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2018年3月31日 (土)

ココログと受難とタンポポ

 いよいよ年度末が押し迫った3月30日,ココログの表示が異様に遅くなっているのを感じました.普通なら数秒で全ページが開くところですが,30秒から1分たっても表示されないことも多い有様です.

 当初はココログ側の問題かと思ってたんですが,他のココログのブログページを開いても,特にそのような不具合は発生していない模様,これは純粋に自分のブログに問題があることは明らかです.こうした場合考えられるのは,併用しているブログパーツが邪魔をしているというパターンです.まずはそれらを外すことから開始しました.

 結果… あっさり修復完了

 こんなに簡単に回復していいのかとちょっと複雑な思いでした.

 で昨日は事実上の年度末ということで,職場では退職される方,転勤される方への辞令交付式が行われていました.その後は恒例のあいさつ回り,医局にも退職者・転勤者が次々とやってきてちょっとした賑わいになっていました.みなさん新しい場所で活躍されることを祈っています.

 夕方ちょっと外に出たらタンポポが咲いていました.タンポポには在来種の二ホンタンポポと外来種のセイヨウタンポポがあります.それぞれ生息しやすい環境があるんですが,当地は地面が湿っているためか,見られるタンポポはみな二ホンタンポポです.

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 よく言われるように二ホンタンポポとセイヨウタンポポの見分け方は,花を裏がえした時に目に入る緑色の尖った部分(総苞編)が真っすぐなのが二ホンタンポポ,反りかえっているのがセイヨウタンポポです.写真のタンポポは見ての通り真っすぐですから二ホンタンポポです.

 そんな春の気配を感じた年度末でした.

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2018年3月30日 (金)

南部アフリカ旅行記⑥

 旅行から2か月以上経ってしまいましたが,なんとか最後まで頑張ります(笑).南部アフリカ旅行記その6はヨハネスブルグ編です.

 開けて1月23日火曜日である.この日のモーニングコールはなんと4時!!,今回の旅行で最も早い時間だ.この日の予定は朝の便でヨハネスブルグに向かい,そのまま周辺の観光という流れ,3日間お世話になったホテルとお別れである.スーツケースは昨夜のうちにあらかた整理していたために,この朝はほぼ最後の荷物を詰める程度で完了,指定されていた通りにドアの外に出しておく.その後1階ロビーへ,どうやら我々が一番乗りだった.さすがにこの時間帯に朝食レストランは営業していないので,あとで食べるランチボックスならぬブレックファストボックスを受け取る(さっそく中身をのぞき込む 笑).チェックアウトを済ませて,全員揃ったところで出発となる(予定通り5時15分,今回のツアーは時間にユルイ人がいないのでこの辺は非常にスムーズ).

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(左写真1) 朝食のボックス,(右同2) 中身

 この朝の天気は曇り空,平日のケープタウンは渋滞がひどいらしいのだが,さすがにこれだけ早朝になると混雑はなくスイスイと進んでいく,約20分ほどで空港に到着した.チェックインを済ませてそのままセキュリティへ,油断していてベルトが反応してしまった.外して入りなおそうとしたら,「大丈夫だ」とそのまま係員に促されて通過,南アフリカの国内線は案外ユルイらしい.出発ロビーに入って待合の椅子に座りホテルで受け取ったボックスを食べることにする.中身はパンとケーキ,スナック,リンゴそしてグレープジュースだった(日本人の感覚だと食事というよりおやつという感じ).おにぎりと漬物が欲しいと思ったのはナイショである(笑).食べながら近くを見渡すと,椅子に寝そべって爆睡している家族連れっぽい人たちが係員に起こされているところだった.一言二言やり取りをしていたのだが,何か驚いた様子で急いで荷物を持ってどこかに行ってしまった.もしかして乗るべき飛行に搭乗しそこなったのかもしれない.

