« 2017年7月 | トップページ

2017年8月20日 (日)

小田原医師会合唱団第9回定期演奏会

Img159  気が付けば8月ももう3分の2が終わろうとしています.

 毎年8月はあまり活動しないのがパターンの自分ですが,たしかに今年は5日の中央寮歌祭くらいしか活動していません(笑).

 そんな活動しない8月の反動でもないんですが,来月9月にはイベントが待っています.それが表題の小田原医師会合唱団第9回定期演奏会です.

 現在いくつかの合唱団に所属している私ですが,この医師会合唱団は洋モノ以外を取り上げる貴重な存在です(それ以外は宗教音楽だったり英国マドリガルだったり).今年はメインステージに大田桜子さんの「私がいちばん大切にしたいもの」を取り上げ,その他には昭和歌謡を合唱に編曲した「歌謡デラックス」やロシア民謡のステージなんかもあります.

 で,先日の練習の際ロシア語の発音の勉強をしたんですが,日本語にはない母音や子音で苦労しました(笑).考えてみれば日本語って世界的に見ても母音や子音の数が少ない言語のような気がします.

 (おそらく)日本独特であろうシャレなどの言葉遊びの文化は,逆に母音や子音が少ない(すなわち同音異義語が多い)からこそ成立するんだと思います.

 この第9回小田原医師会合唱団定期演奏会,9月17日(日)小田原市民会館大ホールにて14時開演です(当日券はたくさんあります.たぶん 笑).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月16日 (水)

インパール作戦

 昨日はいわゆる終戦の日,72年前に日本がポツダム宣言を受諾した日であった(ただし国際法的には日本政府の代表が降伏文書に調印した9月2日が本当の終戦の日である).

 毎年この季節になるとテレビなどでも戦争関係の話題が出てくる.で,私が毎年注目しているのがこの日のNHKの特番,なぜならおそらく彼らが最も力を入れたいテーマがその日に来るだろうからだ.そんなNHKの今年の話題はインパール作戦だった.

 インパール作戦は戦史に興味のある方ならば知っている人も多いであろう有名な作戦である.1944年(昭和19年)3月に当時のビルマ(現ミャンマー)に展開していた日本陸軍の第15軍の3個師団が,そのころ連合国が中華民国の蒋介石政府を支援するために使用したルート,いわゆる援蒋ルートを遮断するために,ビルマとインドの国境を突破してインド側にあるイギリスの拠点インパールを攻略しようとした作戦である.作戦の概要はまず第31師団(烈兵団)が国境を越えてインパール北部にあるコヒマを占領し,インパールを孤立させる.それと前後して第33師団(弓兵団)が南から,第15師団(祭兵団)が東からインパールに迫り攻略するというものだ.

Img154 (図 高木俊朗著「インパール」より引用)

 概要だけ聞くと,なるほどと思えるのだが,問題はその実態である.まずミャンマーとインドの国境には乾季でも川幅300メートルものチンドウィン川がある.もちろん橋なんかない.当時すでに制空権は連合軍側に握られていたため,渡河は夜間に限られた.そしてそこを越えると標高2000メートル級のアラカン山系がそびえたつ.南方から向かう弓兵団方面にはまだ道があったが(なのでここに戦車や重砲も配属された),祭兵団,烈兵団正面には道らしい道はなく,兵士は60キロもの装備品を担いでの登山同様の行軍を強いられた.そんな行軍環境であるからこの2個師団が持っていける武器も各自の小銃や手榴弾に機関銃,擲弾筒程度で,大砲については比較的小型で分解可能な歩兵砲が少数あるだけだった.もちろんそんな道路事情であるから,食料や弾薬等の補給は絶望的である.

