« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »

2017年3月28日 (火)

ビザンチン皇帝の誕生日

Img_360b19ba2cfaf407d02ca95086e37_2  今日3月28日はブログ主ビザンチン皇帝コンスタンチヌス21世の誕生日です.何歳になったのかはさておき,ひとつの区切りの日であることはたしかです(だいぶ昔の同日の記事に天才バカボンのパパと同い年になったと記したのでそこを基準に計算するとわかります 笑).

 誕生日というと,小学校あたりだとクラスでお誕生会みたいなのを開くこともあるんですが,3月は年度末の慌ただしさに春休みもあって,自分のお誕生会が開かれた記憶は全くありません.現代社会なら「差別だ!」と騒がれそうな気がしますが,当時はおおらかだったのか,「まあそんなものか」という程度の認識だったように思います.

 3月下旬生まれといえば,早生まれ中の早生まれです.4月生まれの子とはほぼ1年違います.この時期の1年といえば発育の観点から大違いなため,特に幼稚園から小学校低学年時代は朝礼の並びは前の方で,運動会の徒競走はほぼ確実に最下位でした.早生まれの科学的な不利を知ったのはもっと後のことですから,小学校当時は「どうして自分は他の子より遅いのだろう」と漠然と思っていた記憶があります(なので自然に体育嫌いになり,その反動から読書に走り始めた).

 3月末生まれが不利な点をもう一つ挙げると,高校時代に車の免許が取れないことが挙げられます.大学等に進学する人には関係ないかもしれませんが,高卒で就職する人にとっては卒業時点で免許があるのと無いのとでは就活に影響するんじゃないかと思います.

 一方で有利なんじゃないかと思える点もあります.それは大学受験を17歳で迎えること.ぶっちゃけいうとほかの子よりも1年早く大学受験を経験できるわけで,「たとえ1浪しても4月生まれの現役生と同じになるだけじゃないか」といった精神的な余裕が生まれることが挙げられます.この余裕が功を奏したのか,自分は現役で合格できました(合格発表の日はもちろん,新居を決めた日もまだ17歳でした).

 そんな3月28日生まれ,自分の他にどんな人がいるのかと調べてみると,大相撲解説で有名な北の富士,女優の神田うの,歌手のレディ・ガガがヒットしました.どれも強烈な個性の持ち主です(強烈さでは自分も負けていないか 笑).

 そんなことを考えた皇帝誕生日でした.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月27日 (月)

きっぷ

 先週の演奏会の反動で日常業務に走り回っています.昨日は沼津市への出張当直に出かけていました.

 朝向こうを出てバスと電車を乗り継いで小田原駅に到着,改札を抜けようと思ったら…

 切符を紛失したことに気が付きました ( ゚Д゚).

 駅員さんのいる改札に行ったんですが誰もいません,見たら自動改札のところでトラブルになっている乗客に対応中でした.そのまますり抜けることもできそうなシチュエーションでしたが,善良な市民である私がそんなことをするはずもなく(^^;),そのまま待っていました.

 しばらくして駅員さんがやってきました.で,沼津から乗ったこと,切符を紛失したことを話すと,「今回はいいですから,次から気を付けてください」とあっさり通してくれました.

 切符紛失の場合始発からの運賃を取られることもあるんですが(私鉄の場合は大抵そう,JRの場合は始発とか言い始めるときりがないので不明),無人の改札でおとなしく待っているほど善良な人だと(笑)認識されたようです.ただこの待ち時間のために接続の電車に乗り遅れてしまったというオチが付いたのでした ( ̄▽ ̄).

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月24日 (金)

迷惑電話

 近年はメールやLINEなどインターネットを利用したコミュニケーションツールを利用する割合が高くなっているとはいえ,即応性という点において電話に勝るものはありません.ネットだと数分かかるやり取りも電話なら一瞬で終わることが多いからです.

