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2009年6月30日 (火)

ドーナツと深町新作

 本日ココログに不具合が発生したらしく,お昼ごろから夜にかけて,コメントや投稿ができない状態になっていました.今は復活した(のかな?)

 さて,もうすでに他の方のブログに出てますが,6月28日大雨の中,某多摩地区の南京料理屋さんで,謎の集会が行われました.

 …というのは,正確ではないな.

 当初は誰もそんな集会が行われるとは,夢想だにしなかったでしょうから.

 まさに偶然の積み重ねがそうさせたというのが正直なところでしょう.

 実はこの日,5月のひのパレに長州の間者として一番隊に潜入していた私,深町新作は今後の尊王攘夷運動について相談すべく,東府中の某倒幕屋敷に桂小五郎先生を訪ねる予定でした.

 軽くラーメンでも食べながら無駄話をして帰るつもりでした.

 しか~し,なんたる偶然,まさに同じ日同じ時間に,今年のひのパレ幹部連が高幡不動に集結しているとの極秘情報が… すぐに桂先生から「深町君,新選組を一網打尽にするチャンスだよ」と指令が飛び,急きょ高幡へ.

 大雨が降る中,本当に新選組がいるのか不安になってきましたが,ちょうど売店横の避難小屋に見覚えある面々が… なんと! 局長,参謀,一番組長,三番組長,八番組長という凄いメンバー(御陵衛士が3人もいる! 笑),特に沖田先生にはいまだに私が間者とは見破られていない感じでありました.

 本日幹部連は高幡の新撰組アイスを食べに来たとのこと.私も桂先生に勧められるまま,バニラ風味の沖田アイスを食しました.

 その後はケーキ屋さんに流れて,しばしのコーヒーブレイク.ここでは参謀の伊東先生が大の三国志愛好家であることが分かり,三国志談議に花を咲かせてしまいました(伊東先生! やっぱり官渡の戦いはいいっすよね).

 そしてそのまま一同東府中の長州藩邸に,一気に宴会に突入です.途中からひのパレのアイドルそうさんも合流して不思議な宴会は夜10時過ぎまで続きました.全体としてはキモい会の三人衆のパワーに圧倒されまくりでした(笑).

 こういう展開を予想していなかった私はカメラを持っていなかったため,写真が1枚もありません.というわけで,この日のキモい雰囲気はキモい会御三方のブログでどうぞ(笑).

 桂先生(ひねもすのたりまったりかな

 そうさん(HAVE A NICE DAY !

 斎藤先生(千住の風にふかれて!

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2009年6月29日 (月)

勝負の週?

 さて,梅雨とはいうものの,イマイチ雨が少ない気がする今年.いよいよ今週半ばから7月に突入する.

 今週は結構予定がタイトになっている.今夜は当直で明日30日は出張,さらにあさって(7月1日)はまたまた盛岡に出張である(今年何回目だろう?).

 実はウチの職場のエラい人が盛岡で講演のようなことをするので,そのカバン持ち的存在として同行するのである.その夜はおそらく祝宴,そしてエライ人は宿泊するのだが,私は翌2日が外来なので宿泊はせずにそのまま夜行バスでとんぼ返りとなる.東京-盛岡のらくちん号には,ノクターン号とちがってスーパーシートがないので,ちょっとキツイなぁと思うのだった.

 その後3日,4日は所属している合唱団のゲネプロ・本番と続いて週末に至るのである.結構ハードだが,ここを乗り越えれば,その後にはきっと楽しいことが待っているに違いないと期待しているのであった.

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2009年6月27日 (土)

総司忌

 今日は総司忌でした.

 新選組一番組長沖田総司は慶応四年5月30日に江戸の千駄ヶ谷で亡くなったといわれています.その墓所は港区の専称寺にありますが,新選組愛好家の方ならご存知のように現在総司のお墓は非公開になっています.ただ,例外として年に一度の総司忌の時のみ公開されており,今年は今日がその日なのでした.

 当直明けの眠い目をこすりながら東京へ.地下鉄日比谷線六本木駅から徒歩10分ほどで専称寺に到着です.すでに大勢の参拝客で賑わっていましたが,大半が女性でした.やっぱり沖田総司は女性に人気がありますね.

 まずは焼香をしてその後墓所へ.一人ずつ順番に手を合わせます.総司のお墓は赤い屋根がかかった小さなものでした.わずか27年の短い生涯だった天才剣士沖田総司,その無念はいかほどであったでしょうか.師匠の近藤勇の死を知らずに死んだのがせめてもの救いだったのかもしれません.

