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2009年6月 7日 (日)

相馬主計

 もう一か月近く経ちますが,まだひのパレの余韻が残っている私です.そんなわけで本日は新選組ネタです.

 新選組の局長(隊長)は誰?と聞けばおそらく100人中99人は近藤勇の名前を挙げるでしょう.江戸の試衛館の道場主で,土方歳三,沖田総司,山南敬助,井上源三郎らとともに京都に上り新選組を結成,池田屋事件で勇名をはせるなど,新選組の黄金期を支えたのですから当然といえます.

 しかし鳥羽伏見の戦い,甲州勝沼の戦いで敗れ,勇が板橋の刑場の露と消えた後も新選組はその旗を掲げ続け,各地を転戦していきます.新選組が最終的に解体したのは、明治2年5月の箱館戦争終結の時だからです.

 近藤の死後,宇都宮では土方歳三が,彼が負傷した後の会津では斎藤一こと山口二郎が実質的な隊長として指揮を執っていました.

 鶴ヶ城落城後,斎藤一は会津に残留し,新選組の残存部隊は仙台で榎本武揚の艦隊に合流して蝦夷地に渡ります(この時,桑名藩士らの一部が入隊).そして蝦夷地上陸後は箱館政府軍の一部隊として戦い続け,最後は明治二年5月15日に箱館の弁天台場にて新政府軍に降伏し,その終焉に至るのです.

Benten1 Benten2

(写真左) 弁天台場跡は今は児童公園になっており,かつての面影はありません (同右) そばにひっそりと立つ弁天台場跡の碑

 この時新選組の最後の隊長だったのが,今回のテーマ相馬主計です.

 相馬は笠間藩士船橋平八郎の子として天保六年(1835年)または天保十四年(1843年)に生まれたとされています(一般に若いというイメージのある相馬ですが,天保六年説を採ると,土方歳三と同い年になります.ただ天保十四年生まれ説が定説のようです.とすれば沖田総司の1歳上ということになります).慶応元年(1865年)に脱藩,その後の経歴ははっきりしませんが,慶応三年10月ごろに新選組に入隊したと思われています.これは同年6月の新選組隊士の幕臣取り立ての際には名簿に名がなく,その後12月の天満屋事件の際の記録にその名があるためで,おそらくは土方歳三が慶応三年に江戸に下った際の募集で入隊したもののようです.

 慶応四年1月の鳥羽伏見の戦いの後,江戸に帰還,同年3月の甲陽鎮撫隊では局長付組頭となっています.入隊からわずか半年で幹部隊士になっており,当時の新選組が人材不足とはいえ,いかに彼が優秀であったかがわかります.その後流山で近藤勇が捕らわれると,土方歳三の命で近藤の助命嘆願書を携えて板橋に出頭しましたが,そのまま官軍に囚われてしまいます.この時本来なら近藤とともに斬首されるはずでしたが,釈放されました(一説には近藤勇が助命を願ったためと言われます.この時近藤とともに捕らわれた野村利三郎も釈放されています).

 板橋脱出後は野村とともに幕府陸軍隊に所属し,その幹部として各地を転戦します.そして同年9月に仙台で土方歳三および新選組と合流し,蝦夷地に渡ることになるのです.

 蝦夷地では箱館政府軍の幹部(陸軍奉行添役)として箱館市中の取締に当たっていました.身分的には新選組隊士ではありませんが,実際に市中警護の任にあたっていたのは新選組であり,このころから実質的には新選組を統括していたようです.翌明治2年3月の宮古湾海戦にも参加していますが,ここで板橋以来の盟友野村利三郎を失ってしまいます.同年4月に新政府軍が蝦夷地に上陸すると新選組とともに市内の弁天台場に籠って戦いました.

 しかし兵力に勝る新政府軍は5月11日には箱館市内を制圧,相馬と新選組の籠る弁天台場と五稜郭は分断されてしまいます.この時、孤立した弁天台場を救うため土方歳三が大野右仲らとともに出撃し,一本木関門で戦死したことはよく知られています.その後も弁天台場の戦いは続きますが,食料,弾薬もつき,5月15日に降伏となるのです.そして当時箱館で病院を管理していた医師高松凌雲(日本の赤十字運動の先駆者とされ,慶応三年のパリ万博に幕府随員として参加している,私も注目している人物)の書簡によると,まさにこの日に相馬主計は正式に新選組の隊長に就任したとされています(ただし,2008年春の日野市立新選組のふるさと歴史館の特別展示によると,相馬の新選組隊長就任はもっと早い時期だったという新資料が見つかったとのことです).