 このように作戦は補給のめどが全く立たず,軽装備の部隊が重装備で待ち構える敵陣地を攻撃する形が予想されたため,軍内部でも反対意見が多かった.しかし作戦を実施する当事者である第15軍司令官の牟田口中将が実施を強く主張,上級部隊であるビルマ方面軍司令官や南方総軍総司令官,さらには大本営もこれを支持し,反対する参謀(第15軍参謀長の小畑少将や南方総軍総参謀副長の稲田少将ら)を左遷したため,結局作戦は決行されることになった.この時作戦認可を渋る大本営の真田穣一郎作戦部長に対して杉山参謀総長が「寺内さん(南方総軍総司令官)たっての頼みだからやらせてやってくれ」と言ったとされ,この意思決定プロセスが情緒的であると批判されている.確かにその通りなのだが,実際には当時日本政府が支援していた自由インド仮政府主席チャンドラ・ボースの影響などもあり事情は簡単ではない.

 3月上旬に始まった作戦はイギリス軍が国境付近での衝突を避けたこともあり,緒戦は見かけ上日本軍が進撃する形になった.特に烈兵団方面では,イギリス側がこんな道もない山を越えて師団規模の大軍がやって来ることを想定していなかったこともあり,同兵団は戦略目標であるコヒマの確保に成功する.コヒマを抑えたことで北からインパールに向かう道路は遮断され,予定通りインパールは孤立する形になった.南からは弓兵団,東からは祭兵団が迫っている.見かけ上インパールは包囲された.ここまでは日本軍の作戦通りである.

 通常なら包囲された軍は士気が下がる.援軍が期待できず殲滅されてしまう恐れがあるからだ.しかしインパールのイギリス軍はそうはならなかった.彼らは飛行機を使って空から補給を続けた.一方で包囲しているはずの日本軍は補給がなく戦力は漸減する一方だった.前線の部隊からは補給を求める電文がしきりに飛んだが,後方の軍司令部は何の手も打たなかった(打たなかったというか打てなかったのが正解だが).皮肉なことにイギリス軍の空中補給物資が風向きで日本軍陣地に流されてくることがあり,こうした物資を日本兵はチャーチル給与と呼んで歓迎した.日が経つにつれて包囲されたイギリス軍の戦力が充実し,逆に包囲する日本軍の戦力が枯渇していった.軍司令部からはただ攻撃命令だけが届いたが,そんな戦力差であるから攻撃が成功することはなく,いたずらに犠牲が増えるばかりであった.

 実は日本軍はこのインパール作戦のちょっと前に同様のパターンで痛い目にあっている.それが同年2月にビルマ南西部で起こった第二次アキャブ会戦である.第二次とあるのはそのさらに1年前(1943年)に第一次アキャブ会戦があったからだ.第一次アキャプ戦はビルマ方面におけるイギリス軍最初の反攻作戦だったが,日本軍がイギリス軍を包囲殲滅し返り討ちにしている.その1年後にほぼ同じ場所で起こったのが第二次アキャブ戦である.この時も前回同様日本軍はイギリス軍の主力を包囲することに成功し勝利は確実と思われたが,結果は第一次と同じようにはならなかった.包囲されたイギリス軍は空から物資や兵員を補給して抵抗したからだ.戦況は包囲したはずの日本軍がジリ貧になり,退却を余儀なくされることになってしまったのである.インパール作戦の展開はこの第二次アキャブ戦をより大規模にしたようなものであった.

 インパールを目前にして諸兵団が苦戦しているうちに雨季がやって来た.当地の雨季はすさまじい.日本の夕立がひたすら続くようなイメージである.軽装備の日本軍はたちまち身動きが取れなくなった.さらにはマラリアやアメーバ赤痢といった感染症も兵士たちを苦しめる.5月末に至りもはや勝機がないのは誰の目にも明らかとなった.インパールの北部を抑えていた烈兵団の佐藤幸徳中将は味方の惨状と状況を理解せず無茶な命令を繰り返す軍に対し,師団の独断退却を決行する.師団長という親補職(天皇直々に任命される役職,文官でいえば大臣や帝国大学総長並み)にあるものが公然と軍命に背くのは過去に例のない異常事態である.烈兵団の独断退却により,残された祭・弓両兵団の崩壊は決定的となった.そんな中,6月5日に第15軍司令官牟田口中将とビルマ方面軍司令官河辺中将の会談が行われたが,両者とも作戦の中止を言い出した方が責任を取らされると思ったのか,作戦の可否が議題にあがることはなかった.

