ひの新選組まつりでの私の盟友コシゾウさんは宇都宮でもんじゃ焼屋をやっています.そのお店に突然押し掛けて驚かそうという計画が発生しました.言いだしっぺは幕末&歴史仲間のおりんさんで,ツアーコンダクターは私,ビザンチン皇帝です(笑).この週末(7月11日~12日)に決行しました.私にとっては2年ぶりの訪問です.
メンバーは私とおりんさん,神楽教授,K副長さんの4名.
ん,なんだこのメンツは.たしかに全員ひのパレ参加者ですが,個々はあまりにも脈絡がないような気が…(笑).
この日の予定は日中は宇都宮とその周辺に残る主として戊辰戦争関係の史跡廻り,夕方からコシゾウさんのお店襲撃です.朝自宅を出発して東京駅へ.ここでおりんさんと合流,まずは腹ごしらえと駅弁屋さんにむかいます.牛肉弁当,味噌カツ弁当など朝からは食べたくない弁当が並んでいます.そんな中で見つけたあさりおこわ弁当,これにしようと2個購入して新幹線に乗り込みます.新幹線が発車すると同時に弁当を広げましたが,私が三分の二くらい食べた段階で既におりんさんは完食! お,恐るべし.その後は桃太郎や浦島太郎の血液型談義に花が咲いているうちに宇都宮に到着しました.宇都宮駅で残るお二方と合流して,ここで初めて今回の参加者が顔をそろえました.主催者あいさつ(笑)に引き続いて,さっそく観光開始です.
今回の史跡廻りは郊外にも繰り出す予定としたためレンタカーを用意しました.まずは市内の宇都宮城址へ.宇都宮城は関東七名城のひとつに数えられ,江戸時代初期の元和年間の釣天井事件で有名です(実際には創作らしいんですが).街道筋の重要な城であり,江戸時代を通じて譜代大名が置かれていました.しかし慶応四年の戊辰戦争において激戦の地となり,城を含めた市街地のほとんどが焼け野原となってしまったのです.その後宅地開発なども行われたため,城は見る影もなくなってしまいましたが,21世紀に入ってからかつての本丸の一部(堀,土塁と櫓)が復元されています.土塁の内部は資料館になっており,お城の歴史などが展示されているのですが,土方歳三が街に火をつけ,そのせいで街が焼けた的な記載があり,愛好家としてちょっと複雑な思いになりました.
(写真1) 再建された宇都宮城の櫓
城址公園の次は徒歩で城の南東にある簗瀬橋へ.ここは宇都宮城の東方を流れる田川に架かる橋です.田川はいわば宇都宮城の東の防衛ラインともいうべき川ですが,宇都宮戦争初期の慶応四年4月19日の旧幕府軍の宇都宮城攻撃の際,宇都宮藩兵がこの橋を残したまま退却したために,土方歳三率いる桑名藩兵がここを突破して一気に城に押し寄せ落城させたことで有名です.この時土方が,激戦におびえて退却しようとした兵士を斬り捨て,「退却するものはみなこうだ!」と言ったのもこの橋といわれています.橋はもちろん当時のものではありませんが,田川自体はあまり護岸工事もされておらず,当時の雰囲気をかもしだしているなと感じたのでした.
(写真2) 当時の激戦の地簗瀬橋
簗瀬橋に続いては城の北側にある二荒山神社へ.ここは市内中心部の高台にある神社で,戊辰戦争時には旧幕府軍の陣地が置かれていた場所です.4月23日の戦いで,新政府軍側の砲撃を受けてこの神社も灰燼に帰してしまいました.土方歳三が足に負傷したのもここと言われています.二荒山神社観光の次は昼食,近くのお店で名物の餃子を堪能しました.
(写真3) 二荒山神社の長い階段です
午後からは,慶応四年4月23日の戦いで最大の激戦地となった六道辻へ.ここでは旧幕府軍側は大鳥圭介の伝習隊のほか,新選組や永倉新八も所属していた靖共隊も戦ったといわれます.ここでは多くの兵士が亡くなったんですが,新政府軍の戦死者が丁重に葬られたのとは逆に,旧幕府軍の戦死者は賊として,野ざらしにされていました.しかし,地元の人たちによって仮埋葬された後,明治七年になって宇都宮藩士戸田三男によってこの地に墓が作られました.これに関しては良く知られたエピソードがあります.
(写真4) 六道辻に建つ墓碑
曰く,長岡戦争敗戦後,会津に向かっていた長岡藩家老の山本帯刀が会津の飯寺での戦いで捕らわれたとき,死を覚悟した彼は軍資金200両を敵の戸田三男に渡し,「これを貴藩に提供するので,相当の費用に当てて欲しい」と述べたといいます.後に国に帰った戸田はその時の200両をこの墓の建立に当てたそうです.
(写真5 左) 報恩寺の山門,これのみ当時をしのぶ建物といわれます.(同右) 報恩寺内の薩摩の碑
この六道辻周辺のお寺には新政府軍,旧幕府軍双方のお墓がたくさんあります.今回はその中で主に新政府軍の戦死者が埋葬された報恩寺,旧幕府軍の兵士が埋葬された一向寺,双方の戦死者が埋葬され,新政府軍・旧幕府軍双方の墓が向かい合って建っていることで知られる光琳寺を訪問しました.ここでは参加者はみな沈黙して,亡くなった人たちに手を合わせました.
(写真4) 一向寺に遺された墓標
六道辻周辺の観光を終えると,今度はちょうど慶応四年4月21日の大鳥圭介率いる幕府伝習隊の進撃ルートにそって車を走らせました.緒戦の勝利の勢いに乗って幕府軍は宇都宮城から南下し,当時新政府側に付いていた壬生城を攻撃しようとしましたが,途中にある姿川で食い止められここでも激しい戦いが行われたのです(安塚の戦い).この戦いで亡くなった幕府軍の兵士17名のお墓が宇都宮市幕田町にあり,そこを訪問しました.その後は壬生町に入り,当時新政府軍の本陣が置かれていた島田家や壬生城跡を訪問しました.
(写真5,6) 左が桑名藩士の墓,右が新政府軍の墓です.
そうこうしているうちに夕方となり,いよいよコシゾウさんの屯所襲撃です.レンタカーを返却し,4人でタクシーに乗って繰り出します.店に着くと,なんとコシゾウさんが窓拭きをしていました.こりゃまずいと近くのコンビニの駐車場にタクシーを乗り入れ,様子を伺いながらお店へ侵入,コシゾウさんは面子の脈絡のなさに驚いていました(笑).
(写真7、8) 左,幕田町地区の碑,右,壬生の新政府軍本陣跡
その後は美味しいもんじゃを堪能しながら,新選組やひのパレ談義に花が咲きました(コシゾウさんのお店でなつかしの昭和50年代ソングがかかっていて,酔った勢いでついつい歌いだしてしまい,すっかりおりんさんに私の真の姿がバレてしまいました 笑).
こうして宇都宮の夜は更けていきましたとさ.
最近のコメント