宗教改革500周年
今日は10月31日,近年日本ではハロウィーンのイメージが定着しているが,世界史的にはマルティン・ルターの宗教改革記念日として知られている.
帝政ローマ初期に誕生したキリスト教は,時の皇帝によるたびたびの迫害に会いながらも徐々に地中海世界に広まり,3世紀には社会的に無視できない勢力となっていった.そして4世紀前半のローマ皇帝コンスタンティヌス大帝による公認を経て,5世紀のテオドシウス帝の時代に至り帝国の国教とされるまでになった.
中世に入ると特に西ヨーロッパで世俗権力が弱体化し,小国分立の様相を呈してきたこともあって,超国家的な組織である教会の権威・権力は大いに高まった.この間イスラム勢力の勃興や聖像礼拝を巡る問題もあって,西のローマ教会と東のコンスタンティノポリス教会の対立が深刻化し,11世紀に決定的な分裂にいたる.以後西ヨーロッパはローマカトリック教会の独壇場となり,その権力は11世紀末から13世紀の十字軍時代に絶頂を迎えた.
十字軍の失敗後には,さすがにその権勢にも陰りが見え始めたが,世俗領主の側面も持つ高位聖職者の実力はまだまだ強いものがあった.一方でこうした聖職者の堕落も著しく,中世末期から近世にかけてはしばしば教会改革の動きも見られた(この時代の教会の歴史は高位聖職者が堕落してくると,修道院出身の気合の入った聖職者が登場して引き締めに走るといったパターンが多い).一方で学者など外部からの教会批判に対しては厳しい押さえつけが行われた(15世紀ボヘミアのフスの処刑など).
ルネサンス期になるとフランスやイギリス,スペインなどでは国王による中央集権が進んだ結果,これらの地域からの教会収入は大きく減ってしまった.このためローマ教会は,中小諸侯が乱立し,教会領も多い神聖ローマ帝国(ほぼ現在のドイツ語圏)に目をつけ,この地を主な収入源とするようになった.こうした中16世紀初めのローマ教皇レオ10世はサン=ピエトロ寺院修復などを目的として,ドイツ国内で大量の免罪符の販売を開始した.
これに異議を唱えたのがヴィッテンベルク大学で教鞭をとり,自らも下位聖職者だったマルティン・ルターである.彼は免罪符販売を批判し,当地の教会にいわゆる「95か条の論題」を打ち付けた.時に1517年10月31日,これが宗教改革の始まりとされている.このルターの宗教改革以後も多くの動きがあり,その後西ヨーロッパのキリスト教世界はローマカトリック教会とプロテスタント諸教会に分かれていくことになる.
今日はそんな宗教改革500周年というものすごい節目の年である.ただルター派の多いドイツではそれなりに盛り上がっていそうだが,キリスト教世界の中では多数派であろうカトリック教徒や正教徒にとっては,宗教的な意味はない普通の日なんだろうと想像した.
ちなみにルター派の教会である聖トーマス教会のカントールだったJ. S. バッハはこの宗教改革記念日のためのカンタータも作曲しており,カンタータ80番「神はわが堅き砦」はルターが作曲したコラール旋律を使用した作品として名高い.
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