 午後からは國學院大學院友会館に会場を移して伊東成郎氏による講演です.新選組に関する新しい知見を交えたとても楽しい講演でした.

 その後はお楽しみ抽選会というわけで,あらかじめ配られた番号に従っての抽選会が行われました.ちなみに私が当たったのが…

20090628005250  これです.大河ドラマ「新選組!」の時代考証をされた山村竜也さん原作の漫画だそうです(笑).

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2009年6月26日 (金)

日本100名城スタンプラリー54

日本100名城 徳島城(76番)

 日本100名城,2つ目は徳島城です.

Tokushima3 (写真1) 城の東側の堀

 阿波の国の城下町徳島は四国三郎の名で知られる吉野川の河口の三角州に広がる街です.この地に城が築かれたのは安土桃山時代のことで,豊臣秀吉と縁の深い蜂須賀小六の息子蜂須賀家政によります。

Tokushima4 (写真2) 再建された鷲の門

 1600年の関ヶ原の戦いに際しての家政の苦悩は有名です.家政は心情的には東軍派でしたが,父小六が秀吉と古くからの付き合いだったこともあり,表だって東軍支持を表明できませんでした.このため,自分の所領を秀頼に返上して,自らは引退して中立を保つ一方で,息子の至鎮の妻が家康の養女であることを理由に彼を東軍に送り込み,結果的に所領を守ったのです.結局徳島城は江戸時代を通じて蜂須賀家の支配する徳島藩の居城となりました.

Tokushima2 (写真3) 御殿跡にある庭園

 徳島城は城山と呼ばれる標高60メートルの小山を中心に築かれた平山城です.北は助任川,南は寺島川を天然の堀としていました.城山部分に本丸,二の丸,三の丸が,平地部分に御殿と,西の丸と呼ばれる部分がありました.城山自体が東西に細長い形をしているため,二の丸は東西に分かれていたそうです.

Tokushima6 (写真4) 石垣です

 この城の特徴としてあげられるのが,天守が本丸ではなく東二の丸に建っていたという点です.なぜそうしたのかは諸説があるようです(防御上の理由や,景観など).

Tokushima5 (写真5) 天守跡です.天守台はなく,東二の丸に直接建っていたようです.

 明治維新後廃城となり鷲之門を除く建造物がことごとく破壊され,鷲の門も第二次大戦末期の空襲で焼けてしまいました.

 現在徳島城址は徳島中央公園として整備され,市民の憩いの場となっています.前述のように当時の建物は残っていませんが,戦争で焼けた鷲の門が再建され,当時の面影を忍ばせています.

Tokushima1

徳島城へのアクセス: JR徳島駅から徒歩10分程度(距離的には駅のすぐ北ですが,徳島駅の出口が南側にしかないため,迂回する必要がある).

 スタンプの設置場所 徳島場内にある博物館にあります

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 城山があるので,歩くとそれなりに疲れます.

76tokushimajo 登城日 2009年1月9日

 

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2009年6月25日 (木)

蝉しぐれ

 最近時々静岡方面に出張に行くことが多い私.そんな東海道線各駅停車のお供は本です(東海道線の列車の端に付いているボックスシートを愛用).

 今週から読み始めたのが,表題の蝉しぐれ,説明するまでもなく藤沢周平氏の代表作です.映画化やNHKでのドラマ化もされており,一般にもよく知られた作品と思われます.

20090625190951

 牧文四郎という下級藩士の少年と隣家の少女ふくとの仄かな恋を背景に,藩主の家督をめぐる争いから,牧家を襲う災難,それに屈することなく成長していく文四郎の姿が描かれていく作品です.

 舞台となる海坂藩は架空の藩ですが,そのモデルは藤沢周平自身の出身地である鶴岡を城下町とする庄内藩と言われています.鶴岡市の郊外には,映画「蝉しぐれ」のロケ地が保存されており,映画の様々なシーンが思い出せるようになっています.

 この小説,もちろんはじめて読むわけではなく,何度目かなわけですが,藤沢周平さんの流麗な文章(小川のせせらぎが聞こえてきそうな文章とでも表現すればいいんでしょうか)が好きで,時々無性に読みたくなるのです.はたして何回の出張で読了できるか頑張ってみたいと思います.

 庄内藩といえば,幕末の志士清河八郎の出身地でもありますが,この清河の生涯を扱った作品が回天の門で,残念ながらこちらは未読です.

