今日は夏至,北半球では1年でもっとも昼の長い1日である.逆に言えば明日以降冬に向かってどんどん日が短くなっていくことになる.
そんな夏至は昼が長いこともあり,世界史的には大軍を動かす大きな戦いが起こる時期である.振り返れば古代ローマ末期にアジアから西進してきたフン族と西ローマ・ゲルマン連合軍が戦ったカタラウヌムの戦いが451年の6月20日に起こった.また有名なナポレオンのロシア遠征が1812年6月23日,ナポレオンの敗退が確定したワーテルローの戦いが1915年6月18日,第二次世界大戦の独ソ戦の開始であるバルバロッサ作戦が1941年6月22日,同大戦のソ連側の大規模な反撃であるバグラチオン作戦が1944年6月22日に開始されている.日本史方面では明智光秀が織田信長を討った本能寺の変が1582年6月21日(天正10年6月2日)だし,応仁の乱も本格的な戦いが始まったのは1467年(応仁元年)のこの時期である.
一方この時期に海上で発生した大きな戦いといえば,今から76年前の1944年(昭和19年)の6月19日,西太平洋において日米の機動部隊がぶつかった,いわゆるマリアナ沖海戦(アメリカ側呼称はフィリピン海海戦)がある.海戦に先立つ4日前の6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸したのを受けて,上陸軍の護衛として進出しているであろうアメリカの機動部隊(第58任務部隊)に対して日本の機動部隊(第1機動艦隊)が決戦を挑んだものである.
実は日米の機動部隊同士が直接ぶつかるのは1942年10月の南太平洋海戦以来1年8か月ぶりのことだった.1942年中は5月の珊瑚海海戦をはじめとして,合計4度にわたって空母同士による海戦が起こるなどしのぎを削った日米両海軍だったが,一連の戦いにおいて双方とも消耗が激しく,1943年1月にガダルカナル島の戦いが終結して以降はその再建に取り組むことになった(もちろん残る少数の空母も各地での作戦には従事はしていた).アメリカ側は1943年後半以降エセックス級空母が続々と就航し戦力の充実が著しかった.一方の日本側は新造された空母は大鳳のみだったが,他艦種を改装した空母を多数取り揃えていた.
こうして1944年6月19日にマリアナ沖に集結した機動部隊はアメリカ側が空母15隻,艦載機891機に対して日本側は空母9隻,艦載機498機だった.数的に日本はアメリカの半分強だったが,一方でサイパン島やテニアン島といった陸上基地にも航空部隊を有しており,これらと連携することで十分に対抗できると考えられていた.さらにこの戦いで日本側は俗にアウトレンジ作戦と呼ばれる戦術を採用した.これはアメリカ機に比べて航続距離の長い日本機の特徴を生かした戦法で,アメリカ側がこちらを攻撃できない距離から先に攻撃を仕掛けるというものだった.アウトレンジを成功させるためにはともかく,敵を先に発見しなければならない.日本の機動部隊は6月18日から盛んに索敵機を飛ばしてアメリカ艦隊の居場所を探した.結果,6月19日早朝ついにアメリカの機動部隊の発見に成功した.一方のアメリカ側はまだ日本艦隊の居場所は発見できていない.日本側はただちに攻撃隊を発進させ,アメリカ機動部隊の攻撃に向かった.この時司令部では勝利を確信した幕僚が多かったらしい.
(写真左)海戦時の旗艦空母大鳳.(同右)空母瑞鶴,マリアナ沖海戦を生き延び,4か月後のレイテ沖海戦で沈んだ.この2枚はともに我が押し入れに収納されていた連合艦隊
しかしながら作戦は日本の思惑通りには進まなかった.この時アメリカ側はレーダーによって,日本の攻撃隊の接近を察知していた.また彼らは未だ日本艦隊を発見できていなかったことから,手持ちの戦闘機をすべて迎撃に当てることができた.この時のアメリカの戦闘機は新鋭機のF6Fヘルキャットであり,総合力で日本の零戦を凌駕していた.彼らは日本の攻撃隊がやってくる方向に,より高い高度で戦闘機を待機させていた.結果待ち伏せされた形となった日本の攻撃隊は大きな被害を受ける.なんとかこの攻撃をしのいだ一部の攻撃隊がアメリカ機動部隊に殺到したが,今度はすさまじい対空砲火に晒され,次々と撃墜されていった.この頃からアメリカの高射砲にはVT信管と呼ばれる新型の信管が使われており,砲弾が飛行機に直接命中しなくても,付近を通過した時点で爆発し被害を与えられるようになっていたのである.
一方,アメリカ機動部隊は日本艦隊を発見できていなかったが,彼らの潜水艦は日本空母の動向を探っていた.6月19日日本側が攻撃隊を発進させた直後,アメリカの潜水艦が日本艦隊に接近,魚雷攻撃を仕掛けた.この攻撃により空母翔鶴は4本の魚雷を受けて轟沈,同じく空母大鳳が受けた魚雷は1本だけで損傷は軽微だったが,気化したガソリンが爆発するという悲運に見舞われて同じく沈没してしまった.こうして6月19日の戦闘は日本側が先に敵艦隊を発見しアウトレンジ攻撃をかけたものの,迎撃によって航空部隊は大損害を受け,逆に自らの空母は潜水艦によって死角から攻撃され撃沈されるという結果になった.
翌6月20日も先にアメリカ艦隊を発見した日本の残りの空母部隊が攻撃を仕掛けるも,やはり前日と同様の結果に終わる.そしてこの日の16時近くになってようやくアメリカ側も日本艦隊を発見,反撃を開始する.この攻撃によってさらに空母1隻(飛鷹)とタンカー2隻が撃沈された.一方これが夕方の攻撃になったため,アメリカ側の航空部隊も空母への帰還ができずかなりの損害を出している.
かくして連合艦隊が乾坤一擲の決戦を企図して臨んだマリアナ沖海戦は日本の大敗に終わる.沈没した空母の数だけでいえばミッドウェー海戦よりも少なかったが(ミッドウェーが4隻,マリアナは3隻),敵の空母を1隻も沈めることができなかったことや,約1年半かけてようやく再建した母艦航空隊を一気に喪失したことは非常に厳しく,これ以降連合艦隊は機動部隊を運用する作戦を行うことが不可能になってしまう.この海戦は日本の作戦通りに始まり,敵の発見も早いなど大きな齟齬はなかった.にもかかわらずこのような敗戦に終わったのは,この時期のアメリカ軍はレーダーを用いた防空システムやVT信管などの新型機器・システムが運用されており,旧態依然としていた連合艦隊とはハード・ソフト両面で大きな差がついてしまっていたからである.仮にマリアナ沖海戦が1942年秋に起こっていたら日本側が勝利する可能性もあったろうが,1年8か月という時間はを隔てるて、連合艦隊にとってアメリカの機動部隊は全く別物になっていたのである.
私はマリアナ沖海戦は「高校受験に失敗した生徒が2年間宅浪して必死に勉強し,中学の教科書を完璧にマスターして試験に臨んだら,まわりはすでに大学受験になっていた」という比喩がふさわしいのではないかと思っている.
そんなことを想像した2020年の夏至の日だった.
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