満州某重大事件
今日は6月4日,今から31年前に北京で天安門事件が起こった日として知られます.当時民主化を求めて集まっていたデモ隊に中国人民解放軍が武力介入し,多数の犠牲者を出した事件です.世界中に衝撃が走り,中国は国際社会から強い非難を浴びました.
この事件が起こった日,私はたまたま仙台の友人の家に滞在していたんですが,この時ニュースに度々登場したのが北京飯店です.市内にある高級ホテルで,当時日本からの特派員や駐在員の多くがここに滞在していたからです.ただ当時は(今もかもしれませんが)飯店という用語が中華圏でホテルの意味であることが知られていなかったこともあって,テレビを見ていた友人が「北京飯店って中華料理屋じゃないのか?」と言っていたのが強烈に印象に残っています(笑).
そんな6月4日ですが,今から98年前の1928年(昭和3年)のこの日に同じ中国大陸で地味に大きな事件が起こっています.それが表題の満州某重大事件です.これは当時の日本政府内で使用されていた用語で,世間的には張作霖爆殺事件の名で知られています.
1911年の辛亥革命後,清は国民党政府による中華民国として生まれ変わったとされていますが,実際には国民党政府の力が全土に及んでいたわけではなく,地方には軍閥が割拠するという混乱の中にありました(三国志や唐末期みたいな感じ).こうした地方軍閥の中でも有力だったのが満州の奉天(現瀋陽)を拠点にしていた張作霖で,1920年代にはしばしば軍を南下させ北京や揚子江付近まで進出していました.この張作霖を支援していたのが日本の関東軍です.1904~1905年の日露戦争に勝利し満州の権益を手に入れた日本でしたが,続く第1次世界大戦後の民族自決の国際世論の中では,なかなか表立ってそれを強化することができませんでした(特に当時中国大陸に足がかりがなかったアメリカの警戒が強かった).そのため日本としては満州の有力軍閥である張作霖を支援して,彼を利用することにより間接的に満州の利権を独占しようと考えていたのです.
しかし張作霖は次第に日本の思惑通りに動かなくなり,逆に当時日本との対立が芽生え始めていたアメリカやイギリスに接近し始め,逆に日本の権益を脅かすようになったため,日本の関係者は彼を見限ります.そして1928年に入り,ほかの軍閥を支配下におさめて力を付けた国民党の蒋介石による北伐が本格化すると,国民党軍との戦いを避けて北京から満州に帰還することになりました.この帰還途中だった張作霖の乗った列車が奉天郊外で爆破され,暗殺されたのが事件の概要です.
当初は敵対していた国民党軍による犯行とされていましたが,その後関東軍の高級参謀河本大作大佐による謀略であったことが判明しており,後に頻発する関東軍独走の端緒的な事件となりました.この事件によって当時の田中義一内閣が倒れるなど日本の政治にも大きな影響を与えました.しかしながら首謀者とされる河本大佐は軍法会議にかけられることもなく予備役となって軍を離れたのみで,その後は満鉄(南満州鉄道)関連の役員として大陸で活動し続けたと言われています.
そんな事件もあった6月4日でした.
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