 一方で即応性が高いが故の欠点もあります.それは着信があったときに即座に対応しなければならないこと(まあ,だから即応性が高いわけだが).極端に言えばトイレで用を足している最中に着信が鳴ることもあり得るわけです.かつて病院内で医師の呼び出しにはポケベルが使われていたんですが,それが院内PHSに変わった時には便利になったと思う反面,この即座に対応しなければならないという点をストレスに感じたのを覚えています.

 そんな日常生活に欠かせない電話ですが,時にまったく不要であるばかりか,フラストレーションがたまるだけという電話もあります.それが表題の迷惑電話,その大半はいわゆる勧誘電話です.ほとんどは節税対策としてマンションなどの不動産を売りつけようという内容です.この手の電話は日中の業務中はもちろん,出張先の当直中にもかかってきます.もっとも,最初から不動産関係と名乗れば受付の段階で拒否されるのがわかっているためか,あの手この手で医師のところに繋がせようとしてきます.よくあるのが●△メディカルなどと,いかにも医療機器メーカーっぽい名を騙るパターンですが,さらに悪質なのになると〇■病院☆科の誰々などと,医師の名を騙ることもあります.このパターンになると,こちらとしても患者紹介かなとうっかり電話に出てしまうこともあります.ところが電話に出た瞬間から営業話が始まるため,こちらが「〇■病院の誰々さんじゃないんですか?」というと,「そんなことは言ってない」と開き直ることがほとんどです.ウソの名前を名乗って来る段階でまともな業者ではないので,こちらも問答無用で電話を切るんですが,はっきりいって嫌~な気分になります.

 そんな悪質電話の中でも最悪なのが,自分の携帯にかかって来るパターンです.重要な個人情報である携帯の番号がどこからか漏洩してこの手の業者に渡って起こるわけですが,過去に自分のところにも来たことがあります.この時はうっかりと出てしまったものの,

悪質業者 「ビザンチン先生の携帯ですか?」

私 「違います.スルタンです.」

悪質業者 「えっ,ビザンチン先生の携帯じゃないんですか?」

私 「違います,昨日も同じ間違い電話が来たんですが,どういうことですか!

と言ってやったらガチャ切りされ,以後かかってこなくなったことがあります(おそらくはこの電話番号は違うと認識され名簿から抹消されたんでしょう).

 最近ウチの職場にこの手の電話が来るとこぼしている同僚がいます.どこで漏れたか(学会か,クレジット会社か)はわからないそうですが,怪しい番号は片っ端から着信拒否にしているそうです.近年では電話番号をネットで検索すると,悪質業者だとほぼ確実にヒットするので便利なんですが,相手も次々に番号を変えてくるので,一種のいたちごっこの状況です.

 一般にこの手の勧誘電話は0120や050などで始まる番号が多いので,この手の番号には出ない(稀に存在する勧誘でない電話の場合はメッセージを残していくのでかけなおせばいい)のが鉄則かなと思っています(ウチの実家の固定電話もナンバーディスプレイにしていて,親には0120の電話には出るなと言ってあります).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月21日 (火)

ヨハネ受難曲演奏会に参加しました!

Img148  この週末盛岡に行って,当地で開催されたヨハネ受難曲演奏会に参加しました.この公演は盛岡バッハ・カンタータ・フェライン40周年記念演奏会として行われるものです.演奏本番は20日なんですが,オーケストラとの合わせは18日(土)からというわけでこの日に盛岡入りです.前日は静岡県内での出張当直だったので朝早めに帰宅,荷造りは事前に終わらせておいたため,そのまま出発となります.在来線と東北新幹線を乗り継いで15時ごろに盛岡駅に到着,待っていた母親と合流して盛岡市内お墓参りツアーへ繰り出します.そう,世間ではお彼岸なのでした.その後夕方からの練習に参加,終了後は久しぶりの実家入りでした.

 翌19日は本番会場となる盛岡市民文化ホールでの練習になりますが,この日の集合はお昼の12時半ということで久しぶりの朝寝坊,食事は朝昼兼用のブランチになりました(笑).