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(写真3) タラップから登場するパターンです

 しばらく待ったのち,7時ごろから案内が始まる.この便はボーディングブリッジではなく,バスで連れていかれるパターンだった.順番にバスに乗り込み飛行機へ,機体はA320とケープタウン-ヨハネスブルグという2大メジャー都市を結ぶ路線にしては小型でありほぼ満席の盛況である.7時25分に飛行機は動き始め離陸した.ケープタウンの町とテーブルマウンテンがあっという間に遠ざかっていく.また来る日はあるのだろうかなどと感傷に浸っているうちに安定飛行に入り,さっそく朝食が配られる.この日はフルーツとエッグの選択だったが,私もKもフルーツを選択,味はまあまあだった.その後コーヒー&紅茶が配られたのだが,Kが頼んでないのにミルクを入れられたと文句を言っていた(笑).

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(左写真4) フルーツの朝食,(右同5) ヨハネスブルグ郊外の街並み

 そうこう言っているうちに機体は降下を開始,9時30分に無事にヨハネスブルグのO. R タンボ空港に着陸した.ボーディングブリッジを通ってターミナルに入る.初夏のヨハネスブルグだが,内部は冷房が効いていて涼しい.そのままターンテーブルで荷物を受け取り,トイレを済ませて到着ロビーに出た(トイレの水が普通に流れてちょっと感動 笑).ここで現地日本人ガイドのKさん(ウチのKとは関係ない (^.^),紛らわしいので以下ガイド氏)と合流,そのままバスターミナルに向かった.

P1230450 (写真6) バスターミナル(2011年にも来たことがあります)

 歩くこと数分で到着,外のビルを見てなんか既視感があるなぁと思ったら,2011年にオカバンゴに行った帰りにここに寄っていたのだった(立体駐車場の感じが当時と変わっていない).ここからのバスはケープタウンのような大型バスではなく,マイクロバス,荷物は牽引するコンテナ車に積み込むスタイルだった.治安が悪いとされるヨハネスブルクに,こんないかにも荷物が入ってますよみたいなコンテナを引っ張って大丈夫なのかと不安になる.

 それでも一同バスに乗り込んで出発,これからの予定は,まず郊外のスタークフォンテン洞窟の観光,昼食をはさんで,午後は市内のソウェト地区の観光という流れになる.

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(写真7) 空港からヨハネスブルグ中心部を大きく迂回するように高速道路を走ります

 バスが走り始めるとさっそくガイド氏の解説が始まったのだが,これが凄い! 南部アフリカの古代中世史から始まって,大航海時代の地理上の発見からオランダ人,イギリス人の進出といった歴史,さらには当地の政治経済の話題などがどんどん出てくる.自分はそういう話が大好きなので興味深く聞いていたが,中にはあんまり… という人もいて,そうした参加者は次第に夢の世界に入っていたようだ(一人参加の若い女性も熱心で,質問もしていた.そっち関係の仕事なのか?).

 1時間20分ほどのドライブでまずはスタークフォンテン洞窟に到着,ここは別名人類のゆりかごとも呼ばれている.これは1947年にこの地で初期の人類(猿人)といわれるアウストラロピテクス・アフリカヌスの化石が発見されたからだ.周辺は高原地帯といった趣で,背丈の低い草が生えている.入り口でチケットを渡されるのだが,通常のカードタイプではなく手首に巻くブレスレットタイプだった.

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(左写真8) スタークフォンテン洞窟のレセプション棟,(右同9) これがチケットです

 トイレを済ませてまずは隣接する博物館の見学,ここには地球誕生から始まって生命の誕生,進化,そして人類の誕生,進化といったテーマの解説がされている.ここでもガイド氏が細かく解説してくれて興味深かった.人類が人類たるゆえんは二足歩行の開始であることは広く認められているところであるが,一方で類人猿がなぜ二足歩行を獲得して人類になったのかはいまだ謎が多いとされている(もともと樹上生活をしていたものが,気候変動で森林が後退したため地上に降りて二足歩行を開始したいわれているが,反論も多い.

P1230474 P1230475 (左写真10) 博物館内の展示,(右同11) アウストラロピテクス・アフリカヌスのイメージ(?)

