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2024年4月27日 (土)

週末の外食

 気が付けば4月も末ですが、週末の外食はいつも通りに繰り出しています(日本と違って美術館鑑賞とかスポーツ観戦とかの楽しみがないというのも理由の一つ)。この日は過去何度か繰り出しているイタリア料理店 "Francesco Restaurant" に行ってきました。

 海外のレストランにディナーで入った場合、各自前菜とメイン一品ずつを注文するのが一般的です。我々のスタイルは前菜2品、メイン2品を注文しそれぞれシェアするスタイル、この日は前菜としてトマトとモッツァレラチーズ、牛のカルパッチョを、メインとして牛フィレ肉のステーキとトマトソースのシーフードパスタを注文しました。ワインも一緒に注文したのはいうまでもありません(笑)。ここのシーフードパスタは店のマダムのお勧めだけあって非常に美味しいのでした。

Img_2247 Img_2248 Img_2249 Img_2250(左上)モッツァレラチーズ、(右上)牛のカルパッチョ、(左下)フィレステーキ、(右下)シーフードパスタ

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2024年4月24日 (水)

月の入り

 北半球では春分に日が過ぎて夏至に向かう季節、すなわち日が長くなっていく時期ですが、こちら南半球では反対に日が短くなっていく季節です。特にナミビアは時間の基準経度よりも西側に主要地域があるため全体的に日の出・日の入りとも遅くなる傾向があります(日本で言えば九州地方みたいな感じ)。そんな当地で朝、ふと外を見るときれいな満月が西の空に沈んでいく様子が見えました。

Img_0015  こちらは日本と違って高いビルがほとんどないため視界がよく、こうした月の入りがよく観察できるのでした。

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2024年4月23日 (火)

きのこの山とたけのこの里

 日本からナミビアに戻ってくるにあたりこちらの人たちのためにお土産を買ってきました。いくつかあったんですが、そのうちの一つとして日本でも非常に有名なお菓子、きのこの山たけのこの里があります。

05780  俗にきのこたけのこ戦争と呼ばれるほど、どちらが好きか日本では激しい論争(笑)が起こりますが、果たしてナミビア人がこのお菓子をどう感じるのか興味があったからです。

 職場のナミビア人に両方のお菓子を食べてもらい、どっちが美味しいと思うか投票してもらいました。その結果は・・・

438826205_7430286173735350_2271884034891  たけのこの里の圧勝でした。同じメーカーなのでチョコの質は変わらないと思うので、きのこのカリっとしたクラッカーとたけのこのサクッとしたクッキーのどちらが好まれるかというポイントなんですが、どうやらナミビア人の感覚ではクッキーのサクサク感が好まれたようです。

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2024年4月20日 (土)

週末の外食

Img_2246_20240514212001  ウィントフックに戻って最初の週末です。こちらに来てからだいたい週末の土曜日に外食をするのが習慣になっていますが、この日もさっそく繰り出しました。行先はけっこう常連になっているステーキ屋Butcher Block Namibiaさんです。

 この日食べたのはもちろんステーキ、ぶっちゃけナミビアのステーキは美味しいので日本滞在中は焼肉は食べてもステーキは食べませんでした。ワインも一緒なのは言うまでもありません。これからしばらくこんな感じの生活が続くと思います。

Img_2244(写真)嬉しそうです

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2024年4月19日 (金)

日本酒

 今回日本から戻ってくるにあたり、こちらでは入手困難な日本食材をたくさん持ってきました(二人でスーツケース4個)。調味料や乾麺などもありますが、我々にとってとりわけ重要なのがお酒です(笑)。ワインやビールはいくらでも手に入りますが、日本酒の入手は困難です。今回は地元岩手のお酒を中心に購入してきました。次回入手できるのはいつになるかわかりませんが大事に飲んでいきたいと思います。

438145709_7400509466713021_5904466683740  今回購入したお酒(これが全てではありません 笑)。

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2024年4月17日 (水)

ウィントフックに戻りました

 約1か月の休暇が終わりウィントフックに戻ってきました。

 4月15日は羽田空港近くのホテルに前泊、16日午前中の便でフランクフルトへ、現地時間同日夜に乗り換えてウィントフックの国際空港に着いたのは17日の朝でした。フランクフルト発ウィントフック行きは過去2回すべて遅延が発生した鬼門だったんですが、今回初めて遅延なしで飛ぶことができたわけです(笑)。

Img_2230 Img_2229(写真1,2)日本最後の夜はもちろん刺身と日本酒です

 明日からまたこちらでの日常が始まりますが、なんとか頑張っていきたいと思います。

Img_2232 Img_2240 (左写真3)羽田にて、(右ナミビア上空の朝日)

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2024年4月14日 (日)

