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2018年3月30日 (金)

南部アフリカ旅行記⑥

 旅行から2か月以上経ってしまいましたが,なんとか最後まで頑張ります(笑).南部アフリカ旅行記その6はヨハネスブルグ編です.

 開けて1月23日火曜日である.この日のモーニングコールはなんと4時!!,今回の旅行で最も早い時間だ.この日の予定は朝の便でヨハネスブルグに向かい,そのまま周辺の観光という流れ,3日間お世話になったホテルとお別れである.スーツケースは昨夜のうちにあらかた整理していたために,この朝はほぼ最後の荷物を詰める程度で完了,指定されていた通りにドアの外に出しておく.その後1階ロビーへ,どうやら我々が一番乗りだった.さすがにこの時間帯に朝食レストランは営業していないので,あとで食べるランチボックスならぬブレックファストボックスを受け取る(さっそく中身をのぞき込む 笑).チェックアウトを済ませて,全員揃ったところで出発となる(予定通り5時15分,今回のツアーは時間にユルイ人がいないのでこの辺は非常にスムーズ).

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(左写真1) 朝食のボックス,(右同2) 中身

 この朝の天気は曇り空,平日のケープタウンは渋滞がひどいらしいのだが,さすがにこれだけ早朝になると混雑はなくスイスイと進んでいく,約20分ほどで空港に到着した.チェックインを済ませてそのままセキュリティへ,油断していてベルトが反応してしまった.外して入りなおそうとしたら,「大丈夫だ」とそのまま係員に促されて通過,南アフリカの国内線は案外ユルイらしい.出発ロビーに入って待合の椅子に座りホテルで受け取ったボックスを食べることにする.中身はパンとケーキ,スナック,リンゴそしてグレープジュースだった(日本人の感覚だと食事というよりおやつという感じ).おにぎりと漬物が欲しいと思ったのはナイショである(笑).食べながら近くを見渡すと,椅子に寝そべって爆睡している家族連れっぽい人たちが係員に起こされているところだった.一言二言やり取りをしていたのだが,何か驚いた様子で急いで荷物を持ってどこかに行ってしまった.もしかして乗るべき飛行に搭乗しそこなったのかもしれない.

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(写真3) タラップから登場するパターンです

 しばらく待ったのち,7時ごろから案内が始まる.この便はボーディングブリッジではなく,バスで連れていかれるパターンだった.順番にバスに乗り込み飛行機へ,機体はA320とケープタウン-ヨハネスブルグという2大メジャー都市を結ぶ路線にしては小型でありほぼ満席の盛況である.7時25分に飛行機は動き始め離陸した.ケープタウンの町とテーブルマウンテンがあっという間に遠ざかっていく.また来る日はあるのだろうかなどと感傷に浸っているうちに安定飛行に入り,さっそく朝食が配られる.この日はフルーツとエッグの選択だったが,私もKもフルーツを選択,味はまあまあだった.その後コーヒー&紅茶が配られたのだが,Kが頼んでないのにミルクを入れられたと文句を言っていた(笑).

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(左写真4) フルーツの朝食,(右同5) ヨハネスブルグ郊外の街並み

 そうこう言っているうちに機体は降下を開始,9時30分に無事にヨハネスブルグのO. R タンボ空港に着陸した.ボーディングブリッジを通ってターミナルに入る.初夏のヨハネスブルグだが,内部は冷房が効いていて涼しい.そのままターンテーブルで荷物を受け取り,トイレを済ませて到着ロビーに出た(トイレの水が普通に流れてちょっと感動 笑).ここで現地日本人ガイドのKさん(ウチのKとは関係ない (^.^),紛らわしいので以下ガイド氏)と合流,そのままバスターミナルに向かった.

P1230450 (写真6) バスターミナル(2011年にも来たことがあります)

 歩くこと数分で到着,外のビルを見てなんか既視感があるなぁと思ったら,2011年にオカバンゴに行った帰りにここに寄っていたのだった(立体駐車場の感じが当時と変わっていない).ここからのバスはケープタウンのような大型バスではなく,マイクロバス,荷物は牽引するコンテナ車に積み込むスタイルだった.治安が悪いとされるヨハネスブルクに,こんないかにも荷物が入ってますよみたいなコンテナを引っ張って大丈夫なのかと不安になる.

 それでも一同バスに乗り込んで出発,これからの予定は,まず郊外のスタークフォンテン洞窟の観光,昼食をはさんで,午後は市内のソウェト地区の観光という流れになる.

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(写真7) 空港からヨハネスブルグ中心部を大きく迂回するように高速道路を走ります

 バスが走り始めるとさっそくガイド氏の解説が始まったのだが,これが凄い! 南部アフリカの古代中世史から始まって,大航海時代の地理上の発見からオランダ人,イギリス人の進出といった歴史,さらには当地の政治経済の話題などがどんどん出てくる.自分はそういう話が大好きなので興味深く聞いていたが,中にはあんまり… という人もいて,そうした参加者は次第に夢の世界に入っていたようだ(一人参加の若い女性も熱心で,質問もしていた.そっち関係の仕事なのか?).

