日本100名城スタンプラリー77
日本100名城 千早城(55番)
前回の福岡城が6月20日でしたから,実に3か月以上ぶりの100名城ネタになります.前回までで九州シリーズは一旦お休みしてここからは近畿地方の残り8城です.今日紹介するのは千早城です.
大阪の城郭というとなんといっても大阪城が別格的に有名ですが,100名城にはもう一つこの千早城が加わっています.千早城が歴史にその名をとどめているのは,なんといっても楠木正成の存在があるからといっても過言ではありません.
千早城が築かれたのは元弘二年(1332年)ですから,鎌倉時代の末期にあたります.楠木正成の一族は鎌倉幕府を支えた武士,いわゆる御家人衆の系列には属さない土着の武士・豪族で,悪党と呼ばれた階級です(今でいう悪党という言葉とは若干意味が異なります).
元弘元年(1331年),後醍醐天皇による倒幕運動が起こると正成はこれに呼応して挙兵します.こうしていわゆる元弘の変が起こりますが,正成は緒戦で幕府軍に敗れ,居城だった上赤坂城・下赤坂城は落城してしまいます.そこでその背後に連なる金剛山の山々に軍事施設を作って抵抗しました.これが千早城です.当然幕府軍はこの城を潰しにかかり大軍を送り込みますが,四方を断崖で囲まれたこの城の守りは固く,正成はわずか1000人足らずの城兵で万を超えると言われた幕府軍の攻撃を防ぎきったのです.幕府軍の主力がここにくぎ付けになっている間に,関東で有力な御家人だった足利尊氏(当時は高氏)や新田義貞が手薄な鎌倉を攻撃し,ついに鎌倉幕府は滅亡しました.
(写真左) かつての二ノ丸にある社殿,(同右) 社殿奥の山が本丸です
しかし後醍醐天皇の親政は長くは続かず,南北朝時代に突入します.楠木氏(正成はすでに建武年間に足利氏との戦いで戦死)は南朝の有力な武士として戦い続けますが,状況は次第に南朝方に不利となり正成の孫,楠木正勝の時代,明徳三年(1392年)ついに落城となりました.
現在,千早城跡は千早神社となっています.かつての四の丸に神社の広場が,三の丸に社務所が,二の丸に社殿が置かれています(社殿背後の山が本丸です).
千早城へのアクセス: 南海電鉄高野線河内長野駅からバスで30分(時刻表),金剛登山口バス停下車後,徒歩40分で二ノ丸跡の社殿です.
スタンプの設置場所 登山口近くの食堂”まつまさ”にあります(金曜日が定休日なので注意 ホームページ)
登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 登山口からはひたすら石段を登っていきますが,こう配が急で結構きついです.三つ星に近い二つ星です.
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コメント
ビザ皇帝様 こんばんは!
もう本当に「お城」として残ってる建物が少ない事、本当に残念に思います。
でも…城として残ってる方がいいのか、歴史を残しつつ自然に囲まれ平和に時を重ねてくのがいいのか…。
石段、何となく新選組のOP掛けて駆け上がりたくなりますが、絶対にバテますよ…ね。
投稿: まーうさ | 2010年10月 7日 (木) 16:26
まーうささん
こんばんは、コメントありがとうございます。
日本国内にはそれこそ数限りないくらいの城跡がありますが、建物が残っているのは近世城郭(江戸時代のお城)くらいで、中世以前のものは地形くらいでしか当時を偲ぶことができません。
残念ではありますが、逆に400年以上も前の設備がある方が不思議なので仕方がないのでしょう。
石段を大河OPで駆け上がる…
絶対に途中で倒れます(爆)。
投稿: ビザ皇帝 | 2010年10月 8日 (金) 13:46