Benten3 (写真) 土方歳三戦死の地

 結局相馬主計は新選組最後の隊長として戊辰戦争を終えたのですが,このことが意味するのは,新選組に関する戦争責任のすべてを,彼が負わなければならない立場になったという事実です.実際彼は榎本武揚ら箱館政府首脳と共に捕らえられ,東京に送られ獄に繋がれました.島田魁ら他の隊士が諸藩の預かりとなって謹慎処分のみだったのとは大違いです.

 結局相馬は坂本龍馬暗殺(当時龍馬暗殺は新選組の仕業と思われていた),伊東甲子太郎暗殺などの罪を問われ,伊豆諸島の新島に終身流刑となりました.新島では寺小屋を開いて現地の子供たちに教育を施し,島民に先生と呼ばれていたそうです.ふとした機会に島の無法者にからまれた際,一撃で無法者を投げ飛ばし子供たちの喝采を浴びたものの,これからは学問の時代であることを常に言っていたといいます.島で住居を借りていた植村家の次女マツと結婚しました.

 後,明治五年に放免となりマツを伴って東京の蔵前に住んでいました.そして,ある日突然割腹自殺を遂げたとされています.この時30歳だったそうです(天保十四年説に従えば明治六年となります).自殺の原因については妻のマツが黙して語らなかったため不明ですが,一説には相馬に対する誹謗中傷があったとも言われています.

 これが新選組最後の隊長の生涯です.

 しかし,私には以前から腑に落ちないことがありました.それは…

 相馬主計はなぜ,箱館まで行って戦ったのかという疑問です.

 土方歳三ならわかります.天領の多摩で生まれ,近藤勇らと共に京都で幕府のために戦い,盟友近藤を失ってからは倒れ行く幕府に殉じて死に場所を求めていったからです.

 しかし相馬にそのような理由があるでしょうか? 相馬の出身の笠間藩は越後長岡藩の支藩でしたが,戊辰戦争では新政府軍方に付き,会津藩攻撃にも参加しています.しかも相馬が新選組に入隊したのは慶応三年の大政奉還の後です.いかに世相に疎い者から見ても幕府の衰勢は明らかな時期です.聡明な相馬主計がその点に気づかなかったとは思えません.しかもその後の戦いで勝利するならともかく,鳥羽伏見,勝沼と相次いで敗戦を経験します.隊士の脱走が相次いでも,京都時代のように法度を適用できる秩序はありませんでした.いわば去るものは追わず状態と言ってよく,彼がその気なら新選組を見限るのは簡単なことだったでしょう.

 しかし,それでも彼は新選組について行き,最後はどう考えても自分には全くメリットのない新選組隊長就任を引き受けているのです.いったい何が彼をここまで引き込んだのでしょう.

 様々に考えてみたんですが,この慶応三年の入隊,そして入隊半年で幹部へ昇進したという点にヒントがあるような気がしました.

 相馬は江戸帰還後,土方歳三の命で近藤勇の助命活動に従事しています.また箱館に渡ってからは,歳三の陸軍奉行並に対して陸軍奉行添役,同じく歳三と共に箱館市中取締の役についています.いわば土方歳三の補佐役であったと考えられます.当時の歳三は多忙であり,実際の業務は相馬が取り仕切る場面が多かったと思われます.

 一方で当時の歳三は京都時代の鬼の副長のイメージはなく,人間的にも一回り成長し(近藤が死んで,支えるべきものがなくなったからとも言われますが),温厚で周囲から慈母のように慕われていたといいます.慶応三年入隊の相馬は,いうなれば鬼の副長時代の歳三を知らず,入隊直後から懐の深い歳三の下で戦い,その人間的魅力に触れるうちに,この人物のためになら死んでもよいという境地に達していたのではないでしょうか.とすれば,彼にとって歳三亡き後の新選組の隊長になることは損得ではなく,必然であったと言うこともできます.

 もしかして相馬主計という人物は,今に続く土方歳三を信奉する若者の走り,土方歳三フリーク第1号だったのかもしれません.

 そんな相馬主計は私にとってとても魅力的な人物です.ひのパレでも相馬役の方を見つけると必ず記念写真をお願いしているほどです(とはいってもひのパレで相馬主計役が登場したのは第11回からなんですが).

Souma11Souma12 (写真左) 第11回の相馬さん (同右) 第12回の相馬さん

 一方小説の世界では,相馬主計を扱った作品は皆無ですが,唯一といえるのが,ミステリー作家森村誠一氏による「新選組」です.1000ページ以上の大作で少年期の近藤勇が強盗を追い払った有名なエピソードから始まり,箱館戦争終結後までが描かれる大河小説です.ほぼ史実に沿ってストーリーは展開するんですが,さすがミステリー作家の小説だけあり,司馬遼太郎などの歴史小説家によるものとは一味違った味付けが楽しい作品です.特に相馬主計が非常に重要な役割を果たしているのが魅力なのでした.相馬ファンはぜひ一度お読みください.