石割桜

 四国旅行が終わり、ウィントフックに戻る日が数日後に迫ってきました。この日4月14日は盛岡の桜の名所、城跡公園と石割桜を見に行ってきました。四国や関東ではすでに葉桜になっている時期ですが、東北地方はこれから満開を迎えるからです。もっとも昔なら北東北の桜は四月下旬のGWが見ごろでしたが近年の温暖化の影響で開花が早まり、今はだいたい4月中旬になっています。そう、ちょうど見ごろの季節というわけです。

 自宅から市内へ車で行き、いつも停める駐車場に入ろうとしたんですがなんと!満車(ここが満車なのは珍しい)、仕方ないので別なところに停めました。そこから徒歩でまずは石割桜へ。石割桜は樹齢350~400年程のエドヒガンザクラで,石を割って成長しているところからその名があります。盛岡地方裁判所の庭にあるのですが、江戸時代ここには南部藩の家老の屋敷があったといわれており,屋敷の庭石の割れ目に種子が飛んできて芽を出したと考えられています。大正12年に国の天然記念物に指定され、過去には火災などで焼失の危機にさらされたこともありましたが人々の努力で今でも毎年花を咲かせています。この日はちょうど満開、日曜日ということもあってたくさんの人で賑わっていました(そういえば駐車場も県外ナンバーが多かった)。何度も見ている桜ですが、やっぱり素晴らしいなと感じました。

Img_2217 Img_2223_20240512185301(左写真1)石割桜、(右同2)医師の割れ目から木が

 続いては盛岡城跡公園へ、ここも桜の名所です。ただ場所によって満開のところとこれからのところがありました。こちらも日曜日ということでたくさんの人出でにぎわっていました(露店もたくさん出店していた)。日本滞在の最終段階でもっとも日本の春らしい光景を堪能でき満足したのでいた。

Img_2207 Img_2186(左写真3)盛岡城跡公園、(右同4)一面の桜

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2024年4月12日 (金)

もうひとつの人生

 道後温泉を堪能した翌日4月12日は今回の四国旅行の最終日です。実は今回愛媛県を訪問するにあたってぜひ訪れたい場所がありました。それが松山市の郊外東温市にある愛媛大学医学部です。

 私は1990年に再受験で医学部に入りました。当時の国公立大学はA・B日程と前期・後期日程が併存していた時代で、実質2つの大学を受験することができました(前期後期日程の場合は同じ大学2回受験も可能)。ただ絶対に1回で決めるという目標を掲げていたため、どこの大学に入りたいかではなく、どこの大学なら合格できるかという基準で受験校を検討していました(ぶっちゃけ医師免許を取って医師になることが目標であり、学会の偉い人や教授になろうなどという考えはみじんもないため学閥とかそういうのは一切考慮しない)。そのため秋ごろから模試を受けまくり、その判定具合から受験校を検討していました。そして1990年1月に行われた第1回の大学入試センター試験を受験(平均点が非常に高かった回です)、その結果を受験産業各社に送りすべての会社でもっとも合格可能性が高いと判定された大学(すなわち各社そろってA判定が出た大学)を受験することにしました。それが弘前大学の前期日程と愛媛大学のB日程でした。弘前は実家のある盛岡から車で2時間の場所、愛媛は当時まだ行ったことのない未知の場所でした。

 1990年2月下旬、まずは前期日程の受験のため弘前へ、この日の弘前は一面雲が広がり、しかも吹雪いていました。雪の中宿泊していた旅館から歩いて大学に向かいました。この当時の弘前大学医学部や附属病院の建物は古く、どんよりした天気と併せて、ぜひここで学びたいという気分にならなかったというのが正直な感想です。試験の方は初日の筆記試験、2日目の面接ともまずまずの感じ、再受験生にとって面接は大きな壁になるのですが、弘前は集団面接だったため周囲の反応を見ながらそれなりに対応できました(この辺のコミュニケーション能力は得意な方と自負している)。

 そして弘前受験の10日後B日程受験のため東北・東海道山陽新幹線と生まれて初めての予讃線特急「しおかぜ」を乗り継いで愛媛県松山市にやってきました。駅を降りた瞬間、温かい空気に包まれました。なんと!桜も咲いており、そこは完全に春の陽気です。10日前の弘前とは全くの別世界、「同じ日本でもこんなに違うんだ」と感動した瞬間でした。そして嬉しさのあまり自分が受験生であることを忘れ、松山城などを観光したのでし、さらに前泊の旅館では岩手出身の出稼ぎの方と遭遇し意気投合、酒盛りという受験生とは思えないことをしていたのでした(もっとも当時23歳なので法的にはなんら問題なし 笑)。

