イスラエル旅行記⑤ ~カナ・ナザレ編~
昼食の後はバスに乗り込んで引き続き観光となる.午後からはガリラヤ湖を少し離れて西部のカナ・ナザレを訪問することになっている.まずはカナに向かった.
(写真1) カナの婚礼教会
カナは婚礼に招かれたイエスが水を葡萄酒に変えて祝福したことで知られる場所である.ヨハネ第2章に書かれているこの記事こそ,イエスの最初の奇跡とされ,現在はこの記事を記念して,ローマカトリック(フランシスコ会)とギリシャ正教の教会(一般に婚礼教会と呼ばれる)が建っている.ビザンチン皇帝としては当然ギリシャ正教会も訪問したかったのだが,残念ながら一般観光客(笑)には開放していないらしく,今回はフランシスコ会の教会のみの訪問となった.
このフランシスコ会の婚礼教会,もともとシナゴーグがあった場所にビザンチン時代教会が作られ,その後紆余曲折を経て今の建物が作られたらしい.ここに限らず,イスラエルの旅ではビザンチン時代というキーワードがちょくちょく出てくる.その言葉を聞くたびに嬉しい気分になるのは,自分がビザンチン皇帝を名乗る者だからだろう(笑).それはさておき,この婚礼教会はザルツブルクの教会をイメージしているそうで,そういわれればそんな気がするなぁと思った.明るい聖堂の他,一説によると葡萄酒に変わった水が入っていたという瓶も展示されていた.
(写真4) 婚礼教会の会堂
ちなみにカナは葡萄酒の奇跡のおかげもあって,お土産として葡萄酒が有名である.ただここはゴラン高原と違って良質な葡萄が採れるわけでもないため,質の良い葡萄酒というよりは,お土産としての葡萄酒という感じらしい.我々が立ち寄った土産物屋にもこうした葡萄酒が並んでいた(試飲できたのだが,非常に甘かった.記念なので購入した).
(左写真5) カナにはワインの店がたくさん,(右同6) ギリシャ正教の教会にはビザンチン帝国の双頭の鷲の旗が!
(写真7) ナザレの街は賑やかである
カナの街を後にして,続いて向かうのがナザレである.イエスが育った地として非常に名高いが,旧約聖書にはこの町についての記載はない.このため新約聖書のヨハネ福音書では「ナザレからなんの良きものが出ようか」などとひどいことを言われる始末なのだが,実はナザレは古代以来交通の要衝だった場所で,そんなに無視されるような町でもなかった.ただ,旧約聖書に代表される古代ユダヤ人の世界観では,エルサレムを含む南部イスラエル(ソロモン王死後のユダ王国)こそが正統であり,ナザレを含む北部イスラエル(ソロモン王死後のイスラエル王国)は傍流扱いされていたことも関係するのだろう.北部のイスラエル王国は紀元前8世紀にアッシリア帝国に滅ぼされるのだが,この時南部のユダ王国の人々は「彼らは信仰心が足りないから滅ぼされたのだ」といった認識だったらしい(その150年後,紀元前6世紀には新バビロニアのネブカドネザル王によってユダ王国自身も滅ぼされ,住民がバビロンに連行されてしまった(バビロン捕囚)のは有名な話である).
(左写真8) マリアの井戸,(右同9) 聖ガブリエル教会
そんなナザレ,現在は人口7万人を数える都市となっている.住民の大半はアラブ人で宗教はイスラム教である.キリスト教における重要な街がユダヤ教の国イスラエルのしかもイスラム教徒が多数を占める場所にあるという事実に驚く人もいるが,実はこうした異教徒の共存は中世以来,東地中海では日常的な光景なのである.今回我々はまず聖ガブリエル教会に向かった.ここはギリシャ正教の教会で,伝承によるとマリアがここで水を汲んでいるときに,天使ガブリエルから御告げを受けたとされる場所に建つ教会だ.教会前には実際にマリアの井戸と呼ばれる共同水場(?)のような施設がある.現在では枯れてしまっているようであるが,比較的最近まで現役で使われていたらしい.
(左写真10) 地下施設,(右同11) これがマリアの泉
(左写真12) イコノスタシス,(右同13) いかにもギリシャ正教的なフレスコ画
一方で教会内部にはかつてイスタンブールを訪問した際によく見た,おなじみのフレスコ画やカラフルなイコノスタシス(聖堂内部で一般大衆が待機する部分と特定の聖職者のみが立ち入ることのできる至聖所を分ける壁)があって華やかなギリシャ正教の教会という感じだった.また地下には教会のいわれとなっているマリアの泉があったが,この手の観光地では宿命なのか,大量のコインが投げ込まれていて風情が台無しになっていた(泣).
