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2011年5月26日 (木)

日本100名城スタンプラリー88

日本100名城 名護屋城(87番)

 先週学会で名古屋に行ってきたんですが,尾張名古屋は城で持つといわれるほど,名古屋城は有名です.日本100名城スタンプラリーにももちろん入っています(44番).

Kyushuenseineo_013 (写真1) 名護屋城の想像ジオラマ

 しかし,日本100名城にはもうひとつの”なごや”城があります.それが今回のテーマである佐賀県の名護屋城です.愛知県の名古屋城が江戸幕府の御三家筆頭,尾張徳川家の居城として造られたのに対して,佐賀県の名護屋城は豊臣秀吉晩年の大きな政策だった朝鮮出兵の出撃拠点および総司令部として築かれたものです.

Kyushuenseineo_018 (写真2) 名護屋城大手口

 織田信長死後,後継争いに勝利した秀吉は,全国の大名を次々に従え全国統一に成功します(一般には天正十八年(1590年)の小田原城攻略をもって完成とされています).秀吉は天下統一を目前にした頃から将来の海外進出を考えていたようです.そして小田原攻めの翌天正十九年(1591年)に大陸侵攻を決意,同年秋にそのための拠点として建設が始まったのが名護屋城です.場所は九州から壱岐・対馬に向かって玄界灘に突き出した東松浦半島の先端部,波戸岬です.そこの標高90メートルほどの丘陵を中心に,総面積実に17万平方メートルもの広大な城郭でした.その規模は当時大坂城に次ぐといわれるほどだったそうです.工事に当たったのは主として西国の大名で,加藤清正も普請奉行を務めています.

Kyushuenseineo_030 Kyushuenseineo_061

(左写真3) 東出丸の石垣,(右同4) 天守台

 工事は急ピッチで進められ,なんと翌天正20年(文禄元年 1592年)の春には完成したといわれます.五層七階の天守閣を持つ本丸が中央に置かれ,その周辺に二の丸,三の丸,遊撃丸,水手曲輪などが配置されていました.壮麗な城郭ではありますが,速成工事で完成させられたため,石垣などは後の近世城郭に比べると荒さが目立ったともいわれています(実戦に即しているとも言えますが).

Kyushuenseineo_072Kyushuenseineo_078 (左写真5) 石垣が所々崩れています,(右同6) 搦手口

 この城郭で特記すべき点として,城郭の周辺に諸大名の陣屋が置かれていたことが挙げられます.名護屋城は大陸出兵の拠点であったため,それこそ全国各地の大名の軍勢がこの地に集結していました.その数実に20万と言われており,名護屋城の周辺には加藤清正福島正則黒田長政といった秀吉譜代の大名はもちろんのこと,徳川家康前田利家伊達政宗上杉景勝といった全国区のそうそうたる大名の陣屋がありました(この状況をさして戦国の紅白歌合戦と評した方がいますが,絶妙の表現と思います 笑).陣屋というと,ただ屋敷があったようなイメージですが実際には大大名の陣屋などはそれ自体が城郭と呼べる規模を持っていたようで,当時この地の賑わいがどれほどのものだったか(20万もの軍勢がいたわけですから,それを支える者や出入りの商人なども相当いたはずです),恐らくは大阪や京都を上回る活気だったのではと思われます.

Kyushuenseineo_115 (写真7) 徳川家康陣屋跡

 秀吉の大陸出兵(文禄の役・慶長の役)は大量の鉄砲など兵器や軍の練度に勝る日本軍の攻勢で始まりますが,やがて李朝の抵抗や明の援軍によって戦線は膠着状態に陥ります.そして慶長三年(1598年)秀吉の死によって全軍引き上げとなり,この時をもって名護屋城はその役割を終えたのです.

 その後城は江戸時代に入ってから破却されたといわれています.現在,この地には当時の建物は残っておらず,石垣などの遺構があるのみですが,それでも当時の壮大な城郭のあとを偲ぶことは出来ます.