 1時間20分ほどのドライブでまずはスタークフォンテン洞窟に到着,ここは別名人類のゆりかごとも呼ばれている.これは1947年にこの地で初期の人類(猿人)といわれるアウストラロピテクス・アフリカヌスの化石が発見されたからだ.周辺は高原地帯といった趣で,背丈の低い草が生えている.入り口でチケットを渡されるのだが,通常のカードタイプではなく手首に巻くブレスレットタイプだった.

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(左写真8) スタークフォンテン洞窟のレセプション棟,(右同9) これがチケットです

 トイレを済ませてまずは隣接する博物館の見学,ここには地球誕生から始まって生命の誕生,進化,そして人類の誕生,進化といったテーマの解説がされている.ここでもガイド氏が細かく解説してくれて興味深かった.人類が人類たるゆえんは二足歩行の開始であることは広く認められているところであるが,一方で類人猿がなぜ二足歩行を獲得して人類になったのかはいまだ謎が多いとされている(もともと樹上生活をしていたものが,気候変動で森林が後退したため地上に降りて二足歩行を開始したいわれているが,反論も多い.

P1230474 P1230475 (左写真10) 博物館内の展示,(右同11) アウストラロピテクス・アフリカヌスのイメージ(?)

P1230481_2 (写真12) いよいよ洞窟に入る

 続いてはアウストラロピテクスの化石が発見された洞窟へ,各自手渡されたヘルメットを被っての入洞となる(途中かなり狭い部分がありヘルメットがないと頭を強打する危険性が高いため).もちろん今ここに化石が置いてあるわけではないが、狭い洞窟の散策はちょっとした探検気分である.暗い洞内を進んでいくと鍾乳石があり,天井から光が差し込んでいる穴もあった(地上とつながっているわけである).ちなみにこの洞窟で化石が発見されたということについては,この洞窟に居住していたという説のほかに,たまたま地上を歩いていたところ,誤って洞窟内に滑落したという説もあるらしい.この地の発掘,研究に大いに功績のあった人物がロバート・ブルーム博士で,洞窟の出口には博士の像が置かれていた(独特の風貌が素晴らしい).

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(左写真13) 鍾乳石,(右同14) 暗がりでの解説

P1230487 P1230522 (左写真15) 外部から光が注ぐ,(右同16) ブルーム博士と記念写真(笑)

 スタークフォンテン洞窟の見学の後は昼食の時間,この日はヨハネスブルグ市内の”Indaba Siyunimukela”というホテル内のおしゃれなレストランだった.メニューはギリシャ風サラダとブリの照り焼き,デザートである.飲み物はビール(アムステルラガー)を選択した.

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(左写真17) 昼食のレストラン,(右同18) ギリシャ風サラダ

P1230530 P1230533 (左写真19) メインのぶりの照り焼き,(右同20) デザート

 昼食後はバスに乗って次なる目的地に向かうのだが,ちょうど駐車場の木に鳥がいたらしく,みんな入れ代わり立ち代わりバスから降りて観察していたため,南アフリカ人運転手が「こいつらインド人か?」と言ってた(ガイド氏によると,インド人観光客はとにかく勝手に動き回るかららしい 笑).

 さて,午後の観光は市内のソウェト地区,ここはアパルトヘイト時代の旧黒人居住区のひとつである(アパルトヘイト時代,黒人は市内中心部に住むことを許されず,毎日居住区から市街地の職場まで長時間かけて通勤しなければならなかった).数ある黒人居住区の中でここがとりわけ有名なのは,1976年6月16日に起こったいわゆるソウェト蜂起と呼ばれる暴動の舞台となったからだ.きっかけは当時の南アフリカ政府が黒人の教育をアフリカーンス語(19世紀に南アフリカで主導権を握っていたオランダ系白人いわゆるボーア人の言葉)で行う政策を打ち出したことであった.アフリカーンス語をアパルトヘイトの象徴とみなしていた学生たちはこれに反発,1976年6月16日に行われたデモに警官隊が発砲した結果,大混乱となり多数の死者を出す事件となった.この暴動の様子は西側のジャーナリストにより映像として記録されたため,瞬く間に世界中に報道され,南アフリカ政府は強い非難を浴びた.蜂起そのものはまもなく鎮圧されたものの,この事件によって国内では白人の中からもアパルトヘイトに反対する人たちが出始め,国際的には南アフリカに対する経済制裁が一層強化されるようになったことから同国は苦境に立ち,やがてアパルトヘイトを撤回せざるを得なくなった.このためソウェト蜂起はアパルトヘイトの終わりの始まりと言われている.

P1230550 (写真21) ヘクト・ピーターソン博物館

 そんなソウェト蜂起で最初の段階で殺害されたのがヘクト・ピーターソンという当時13歳の少年だった.実は事件で一番最初に殺された少年が彼だったわけではない.しかし彼の遺体が別の少年に抱えている写真が世界で報道され,この写真が事件の象徴のように扱われるに至ったものである.現在ではこの事件の背景や経過を解説するヘクター・ピータースン博物館が開かれ,射殺されたヘクト・ピーターソンが運ばれた場所には記念碑(1976年6月16日記念碑)が建てられている.