P3200720  集合時間ちょっと前に会場入り,いよいよステージでのリハーサルが始まります.自分にとってのヨハネ受難曲は2007年以来10年ぶり,オケの音が鳴り始めた瞬間から背筋がぞくぞくしてきます.この日はソロの楽曲も入るのでソリストの皆さんもフル参加となります.今回は40周年記念演奏会ということで,ソリストも合唱団ゆかりの方々(かつて合唱団に参加,あるいは現在も在籍している方々)です.みなさん各地で活躍されている人たちばかりなんですが,こんな人たちとド素人の自分が同じステージに立てるという合唱団の懐の深さに感謝です.

 スケジュール表だとリハーサルは夜の9時までだったんですが,順調に行ったのか5時過ぎに終了,指揮者の先生からは「明日に備えて英気を養ってください」とのお言葉が (^.^).英気を養うということは栄養を摂って気合を入れろということだろうと解釈し,市内のお肉の店に繰り出しました.

P3190713 P3190716  岩手といえば前沢牛が有名ですが,短角牛も魅力です.さしの多い前沢牛は時に胃もたれする恐れがあるので,演奏会前には赤身の短角牛の方が向いています.さらに英気を養うためにワインもいただいたことはいうまでもありません(笑).

P3200721_2  一夜明けて20日はいよいよ演奏会本番,この日は9時半に会場入りしました.ホワイエで発声練習後,ホールでのゲネプロに臨みます.本番直前ということもあり,先生からは無理をしないようにという指示を受けました.約2時間ほどでゲネは終了,昼食&休憩時間となります.朝にコンビニでサンドイッチを購入していたんですが,急に汁物が恋しくなったため駅の立ち食いそば屋に出て山菜そばをいただきました(同じパートの他の方もいた 笑).

 昼食後会場に戻って着替え,いよいよ開演時間となります.演奏の中身に関しては聴いてくださった方々にお聞きするしかないんですが,東京から駆けつけてくださった方々からもよかったと言ってもらえました(個人的には第1部の終曲,ペテロ懺悔のコラールの後,指揮者やソリストが退場する際に拍手無しというのが感動しました.音楽の中身的には拍手する雰囲気じゃないので,お客さんも雰囲気を感じたのでしょうか).

P3200724  終演後は近くのホテルでレセプション,お酒をいただきながらオケやソリストの方々のお話を伺いました.宴はまだまだ続きますが自分は翌日から通常業務のため,19時半過ぎに退出,新幹線に乗り込んだのでした(駅で偶然にも東京の合唱団の人達と再遭遇 笑).はやぶさ号に接続するこまち号の遅れで東京着が10分遅れ,さらに接続の東海道線が人身事故でストップするなど自分に責任のないアクシデントはあったものの,なんとか帰宅できました.こうして2017年自分にとっての10大ニュースの上位に来るだろう演奏会は終了したのでした.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月15日 (水)

歌劇 「ルチア」

Img147  一昨日の晩(3月14日),初台の新国立劇場で上演された歌劇「ルチア」(新製作)のプルミエを観劇してきました.ルチアは19世紀前半を代表するイタリアオペラ作曲家,ドニゼッティの代表作で,私も非常に好きな作品のひとつです.

19世紀のイタリアオペラの系譜はロッシーニから,ベルリーニとドニゼッティ,そしてヴェルディからプッチーニに至りますが,ドニゼッティが活躍した時代は18世紀的な歌手の技巧を聴かせるのがメインのオペラから,よりドラマ性を重視したオペラへとの脱却が図られた時代です.歌劇という言葉に示されているように,古来オペラの主役は歌であり,ドラマはあくまでも歌に従属する存在とされていました.実際に当時の聴衆はドラマは二の次で,歌手の美声や超絶技巧を聴くために劇場に通い,素晴らしいアリアの後には割れんばかりの喝采で劇の進行が中断することは日常茶飯事だったのです.