名護屋城へのアクセス: JR唐津駅から400メートル離れた大手口バスセンターから昭和バス「波戸岬国民宿舎行き」で約40分名護屋城博物館入り口下車(大体2時間に1本の運行)

スタンプの設置場所 佐賀県立名護屋城博物館の受付にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 広いですがよく整備された公園です

87nagoyajo 登城日 2010年5月22日

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2011年5月21日 (土)

学会とは

 毎年5月中旬は私にとって学会シーズンなんですが,ようやく今週で一段落しました.今日は一般の方にはなじみがないであろうこの学会(特に医学関係の学会)について解説します.

 医学の世界における学会というのは,特定の分野を専門する人が自由意志で参加する団体です.特定の分野というのは非常にあいまいなものから,きわめて具体的なものまで様々です.たとえば,日本内科学会というのは内科という非常に大きな領域をひとくくりにした学会で会員数も多く,規模の大きな学会です.その一方日本頭痛学会というのもあって,これは頭痛という特定の症状を専門に扱う学会なので小規模で会員数も少ないものです.ただ,規模が小さい≠ショボイ というのも確かで,一般に新たに見出された知見なんかは広範囲な学会ではなく,より専門性の高い学会で出てくる傾向があります(たとえば日本内科学会ではこれまでに報告された知見を総合したレビューなんかが出てくることはありますが,「今回○×であることが新たにわかった」というようなものは出てきません.

 学会の参加資格ですが,医学関係の場合はやはり医師であることが必要な学会が多く,医師以外は正会員ではなく賛助会員扱いとされる場合もあります.また入会に当たっては有資格者であれば誰でも自由に参加できる学会と,当該学会の評議員の推薦が必要なケースがあります.

 学会は学術的研究が大きな目的ですから,その成果を発表する場として定期的に学術集会が開催されます.俗に「学会に行ってきます」というのは,この学術集会に行くことをさします.学術集会は一般に大きなホテルや会議施設で行われます.内容としてはまずシンポジウムや各種講演があります.シンポジウムは様々なテーマごとに,それらを専門にする偉い先生方が様々な方面から発表して,その後ディスカッションが行われるもので,その時点においてその分野の最新の知見がわかるイベントです.なので普段一般病院に勤務している人間にとっては非常に勉強になります(私も学術集会に行く際は自分が聴きたいシンポジウムを中心にして旅程を立てます).

 講演はその名の通り,いろんな先生方が自分の知見やその分野での最近のトピックなどを講演するものです.特にその年の学会長を務める先生が行う会長講演は別格で,学会場でもっとも大きなホールなどで行われ,その時間は他会場で別イベントが行われることもありません(要するに全参加者が聴講可能).まさにその先生にとっては一世一代の晴れ舞台となるわけです.その他海外の専門家を招いて行われる特別講演や,主として若い医師や普段あまり研究に携わる機会の少ない一般医を対象とする教育講演などがあります.また集会は早朝から夜まで行われるので,朝夕にはモーニングセミナー,イブニングセミナーなどと称して,サンドイッチや軽食がついた講演が,また昼食時にはお弁当がつくランチョンセミナーも開催されます(要するに,その気になれば3食学会場で食べることが可能 笑)

 その一方で,学術集会は一般の会員がそれぞれの研究成果を発表する機会でもあります.これが一般演題というもので,私なんかが発表するのも普通はこれです.一般演題には講演のように着席した聴衆を前にしゃべる口演というスタイルと,研究成果をまとめたポスターを作ってこれを決められたスペースに展示して行うポスターという形式に分けられます.よく学会に発表するというとなんかすごいことのように聞こえますが,一般演題の発表をするだけなら,会員であれば誰でも出来ます.一応事前審査はありますが,よほどとんでもない内容でない限り,事前審査で切られたという話は聞いたことがありません(学会のプログラムを見ると応募 1240題,採択 1238題などと書かれていて,私なんかは切られたその2題をぜひ見たいと思ってしまいます(笑).重要なのは学会で発表することではなく,学会で発表した内容を論文にまとめて評価の高い雑誌に載せることにあるのです.論文自身もいくつ書いたなんていうのは二の次で,自分の書いた論文がどれだけ他の論文に引用されているか(これをインパクトファクターといいます)が重要視されます.

