であった(ただし国際法的には日本政府の代表が降伏文書に調印した9月2日が本当の終戦の日である).

 

 

 毎年この季節になるとテレビなどでも戦争関係の話題が出てくる.で,私が毎年注目しているのがこの日のNHKの特番,なぜならおそらく彼らが最も力を入れたいテーマがその日に来るだろうからだ.そんなNHKの今年の話題はインパール作戦だった.

 

 インパール作戦は戦史に興味のある方ならば知っている人も多いであろう有名な作戦である.1944年(昭和19年)3月に当時のビルマ(現ミャンマー)に展開していた日本陸軍の第15軍の3個師団が,そのころ連合国が中華民国の蒋介石政府を支援するために使用したルート,いわゆる援蒋ルートを遮断するために,ビルマとインドの国境を突破してインド側にあるイギリスの拠点インパールを攻略しようとした作戦である.作戦の概要はまず第31師団(烈兵団)が国境を越えてインパール北部にあるコヒマを占領し,インパールを孤立させる.それと前後して第33師団(弓兵団)が南から,第15師団(祭兵団)が東からインパールに迫り攻略するというものだ.

 

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(図 高木俊朗著「インパール」より引用)

 

 概要だけ聞くと,なるほどと思えるのだが,問題はその実態である.まずミャンマーとインドの国境には乾季でも川幅300メートルものチンドウィン川がある.もちろん橋なんかない.当時すでに制空権は連合軍側に握られていたため,渡河は夜間に限られた.そしてそこを越えると標高2000メートル級のアラカン山系がそびえたつ.南方から向かう弓兵団方面にはまだ道があったが(なのでここに戦車や重砲も配属された),祭兵団,烈兵団正面には道らしい道はなく,兵士は60キロもの装備品を担いでの登山同様の行軍を強いられた.そんな行軍環境であるからこの2個師団が持っていける武器も各自の小銃や手榴弾に機関銃,擲弾筒程度で,大砲については比較的小型で分解可能な歩兵砲が少数あるだけだった.もちろんそんな道路事情であるから,食料や弾薬等の補給は絶望的である.

 

 このように作戦は補給のめどが全く立たず,軽装備の部隊が重装備で待ち構える敵陣地を攻撃する形が予想されたため,軍内部でも反対意見が多かった.しかし作戦を実施する当事者である第15軍司令官の牟田口中将が実施を強く主張,上級部隊であるビルマ方面軍司令官や南方総軍総司令官,さらには大本営もこれを支持し,反対する参謀(第15軍参謀長の小畑少将や南方総軍総参謀副長の稲田少将ら)を左遷したため,結局作戦は決行されることになった.この時作戦認可を渋る大本営の真田穣一郎作戦部長に対して杉山参謀総長が「寺内さん(南方総軍総司令官)たっての頼みだからやらせてやってくれ」と言ったとされ,この意思決定プロセスが情緒的であると批判されている.確かにその通りなのだが,実際には当時日本政府が支援していた自由インド仮政府主席チャンドラ・ボースの影響などもあり事情は簡単ではない.

 

 3月上旬に始まった作戦はイギリス軍が国境付近での衝突を避けたこともあり,緒戦は見かけ上日本軍が進撃する形になった.特に烈兵団方面では,イギリス側がこんな道もない山を越えて師団規模の大軍がやって来ることを想定していなかったこともあり,同兵団は戦略目標であるコヒマの確保に成功する.コヒマを抑えたことで北からインパールに向かう道路は遮断され,予定通りインパールは孤立する形になった.南からは弓兵団,東からは祭兵団が迫っている.見かけ上インパールは包囲された.ここまでは日本軍の作戦通りである.

 

 通常なら包囲された軍は士気が下がる.援軍が期待できず殲滅されてしまう恐れがあるからだ.しかしインパールのイギリス軍はそうはならなかった.彼らは飛行機を使って空から補給を続けた.一方で包囲しているはずの日本軍は補給がなく戦力は漸減する一方だった.前線の部隊からは補給を求める電文がしきりに飛んだが,後方の軍司令部は何の手も打たなかった(打たなかったというか打てなかったのが正解だが).皮肉なことにイギリス軍の空中補給物資が風向きで日本軍陣地に流されてくることがあり,こうした物資を日本兵はチャーチル給与と呼んで歓迎した.日が経つにつれて包囲されたイギリス軍の戦力が充実し,逆に包囲する日本軍の戦力が枯渇していった.軍司令部からはただ攻撃命令だけが届いたが,そんな戦力差であるから攻撃が成功することはなく,いたずらに犠牲が増えるばかりであった.