Kiyokawa

 

 

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2009年6月23日 (火)

あじさい電車2009

 昨夜職場のレクレーション企画で箱根登山電車名物のあじさい電車に乗ってきました.

 登山電車の箱根湯本-強羅間は,沿線にたくさんのあじさいが植えられていることで知られています.これらのあじさいは6月中旬ごろから咲き始めるので,毎年6月下旬から7月上旬にかけてあじさい鑑賞を目的としたあじさい電車が運行されています.

200906221927001 (写真1) 宮ノ下駅に停車中のあじさい号

 とはいえ別に特別な電車が運行されるわけではなく,車両的には普通の登山電車です.ただ,あじさい鑑賞のために車内の照明を暗くし,あじさいのビュースポットでは速度を落としたり時には停車したりして鑑賞するのです.

 今回は40人近くの団体ということで,車両1両貸切でした.さっそく配られたビールを飲みながらの鑑賞です.小雨がパラつくあいにくの天気でしたが,逆にあじさいに滴が光ってとても幻想的な雰囲気を醸し出していました.

200906221908000 (写真2) ライトアップされたあじさい

 ただ登山電車は箱根湯本から強羅まで標高差が450メートルもあり,昨夜の段階では湯本付近はあじさいが綺麗に咲いていましたが,宮ノ下より上強羅付近は,まだまだこれからのようでした(2週間後に来ればちょうどいい感じでしょうか).

 強羅到着後は近くの宴会場で宴会,そして10時過ぎに帰宅となりました.

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2009年6月21日 (日)

図説・幕末志士199

 幕末好きの友人に紹介された本です.

20090621220918  あの歴史群像シリーズから出ている一冊です.

 幕末を彩る人物199人(と思う,数えたわけではありません)を一冊で紹介したガイドブックです.全編205ページで199人ですからほぼ一人1ページというわけです.

 分量的には決して多いわけではありませんが,199人ですから結構マイナーな人物も取り扱っており,なにより全編カラーというのが魅力です.人物に関して写真や肖像画が残っている場合は優先的に掲載するなど人物を視覚的に捕らえるには最適の本じゃないかと思いました.

 一般に幕末・維新の人物というと,いわゆる西南雄藩の人物が多くを占めるのですが,この本は人物を出身地別に北から紹介しているため,結果的に会津・庄内・長岡といった佐幕派の人物が本の最初に来る形となり,絶妙にバランスをとっているのが好感が持てました.テレビなどのそばに百科事典的に置いておくのに適した本と思われました.

 同様の本としては,新紀元社からでている幕末維新人物辞典というのもあります.

20090621221119  これは全230ページに350人の人物を紹介したものです.当然内容的には前述の幕末志士199よりさらに薄くなっていますが,一方でさらにマイナーな人物も取り扱っているため,薄く広く幕末を理解するのに適しています.

 またこの本は人物をチャート形式で評価しており,なんだか三国志ゲームの攻略本みたいで楽しいのでした.

20090621221257 (注) 人物の能力がチャートで表現されています.

 その一方で幕末維新期の人物を深く紹介しているのが三笠書房の人物日本歴史館幕末・維新編(前後巻)です.

 前後編あわせて1000ページの本ですが,紹介する人物を約50人に絞ることによって,一人ひとりの生き様が詳しく判る内容になっています(一人当たり実に20ページ近くを割くことになる).

20090621221408 20090621221510

 今回紹介された歴史群像シリーズは,ちょうど後の二つの間に位置するイメージの本であると思います.

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2009年6月20日 (土)

秘書大募集?

 普段仕事をしていると,会議やら人との約束やら出張やら様々な場面に遭遇します.

 出入り業者の人なんかにアポイントを求められて適当に日時を指定していたら,実は会議とぶつかっていたなんてことも結構ありますcrying

 最近では携帯電話のスケジュール管理機能を使って,約束の日時や内容などを極力書き込むようにしているんですが,結構面倒くさいものがあります(ものぐさなので… 自分にとって嬉しい用事heart04なら全く苦になりませんがhappy01).その他出張用の切符を買う,ホテルを予約する,書類を作成する(特に手書きのもの,字を書くのがすごいストレスなので),研究分野の準備・データ整理などでも用事は多々あります.

 そんな時に欲しくなるのが秘書ですね.スケジュール管理はもちろん,書類作成,データ整理など何でもやってくれる人がいたらずいぶん助かります(ブログの更新も秘書任せになったりして… 本末転倒じゃ).