 今学会はどこも,法人化に向けた動きが加速しています.元々学会は興味を同じくする人間の自由意志による集まりなので,その組織は結構アバウトでした.しかし近年法人化がされているのは,ひとつには専門医の取り扱いです.医師の専門分化が進む中で,その専門性を保証するのは専門医資格という事になります.ところが,専門医資格は国家資格ではありません.あくまでも各学会が認定した資格に過ぎないわけです.ですから,元々運営がアバウトな学会が認定した専門医にどれだけ信頼性があるのかという議論が当然出てくるわけです.国もこうした専門医を広告することを認めていませんでした.ただ,一方で世間的にはしっかりとした専門医資格が求められています.というわけで,学会自らが法人化して専門医認定の信頼性を確立しようという動きになったわけです(法人となれば,第三者が監査に入ったりとアバウトな運営は出来なくなります).国もこうした動きの中で一部の専門医資格については広告を許可し始めています.

 5月のそんな大きな学会が終了し,これからは小さな研究会がぽつぽつ入る時期になります.

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2011年5月17日 (火)

霧島緑茶

 先週後半は学会第一弾鹿児島編でした.学会は参加費も1万円を超えるのが当たり前で懐が痛みます.その罪滅ぼしというわけでもないでしょうが,学会場にはフリードリンクのコーナーがあったりします.一般にはコーヒーやウーロン茶,オレンジジュースなんかが置いてあります(残念ながらビールはない 爆).

 今回の学会にもフリードリンクがありましたが,私が注目した一品がこちらです.

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 名付けて霧島緑茶,一見するとただのミネラルウォーターにしか見えません.が,しか~し 飲む直前にキャップを360度回転し,10回ほど上下に振ると…

Kirishima_030

 ハイ,この通り緑茶に早変わりするという優れものなのでした.実はこのキャップ部分に抹茶が仕込んであり,回転することによってお茶が水に溶けだすという寸法なのでした.

Kirishima_027 (写真) このキャップを360度回転させます

 いつでも淹れたてのお茶がいただけるというキャッチフレーズの霧島緑茶,時に溶けきらなかった抹茶の玉が口の中でシャリシャリする嫌いはありますが(笑),他ではお目にかかれない当地の名産品のようでした(最終日にお土産に一本持って帰ろうと思っていたんですが,人気があったのかすでに無くなっていた).

 霧島に行かれる方はぜひお試しあれ.

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2011年5月16日 (月)

坂本龍馬ゆかりの宿

 気が付いたら一週間ぶりの更新になってしまいました.

 例年5月はひのパレが終わると学会シーズン突入というパターン,今年もさっそく始まりました.で,先週後半はその第一弾として鹿児島に行ってきました.会場となったのは鹿児島県北部の霧島温泉です.実は3月の震災が起こるまで,この近くにある新燃岳の火山活動が注目されていたんですが,今ではだれも注目していません(活動自体は今もしているんですが…).

 学会は5月13日(金)と14日(土)の2日間,会場が東京や大阪などの大都市なら当日朝現地入りも十分可能ですが,なにせ霧島です.鹿児島空港までは行けても,そこから先のアクセスが良くありません.13日朝に会場入りするためには,なんと前日18時半には鹿児島空港に着いていなければならないのでした(空港発の最終バスが18時40分).

Kirishima_002 (写真1) 雨の羽田空港

 というわけで,木曜日は14時過ぎに業務を切り上げてそのまま羽田空港に向かいました.この日関東は雨模様,空港の出発ゲートでは「本日鹿児島空港は天気が悪く,着陸困難な場合は宮崎空港に着陸もしくは羽田に引き返します」などという不安をあおるような放送が流れていました(鹿児島空港ってそんなにローカルだったのか).