P1230481_2 (写真12) いよいよ洞窟に入る

 続いてはアウストラロピテクスの化石が発見された洞窟へ,各自手渡されたヘルメットを被っての入洞となる(途中かなり狭い部分がありヘルメットがないと頭を強打する危険性が高いため).もちろん今ここに化石が置いてあるわけではないが、狭い洞窟の散策はちょっとした探検気分である.暗い洞内を進んでいくと鍾乳石があり,天井から光が差し込んでいる穴もあった(地上とつながっているわけである).ちなみにこの洞窟で化石が発見されたということについては,この洞窟に居住していたという説のほかに,たまたま地上を歩いていたところ,誤って洞窟内に滑落したという説もあるらしい.この地の発掘,研究に大いに功績のあった人物がロバート・ブルーム博士で,洞窟の出口には博士の像が置かれていた(独特の風貌が素晴らしい).

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(左写真13) 鍾乳石,(右同14) 暗がりでの解説

P1230487 P1230522 (左写真15) 外部から光が注ぐ,(右同16) ブルーム博士と記念写真(笑)

 スタークフォンテン洞窟の見学の後は昼食の時間,この日はヨハネスブルグ市内の”Indaba Siyunimukela”というホテル内のおしゃれなレストランだった.メニューはギリシャ風サラダとブリの照り焼き,デザートである.飲み物はビール(アムステルラガー)を選択した.

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(左写真17) 昼食のレストラン,(右同18) ギリシャ風サラダ

P1230530 P1230533 (左写真19) メインのぶりの照り焼き,(右同20) デザート

 昼食後はバスに乗って次なる目的地に向かうのだが,ちょうど駐車場の木に鳥がいたらしく,みんな入れ代わり立ち代わりバスから降りて観察していたため,南アフリカ人運転手が「こいつらインド人か?」と言ってた(ガイド氏によると,インド人観光客はとにかく勝手に動き回るかららしい 笑).

 さて,午後の観光は市内のソウェト地区,ここはアパルトヘイト時代の旧黒人居住区のひとつである(アパルトヘイト時代,黒人は市内中心部に住むことを許されず,毎日居住区から市街地の職場まで長時間かけて通勤しなければならなかった).数ある黒人居住区の中でここがとりわけ有名なのは,1976年6月16日に起こったいわゆるソウェト蜂起と呼ばれる暴動の舞台となったからだ.きっかけは当時の南アフリカ政府が黒人の教育をアフリカーンス語(19世紀に南アフリカで主導権を握っていたオランダ系白人いわゆるボーア人の言葉)で行う政策を打ち出したことであった.アフリカーンス語をアパルトヘイトの象徴とみなしていた学生たちはこれに反発,1976年6月16日に行われたデモに警官隊が発砲した結果,大混乱となり多数の死者を出す事件となった.この暴動の様子は西側のジャーナリストにより映像として記録されたため,瞬く間に世界中に報道され,南アフリカ政府は強い非難を浴びた.蜂起そのものはまもなく鎮圧されたものの,この事件によって国内では白人の中からもアパルトヘイトに反対する人たちが出始め,国際的には南アフリカに対する経済制裁が一層強化されるようになったことから同国は苦境に立ち,やがてアパルトヘイトを撤回せざるを得なくなった.このためソウェト蜂起はアパルトヘイトの終わりの始まりと言われている.

P1230550 (写真21) ヘクト・ピーターソン博物館

 そんなソウェト蜂起で最初の段階で殺害されたのがヘクト・ピーターソンという当時13歳の少年だった.実は事件で一番最初に殺された少年が彼だったわけではない.しかし彼の遺体が別の少年に抱えている写真が世界で報道され,この写真が事件の象徴のように扱われるに至ったものである.現在ではこの事件の背景や経過を解説するヘクター・ピータースン博物館が開かれ,射殺されたヘクト・ピーターソンが運ばれた場所には記念碑(1976年6月16日記念碑)が建てられている.

P1230553 (写真22) ピーターソンの記念碑

 博物館内は撮影禁止になっていたが,当時の生々しい映像に例のガイド氏による熱心な解説と相まって非常に興味深いものとなっていたのは言うまでもない.記念碑は博物館から徒歩すぐの広場になっていた.ここは定番の撮影スポットともなっており,記念碑はもちろん,その反対側に見える火力発電所の煙突もここを象徴する景色として,多くの観光客が写真を撮っていた(当然我々も撮った).

