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2021年12月14日 (火)

元禄赤穂事件

Chushingura_20201215114601  今日12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日である.旧暦の元禄15年(1702年)12月14日(正確には12月15日未明),元播州赤穂藩家老大石内蔵助以下の浪士四十七人が,本所松坂町の吉良邸を襲撃,吉良上野介義央の首級を挙げた事件である.国内最後の大きな争乱となった島原の乱からすでに65年,太平にすっかりなれた元禄時代の人々に大きな衝撃を与えた一大武装闘争事件である.現在ではその前年3月に起こった江戸城松之大廊下で発生した刃傷事件と併せて赤穂事件(元禄赤穂事件)の一局面とされている.歌舞伎仮名手本忠臣蔵の題材になった事件でもあり,現在でも非常に有名である.NHKの大河ドラマ(H.11年の元禄繚乱,S.57年の峠の群像など)や民放の年末時代劇などでもしばしば取り上げられている.ただ非常に有名な事件でありながら,一方で謎の多い事件でもある.

 まず討ち入りの前提になった,前年元禄14年3月14日の江戸城松之大廊下での刃傷事件から謎に満ちている.第一の謎はなぜ浅野内匠頭長矩があの日松之大廊下で刃傷に及んだかである.一応,浅野が「この間の遺恨覚えたか!」と叫んで,吉良上野介に切りつけたことになっているのだが,江戸城内で刃傷事件に起こすことがどれほど重大なことか,長矩が知らないはずはない.もし本当に切りつけたいほどの遺恨が過去にあったのなら,もっと人がいない場所を狙うとかやり方があるはずだ.にもかかわらず江戸城のしかも重要な儀式(朝廷からの勅使をもてなす儀式)が行われている最中に事件を起こしたのだから,浅野長矩は我を忘れるほど激昂していたことになる.仮に松之廊下で吉良と浅野が言い争いをしていて,興奮した浅野が切りつけたというならまだ話はわかる.しかし実際には浅野は不意に吉良に切りつけている.つまり事件直前に浅野が我を忘れてしまった理由が不明なのである(外で何かがあり,怒った浅野が吉良のもとに飛んでいって切りつけたわけでもないようだ).

 第二に動機である.巷では勅旨供応役を拝命した浅野が指南役だった吉良に賄賂を送らなかったために意地悪をされたとか,赤穂と吉良の塩をめぐる争いだとか言われているがそれを示す証拠はないようである.結局この刃傷事件は動機もはっきりせず,単に浅野長矩が錯乱して斬りつけただけだったという説もある.

 しかしこの刃傷事件の結果,赤穂浅野家は改易となり,藩士は路頭に迷うことになった.江戸時代の大名家というのは企業のようなもので,改易になるということは会社が倒産することとイコール,従業員たる藩士は失業してしまうからだ.戦国の世で戦で死ぬ時代なら他家に仕官するのも容易だったが,太平の江戸時代になると失業した藩士の再就職は容易ではなかった.

 その後紆余曲折を経て,翌元禄15年12月14日の討ち入りに至るのだが,ここにも謎はある.刃傷事件の後同年8月に吉良が突然幕府から屋敷の移転を命ぜられていることだ.元々吉良邸は江戸城に近い呉服橋(JR東京駅付近)にあったのだが,この命令で本所松坂町に転居となった.ここはJR両国駅の近くで,今は都心の一部だが,当時は江戸のはずれの雰囲気で,かなり寂しい所だったらしい.これは何を意味するのか.直前に吉良義央は隠居しており,隠居に伴う移転ということも考えられる.しかし旧赤穂藩士の襲撃がウワサされている時期でもあり,幕府が討ち入りをさせるためにわざと転居させたのではないかとも取れるのである(郊外であれば他人の目にも触れにくい).結局当日浪士たちは,幕府の捕り方に誰何されることもなく,吉良邸討ち入りを行うことができたのであった.

 ちなみに浅野=善玉,吉良=悪玉という構図は後の仮名手本忠臣蔵によって確立した概念であり,必ずしも史実ではない.これは「三国志演義」を読んでも歴史としての三国志を理解したことにはならないし,「燃えよ剣」から新選組の真の姿は見えてこないのと一緒である.実際には地元赤穂の領民の間での浅野家の評判は芳しくなく,逆に吉良上野介の領地での評判は良かったらしい.近年(平成後半期)メディアでも赤穂浪士を取り上げる頻度が激減しているは歴史上の人物をフィクションによる単純な善と悪という色分けで描くことに批判があるからではないかと思われる.

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