 雨の中飛び立った飛行機は順調に飛行し,結局何事もなかったように鹿児島空港に着陸しました.鹿児島だから暑いんだろうとな思ってたんですが,こっちも雨天のためかそれほど気温は高くありません.ここから霧島行きの最終バスに乗り込みます.バスは山道を登っていきます.所々に集落やコンビニの明かりは見えるものの,周囲はさびしい感じです(このころには日没で周囲は真っ暗になった).約40分走ったところで,私が降りるべきバス停に着きました.バス停の名は硫黄谷,ショッカーの秘密基地があって地獄大使が人々をこき使っている光景が浮かびます.標高も高いためか雨に加えて霧もかかっており,余計恐ろしげな雰囲気を醸し出していました.

 バス停には着いたものの,さあここからどうやって行くんだと周囲を見渡したところ,道路の反対側になにやら東屋のようなところが,行ってみると電話機が置いてあり,ここからホテルに電話すると迎えに行きますと書かれていました.電話をかけて待つこと2,3分で車がやってきました.ずいぶん早いなと思っていたら,実はホテルはすぐ目の前なのでした(高台にあるのと,霧が濃かったのとでよく見えなかった).

 やれやれついたと思い入ろうとしたらなにやら看板が… ん? もしかしてこれは.

Kirishima_032 (写真2) ホテル玄関口の看板,お二方の笑顔が…

 なんと坂本龍馬とお龍さんの看板です.さらにロビーには龍馬のでっかい写真も飾られていました.実はこのホテル,幕末の慶応二年に京都の寺田屋で負傷した龍馬がお龍とともに療養に訪れた旅館の流れをくむのだそうです.

 そうだったのか!

Kirishima_006 (写真3) お約束のこの写真も

 今回は学会ということで,楽天トラベルで何も考えずに決めたホテルがこんなすごい所だったとはと感激した次第でした.チェックインを済ませて部屋へ.温泉ホテルというと和室が中心ですが,ここはビジネス対応もできるホテル(だから今回申し込んだわけだが)なので自分の部屋は洋室でした.まずはお風呂です.ここのホテルは4種類の源泉をもつ温泉宿で,特にプールかと思うほど巨大な庭園大浴場が有名です(これだけ巨大なのにすべてのお湯が掛け流しという贅沢さ).ただ,最初に入りにいった時,大浴場は女性専用タイムだったため内湯とサウナだけになりました(これでも十分良かったですが).

110512_203235  入浴の後は食事,ビジネスプランなので豪華料理ではなく館内居酒屋の定食でした(笑).薩摩の芋焼酎をちびちびやりながらの食事もオツなものでした.食事後少し休んでから庭園大浴場に向かったことはいうでもありません.

 というわけで,学会第一弾は龍馬ゆかりの宿に2泊するという充実したものなりましたとさ(なんか本来の目的からずれている気が 笑).

 

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2011年5月10日 (火)

新選組イベント ~府中編~

 5月7日の後編です.

 一通り散策したのち,午後からは京王線で10分ちょっとの府中市内にある某倒幕屋敷に向かいました.ここでちょっと遅めのランチをいただきながら,午前中のネタの話などをしていました.ここの主のフミヲさんは昔の「新選組血風録」の土方役,栗塚旭さんの大ファンなんですが,実は今回新選組イベントで栗塚氏がやってきて,さまざまな企画に参加するというものがありました.その一環として,栗塚氏と一緒に石田散薬を作るという企画があったそうで,それに参加したとのことでした.

 石田散薬は土方歳三の生家が江戸時代から戦前にかけて製造していた民間薬です.打ち身・捻挫など今でいう整形外科的な炎症・疼痛に有効であったとされており,当時は意外とシェアもあったそうです.大河新選組にも登場していたので覚えている方も多いと思いますが,服用にあたって,水ではなく酒と一緒に飲まなければならないという約束事があるので,小児科領域では使えない薬でもあります(笑).

