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2011年3月31日 (木)

中止,中止

 旅行と並んで我が家の愛好するイベントがオペラやコンサート鑑賞です(その他扮装も 笑).震災の影響で3月のイベントは軒並み中止となり,私の予定では3月18日のフィレンツェ歌劇場のヴェルディのレクイエム,3月30日の新国立劇場「マノンレスコー」が早々に中止になっていました.そして今日,新たに4月7日夜に初日予定だった新国立劇場「ばらの騎士」公演が,初日を10日にずらして行うという発表がありました.どうやら,今回の震災で来日できなくなった演奏家がいるため,その代役の手配等の関係のようです.3月のマノンレスコーとは違って,公演そのものが中止という事態にはならなかったようですが,本来の初日だった7日の公演がなくなってしまったわけです.で,じつはこの7日の公演は私が行く予定にしていた日なのでした.

20000344menu  新国立劇場のHPによると,7日のチケットを持っている人に対して他の公演日に振り替えることも可能となっていましたが,土日開催の公演は残席わずかのため振り替えの対象外ということで,振り替えできるのはいずれも平日の昼間の公演ばかりでした.いくらオペラ好きの私とはいえ,年度初めの慌ただしい4月の平日日中にオペラ鑑賞に出かける余裕はありません.というわけで,またしてもキャンセルの憂き目にあうことになってしまいました(泣).

 R・シュトラウスのばらの騎士は,作曲者自身がモーツァルトを意識して作った作品と言っているように,18世紀のウィーンを舞台にした軽妙な作品です.作曲年代としては20世紀の作品なんですが,なんとなく古き良き時代の雰囲気を醸し出した名作として知られています.私としても初の生ステージで非常に楽しみにしていたんですが,とても残念です.

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2011年3月30日 (水)

盛岡に行って来ました

 約1週間ぶりの更新です.先週末から今週の頭にかけて,盛岡に行って来ました.実家の様子を見に行くなどいくつかの理由があったからです.首都圏から盛岡へは,東北新幹線の速達列車のはやて(またははやぶさ)を利用すると東京からで2時間半,私のところからでも3時間半~4時間あればついてしまいます.

Konkai_003(写真1) 東京駅の東北新幹線の案内板.なすのばっかりでした.

 が,今回の震災で東北新幹線は施設が損傷してしまい,現在も東京-那須塩原間と盛岡-新青森間以外は不通になっています.そんな状況でどうやって盛岡に行くかが問題でした.まず考えられるのが高速バスです.元々盛岡-東京には路線バスとして夜行高速バスのドリーム盛岡(らくちん)号が走っており,この路線は震災後比較的早い段階で再開していました(その他企画募集型の夜行バスもいくつかありましたが,こちらは休止のまま).ただ,これは人気が殺到しているのかすっかり売り切れ状態で断念しました.そのほかには,JALが羽田-花巻の臨時航空便を運航し始めました.羽田-花巻は昭和50年代には定期路線があったんですが,新幹線の開業,スピードアップによって,利用客が急減し廃止になっていた路線です(元々盛岡から花巻空港へのアクセスが悪いため,飛行機利用による時間短縮効果がなかった).今回新幹線が不通になったことで復活したわけです.が,こちらも盛岡への数少ないアクセスということで,発売とともに売り切れ状態でした(アクセスが長距離バスと飛行機だけってなんだかアメリカの都市間移動みたいだ).

Konkai_017 (写真2) 震災後こまち号は盛岡駅の在来線ホームから発着しています.

 そんなわけで,今回利用したのがぐるっと日本海側を回るルートです.すなわち,東京から上越新幹線で新潟に出て,そこから羽越本線の特急列車(いなほ号)で秋田へ,そして秋田新幹線で盛岡に入るというルートです.このコースでウチから盛岡まで実に9時間もかかりました.

 久しぶりの盛岡は,節電の影響か,以前に比べて街の明かりも少なくひっそりしていました.結局盛岡には2泊3日の日程で滞在し,用事を済ませて帰ったのでした(帰りに盛岡駅1階の北星館に白龍のじゃじゃ麺を買いにいったら見事に売り切れでした).

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2011年3月24日 (木)

金子みすずさん

 最近,というか震災の後というべきか,ネット上で金子みすずさんの詩が話題になっています.こだまでしょうかという詩です.どうやら震災後に流れるようになったACジャパン(昔の公共広告機構)のCMで取り上げられたのがきっかけのようです.ツイッター上でも,この詩をパロったような詩をつぶやいている人も大勢いるようです.