 そして翌日、伊予鉄横河原線で愛媛大学医学部に向かいます(愛媛大学は基本松山市にあるが医学部のみ東の重信町(現東温市)にあった)。最寄りの愛大医学部南口駅で下車、そのまま歩いてキャンパスに入ります。しばらくして医学部や附属病院の姿が見えてきました。白くて高い近代的な建物群に感動した思い出があります。この時、もし入学するならこっちがいいなというのが当時の感想です。こちらの入試も日程は2日間、初日の筆記試験の手ごたえもまずます、2日目の面接も終始和やかな感じに終始しました(岩手からどうしてわざわざやってきたのかという話や、東北地方の偉人の話題で盛り上がった)。この段階で多分これは合格できるんじゃないかなと感じました。

 松山から自宅にもどって数日後、前期日程の合格発表の日です。自分が現役の時は大学まで発表を見に行ったものですが、さすがに今回はそこまではしません。昔は自治会などがやっている合否電報で結果を知りましたが、この頃は大学が発送する合格者の受験番号が印字された電子郵便に代わっていました。朝10時ごろ郵便受けの方からカタっという音が、電子郵便が来たなと思い玄関へ、予想通り電子郵便でした。そのままハサミで封を切り中身を取り出します。そこに自分の受験番号を見つけた瞬間は、嬉しさよりもホッとしたというのが正直なところでした。

 さて、合格したのは素直に嬉しいのですが、私の中では愛媛のキラキラしたイメージが残っています。正直どちらかを選べと言われたら愛媛を選びたいところでした。弘前がA日程ならば、B日程の愛媛の結果を待っての選択ができるのですが、弘前は前期日程、B日程の合格発表の前に手続きをしなければなりません。ここで手続きをしなければ入学辞退の扱いとなり、仮にB日程の結果が不合格だった場合、一度合格したにもかかわらずどこにも入れないというこれ以上ない悲劇が待っています。ちょっと悩んだのですが、結局素直に手続きをすることにしました。理由は絶対に1回で決めると決意し、その権利が与えられたこと、自分が合格したことで不合格になった受験生もいるということを思い出したこと、愛媛に手ごたえがあったとはいえそれはあくまでも自分の主観であり、100%合格している保証はないことからでした。

 弘前の入学手続きを済ませたことで、自動的に愛媛の合否判定の対象からは外されます。このため実際に私が愛媛大学の合格圏に入っていたかは永遠の謎となりました。しかし、もしも自分が愛媛大学医学部に入学していたらいったいどんな人生を歩んでいるのかは興味があるところです。実際にはその後の学生時代に父親が亡くなるという現実は変わらないでしょうから、遅かれ早かれ東北に戻ってきているとは思います。ただウチのKと出会ったのは弘前時代ですし、日本にいた時ずっとお世話になっていた合唱の先生と久々の再会をしたのも弘前でした。ですから愛媛に行っていた場合は仮に盛岡に戻ったとしても、結婚相手はまったく別な人でしょうし(あるいはいまだ独身の可能性も)、合唱活動に関しても盛岡に戻ってすぐのタイミングで再開したとは考えられません。今とはかなり違った趣味や人生になっただろうことは想像できます。

Img_2168_20240512124201 Img_2170(左写真1)愛媛大学医学部、(右同2)同附属病院

 今回の高知愛媛旅行の最後に当たり当時と同じく伊予鉄松山市駅から電車で愛媛大学を目指しました。駅を降りて、こんな感じだったかなと歩き大学や附属病院の建物を見た瞬間、当時の感慨がよみがえりました。人生にやり直しはないし、歴史にもしもはないけれど、ここに入学したもうひとつの自分の人生というものに思いをはせたのでした。

Img_2163 Img_2162 (左写真3)愛大医学部南口駅、(右同4)伊予鉄電車

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2024年4月11日 (木)

宇和島城と内子座

 空けて4月11日です。一週間後はもうウィントフックに戻っているんだなぁと感慨深く感じます。この日の朝もホテルをチェックアウトするんですが寝坊して朝食を食べそこなった(笑)ためまずは食事ができるところを探します。港近くの道の駅があったので行ってみましたが残念ながらまだ営業時間外、仕方ないのでその向かいにあたマックに入りました。マックなんて日本的ではないイメージですが、実はナミビアにはないのでこれはこれでいいのかもしれません(大手ファストフードチェーンではナミビアには唯一ケンタッキーのみがある)。