 戦後の薬事法改正によって,医薬品として販売できなくなったことから製造が中止されてしまいましたが,新選組愛好家には非常になじみのある薬です.この石田散薬を栗塚氏と一緒に作ろうということのようでした.

 で,この日フミヲさんが作った石田散薬をみんなで見せていただいた次第です.

Ishidasannyaku_004  ちょっと黄ばんだ,いかにも昔風の袋がいい味を出しています.石田散薬そのものは,見るとお茶っ葉のような雰囲気を醸し出していました(さすがに薬事法に触れるので効果・効能は書かれていません).

Ishidasannyaku_008  これが拡大写真です.どんな味がするんだろうと,一同恐る恐る舐めてみたんですが,特に苦いというようなことはなく,これなら飲めと言われたら飲めるだろうというのが,集まった一同の結論でした(少なくとも,自分が幼少時に飲んだセンブリとは比べ物にならないほど飲みやすい).じゃあ今度筋肉痛になったら飲んでみるか(爆).

 その後,いろんな楽しい(キモい 笑)をしているうちに時間が過ぎ,別用に出発しなければならない時間になってしまいました.というわけで,私にとっての5月7日は前半はチャリティー,後半はキモいがキーワードとなりましたとさ.

Ishidasannyaku_010  オマケ写真,特に深い意味はありません(爆).

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2011年5月 9日 (月)

新選組イベント ~高幡編~

 本来この週末は恒例のひの新選組まつりが行われるはずでした.そして私自身は所属する合唱団のドイツ演奏旅行から5月7日に帰国することになっていました(そして翌8日のパレードのみ参加).

 しかし,何度も書いているように震災の影響でひのパレ・演奏旅行共に中止になりました.ひの新選組まつりの方は代わりに7日にチャリティイベントが行われるとのことで,せっかくだからと出向くことにしたのでした.

 前日は当直だったので,朝に日直医との申し送りを済ませた後会場の高幡不動に向かいます.出発時既に小雨状態だったんですが,時間と共に次第に強くなっていきます.電車を乗り継いで2時間ようやくたどり着いたんですが,天気は… 完全に雨(泣).まあ,パレードがあるわけでもないので雨が降ろうが雪が降ろうがどうでもいいんですが,ともかく雨の中を会場となる高幡不動尊に向かいます.

Ishidasannyaku_003 (写真1) 雨の高幡不動尊

 会場に入ると大型の観光バスが並んでいました.おおっ,すごいじゃないかと思ってよく見たら,それはお寺さんのイベントのためのバスでした.境内を歩いている人は大勢いるんですが,新撰組っぽい雰囲気はありません.なんとなく不安になりながら会場となる(ハズ)の五重塔に向かいましたが,そこには「無料休憩所」の文字があるばかり.ますます不安になっていると,その脇にようやく小さな文字で新選組ファンの集いと書かれているのを発見しました.

 中に入ると結構人が来ています.新選組装束の人も何人かいました.受付には昨年のミスター土方のK君や昨年源さんのおねむり快男児!!さんの姿もありました.ちょうど私が入ったのは特別講演会「宮古湾海戦」が行われている頃でした(宮古湾海戦については私も昔現地に行ったことがあります 参考記事).が,実はこの直前にあった(ハズ)の土方写真コンテストの方がどうなったのかに興味がありました.というのも,大阪組の副チョウさんも張り切って応募していたはずだからです.表彰式は終わっても,写真の展示のようなものが行われているだろうと思ってあたりを見渡したんですが,それらしきものは見当たりませんでした.

Ishidasannyaku_002 (写真2) 土方歳三の像

 講演を少し聞いた後,お腹がすいたのでいったん外に出ました(当直明けで朝から何も食べていなかった).境内を歩いていると,なんとへこみ隊長さんとフロドンさんに遭遇,彼らの話でようやく写真コンテストの謎が解けました.なんでも写真コンテストは,いきなり最優秀賞受賞者の表彰だけが行われて終わってしまったとのこと.

