2024年4月10日 (水)

南予観光

 一夜明け4月10日になりました。この日も昨日に続き快晴の良いお天気です。ホテルの朝食後チェックアウトをしてまずは愛南町南部にある紫電改展示館に向かいます。紫電改は第二次世界大戦時の日本海軍の主力戦闘機のひとつで、陸軍の四式戦闘機「疾風」とともに大戦後期の苦しい戦況の中で活躍した戦闘機です。大戦初期の1000馬力級だったゼロ戦や一式戦「隼」を大きく上回る2000馬力級のエンジンを搭載した機体でしたが当時の日本の技術力では手に余るものがあり、整備が非常に難しく稼働率が低いなど問題を多く抱えた機体でもあります。それでも整備がうまく行った部隊などでは期待に違わない活躍を見せています。当館に展示されている機体は昭和53年に付近の久良湾に原型を保ったまま沈んでいた機体が引き上げられたもので、日本に存在する機体としては唯一のものです。今は何も言わず鎮座している紫電改を見て改めて戦争と平和について考えました。

Img_1921 Img_1912(左写真1)紫電改展示館、(右同2)海底から引き揚げられた紫電改

 紫電改展示館を後にして北上、まずは途中の須ノ川公園に立ち寄ります。ここは主にキャンプ場として利用されているところですが、平日の日中ということで誰もおらず、きれいな南予の海を眺望できるスポットでした。この後は津島町にある日本の道100選の南予レク道路を見てさらに北上、この日宿泊予定の宇和島市を通過して高知県との県境にある松野町に入ります。実はこの町には続日本100名城のひとつ河後森城と日本の滝100選のひとつ雪輪の滝があるのです(正直この日は100関連の場所ばかり観光していた)。

Img_1923 Img_1932(左写真3)須ノ川公園、(右同4)カメが!

Img_1942(写真5)あおさのりうどん

 途中寄り道をしたこともあり、この段階でお昼、まずは食事をということで松野町の道の駅へ、この日は海老天入りのあおさのりうどんになりました(あおさのりを練りこんだうどんが美味)。食事後はまずは河後森城へ、ここは戦国時代の山城跡で土佐と伊予の国境に位置する重要な拠点でした。ここを治めていたのは公家の一条氏の諸流の渡辺氏でした。名門であり当地の盟主的な存在だったのですが、土佐の長曾我部氏が勢力を拡張する中で城を追われてしまいました。後に豊臣秀吉による四国遠征が行われるとこの地には藤堂高虎が、江戸時代になると伊達家が治めるようになり、最終的に元和の一国一城令によって廃城になっています。山頂に本郭が、尾根筋に沿って多くの郭がU字型に設置されるなど典型的な山城ですが、使用されたのがむしろ安土桃山時代だったことから一部石垣のほか、櫓や天守もあったとされています。城跡としてよく整備されていて当時の姿を想像することができる場所でした。

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Img_1977_20240509172801(左上写真6)河後森城案内図、(右上同7)郭がよく残っています、(左下同8)石垣、(右下同9)本郭

 河後森城の後は同じ松野町内の山の中に入っていきます。目指すは滑床渓谷と呼ばれるところです。途中から対向車が来ると怖いような狭い道が続きますが、幸い平日のためかほとんど出会うことはありませんでした。走ること30分で渓谷入り口にあるロッジに到着、ここから歩いて滝を目指します。ロッジの人からマップをいただきそれを見ながら歩いていきます。川に沿って渓谷を歩くというのは山梨の西沢渓谷や熊本の菊池渓谷をほうふつさせます。この日は往路を右岸、復路を左岸というコースを取ったんですが、結果的に正解でした(右岸は少しアップダウンはあるものの景色がよく、一方左岸は平坦だが渓谷が見えない地帯が続く)。約30分ほどで目的地の雪輪の滝に到着、豪快に落ちる滝ではなく、一枚岩を滑りながら水が流れる滝でした。水流が渦を巻く様が雪輪のように見えることからこの名があるそうですが、一方で夏のシーズンには天然のウォータースライダーが楽しめるんだそうです(要ガイド)。

Img_2019 Img_2033(左写真10)滑床渓谷、(右同11)雪輪の滝

 しばし滝を堪能した後は駐車場に戻りそのまま宇和島市内へ。駅近くのホテルにチェックインした後は地元の料理屋さんで鯛などの南予の美味しいものを堪能したのでした。

Img_2040(写真12)南予名物鯛の刺身

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2023年5月 9日 (火)

広島旅行①~呉編~

 基本的におとなしめのGWを過ごしたビザンチン皇帝ですが,終盤からちょっと本気を出しました(笑).6日のお昼に知人のコンサートを鑑賞した後は直ちに東京駅に移動し,そのまま東海道新幹線に乗車し西に向かいました.行先は広島県です.旅好きの私はもちろん47都道府県すべてに行ったことがあるわけですが,観光の量に関してはかなりの濃淡があります.北海道やかつて住んでいた東北地方はもちろん濃い部類ですが,一方で薄い部分の最上位に来るのが広島県です.もちろん行ったことはあるんですが,例えば同じ中国地方で比較しても,出張でちょくちょく行く岡山は別格として,鳥取・島根・山口と比較しても広島県の訪問頻度はかなり少ないものがあります.県庁所在地の広島市も例外ではなく,最後に訪問したのが2008年10月なのでもう15年前です(新幹線で通過ならしている).そんな本州の都府県で最も訪問濃度の薄い広島県を満喫しようというのが今回の企画です.