P1230554 P1230556 (左写真23) 記念写真,(右同24) 火力発電所の煙突

 その後はバスでソウェト蜂起の際に学生たちが行進した道や交差点を車窓から見ながら,少し離れたマンデラハウスへ.ここはネルソン・マンデラが青年期に14年間住んでいた家で,現在は記念館として観光スポットになっている.赤レンガ造りの小さな家で,中には家具や各種書簡などが展示されていた(ここでももちろんガイド氏による現代南アフリカの政界情勢に関する詳しい話があった).

P1230564 P1230567 (左写真25) 8115は番地です,(右同26) マンデラハウス

P1230572 P1230569 (左写真27) 内部の様子,(右同28) 記念撮影

 マンデラハウスの見学の後は,少し周辺の道を歩くことに.ヨハネスブルグの旧黒人居住区というと非常に治安が悪いイメージがあるが,このソウェトは観光地化されているために,生命に危険が及ぶようなことはないらしい(スリや置き引きなどはもちろんある).ガイド氏はヨハネスブルグ在住の数少ない日本人ガイドで,この町に20年以上住んでいるとのこと.ヨハネスブルグの治安に関しては,たしかに良いとは言えないが,日本のメディア等でいわれているような話(リアル北斗の拳など)はかなり煽っている表現だと言っていた.ヨハネスブルグの犯罪は中東やヨーロッパで問題になっているような思想的なものではなく,あくまでも経済活動の一環であり,犯罪者も我が身を犠牲にして犯行に及ぶなどということはなく,基本的には危険な場所に近寄らないという当たり前の結論に落ち着くのだそうだ(市街地を歩くにしても,だれか現地人と一緒に歩くだけで犯罪遭遇率は一気に下がるそうだ).

P1240577P1240575 (左写真29) ソウェト地区には飲み屋さんが多い,(右同30) 街角には謎の土産物屋が

 そんな話をしているうちに待っていたバスに遭遇,そのままホテルに向かうことになる.途中の道路の周辺にはたくさんの住宅が立ち並んでいた.それらの一部は民主化後の政府が貧困層向けに建設した住宅であるが,一方でまるで廃材を組み立てたような粗末な造りの家(というか小屋というか)が無秩序に立ちならんでいる地域も多く見られた.これはいわゆる不法占拠区と呼ばれるもので,アパルトヘイト撤廃後住民の移動が自由になり,農村部からたくさんの人々がヨハネスブルグに流れ込んできた際に形成された地域である.

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(写真31) 粗末な小屋が立ち並ぶ不法占拠区

 これらの住宅は電気や水道も通っていない不便な環境である.しかし,中にはせっかく政府から与えられた住宅を人に貸して自分はこうした不法占拠区に暮らしている人も多いのだそうだ(政府供給住宅には電気や水道はあるものの,こうした公共料金を払えないため).

 そんなこの国の暗部を見ながらホテルに向かう.この日の宿泊先はサニーサイド・パークホテルという植民地時代の邸宅を改造したようなお洒落なホテルだった.チェックインをして荷物を解き,少し休んだ後,夕食に向かう.この日はサントン地区の和食のお店だった(JAPAというお店,JAPANまではいかないが,そこに迫るぞ!という意味らしい).お通しからお造り,茶わん蒸し,焼き物,お寿司と続くコース料理,飲み物は日本酒や焼酎もあって惹かれたが結局ビールにした.最後デザートがコーヒーゼリーでホッとする.

Img_0010 P1240593 (左写真32) この日のホテル,(右同33) 部屋はこんな感じ

 食事後は近くのガソリンスタンド併設の売店で飲料水を購入したのだが,ガイド氏がこれは硬水,こちらは軟水とこれまた詳しく教えてくれた(笑).店を出てふと空を見上げると三日月が輝いている.が,なんか違和感が… そう,欠けている側が反対なのだ.自分がイメージする三日月は向かって左側が欠けている(花王のマーク).しかし目の前の三日月は反対に右側が欠けているのである(日本なら月齢26のいわゆる逆三日月).ここが南半球なんだと実感した瞬間である.

 その後はホテルに戻ってシャワーを浴び,持参したウィスキーで飲みなおしたのだった(そしてこの日でついにウィスキーが無くなった (ToT)/~~~).さあ,明日はいよいよ旅の後半ビクトリアフォールズに向かう日程である.