私: 「で,最優秀賞の写真は似ていた?」

へこみ隊長: 「さあ」

私: 「えっ,写真は紹介しないで表彰だけ?」

へこみ隊長: 「はい」

私: 「じゃあ,応募者の写真をスライドで流すとかの企画は」

へこみ隊長: 「なし」

 なんだそりゃ~,写真が出てこない写真コンテスト(笑).まるで汁だけのラーメン,肉のない牛丼のようである.昔トンデモ本の中に預言書のない預言書解読本というのがあったが… 考えてみれば恐ろしくシュールである.今回のコンテストには知り合いも何人か応募していたので,どんなでき上がりだったのか楽しみにしていたので残念です.そのうち日野市観光協会のHPにでも掲載されるのを期待することにしたのでした(自分的に今年最大のネタはこれだと思った 笑).

 その後も会場や境内を散策しながら過ごしました.会場では,最近このブログに来ていただいているおねえさまのお姿も,いかにもおねえさまという感じの方でした.来年はぜひ一緒にパレードに出ましょう.

 というわけで,あとは募金をしたり屋台のたこ焼きを食べたりしながら過ごしたのでした.次回は府中編です.

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2011年5月 4日 (水)

日本100名城スタンプラリー87

日本100名城 首里城(100番)

 北から順番に番号が付いている日本100名城の最後,100番目に割り振られているのが沖縄本島の首里城です.確かに地図を見ると99番の中城城よりも南にあります(ということは,もしかして沖ノ鳥島付近の海底に竜宮城があったら,そっちが100番になるのかも 笑).

Okinawa1_053 (写真1) 首里城のシンボル守礼門

 首里城は1429年に沖縄本島を統一した琉球王国の本拠となった城です.その成立時期は正確にはわかっていませんが,およそ14世紀の末から15世紀の初めごろではないかと言われています.那覇港を見下ろす小高い丘の上に築かれた城で,中心部の内郭とその周囲の外郭という二重の城壁によって構成されていました.内郭には城の要となる御庭(ウナー)を中心に正殿・北殿・南殿といった重要な施設が置かれ,9つの門(瑞泉門・漏刻門・広福門・奉神門・右掖門・左掖門・淑順門・美福門・白銀門)で外部と通じていました.その外側の外郭には歓会門・久慶門・継世門・木曳門の4つの門がありました.

Okinawa1_068Okinawa1_133 (左写真2) 外郭の歓会門,(右同3)  同じく久慶門

Okinawa1_071Okinawa1_078 

(左写真4) 内郭の瑞泉門,(右同5) 同じく漏刻門

 首里城の施設は全て東西方向を軸とした線上に置かれ,西側が正面となっています.そのため城郭の西側には綾門大通という大きな道が造られましたが,その東端にあるのが有名ん守礼門です.

Okinawa1_107 (写真6) 復元された正殿

 琉球王国が存続した450年間その王宮および政庁として機能していた首里城でしたが,明治維新後の琉球処分によって王国が解体されると,その役割は失われてしまいました.その後城跡は軍の施設,あるいは学校として利用されましたが,一方で城郭としての首里城は急激に荒廃が進んでしまいました.そのため昭和に入ってから修復が行われ,正殿は国宝に指定されました.

Okinawa1_097Okinawa1_098 (左写真7) 御庭と南殿,(右同8) 北殿

 しかし,太平洋戦争末期の沖縄戦でこの地は戦場となり,首里城は石垣や一部の門を除きことごとく破壊されてしまいました.戦後には城跡に琉球大学が置かれ,一時は城跡の形跡すらよくわからない状況に追い込まれています.

Okinawa1_060Okinawa1_134 (左写真9) 現存する門である園比屋武御嶽石門,(右同10) 首里城の石垣

 とはいえ,1953年(昭和33年)に守礼門が再建されたのを皮切りに,琉球大学が移転した1980年代以降徐々に修復も行われ,1992年(平成4年)に現在の首里城公園として整備されるに至っています.