 しかし19世紀に入ると,これではいけない,オペラももっとドラマ性を重視すべきだという考えが生まれてきました.その一方,歌手の見事な技量を堪能したいという声も根強くありました.ところが,こうなると困ったことが起こります.それはドラマ性の重視と歌手の技巧の披露は基本的に両立しないからです.なぜかというと,従来のオペラでは物語が進行してクライマックスになると歌手はあらん限りの技巧を尽くして難しいアリアを歌います.アリアの間,他の登場人物はすることがなくなってしまいますからその間ドラマは止まってしまうことになります.これでは,せっかく盛り上がったドラマに水を刺すことになってしまいます.逆にドラマを重視すると,アリアなんか歌ってる暇はないことになります(ドラマ性をより重視したワーグナー作品にアリアと呼べるものがほとんどないのはその事実を証明しています).

 そこでドニゼッティの時代には,この相反する二つの要求を解決する方法が考え出されました.それは,ヒロインが悲しみのあまり発狂してしまい,狂ったように超絶技巧のアリアを歌うというスタイルです.これなら観客は歌手の技巧を堪能する一方で,発狂してしまったヒロインに共感するというドラマ性も維持することが出来ます.ドニゼッティが活躍した時代には,こういう形式のオペラが多く作られ,こういう作品を狂乱オペラと呼んでいます.ルチアは狂乱オペラの最高傑作といえる作品なのです.

 したがってこのオペラではなんといっても,ヒロインであるルチアを歌う歌手の出来不出来が重要なカギを握ります.有名なわりに上演頻度が高くないのはひとえにルチアを歌うことの難しさがあるからです.作品中,ルチアの歌うアリアは2曲だけですが,どちらも非常に難しく,特に後半のアリアはコロラトゥーラを駆使した極めて技巧的な歌と叙情的な歌がなんと延々20分も続きます.今回の公演でルチアを歌うのはロシア生まれのオルガ・ペレチャッコ=マリオッティさん,プロフィールによるとメトロポリタン歌劇場でベッリーニの歌劇「清教徒」のエルヴィーラを歌った人です(清教徒もヒロインが発狂する狂乱オペラ).2幕のアリアは鬼気迫るというか,凄い迫力で圧倒されました.その他今回の公演では,2幕のルチアの狂乱アリアで通常フルートのソロが奏でる部分をグラスハーモニカで演奏していたのも注目でした.この楽器自体普段目にする機会がなく,ましてや生で音を聴く機会もないんですが,その独特の音は狂気の世界にいるルチアの叫びにもの悲しくこだまするようでした.

Dsc_1412  演出に関してはまだまだ公演は続くのであまりネタバレできませんが,この作品の舞台であるグレートブリテン島北部の荒涼とした色彩が出ていたと思います.終幕で岬の突端で仁王立ちしているライモンド役の妻屋秀和さんが騎士長に見えたとか,1幕後半のスコットランドの民族衣装(キルト)を着たエドガルドが女子高生のコスプレに見えてしまったというのはナイショです(笑).

 この公演,3月26日まであと4回あります.素晴らしい割に上演頻度が少ない作品でもありますからぜひ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月12日 (日)

第20回ひの新選組まつり参加通知

 この週末は仙台での祈りのコンサート等で走り回っていたんですが,その間に自宅のポストに1枚のハガキが届いていました.そう,5月に開催されるひの新選組まつりの参加通知です.

 2006年の第9回からほぼフル参加しているお祭りです(震災で中止になった2011年5月の代替で同年秋にひっそりと開催された第14回除く).当初はコンテストから参加がデフォだったんですが,震災を挟んだ心境の変化に加えて,世代交代が進んでいること,当初一緒に参加していた仲間たちの大半が卒業してしまったことなどからコンテストへの情熱も失われてしまい,近年はパレードのみの参加,特にここ数年は衣装持ち込みの本隊参加と新選組と出会った人々枠での参加が半々程度という感じになっています.

 今年に関して言えば,参加したいという思いは相変わらずなんですが,前日に同窓会が入ることが確定している都合もあり,自前衣裳を持って移動するのは面倒なので,準備の不要な出会った人々枠で申し込んでいました.例年だとこの枠は,当初募集されている役柄とお祭り当日に登場する役柄が違っているなど,そのファジーさも楽しかったりするんですが,今年に関して言えば,希望する役柄に対する思いをアピールする欄が用意するなど,単なるオマケとはいえない感じになっていました.