 金子みすずさんは明治三十六年(1903年)に山口県の日本海側,仙崎というところで生まれました(JR山陰本線の支線が走っています).地元の高等女学校を卒業後,数多くの詩を創作しましたが,私生活では苦労の連続で昭和5年にわずか26歳で自ら命を絶ってしまいました.彼女の詩も生前はそれほど知られていませんでしたが,1980年代に入ってから再評価されて現在に至っています.純粋に詩として鑑賞されるほか,多くの作曲家によって曲をつけられてもいます.

 実はこの「こだまでしょうか」の詩に,中田喜直氏が作曲した合唱曲を,偶然にも去年私も参加している医師会合唱団の演奏会で取り上げました.その際の演奏が Youtube にあるのでアップしてみます.

 みすずさんの素敵な詩と中田喜直氏の優しい音楽が非常にマッチしていると思います(曲のオリジナルは女声合唱なんですが,今回は混声でやってます).

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2011年3月22日 (火)

そういえば…

 震災から11日、今なお被害の全貌が明らかでない中,被災された方々に心からお見舞い申し上げます.

 震災の影響で仕事関係では,地震翌日に予定されていた日本内科学会の関東地方会が中止になり,4月8日から東京で予定されていた日本医学会総会も中止,さらには4月15日から同じく東京で予定されていた日本内科学会総会は延期となりました.その他自分関連だと5月に日本神経学会総会がありますが,こちらは会場が名古屋ということもありたぶん開催されるんじゃないかと思います.また同じ5月には日本温泉気候物理医学会が鹿児島で開催されます.というわけで鹿児島かぁ~と考えているうちに思いだしたことが…

 九州新幹線鹿児島ルートが全開通したのでした.九州新幹線は2004年に新八代-鹿児島中央間が部分開通していたんですが,さる2011年3月12日に新型N700系車両とともに,新愛称「さくら」,「みずほ」としてデビューしました.

 しかし,3月12日と言えば,大震災の翌日です.本来なら大阪と鹿児島が一本の新幹線で結ばれるということで大きなニュースになるハズだったんですが,震災のために少なくとも東日本ではまったく話題にならないまま今日に至っています(地元の九州ではそれなりに取り上げられたのかもしれませんが).マイルド鉄の私もすっかり忘れていたのでした.

Mizuho (写真1) 九州新幹線を走る新しいN700系

 鉄道といえば,震災で不通になっていた東北新幹線のうち,盛岡-新青森間が本日再開したそうです.盛岡以南はまだまだということですが,ついでに思いだしたのが九州新幹線の一週間前にデビューした東北新幹線の新型車両「はやぶさ」です.グランクラスで話題となったこの列車,デビューわずか7日目にして震災に見舞われてしまい,いったい今どこでどうしているのでしょう(グランクラス専用のアテンダントも登場しましたが,今は自宅待機なんでしょうか).一日も早い復旧とともに,またあの雄姿を見たいものだなぁと思ったのでした.

Gran_027Gran_031  (写真2,3) はやぶさとグランクラス.はやぶさは1日3往復,定員18名なので結局乗ったのは全部でまだ1000人になりません.

 わずか半月前の写真を見ながら,早く元の日々が帰ってくるように自分なりに頑張ろうと思ったのでした.

 

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2011年3月21日 (月)

日本100名城スタンプラリー84

日本100名城 明石城(58番)

 3月11日以来このブログも震災関連の記事ばかりでしたので,今日は久しぶりの100名城ネタです.今回は兵庫県の明石城,近畿地方最後の城郭です.

Akasi2 (写真1) JR明石駅ホームから見た二棟の櫓

 山陽道の大阪と姫路の中間に位置し,海峡を挟んで対岸には淡路島,さらには四国の徳島と向かい合う明石は交通の要衝でした.戦国時代にこの地にあったのは船上城で,キリシタン大名の高山右近の築城と言われています.

Akasi5 (写真2) 今は明石公園となっています

 関が原の戦い後,明石の地は池田輝政の姫路藩の一部となり,船上城も支城のひとつとなりました.しかし大阪の陣の後池田氏が鳥取に転封になると,この地に新たに明石藩が立てられ,譜代の小笠原忠真が藩主として赴任します.この際将軍徳川秀忠は明石が要衝の地であることから,西国の外様大名への押さえの城を築くことの必要性を考え,忠真に新たな城の建設を命じました.こうして元和四年(1618年)から築城が始まったのが明石城です.

