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2019年2月28日 (木)

Yahooブログが終了

 ネット上のニュースでYahoo!ブログが終了するという記事が出ていました.

 Yahoo!ブログが2019年12月15日でサービス終了

 私のメインブログはココログですが,以前はYahoo!ブログも並行してやっていた時期もあります(2007年から2014年まで).私自身の趣味が多方面にわたっており,一つのブログだとあまりにもごった煮状態になるため,新選組などの幕末関係,城郭関係はココログ,クラシックや世界史関係はYahoo!ブログという感じで運用していました.

 しかしSNSが普及し始めた2010年頃からはそちらにも手を出し始めたこともあって,2つのブログを同時進行でやっていくのが困難になってきました(ぶっちゃけいうと暇がない 笑).このため自分にとって後発だったYahoo!ブログの方からは手を引き,ココログ一本にしたという次第です.まあ最近ではこのココログすらかろうじて維持している感じですが…

 そんなYahoo!ブログ終了のニュースの一方で,ココログの方から全面リニューアルのお知らせが来ました.

 「ココログ」全面リニューアルのお知らせ

 システムの老朽化とスマホなどPC以外のアイテムがメインにの時代に対応するためのリニューアルのようです(なんだか今更感が強い気がしますが…).かつては個人の情報発信の主要ツールだったブログも,SNSの発達でユーザー減少に歯止めがかからないと言われています.そうした流れの中でとりあえずココログはまだサービスを続けていく(少なくとも,その気はある)ことが分かって一安心なのでした.

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2019年2月26日 (火)

2・26事件

Image_2 今日は2月26日,日本の近現代史上に残るクーデター未遂事件である「2・26事件」が起こった日です.

 1936年(昭和11年)2月26日,折からの不況や政財界の腐敗に対して強い不満を抱いていた陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンのもとにクーデターを決行,当時東京に駐屯していた歩兵第1連隊,歩兵第3連隊らの兵を率いて,彼らが君側の奸とみなしていた時の内大臣齋藤実,大蔵大臣高橋是清,教育総監渡辺錠太郎らを殺害,侍従長だった鈴木貫太郎(後に終戦時の総理大臣となる)に重傷を負わせるとともに,首相官邸や陸軍省,参謀本部,警視庁といった日本の中枢機関を占拠した事件です.この時首相官邸では総理大臣岡田啓介も襲撃を受けましたが,官邸でクーデター側が最初に襲撃して殺害した義弟松尾伝蔵を岡田と誤認したために危うく難を逃れ後に救出されています.

 表面的にみれば世相に憤慨した青年将校による崛起ということで,幕末期の尊王攘夷運動を彷彿させる話ですが,実際には事件の背景として当時の陸軍内にあった派閥抗争があります.すなわち彼ら青年将校の義憤を利用した陸軍中枢の権力闘争が背景にあったわけです.具体的には陸軍内で皇道派と呼ばれる財界や政治家の介入を配した国家体制を実力に訴えても作ろうという派閥と,主として陸軍大学校出の中堅エリートが主体となったより合法的な手段での軍事優先国家形成を目指す統制派との対立です.青年将校たちの背後にいたのはもちろん皇道派です.

 皇道派と統制派の対立はこの前年からすでに深刻でした.皇道派のドン的な存在だった真崎甚三郎教育総監が更迭されて後任に統制派の渡辺錠太郎が就任するという皇道派を冷遇したような人事が行われ,それに反発した皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心人物と目されていた永田鉄山少将(当時陸軍省軍務局長という陸軍省ナンバー3ポストについていた)を白昼省内で斬殺するという事件が起こっていたからです.