 結局インパール作戦は7月に入りビルマ方面軍から上級司令部への具申によってようやく中止が決まった.以後前線に展開した各部隊の撤退が始まったが,それは進撃時の何倍もの苦難を伴うものだった.各部隊はイギリス軍の追撃を受けながらビルマを目指して退却したが,数か月の過酷な戦闘で衰弱しきった兵士には耐えられるものではなく,行き倒れるものが続出した.この日本軍の退却路には倒れた日本兵の遺体が並び,白骨街道などと呼ばれた.結局全軍の撤退が完了したのは同年暮れのことであった.

 戦後インパール作戦は「史上最悪の作戦」と称されるほど悪い意味で有名な戦いとなった.この作戦には軍人や兵士だけではなく,従軍記者も多数参加していたこともあり,戦後たくさんの戦記や研究書が発表されることになった.古くは服部卓四郎(当時の大本営作戦課長)による「戦史叢書」や軍事評論家伊藤正徳による「帝国陸軍の最後3死闘編」,高木俊朗の「インパール」他一連の著作などが有名だ.1980年代以降も続々と新しいものが発表されており,それは今も続いている.現在ではインパール作戦そのものに関しては,当時の戦況全般から鑑みて必要のない作戦だったというのが定説になっている.一方で,作戦の決定プロセスや中止が遅れたこと,作戦の失敗後に関係者が誰も責任を取っていないことなどに注目し,ここに悪しき日本の組織論が見られるという主張もしばしば取り上げられている.戸部良一らによる「失敗の本質」や1990年代にNHKで放送された特番の書籍化である「太平洋戦争日本の敗因4 責任なき戦場 インパール」などである.

Img153 Myambon3  昔から戦史に興味があった自分もこの作戦には非常に興味があり,いろんな本を読んできた.今回のNHKの特番がどういうものになるのか非常に興味深かったが,特に新しい解釈といえるものはなく,内容的には正直期待外れだったというのが率直な感想である(牟田口中将のお孫さんが出てきたのは驚きだったが).ただ,以前のNHKの特番からすでに20年経過していることを思えば,若い人たちにこういう戦いがあったという歴史を伝える意味はあったのかなとは思った.

 ちなみにインパール作戦に参加したのは3個師団であるが,従来の戦記物などではこのうち北の第31師団と南の第33師団を扱ったものが圧倒的に多くい.これは第33師団については作戦正面と位置づけられ,戦車や重砲も多数配備されたことから激しい戦闘が多く,記者もたくさん従軍していて彼らによる記事も多いこと,第31師団に関してはなんといっても歴史に残る抗命事件(師団長が軍命令に背いて独断で師団を退却させたこと)の当事者であること,暗い話題ばかりの同作戦中唯一,戦術的にも人間的にも優れた指揮官といわれ人気の高い宮崎繁三郎少将(当時第31歩兵団長,インパール作戦関係の将官としては牟田口中将と対極に位置する人物といわれることが多い)が所属し活躍した部隊だったためと思われる.この両師団に対して中間にいた第15師団を扱った作品は極めて少ない.高木俊朗氏の一連の作品でもこの師団を扱った作品「憤死」はシリーズでも最後の方であり,他作品と違って電子図書化もされていない.第15師団は3個師団中最も貧弱な装備で作戦に投入され,多くの犠牲者をだした悲劇の部隊なのだが,今回のNHKの特番でも見事に無視されていたのが感慨深かった.

 そんなことを考えた今年の終戦記念日特番だった.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月11日 (金)

2つの寮歌

 先日の中央寮歌祭'17で隣の席の先輩と話題にしたお話である.