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(左写真3) 伏見城から移築したといわれる巽櫓,(右同4) 坤櫓  

 将軍秀忠の肝いりで始まったこの建設には,幕府からの財政援助や当時の姫路藩主本多忠政の協力もあり,工事は約2年で完了しています.建築資材には廃城となった近隣の城やさらには京都の伏見城のもものも利用されています.

Akasi10 Akasi9

(左写真5) 堀と高石垣,(右同6) 本丸の天守台

 城郭は中央の本丸から西に稲荷曲輪,東には二の丸・三の丸・東の丸が連郭式に配され,周囲は堀(一部は池)がめぐらされた構造になっていました.平野部にある城ですが,本丸部分が小高い台地上にあるため,平山城に分類されているようです.本丸には天守台が造られましたが天守が置かれることはありませんでした.

Akasi8 (写真7) 古の明石城の図

 明石藩は江戸時代前半を通じて藩主の交代が著しく(これは明石城に限らず,要衝の地に置かれた小藩はいずこもそうだったようです),なかなか藩政が安定しませんでしたが,天和二年(1682年)に親藩の松平直明が入ってからは,そのまま松平氏の下で幕末に至りました.

 明治維新後廃城となり,一時皇室の御料地となったものの,大正年間に明石公園として開放され現在に至っています.遺構としては堀や石垣のほか,本丸の四隅に築かれていた4つの櫓のうち,巽櫓と坤櫓が現存しています.

Akasi1

明石城へのアクセス: JR明石駅から徒歩数分です

スタンプの設置場所 正面から入ってすぐ右手のサービスセンターにあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.

58akashi 登城日 2010年1月11日

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2011年3月20日 (日)

風評被害と戦う

 何か災害が起こると,本来は受ける必要がない被害が発生することがある.いわゆる風評被害というやつである.多くは無知と偏見から来るもので,正しい知識と冷静な判断力があれば防げるはずのものだ.今回の震災でもと恐れていたのだが,やっぱり起こっていたようだ.

 風評被害で機能マヒ

 現在福島県の沿岸部では一部の地域に避難や自宅退避の指示が出ているのだが,そういった地域ではない場所まで,同じ福島県の沿岸部だから危険 というたちの悪いウワサが流れて,地域で必要な物資が届かないという問題が起こっているようである.記事によるといわき市内に入ることを嫌がって,日立市(茨城県の沿岸)や郡山市(福島県中通り)で物資が止まってしまっているとのことであった.風評被害の最たるものといえよう.

 試みに,政府の原子力災害本部が今朝出した資料(平成23年(2011年)福島第一・第二原子力発電所事故について)には付近の都市で計測された放射線量について記されているのだが(前述リンクの最後の方),これによると今話題のいわき市の放射線量が 0.870 μSv/時 なのに対して,物資が止まっている郡山市のそれが 2.510 μSv/時 である.なんのことはない,人々が怖がって入ろうとしないいわき市より,立ち止まっている郡山市の方が放射線が多いという皮肉な状況になっているのだ.ちなみに郡山市の放射線量は1年間屋外にずっと立ち続けた場合でも,循環器科の医師が1年間に浴びる放射線量(大体30mSv = 30000μSv)の3分の2程度で,健康に影響が出る可能性があるとされる 100mSv にはるかに届かない.ついでに言うと,いろんな病気に効能があるとされて全国から大勢の湯治客がやってくる秋田県の玉川温泉は有名なラジウム泉で,温泉付近の放射線量は場所にもよるが,高いところだと 6μSv/時になるらしい(玉川温泉放射線量ベスト1).郡山の2倍以上,いわきの7倍になるが,過去に玉川温泉に避難指示が出たとか,湯治客が逃げ出したというウワサは寡聞にして聞いたことがない.

 そんな風評被害について考えていたら,今度は福島県からやってきた人の宿泊を拒否するホテルや旅館があるとか.最初は単なるネタかと思っていたのだが,厚生労働省からもそういうことをするなとの指導が出ていたので,どうも事実らしい(平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震の被害状況及び対応について(第22報) これの22ページ).そんな宿泊施設があることも驚きだが,そんな冷静な対応が取れない施設なら万一災害が起こっても宿泊客の安全なんて守れそうにないので私としても泊まりたくないと思うのだった(雲仙普賢岳の噴火の際,名前が共通の雲仙温泉が風評被害で観光客が激減した騒動があったが,それに匹敵するレベルかも).