 新幹線は快調に西へ,がしかし,新大阪を過ぎたあたりから周囲は雨模様に(まあ天気予報がそうだったから覚悟はしていた).広島駅に着いた時には本格的な雨になっていました.慣れない広島駅でちょっと迷いながら,この日宿泊のホテルにチェックインしました(結局夕食は駅弁で済ませた).

 翌5月7日は朝から活動開始,JR呉線に乗って40分の呉に向かいました.呉といえば軍港,そっち関係に興味がある自分には外せないポイントです.実は訪問頻度の少ない広島県の中でも呉は初訪問なのでした.

Img_09011(写真1)10分の1サイズの戦艦大和

 雨の中到着後まず向かったのは大和ミュージアム,大戦中の日本最大の戦艦大和をはじめ,呉と海軍の博物館です.名物の10分の1サイズの大和の模型のほか,実物の零式艦上戦闘機や特攻兵器として知られる人間魚雷「回天」なども展示されています.普段のほほんと生きている者として気が引き締まる思いがしました.

Img_08401 Img_08301(左写真2)零式艦上戦闘機,(右同3)回天

 一通り見学した後は歩いて10分ほどの場所にある海上自衛隊呉地方総監部の青山門へ.隔週の日曜日に一般公開されている旧海軍関係の施設を見学するためです(事前に申し込みが必要で,希望者が多い場合は抽選).11時から受付が始まり中に入ります.ここでは係員(多分海曹の方)の案内で見学が進みます.まずは旧呉鎮守府庁舎(現海上自衛隊呉地方総監部第1庁舎)です.中央にドームを持つ煉瓦造りの建物は明治40年に竣工したもので,今でも現役で使用されています.我々が向かった青山門方面が正面とされていますが,海に面した側が正面ではないかという議論もあるようです(海に面した側に海岸に降りる急階段がある).

Img_08531(写真4)旧呉鎮守府庁舎

 鎮守府庁舎に続いて,旧海軍電話交換所へ.ここはさすがに現役では使われていないものの,空襲にも耐えられる強度を誇っています.戦中の使用目的はよくわかっていないそうですが,戦後すぐには電話交換所として使用されていたようです.すぐ近くには当地の地下に張めぐされていた地下通路への入口もあります(危険なので立ち入りはできない).全体で1時間ほどの見学でした.

Img_08721 Img_08781(左写真5)電話交換所,(右同6)内部

 その後は市街地に戻り,ハイカラ食堂でランチタイムです.海自&海軍に特化した食堂ですが,この日はもちろん定番の海自カレー(潜水艦そうりゅうのカレー)をいただきました(どうでもいいですがこのお店,一部界隈の人たちが発狂すること間違いなしです 笑).

Img_08991 Img_09001(左写真7)ハイカラ食堂,(右同8)そうりゅうカレー

 ランチ後は再び大和ミュージアムへ(再入場できるのが良い).先ほどはパスした特別展を中心に見学しました.そして14時40分頃にタクシーで呉基地のFバースに向かいます.今度は海上自衛隊の護衛艦の一般公開に参加するためです(午前中の鎮守府と同様隔週の日曜日に事前申込制で開催).この時間帯になると雨脚も強まっていました.雨の中見学開始,この日乗船できる艦艇はATS-4203訓練支援艦てんりゅうでした.全長100メートルのヘリ甲板を持つ艦艇で,対空射撃訓練用の標的機を発射する支援艦です.この日甲板には小型の標的機チャカⅢが展示されていました.ヘリ甲板にも立ち入りできましたが,こんなところでジンギスカンとかやったら楽しそうだなと思いました(100%懲戒処分の対象になりそうですが 笑).その後は他の護衛艦の外観を見学,一部しか見えませんでしたが海自最大の護衛艦である「かが」も停泊していました.

Dsc_2601 Img_09021 Img_09061 Dsc_2614(左上写真9)訓練支援艦てんりゅう,(右上同10)76mm速射砲,(左下同11)標的機チャカⅢ,(右下同12)壮観です

 1時間ちょっとで見学時間は終了,バスで市街地に戻り,この日最後の観光ポイントである,海上自衛隊呉資料館「てつのくじら館」に行きました.ここは海自の大きな任務である「掃海」をテーマにした展示のほか,退役した潜水艦「あきしお」の内部が見学できるのも魅力となっています(なので”てつのくじら”の異名がある).旧海軍が日露戦争の成功体験から艦隊決戦での勝利に力を注ぎすぎたことから,結果として本来日本の生命線であるはずのシーレーン防衛がおざなりにされ,結果大戦後半にはアメリカ軍によるシーレーンの破壊によって,日本は経済的に干上がってしまい戦争継続が不可能になりました.その反省から戦後の海上自衛隊は海上の安全確保を主要任務とし,掃海もその一環として最重要視されているのでした(朝鮮戦争に日本は基本的に参加していませんが,実はGHQの要請により当時の海上保安庁が掃海活動に当たっており殉職者も出ている).