 一般に2500~3000曲はあるとされる寮歌だが,その中でもよく知られた有名な寮歌となるとそれなりに数が絞られる.俗に3大寮歌などと呼ばれる,第一高等学校の「嗚呼玉杯」,第三高等学校の「紅もゆる」,北大予科の「都ぞ弥生」の知名度は抜群だが,これらに負けず劣らず有名なのが鹿児島の第七高等学校造士館の「北辰斜め」だ.映画にもなった素晴らしい寮歌である.

 で,この「北辰斜め」と三重の神宮皇學館大学予科の寮歌「若草萌ゆる」が非常に似ているのである.

 第七高等学校造士館「北辰斜め」

 神宮皇學館予科「若草萌ゆる」

 このため,先の先輩がとある会合の席で,皇學館の関係者の方に,「皇學館の「若草萌ゆる」は七高の「北辰斜め」からメロディーを拝借したものですか?」と聞いたのだそう.それに対する皇學館関係者のご返答が,「それは違う.そもそもその2曲は同じ作曲家による別な作品なので拝借には当たらないし,当地で「若草萌ゆる」を作ったのちに鹿児島に転勤されてそこで「北辰斜めを」を作ったのだ(だからこちらの方が先なのだ).」というものだったらしい.

 中央寮歌祭ではこの2曲とも披露されるのだが,資料を見ると確かに両曲とも作曲は須川政太郎となっており,件の皇學館関係者の話が正しそうである.なるほどなぁ,そういうこともあるんだ,とこの日は妙に感心した.

 ただその後,この件について少し調べたところ,いくつかの疑問がわいてきた.まずは2つの寮歌の成立年代である.

 北辰斜め   大正四年(1915年)

 若草萌ゆる  大正十三年(1924年)

 あれっ,北辰斜めの方が古いんですけど.さらに作曲家である須川政太郎の軌跡である.こちらについては文書の資料が手元にないのでネットの情報であるが,明治17年に和歌山県に生まれ東京音楽学校(現東京藝術大学)を卒業し,大正2年(1913年)鹿児島師範学校の音楽教師として赴任した.その後京都師範学校,彦根高等女学校,半田高等女学校等を歴任した… とあります.先の寮歌の成立年代と同様,作曲者に関しても鹿児島勤務が先であり,その後関西・東海地方に勤務という順番のようである.

 以上を結論付ければ,曲の成立順は「北辰斜め」→「若草萌ゆる」である.同一作曲者による作品であるため,曲が似ているからといってどちらかが借用という性格のものではない(もちろん意識していたかしていないかは別にして,「若草萌ゆる」を作曲した段階で,過去の「北辰斜め」のイメージが頭にあった可能性はある).ということになるのだろう.

 では件の皇學館関係者がどうしてそんなことを言ったのかであるが,単に間違って覚えていたという可能性もあるが,作曲家の件を知っている方であるため,もしかしたら「借用ですか?」と聞かれたことに対して内心穏やかではなく,あえて事実と異なることを言った可能性があるのかなと思ったのだった.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月 9日 (水)

合唱連盟の会合

Img_3166 ちょっと前の話題になるんですが,小田原市合唱連盟の理事会に参加してきました.小田原市およびその近隣にある30ちょっと(だったかな?)の合唱団が参加していて,私が所属している医師会合唱団も加盟団体です.合唱団としてこうした連盟に所属するかどうかは任意なんですが,所属するともれなく合唱祭に参加できるという特典があります(笑).

 今回の理事会は10月に行われるその市の合唱祭の打ち合わせがメインテーマでした.ネタは3つ

1.合唱祭の歌う順番

2.当日の役割分担

3.当日の公式練習会場の分担  です.

 まずは1番目の議題,これは話し合いで決めるのはほぼ不可能なので,くじ引きとなります.とはいっても発表順番のくじではなく,好きな場所をとる順番を決めるくじです.すなわち1番のくじを引いた団体が1番目に発表するわけではなく,最初に好きな場所をとれるという寸法,つまり番号が若いほど有利になるわけです.ちなみに発表順1番と16番になると,そこの合唱団の指揮者の先生が全体合唱の指導も任されることになっています.