 さらには昨日,福島県の一部地域産の原乳や茨城県の一部産のホウレンソウから基準値を超えた放射能が検出されたとのこと.該当する製品は流通されないはずだが,これもまた福島&茨城産の農産物はすべてダメ的な風評被害が起こらないことを祈るばかりである.

 風評被害と断固戦うビザンチン皇帝は,過去にも病原性大腸菌O157騒動でカイワレが嫌われた時にはカイワレを,ノロウイルス騒ぎで牡蠣が嫌われた時には牡蠣を,六ヶ所村の原燃問題の際には六ヶ所村の乳製品を積極的に応援してきたので,今回も福島&茨城の農産物を積極的に応援しようと決意しているのだった(明日さっそくスーパーに行ってみよう).

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2011年3月19日 (土)

震災の影響

 震災から今日で9日目になります.直接の被災地ではない当地でも,計画停電やスーパーや石油製品の品薄など間接的な影響が感じられています.そんな中,各種イベントにも震災の影響が及んでいます.

 まずは,地震直前に来日していた世界的なオペラハウス,フィレンツェ歌劇場の公演が中止になりました(私は18日のヴェルディのレクイエムの演奏会を鑑賞予定でした).また新国立劇場でも3月中の公演は中止になっています(30日の歌劇「マノン・レスコー」を観劇予定でした).日常の活動でも,合唱団の練習が交通機関の不安からお休みになっています.仕事関係では内科学会の地方会が中止のほか,各種講演会や勉強会も軒並み中止や延期になっています.さらには年度末恒例の病院の公式送別会も中止になりました.変わらないのは当直の回数だけという感じですが(笑),その代わり震災前に比べて夜家で過ごす時間がかなり増えたように感じます.おととい17日の夜には当地でもはじめての計画停電になりましたが,懐中電灯ひとつの中で改めて電気のありがたみを感じました(昨年購入した iPad が大活躍で,音楽を聴きながら遊んでいるうちに停電時間は終了しましたが).

 こういう直近のイベントのほかにも影響が広がっています.所属している合唱団で今年のGWに演奏旅行が予定されていたんですが,これも中止の方向で話が進んでいるようですし,さらには5月の恒例イベントひの新選組まつりも中止が決定した模様です.愛好家としてはとても残念ではありますが,実行委員会の方々が熟慮の末決定したことですからやむをえないことと思います.

 なんだか,世の中全体が重く沈んだ感じになっていますが,被災地への救援のためにも私たちはしっかりと日常の経済活動を行い,この国の経済を支えていかなければと思うのでした(経済が停滞すると,救援・支援も行えなくなりますから).私もほどほどに外食をして景気刺激をしようと思ったのでした.

 ただ,経済活動のためには交通機関などのインフラが欠かせず,そのためには今行われている停電は大きなネックになっています.停電の原因は東京電力の所有する発電所が打撃を受けたことに尽きるんですが,そこで今話題になっているのが福島第一原子力発電所の問題です.放射能という目に見えないものを扱うことから世間に不安を与えていますが,これについては何よりも正しい情報を入手し,誤った情報を排除することが大切です.

 今回の震災は20世紀末から21世紀初頭にかけての情報通信革命後初めての大震災です.ですから,私たちはインターネットを利用した様々なツールでたくさんの情報を得ることが出来ます.ただ,ネットの情報は誰もが簡単に送り手になれるため,時には誤った情報や悪意を持った情報が拡散する危険性があります.今回,政府首脳が公式の会見でネットでの誤った情報拡散に注意する旨を発言したことはその象徴といえるでしょう.

 私も現在の原発の問題についてネットで調べましたが,まさに玉石混交,しかも玉は少ない印象でした.たとえば,一年間に浴びても問題ないとされる放射線量が某巨大掲示板では2桁違って紹介されていました.