Img_09141(写真13)潜水艦の野外展示

 掃海展示の後はいよいよ潜水艦の見学の時間,昔読んだ本で旧海軍の潜水艦の居住性は最悪だったとありましたが,あきしおは戦後の艦艇なので,それなりに居住性のも考慮が払われているようでした(とはいっても,この中で何週間も作戦行動をとるというのは,訓練以上に個人の適性が重要だろうなと感じた).

 資料館の見学でこの日の呉観光は終了,JR線で広島に戻り駅ビル内の店で広島の牡蠣を堪能したのでした.

Img_09231 Img_09241(写真14,15)広島の牡蠣(もちろん生)

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2021年10月20日 (水)

レイテ決戦

 今日10月20日は何かの日だったなぁ,なんだっけ?と思って調べてみたら,太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)のこの日にマッカーサー率いるアメリカ第6軍がフィリピン・レイテ島に上陸,世にいう「レイテ決戦」が始まった日だった.同年6月のマリアナ沖海戦に敗れ,サイパン島やグアム島などの中部太平洋諸島を喪失した日本軍は,次期作戦としてアメリカ軍が次に侵攻してくる地域において一大決戦を挑むという方針を立てた.これが捷号作戦で,米軍の侵攻場所に応じて捷一号(フィリピン),捷二号(台湾),捷三号(内地),捷四号(北海道)とされたが,大方の予想はフィリピン(捷一号)だった.

 捷一号作戦のポイントは米軍が来寇する地点をフィリピン中南部と予想し,同地点に来襲した時点で海空兵力を結集して決戦を挑むというものである.陸上兵力は同地域での決戦には参加せず,万一フィリピン中南部を突破された場合に北部のルソン島において迎え撃つことになっていた.フィリピンは大小7000もの島々からなる島嶼国家であり,敵も船に乗ってやってくること,当時船舶事情が厳しくなっていた日本軍にとってフィリピン中南部で陸上兵力を機動的に運用するのは困難になっていた事情を鑑みれば極めて妥当な作戦と思われた.

 1944年10月10日から11日にかけて沖縄ついで台湾が空襲を受けた.アメリカ機動部隊が台湾沖にいることを確信した海軍は直ちに所在の第二航空艦隊に攻撃命令を出した.こうして発生したのが台湾沖航空戦で,第二航空艦隊は12日から16日にかけて連日アメリカ機動部隊に攻撃を加えた.そして大本営海軍部は10月19日に「敵空母11隻撃沈,8隻撃破」という大戦果を発表した.もしもこれが事実ならアメリカ機動部隊は文字通り全滅である.この大戦果発表に国民は沸き返り,天皇からはお褒めの勅語まで発せられた.

 ところがこの大本営発表の翌日,10月20日に突如アメリカ軍がフィリピン・レイテ島の東岸に上陸を開始したのである.つい先日の台湾沖航空戦で壊滅的損害を受けたはずのアメリカ軍がレイテ島にやってきたという事態に,当該地域に布陣していた陸軍第16師団は驚き,直ちに上級司令部に報告した.種明かしをすれば,台湾沖航空戦の戦果は全くの誤りで,アメリカの空母は1隻も沈んでいなかった.どうしてこんなことになったのかというと,この時の攻撃が専ら夜間&薄暮に行われたからである.昭和19年段階になると米軍の防空システム(対空砲火や迎撃戦闘機)は格段に進化しており,普通に昼間に攻撃をしても大して戦果を挙げられなくなっていたのだ(このことは同年6月のマリアナ沖海戦ですでに明らかになっていた).夜間や薄暮での戦果確認は困難である.実際には炎上墜落する味方機の火柱を敵艦轟沈と誤認したり,複数のパイロットが視認した火炎をそれぞれの戦果として積み上げていった結果が上記の大本営発表だったわけである.ただ海軍側も大戦果を挙げた割には敵機動部隊の活動が継続していることから戦果に疑問を持ち,なんと10月17日頃には実際の戦果は大したことがないことに気づいていたらしい(戦果が上がっていないとわかった後に大本営発表をしたわけである!).間違っていたなら「間違っていた」と訂正すればよいのだが,この時海軍は陸軍や政府にもその事実を伝えなかったのである.

 海軍が真実を隠したことで捷一号作戦は予想外の展開を見せた.現地部隊からの報告を受けた南方軍司令部(主として太平洋方面の陸軍を統括する総軍.総司令官は寺内寿一元帥)では,機動部隊を失った米軍がレイテ島にやってきたのは正気の沙汰ではないと断じ,この上陸部隊を撃滅すべく作戦の変更を決意した(彼らは選挙を間近に控えたルーズベルトが,戦果を焦って敗残の米軍を無理にレイテに突っこませたと考えたらしい).これまでの「陸軍はルソン島でのみ戦う」という方針を捨て,陸海空の総力をレイテにつぎ込んで戦うことにしたのである.

 しかし海軍が何も言わなかったとはいえ,陸軍内にも海軍の戦果に疑問を持っていた者もいた.当時フィリピン防衛の任に当たりマニラに司令部を置いていた第14方面軍司令官の山下大将は,米軍の艦載機の活発さから海軍の戦果は間違いではないかと考えていた.このため急なレイテ決戦への方針転換には反対で,その旨を南方軍に具申した.しかし総司令官の寺内元帥はこれを却下,かくしてレイテ決戦が強行されることになった.

