日本100名城スタンプラリー80
日本100名城 竹田城(56番)
このブログで2008年5月から始まった100名城シリーズもついに80回目を迎えました.飽きっぽい私が良くここまできたものだとひとり感動しています(笑).そんな感動の80回目を飾るのが兵庫県朝来市和田山町にある竹田城です.兵庫県は南は瀬戸内海,北は日本海と2つの海を持つ山陰と山陽にまたがった県です.そのため気候も地域によって異なりますが,この竹田城のある朝来市は日本海側に近い気候です.地理的には中国山地の中ということになる山深い土地でもあります.
そんな山間地にどうして城が築かれたのかというと,この地は丹波・播磨と但馬を結ぶ交通の要衝にあったからです.実際に今でも竹田城の側にはJR山陰本線と播但線の分岐駅である和田山駅があります.
竹田城は典型的な山城で,標高353.7メートルの虎臥山の山頂に天守台が置かれ,その周辺に放射状に南千畳,北千畳,花屋敷が配置されています.特に石垣の壮麗さで知られ,天守台から見た南千畳の光景は南米はペルーにあるインカ帝国の遺跡であるマチュピチュを髣髴させるので,日本のマチュピチュなどと呼んでいる人もいます(逆にマチュピチュがペルーの竹田城と呼ばれているのかは不明 笑).またこの地は霧が発生しやすいことでも知られ,特に秋から冬にかけての早朝には雲海に浮かぶ竹田城の姿を見る事ができ,その光景から天空の城という異名もあります.
(左写真2) こちらは北千畳です,(右同3) 本丸の様子
竹田城の歴史は室町時代に遡ります.室町幕府の有力な守護大名だった山名宗全が嘉吉年間(1441~1443年)に築いたといわれます.当時は今のような石垣ではなく土塁が主体の城でした(規模的にも砦のような感じ).後に応仁の乱が起こって宗全が西軍の中心人物になると,東軍の細川軍などからたびたび攻撃を受けたようです.戦国期を通して竹田城の実際の城主となっていたのは山名氏の家臣だった太田垣氏で,宗全の時代の太田垣光景から6代130年にわたって城を守り続けました.しかし天正五年(1577年)と天正八年(1580年)の二度に渡って織田信長の軍勢(主将は羽柴秀吉の弟秀長)に攻められて太田垣氏とその主家の山名氏は没落することになったのでした.
信長時代の竹田城は当初羽柴秀長が城代でしたが,その後桑山重晴ついで赤松広秀が城主となっています.この広秀の時代に今に残る竹田城の壮麗な石垣が築かれました.この城の石垣は安土城のそれと類似しており,実際に安土城の普請を担当した近江穴太衆(あのうしゅう)が受け持ったと言われています.それにしても建設重機などなかった時代,よくこんな山の上まで石材を運び上げたものだと感心してしまいます.
赤松広秀は関が原の戦いでは西軍についたものの本戦で西軍が敗れたため東軍に寝返って鳥取城の攻撃に加わりました.しかし慶長五年(1600年)10月28日に徳川家康の命により切腹,竹田城も廃城とされてしまいました.その後城の建物は全て失われてしまいましたが,山頂の不便な場所が幸いしたのか石垣等の遺構はほぼ当時のまま残され今に至っています.
私が訪問した1月3日は残念ながら曇りで雲海は見られませんでした.しかし山頂の天守台からの眺めは素晴らしいの一言でした.
(写真6) ふもとのJR竹田駅からも山頂の石垣群が見えます.
竹田城へのアクセス: JR竹田駅から徒歩40分です.
スタンプの設置場所 JR竹田駅の窓口にあります
登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 山城なのでそれなりの登山になりますが,自動車である程度まで上がることも可能です.
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コメント
ビザ皇帝様 こんばんは!
ビザ皇帝様がこうやって日本100名城を紹介してくれなかったら、日本にこんなに多くのお城があるなんて知らなかったと思います。
本当にありがとうございます!
竹田城、さぞかし立派だったんだろうなぁ~っという感じがします。
和風・マチュピチュですよね!
投稿: まーうさ | 2010年12月 5日 (日) 14:25
まーうささん
こんばんは,コメントありがとうございます.
実は私もこの100名城をめぐり始めて,
初めてこんなに凄いお城がたくさんあるということに気が付きました.
世間的には城というと天守閣などの派手な建物が注目されてますが,
それ以外にも石垣とか堀とか見所が多いこともわかりました.
残り20城,まだ行ってないところもありますが,張り切って書いていきたいと思います.
投稿: ビザ皇帝 | 2010年12月 6日 (月) 13:27