 試みに,本日の経済産業省原子力安全・保安員の発表によると,19日朝9時の福島第一原発3号機から1.1キロ離れた西門での1時間あたりの放射線量が364.5μSvだったとの発表がありました.これをどう考えるかです.もちろん少ない量ではありません.ただ,医療関係で言いますと,心臓カテーテル検査等で仕事柄普通の人よりも多くの放射線被曝をする循環器科の医師だと,年間に浴びる放射線量は大体30mSv(= 30000μSv)になります(学会の報告より).ということは計算すると福島第一原発の西門に82時間(約3日半)ひたすら立ち続けて浴びる放射線量が循環器の医師の年間被曝量にあたる計算です.もちろん距離が離れれば量はずっと減りますし,屋内ならさらにその数値は下がります(今避難が指示されている距離は20キロと西門までの距離の20倍です).ちなみに健康に影響を与える恐れのある量は年間100mSv(=100000μSv ただし体の部位によって危険値は異なる)ですが,巨大掲示板では2桁少なく紹介されていたため,「それは大変だ」などというコメントが出ていました.もしこんな情報が被災地の方々に流されたらいたずらに不安感を煽るのは間違いありません.情報の扱いには慎重でなければならない一例と感じました.

 追記: 記事をアップしたらこんなニュースが(風評被害で機能麻痺),呆れるというか怒りすら覚えます.

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2011年3月14日 (月)

計画停電

 大地震が起こった週末が開け,新しい週に入った今日,今回の地震で所有する発電所に大きなダメージを受けてしまった東京電力が,このままでは平日の電力需要をまかないきれないとの判断で,地域をいくつかのグループに分けての計画停電を実施すると発表しました.

 自分の家に関しては数時間停電があったところで大した影響はないんですが,問題は職場,すなわち病院です.病院はその機能の維持のため電力は必須の存在です.特に私の領域では人工呼吸器を使用している患者さんも多いため,電気が止まるのはそれこそ死活問題となります.とはいえ,病院には自家発電装置があるため,それらを稼動させることにより必要最低限どの電気を得ることは可能です.ただ,この大規模停電→自家発電への切り替えというのは,時々訓練ではやっているものの,実地にやったことはなく(それだけ,これまで日本の電力供給は完璧だったというわけなんですが),今日は朝からそれに向けての対策準備で大わらわでした.

 今日は首都圏の電車の相当部分が止まってしまった影響で,出勤できない職員も多数いた中,朝一番に会議が開かれ,電力使用量を減らすべく不要な電気は使用しないこと,実際に停電が起こる場合に備えて各自の役割等を確認しました.そのため今日は医局,事務室をはじめ病棟の廊下でも室内灯は消されていました.その一方,在宅で人工呼吸器を使っている患者さんについても万一の場合に備えた受け入れ態勢を準備するなどしました.

 そして停電が予想される時間前にそれぞれ各部署で待機していました.結局当地での停電は実施されずに終わりましたが,明日以降もこの計画停電は続くとのことで,対策はしばらくの間必要になりそうです.

 それにしても,せめて公共交通機関にだけは優先的に電気を供給するシステムにできたらいいのにと思ったのでした(職員が出勤できないというのはそれだけでリスクを高めますから).

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2011年3月13日 (日)

地震 その後

 3月11日午後に発生した大地震からまもなく2日になります.徐々に各地での被害の様子が明らかになってきています.特に東北地方太平洋岸の惨状には言葉を失います.岩手県沿岸部は私もかつて勤務したことのある地域で,ニュース映像に映し出された建物や光景は見知ったものであるだけに,その衝撃は一層大きなものでした.テレビになんどか出ていた,避難所ともなっている岩手県沿岸南部の病院はかつての勤務地でした.救急センター併設でただでさえ忙しい病院ですが,今回の事態で現場の大変さは相当なものだろうと感じます.今は遠くになってしまいましたが,かつての仲間たちが奮闘している姿を思ってしまいました.頑張れみんな.

 さて私の周辺ですが,私自身は昨日地方会をはじめいくつか予定があったんですが,今回の事態を受けて全てキャンセルとなったため,結局一日自宅待機となっていました.私の妹が東京にいるんですが,地震発生時は仕事で渋谷にいたそうです.電車が止まってしまいどうしようかと思ったそうですが,なんとか動いていたバスに乗って帰宅したようです(ただし道路が超渋滞のため,結局家に着いたのは午前4時だったらしく,都内で夜行バスに乗るとは思わなかったとのこと 苦笑).

 震源に近い東北地方は私の本拠地です.盛岡には実家があって母親が住んでいるんですが,地震発生直後から電話が通じなくなりました.ただ盛岡は内陸なので津波被害はなく,建物が崩れない限り大丈夫だろうとは思っていました.しばらく連絡が取れないでいたんですが,昨日の夕方妹から連絡がついて無事らしいことが判明,今朝になってようやく私とも連絡が付きました.元気な様子でしたがライフラインがまだ復旧していないので暖房がないのが大変とのこと.昔所有していた反射式のストーブを処分してしまったのが悔やまれたとのこと.今の暖房器具は電気を使うものばかりなので,こういうときには古典的なのが役立つんだなと再認識しました.