 一、驕敵撃滅の神機到来せり。

 二、第十四方面軍は海空軍と協力し、成るべく多くの兵力を以ってレイテ島に来攻する敵を撃滅すべし。

 公文書に驕敵,神機などという用語が出てきたのはおそらくこれが最初であろう.いかにこの時の総軍幹部が舞い上がっていたかがうかがえる.

 10月下旬当時レイテ島に展開していた陸軍は第16師団2万人のみであり,レイテ決戦への方針変更がなされた時,すでに米軍の攻勢で沿岸の陣地を突破されていた.しかし通信事情が悪かったため上級司令部はこのことを把握できていなかった.こうした中第14方面軍はただちにレイテ島への増援作戦(多号作戦)を開始するが,アメリカ機動部隊が健在の中強行された増援作戦は米軍の迎撃を受けて撃沈される船舶が続出した.この際,兵員は着の身着のままでかろうじて上陸できたケースが多かったが,各種大型火砲や弾薬,食料等の軍需物資の大半を失うことになった.こうして日本軍は泥沼のレイテ戦に突入することになったのである.

 レイテ戦は約2か月後の12月下旬には組織的な戦闘が終結し,以後は米軍による掃討戦となった.残存の日本軍は島からの脱出もできず,食料弾薬もないまま飢餓やフィリピン人ゲリラの襲撃に苦しめられながらの戦いを強いられた.結局昭和20年8月15日の終戦までに約8万人の将兵がレイテ島で亡くなったが,その大半が餓死だったといわれている.

 太平洋戦争で悲惨な戦場としてガダルカナル島の戦いやインパール作戦が知られているが,実はこの2つの戦いは生還者も意外と多い(だからこそ悲惨な実相が今に伝わっているわけである).しかしレイテ島の戦いでは生還者がほとんどおらず,各部隊の最期がどのようなものだったのかもわかっていない(第16師団の牧野師団長,第26師団の山県師団長など首脳級の人物も多く亡くなっているが,その最期も不明な点が多い).

 このように台湾沖航空戦の戦果の誤認に基づき強行されたレイテ決戦は大失敗に終わり,急な作戦変更で貴重な船舶や本来ルソン島に蓄積するはずだった多くの軍需物資も失った.昭和20年1月からはいよいよルソン島の戦いが始まるが,もはや米軍と正面切って戦う戦力は残されておらず,山下大将はルソン島北部の山岳地帯に籠っての持久戦を指揮することになった.このようにレイテ戦は日本が敗戦の坂道を一気に転げ落ちていく端緒的な戦いになったのである.そんなことを考えた令和3年10月20日だった.

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2021年8月12日 (木)

相沢事件

 今日は8月12日,今から36年前の1985年(昭和60年)のこの日,羽田空港から大阪伊丹空港に向かっていた日航123便が御巣鷹山の尾根に墜落し乗員乗客520人が犠牲となる事故(日航ジャンボ機墜落事故)が起こりました.

 当時私は大学2年生で,夏休み期間中でしたが飲食店のバイトの関係で帰省はせず仙台にいました.この8月12日はバイトではなかったため,アパートでちょうどテレビを見ていたタイミングで臨時ニュースが飛び込んできた記憶があります.この事故では歌手の坂本九さんや阪神タイガースの球団社長の中埜肇さんなど著名人も犠牲になっていますが,当時自分がバイトしていた飲食店チェーンの重役の方もたまたま搭乗していて遭難しています.

800pxtessan_nagata_2  そんな8月12日ですが,歴史をさかのぼるとほかにも大きな事件が起こっています.日航機事故のちょうど50年前,1935年(昭和10年)に起こったのが今回テーマに掲げた相沢事件です.これは当時の陸軍省軍務局長だった永田鉄山少将が相沢三郎中佐により白昼局長室で斬殺された事件です.

 当時日本は満州事変とその後の国際連盟脱退で国際的な孤立を深めていた時期でした.こうした状況の中で陸軍内には軍が中心となって国家経済を統制し,国を高度国防国家へと改造していこうという動きがありました.これを主導していたのが主に陸軍大学校出身のエリート軍人たちで一般に「統制派」と呼ばれています.永田少将はこの統制派のリーダーと目されていました.ただ軍内には当時の政治家や財界の腐敗を糾弾し,天皇親政による国家改造を行おうと考えるグループ(皇道派)もいて,両者による対立が起こっていました.

 昭和10年7月16日に皇道派のドンと目されていた真崎甚三郎大将が教育総監を罷免されると,これが皇道派を軍中央から排除しようという統制派の陰謀であると考えた相沢中佐は8月12日に陸軍省を訪れ,軍務局長室に侵入して凶行に及んだのでした(後に軍法会議にて相沢は銃殺刑となる).この事件により皇道派と統制派の対立は一層激しくなり,翌1936年(昭和11年)の2・26事件でその頂点に達することになるのです.