P1230553 (写真22) ピーターソンの記念碑

 博物館内は撮影禁止になっていたが,当時の生々しい映像に例のガイド氏による熱心な解説と相まって非常に興味深いものとなっていたのは言うまでもない.記念碑は博物館から徒歩すぐの広場になっていた.ここは定番の撮影スポットともなっており,記念碑はもちろん,その反対側に見える火力発電所の煙突もここを象徴する景色として,多くの観光客が写真を撮っていた(当然我々も撮った).

P1230554 P1230556 (左写真23) 記念写真,(右同24) 火力発電所の煙突

 その後はバスでソウェト蜂起の際に学生たちが行進した道や交差点を車窓から見ながら,少し離れたマンデラハウスへ.ここはネルソン・マンデラが青年期に14年間住んでいた家で,現在は記念館として観光スポットになっている.赤レンガ造りの小さな家で,中には家具や各種書簡などが展示されていた(ここでももちろんガイド氏による現代南アフリカの政界情勢に関する詳しい話があった).

P1230564 P1230567 (左写真25) 8115は番地です,(右同26) マンデラハウス

P1230572 P1230569 (左写真27) 内部の様子,(右同28) 記念撮影

 マンデラハウスの見学の後は,少し周辺の道を歩くことに.ヨハネスブルグの旧黒人居住区というと非常に治安が悪いイメージがあるが,このソウェトは観光地化されているために,生命に危険が及ぶようなことはないらしい(スリや置き引きなどはもちろんある).ガイド氏はヨハネスブルグ在住の数少ない日本人ガイドで,この町に20年以上住んでいるとのこと.ヨハネスブルグの治安に関しては,たしかに良いとは言えないが,日本のメディア等でいわれているような話(リアル北斗の拳など)はかなり煽っている表現だと言っていた.ヨハネスブルグの犯罪は中東やヨーロッパで問題になっているような思想的なものではなく,あくまでも経済活動の一環であり,犯罪者も我が身を犠牲にして犯行に及ぶなどということはなく,基本的には危険な場所に近寄らないという当たり前の結論に落ち着くのだそうだ(市街地を歩くにしても,だれか現地人と一緒に歩くだけで犯罪遭遇率は一気に下がるそうだ).

P1240577P1240575 (左写真29) ソウェト地区には飲み屋さんが多い,(右同30) 街角には謎の土産物屋が

 そんな話をしているうちに待っていたバスに遭遇,そのままホテルに向かうことになる.途中の道路の周辺にはたくさんの住宅が立ち並んでいた.それらの一部は民主化後の政府が貧困層向けに建設した住宅であるが,一方でまるで廃材を組み立てたような粗末な造りの家(というか小屋というか)が無秩序に立ちならんでいる地域も多く見られた.これはいわゆる不法占拠区と呼ばれるもので,アパルトヘイト撤廃後住民の移動が自由になり,農村部からたくさんの人々がヨハネスブルグに流れ込んできた際に形成された地域である.

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(写真31) 粗末な小屋が立ち並ぶ不法占拠区

 これらの住宅は電気や水道も通っていない不便な環境である.しかし,中にはせっかく政府から与えられた住宅を人に貸して自分はこうした不法占拠区に暮らしている人も多いのだそうだ(政府供給住宅には電気や水道はあるものの,こうした公共料金を払えないため).

 そんなこの国の暗部を見ながらホテルに向かう.この日の宿泊先はサニーサイド・パークホテルという植民地時代の邸宅を改造したようなお洒落なホテルだった.チェックインをして荷物を解き,少し休んだ後,夕食に向かう.この日はサントン地区の和食のお店だった(JAPAというお店,JAPANまではいかないが,そこに迫るぞ!という意味らしい).お通しからお造り,茶わん蒸し,焼き物,お寿司と続くコース料理,飲み物は日本酒や焼酎もあって惹かれたが結局ビールにした.最後デザートがコーヒーゼリーでホッとする.

Img_0010 P1240593 (左写真32) この日のホテル,(右同33) 部屋はこんな感じ

 食事後は近くのガソリンスタンド併設の売店で飲料水を購入したのだが,ガイド氏がこれは硬水,こちらは軟水とこれまた詳しく教えてくれた(笑).店を出てふと空を見上げると三日月が輝いている.が,なんか違和感が… そう,欠けている側が反対なのだ.自分がイメージする三日月は向かって左側が欠けている(花王のマーク).しかし目の前の三日月は反対に右側が欠けているのである(日本なら月齢26のいわゆる逆三日月).ここが南半球なんだと実感した瞬間である.

 その後はホテルに戻ってシャワーを浴び,持参したウィスキーで飲みなおしたのだった(そしてこの日でついにウィスキーが無くなった (ToT)/~~~).さあ,明日はいよいよ旅の後半ビクトリアフォールズに向かう日程である.

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