ユスティニアヌスと趙匡胤
今日は11月14日,世界史的には6世紀のビザンチン皇帝ユスティニアヌスが亡くなった日である(565年11月14日).
1000年以上の歴史を持つビザンチン帝国だがその国情はまさに波乱万丈であった.この国の歴史上,国が隆盛を誇ったピークは2度あり,その最初のピークが6世紀,この時代に活躍した皇帝がユスティニアヌスである(もう1回のピークは10世紀末から11世紀初頭のマケドニア朝の時代).
ユスティニアヌスの業績としてまず挙げられるのは西方の領土を大幅に回復したことである.4世紀末に最終的に東西に分裂したローマ帝国だが,西半分は5世紀後半に滅び,跡地にはゲルマン人諸部族が割拠する状況になっていた.ユスティニアヌスは533年に将軍ぺリサリウスを北アフリカに派遣,西方領土回復の戦争を開始した.帝国軍は苦戦をしながらもイタリア半島や北アフリカの地中海岸一帯,さらにはイベリア半島の一部も占領し,大幅に領土を回復することに成功したのである(この時がビザンチン帝国の領土的な最盛期).
さらにユスティニアヌスの功績はこれだけではない.文化的には今も残るイスタンブールの聖ソフィア大聖堂を建てたのも彼であるし,従来の複雑なローマ法を整理したローマ法大全を完成させたのも彼である(ローマ法大全は後のヨーロッパ諸国の法典の基礎となり,その流れは現代日本の法体系にも影響を及ぼしている.そんなユスティニアヌスの命日が今日11月14日なのだった.
で,調べていたら同じ11月14日が没日である皇帝がいた.それが宋の趙匡胤である.中国の歴代王朝,とりわけ統一王朝の中で,宋という国は地味な印象がある.それは北宋南宋併せて300年余りの間,常に遼・西夏・金・モンゴルと強力な外敵に圧迫され続けていたという歴史があるからだろう.ただ唐末から五代十国の時代を経て,従来の支配者層だった貴族階級が没落し,新しい新興地主層が登場した.
さらに宋代には,これまでの王朝が有力な軍人によってしばしば政治的な干渉を受け国政が混乱しあるいは帝位を簒奪されてきたという反省を生かして,軍人の権限を縮小するとともに,科挙によって登用した官僚のみを重要な役職に就ける政策を取った(文治主義).さらにはこの科挙の最終試験を皇帝自らが行うことで,皇帝と高級官僚の結びつきを強くし,より皇帝に権力が集中する体制を作ったのである.こうした大きな政治改革を行ったのが北宋初代皇帝の趙匡胤なのだった.
本日11月14日はそのような日なのだった.
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