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2020年12月 8日 (火)

79年前の今日

 今日は12月8日,今から79年前の1941年(昭和16年)のこの日,日本はアメリカ・イギリスに対して戦闘を開始しました.これにより1937年(昭和12年)に始まっていた日中戦争(双方とも宣戦布告がなされていなかったため,建前としてはあくまでも地域紛争だった),1939年(昭和14年)に始まっていたヨーロッパの戦争と完全にリンクし第二次世界大戦は文字通り世界大戦に拡大しました(戦争の呼称については同年12月12日の閣議で「大東亜戦争」とすると決定されましたが,アメリカ側の呼称である太平洋戦争が用いられることが多い).

 この日のNHKラジオは朝から開戦を報じる臨時ニュースを流していました.有名なニュースですが,これによると「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」とあります.西太平洋というのは普段あまり使われない用語ですが,定義としては日付変更線よりも西側の太平洋ということになります.実際には同日海軍が真珠湾攻撃,フィリピン各地のアメリカ軍基地の爆撃,陸軍がマレー半島のコタバル上陸戦,香港攻略戦を同時進行で行っているので,西太平洋という表現で間違っていないわけですが(ハワイは日付変更線よりも東であり,正確には東太平洋じゃないかというツッコミはあります),これは臨時ニュース発表時にまだ作戦が継続中であり,詳細な地名を出すのが憚られたという事情もあると思われます.

 開戦に至る経緯や評価に関しては当ブログの守備範囲外なので割愛しますが,歴史的な一日に思いをはせているのでした.

 

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2020年6月21日 (日)

マリアナ沖海戦

 今日は夏至,北半球では1年でもっとも昼の長い1日である.逆に言えば明日以降冬に向かってどんどん日が短くなっていくことになる.

 そんな夏至は昼が長いこともあり,世界史的には大軍を動かす大きな戦いが起こる時期である.振り返れば古代ローマ末期にアジアから西進してきたフン族と西ローマ・ゲルマン連合軍が戦ったカタラウヌムの戦いが451年の6月20日に起こった.また有名なナポレオンのロシア遠征が1812年6月23日,ナポレオンの敗退が確定したワーテルローの戦いが1915年6月18日,第二次世界大戦の独ソ戦の開始であるバルバロッサ作戦が1941年6月22日,同大戦のソ連側の大規模な反撃であるバグラチオン作戦が1944年6月22日に開始されている.日本史方面では明智光秀が織田信長を討った本能寺の変が1582年6月21日(天正10年6月2日)だし,応仁の乱も本格的な戦いが始まったのは1467年(応仁元年)のこの時期である.

 一方この時期に海上で発生した大きな戦いといえば,今から76年前の1944年(昭和19年)の6月19日,西太平洋において日米の機動部隊がぶつかった,いわゆるマリアナ沖海戦(アメリカ側呼称はフィリピン海海戦)がある.海戦に先立つ4日前の6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸したのを受けて,上陸軍の護衛として進出しているであろうアメリカの機動部隊(第58任務部隊)に対して日本の機動部隊(第1機動艦隊)が決戦を挑んだものである.

 実は日米の機動部隊同士が直接ぶつかるのは1942年10月の南太平洋海戦以来1年8か月ぶりのことだった.1942年中は5月の珊瑚海海戦をはじめとして,合計4度にわたって空母同士による海戦が起こるなどしのぎを削った日米両海軍だったが,一連の戦いにおいて双方とも消耗が激しく,1943年1月にガダルカナル島の戦いが終結して以降はその再建に取り組むことになった(もちろん残る少数の空母も各地での作戦には従事はしていた).アメリカ側は1943年後半以降エセックス級空母が続々と就航し戦力の充実が著しかった.一方の日本側は新造された空母は大鳳のみだったが,他艦種を改装した空母を多数取り揃えていた.

 こうして1944年6月19日にマリアナ沖に集結した機動部隊はアメリカ側が空母15隻,艦載機891機に対して日本側は空母9隻,艦載機498機だった.数的に日本はアメリカの半分強だったが,一方でサイパン島やテニアン島といった陸上基地にも航空部隊を有しており,これらと連携することで十分に対抗できると考えられていた.さらにこの戦いで日本側は俗にアウトレンジ作戦と呼ばれる戦術を採用した.これはアメリカ機に比べて航続距離の長い日本機の特徴を生かした戦法で,アメリカ側がこちらを攻撃できない距離から先に攻撃を仕掛けるというものだった.アウトレンジを成功させるためにはともかく,敵を先に発見しなければならない.日本の機動部隊は6月18日から盛んに索敵機を飛ばしてアメリカ艦隊の居場所を探した.結果,6月19日早朝ついにアメリカの機動部隊の発見に成功した.一方のアメリカ側はまだ日本艦隊の居場所は発見できていない.日本側はただちに攻撃隊を発進させ,アメリカ機動部隊の攻撃に向かった.この時司令部では勝利を確信した幕僚が多かったらしい.

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(写真左)海戦時の旗艦空母大鳳.(同右)空母瑞鶴,マリアナ沖海戦を生き延び,4か月後のレイテ沖海戦で沈んだ.この2枚はともに我が押し入れに収納されていた連合艦隊

 しかしながら作戦は日本の思惑通りには進まなかった.この時アメリカ側はレーダーによって,日本の攻撃隊の接近を察知していた.また彼らは未だ日本艦隊を発見できていなかったことから,手持ちの戦闘機をすべて迎撃に当てることができた.この時のアメリカの戦闘機は新鋭機のF6Fヘルキャットであり,総合力で日本の零戦を凌駕していた.彼らは日本の攻撃隊がやってくる方向に,より高い高度で戦闘機を待機させていた.結果待ち伏せされた形となった日本の攻撃隊は大きな被害を受ける.なんとかこの攻撃をしのいだ一部の攻撃隊がアメリカ機動部隊に殺到したが,今度はすさまじい対空砲火に晒され,次々と撃墜されていった.この頃からアメリカの高射砲にはVT信管と呼ばれる新型の信管が使われており,砲弾が飛行機に直接命中しなくても,付近を通過した時点で爆発し被害を与えられるようになっていたのである.