 とはいえ,大学の教授や研究所の所長にでもならないと,公設秘書を付けてもらうことなんてできそうにありません.とすれば私設秘書? う~ん,秘書を一人雇うとなると一体いくらかかるんだろう? 人物や業務にもよるんでしょうが,想像も付きません.自分に出せる金額なんだろうか.

 なんてことを考えながら,書類と取り組んでいたりするのでした.

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2009年6月19日 (金)

アロイジア(BlogPet)

アロイジアは若手医師は感心するつもりだった?

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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2009年6月18日 (木)

日本100名城スタンプラリー53

日本100名城 高知城(84番)

 今回から9回にわたって四国シリーズになります.その第1回は高知城です.

Kouchi1 (写真1) 高知城追手門と天守

 高知・土佐というと何といっても坂本龍馬です.空港の名前も高知龍馬空港ですし,桂浜には龍馬のでっかい像が立っています.お土産物屋をのぞいても龍馬Tシャツや龍馬ビールに龍馬日本酒,はては龍馬うどんまで豊富なラインナップをそろえています.

 そんな高知ではありますが,高知城ということになると龍馬の影は薄くなります.坂本龍馬は元々土佐藩の郷士(下級武士)であり,お城にはあまり縁がありません.龍馬が歴史の表舞台に登場するのは,脱藩後のことだからです.

Kouchi3 (写真2) 高知城天守

 そんな高知城を作ったのは,功名が辻で知られる山内一豊です.元々高知城のある場所には南北朝時代から大高坂山城と呼ばれる城がありました.戦国時代になるとこの地は長宗我部氏の支配するところなりますが,天正十九年(1591年)に長宗我部元親はここではなく,より海に近い浦戸に城を築き移りました.

Kouchi2 Kouchi7

(写真3左) 詰門 (同4右)黒鉄門

 しかし,慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで長宗我部氏は西軍に味方したため,戦後改易となり,代わって入ったのが山内一豊なのでした.この時以来土佐藩では一豊とともに掛川からやってきた家臣が上士として,旧長宗我部家臣の郷士を支配する体制が出来上がり幕末に至るのです(幕末期に土佐藩が藩主は佐幕なのに,下級武士が反幕的なのはこの辺に由来があります).一豊は長宗我部氏の居城だった浦戸から再び大高坂山城に移り,これ以後高知城として土佐の中心地となっていきます.

Kouchi5 (写真5) 鐘撞堂

 そんな高知城ですが,明治後も天守や御殿など多くの建造物が残されました.天守と本丸御殿が共に残っているのはここ高知城くらいのものです(高知城の本丸はほぼ昔のままそっくり残っています).そのほかにも追手門・黒鉄門などの門,櫓など15棟が国の重要文化財に指定されています.

Kouchi6 (写真6) 功名が辻で有名な一豊の妻千代

 現在高知城は公園として整備され,市内の観光スポットとして賑わっています.特に追手門と天守が一望できる場所は絶好の写真スポットとしてしられています.私が登城した時,ちょうど石垣の改修が行われていました.

Kouchi4

高知城へのアクセス: JR高知駅から徒歩20分(バスもあるようです)

 スタンプの設置場所 天守内にあります

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園なので楽に散策できます.

84kochijo 登城日 2009年1月9日

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2009年6月16日 (火)

梅雨の晴れ間

 毎年6月に行われる能代寮歌を愛する会,今年は6月16日開催ということで,今日はお昼前から年次休暇を使って出かけることにしました.

 午後一番の飛行機で秋田へ飛びます(本当は大館能代空港の方が近いんですが,ちょうどよい時間の便がないので).約1時間のフライトで無事に到着しました.東京は梅雨空でしたが,ここ秋田は青空が広がるいい天気です.梅雨の晴れ間といった感じでしょうか.考えてみれば北東北って,梅雨とはいっても普段よりかは雨が多いなぁ位の感じで、関東以西みたいなじとじとした梅雨ではないんですよね.

 空港からはバスで市内に向かいます.田植えの終わった田んぼに日の光が輝いてとてもきれいです.私には懐かしくホッとする風景です.

200906161534000_2 (写真1) 道路わきの田んぼ

 バスで秋田駅に到着,当初の予定ではここから電車に乗り換えて東能代へ,そこでさらにローカル線に乗り換えて能代に入る予定だったんですが(能代の中心部は奥羽本線のルートから外れているため,東能代駅で五能線に乗り換えなければなりません),バスが予定よりも早く着いたため,秋田駅発能代行きの高速バスに乗れることになりました(なんてラッキー).