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2018年3月28日 (水)

ビザンチン皇帝の誕生日

 今日3月28日は私,ビザンチン皇帝コンスタンティヌス21世の誕生日です.何歳になったのかはさておき,まずは今年も無事にこの日を迎えることができたことに感謝しています.これからも本業をやりつつ,趣味の旅行や音楽活動,イベント参加等に邁進していきたいと思います.

 3月28日というと年度末の慌ただしい時期です.幼稚園や小学校なんかだとお誕生会と称するイベントをやったりするんですが,すでに春休みに入っている自分の誕生日の時期には無縁の存在で,子供時代公式にそうしたイベントを開催してもらったことはありません(今考えると不公平だなと思うんですが,当時はそうした考えには至りませんでした).

 近年では誕生日プレゼント自体が稀な存在になってきてますが,さっきメインにしているクレジットカード会社から誕生日の贈り物が届きました (^.^).

Img_3687 Img_3688  開けてみたらモバイルバッテリーです!.

 かつてはワインの小瓶やフォトフレームだった時代もあったんですが,最近は実用性を意識したアイテムが多くなってきたように感じています.

 そんな3月28日生まれは,私同様個性的な人が多いのか,ざっと調べただけで元横綱北の富士,神田うの,レディガガといった人たちがいるのでした(この人たちも今日でひとつ年を重ねたわけです (^.^)).

 追記: この日は夕方から東京マドリガルの例会に参加していたんですが,終了後誕生日祝いを兼ねて四谷の” Olso Verde ”というステーキイタリアンのお店へ.締めに出てきた肉がなんと600グラム!! 腹いっぱいの夕食でした.

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2018年3月25日 (日)

歌劇「愛の妙薬」

Img005  一週間以上経ってしまったんですが,新国立劇場の愛の妙薬公演に行ってきました.

 19世紀前半に活躍したイタリアの作曲家ドニゼッティの代表作のひとつとされています.同じく代表作のルチアが貴族社会の争いと復讐に翻弄されるヒロインの悲劇なのに対して,こちらは農村における素朴な若者の恋を扱った喜劇的作品です.本を効果的に使ったチェーザレ・リエヴィの演出は2010年の初出から、2013年の再演に続き今回が3回目の公演です.自分にとっても3度目の鑑賞になります(自分の中ではもう少し頻繁にやってた印象だったんですが,ようやく3回目なのね).

 今回の公演は去年の段階でにアデーレ役がルーシー・クロウからルクレツィア・ドレイへの変更に出ていましたが,さらに直前になって指揮者のギレルモ・ガルシア・カルヴォがフレデリック・シャスランに変更になる旨が発表されていました(健康上の理由とのこと).オペラでは歌手の交代は日常茶飯事ですが,指揮者の交代はあまり見たことがありません.代役で入った指揮者も,すでにさんざん稽古が進んでいる状態でいきなり独自色を出すのは困難でしょうから,演奏者任せの無難なまとめ方になるのでしょうね.

 公演の方はみなさん美しい声を聴かせてくれて,やっぱりベルカントオペラはこうでなくちゃと思いました.新国立劇場合唱団は相変わらずハイレベルな合唱でしたが,この日の合唱指揮者はいつもの三澤洋史さんではなく冨平恭平さんでした.

 このオペラのタイトルにもなっていおる愛の妙薬とは,トリスタンとイゾルデに登場する媚薬のことです.もっとも劇中登場する媚薬(愛の妙薬)はただのワインです.この日のホワイエにもワインが並んでいたので幕間にはカベルネ・ソーヴィニヨンをいただきました (^^)v.

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 一方で,愛の妙薬にあやかった率100%のワインが売られていて,自分も思わず購入してしまいました.

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 その名もドゥルカマーラと名付けられたワインでした(安物ではなく,結構なお値段…).なにか家でご馳走を食べるときにいただきたいと思います (^.^).

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2018年3月23日 (金)

天正遣欧使節団とグレゴリウス13世

 今日3月23日は世界気象デーなんだそうですが,一方で安土桃山時代の天正年間に,当時日本に滞在していたイエズス会士ヴァリニャーノの発案で,九州のキリシタン大名(大友宗麟,大村純忠,有馬晴信)の名代としてヨーロッパに派遣された少年たち,いわゆる天正遣欧使節団が時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した日なのだそうです(1585年3月23日).