 一方,アメリカ機動部隊は日本艦隊を発見できていなかったが,彼らの潜水艦は日本空母の動向を探っていた.6月19日日本側が攻撃隊を発進させた直後,アメリカの潜水艦が日本艦隊に接近,魚雷攻撃を仕掛けた.この攻撃により空母翔鶴は4本の魚雷を受けて轟沈,同じく空母大鳳が受けた魚雷は1本だけで損傷は軽微だったが,気化したガソリンが爆発するという悲運に見舞われて同じく沈没してしまった.こうして6月19日の戦闘は日本側が先に敵艦隊を発見しアウトレンジ攻撃をかけたものの,迎撃によって航空部隊は大損害を受け,逆に自らの空母は潜水艦によって死角から攻撃され撃沈されるという結果になった.

 翌6月20日も先にアメリカ艦隊を発見した日本の残りの空母部隊が攻撃を仕掛けるも,やはり前日と同様の結果に終わる.そしてこの日の16時近くになってようやくアメリカ側も日本艦隊を発見,反撃を開始する.この攻撃によってさらに空母1隻(飛鷹)とタンカー2隻が撃沈された.一方これが夕方の攻撃になったため,アメリカ側の航空部隊も空母への帰還ができずかなりの損害を出している.

 かくして連合艦隊が乾坤一擲の決戦を企図して臨んだマリアナ沖海戦は日本の大敗に終わる.沈没した空母の数だけでいえばミッドウェー海戦よりも少なかったが(ミッドウェーが4隻,マリアナは3隻),敵の空母を1隻も沈めることができなかったことや,約1年半かけてようやく再建した母艦航空隊を一気に喪失したことは非常に厳しく,これ以降連合艦隊は機動部隊を運用する作戦を行うことが不可能になってしまう.この海戦は日本の作戦通りに始まり,敵の発見も早いなど大きな齟齬はなかった.にもかかわらずこのような敗戦に終わったのは,この時期のアメリカ軍はレーダーを用いた防空システムやVT信管などの新型機器・システムが運用されており,旧態依然としていた連合艦隊とはハード・ソフト両面で大きな差がついてしまっていたからである.仮にマリアナ沖海戦が1942年秋に起こっていたら日本側が勝利する可能性もあったろうが,1年8か月という時間はを隔てるて、連合艦隊にとってアメリカの機動部隊は全く別物になっていたのである.

 私はマリアナ沖海戦は「高校受験に失敗した生徒が2年間宅浪して必死に勉強し,中学の教科書を完璧にマスターして試験に臨んだら,まわりはすでに大学受験になっていた」という比喩がふさわしいのではないかと思っている.

 そんなことを想像した2020年の夏至の日だった.

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2020年3月15日 (日)

インパールへの道

 太平洋戦争後半の1944年(昭和19年)3月に,日本が当時占領していたビルマ(現ミャンマー)からインド東部にあるイギリス軍の拠点インパールを占領しようと開始したのがインパール作戦(ウ号作戦)です.作戦構想自体は壮大なものでしたが,補給を無視した杜撰な作戦は大失敗に終わり,参加した3個師団の参戦兵力の半分以上が戦死戦病死する惨憺たる敗北に終わりました.このことから史上最悪の作戦と呼ばれ,インパールという名前そのものが杜撰な作戦の代名詞にもなっています.

 そんな作戦の地であるインパール,戦史好きの自分にとっても行けるものなら行ってみたい地です.しかし,ミャンマーとインドの国境地帯は民族紛争なんかがあって治安が悪く,少なくとも陸路で国境を越える旅は不可能だろうと思っていました.

 し,しかし

 なんと!陸路インパールを目指すツアーがあるらしいのです.

 陸路で行く ミャンマーからインパール、コヒマへの道11日間

 SNS上で出ていたんですが,これは風の旅行社という主としてペルーやモンゴル,ネパールといった山岳国への旅行を得意とする会社です.以前ペルーに行く時にここも候補に入れたことがあるので覚えています.まさか,こんな企画を立てていたとは…

 こんなご時世ですが,参加できるものなら参加したいなと思って日程を見ると…

 2020年3月6日出発

 もう出発日を過ぎています.はたして催行されたのだろうか… そうでなくても来年また企画されるなら参加したいなと思ったのでした.

 奇しくも今日3月15日はインパール作戦において,側面から同地を攻撃するために第15師団(祭兵団)と第31師団(烈兵団)が作戦行動を起こし,国境であるチンドウィン河を渡り始めた日です.

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 図はインパール作戦時の各師団作戦行動図に今回のツアーの日程を重ね合わせてみました(高木俊朗著 インパールより引用改変).当時の兵団がどうしてもたどり着けなかったインパールまで矢印が伸びでいるのが感動的です.