 朝食後は宇和島城へ、ここも一昨日訪問した高知城と並び現存12天守のひとつで日本100名城でもあります。過去に何度か訪問していますが非常に味わいのある城郭です。宇和島城を建てたのは築城の名手と呼ばれる藤堂高虎ですが、実際に城主として江戸時代を過ごしたのは伊達政宗の庶長子の伊達秀宗を祖とする宇和島藩でした。宇和島伊達家としては幕末の藩主宗城が有名です。年度初めの平日ということでこの日の宇和島城は観光客も少なくのんびりと観光できました。この城郭は入り口から天守まで結構な登り坂が続くので大変ですが、本丸には葉っぱがかなり出てきたとはいえ桜の花が残っていたのは感動でした。

Img_2085_20240511171401 Img_2083 Img_2062 Img_2066 (左上写真1)宇和島城の上り立ち門、(右上同2)登城します、(左上同3)天守と石垣、(右下同4)現存天守

 宇和島城観光の後は一路北上し次の目的地内子町を目指します。内子は古くから大洲街道の要衝だったのですが、江戸時代から明治にかけて高品質な木蝋生産によって経済的に大いに栄えた町です。今でも当時の街並みが保存維持されていて、その通りは八日市道路として日本の道100選になっています。この日は街並みの散策に加えて、ここでの木蝋生産の様子がわかる上芳我邸や大正年間に建設され今に至るまで活用されている内子座も見学しました(内子座はまもなく耐震工事のため長期休館になるらしく、このタイミングで訪問しなければしばらく見られなかったもよう💦)。

Img_2105 Img_2103 Img_2106 Img_2116(左上写真5)内子町の八日町道路、(右上同6)日本の道100選の碑、(左下同7)内子座、(右下同8)同内部

 その後は再び北上して松山市内へ、この日は道後温泉の大和屋本店さんに宿泊です。日本酒が飲めるコーナーやミカンジュースがでる蛇口などもあっていろいろと楽しめる施設でした。特に大浴場はおそらく今回の帰国では最後の大浴場になることが予想されるため何度も入浴し堪能したのでした。

Img_2132 Img_2133(左写真9)地酒の飲み比べ、(右同10)鯛そうめん

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2024年4月10日 (水)

南予観光

 一夜明け4月10日になりました。この日も昨日に続き快晴の良いお天気です。ホテルの朝食後チェックアウトをしてまずは愛南町南部にある紫電改展示館に向かいます。紫電改は第二次世界大戦時の日本海軍の主力戦闘機のひとつで、陸軍の四式戦闘機「疾風」とともに大戦後期の苦しい戦況の中で活躍した戦闘機です。大戦初期の1000馬力級だったゼロ戦や一式戦「隼」を大きく上回る2000馬力級のエンジンを搭載した機体でしたが当時の日本の技術力では手に余るものがあり、整備が非常に難しく稼働率が低いなど問題を多く抱えた機体でもあります。それでも整備がうまく行った部隊などでは期待に違わない活躍を見せています。当館に展示されている機体は昭和53年に付近の久良湾に原型を保ったまま沈んでいた機体が引き上げられたもので、日本に存在する機体としては唯一のものです。今は何も言わず鎮座している紫電改を見て改めて戦争と平和について考えました。

Img_1921 Img_1912(左写真1)紫電改展示館、(右同2)海底から引き揚げられた紫電改

 紫電改展示館を後にして北上、まずは途中の須ノ川公園に立ち寄ります。ここは主にキャンプ場として利用されているところですが、平日の日中ということで誰もおらず、きれいな南予の海を眺望できるスポットでした。この後は津島町にある日本の道100選の南予レク道路を見てさらに北上、この日宿泊予定の宇和島市を通過して高知県との県境にある松野町に入ります。実はこの町には続日本100名城のひとつ河後森城と日本の滝100選のひとつ雪輪の滝があるのです(正直この日は100関連の場所ばかり観光していた)。

Img_1923 Img_1932(左写真3)須ノ川公園、(右同4)カメが!

Img_1942(写真5)あおさのりうどん

 途中寄り道をしたこともあり、この段階でお昼、まずは食事をということで松野町の道の駅へ、この日は海老天入りのあおさのりうどんになりました(あおさのりを練りこんだうどんが美味)。食事後はまずは河後森城へ、ここは戦国時代の山城跡で土佐と伊予の国境に位置する重要な拠点でした。ここを治めていたのは公家の一条氏の諸流の渡辺氏でした。名門であり当地の盟主的な存在だったのですが、土佐の長曾我部氏が勢力を拡張する中で城を追われてしまいました。後に豊臣秀吉による四国遠征が行われるとこの地には藤堂高虎が、江戸時代になると伊達家が治めるようになり、最終的に元和の一国一城令によって廃城になっています。山頂に本郭が、尾根筋に沿って多くの郭がU字型に設置されるなど典型的な山城ですが、使用されたのがむしろ安土桃山時代だったことから一部石垣のほか、櫓や天守もあったとされています。城跡としてよく整備されていて当時の姿を想像することができる場所でした。

