日本100名城スタンプラリー72
日本100名城 人吉城(93番)
ビザンチン皇帝の100名城シリーズ,ついに九州編に突入です.ここからのシリーズは2009年9月のいわゆるシルバーウィークに九州に繰り出した時の記事です.まずは熊本県の人吉城です.
人吉城は熊本県南部,九州山地・球磨山地等に囲まれた人吉盆地を流れる球磨川沿いにあります.この城の歴史は古く鎌倉時代にさかのぼります.幕府の御家人の相良長頼が源頼朝の命で平家の残党を討ってこの地に入ったのが始まりです.以来鎌倉・室町時代を通じてこの地は相良氏の支配するところとなります.
戦国時代になって相良氏は球磨地方を統一し戦国大名となりますが,天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐を受けて彼に臣従,以後球磨郡2万2千国の大名となって豊臣政権,さらには江戸時代を生き延びました(関ヶ原の戦いの時相良氏は西軍でしたが,戦の最中に寝返ったため戦後改易を免れ,所領を安堵されました).
(写真3) 御下門跡.ここから二の丸,本丸へと登っていきます.
相良氏の血統は江戸時代の中期,宝暦九年(1759年)相良頼央が世継ぎを残さぬまま死去したため断絶してしました.しかし家臣の努力で他家から末期養子を迎えることに成功し,家名は幕末まで続くことになります.
人吉城は鎌倉時代から明治維新にいたるまで続いた城であり,当然同じ姿のままであったわけではありません.特に戦国時代から江戸時代初期にかけて改修が行われ,近世城郭へと生まれ変わりました.北は球磨川,西は胸川を天然の堀とし,南と東は屋山の断崖に堀をめぐらした城郭となりました.山頂に本丸,その北側に二の丸,その北の球磨川沿いを三の丸とした構造で,本丸には天守はなかったといわれています.城の改修はその後も行われ,堀合門付近にある幕末期の石垣には武者返しといわれる西洋の築城技術の影響を受けたものも存在します.
(左写真5) 古写真に写った多聞櫓(手前は胸川),(右同6) 復元された多聞櫓
明治維新後,西南戦争においてこの城は西郷軍の拠点となったため官軍の攻撃を受け石垣を除いてほとんどの建物が破壊されてしまいました.現在は人吉城公園として整備され門や櫓などの復元も行われています.
人吉城へのアクセス: JR肥薩線人吉駅から(産交バス)で3~4分新町下車.駅から徒歩なら20分程度.
スタンプの設置場所 人吉城歴史館にあります
登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 少し登りはありますが気軽に散策できる公園です.
| 固定リンク
コメント
ビザ皇帝様 こんばんは!
ここのお城も壊されてしまったんですね。
でも復元された堀合門・多聞櫓…立派ですよね~。
ふと思うんですが、やはりその土地その土地でお城の造りが違ったりするんでしょうかね?西洋の影響を受けてる武者返し見てそう思いました。
投稿: まーうさ | 2010年3月 6日 (土) 13:50
<まーうささん>
こんばんは.
人吉城が攻められたのは戦国時代に1回と,
あとは西南戦争時だけなんだそうですが,
この時の戦いで壊されてしまったんですね.
ただ破壊が明治以後ということで,写真が残っているので復元もしやすかったということのようです.
西洋式の築城がここにあるのは面白いなと思いました.
五稜郭は開港した土地なのでそうかと思いますが
人吉城は九州の山の中ですから,
当時の城主が導入に積極的だったということなんでしょう.
投稿: ビザ皇帝 | 2010年3月 7日 (日) 13:37