日本100名城スタンプラリー62
戦国時代末期,天下布武を掲げて戦った織田信長最大の危機が,元亀元年(1570年)の越前金ヶ崎の戦いです.
京都を拠点に周辺の大名を勢力下に収めつつあった信長は,敵対していた越前の朝倉義景を攻めるために出陣しました.当初織田軍が優勢でしたが,彼の義弟で同盟関係にあった北近江の浅井長政が裏切り一気に前後から挟み撃ちにされる態勢になったからです(とはいっても,元々浅井と朝倉は盟友であり,この時の信長の朝倉攻めも,事前に浅井方には知らされていなかったといいますから,こうなるのは予想できたという見方もあります).この時信長は木下秀吉(豊臣秀吉),池田勝正らの奮戦によって九死に一生を得ることができました.この時信長を裏切った浅井長政の居城が小谷城です.
小谷城は琵琶湖の東岸,標高約500メートルの小谷山と,そこから南に伸びる尾根筋に築かれた典型的な山城です.築城時期は長政の祖父亮政の代,16世紀初めといわれています.以来長政まで3代にわたって浅井氏の居城でした.この城がいかに堅固だったかは,元亀元年6月の姉川の合戦で大敗を喫して城に逃げ帰った浅井氏を信長はすぐに攻撃できず,結局小谷城を落城させるために4年の年月を要したことでも判ります.
(左 写真2) 大手道入り口.ここからひたすら登山です.(右 同3) 本丸
浅井氏滅亡後ここには羽柴秀吉が入りましたが,秀吉は琵琶湖岸の長浜城を居城としたため小谷城は廃城となりました.戦国時代の城跡であり当時の建造物はもちろん残ってはいませんが,尾根線に沿って築かれた曲輪の様子はよく保たれており,堀切や当時はまだ珍しかった石垣なども見ることができます.
(左 写真4) 大石垣,(右 同5) 山王丸
散策ルートはありますが,遊歩道などが整備されているわけではないので登城にはかなりの気力と体力を必要とします.本丸から少し離れたところに浅井長政自刃の地といわれる赤尾屋敷跡がありますが,ここに向かう途中でカモシカに遭遇しました.体力的にキツイ城跡なので,登城に適した季節は晩秋から冬にかけてと思われます(雪の日は除く).
(左 写真6) 浅井長政自刃の地,(右 同7) 途中遭遇したカモシカ
小谷城へのアクセス: JR河毛駅からコミュニティバスで10分程度,レンタサイクルもあるようです.
スタンプの設置場所 麓の小谷城戦国歴史資料館受付にあります
登城のハード指数(★★★ かなりハードです) 資料館から大手道を通って尾根沿いに各曲輪を見学していくと,山王丸まで1時間近く山登りになります.
| 固定リンク
コメント
皇帝殿!
よくも小谷城まで…
浅井長政は織田信長を裏切ったと言うより朝倉家と久政を大事にしたのですよね。
長政とすれば勢いに乗る信長に…
父久政は盟友である朝倉家。
言い替えると親父をとるか嫁をとるか?
どちらにつくのか相当悩んだろうね。
結局、織田と戦い…
最後は髑髏盃になってしまったんだよね。
私は地図を見ただけであきらめた城です。
ごくろうさま…
投稿: 爺!! | 2009年10月 5日 (月) 07:46
<爺!!様>
こんばんは,コメントありがとうございます.
そうですね,裏切りという表現は適切ではなかったですね.信長の視点で描いた記事だったのでこうなったのですが,長政にすれば妻と父の板挟みにあって苦渋のの決断だったかもしれません.
小谷城はまさに登山でした.今回は冬の雪のない日だったので,熊に遭遇することもなく比較的快適な登城でしたが,もし夏なんかに行った日には倒れるんじゃないかと思います.
投稿: ビザ皇帝 | 2009年10月 5日 (月) 14:17
ビザ皇帝さま、こんにちは。
オイラも小谷城行きました。河毛駅で自転車を借りて、自動車道を通って行き、アスファルト舗装で足元は安心でしたから、比較的ラクでした。
(もっとも前週に春日山城、前日に観音寺城と安土城を走破しているので、ラクに思えるだけかもしれませんが・・・。)
出丸から山王丸まで登城し、熊やカモシカには会えませんでしたが、本丸石垣前でハチに前後左右を囲まれた時はビビリました。
もう一回の登山&登城は遠慮したいです。
投稿: Seiryu | 2009年10月12日 (月) 05:26
<Seiryuさん>
こちらにもありがとうございます.
レンタサイクルでしたか.私はバスで歴史資料館に行ってあとは徒歩でした.冬だったので熊やハチ,蛇には遭遇しませんでしたが,写真のようにカモシカが…
観音寺城… あそこもきついですよね.
私はこの翌日に観音寺城&安土城でした(汗).
たしかにもう一回行けと言われると,…です.
投稿: ビザ皇帝 | 2009年10月13日 (火) 15:36