Img_3170_2 特に発表順にこだわりがあるわけではないウチの団,適当に残ったところから決めようと話し合ってたんですが,引いたくじはなんとブービー(ラストから2つ目)でした! どんどん埋まっていくんですが,1番と16番は埋まる気配がありません.まあ今ここに指揮者の先生がいるならともかく,不在の状況で勝手に全体合唱が課されている枠を選ぶ団体があるはずはないからです.おそらくは1番と16番が最後残るはずで,我々がブービーですからじゃあ16番にしようと相談していました(指揮者の先生が驚きそうですが,そういう全体指導みたいなのは得意な方なので 笑).

 その後は予想通りの展開で我々は16番目,全体合唱直後の順番に決まったのでした.

 続いては2番目の話題,当日の役割分担です.会場係やら舞台係やら,タイムキーパー,アナウンス等合計三十数人の係りが必要です.司会役の方が,最低1団体1名お願いしますみたいなことを言っていました.で,うちの合唱団の場合,こうした仕事を苦にしないメンバーが多いこともあり,「タイムキーパーって面白そうだね」とか話していて,せっかくだからウチからは2人だそうということになりました.複数名出してくれる団体は優先するとのことで会場係1名,タイムキーパー1名としてすんなり決まりました.

Img_3173 あとはその他の団体で係りを割り振るだけなんですが,ここからが難関(笑),曰く「うちは高齢者が多いから無理」とか,「そういうのできる人がいない」とか,難色を示すところも.それに対して「みんなでやっていく合唱祭なんですから,そんなこと言わずにお願いしますよ」と説得する主催者側とのやり取りが人間臭くて面白いなと感じてしまいました(PTAの役員決めとかもこんな感じなんだろうか).

 第3の当日の公式練習場に関しては例年医師会合唱団は独自の会場を使うので関係なしということですんなり終了,約2時間ちょっとの会合となりました.なにより人間社会の縮図のようなせめぎ合いを傍から観察するのが面白かったです.

 そんなことを考えた合唱連盟の理事会でした.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月 7日 (月)

バッハ・セミナー in 明日館

Img168  中央寮歌祭'17の翌日8月6日は,豊島区で開催されたバッハ・セミナー in 明日館の修了演奏会を鑑賞しに行ってきました.

 このセミナーは声楽指導者&バッハ研究家である佐々木正利先生を講師にお招きして毎年夏に西池袋の自由学園明日館で開催されているものです.毎年バッハの宗教作品数曲を取り上げて4日間の集中した練習で仕上げ,最終日に修了演奏会の形で発表するという形になっています.

 自分自身もあちこちでお世話になっている先生ですが,毎年この時期は他のドクターの休みを優先させているため,必然的に留守番となること,先述の中央寮歌祭と日程的に被ることから参加はできず,最終日の演奏会のみ聴きに行くというのがパターンになっています.

 自由学園明日館はアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの設計によるもので,現在は国の重要文化財に指定されています.今回の演奏会の会場となる講堂は彼の弟子遠藤新の設計で1927年に造られた建物です.2年間の耐震補強工事が終わりこのたび再開館となったところです(演奏だけでなく建物を見るのも興味深いところです).

20597285_1593466947386414_269252317  今年のバッハ・セミナーで取り上げられた曲は,なんとマタイ受難曲の第1部! バッハの数ある作品の中でも最高傑作との呼び声も高い名曲です.そんな名曲の勉強ができるということもあって,今年は全国各地から100人を超える受講生が集まりました.

 この修了演奏会,合唱はもちろん受講生が歌うわけですが,加えて独唱部分も受講者自身が担当するのがミソです.例年だとオーディションでの選出なんですが,今年は受講生が多いこともあって,希望者全員が何らかの歌う機会を与えられたとのことです.マタイ受難曲はソロ部分が多い曲ですが,それでも希望者の絶対数が多いため,1曲を分割してリレー歌いするという趣向で行われました.