Japanesedelegatesandpopegregory13  グレゴリウス13世といえば,今世界の標準暦として使われているグレゴリオ暦の制定者として知られています.キリスト教で最も重要な行事が復活祭ですが,この復活祭の日にちを決める春分の日が当時のユリウス暦の日付と現実の春分の現象が乖離してきていたのが制定の動機です.このグレゴリオ暦はユリウス暦1582年10月4日の翌日を10月15日とすることで開始されました.件の遣欧使節団がヨーロッパに到着したのはまさにこの改暦のちょっと後だったことになります.

P8310606  そんな天正遣欧使節団の存在を自分が初めて知ったのは歴史の授業ではなく,NHKの人形劇でした.それは昭和53年4月から翌年3月まで放送されていた人形劇「紅孔雀」,舞台は江戸時代初期の紀伊半島ですが,主人公那智の小四郎の父親が若い頃に遣欧使節の世話役としてローマに行ったという設定になっていたからです(使節の4人の少年ではない).

 使節団には4少年のほかに教育係や技術留学生的な役割の日本人が同行していたとされているので,そうした人物の一人だったという設定だと思われます(こうしたメイン人物が歴史的派遣団の一員だったという展開は,大河ドラマ「獅子の時代」に似ている).

 この紅孔雀はまだビデオテープが高価だった時代の作品であり,NHKにも映像が残っていない幻の作品だったのですが,何年か前に民間でビデオが発見されたというニュースがありました.後作品のプリンプリン物語と一緒ですが,プリンプリンがBSとはいえ再放送されたのに対して,紅孔雀の方はそんな気配はありません.個人的に好きな作品だったので,一部でいいからぜひ放送してほしい(あるいは販売でもいい)と思っています.

 天正遣欧使節から紅孔雀まで,話題が膨らんだ3月23日でした.

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2018年3月21日 (水)

春分の日

 今日3月21日は春分の日です.立春からひと月半,一般に昼夜の時間が一緒になる日とされていますが,厳密にいうと昼の方がちょっと長いのだそうです(地表面に太陽が出た瞬間が日の出で,逆に太陽が地表面に完全に隠れた瞬間が日の入りと定義されているため).

 まさにいよいよ春という日ですが,今年の春分の日は朝から寒い一日でした.当地はずっと雨でしたが,山沿いは雪のところも多かったようで,近くの国道1号線には箱根新道大雪の表示が出ていました.

 この日は夕方まで予定がなかったので,車で静岡県内の未制覇の国盗り(というか空盗り)をしようかと計画してたんですが,雪に巻き込まれたら嫌なのでやめました(ウチの車夏タイヤだし ( ;∀;)).ウチのKが所用で出かけていたのでお昼は久しぶりに吉野家に入ったんですが,メニューにしじみ汁が出ていました(その代わり以前あったけんちん汁が無くなった模様).飲んだ翌朝に旨いしじみ汁,二日酔いの朝に来いということなんだろうかと思ったのでした.

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2018年3月18日 (日)

脳神経内科

 自分の専門は神経内科,それは医師になって以来ずっとそうである.実は英語だとこの診療科をDepartment of Neurologyという.直訳すれば神経科ということになる(なのでメインの学会も日本神経学会という).これがなぜ神経内科という名前になったのかというと,この領域が独立の診療科となった1970年代当時,日本では精神科の別名的な意味合いで神経科という言葉がすでに使われ,世間的にも認知されていたからだ.このため後発の悲しさから,それと区別するために神経内科という名称を新たに作り出したわけである.

 それから40年,今回日本神経学会ではこの「神経内科」という名称を,「脳神経内科」に変更しようというキャンペーン(?)を始めたようだ.これは神経内科という名称が前述の神経科に似ているために,躁うつ病や統合失調症といった本来精神科(神経科)が担当すべき患者さんがやって来る等現場に混乱があること,現実の神経内科疾患では脳卒中や認知症など,主病変が脳にある疾患も多く,名称を現実に即したものにしようということ,更には脳を扱う外科である脳神経外科と類似させることで,そちらと対になる内科版であることをPRする狙いがあるものと思われる(ただ神経内科の病気は脳だけではなく,運動器など整形外科領域ともオーバーラップするので,外科と対比させたいのなら脳神経整形内科になる気もする(新函館北斗駅みたいだが).

