元禄赤穂事件
今日12月14日は元禄赤穂事件の大きな局面である、いわゆる赤穂浪士の討ち入りが起こった日です。旧暦の元禄15年(1702年)12月14日(正確には12月15日未明)、元播州赤穂藩家老大石内蔵助以下の旧赤穂藩士四十七人が、本所松坂町の吉良邸を襲撃、吉良上野介義央の首級を挙げた事件です。国内最後の大きな争乱となった島原の乱からすでに65年、すっかり太平になれた元禄時代の人々に大きな衝撃を与えた一大武装闘争事件といえます。現在ではその前年3月に起こった江戸城松之大廊下で発生した刃傷事件と併せて赤穂事件(元禄赤穂事件)と呼ばれています。歌舞伎仮名手本忠臣蔵の題材になっており、現在でもよく知られた事件です。かつてはNHKの大河ドラマ(H.11年の元禄繚乱,S.57年の峠の群像など)や民放の年末時代劇などでもしばしば取り上げられていた題材ですが、一方で謎の多い事件であるともいわれています。
まず討ち入りの前提になった、前年元禄14年3月14日の江戸城松之大廊下での刃傷事件があります。第一の謎はなぜ浅野内匠頭長矩があの日松之大廊下で刃傷に及んだかです。一応、浅野が「この間の遺恨覚えたか!」と叫んで吉良上野介に切りつけたことになっているので、それ以前に二人の間に何らかの禍根があったといわれているのですが、江戸城内で刃傷事件に起こすことがどれほど重大なことか、長矩が知らないはずはありません。特にこの日は幕府にとって極めて重要な、朝廷からの勅使をもてなす儀式が行われていた日、しかも長矩はその勅使を供応する役だったからです。もしも本当に切りつけたいほどの遺恨があったとしても、もっと人がいない場所で狙うととか、違う日を選ぶなどのするのが自然です。にもかかわらず、最も重要な儀式が行われている最中に、その江戸城で事件を起こしたわけですから、浅野長矩は我を忘れるほど激昂していたと考えられます。これが仮に松之廊下で吉良と浅野が言い争いをしていて、興奮した浅野が切りつけたというならまだ話はわかるのですが、長矩は不意に吉良に切りつけています。つまりなぜ長矩が事件直前に我を忘れてしまうほど激高したのかが不明なのです(外で何かがあり、怒った浅野が吉良のもとに飛んでいって切りつけたわけでもありません)。
第二に動機です。巷では勅旨供応役を拝命した浅野が指南役だった吉良に賄賂を送らなかったために意地悪をされたとか、赤穂と吉良の塩をめぐる争いだとか言われていますがそれを示す一次資料は確認されていません。そもそも浅野長矩が勅使供応役を務めたのはこの時がはじめてでは無く、さかのぼること18年前の天和三年(1683年)にも同じ吉良義央の指南でこの役を無事に務めています。なので何も知らない長矩に吉良が意地悪をしたという構図も考えられないわけです。結局この刃傷事件は動機もはっきりせず、単に浅野長矩が錯乱して斬りつけただけだったという説を唱える学者もいます。
とはいえこの刃傷事件の結果、赤穂浅野家は所領没収の上改易となり、藩士たちは路頭に迷うことになりました。江戸時代の大名家というのは今でいう企業のようなもで、改易になるということは会社が倒産することと一緒、従業員たる藩士は失業して世間に放り出されることになります。戦国の世で武士が戦で死ぬ時代なら、欠員補充のために他の大名に仕官するのも比較的容易だったのですが、太平の江戸時代になると、失業した藩士の再就職は容易ではなかったのです。なので当時の武士は主君の命云々よりも、お家(大名家)の存続が大事でした(なので大石内蔵助も当初は長矩の弟、浅野長広によるお家再興を第一に考えていました)。
その後紆余曲折を経て,翌元禄15年12月14日の討ち入りに至りますが、ここにも謎があります。刃傷事件の後同年8月に吉良が突然幕府から屋敷の移転を命ぜられていることです。元々吉良邸は江戸城に近い呉服橋(今のJR東京駅付近)にありましたが、この命令で本所松坂町に転居することになったのです。ここはJR両国駅の近くで、今でこそ都心の一部となっていますが、当時は江戸のはずれ,かなり寂しい所だったといわれています。直前に吉良義央は隠居しており、一般には隠居に伴う移転と考えられています。しかし当時は旧赤穂藩士の襲撃がウワサされており、結果的には幕府が討ち入りをさせるためにわざと転居させたのではないかとも取れるのです(郊外であれば他人の目にも触れにくい)。結局当日浪士たちは幕府の捕り方に誰何されることもなく、吉良邸討ち入りを行うことができました。
ちなみに浅野=善玉,吉良=悪玉という構図は後の仮名手本忠臣蔵によって確立した虚構の概念であり、史実ではありません。これは「三国志演義」を読んでも歴史としての三国志を理解したことにはならないし、「燃えよ剣」から新選組の真の姿は見えてこないのと一緒です。実際には地元赤穂の領民の間での浅野家の評判は芳しくなく、逆に吉良上野介の領地での評判は良かったともいわれています。21世紀に入ってからメディアでも赤穂浪士を取り上げる頻度が激減しているのは、歴史上の人物をフィクションによる単純な善と悪という色分けで描くことに批判があるからとも思われます(実際に大河ドラマでこの事件が描かれたのは1999年の元禄繚乱が最後で、21世紀になってからは一度もない)。現代では元禄赤穂事件という呼び方が定着したこの一連の騒動も、20世紀には歌舞伎の演題そのままに忠臣蔵と呼ばれていたものです。
そんなことを考えた2025年12月14日でした。
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