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 私が訪問した2010年3月には大勢の観光客で賑わっていた首里城の守礼門ですが,かつてここは,何もないところに朱色の門だけがポツンと立つその寂しさから,日本三大ガッカリ観光地のひとつに挙げられていたそうです.ガッカリ時代の首里城,私は残念ながら(?)未訪だったんですが,先日ロボット刑事を見ていたら,沖縄ロケ編の中でガッカリ時代の首里城が出てきて大いに感動したのでした(敵のアジトに忍び込むため,日雇い労働者に変装した刑事たちが,迎えのトラックに乗り込むのがこの守礼門前なのでした.今こんなことやったら目立ってしょうがないでしょう 笑).

Robok_040Robok_042 (左写真11) ガッカリ時代の守礼門,(右同12) 園比屋武御嶽石門前に立つロボット刑事

 尚,前述の通り首里城の主要施設は全て西向きに立っているので,午前中の写真撮影はことごとく逆光になる恐れがあります.なので観光は午後がいいと思われます(私は午前中中城城,午後首里城としました).

首里城へのアクセス: ゆいレール首里駅下車徒歩15分程度です.

スタンプの設置場所 首里城公園入り口の首里杜館にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) よく整備された公園です.

100shurijo 登城日 2010年3月28日

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2011年5月 3日 (火)

インスタントラーメンはカップ派? 袋派?

 今日はココログのブログネタに参加してみます.テーマはインスタントラーメンはカップ派? 袋派?です.

 手軽においしく食べられるインスタントラーメン,始まりは日清食品のチキンラーメンだそうですが,今では日本のみならず世界各地で食べられている地球食とも呼べる存在です.インスタントラーメンには大きく分けてカップ麺と袋麺があるのはご存知の通りですが,今回はどちらが好きかという話です.

 どっちも好きという答えはなしでということでしょうが,私の場合はやっぱり袋麺でしょうか.

 調理が簡単なのは,もちろんお湯を注ぐだけのカップ麺ですが,お湯で戻すだけのカップ麺は,やっぱり完成時に温度が下がってぬるくなっているのと,麺が生煮えっぽいのが好きじゃないのが理由です.あとは袋麺は一緒に好きな具剤を放り込んで作れるのがいいですね.ちなみに私の場合,一緒に煮込む具剤は乾燥わかめ,そのまんまのもやし,海鮮ミックスといった下ごしらえが不要なものばかりです(基本的にものぐさなので).ものぐさといえば,一人暮らしの学生時代には袋麺を作ったら,丼には移さず鍋からそのまま食べてました(笑).

Kaijo_007  袋麺にはたくさんの種類がありますが,自分が考える三大袋麺は

 日清出前一丁明星チャルメラサッポロ一番みそラーメンの三つでしょうか.

 ちなみに,インスタント焼きそばにもカップと袋がありますが,これも私は袋派です.理由はカップだとどうしてもお湯が完全に切れなくて,なんか水っぽいからです.ただ袋にもフライパンの片づけが面倒という欠点はあるんですが….

 ところで,お湯を注ぐだけで食べられるカップ麺の方は,調理器具がほとんどいらないことから,災害時に威力を発揮しますね.

ブログネタ: インスタントラーメンはカップ派? 袋派?参加数

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2011年5月 1日 (日)

ニフティのビデオ共有

 インターネット上で動画を共有するサイトは数多くあるんですが,その中のひとつニフティでやっていたビデオ共有が今年の6月30日をもって終了するとの周知がありました.

 @ニフティビデオ共有 サービス終了

 私もブログやホームページに張り付けている動画の一部はこれを使っていました.Youtubeよりも画像がきれいなので主としてネイチャー系の動画に利用していたんですが,終了とは… 

 そういえば,以前Yahooでも同様のサービスをやっていましたが(Yahooビデオキャスト),これも終了してしまいました.動画共有の世界も淘汰が進んでいるんでしょうか(将来は Youtube とニコ動くらいしか残らないのかも).

 さあ,困った.ニフティの動画を6月末までに他に切り替えなければならないのでした(はぁ~).

これはおととしの春に行った高遠城の桜動画です.

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