20637994_1593466900719752_639764914  午後2時から開演です.例年合唱団はステージ上に並ぶんですが,今年は人数が多いために並びきるのが困難だったのか,左右の席に合唱団が座り(第1コーラスが下手側,第2コーラスが上手側),ステージには独唱者が立つスタイルでした.全体で3時間という大曲マタイですが,第1部はその3分の1ほどの長さ,音楽の充実ぶりもあり,あっという間でした.

 終演後は参加者や他の観客とのふれあいタイム(?)なんですが,自分の学生時代の知り合いがたくさんいて,久しぶりの再会が嬉しかったです.

 こうして暑くて中身の濃い週末となりました.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月 6日 (日)

中央寮歌祭'17

20597155_1411959655568062_710813705  8月に入って初めての更新になる.

 世間では夏休み本番といった時期だが,自分の場合は職場の他の方々(特に家庭がある方)の夏休みを優先させてあげたいこともあり,留守番に徹することの多い時期になっている.このため遠出をすることは少ないのだが,近場のイベントに参加することはもちろんある.

 そんな8月上旬の恒例イベントが中央寮歌祭だ.普段はオペラを中心とするクラシック音楽を愛好しているのだが,深層心理には寮歌が潜んでいて時として無性に歌いたくなることがある.こうした寮歌のイベント,かつては全国にたくさんあったのだが,当時を知る人々が減少するなか,各地の寮歌祭が終了または規模縮小となっている現実がある.この中央寮歌祭はかつて(2010年まで)存在した日本寮歌祭の精神を継ぐべく,2011年から始まった新しい寮歌祭である.毎年400人以上を動員するなど,新興ながら全国最大級の寮歌祭となっている.

 この寮歌祭がほかと違っているのは中心となっているのが旧制の方々ではなく,新制の若いメンバー(若いと言っても還暦越えが圧倒的ですが 笑)だという点があげられる.なので参加者にも若い人,さらには女性も多いという.世間では中堅どころに位置するだろう自分も一般の寮歌祭では圧倒的に若手なのだが,この寮歌祭ではやや若手の中堅くらいの位置になるから面白い.実は私もこの寮歌祭の幹事の末席に連なっているのだった.

 今年の中央寮歌祭は8月5日の開催,会場は新宿の京王プラザである.昨夜当直だった自分は朝一瞬自宅に戻ってそのまま小田急で新宿に向かう.新宿駅からは徒歩で会場へ,受付を済ませると学校ごとのテーブルへ,今回自分の所は4人だけだった(泣).

P8050593  11時に開宴,まずは開会の言葉,挨拶,檄文朗読(だいだいどこの寮歌祭でもこの檄文朗読は存在する)と続き,いよいよ寮歌高吟の時間となる.歌う順番は基本的に北から南であるが,公平を期すために南のラストと北の最初をくっつけた円状態にして,それを毎年少しずつ動かしていくスタイルである.なので今年は東京高等学校から始まって南下し,その後北に戻って最後は第一高等学校で終わるという流れだった.

 こうした寮歌祭,参加者の思いが熱いという特性があるのだが,その熱さのためか歌う前に長々とあいさつを始める人がいて,時間が押していくという問題がる.ただ近年は各地で時間に厳しい姿勢を取っているためか,この手の問題は減っているように感じる(もしかしたらメンバーの高齢化でそうした長挨拶をする元気な人が減っているだけなのかもしれないが).今回も1校4分でそれを超過したら鐘を鳴らして強制終了… ということになっていたのだが,幸いそういう事例はなかった.

P8050617 P8050602  そんなわけで会は順調すぎるほど順調に進み(最後時間が余ったため,急きょ有志による寮歌が追加になった),予定の15時30分に終宴となった.ちなみに自分は職業柄から医務係を仰せつかっているのだが,幸い今年は具合を悪くする方がいなかったのはよかった(なにせ超高齢の方も多く,しかも飲めや歌えやのイベントなので…).

 この寮歌祭,来年は8月4日(土)に同じ会場で行われる予定である.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年7月 | トップページ