(写真14) 受胎告知教会の正面
次に向かうのはフランシスコ会による受胎告知教会,マリアが受胎告知を受けたとされる洞窟上に建つ教会である.フランシスコ会の教会としては中東で最大規模のものらしい.全体的に三角形をした外観はマリアのAを意味するとか.入り口の大きな扉には旧約聖書,新約聖書の物語が描かれていた.
(左写真15) 旧約聖書の物語が描かれた扉,(右同16) こちらには新約聖書の物語が
教会内部の真ん中には,当時マリアが天使から受胎を告知された洞窟とされる場所が大切に保護されており,そこを見学しようと大勢の巡礼者や観光客で賑わっていた(マリアの受胎告知場所は教派によって微妙に異なるようだ).一方で礼拝堂の2階部分には世界各国から贈られた聖母像が架けられていた(日本からは長谷川路可作の華の聖母子(細川ガラシャをイメージしたとも)が贈られている).
(左写真17) 美しいステンドグラス,(右同18) 日本から贈られた聖母子像
ちなみにこの教会の歴史は4世紀に遡る.キリスト教を公認した最初のローマ皇帝であるコンスタンティヌス大帝の母ヘレナがこの地に教会を作ったのが始まりとされている.以来何度も建設と破壊が繰り返され,現在のフランシスコ会の建物ができたのは1969年のことである.教会の下部には昔の教会の土台が保存されていて,中にはビザンチン時代のものと思われるモザイクもあって感動した.
(左写真19) 受胎告知教会中心部,(右同20) ここがマリアの洞窟
(左写真21) 2回の礼拝堂,(右同22) ビザンチン時代のモザイク
受胎告知教会の次は,そこから徒歩圏内にある聖ヨゼフ教会である.マリアの夫ヨゼフを記念した教会だ.入り口には苦悩の表情(?)を浮かべたようなヨゼフの銅像が建っていた.ヨゼフがマリアの許嫁だった時代,マリアは突然天使から受胎を告知される.ヨゼフもその事実を知るわけだが,その時彼の受けた衝撃はさぞ大きかったであろう.まだ処女だったマリアが懐妊したというのだから.いくら天使の御告げだと言っても,果たして額面通りに受け取ったかどうか.なんといっても貞操観念の厳しいユダヤ教の世界である.
(左写真23) ヨゼフの像,(右同24) ビザンチン時代の礼拝所への階段
だが結局ヨゼフはすべてを受け入れた.生まれたイエスも我が子のように育てている.もしもヨゼフが律法に厳しい人物であれば,身重のマリアは追い出されていたかもしれない.そうしたらイエスが成長できたかどうかも怪しい.後のキリスト教の誕生もヨゼフの寛大な心があったからこそともいえる.
(写真25) ヨゼフ教会礼拝堂
そんなヨゼフ教会は,労働者の守護人だけあって地下には彼の時代の仕事場とされる遺跡があるほか,ビザンチン時代の地下礼拝所なども残されていた.
このヨゼフ教会の見学でこの日の観光は終了,後はバスでホテルに戻る流れとなる.1号車の方では行方不明になった参加者がいる!と大騒ぎになっていたようだが(無事に発見された模様),何はともあれバスは出発した.
帰りはホテルに着く前にティベリアのスーパーに寄ることになった.要はお土産用であるが,実は当初の予定ではエルサレムでスーパーに寄る予定だったのだが,その日はユダヤ教の安息日に当たってしまうためらしい.ユダヤ教徒の安息日は普通の暦でいえば金曜日の夕方日没から翌日土曜日の日没までの一日だ(日没スタートなのは,ユダヤ教の一日は日没から始まるため).その間正統派のユダヤ人は一切の労働が禁止されており,店の営業なんてもってのほかだからだ.スーパーは本当に普通のスーパーで,そこに数十人の日本人観光客が押し掛けたのだから,店の人もびっくりしてました(話題の爆買い状態か !(^^)!).私はというと,お昼に話題になっていたゴラン高原のワインを購入しました.
(左写真26) ティベリアの商店街,(右同27) コーシェルのマック!
買い物後はホテルに帰還,ナザレを明るい時間に出発したのだが,結局ホテル到着は昨日と大差のない時間になっていた.我々は部屋に戻ってシャワーを浴びたあと夕食に繰り出したのだった(この日もワインを堪能 笑).さあ,明日はいよいよエルサレムに向かう日である.
*この続きはホームページ本編の旅行記録にアップしています(イスラエル旅行記エルサレム編)
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