 私のところにも多くの方々からお見舞いのメールやコメント等をいただきました.ありがとうございます.

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2011年3月11日 (金)

地震!!

 朝から快晴だった今日,院長も副院長も所用で出かけており,医局にはなんとなく寛いだ雰囲気が漂っていました.

 そんな今日午後2時45分過ぎ,医局で作業をしていたところ急に揺れを自覚,「あれっ地震だ」と思ってそのまま様子を見ていましたが一向に収まりません.むしろ時間と共に強くなっていきます.「これは震源は相当遠い,ここでこれだけ揺れるんだから震源付近はどうなってるんだ」と思いつつ,他の医師と分担して病棟へ.大きな問題がないことを確認した後医局のテレビをつけました.

 これが平成23年東北地方太平洋沖地震発生の瞬間です.この後テレビでは各地の津波などの被害が次々と映し出されていました.当地は震度4程度の揺れで,市内の交通機関がストップしてはいるものの人的な被害は出ていない模様です.私自身も無事です.

 しかし東北地方や北関東を中心に大きな被害が出ており,今なお拡大しつつある模様です.被災された方々に対して心からお見舞い申し上げます.

110311_151052 (写真) ウチの職場の柱,今日の地震でヒビが入ってしまいました.

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2011年3月10日 (木)

手塚治虫の新選組

 最近日本でも電子図書が少しずつ普及してきています.電車のお伴には本が多い私ですが,最近は電子図書を利用するケースも増えてきました.

 というわけで先日購入して読んだのが,本日の表題です.新選組をテーマにした漫画作品,しかもあの手塚治虫氏の作品です.

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 物語は,父親を土佐なまりの侍(雰囲気から土佐勤皇党の者か)に殺された少年,深草丘十郎が,父の敵を討つために新選組に入るところから始まります.この時彼と同時に入隊した隊士に,若くて恐ろしく腕の立つ剣士,鎌切大作がいて,二人は親友となります.物語は二人を中心に展開し,丘十郎は大作をはじめ,近藤勇,沖田総司らの指導もあってメキメキと剣の腕を上げていきます….

 新選組を題材にしてはいますが,少年のかたき討ちを中心に話が進むので,新選組そのものはあまり活躍しません.近藤勇は分別のある良い人に描かれていますが,芹澤鴨は典型的な悪人で,沖田総司はギョロ目で咥え楊枝(草?)のキャラです.また土方歳三はニヒルで睫毛が長い美男子ですが,それより年下のはずの大石鍬次郎がやたら老け顔なのが面白いです.作者は二人の目を通して新選組の運命や時代の流れを描きたかったらしいんですが,人気が出なったようで途中で連載が打ち切りとなり,そのため中途半端な形で終わってしまったのが残念です.

 しかし,この漫画が連載されていたのは1963年(昭和38年)で,司馬遼太郎燃えよ剣連載と見事に重なっています.考えてみれば,世間で新選組の人気が高まる大きなきっかけになったのがこの燃えよ剣です.そんな時代に,大人はともかく子供向けの漫画(本作は少年ブックに連載)で新選組を描いても,当時の子供に人気が出なかったのは仕方がないのかもしれません.とはいえ,そんな新選組がメジャーではない時代にこれを取り上げた手塚治虫氏,やっぱり凄いですね.本当はこの後どういう展開にするつもりだったのか,今となっては知る由もありませんが興味深いなと思ったのでした.

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2011年3月 9日 (水)

そば屋のカレーそば

 昨日今日と,アクセスカウンターの回転が早くなっていました.なんだろうと思ってアクセス解析を見たら,「はやぶさ グランクラス」といったキーワードでの検索が急増していました.やはり現在注目されている話題なんですね.ちなみに,このブログ右下のアクセスランキングでもはやぶさ関連が10のうち6つを占めています.

 さて,そんな鉄道話のついでのお話です.

 駅と言うと私的には立ち食いそば屋が連想されます.昔はホームにあって,車内持ち込み用もあったりと色々風情があって楽しめた立ち食いそば,最近は電車の高速化や,ボックスシート型車両の減少,車内美化の観点から車内に持ち込んで食べることはできなくなってしまいました.店舗もホームだけではなく,改札口の周辺にもあって時には腰掛けるスペースもあるなど,もはや立ち食いとはいえない店も出てきています.