 クーデターを起こした青年将校たちは,自分たちの真意が天皇の元に届きさえすれば,自分たちの主張が実現すると信じていたようです(この点が幕末期に筑波山で決起し,藩内の保守派と内部抗争を繰り広げながらも,登場将軍後見職だった徳川慶喜に真意が届けば自分たちの思いが実現すると信じていた水戸の天狗党と類似しています).しかしながら,勝手に兵を動かして政府の重臣を暗殺するという行為に天皇は激怒,直ちに鎮圧を命じます.当初陸軍首脳はなるべくコトを穏便にすませようといろいろ工作したようですが(皇道派はもちろん敵対する統制派も自らに火の粉が降りかからないように武力鎮圧には消極的でした.最初から鎮圧に積極的だったのは,どちらの派閥にも属していなかった参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐くらい),天皇の怒りは強く,ついには自ら近衛師団を率いて鎮圧に向かうとまで言われたため,ようやく2月29日の早朝に至って討伐命令が下りました.そして同日朝に有名なラジオ放送が流れるに至り,反乱将校らは投降を決意,クーデターは失敗に終わったのです.

 

 将校たちの中には投降せず自決の道を選んだものいましたが,その多くはあくまでも軍法会議の場で自らの主張を通す道を選んだのです.しかし事件の塁が軍中枢に及ぶことを恐れたのか,審理は早いスピードで進み,結局民間人も含め19名に死刑判決が出されました.さらに事件の背後にいたとされる皇道派の将官にも累は及び,軍法会議にかけられる者はいませんでしたが,その多くはは予備役に編入されるか左遷され,軍中枢から遠ざけられることになりました.後の太平洋戦争序盤のマレー戦で勇名をはせた山下奉文大将もこの事件で左遷された皇道派の将軍です.

 一方でこれがクーデターであることを知らないまま参加させられた一般の下士官兵については上官の命令に従っただけであり罪には問わないとされましたが,事件後部隊は満州に移駐となり,その後の日中戦争,太平洋戦争では激戦地に送られその多くが戦死したとされています.

 この事件によって陸軍内の皇道派は壊滅状態となり,以後前年に暗殺された永田鉄山の後継となっていた統制派の東條英機らが台頭してきます.そして予備役になった皇道派の将官が陸軍大臣になって影響力を行使するのを防ぐため,陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする”軍部大臣現役武官制”を復活させました.これは結果的に軍部が気に入らなければ大臣を辞任させ後任を出さないことで内閣を潰すこともできるようになったことを意味し,以後政府に対する軍部の発言力は飛躍的に増し,日本は暗い時代に突き進んでいくことになります.

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2019年2月15日 (金)

カール・リヒターの命日

Img300  バレンタインデーの翌日,今日2月15日は20世紀を代表するバッハ研究家カール・リヒターの命日です.

 リヒターは1926年10月15日にドイツ東部のプラウエンで生まれ幼少時からドレスデンの聖十字架教会聖歌隊に属し,ここで変声期とともにバッハの主要カンタータの全パートを歌ったといわれています.第二次大戦後にはバッハの聖地であるライプチヒでオルガンを中心に活動していましたが,社会主義の束縛を嫌い西ドイツのミュンヘンに移りました.そこでミュンヘン音楽大学の教授に就任するとともに,自らのバッハ研究の成果を示すべくミュンヘン・バッハ合唱団,管弦楽団を結成して精力的な演奏活動を行いました.1969年には合唱団・管弦楽団を率いて来日公演を行っています.

 その後も世界各地への演奏旅行と同時に,多数の録音も残しています.その音楽はルター派の真髄である禁欲的な,非常に緊張感の溢れる演奏でしたが,1970年代には次第に緊張感を失いロマン主義的な演奏になってしまったと言われています(マタイ受難曲の1958年版と1979年版を聴き比べると違いがわかります).これは彼自身の体調の悪化が関係しているとする人もいます.

 そして1981年2月15日朝,宿泊先のミュンヘン市内のホテルのフロントに,「胸が苦しい,医者を呼んでくれ」と電話があり,駆けつけたときには亡くなっていたといわれています(状況から考えて急性心筋梗塞だったのではと思います).

Img_1  今ではITの進歩とメディアの多様化から数多くの音楽ソースが迅速かつ手軽に手に入るようになりました.しかし私が高校から大学に入ったのはようやくコンパクトディスク(CD)が普及し始めた時期であり,音楽の主要メディアはいまだにLPレコードでした.LPレコードは現在の音楽ファイルのダウンロードなどとは比較にならないほど生産コストがかかることから,マイナーな(売れそうにない)ジャンルの音楽のレコードは発売すらされず,手に入れるのが大変でした.