Morishin (写真) 祥伝社文庫 新選組上巻 森村誠一著

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コメント

おっ…ついに相馬計画のブログを書きましたね(^w^)

さっそく読ませていただきました!相馬の生き様はかっこいいですよね!
ぜひ相馬をねらっていただきたいです☆

投稿: おりん | 2009年6月 7日 (日) 23:45

住計が計画に変換ミスしちゃってましたね(ノ△T)
携帯の予測機能って…かなり余計なやつですね…

投稿: おりん | 2009年6月 7日 (日) 23:51

先生こんばんは。
先生が相馬ファンだったとは知りませんでした~

そしてこの記事で、戊辰戦争後の相馬主計のことをはじめて知りました。
土方歳三が戦死するところで新撰組の歴史が幕を下ろす感覚でして、
書物でも函館がラストシーンというのが多いように思います。

言われてみると、相馬主計が函館まで戦いを共にした理由はとても興味深いですね。
彼の人生には彼なりの筋の通った信念があったんでしょうね。キュン

…ちなみに日野パレの相馬主計の姿が毎回気になる私でした。本当にあのような服と髪型だったのかな??
大河の続編では違った気がしますし…??

投稿: そう | 2009年6月 7日 (日) 23:57

<おりんさん>
 おはようございます.
 以前から気になっていた新選組最後の隊長の記事がようやくできました.
 相馬計画でも意味が通じてしまいそうなところが凄いです(予測機能,便利なようで不便です).

>ぜひ相馬をねらっていただきたいです☆<

 狙ってもいいんですが,ひのパレのコンテストでやるには勇気のいる素材です(って,コンテストにでる段階で相馬役はあり得ないですね).

 
 

投稿: ビザ皇帝 | 2009年6月 8日 (月) 09:21

<そうさん>
 おはようございます.
 実は相馬ファンの皇帝です.
 相馬主計は新選組の最終段階を支えた人物ですが,もし彼があと3年早く入隊していたら,どうなっていたかとか想像するのも楽しいです.間違いなく幹部になっていたでしょう.ただ,切れものゆえ逆に粛清されてしまう可能性もあり,どちらが彼にとっていいのかわかりません.
 相馬については写真も残っているんですよ

http://page.freett.com/sukechika/ishin/zinmeiroku/set08sa.html
    ↑
 ここの一番下です

投稿: ビザ皇帝 | 2009年6月 8日 (月) 09:30

ビザ皇帝様 こんばんは!

名前知ってます!相馬さん!
何かで見かけたような記憶あります。
新選組に関する責任を背負わなければならなかった方だったとは…!
ビザ皇帝様がこのようにアツく語っていただかなければ知らないまんまだったです。
ありがとうございます!
そういえば歳三亡き後の新選組ってあまり知らなかったなぁ…。
まだまだ学ばねば!

もうお祭りから1ヶ月経つんですね、早いなぁー!

投稿: まーうさ | 2009年6月 8日 (月) 22:21

<まーうささん>
 こんばんは.コメントありがとうございます.
 私の大好きな新選組隊士相馬主計をようやく記事にできました.
 相馬が登場するドラマは少ないですが,例の大河の続編には結構登場していました.歳三と昔の新選組について語っているシーンが印象的でしたね.劇中で島田魁も「新選組の指揮は相馬がいいんじゃないか」と語る場面もあったと記憶しています.
 裏を返せば,あの若さで新選組の隊長にされたのですから、その器量のほどが伺えます.

投稿: ビザ皇帝 | 2009年6月 8日 (月) 23:47

ビザ皇帝様お疲れ様でございます^^

相馬主計の魅力はまた一味違った色を感じますね^^彼の心はより澄んで透きとおった強さを感じますね、幻の11番組長になってたかもしれませんねぇ^^

投稿: 副チョウ | 2009年6月10日 (水) 01:09

<副チョウさん>
 こんにちは.コメントありがとうございます.
 相馬主計という人物は,剣術に優れているのはもちろんですが,その一方で学問や官僚的な行政手腕も併せ持っており,沖田や永倉,斎藤といった実戦部隊の隊長よりも,土方歳三や山南敬助のような副長・総長的な役割が似合う人物のような気がします.
 一方で彼には権力欲などの俗っぽい感情が感じられず,まさに誠の心を持った新選組の最後を締めくくるにふさわしい人物と思います.

投稿: ビザ皇帝 | 2009年6月10日 (水) 12:56

相馬主計の疑問は…

彼が…相馬氏の流れだからです。

投稿: 相馬 | 2012年4月 6日 (金) 10:39

相馬さん

こんな古い記事にコメントありがとうございます.
相馬主計が相馬氏の流れ…
そういう説もあるみたいですね.

投稿: ビザ皇帝 | 2012年4月 6日 (金) 23:40

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