 立ち食いそばのメニューとしては定番がかけそば天ぷらそばきつねそばがありますが,近年ではカレーそばなんかも見られています.で,今回紹介するのがJR三島駅改札口にある立ち食いそば屋「生そば処」のカレーそばです.その名もそば屋のカレーそば.なんだか山本山みたいなネーミングです.時々こっち方面に出張で来るので,その際なんかに利用しています.

 ここのカレーそばの特徴は,いわゆるカレーライスにかかっているカレールウとは異質な汁です.そばのだし汁にカレー粉を入れて片栗粉でとろみをつけたいわゆるカレー南蛮そばの汁です.しかもとろみが結構強く,なんか天下一品ラーメンを彷彿させます(笑).

Soba_001 (写真) そば屋のカレーそば,具剤は肉とネギです

 寒い朝に食べる一杯として趣があります.

 ちなみに三島駅のホームにも立ち食いそば屋があって,こちらは桃中軒という老舗がやっていて,桜エビのかき揚げそばが有名です.

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2011年3月 7日 (月)

グランクラス体験記

 先週の土曜日,3月5日に東北新幹線の新型車両E5系がデビューしました.愛称ははやぶさでその独特の形状とグリーンのボディーが注目を集めています.

110306_212749 (写真1) はやぶさ号グランクラスの入り口

 そんなはやぶさ号にはグリーン車を上回るゴージャスな座席,グランクラスが設けられました.新しもの好きでマイルド鉄スーパーライトの私,ぜひともこのグランクラスに乗ってみたいなと思っていました.が,同じことを考えている人が全国に大勢いるらしく(笑),一番列車は10秒で売り切れたそうです.その後ネット上では,その切符が30万円以上で取引されていたとかいうウワサも聞きましたが,私はあくまでもマイルドな鉄なので,そこまでしようという気はありません.あくまでも定価で購入して乗ることに意義があるわけです.で,結局初日の切符は手に入れることができなかったんですが,2日目の下り最終列車はやぶさ5号のグランクラスがとれたという次第です(はやぶさ2号と5号は仙台発着で乗車距離が短いせいかチケットが取りやすいようです).

Gran_023 (写真2) はやぶさ入線,すごい人だかり

 3月6日はウチのKともどもお昼はオペラ鑑賞,その後は夕食で9時半に東京駅へ.ここでKとわかれて新幹線ホームに向かいます.はやぶさ号が出る22番線に行くとすでに黒山の人だかり,とても写真が撮れるような雰囲気ではありません.写真撮影は仙台についてからにしました.グランクラスは10号車,一番端に位置しています.しばらく待っているとドアが開いて乗車開始となります.アテンダントの方のお出迎えで乗車,フラッシュが焚かれる中での乗車はちょっと有名人になった気分でした.

Gran_029 (写真3) シート脇の装置群

 客室は自然色をイメージした暖かい感じの照明です.シートは白い本皮性,リクライニングも手元のボタンを押すことでフットレスト,座面,背もたれ全てがお好みに微調整できるようになっていて,どんな人にも自分に合ったポジションが探せるようになっています.またPC用の電源や読書灯も格席に完備しています.まずはとゆったり腰掛けていたら前方から見たことのある人物が入ってきました.よく見たらなんと私が世話になっている医局の教授です(笑).向こうも驚いたようでしたが,「先生が乗っているような予感がしたんだよ」と言ってました(ちなみに教授は仕事での移動で,私のように乗るだけ人間ではありません 笑).

Gran_028 (写真4) グランクラスのワイン

 定刻になって発車です.まずはアテンダントの方がおしぼりを配り始めます.グランクラスのアテンダントは,このクラス専用に訓練されたアテンダントとのこと.対応はさすがでしたね.

Gran_027 (写真5) ワインをいただく私

 続いては飲み物と軽食のサービスです.グランクラスではソフトドリンクはもちろん,ワインやビールなどのアルコールも自由に飲むことができます(アルコールもということはほとんど国際線の飛行機並みのサービス).また和または洋の軽食もいただけるようでした(周囲の人は注文して食べていました.私は直前に夕食だったので今回はパス).

Gran_032 (写真6) 仙台駅にて記念撮影

 ワインをいただいてくつろいでいるうちにあっという間に仙台に到着,ホームで記念写真を取って(件の教授に撮ってもらいました)改札をでます.