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2019年2月26日 (火)

2・26事件

Image_2 今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,官邸でクーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争があります.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのはもちろん皇道派です.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドン的な存在だった真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようといろいろ工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐くらい),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わったのです.

 

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも累は及び,軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって陸軍内の皇道派は壊滅状態となり,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増し,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

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2017年8月16日 (水)

インパール作戦

 昨日はいわゆる終戦の日,72年前に日本がポツダム宣言を受諾した日であった(ただし国際法的には日本政府の代表が降伏文書に調印した9月2日が本当の終戦の日である).毎年この季節になるとテレビなどでも戦争関係の話題が出てくる.で,私が毎年注目しているのがこの日のNHKの特番,なぜならおそらく彼らが最も力を入れたいテーマがその日に来るだろうからだ.そんなNHKの今年の話題はインパール作戦だった.

 インパール作戦は戦史に興味のある方ならば知っている人も多いであろう有名な作戦である.1944年(昭和19年)3月に当時のビルマ(現ミャンマー)に展開していた日本陸軍の第15軍の3個師団が,そのころ連合国が中華民国の蒋介石政府を支援するために使用したルート,いわゆる援蒋ルートを遮断するために,ビルマとインドの国境を突破してインド側にあるイギリスの拠点インパールを攻略しようとした作戦である.作戦の概要はまず第31師団(烈兵団)が国境を越えてインパール北部にあるコヒマを占領し,インパールを孤立させる.それと前後して第33師団(弓兵団)が南から,第15師団(祭兵団)が東からインパールに迫り攻略するというものだ.

Img154(図 高木俊朗著「インパール」より引用)

 概要だけ聞くと,なるほどと思えるのだが,問題はその実態である.まずミャンマーとインドの国境には乾季でも川幅300メートルものチンドウィン川がある.もちろん橋なんかない.当時すでに制空権は連合軍側に握られていたため,渡河は夜間に限られた.そしてそこを越えると標高2000メートル級のアラカン山系がそびえたつ.南方から向かう弓兵団方面にはまだ道があったが(なのでここに戦車や重砲も配属された),祭兵団,烈兵団正面には道らしい道はなく,兵士は60キロもの装備品を担いでの登山同様の行軍を強いられた.そんな行軍環境であるからこの2個師団が持っていける武器も各自の小銃や手榴弾に機関銃,擲弾筒程度で,大砲については比較的小型で分解可能な歩兵砲が少数あるだけだった.もちろんそんな道路事情であるから,食料や弾薬等の補給は絶望的である.

 このように作戦は補給のめどが全く立たず,軽装備の部隊が重装備で待ち構える敵陣地を攻撃する形が予想されたため,軍内部でも反対意見が多かった.しかし作戦を実施する当事者である第15軍司令官の牟田口中将が実施を強く主張,上級部隊であるビルマ方面軍司令官や南方総軍総司令官,さらには大本営もこれを支持し,反対する参謀(第15軍参謀長の小畑少将や南方総軍総参謀副長の稲田少将ら)を左遷したため,結局作戦は決行されることになった.この時作戦認可を渋る大本営の真田穣一郎作戦部長に対して杉山参謀総長が「寺内さん(南方総軍総司令官)たっての頼みだからやらせてやってくれ」と言ったとされ,この意思決定プロセスが情緒的であると批判されている.確かにその通りなのだが,実際には当時日本政府が支援していた自由インド仮政府主席チャンドラ・ボースの影響などもあり事情は簡単ではない.

 3月上旬に始まった作戦はイギリス軍が国境付近での衝突を避けたこともあり,緒戦は見かけ上日本軍が進撃する形になった.特に烈兵団方面では,イギリス側がこんな道もない山を越えて師団規模の大軍がやって来ることを想定していなかったこともあり,同兵団は戦略目標であるコヒマの確保に成功する.コヒマを抑えたことで北からインパールに向かう道路は遮断され,予定通りインパールは孤立する形になった.南からは弓兵団,東からは祭兵団が迫っている.見かけ上インパールは包囲された.ここまでは日本軍の作戦通りである.

 通常なら包囲された軍は士気が下がる.援軍が期待できず殲滅されてしまう恐れがあるからだ.しかしインパールのイギリス軍はそうはならなかった.彼らは飛行機を使って空から補給を続けた.一方で包囲しているはずの日本軍は補給がなく戦力は漸減する一方だった.前線の部隊からは補給を求める電文がしきりに飛んだが,後方の軍司令部は何の手も打たなかった(打たなかったというか打てなかったのが正解だが).皮肉なことにイギリス軍の空中補給物資が風向きで日本軍陣地に流されてくることがあり,こうした物資を日本兵はチャーチル給与と呼んで歓迎した.日が経つにつれて包囲されたイギリス軍の戦力が充実し,逆に包囲する日本軍の戦力が枯渇していった.軍司令部からはただ攻撃命令だけが届いたが,そんな戦力差であるから攻撃が成功することはなく,いたずらに犠牲が増えるばかりであった.