 一方でこの脳神経内科という名称だが,実はすでに一部大学等では使用されており今回新たに発明されたものではない.また学会の通達は強制力があるわけではなくて,あくまでもお願いに過ぎないので,今後この名前が広まっていくのかは予断を許さない.

 

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2018年3月15日 (木)

第21回ひの新選組まつり参加決定!

 今日の夕方帰宅してみたら郵便物の中に,自分で自分に宛名を書いたハガキが混ざっていました.これはもちろんひの新選組まつりに応募した際に提出した返信用のハガキです.

 予定通り今年も参加することが公式に決定いたしました(少なくとも出禁な存在ではないことが確認された 笑).

 で,今回ビザンチン皇帝は8年ぶりにコンテストに参加することを宣言いたします!!

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(写真) 8年前のコンテスト

 もう10年以上参加している楽しいお祭りですが,近年はアニメやゲーム等から入って来た若い参加者が多くて,なかなか自分の様なオールドスタイルの居場所がなくなってきているように感じたりもします.そんな自分にとって大きな悔いとなっているのが8年前のコンテストでした.不完全燃焼に終わったあのくす玉ネタを完成しないことには,ひのパレを引退したくてもできない状態でした.ただ近年はコンテストに出る気合も抜けていたのが実情で情けない限りなんですが,昨年このお祭りのレジェンドの南雲さんや神楽教授がコンテストに出たという話を伺い,ならば自分もという気持ちになったのも今年出る理由です.

 コンテストネタはもちろん8年前と同じくす玉割りです.正直コンテストの合否は二の次で,くす玉をカッコ良く割り,会場から盛大な拍手をいただくことが自分にとっての目標です.5月12日はビザンチン皇帝乾坤一擲のネタを見に高幡不動尊に来てください(笑).

 というのは大げさですが,参加のみなさま方今年もよろしくお願いします.

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2018年3月12日 (月)

3・11祈りのコンサート(第5回)

Img004  すごく久しぶりの更新となりました.1月の旅行以降なにかと忙しくしていたというのが現実だったからです.

 さて,昨日の3月11日は仙台で行われた祈りのコンサートに参加してきました.

 2011年3月11日,宮城県沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が発生,その後の大津波や原発事故等で東北を中心に大きな被害が出ました.現在関東在住の自分も,計画停電等,この震災の影響がないとは言えませんでした.

 この震災では多くの方々が亡くなったり傷ついたりしました.そうした方々の魂や心を慰めるべく始まったのがこのコンサートです.2014年のこの日に第1回が行われ今年で5回目になります(実はその前年2013年にも別な主催で同内容のコンサートが行われており,一部で第0回と呼んでいる).

Dsc_1854  合唱団,ソリスト,オーケストラともに東北地方で活動しているメンバーが中心になっています.東北育ちの自分にとっても縁の深いイベントということで,極力参加するように努めています(5回のうち休んだのは1回だけ).特に今年は日曜日ということで,仕事の問題も少なく参加することができました(過去には終演後当直先に直行なんて年もあった).

Dsc_1853  会場は東二番町通りにある電力ホール,学生時代から何かとお世話になったことのあるホールです.このホールの上手の袖になぜか昔から釣り鐘があるんです.かつてその由来を聞いたことがあったんですが,忘れてしまいましが(安珍・清姫の能か歌舞伎でもやったのでしょうか),今年も安定して定位置に吊るされていました.

 コンサートは実行委員長の挨拶に始まり,14時46分に黙祷,その後モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプス,そして同じくモーツァルトのレクイエムと進んでいきます.演奏後は恒例の拍手はご辞退して再び黙祷で終演となりました.

 終わった後は近くでお疲れ様会が行われました.コンサート自体はかなり参加している自分ですが,この会に参加するのは初めてです.ワインがたくさん並んでいたのでワイン好きにはたまりませんでした.

 結局19時頃の新幹線で一路南へ,こうして2018年3月11日も静かに終わったのでした.

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