 せっかく仙台に来ましたが,私は翌日朝から仕事なのでのんびりできません.とはいえこれから東京方面に帰る新幹線もないので,夜行バスで戻ることになったのでした(笑).

 行きがグランクラスで帰りが夜行バスというギャップが素晴らしいなと思ったのでした.

Gran_034 (写真7) 今回はモバイルSUICA特急券で利用しました.若干割安になります.

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2011年3月 2日 (水)

萩のどん兵衛が…

 昨夜ココログのアクセス解析を眺めていたら,検索キーワードに「どん兵衛」というのが急増していました(このブログの右側に張り付けてある検索キーワードでも第1位になっている).なんだろうと思って調べてみたら,なんと飲食店のどん兵衛が破産の手続きを進めているんだそうです.

 外食の「どん兵衛」事業停止で破産準備

 どん兵衛は山口県萩市に本店を持つ飲食店で,うどんやどんぶりもののメニュー主体のお店です.地域ローカルな店なので全国的には知られていない存在でしたが,昨年カップうどんのどん兵衛を有する日清食品ホールディングスとの間で訴訟が発生し注目を浴びました.この訴訟は結局,飲食店のどん兵衛側が名称を変更することで和解が成立,一件落着かと思っていたんですが,意外な展開になったようです.記事によると材料費の高騰や出店コストの増大によって資金繰りが困難になったとのことで,件の訴訟とは直接関係ない模様です.

 思えば昨年の騒動の際,店名が変わる前に行っておこうと11月の学会帰りに強行軍で訪問したのを思い出しました.

Donbe_122  さて,このどん兵衛,これからどうなるのでしょう.会社更生法なら再建を目指すわけですが,破産ということは…

 先日の訪問,案外すごく貴重な経験になったのかもしれないと思ったのでした.

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2011年3月 1日 (火)

日本100名城スタンプラリー83

日本100名城 高取城(61番)

 2011年に入って2回目の100名城記事です.今回のテーマは奈良県の高取城です.奈良県には他にも豊臣秀吉の弟秀長の居城だった大和郡山城なんかもあるんですが,日本100名城に指定されたのは高取城の方でした.

Tenshudai (写真1) 天守台の石垣

 標高583メートルの山頂に築かれた典型的な山城で,城郭の総面積6万平方メートル,城内だけでも1万平方メートルにも達する広さを誇ります.岩村城・備中松山城と並び3大山城とも呼ばれています.

Ninomon Outemon (左写真2) 二ノ門跡,(右同3) 大手門跡

 高取城の歴史は南北朝時代にさかのぼるといわれ,この地の豪族越智氏によって築かれたのが始まりとされています.以後越智氏の支配が長く続き,戦国時代末期に織田信長のい勢力下に入ります.信長没後は洞ヶ峠で有名な筒井順慶によって改修が行われ,その後この地に入った本多利休によって今に残る城郭が整備されました(天正年間 16世紀末).関ヶ原の戦いに際して利休の子俊政が東軍についたことから,戦後加増を受け江戸時代には高取藩の居城として幕藩体制に組み込まれました.江戸時代初期に本多氏は改易となり(跡継ぎがいなかったため)その後は植村氏が藩主となり幕末まで続きました.

Ninomaru Takatori_034 (左写真4) 二ノ丸の様子,(右同5) 本丸

 明治維新後廃城となり建物は全て失われてしまいましたが,山奥にあったのが幸いし石垣などの遺構はそっくりそのまま保存されて現在に至っています.

Takatori_061 (写真6) 明治初年の古写真、大手門から本丸方面

 往年の高取城は山頂にそびえる天守をはじめ,27の櫓と33の門を有する壮麗な城郭だったようです(明治初期の古写真からも当時の様子がしのべます).特に下界から本丸を目指すとたくさんの門をくぐっていかねばならず,攻める側にとってはまさに難攻不落の要塞でした(関ヶ原の戦いの前哨戦でも石田光成の軍に攻められながらも撃退に成功しています).

 高取城をCGで再現したサイト

高取城へのアクセス: 近鉄壺阪山駅から徒歩1時間くらいです(タクシーなら七つ井戸まで連れて行ってくれます.ここから本丸までなら坂はきついですが5分ほどです)

スタンプの設置場所 麓の夢創館にあります

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 山城なので相当歩きますが,登山道は整備されています.

61takatori 登城日 2010年1月11日

 

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