Img_1943_20240509172801 Img_1968_20240509172801 Img_1976_20240509172801

Img_1977_20240509172801(左上写真6)河後森城案内図、(右上同7)郭がよく残っています、(左下同8)石垣、(右下同9)本郭

 河後森城の後は同じ松野町内の山の中に入っていきます。目指すは滑床渓谷と呼ばれるところです。途中から対向車が来ると怖いような狭い道が続きますが、幸い平日のためかほとんど出会うことはありませんでした。走ること30分で渓谷入り口にあるロッジに到着、ここから歩いて滝を目指します。ロッジの人からマップをいただきそれを見ながら歩いていきます。川に沿って渓谷を歩くというのは山梨の西沢渓谷や熊本の菊池渓谷をほうふつさせます。この日は往路を右岸、復路を左岸というコースを取ったんですが、結果的に正解でした(右岸は少しアップダウンはあるものの景色がよく、一方左岸は平坦だが渓谷が見えない地帯が続く)。約30分ほどで目的地の雪輪の滝に到着、豪快に落ちる滝ではなく、一枚岩を滑りながら水が流れる滝でした。水流が渦を巻く様が雪輪のように見えることからこの名があるそうですが、一方で夏のシーズンには天然のウォータースライダーが楽しめるんだそうです(要ガイド)。

Img_2019 Img_2033(左写真10)滑床渓谷、(右同11)雪輪の滝

 しばし滝を堪能した後は駐車場に戻りそのまま宇和島市内へ。駅近くのホテルにチェックインした後は地元の料理屋さんで鯛などの南予の美味しいものを堪能したのでした。

Img_2040(写真12)南予名物鯛の刺身

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2024年4月 9日 (火)

仁淀川周辺の観光

 一夜明け4月9日になりました。前日は雨も混じるいまいちな天気でしたが、この日は朝から抜けるような青空が広がっていました。朝食を食べてホテルをチェックアウト、そのまま歩いて高知城に向かいます。関ヶ原の戦いの論功行賞で土佐一国を与えられた山内一豊によって作られた城郭です。最初の日本100名城にも含まれる名城ですが、そちら目的での訪問はすでに2009年に済ませているので今回はまったりとした観光です。

 高知城は全国で12しかない現存天守を持つ城郭ですが、さらにすごいのが本丸が当時のままほぼ保存されているということです。すなわち天守だけではなく本丸御殿や詰門も残されています。内部は資料館的なものになってはいますが、木造のギシギシいう建物を歩くと、本当に昔の城郭に来たなと強く感じるのでした。

Img_1814 Img_1833(左写真1)大手門と天守を一望できるスポット、(右同2)高知城本丸

Img_1868(写真3)仁淀ブルーのにこ淵

 約1時間ほど見学した後は国道33号線を西に向かいさらに194号に折れて北上します。しばらく山の中を走ってこの日2つ目の観光ポイントに到着、仁淀ブルーで知られるにこ淵です。一条の滝と一面ブルーの滝つぼが織りなす絶景スポットとして名高い場所ですが、地元では聖地とされている大切な場所だそうです。年度初めの平日ということもあり、観光客の姿はまばらでしたが、おかげでこの素晴らしい光景をじっくり堪能できました(少なくともナミビアにはこんなブルーはない 笑)。

Img_1884_20240509152601(写真4)つがにそば

 にこ淵の見学の後は近くの道の駅で昼食、この日は当地の名産品(?)のつがにそばをいただきました。つがにというのは当地のモクズガニのことです。自分の業界ではモクズガニといえば寄生虫の中間宿主のイメージが強いのですが、もちろんこれは生で食べるわけではないので大丈夫です。本来はつがに汁の形で食されるようですが、ここではそばやうどんとして提供されていました。毛ガニやタラバガニといった海のカニとは違った微妙な苦みが旨いのでした。

 食事後はそこから15分ほど南に行った場所にある浅尾沈下橋へ。高知県内の河川には、欄干がなく増水時にはあえて水面下に沈めてしまう沈下橋が多くあります。かつてはそれだけ川の増水が頻繁で通常の橋だと流されてしまうことが多かったのだろうと思われます。近年はより高い場所に立派な橋が作られるケースが増えているため、こうした沈下橋の役割は縮小しつつはありますが、今でも多くが生活道路として利用されています。通常の水の時期ならば、徒歩で渡る分には心配ないのですが、自動車で渡る際にはかなり緊張するものがあります(そういえばパラオにもこうしたタイプの橋が結構あって、時々酔っ払い運転の現地人が落っこちるという話を聞いた)。