 ただ自分的には何が何でもこの役を!というほどのものはなかったこともあり,特に希望はなしで申し込んでいました.そんな私に与えられた役は…

Img_2949  高杉晋作 ( ゚Д゚)

Takasugisugata  長州藩,バリバリの倒幕派です.

 南部藩出身,会津・新選組びいきの自分が長州とは… (^^;).たしかに昨年は尊王攘夷派の清河八郎をやりましたが,彼は新選組の前身浪士組の創設者であり東北の庄内藩出身,一方の高杉晋作は生粋の長州藩士です.かつて「新選組 in 長州」なんていうイベントをやって遊んでいた自分が,長州藩の代表的人物になるとは想像もしていませんでしたが,これもなにかの縁,頑張ってみたいと思います(まあ政治色が強い桂小五郎や薩摩の大久保一蔵よりは抵抗が少ないか 笑).参加さらる皆様今年もよろしくお願いします.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月11日 (土)

3・11祈りのコンサートに参加しました

 今日3月11日は忘れられない日です.

 6年前のあの日は金曜日,当地は朝から快晴の一日でした.院長も副院長も出張で不在,昼下がりの医局には何となく寛いだ空気がただよっていました.

 そして午後2時46分突然の大きな揺れが,これが東日本大震災の瞬間です.当地は幸い停電にもならなかったので,その後の状況はテレビを通じて伝わってきました.院長&副院長不在の病院では残った幹部職員によって善後策が協議されたのを憶えています.当日は公共交通機関が軒並みストップしたため帰宅できない職員もいて混乱しましたが,同じころ故郷の東北の人達の苦境に比べたら,何も起こってないのと同じでした.

 そんな3月11日に仙台で開催されているのが表題の祈りのコンサートです.震災で亡くなられた方,傷ついた方の魂や心を慰めるのが目的です.演奏曲目はW. A. モーツァルト最晩年に作曲された宗教曲,アヴェ・ヴェルム・コルプス K. 618とレクイエム K. 626,演奏は東北を拠点に活動している合唱団やオーケストラによります.

Img146  現在の運営方式では第4回ですが,実際には震災2年後の2013年から同様の趣旨での演奏会が行われていますので,それを合わせると5回目ということになります.自分は仕事の都合で2014年は参加できませんでしたが,それ以外は毎年参加しています.特に今年は土曜日ということで参加のハードルは低かったです.

 前日の3月10日は出張の当直だったので,朝そこから新幹線を乗り継いで仙台に入りました.リハーサルが終わり,外で昼食を摂り本番に臨みました.

17211798_797578003743389_7193025557 (写真) これはリハーサルのショット(友人提供)

 まずは実行委員長の挨拶に始まり,そして14時46分に黙祷,その後演奏となります.演奏後も拍手はなく,黙祷によって締めとなりました.この演奏会も市民に認知されてきたこと,この日は土曜日ということもあったのか,会場は満員に近いお客さんが入っていました.

 終演後参加者はレセプションとなりますが,自分は次の用事があるため新幹線で東京に向かったのでした.

 追記: 今回の演奏会でバスのソロを歌っていただいたのが,弘前在住の熊木晟二先生,自分が弘前に住んでいた時代にメサイアや市民オペラでお世話になったほか,古くは1986年の東北大混声の定演で奇しくも同じモーツァルトのレクイエムでソロをお願いした先生なのでした.終演後会場でお話しする機会があり嬉しかったです).

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月 8日 (水)

ラオス旅行記③

 ラオス旅行記その3は2月4日の後半です.

 昼食後,午後の観光に出発です.まずはレストランから徒歩でルアンパバーン旧市街のメイン通りに向かいます.途中の路地には紙漉きをして売っている人がいました(日本の和紙と同様の製法).通りにはあちこちに露駐の車があったんですが,ガイドさんが一台の車を指して,「あれは中国の車ですね」と言いました.見ると青いナンバープレートで漢字が書かれています(ラオスのナンバープレートは一般に白い).実は中国の雲南省あたりとルアンパバーンは意外に近いので,こうして車で観光にやってくる中国人は多いのだそうです.それだけ国境地帯の治安も安定しているということでしょう(これが中国とミャンマーの国境付近なら… ( ゚Д゚)).ちなみに漢字の川は四川省を,云は雲南省を表すのかなと勝手に推測しました.