 俗にクラシック音楽と呼ばれるジャンルは日本でもそれなりに愛好家がいますが,一言でクラシックといっても多くのカテゴリーがあり人気も様々です.たとえばシンフォニー(交響曲)やコンチェルト(協奏曲)などは日本人に人気のカテゴリーで,昔から数多くのレコードがありました.一方で宗教曲と呼ばれるカテゴリーは日本人にはマイナーで(私が学生時代受講していた音楽史という講義で行ったアンケートでも最も人気薄だった),クラシック愛好家にもあまり知られていなかった分野です.

 17世紀から18世紀のバロック時代を代表する作曲家として,J. S. バッハがいます.音楽の父ともいわれ,日本でもその名を知らない人はいないくらい有名だと思います.しかし,じゃあバッハってどんな曲を作ったのと聞かれると,意外に知られていません.せいぜい嘉門達夫の「鼻から牛乳」で知られる,トッカータとフーガニ短調やG線上のアリアくらいでしょうか.

 実はバッハの主要作品の多くは,200曲にもおよぶ教会カンタータをはじめとする宗教音楽で,マタイ受難曲やロ短調ミサ曲がその代表とされています.ですから宗教音楽がマイナーな日本であまり知られていないのも仕方ないのかもしれません.

 こういうマイナージャンルゆえ,宗教音楽のLPレコードを手に入れるのは大変でした(モーツァルトのレクイエムのようにちょっとはメジャーな作品もありますが).今ではバッハの宗教音楽も数多くの演奏がリリースされており,私達も聴き比べなどができますが,当時はあまり選択肢がなかったのです.そんな時代に比較的入手可能だったのが,アルヒーフから出ていたリヒターの演奏だったのです.ですから私の世代の人間にとってバッハのカンタータを聴くにはリヒターのレコードを聴くのが一番ポピュラーだったのです.ヘルムート・リリング,ついでアーノンクールとレオンハルトのカンタータ全集が完成したのはその後のことでした.

 私が宗教音楽にのめり込んだ学生時代,数多くのリヒターのレコードを買い込んで聴いていたものですが,その中でも特に聞くに残るのが,1988年の2月15日に「カール・リヒター追悼24時間鑑賞会」という企画です.これは同日0時から翌16日0時までひたすらリヒターのレコード(一部CD)を聴きまくるという鬼のような企画です.モーツァルトのレクイエムから始まって,マタイ・ヨハネの両受難曲,ロ短調ミサ,クリスマス・オラトリオはもちろん,英独両版のメサイアや教会カンタータから器楽曲まで、魂をすり減らしながら聴いたのを覚えています.

 そんな暇も体力もない2019年のこの日は夜から彼のいくつかの演奏を鑑賞しているのでした.

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2019年2月14日 (木)

バレンタインデー

San_valentino  今日2月14日はバレンタインデーです.教会史によると3世紀のローマ皇帝クラウディス2世が、士気が下がるという理由で兵士の結婚を禁止した際に,悲嘆する兵士たちのために皇帝の命に背きひそかに結婚の儀式を行っていた司祭ヴァレンティヌスの命日に由来するとされています.

 日本で女性が意中の男性にチョコレートを贈る日とされたのは1970年代のことで,これは当時の小中高生たちの間で広まった風習です.以来製菓業界の思惑なども絡み,バブル期には贈答品も高額化していきましたが,21世紀に入ったころはなんとなく落ち着いた感があります.とはいえ,基本的に構図に変化はなく,さらには本命ではない男性に贈る義理チョコなども登場し,この時期のお菓子業界の売り上げは相当なものになるようです(このためバレンタインデーそのものが製菓業界の陰謀とされることも).

 私の勤務地である病院というところは,職員に占める女性の割合が高い職場なので,なんとなく自然の流れとして義理チョコをもらう機会が多くなります(旅行に行ってきた際に律義にお土産を配っているのも効いていると思われる).

