« 駅そば | トップページ | 第8回境港妖怪検定 »

2013年7月13日 (土)

第45回埼玉寮歌祭

 みなさんこんにちは,すっかり更新が滞ってしまいました.

 関東甲信越地方は7月6日に梅雨明けが発表されたんですが,その日当地は曇り空で気温もそれほどではありませんでした.「どうせ梅雨明けなんて言って,その後も雨の日がが続いて,後から『実は間違いでした』なんて訂正する何年か前のパターンだろう」とタカをくくっていたんですが,翌7日からは連日の猛暑となり梅雨明けはウソじゃなかったようです(笑).

 そんな暑さの本格化した7月7日,定番の寮歌祭のひとつである埼玉寮歌祭に参加するため大宮に行ってきました.

Img054(写真1) 今年のプログラム

 普段は歌というとオペラなどのクラシック系の歌ばかり聴いているイメージがありますが,実は深層心理には寮歌が潜んでいて,ときどき無性に歌いたくなるのでした.

 過去にも触れていますが,旧制高校というのは,明治から昭和の戦後しばらくまで置かれていた高等教育機関です.その教育内容は,ちょっと前まであった新制大学の教養課程に該当するもので,大学に学ぶ前の学生に幅広い教養を身につけさせることを目的としたものです.新制の高等学校との違いは,新制の高校はあくまでも中等教育機関で,厳しい受験の前にいろんな教科を学ぶ(受験勉強)に対し,旧制高校は厳しい受験の後に幅広い教養を学ぶという点にあります.当時は旧制高校の定員と帝国大学の定員はほぼ1対1だったため,旧制高校を卒業したものは,学部学科を選ばなければ,どこかの帝国大学に無試験で入れたのだそうです.

P7070227P7070236(左写真2) 会の様子,(右同3) 北大予科の登壇

 旧制高校については,日本の近代化に果たした役割を大とするものの,そのエリート主義や独善性などが批判されることもあり評価が難しいのですが,私自身は専門バカではない,幅広い教養を身につけた知識階級の育成という意味でその理念には大いに賛同するのでした(専門家は専門以外にも造詣が深いことが望ましい).

P7070249(写真4) 私です(笑)

 そんな旧制高校を現役で過ごした人たちも最年少で80歳を軽く超える時代になり各地の寮歌祭も終了するところが増えています.この日も400人もの人たちが参加していましたが(もちろん私は圧倒的に若い部類です 笑),年齢を感じさせないほどパワフルな方々が多いなと感心したのでした.

|

« 駅そば | トップページ | 第8回境港妖怪検定 »

コメント

英語には時制がある。英米人には意思がある。意思は未来時制の文章内容である。文章には意味がある。矛盾があれば、指摘できる。議論の対象になる。議会での意思決定が可能である。
日本語には時制がない。日本人には意思がない。が、恣意がある。恣意は文章にならない。小言、片言、独り言の段階で終わる。意味がないので議論の対象にならないが、談合の題材にはなる。一座の者が首を縦に振れば決着する。以心伝心である。これは、勝手な解釈というべきか。議会には、決められない政治がある。
拙い議会政治の抜け道として、日本人には、阿吽の呼吸・以心伝心が必要である。恣意のぶつかり合いでは、どうにもならないから、とりわけ和をもって尊しとなす。いつも静かに笑っている。このような言語状態では、日本人の主張に外国人から理解を得ることも難しい。

‘今ある姿’ (things-as-they-are) は、現実の姿である。過不足なく成り立っている。
‘あるべき姿’ (things-as-they-should-be) は、非現実の姿である。非現実の話も、過不足なく成り立たせなくてはならない。非現実の内容を過不足なく成り立たせるためには、文章が必要である。日本語には時制がない。遠未来・遠過去などの非現実を表す文章はない。だから、過去は迅速に風化し、未来は一寸先が闇に見える。日本人の未来の話には筋がない。我々は、以後も何処にも移動しない。鎌倉右大臣ではないが、’世の中は、常にもがもな’ (世の中の様子が、こんな風にいつまでも変わらずあってほしいものだ。) である。天下泰平の世の中。現在に関しても場当たり的な発言をする。文章ができていない。歌詠みのようなものか。

現在の地球は英米の世の中。相手は、’我々は何処から来たか。何者であるか。どこに行くか。’ を考えた上での提案をしてくる。ちょうど、インド人が、前世・現世・来世へと考えを移動させてゆくようなものである。日本語脳の脳裏では、過去の内容・現在の内容・未来の内容をそれぞれ独立の世界として展開させることが難しい。これらの命題は、英語の時制 (過去・現在・未来) に対応している。我々日本人にとっての眠りを覚ます上喜撰 (蒸気船) となる。日本人が、何の当てもなく、否定形を駆使して、消去法の一本槍で応戦していたのでは、彼らも取りつく島がない。我々は、彼らと考えを共有する友達にもなれない危険な状態を続けることになる。我が国は、世界の中にあって、世界に属さず。

我々は、いつまでも無哲学・能天気ではいられない。我が国の伝統芸術の保護育成のために日本語に磨きをかける一方、有用な議論を盛んにするために、英語にも磨きをかける教育も必要である。さすれば、日本は、鬼に金棒の国になる。英文和訳の習熟は、この目的には役立たない。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

投稿: noga | 2013年7月17日 (水) 06:53

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 第45回埼玉寮歌祭:

« 駅そば | トップページ | 第8回境港妖怪検定 »