P2040205 P2040217 (左写真1) 紙漉をしています.(右同2) 漢字が入った中国のナンバー

P2040226 (写真3) サッカリン通り

 そのまま少し歩くとメイン通りに出ます.ここはサッカリン通りというなんだか甘そうなイメージの通りなんですが,このサッカリンは人工甘味料のことではなく,19世紀のルアンパバーン国王の名前に由来しています.この地は19世紀の末から20世紀の中盤までフランス領となっていたために,今でもフランス風の建物が立ちならんでいるのでした.このあたりには地元の小学校や幼稚園が並ぶほか,ラオス王国の元王族のお姫様(ガイドさんはそういっていたが,相当な高齢な方)が住む宮殿(?)もありました.

P2040221 P2040229 (左写真4) 地元の小学校,(右同5) お姫様の館

P2040237 (写真6) シーサワンウォン通り

 お姫様の宮殿の角からメイン通りはシーサワンウォン通りと名前が変わります.名前の由来は1904年に即位したルアンパバーン国王の名で第二次世界大戦やその後のインドシナ戦争といった激動の時代を生きた人物です.シーサワンウォン通りに入ると道の両側に商店やレストラン,カフェが立ち並ぶなど華やかさが増します.夕方以降毎日開催されるナイトマーケットの会場もこのエリアです.

P2040240 (写真7) 王宮の正面

 通りをしばらく歩いていくと,右手に大きな建物が見えてきました.これがかつてルアンパバーン国王の宮殿だったところで,現代は王宮博物館(国立博物館)となっているところです.さっそく見学に向かいます.門から入ってすぐ右手にあるのはパバーン像安置祠という仏像が納められた祠です.祠といっても立派な建物で,壁には金ぴかの装飾が施されているほか,午前中に訪問したワット・シェントーンと同様に反った屋根などラオス風味の建物です.その反対側を見ると,この宮殿の主だったシーサワンウォン王の銅像が立っています.これは旧ソ連から贈られたものだそうで,言われてみると重厚な感じがソ連っぽいです.

P2040241 P2040243 (左写真8) パバーン像安置祠,(右同9) シーサワンウォン王の像

 そしていよいよ宮殿の中に入っていきます.ここでは靴を脱ぎ,荷物はロッカーに預けてからの見学となります.内部は写真撮影も禁止なのでカメラも持ち込めません(スマホ程度はポケットにしまうなどしていればOK).中には国王が公式の謁見を行った部屋や各種儀式が行われる部屋を始め,国王や王妃の寝室や王族が食事を行った食堂,国王の書斎などのプライベート空間などがあります.また王族が使用していた装備品や,諸外国から贈られた宝物なども展示されていました.宮殿そのものが建設されたのは1909年でフランスの保護領だった時期になり,建設に当たってはフランスの援助もあったため,周辺にある寺院とは違いここは西洋風の造りになっています.

P2040246 (写真10) 巨大なニワトリ

 王宮内部の見学の後は,裏手にあるガレージにあるかつて国王が使用した自動車を見学,年代物のリンカーンなど見る人が見れば感動モノの車体が並んでいたんですが,自分が注目したのはそこではなく,向かい側の建物から顔を出していた巨大ニワトリ!,いったいこれは… ガイドさんに聞いてもよくわからないという謎の存在でした.