 ただ,自分自身はチョコレートをはじめとした甘いもの(いわゆるスイーツ)には関心がないので,毎年チョコレートを貰っても消費しきれず,結局別なところに配るという結末になり,いただいた方に申し訳ない気持ちになっていました.なので,なにかの折に

「義理チョコよりも,義理ワインの方が1万倍嬉しいな (^^;)」

 などとつぶやいていました.

 で,2019年のバレンタインデーのこの日,なんと!チョコではなくてワインをくださった方が複数もいらっしゃいました!!

Img_4384  いやぁ~,本当に感激でございます.来月のお返しは真面目に考えなくてはと思ったのでした.

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2019年2月13日 (水)

リヒャルト・ワーグナー

1359558947  今日は2月13日,バレンタインデーの前夜祭などと言ってはいけません(笑)。この日は19世紀後半,ヨーロッパの音楽界,とりわけオペラの世界に大きな影響を与えたリヒャルト・ワーグナーの命日なのです.

 西洋音楽の1ジャンルとしてのオペラは17世紀のモンテヴェルディの時代に誕生しました.当初は宮廷など王侯貴族の楽しみとして発展し,18世紀前半のバロック時代にひとつのピークを迎えます.この時代の代表的なオペラ作曲家がG. F. ヘンデルでした.ヘンデルは今でこそ,「メサイア」などのオラトリオや「水上の音楽」などの器楽曲で知られますが,彼がその生涯で心血注いで取り組んだのはオペラだったのです.この時代のオペラの聴き手は大陸諸国では依然として王侯貴族でしたが,すでに産業革命が始まっていたイギリスでは新興の市民たちでした(イギリスの市民たちに熱狂的に支持されたヘンデルですが,のちには彼らに飽きられオペラではやっていけなくなり,オラトリオに軸足を移すことになります).

Handel_1 (写真) バロックオペラの作曲家ヘンデル

 バロック時代以来のオペラは主として歌手の技巧を聞かせる歌の側面が強調され,劇としての面はなおざりにされる傾向がありました.もっともこれはオペラが内包している宿命的な問題で,歌手が技術的に難しいアリアを朗々と歌っている時間は,同時に劇が停滞する時間でもあるからです.ただ19世紀に入ると,オペラにもより劇性を求めるべきという考えが生まれ,歌と劇の停滞という矛盾を解決する方法が探られます.その中で生まれたのがいわゆる狂乱オペラと呼ばれるものでした.これはヒロインが悲劇のために発狂してしまい,超絶技巧のアリアを歌うというスタイルです.これなら聴衆は発狂してしまったヒロインに感情移入しつつ,その超絶技巧を駆使したアリアを楽しむこともできます.ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」やベッリーニの「清教徒」はこうした狂乱オペラの代表作です.

 とはいえ,こうした小手先のやり方では根本的な解決にならないことは明らかで,ここで登場したのがワーグナーでした.彼が生まれたのは1813年,奇しくもイタリアのヴェルディと同年です.ドイツとイタリアを代表するオペラ作曲家が同年に生まれたことに運命的なものを感じます.

 ワーグナーの人生は各地の劇場を転々としたり,ドイツの3月革命にのめり込んで亡命を余儀なくされたりまさに波乱万丈でした.しかし,そのような境遇の中で,彼は一環として(歌のみでなく)音楽と劇との融合を目指しました.その理想を作り上げるために作曲のみならず,台本も自らの手で書き上げています.

 そんなワーグナーの作風としてよく知られているのが,①無限旋律②示導動機です.このうち前者は従来のオペラが,序曲・レシタティーヴォ・アリアという風に個々の音楽が分断されていたのに対して,彼の音楽では(特に後期の作品は)幕が開くと同時に最後まで音楽が途切れることなく続いていく様子を表しています.このため従来のオペラのように,はっきりとしたアリアなど一部だけを切り取ることが不可能となっています(プッチーニ名アリア集というCDはあるが,ワーグナー名アリア集というCDは存在しない).このため特にイタリア系のオペラでは名アリアの後に会場から拍手や喝采が飛ぶのが定番ですが,ワーグナー作品ではそれらの行為は構造的に不可能です.後者の示導動機(ライトモティーフ)とは人物や感情,情景などを表現するモティーフのことです.とはいえ,その人物が出てきたからそのモティーフが鳴るなどという単純なものではなく,例えば人物の成長に合わせてモティーフ自身も変化し,場面によってはさらに他のモティーフと融合し発展していくなど,歌手の声以外の物語の語り手となるものです.すなわち従来のオペラでは伴奏に過ぎなかったオーケストラ自身も劇の進行に重要な役割を与えられているということになります.このことからワーグナーのオペラ作品を指して,従来の歌劇に対して楽劇と表現することもあります(この楽劇(Musikdrama)という用語はワーグナー自身の造語ではなく,彼はむしろ自らの作品を舞台祝祭劇と称している).

