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2011年5月26日 (木)

日本100名城スタンプラリー88

日本100名城 名護屋城(87番)

 先週学会で名古屋に行ってきたんですが,尾張名古屋は城で持つといわれるほど,名古屋城は有名です.日本100名城スタンプラリーにももちろん入っています(44番).

Kyushuenseineo_013 (写真1) 名護屋城の想像ジオラマ

 しかし,日本100名城にはもうひとつの”なごや”城があります.それが今回のテーマである佐賀県の名護屋城です.愛知県の名古屋城が江戸幕府の御三家筆頭,尾張徳川家の居城として造られたのに対して,佐賀県の名護屋城は豊臣秀吉晩年の大きな政策だった朝鮮出兵の出撃拠点および総司令部として築かれたものです.

Kyushuenseineo_018 (写真2) 名護屋城大手口

 織田信長死後,後継争いに勝利した秀吉は,全国の大名を次々に従え全国統一に成功します(一般には天正十八年(1590年)の小田原城攻略をもって完成とされています).秀吉は天下統一を目前にした頃から将来の海外進出を考えていたようです.そして小田原攻めの翌天正十九年(1591年)に大陸侵攻を決意,同年秋にそのための拠点として建設が始まったのが名護屋城です.場所は九州から壱岐・対馬に向かって玄界灘に突き出した東松浦半島の先端部,波戸岬です.そこの標高90メートルほどの丘陵を中心に,総面積実に17万平方メートルもの広大な城郭でした.その規模は当時大坂城に次ぐといわれるほどだったそうです.工事に当たったのは主として西国の大名で,加藤清正も普請奉行を務めています.

Kyushuenseineo_030 Kyushuenseineo_061

(左写真3) 東出丸の石垣,(右同4) 天守台

 工事は急ピッチで進められ,なんと翌天正20年(文禄元年 1592年)の春には完成したといわれます.五層七階の天守閣を持つ本丸が中央に置かれ,その周辺に二の丸,三の丸,遊撃丸,水手曲輪などが配置されていました.壮麗な城郭ではありますが,速成工事で完成させられたため,石垣などは後の近世城郭に比べると荒さが目立ったともいわれています(実戦に即しているとも言えますが).

Kyushuenseineo_072Kyushuenseineo_078 (左写真5) 石垣が所々崩れています,(右同6) 搦手口

 この城郭で特記すべき点として,城郭の周辺に諸大名の陣屋が置かれていたことが挙げられます.名護屋城は大陸出兵の拠点であったため,それこそ全国各地の大名の軍勢がこの地に集結していました.その数実に20万と言われており,名護屋城の周辺には加藤清正福島正則黒田長政といった秀吉譜代の大名はもちろんのこと,徳川家康前田利家伊達政宗上杉景勝といった全国区のそうそうたる大名の陣屋がありました(この状況をさして戦国の紅白歌合戦と評した方がいますが,絶妙の表現と思います 笑).陣屋というと,ただ屋敷があったようなイメージですが実際には大大名の陣屋などはそれ自体が城郭と呼べる規模を持っていたようで,当時この地の賑わいがどれほどのものだったか(20万もの軍勢がいたわけですから,それを支える者や出入りの商人なども相当いたはずです),恐らくは大阪や京都を上回る活気だったのではと思われます.

Kyushuenseineo_115 (写真7) 徳川家康陣屋跡

 秀吉の大陸出兵(文禄の役・慶長の役)は大量の鉄砲など兵器や軍の練度に勝る日本軍の攻勢で始まりますが,やがて李朝の抵抗や明の援軍によって戦線は膠着状態に陥ります.そして慶長三年(1598年)秀吉の死によって全軍引き上げとなり,この時をもって名護屋城はその役割を終えたのです.

 その後城は江戸時代に入ってから破却されたといわれています.現在,この地には当時の建物は残っておらず,石垣などの遺構があるのみですが,それでも当時の壮大な城郭のあとを偲ぶことは出来ます.

名護屋城へのアクセス: JR唐津駅から400メートル離れた大手口バスセンターから昭和バス「波戸岬国民宿舎行き」で約40分名護屋城博物館入り口下車(大体2時間に1本の運行)

スタンプの設置場所 佐賀県立名護屋城博物館の受付にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 広いですがよく整備された公園です

87nagoyajo 登城日 2010年5月22日

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