P2040264 (写真11) ワットマイの本堂内

 王宮博物館の見学の後はその西隣にあるワット・マイへ.ワットとはラオス語で寺,マイは新しいの意ですから,日本語でいえば新寺という意味になります.実際にこのお寺の建立は18世紀末ですから,午前中に見学したワット・シェントーンより200年以上新しいことになります.ここも屋根は基本的にルアンパバーン様式ですが,後代の王が改築を繰り返したためその他の様式も混在しているのだそうです.このお寺は外壁に見事な黄金の浮彫が描かれているのも特徴なんですが,これはラーマーヤナの物語なのだそう.ラーマーヤナは古代インドの叙事詩で,元々ヒンズー教のものですが,東南アジアの仏教圏に広く知られている物語となっています(カンボジアのアンコールワットにもある).本堂の中では,ちょうどこれから出家するらしい若者を囲んで一族(?)の人たちがイベントをやっていました.なお境内には本堂の他に卒塔婆などが並んでいました.

P2040260 P2040263 (左写真12) ワットマイの外観,(右同13) 外壁はラーマーヤナの物語

P2040344 (写真14) ホテルのプールサイド

ワットマイ見学の後は一旦ホテルに戻っての休憩時間です(次は夕方からプーシーの丘で夕日見学).2時間ほどの自由時間だったので,せっかくだからとホテルのプールに繰り出しました.実際旅行の際にプール付きのホテルに宿泊する機会は多いんですが,観光が忙しすぎて(笑)プールを利用する暇がないのが実情です.今回は貴重な機会となりました(気持ちよかったです).

P2040267 (写真15) ワットマイからプーシーの丘の仏塔が見えます

 夕方になり迎えがやってきて出発です.今度の目的は世界遺産ルアンパバーン市内を一望できるプーシーの丘,特にここから眺める夕日が素晴らしいということです.さっき見学した王宮博物館そばのシーサワンウォン通りから階段を上っていくんですが,市内との標高差は150メートルで,なんと会談が328段もあり息が上がります.それでも15分ほどで丘の上に到着,山頂は世界遺産の夕日を見ようという観光客でごった返していました.まさに立錐の余地もないという感じです.3年前に行ったミャンマー・バガンのシュエサンド・パゴダも大混雑だったがここまでではありませんでした(笑).ここからはほぼ360度のパノラマが堪能できます.市街地(自分が宿泊しているホテルも見えた)やメコン川,支流のナムカーン川が一望できました(すさまじい人混みの隙間からなんとか写真を撮った).

P2040272 P2040323 (左写真16) プーシーの丘への階段,(右同17) 山頂はすごい人!

P2040282 P2040317 (左写真18) ナムカーン川,(右同19) メコン川と夕日

P2040339

(写真20) ナイトマーケットの始まり

 日没後来た道を戻ります.登りと違って下りは楽で,10分もかからないで下界に到着します.降りてみると,さっきまではただの道路だったシーサワンウォン通りにたくさんの露店が出現しています.これがルアンパバーン名物のナイトマーケットです.もっぱら外国人観光客相手の露店なので,野菜などの食料品や日常雑貨はなく,売ってるのはもっぱらお土産物でした(あとはファストフード的な屋台はある).キーホルダーなどの小物に加えて,織物をよく見かけました(ラオスの名産らしい).道路に整然と露店が並ぶさまを見て,店同士でけんかになったり,場所取りで揉めたりしないのか心配になったんですが,ガイドさんによると,どのスペースに出店すのかあらかじめ決められているとのことだった(たしかにそうでもしないと大変なことになりそう.ナイトマーケット実行委員会とかがあるんだろうか 笑).

P2040348 P2040352 (左写真21) アジア的な熱気です,(右同22) これから開店準備です

 そんなナイトマーケットの散策の後は夕食の時間,この夜のレストランはシーサワンウォン通りよりも一本メコン川側に入った通りにあるソン・パオレストランという郷土料理のお店です.ここは日本人が経営しているらしく,日本語表記のメニューもありました.この日のコースは最初に菜の花スープ(塩味あっさり系で美味しい),その後に各種料理の盛り合わせが登場,昨夜のラープは豚肉でしたがこの日は鶏肉,やっぱりハーブ(というかパクチー)が効いています.その他ラオス風の春巻きや野菜炒めがあったんですが,ひときわ注目をひいたのがご飯です.実はラオスの主食はコメはコメでももち米なのです.昨夜のレストランは普通のうるち米だったんですが,この日はついにもち米が登場,赤米を使っているらしく,ぱっと見は赤飯かと思いました.食べてみると確かにもち米で,ごま塩をかけるとまさにお赤飯という感じでした.

