レイテ決戦
今日10月20日は何かの日だったなぁ,なんだっけ?と思って調べてみたら,太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)のこの日にマッカーサー率いるアメリカ第6軍がフィリピン・レイテ島に上陸,世にいう「レイテ決戦」が始まった日だった.同年6月のマリアナ沖海戦に敗れ,サイパン島やグアム島などの中部太平洋諸島を喪失した日本軍は,次期作戦としてアメリカ軍が次に侵攻してくる地域において一大決戦を挑むという方針を立てた.これが捷号作戦で,米軍の侵攻場所に応じて捷一号(フィリピン),捷二号(台湾),捷三号(内地),捷四号(北海道)とされたが,大方の予想はフィリピン(捷一号)だった.
捷一号作戦のポイントは米軍が来寇する地点をフィリピン中南部と予想し,同地点に来襲した時点で海空兵力を結集して決戦を挑むというものである.陸上兵力は同地域での決戦には参加せず,万一フィリピン中南部を突破された場合に北部のルソン島において迎え撃つことになっていた.フィリピンは大小7000もの島々からなる島嶼国家であり,敵も船に乗ってやってくること,当時船舶事情が厳しくなっていた日本軍にとってフィリピン中南部で陸上兵力を機動的に運用するのは困難になっていた事情を鑑みれば極めて妥当な作戦と思われた.
1944年10月10日から11日にかけて沖縄ついで台湾が空襲を受けた.アメリカ機動部隊が台湾沖にいることを確信した海軍は直ちに所在の第二航空艦隊に攻撃命令を出した.こうして発生したのが台湾沖航空戦で,第二航空艦隊は12日から16日にかけて連日アメリカ機動部隊に攻撃を加えた.そして大本営海軍部は10月19日に「敵空母11隻撃沈,8隻撃破」という大戦果を発表した.もしもこれが事実ならアメリカ機動部隊は文字通り全滅である.この大戦果発表に国民は沸き返り,天皇からはお褒めの勅語まで発せられた.
ところがこの大本営発表の翌日,10月20日に突如アメリカ軍がフィリピン・レイテ島の東岸に上陸を開始したのである.つい先日の台湾沖航空戦で壊滅的損害を受けたはずのアメリカ軍がレイテ島にやってきたという事態に,当該地域に布陣していた陸軍第16師団は驚き,直ちに上級司令部に報告した.種明かしをすれば,台湾沖航空戦の戦果は全くの誤りで,アメリカの空母は1隻も沈んでいなかった.どうしてこんなことになったのかというと,この時の攻撃が専ら夜間&薄暮に行われたからである.昭和19年段階になると米軍の防空システム(対空砲火や迎撃戦闘機)は格段に進化しており,普通に昼間に攻撃をしても大して戦果を挙げられなくなっていたのだ(このことは同年6月のマリアナ沖海戦ですでに明らかになっていた).夜間や薄暮での戦果確認は困難である.実際には炎上墜落する味方機の火柱を敵艦轟沈と誤認したり,複数のパイロットが視認した火炎をそれぞれの戦果として積み上げていった結果が上記の大本営発表だったわけである.ただ海軍側も大戦果を挙げた割には敵機動部隊の活動が継続していることから戦果に疑問を持ち,なんと10月17日頃には実際の戦果は大したことがないことに気づいていたらしい(戦果が上がっていないとわかった後に大本営発表をしたわけである!).間違っていたなら「間違っていた」と訂正すればよいのだが,この時海軍は陸軍や政府にもその事実を伝えなかったのである.
海軍が真実を隠したことで捷一号作戦は予想外の展開を見せた.現地部隊からの報告を受けた南方軍司令部(主として太平洋方面の陸軍を統括する総軍.総司令官は寺内寿一元帥)では,機動部隊を失った米軍がレイテ島にやってきたのは正気の沙汰ではないと断じ,この上陸部隊を撃滅すべく作戦の変更を決意した(彼らは選挙を間近に控えたルーズベルトが,戦果を焦って敗残の米軍を無理にレイテに突っこませたと考えたらしい).これまでの「陸軍はルソン島でのみ戦う」という方針を捨て,陸海空の総力をレイテにつぎ込んで戦うことにしたのである.
しかし海軍が何も言わなかったとはいえ,陸軍内にも海軍の戦果に疑問を持っていた者もいた.当時フィリピン防衛の任に当たりマニラに司令部を置いていた第14方面軍司令官の山下大将は,米軍の艦載機の活発さから海軍の戦果は間違いではないかと考えていた.このため急なレイテ決戦への方針転換には反対で,その旨を南方軍に具申した.しかし総司令官の寺内元帥はこれを却下,かくしてレイテ決戦が強行されることになった.
一、驕敵撃滅の神機到来せり。
二、第十四方面軍は海空軍と協力し、成るべく多くの兵力を以ってレイテ島に来攻する敵を撃滅すべし。
公文書に驕敵,神機などという用語が出てきたのはおそらくこれが最初であろう.いかにこの時の総軍幹部が舞い上がっていたかがうかがえる.
10月下旬当時レイテ島に展開していた陸軍は第16師団2万人のみであり,レイテ決戦への方針変更がなされた時,すでに米軍の攻勢で沿岸の陣地を突破されていた.しかし通信事情が悪かったため上級司令部はこのことを把握できていなかった.こうした中第14方面軍はただちにレイテ島への増援作戦(多号作戦)を開始するが,アメリカ機動部隊が健在の中強行された増援作戦は米軍の迎撃を受けて撃沈される船舶が続出した.この際,兵員は着の身着のままでかろうじて上陸できたケースが多かったが,各種大型火砲や弾薬,食料等の軍需物資の大半を失うことになった.こうして日本軍は泥沼のレイテ戦に突入することになったのである.
レイテ戦は約2か月後の12月下旬には組織的な戦闘が終結し,以後は米軍による掃討戦となった.残存の日本軍は島からの脱出もできず,食料弾薬もないまま飢餓やフィリピン人ゲリラの襲撃に苦しめられながらの戦いを強いられた.結局昭和20年8月15日の終戦までに約8万人の将兵がレイテ島で亡くなったが,その大半が餓死だったといわれている.
太平洋戦争で悲惨な戦場としてガダルカナル島の戦いやインパール作戦が知られているが,実はこの2つの戦いは生還者も意外と多い(だからこそ悲惨な実相が今に伝わっているわけである).しかしレイテ島の戦いでは生還者がほとんどおらず,各部隊の最期がどのようなものだったのかもわかっていない(第16師団の牧野師団長,第26師団の山県師団長など首脳級の人物も多く亡くなっているが,その最期も不明な点が多い).
このように台湾沖航空戦の戦果の誤認に基づき強行されたレイテ決戦は大失敗に終わり,急な作戦変更で貴重な船舶や本来ルソン島に蓄積するはずだった多くの軍需物資も失った.昭和20年1月からはいよいよルソン島の戦いが始まるが,もはや米軍と正面切って戦う戦力は残されておらず,山下大将はルソン島北部の山岳地帯に籠っての持久戦を指揮することになった.このようにレイテ戦は日本が敗戦の坂道を一気に転げ落ちていく端緒的な戦いになったのである.そんなことを考えた令和3年10月20日だった.
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