 実は日本軍はこのインパール作戦のちょっと前に同様のパターンで痛い目にあっている.それが同年2月にビルマ南西部で起こった第二次アキャブ会戦である.第二次とあるのはそのさらに1年前(1943年)に第一次アキャブ会戦があったからだ.第一次アキャプ戦はビルマ方面におけるイギリス軍最初の反攻作戦だったが,日本軍がイギリス軍を包囲殲滅し返り討ちにしている.その1年後にほぼ同じ場所で起こったのが第二次アキャブ戦である.この時も前回同様日本軍はイギリス軍の主力を包囲することに成功し勝利は確実と思われたが,結果は第一次と同じようにはならなかった.包囲されたイギリス軍は空から物資や兵員を補給して抵抗したからだ.戦況は包囲したはずの日本軍がジリ貧になり,退却を余儀なくされることになってしまったのである.インパール作戦の展開はこの第二次アキャブ戦をより大規模にしたようなものであった.

 インパールを目前にして諸兵団が苦戦しているうちに雨季がやって来た.当地の雨季はすさまじい.日本の夕立がひたすら続くようなイメージである.軽装備の日本軍はたちまち身動きが取れなくなった.さらにはマラリアやアメーバ赤痢といった感染症も兵士たちを苦しめる.5月末に至りもはや勝機がないのは誰の目にも明らかとなった.インパールの北部を抑えていた烈兵団の佐藤幸徳中将は味方の惨状と状況を理解せず無茶な命令を繰り返す軍に対し,師団の独断退却を決行する.師団長という親補職(天皇直々に任命される役職,文官でいえば大臣や帝国大学総長並み)にあるものが公然と軍命に背くのは過去に例のない異常事態である.烈兵団の独断退却により,残された祭・弓両兵団の崩壊は決定的となった.そんな中,6月5日に第15軍司令官牟田口中将とビルマ方面軍司令官河辺中将の会談が行われたが,両者とも作戦の中止を言い出した方が責任を取らされると思ったのか,作戦の可否が議題にあがることはなかった.

 結局インパール作戦は7月に入りビルマ方面軍から上級司令部への具申によってようやく中止が決まった.以後前線に展開した各部隊の撤退が始まったが,それは進撃時の何倍もの苦難を伴うものだった.各部隊はイギリス軍の追撃を受けながらビルマを目指して退却したが,数か月の過酷な戦闘で衰弱しきった兵士には耐えられるものではなく,行き倒れるものが続出した.この日本軍の退却路には倒れた日本兵の遺体が並び,白骨街道などと呼ばれた.結局全軍の撤退が完了したのは同年暮れのことであった.

 戦後インパール作戦は「史上最悪の作戦」と称されるほど悪い意味で有名な戦いとなった.この作戦には軍人や兵士だけではなく,従軍記者も多数参加していたこともあり,戦後たくさんの戦記や研究書が発表されることになった.古くは服部卓四郎(当時の大本営作戦課長)による「戦史叢書」や軍事評論家伊藤正徳による「帝国陸軍の最後3死闘編」,高木俊朗の「インパール」他一連の著作などが有名だ.1980年代以降も続々と新しいものが発表されており,それは今も続いている.現在ではインパール作戦そのものに関しては,当時の戦況全般から鑑みて必要のない作戦だったというのが定説になっている.一方で,作戦の決定プロセスや中止が遅れたこと,作戦の失敗後に関係者が誰も責任を取っていないことなどに注目し,ここに悪しき日本の組織論が見られるという主張もしばしば取り上げられている.戸部良一らによる「失敗の本質」や1990年代にNHKで放送された特番の書籍化である「太平洋戦争日本の敗因4 責任なき戦場 インパール」などである.

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Myambon3 昔から戦史に興味があった自分もこの作戦には非常に興味があり,いろんな本を読んできた.今回のNHKの特番がどういうものになるのか非常に興味深かったが,特に新しい解釈といえるものはなく,内容的には正直期待外れだったというのが率直な感想である(牟田口中将のお孫さんが出てきたのは驚きだったが).ただ,以前のNHKの特番からすでに20年経過していることを思えば,若い人たちにこういう戦いがあったという歴史を伝える意味はあったのかなとは思った.

 ちなみにインパール作戦に参加したのは3個師団であるが,従来の戦記物などではこのうち北の第31師団と南の第33師団を扱ったものが圧倒的に多くい.これは第33師団については作戦正面と位置づけられ,戦車や重砲も多数配備されたことから激しい戦闘が多く,記者もたくさん従軍していて彼らによる記事も多いこと,第31師団に関してはなんといっても歴史に残る抗命事件(師団長が軍命令に背いて独断で師団を退却させたこと)の当事者であること,暗い話題ばかりの同作戦中唯一,戦術的にも人間的にも優れた指揮官といわれ人気の高い宮崎繁三郎少将(当時第31歩兵団長,インパール作戦関係の将官としては牟田口中将と対極に位置する人物といわれることが多い)が所属し活躍した部隊だったためと思われる.この両師団に対して中間にいた第15師団を扱った作品は極めて少ない.高木俊朗氏の一連の作品でもこの師団を扱った作品「憤死」はシリーズでも最後の方であり,他作品と違って電子図書化もされていない.第15師団は3個師団中最も貧弱な装備で作戦に投入され,多くの犠牲者をだした悲劇の部隊なのだが,今回のNHKの特番でも見事に無視されていたのが感慨深かった.

 そんなことを考えた今年の終戦記念日特番だった.

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