Img018  そんなワーグナー作品,重厚かつ壮大(悪く言えば大げさ)で,人により好き嫌いがはっきり分かれます.私自身は若い頃はあまり好きではなかったんですが,長じるにしたがって,「まあ,こういうのもありかな」と思うようになりました.最近では1月27日に新国立劇場で彼の比較的初期作品である「タンホイザー」を観劇してきました.一般にワーグナーを鑑賞すると,その後2週間くらい,その音楽が頭の中で渦巻いて仕事中など難儀することがあるんですが,今回に限ってはそういうことがありませんでした.思うに今回はワーグナー鑑賞の直後にモーツァルト週間に参加したため,ワーグナーがモーツァルトで中和されたためと思われます(笑).

 今日はそんなワーグナーの命日なのでした.

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2019年2月12日 (火)

東京21合唱団の合宿

 この前の週末,10日&11日は東京21合唱団の合宿に参加してきました.

 現在私が活動しているもう一つの合唱団である,小田原医師会合唱団では毎年合宿を開催しているんですが,こちらの21合唱団ではなぜかその機会がありませんでした.

 しかし,バッハのマタイ受難曲という大曲に取り組んでいく中で,やはりそういう機会は必要だろうということで今回の開催に至ったものです.会場は神奈川県横須賀市にある湘南国際村センター,海の見える高台に建つ広々とした研修所です.

 2月10日は13時50分ごろに横須賀線逗子駅に集合,ここからみんなで路線バスに乗って向かいます(我々のグループでほとんど満員になったので,運転手さんは驚いたに違いない 笑).約30分で会場に到着です.会場準備等を経て15時から練習開始,常任指揮者の佐々木正利先生,音楽監督の飯靖子先生をお迎えして,4時間みっちりと練習しました(合宿ということで時間がたっぷりと取れるため,普段はなかなかできない,ドイツ語についても解説していただきました).

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 学生合唱団時代の合宿というと,ひたすら練習漬けだったんですが,大人の合唱団の場合重要なのが夜の懇親会です.普段お話する機会の少ない方々との交流は楽しいものでした.

Img_1833  宴会は1次会,2次会,3次会と流れて気が付いたら午前様… それでも翌11日は朝から午後3時までみっちり練習したのでした.そんな非常に有意義な連休でした.

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2019年2月 8日 (金)

2月になっています

Img_4308  ひさしぶりの更新となります.気が付けば2月になっていました.最後の更新が1月23日でしたから,約2週間放置していたことになります(笑).実はこの間,冬休みを取って旅行に行っていました.行先はオーストリアのザルツブルクです.

 目的は毎年モーツァルトの誕生日である1月27日を中心に約10日間の日程で開催されている音楽フェスティバル,モーツァルト週間(ドイツ語では"MozartWoche")に参加しコンサートを鑑賞するためでした.我が家ではウチのKが大のモーツァルト好きということもあり,いつの日か行ってみたいイベントだったんですが,昨年11月の段階で急激に話が盛り上がり,行くことになったものです(行くぞ!と決めてからの自分のフットワークは羽根のように軽いです 笑).

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(写真) モーツァルト劇場隣のカール・ベーム・ザールにて

 1月28日出発で2月5日帰国,現地には7日間滞在し,教会のミサを含めて10の公演を鑑賞しました.いやぁ~,本当に素晴らしかったです.詳細はこちらのブログにも近日中にアップしていく予定です(そして途中で放置されるのか 爆).

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