加藤の乱
当ブログでは普段あまり政治的な話題は取り上げないのだが今日は特別に.
政治の世界,とりわけ国会では普段与党と野党が議論を戦わせているが,時に与党内で政争と呼ばれる大きな騒動(内輪もめ)が起こることがある.特に内閣の支持率が低い時に,党の有力者間での対立が起こったりするとそれが発生する確率が高くなる(逆に内閣支持率が高い時にはまず起こらない).わが国で政党政治が始まって以来何度もこの手の事件が起こっているが,その中でも比較的新しく,しかもメディアでその様子が一般大衆に晒された事件として有名なのが,2020年11月20日にそのクライマックスに至ったいわゆる加藤の乱である.
これは当時,様々な失言や閣僚のスキャンダルで支持率が10%台に低迷していた森喜朗内閣へ野党が提出する予定の内閣不信任決議案に関して,当時の自民党の有力者だった加藤紘一氏が自らの派閥を率いてこれに賛成すると宣言し,盟友だった山崎拓氏もこれに同調した結果発生した事件である.
内閣不信任決議案は議会では少数派である野党側が提出するものであり,多数派である与党側が結束して反対すれば基本的に成立することはない.しかし前述のように与党内で政争が起こっている場合には時として成立してしまうことがある.たとえば1980年5月の大平内閣時には当時の社会党が提出した不信任案に対して,自民党の反主流派が大挙して本会議を欠席する事態になったために可決成立しそのまま解散総選挙になった.また1993年6月の宮澤内閣時には当時自民党最大派閥だった経世会(竹下派)が小渕派と羽田派に分裂し,直後に非主流派となった羽田派の面々が賛成票を投じたために不信任案が可決され同じく解散総選挙になっている.
2000年秋もそうした展開になりそうな雰囲気で世間の注目を集めたが,自民党内の主流派からの激しい切り崩し工作を受けたことに加え,肝心の加藤氏が最終的に本会議を欠席する方針に切り替えたことから結局不信任案は否決され,乱は失敗に終わった.世間ではこうした反乱を起こす以上,加藤氏とその同志は自民党を離党するだろうと見ていたが,加藤氏にはその考えはなかった(過去に自民党を離党したグループが一時的には支持を集めてもやがて失速していった事例が多いことからとのこと).このため結果もし仮に不信任案が可決され解散総選挙となった場合,反乱を起こした加藤派のメンバーは自民党からは公認されず,かといって野党側から出ることもできず苦しい選挙戦になることが予想された.このため加藤派内には動揺が広がり,結果自民党執行部による切り崩しが成功したと考えられている(特にこの時期にはすでに現在の小選挙区比例代表並立制が確立しており,よほどの地盤を持つもの人物でなければ政党のバック無しでの当選が難しくなっていた).2000年11月20日夜,乱の失敗を受けて切り崩されなかった加藤派と山崎派のメンバーが合同議員総会を開き,席上一人で本会議に出席し不信任案に賛成票を投じると宣言した加藤氏に対して同派の幹部である谷垣禎一氏が肩をつかみながら遺留し,加藤氏が涙を浮かべるシーンはテレビ中継されこの事件を象徴する場面として知られている.
当時加藤氏は党内第2派閥の領袖として自民党次期総裁の有力候補とみられていたが,この乱の失敗により総裁候補から脱落,さらに2002年に事務所の政治資金問題が起こり,その責任をとる形で離党および議員辞職に追い込まれた.その後国政復帰したものの往年の影響力はなく2012年の総選挙で落選しそのまま政界引退となった.
ちなみに現総理大臣の岸田文雄氏と前総理大臣の菅義偉氏はともに加藤の乱の際切り崩されなかった(すなわち加藤氏とともに本会議を欠席した)加藤派の衆議院議員である.乱から20年の時を経ているとはいえ,当時政権与党内で造反行動を取ったメンバーが国政の中枢を担っているということに深い感慨を覚えたのだった.
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