 

 実は日本軍はこのインパール作戦のちょっと前に同様のパターンで痛い目にあっている.それが同年2月にビルマ南西部で起こった第二次アキャブ会戦である.第二次とあるのはそのさらに1年前(1943年)に第一次アキャブ会戦があったからだ.第一次アキャプ戦はビルマ方面におけるイギリス軍最初の反攻作戦だったが,日本軍がイギリス軍を包囲殲滅し返り討ちにしている.その1年後にほぼ同じ場所で起こったのが第二次アキャブ戦である.この時も前回同様日本軍はイギリス軍の主力を包囲することに成功し勝利は確実と思われたが,結果は第一次と同じようにはならなかった.包囲されたイギリス軍は空から物資や兵員を補給して抵抗したからだ.戦況は包囲したはずの日本軍がジリ貧になり,退却を余儀なくされることになってしまったのである.インパール作戦の展開はこの第二次アキャブ戦をより大規模にしたようなものであった.

 

 インパールを目前にして諸兵団が苦戦しているうちに雨季がやって来た.当地の雨季はすさまじい.日本の夕立がひたすら続くようなイメージである.軽装備の日本軍はたちまち身動きが取れなくなった.さらにはマラリアやアメーバ赤痢といった感染症も兵士たちを苦しめる.5月末に至りもはや勝機がないのは誰の目にも明らかとなった.インパールの北部を抑えていた烈兵団の佐藤幸徳中将は味方の惨状と状況を理解せず無茶な命令を繰り返す軍に対し,師団の独断退却を決行する.師団長という親補職(天皇直々に任命される役職,文官でいえば大臣や帝国大学総長並み)にあるものが公然と軍命に背くのは過去に例のない異常事態である.烈兵団の独断退却により,残された祭・弓両兵団の崩壊は決定的となった.そんな中,6月5日に第15軍司令官牟田口中将とビルマ方面軍司令官河辺中将の会談が行われたが,両者とも作戦の中止を言い出した方が責任を取らされると思ったのか,作戦の可否が議題にあがることはなかった.

 

 結局インパール作戦は7月に入りビルマ方面軍から上級司令部への具申によってようやく中止が決まった.以後前線に展開した各部隊の撤退が始まったが,それは進撃時の何倍もの苦難を伴うものだった.各部隊はイギリス軍の追撃を受けながらビルマを目指して退却したが,数か月の過酷な戦闘で衰弱しきった兵士には耐えられるものではなく,行き倒れるものが続出した.この日本軍の退却路には倒れた日本兵の遺体が並び,白骨街道などと呼ばれた.結局全軍の撤退が完了したのは同年暮れのことであった.

 

 戦後インパール作戦は「史上最悪の作戦」と称されるほど悪い意味で有名な戦いとなった.この作戦には軍人や兵士だけではなく,従軍記者も多数参加していたこともあり,戦後たくさんの戦記や研究書が発表されることになった.古くは服部卓四郎(当時の大本営作戦課長)による「戦史叢書」や軍事評論家伊藤正徳による「帝国陸軍の最後3死闘編」,高木俊朗の「インパール」他一連の著作などが有名だ.1980年代以降も続々と新しいものが発表されており,それは今も続いている.現在ではインパール作戦そのものに関しては,当時の戦況全般から鑑みて必要のない作戦だったというのが定説になっている.一方で,作戦の決定プロセスや中止が遅れたこと,作戦の失敗後に関係者が誰も責任を取っていないことなどに注目し,ここに悪しき日本の組織論が見られるという主張もしばしば取り上げられている.戸部良一らによる「失敗の本質」や1990年代にNHKで放送された特番の書籍化である「太平洋戦争日本の敗因4 責任なき戦場 インパール」などである.

 

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 昔から戦史に興味があった自分もこの作戦には非常に興味があり,いろんな本を読んできた.今回のNHKの特番がどういうものになるのか非常に興味深かったが,特に新しい解釈といえるものはなく,内容的には正直期待外れだったというのが率直な感想である(牟田口中将のお孫さんが出てきたのは驚きだったが).ただ,以前のNHKの特番からすでに20年経過していることを思えば,若い人たちにこういう戦いがあったという歴史を伝える意味はあったのかなとは思った.

 

 ちなみにインパール作戦に参加したのは3個師団であるが,従来の戦記物などではこのうち北の第31師団と南の第33師団を扱ったものが圧倒的に多くい.これは第33師団については作戦正面と位置づけられ,戦車や重砲も多数配備されたことから激しい戦闘が多く,記者もたくさん従軍していて彼らによる記事も多いこと,第31師団に関してはなんといっても歴史に残る抗命事件(師団長が軍命令に背いて独断で師団を退却させたこと)の当事者であること,暗い話題ばかりの同作戦中唯一,戦術的にも人間的にも優れた指揮官といわれ人気の高い宮崎繁三郎少将(当時第31歩兵団長,インパール作戦関係の将官としては牟田口中将と対極に位置する人物といわれることが多い)が所属し活躍した部隊だったためと思われる.この両師団に対して中間にいた第15師団を扱った作品は極めて少ない.高木俊朗氏の一連の作品でもこの師団を扱った作品「憤死」はシリーズでも最後の方であり,他作品と違って電子図書化もされていない.第15師団は3個師団中最も貧弱な装備で作戦に投入され,多くの犠牲者をだした悲劇の部隊なのだが,今回のNHKの特番でも見事に無視されていたのが感慨深かった.

 

 そんなことを考えた今年の終戦記念日特番だった.

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