新田義貞の側室の墓
小田原駅周辺から国道1号線箱根方面へは休日を中心に交通量が多く、時に大渋滞になることもあります.そんな場合の抜け道として地元民が利用しているのが小田原駅新幹線口付近城山地区の山間部を通って国道1号線の風祭入生田地区に抜ける裏道です.私も時々利用する道なんですが,その途中に以前から気になっていた看板がありました.
新田義貞の側室妙貞尼の墓と書かれています.
新田義貞は鎌倉時代末期から南北朝時代初め頃の武将で,上野国新田荘(今の群馬県太田市や桐生市の辺り)を本拠にした御家人です.後醍醐天皇による討幕運動である元弘の乱において天皇方に付き,足利尊氏とともに鎌倉幕府打倒の立役者となりました(義貞,尊氏ともに当初は幕府方で戦っていたが,途中で寝がえり尊氏は京都の六波羅探題を攻略し,義貞は鎌倉を攻めて北条得宗の北条高時を討った).
その後の建武の新政下において次第に足利尊氏と対立するようになり,尊氏が反旗を翻すと義貞は事実上の総大将としてその討伐に参加しました(名目上の大将は尊良親王).各地で起こった足利軍との戦いは徐々に劣勢になり,延元三年(1338年)越前藤島(今の福井市)で討ち死にしました.そんな新田義貞の側室の墓がどうしてここに!という感じがします.以前から気になっていましたが,時間があったので行ってみました.
看板の脇にあるあぜ道のようなところを歩いていきます.しばらく歩いていくと,ほとんど獣道のような感じに… 本当にお墓なんかあるのかと不安になる頃,前方に何やら看板のような人工物が見えます.なんとかそこまで行ってみると…
ありました.新田義貞の側室妙貞尼のお墓です.途中の道のレベルとは全く違う立派なお墓でした.
傍にあった碑文を読むと,妙貞尼は上野国の豪族澤保氏の娘とのこと.義貞と妙貞尼の間に生まれたのが原澤将監といい,今の群馬県にある原澤家の祖になるのだそうです.このお墓も原澤家の子孫の方が建てたもののようです.
それにしてもそんな人物のお墓がなぜここにあるのか.義貞は建武二年足利尊氏討伐のため東下し,箱根・竹之下の戦いに参加しています.もしかしたらその際に同行していてここで亡くなったのかもしれません.戦場に側室を連れてくるんだろうかという疑問もありますが,あるいは元々この地にいたのが,やってきた義貞に見初められたのかも).いずれにせよどのような人生を送ったのか,ネットで調べてもほとんど情報の出てこない人物でした.
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