日本100名城 吉野ヶ里遺跡(88番)
約1ヶ月ぶりの100名城ネタです.ラスト10城張り切っていきたいと思います.
さて日本100名城,その大半には「○△城」というように城の字が付きますが,城とつかないものが5つあります.それが根室半島チャシ跡群,五稜郭,足利氏館,武田氏館そして今回紹介する吉野ヶ里遺跡です.
(写真1) 吉野ヶ里遺跡の環濠
吉野ヶ里遺跡は佐賀県の吉野ケ里町と神埼市とにまたがる丘陵に存在した大きな集落の遺跡です.作られたのは日本史で言うところの弥生時代になります.弥生時代は縄文時代に続く歴史の一区分で,一般には縄文時代が狩猟・採集が主体の時代だったのに対して,農耕が主体の時代と言われています.私が中学生頃の教科書では弥生時代は紀元前4~5世紀くらいから紀元後3世紀ごろまでとなっていましたが,その後の研究で始まりの時期が早まっているようです(おしまいの方は昔と変わらず,3世紀の邪馬台国の頃から古墳時代になります).
(写真2) 南内郭のイメージ
狩猟や採集の時代には必要なものを必要なだけ手に入れる社会でしたが,農耕社会になるといわゆる余剰生産物が生まれるため,これを富として蓄えることによって人々の間に貧富の差が発生,さらに農耕には組織的な作業が必要なため社会の中に支配層と被支配層が生まれました.また獲物を求めて移動して歩く縄文時代に対して農耕社会では一ヶ所に定住するために集落が発生します.さらにこの時代には富を巡る集落同士の争いが起こるようになり,外敵から集落を守るために集落の周囲には濠がめぐらされました.これが環濠集落と呼ばれるもので,いわば日本の城の元祖といってもよいでしょう.吉野ヶ里は典型的な環濠集落の遺跡なのです.
(写真3) 遠くに主祭殿を望む
この地に人が住み始めたのは縄文時代の後期で,弥生時代に入ってから集落が形成されました.集落は徐々に大きくなり最盛期である1~3世紀には二重の濠を持つ,40ヘクタールを超える広大な集落となったようです.この頃には集落の内部に望楼を備えた環濠に囲まれた2ヶ所の特別な空間(北内郭と南内郭)も作られています.ただ古墳時代に入ると人口が激減し(この時代になると人々はより便利な低地に移ったらしい),やがて歴史の中に埋もれてしまいました.

(左写真4) 竪穴式住居,(右同5) 当時の棺である瓶棺
1986年代から本格的な発掘が始まり,濠や住居跡,墓などたくさんの遺構が見つかっています.現在は吉野ヶ里歴史公園として整備され,環濠や竪穴式住居,物見櫓等が復元されています.
吉野ヶ里遺跡へのアクセス: JR吉野ヶ里公園駅から徒歩15分程度
スタンプの設置場所 公園東口の入場券売り場にあります
登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 広いですがよく整備された公園です
登城日 2010年5月23日
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