Img_1889 Img_1891(左写真5)浅尾沈下橋、(右同6)狭い橋です

 恐る恐る沈下橋を渡った後はさらに南下し佐川町へ。ここは昨年の朝ドラの主人公のモデル牧野富太郎博士の出身地です。佐川の地ももちろん土佐藩領の一部ではあるんですが、この地は藩筆頭家老深尾氏が治めていた場所で佐川はその城下町でした。そうした特殊な土地ということもあり、当地出身者には独特のプライドがあるのか、明治維新後結構有名な人物が排出されています。牧野博士もその一人ですが、ほかにも政治家の田中光顕や日本の土木業の基礎を作った広井勇などがいます。街並みなど非常に風情があり、ゆっくりと散策を楽しみました(やっぱりナミビアにはこういう場所はない 笑)。

Img_1897 Img_1901 Img_1903 Img_1910(左上写真7)佐川の街並み、(右上同8)藩校名教館、(左下同9)旧青山文庫、(右下同10)牧野博士の生家

 佐川町の街歩きを終えると後はひたすら西進、四万十川周辺や宿毛などほかにも魅力的な場所はありますが今回はスルー、一気に県境を越えて愛媛県愛南町に入ります。この日は愛南町のホテルにチェックイン、その後地元の居酒屋で夕食としました。

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2024年4月 8日 (月)

桂浜と牧野植物園

 私の休暇もいよいよ終盤になりました。このクォーターのメインはずばり国内旅行です。具体的には四国の高知県・愛媛県を回ろうという計画です。なぜ高知・愛媛なのかというと、北日本や北陸はまだ雪が多いというのと、四国特に愛媛県が47都道府県の中で私が最もご無沙汰している県だからです(最後愛媛県を訪問したのが2009年)。前夜品川に宿を取ったのも羽田に近いという理由からなのでした。

 4月8日早朝ホテルをチェックアウトして京急線で空港へ、チェックインはすでにネットで済ませているため荷物預けのみを行いそのままセキュリティを抜けます。出発ロビーで軽食の朝食を取り搭乗ゲートへ直行、高知行きの便は予定通り出発しました。約1時間半のフライトで高知龍馬空港に着陸です。荷物を受け取り到着ロビーに出るとレンタカーのカウンターに向かいます。係員に予約している旨を伝えるとそのまま店舗に送迎してくれました。

Img_1740(写真1)桂浜の龍馬像

 レンタカーで空港を後にしてまず向かうのは桂浜、高知観光の定番スポットです。私も過去に何度か訪れているんですが、最後に訪問したのがたしか2006年なので実に20年近く経っているのでした。そんな20年ぶりの桂浜、いったいどういう風だったか記憶もあいまいなまま階段を上ります。その先にあるのが巨大な坂本龍馬像、「うん、これは昔からあった」と納得です。そして目の前に広がる桂浜の風景、昔から月の名所とされ、旧制高知高校の豪気節に ♪桂の浜に星が飛ぶ♪ と歌われた光景は確かに昔見た景色です。「やっぱり変わっていないんだなぁ」と感慨に浸りながら浜を歩きました。途中桂浜水族館にも立ち寄りましたが、こじんまりしたローカル感満点の水族館も昔ながらと感じます。

Img_1775 Img_1743(左写真2)桂浜の碑、(右同3)月の名所です

 こうして20年の月日が過ぎてもここは変わらないのかと思いながら最後にお土産物屋さんがあるところに行くと… なんと、かつて浜茶屋のような古い小型店舗が密集していたところがきれいに無くなり、近代的なお土産センターになっていました。変わっていないように見えてもしっかり変わっているようでした(あと昔あった闘犬センターも無くなっていました)。お土産物を覗いた後はお昼時間、この日はそのお土産センターの一角にある貝焼き屋さんうみさちで、貝てんこ盛りのうみさちラーメン特上をいただきました。あっさりしたラーメンで美味しかったです。

Img_1777 Img_0011(左写真4)貝焼きやうみさち、(右同5)貝いっぱいのラーメン

 桂浜を後にして次に向かったのは、市内南東の五台山にある牧野植物園です。ここは2023年上半期の朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルとなった植物学者牧野富太郎博士の功績を顕彰して1958年(昭和33年)に開園した植物園です。私が生まれ育った北海道・北東北では冬に植物という印象は無いんですが、ここ南国土佐では四季折々何らかの植物が茂っています。ここは約8ヘクタールの広大な敷地に3000種類以上の植物があるそうです。我々が訪問した時間帯からやや雨模様になってきたため園内を歩くのにやや苦戦しましたが、それでもたくさんの植物を見学することができました。

Img_1780 Img_1782 (左写真6)牧野植物園、(右同7)花が咲いています

 植物園見学の後は高知市内に入りホテルにチェックイン、一休みした後夕食に繰り出します。この日は雅という料理屋さんで地元のお酒を堪飲みながら、鰹の塩たたきやはらんぼ(鰹のハラミ)の塩焼き、土佐鴨鍋といった土佐料理を満喫しました。いやぁ~やっぱり日本は食べ物が美味しいです。

Img_1794 Img_1796 Img_1798 Img_1797_20240430201701(左上写真8)土佐の地酒、(右上同9)鰹の塩たたき、(左下同10)はらんぽ焼き、(右下同11)土佐鴨鍋

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2024年4月 7日 (日)

野球観戦と音威子府そば

 初島&医師会合唱団の4月6日から一夜明けた4月7日は日曜日、この日は朝から快晴のお天気でした。小田原のホテルをチェックアウトして新幹線で東京に向かいます。宿泊予定の品川のホテルに荷物を置いてちょっとした用事のあった板橋へ、ここでのミッションはすぐに終わりそのままJR板橋駅前にある新選組の供養塔に行きました。新選組愛好家としては外せない場所ですが、ここはいつ来ても感慨深いものがあります。

Img_1706 Img_1708(左写真1)板橋の新選組の碑、(右同2)近藤勇の像

 板橋を後にしてその後は電車で神宮球場に行きました。目的はこの日ここで開催されるヤクルト-阪神戦の観戦です。帰国したらナミビアでは味わえないものを堪能しようと考えていたんですが、野球観戦もその一つです(そもそもナミビアには野球が存在しない)。この日は近くの東京ドームでもプロ野球の試合があったんですが、元々ヤクルトが贔屓球団だったこともあり文句なしに神宮にしました。座席は当然ヤクルト側なんですが、スタンドをみるとレフト・三塁側はもちろん、バックネット裏ですら黄色い格好の人たちであふれています。ここはスワローズのホームなんだけどなと思いながらも、かつてヤクルトの監督だった故・野村克也さんが「ヤクルトのファンだっておるんや」と言っていたのを思い出しました。

 黄色い球団のファンは熱狂的な人が多いのですが、私を含めスワローズファンは目先の勝敗よりも「どうせスワローズは10年に1回は優勝するからまあいいや」と達観したところがあるのか、勝っても負けてもあまり騒がしくないイメージがあります(私が生まれた1966年以降でカウントしてみてもヤクルトの優勝回数9回は広島と並んでセリーグ2位である)。スワローズといえば優勝する年以外はほぼBクラスという極端さがあるんですが、今年は今のところどうなるか… とはいえ私が観戦したこの日は見事勝利を収めました。試合中に電光板に「相手チームや選手に対する汚いヤジや替え歌はやめましょう」みたいなアナウンスが出ていました。昭和の頃の球場は酔っ払いの汚いヤジが定番で(特にパリーグの試合は観客も少なかったためこうしたヤジが球場にこだまするのが風物詩だった)、特に不快感も感じなかったんですが、そういえばあれはあくまで個人が騒いでいるだけなので、近年のような応援団が組織的に相手を侮辱するような替え歌を歌うのとは全く次元が違う話だよなと時代の変化を感じました。

Img_0008 Img_0010(左写真3)神宮球場、(右同4)ビジターのファンの方が多いです(笑)

 スワローズ勝利の余韻に浸りながら神宮外苑を歩きます。いつの間にか東京の桜も盛りを過ぎて葉っぱが出始めているようでした。となりの国立競技場から大歓声が聞こえます。どうやらこの日はJリーグの試合も行われているようでした。

Img_1717 Img_1718(左写真5)神宮外苑、(右同6)徐々に葉桜に

 夕闇の神宮外苑から徒歩で四ツ谷方面へ、今回の帰国に当たり必ず行こうと考えていたお店がいくつかあるんですが、そのうちのひとつが音威子府TOKYOさんです。駅そば好きには有名な北海道音威子府の真っ黒な蕎麦です。かつては現地に行かないと食べられないある意味幻の蕎麦でしたが、2019年にこのお店ができたことでアクセスが格段に容易になりました。ただ蕎麦を提供していた音威子府の畠山製麺さんが閉店したため、その後どうするのかと心配していましたが、新・音威子府そばを開発提供するなど新しい道を模索しているところです。この日も日本最北の酒蔵国稀のお酒や北海道の食材をしつつ、最後はお蕎麦で締めました。とりあえず目的は果たしたという満足でいっぱいでした(日本にいた頃も結構通っていたのでお店に人にも顔を覚えられていた)。

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(左写真7)季節の天ぷら、(右同8)音威子府と新得の合い盛り

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2024年4月 6日 (土)

初島と医師会合唱団

 一夜明けて4月6日になりました。この日は夜に小田原時代にメインで活動していた合唱団のひとつである小田原医師会合唱団の練習にお邪魔することになっているんですが、日中は特に予定もないのでこれまでまだ行ったことがなかった場所のひとつ、熱海沖合に浮かぶ初島に行くことにしました。小田原駅から普通電車で熱海へ、そこからバスで桟橋に向かいます。時刻表だとフェリーの出発時間ぎりぎりで果たして乗れるのかと心配していたんですが、まあその辺はバス会社と船会社が阿吽の呼吸なのか、問題なく乗り継げました。

 バスからの乗り継ぎ客を乗せて船は出航、甲板上にはたくさんの鳥がやってきていて、客が持ち込むスナック菓子をねだっていました。

Img_1662 Img_1657(左写真1)初島行きのフェリー、(右同2)たくさんの鳥が

 20分ほどであっという間に初島に到着、下船後は船着き場にある島の概要図を見て、まずは島を時計回りに一周してみることにしました。最初は浜茶屋のような食堂が立ち並ぶ地帯を通過、その後は左手に海を見ながら進みます(この辺の海がなんか東映のオープニングっぽい)。江戸時代の採石場跡を見ながらしばらく行くと、しゃれた感じの空間が出現、ここはアジアンガーデンというホテルの一施設のようでした。入場料が必要ということでしたがせっかくなので入ってみることに、南国ムード満点の庭が広がりビールやカクテルなどもいただけたのでしばしここで寛ぎました。

Img_1670 Img_1693 Img_1676 Img_1678(左上写真3)江戸時代の採石場、(右上同4)島の桜、(左下同5)アジアンガーデン、(右下同6)カクテルを頂きます

 その後は初島灯台や第二漁港(ここでグラスボートツアーが出ているという噂だったがこの日は休みだった💦)を見学、周囲にはこの辺でもぼちぼち咲き始めた桜がきれいでした。

Img_1696(写真7)この日食べた海鮮丼

 こうして島の一周が完了、ちょうどお昼時間だったので例の浜茶屋地帯の一件で海鮮丼をいただきました。一般に海鮮丼といえばエビやイクラなどカラフルな色彩のネタが乗っているパターンが多いんですが、ここの海鮮丼は地魚の地味な色彩、けどけれもまた旨いんだよなと感じました。食後は再びアジアンガーデンに行って(ここは一度チケットを購入すると再入場可能)まったりと時間をつぶしました。そして夕方の船で熱海へ、バスと電車を乗り継いで小田原に戻ったのでした。

 小田原ではホテルで少し休んだ後、小田原医師会合唱団の練習会場へ、懐かしい顔ぶれに出会って大感激でした。こちらの合唱団は今年10月の定期演奏会に向けて絶賛練習中、今回はCM特集ということで「積水ハウスの歌」も練習しています。実はこの作品、以前に私が指揮者の先生にどうですかと楽譜を紹介したものです。それから何年経ったのか忘れましたが、こうして日の目を見たのは本当に嬉しかったです。この日は練習後私たちのために懇談の時間を設けてくださいました。こうして離れても温かく迎えてくれる仲間に感謝、今年の演奏会は無理でも、来年は休暇をやりくりして参加できないかなと思ったのでした。

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2024年4月 5日 (金)

小田原でうなぎを食べる

 3月30日の東京訪問が休暇の折り返し点だったので、ここからは後半に入ります。第3クォーター前半はKとは別行動、私は仕事上の用事で西日本に滞在していました。そして4月3日に実家の盛岡に戻り、翌4日はナミビアに戻る際に持っていく物品(ほとんど食材ですが 笑)の購入に精を出しました。そして5日はまたまた新幹線に乗って関東へ(それにしても今回の休暇でJR東日本にはかなり貢いでいる 笑)。今回の目的はナミビア異動前に住んでいた小田原を訪問することです。

Img_1329 Img_1318  東京駅で新幹線を乗り継ぎ小田原駅で下車、駅前のホテルに荷物を置いてそのまま自分の前任地へ。ここでは元同僚にあいさつのほか、各種必要な医薬品を処方してもらうのがメイン目的でした(ナミビアでは日本のようにいろいろな薬が手に入るわけではない)。その後市内の戻りゆっくりして夕方にバスで国府津へ、帰国したら絶対に食べたいと考えていたものの一つがウナギなんですが、この日は国府津にある「うな和」さんを訪ねることにしました。このお店、前任地時代のコロナ前には”医局会という名のランチ”で時々うなぎ弁当として食べたことがあったお店なんですが、店舗で食べるのは実は初めてでした。

 この日は白焼きとうな重のコース、口の中に入れるととろけるような食感で、やっぱりうなぎは最高だなと実感したのでした。

Img_1649 Img_1654(左)白焼き、(右)うな重

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