Dsc_1293 Dsc_1295 (左写真23) ラオスの郷土料理,(右同24) ラオスの主食はもち米です

 食事をしていると踊り子さんと楽器の人が登場,ここからはラオスの民族舞踊ショーの時間となりました(この日はお客さんが少なくて貸し切り状態,お店のマスターは「いつもはこんなことはないんですが,今日に限って貸し切りなんですよ~」とおっしゃってました 笑).

P2040356 (写真25) 踊り子さんとの記念撮影

 食事後はホテルに戻ります.明日はルアンパバーン名物,早朝の僧侶の托鉢を見学するため,さっさと寝ることにしたのでした.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月 2日 (木)

イスラエルのワイン

 今夜は久しぶりに家でゆっくりしています.

 で,夕食に昨年9月のイスラエル旅行で購入したワインを開けました.

Dsc_1404(写真1) Gamlaワイン

  銘柄はGamlaというゴラン高原にブドウ畑のあるワイナリーです.ゴラン高原はイスラエル北部,ガリラヤ湖の東に広がる高原です.元々はシリア領でしたがこの地に設置した砲台からイスラエル側にしきりに砲撃が繰り返されていたこともあって,第三次中東戦争の際イスラエルが占領しそのまま実効支配を続けている土地です(シリアはもちろん国連もこれをイスラエルによる不法占拠とみなしています).同地には1974年以来国連のPKO部隊が展開しており,1996年から2013年までは日本の自衛隊も参加していました.

P9150398 (写真2) ガリラヤ湖から望むゴラン高原

 そんなゴラン高原は標高が高く,昼夜の寒暖差があってブドウ栽培の適地でもあります(元々ワインの起源がこのあたりだから当然か).イスラエルによる占領後この地でブドウ栽培が本格化し多くのブドウ畑が作られ,そこでできたブドウがワインになっています.

 このGamlaはゴラン高原の有名な銘柄で,イスラエルのスーパーなどでも売られていて,現地ガイドさんのご推薦銘柄でもあり購入したという次第です.以来家のワインセラーに眠っていましたが,飲んでみようということで今日開栓した次第です.美味しかったです(酸味,甘味,渋味のバランスが取れていて素直な感じ).

 ただラベルの表示がほとんどヘブライ語のため,ブドウの品種と製造年以外は何が書かれているのか全く分からないのでした(笑).

Img_2902 (写真3) ヘブライ語表記のため全く読めません(^^;)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月 1日 (水)

3月になりました

 この間お正月を迎えたと思ったら,いよいよ3月に突入してしまいました.月日の流れの速さに驚きます.3月といえば春のイメージですが,今日は雨降りでまだまだ寒い当地です.

 そんな3月最初の日は夕方から研究会に参加するため横浜に繰り出しました.パーキンソン病関連の研究会で毎年参加しているものです.

 電車を乗り継いで横浜駅に到着,会場は駅西口にある横浜ベイシェラトンです.会場の入り口で,「そういえば参加費が必要だったな」と思い懐に手をやったんですが,あるべき場所に長財布がありません.あっ!と思ったんですが,別に掏られたわけではなく,実はこの日のお昼に研究会ようにとジャケットを交換したのはいいが,財布を移すのを忘れていたということでした.「しまったなぁ」と思いましたが,幸い小銭入れは持っており,この中にはメインのクレジットカードが入っています.そこで近くのATMに行ってキャッシングをしてお金を作り無事に参加することができました.普段からこういう事態になってもいいように,小銭入れにクレカを入れておいたのが功を奏したというわけです(キャッシングの金利は悔しいですが 笑).ちなみにもしキャッシングもできない状況の場合は受付で知り合いが現れるのを待って借金するしかありませんでした(笑)

 そんなことのあった3月初めでした.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »