高杉晋作ゆかりの地
一夜明けた5月3日(憲法記念日)は朝から良いお天気,さっそく観光に繰り出します.まずは市内中心部からというわけで,最初に行ったのが高杉晋作終焉の地.幕末の元治元年禁門の変で朝敵とされ,その後の幕府との第一次征長戦争,列強との馬関戦争によって滅亡の崖っぷちに立たされた長州藩の衰勢を一気にひっくり返したのが高杉晋作の活躍でした.彼の作った奇兵隊や彼の後輩たちが後の明治維新の原動力になったわけですが,高杉自身は肺病(たぶん肺結核)により慶応三年(1867年)の春に亡くなります.その最期の地がここ下関の新地になります(当時ここは庄屋林算九郎の邸だった).
終焉の地を見学していたら地元の観光ガイドの方が史跡マップをくれました(以後はそのマップを頼りに散策).ここから北に徒歩数分歩いた場所が萩藩新地会所のあった場所で,元治二年(1865年)1月に功山寺で決起した高杉が伊藤博文らとともにこの地に談判に訪れています.実は幕末期,下関は長州藩ではなく支藩の長府藩の領地だったので会所は出先機関の役割を担っていました.
この新地会所跡の隣が厳島神社,同名の広島の世界遺産とは無縁ではなく,平安末期に本家厳島神社の分霊を持って平家の人々がこの地にやって来たのですが,壇ノ浦の戦いで敗れた後,地元の人がその分霊を祭って建立したとのゆかりがあります.境内には慶応二年の小倉戦争での戦利品として奇兵隊が持ち帰った太鼓があります(毎年9月の第1土曜日にこの太鼓を打ち鳴らす「太鼓祭り」が行われる模様).
厳島神社を北に抜けてそのまま山陽本線の線路の近くの小道を歩いて北上し桜山神社を目指します.途中には晋作が小倉戦争後に療養していた寓居跡がひっそりと建っていました.
桜山神社は別名招魂社といい慶応元年に晋作の発議で建設されたものです.ここには幕末維新の動乱で亡くなった多くの志士たちが祀られています.先ほどの小道を北上し桜山小学校を左手に見ながら少し行ったところに入り口がありました.見上げる階段はちょっとめまいがしますが(笑),気が生い茂っているためさほど苦労せず登れました.
神社に着くとさっそく墓地(?)へ.整然と石碑が並ぶさまは言葉はなくとも強い印象を受けました.立場は異なりますが,同じ尊王攘夷を掲げた水戸の回天神社にある共同墓地を訪れたときと同じ印象でしょうか.石碑は最前列の中央に吉田松陰が(彼の石碑だけ少し大きい),その隣に高杉晋作,久坂玄瑞,吉田稔麿、入江九一といった大物が並んでいたのが印象的でした.
招魂社を後にして下関駅方面に戻ることにします.下関医療センターそばを通って,幕末期の道のルートそのままとなっている路地を南下していきます.その途中に慶応元年ごろにこの地に潜伏中だった晋作が反対勢力に襲撃された際に隠れたとされる井戸(ひょうたん井戸)がありました.
井戸を見学した後は付近の吉田松陰宿泊所跡などを見て,そのまま国道191号線へ出ます.ここには幕末の下関の豪商白石正一郎旧邸跡があります.白石はいわゆる尊攘派の志士を経済的に支援していた人物として知られています.長州藩の高杉晋作や久坂玄瑞はもちろん,土佐脱藩の坂本龍馬も援助したそうです.奇兵隊は文久三年にそんな彼の家で結成されました.今は邸の痕跡を残すものはなく,記念碑だけがひっそりと建っています.
そのまま191号線を歩いて線路を潜るとここから国道9号線になります.東に数百メートル歩いてちょっと裏道に入るとそこに日和山公園への登り口になります.先ほどの桜山神社(招魂社)の階段と違って日を遮るものもないので疲労の激しい階段でした(笑).なんとか登っていくと公園に到着,ここは関門海峡が一望できる丘になっていて,高杉晋作の立像が立っていました.
公園散策を終えたらちょうどお昼時だったので駅そばの大丸内のレストランへ.この日は英気を養うためにうな重をいただきました(最近値上がりしているためかうなぎを食べたのはすごく久しぶり).飲み物としてアイス抹茶を注文したんですが,甘い味が付いていました(これが普通なのか?).
食後はレンタカーで長府に向かいます.
長府は萩を拠点とする長州藩の支藩である長府藩の中心です.城郭は今の開見台公園のある高台に位置していましたが,城下町はそれよりも北に広がっていました.萩と同じように昔の城下町の風情が良く残っている街です.ここでまずやって来たのが功山寺,ここがいわゆる高杉晋作決起の地です.
元治元年の禁門の変やその後の馬関戦争,第一次長州征討で追い詰められた長州藩は幕府に恭順を示す俗論党が主導権を握っていました.これに対して同年12月15日深夜に高杉は彼の意思に賛同したわずかの兵とともに俗論党から政権を奪うべくここで挙兵したのです.当初は100人に満たない勢力でしたが奇兵隊など長州藩内の諸隊が次々に合流し,各地の戦いで勝利し,翌元治二年2月には俗論党は壊滅し,以後長州藩の藩論は倒幕一本になります.そんな高杉決起の寺は新緑がまぶしいところでした(実はここには2010年にも来ているんですがその時は紅葉がきれいでした).
ちなみにこの功山寺の境内には騎乗した高杉の像が建っているんですが,高知桂浜の坂本龍馬像,東京高幡不動尊の土方歳三像と共に幕末三大像と呼んでいる人もいます.
続いては功山寺向かいにある下関市立歴史博物館へ.ここはかつて長府博物館という名称だったんですが,昨年リニューアルされて今の名称になったようです.この日は常設展に加えて高杉晋作オンリーの企画展も行われていました(前回訪問した2010年は大河「龍馬伝」の年だったので企画展は坂本龍馬だった).ここの目玉は馬関戦争でフランスに戦利品として持ち去られ,その後貸与という形で戻って来た荻野流一貫目青銅砲です.パリのアンヴァリッドに残されているもう一門よりも小振りな砲で,弾痕がなく馬関戦争当時実際に発射されたわけではないとされています.博物館の後は近くの長府毛利邸や古江小路を散策しました.
長府を後にしてレンタカーでさらに西に向かいます.次なる目的地は吉田地区にある東行庵,そう高杉晋作の墓地になります.東行とは高杉晋作の号で,もちろん平安末期の有名な僧侶西行のパロディです.慶応三年4月に亡くなった高杉は彼自身の遺言にしたがいこの地に葬られました.そして彼の愛人だったおうのが出家して梅処を名乗り初代庵主となったものです.ここには高杉の墓の他,彼ゆかりの品々を展示した東行記念館もあります(ただし東行記念館は東行庵敷地内にあるものの,組織上は下関歴史博物館の分館).まずは記念館に入ります.なんといってもここの注目は高杉が愛用していた道中三味線や瓢が展示されていることです.戦場にも三味線を持っていき弾いていたといわれるほど音楽好きで,いつでも瓢が放せないほど酒好きだった彼らしい品々です.
記念館を出て境内を散策,ほどなく高杉のお墓を見つけました.酒好きの彼をしのんでいるのか酒瓶がいくつか添えられていたのが印象的です.
幕末期に肺病で若くして亡くなった著名人といえば高杉のほかに新選組の沖田総司がいます.高杉の墓所はこのようにいつでも誰でも見ることができます.一方で沖田の墓所である東京の専称寺は檀家以外の墓参を原則として認めていません(年に1回の総司忌の日のみ例外).これはかつては沖田の墓も普通に墓参できたのですが,一部の心ないファンの行為により多大な迷惑をこうむったお寺側が今のような処置をとったからです.どちらも幕末期の人気キャラだと思うんですが,こういった違いが出てくるのはファン層が相当に違うせいなんだろうかと複雑な気分になりました.
東行庵はまた花の綺麗なところです.桜はさすがに終わっていましたが,ツツジや藤などがきれいに咲いていました.
これにてこの日の観光は終了,その後は一路この日の宿泊先である徳山に向かいました.
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