 結局バスで1時間で能代につきました.ここも青空が広がる晴天です.肝心の寮歌の会は今夜行われます(おそらく参加者の中で最年少に近い私,平均年齢がそもそも私の実年齢の1.5倍を軽く超えているはずですから).

200906161612000 (写真2) 能代駅前の様子

 ちなみに明日は朝一の飛行機でとんぼ返りです(泣).

 ところで、多田武彦氏作曲の有名な男声合唱曲「柳河風俗詩」の一曲に「梅雨の晴れ間」というのがあるんですが,youtubeで探したらこんなのがありました.作った人に拍手です.

 

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2009年6月14日 (日)

総合栄養食品

 食事というものは時間をかけて,何品ものメニューを頂くのが理想なのだが,世の中なかなかそうもいかないシチュエーションもある.

 そんな時に重宝するのが,総合栄養食品と呼ばれるもの,一種類の食品に各種の栄養素がバランスよく入ったものだ.有名なものとして大塚製薬から出ているカロリーメイトがある.

 このカロリーメイト,出始めのころはお世辞にも旨いとは言えずなじめなかったのだが,時代を経るに従って味の方も鑑賞に堪えるようになってきている(そうでないと売れないのだから当然とはいえるが).

 その一方で,普通の流通経路に乗らない,たとえば医療現場でのみ使われるような総合栄養食品の場合は,味の良しあしよりもコスト面が重視される傾向がある.そのため,これらの食品は一口飲んで,「……」となるものも多い.

 職業柄そんなB級食品(?)のサンプルが私のところにやってくることがあるのだが,今回手にはいったのがこの2品である.

200906121044000

 ひとつはメイバランス,作ったのは明治乳業.そしてもう一つがグルコパル,製造はネスレであるどちらも有名メーカーだ.しかしてその中身は? メイバランスの方に挑戦した.

 ん? コーンスープ味? で,成分はタンパク質 7.5g,糖質 25g,脂質 7.5g,食物繊維 2.5g… 125mLで200kcalもある.カロリーメイトの倍近い濃さだ.しかも糖が 25g もあるのにコーンスープ味とは…

 勇気を出して飲んでみたんですが,一口目はコーンスープの味が口の中に広がります.しかしその後徐々に甘さと,油っぽさが強くなって,結局1本飲めませんでした.

 これを経口用栄養剤にするのは厳しいんじゃないかと思ったのでした(少なくともコンビニでは売れそうにない).

 

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2009年6月13日 (土)

久々の休日

 今日6月13日は本当に久しぶりにどこにも行かない休日でした.

 思えば5月の連休が終わって以来,週末というと当直以外はどこかに出かけていました.

 5月9日(土) ひの新選組まつり, 5月10日(日) ひの新選組まつり

 5月16日(土) 合唱団の合宿, 5月17日(日) 合唱団の合宿

 5月23日(土) 地元の合唱団の演奏会, 5月24日(日) 当直

 5月30日(土) 東京に用事, 5月31日(日) 当直

 6月6日(土) 盛岡の研究会, 6月7日(日) 盛岡の研究会

 そして今日は本当にどこにも行かず,家で作業をしていました.たまったレポをなんとかせねばと思った次第です.旅行記もそうですが,なにより去年のしながわ宿場まつりのレポがまだできていません.モタモタしているうちに今年のしながわの季節になってしまう.

 というわけで,鬼が笑うどころか鬼が呆れる去年のしながわのレポ,間もなく完成です(…って,だれも注目してないな 笑).

 ちなみに明日は朝から当直です.

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2009年6月12日 (金)

越後の笹団子

 歴史・新選組友達のおりんさんご推薦のお菓子越後の笹団子,注文していたものが本日届きました.

Sasadango_002 (写真1) 笹団子です

 キャッチフレーズは昔なつかしおばあちゃんの味です.

 さっそく職場の甘い物好きの同僚らと3時のおやつにいただきました.

 Wikipediaによると笹団子は中に餡の入ったヨモギ団子を数枚の笹の葉で巻いて,さらにスゲやイグサの紐で結んで蒸した食べ物だそうです.戦国時代に携行保存食として発明されたと言われています.

Sasadango3_001 (写真2) 笹の葉で巻き,紐で結ばれています

 さあ食べようと手に取ったら,あらら 全部紐でつながっています.もしかして昔の人は腰にぶら下げて旅をしたんでしょうか?

 笹の葉をペロッとめくると,葉っぱのとてもいいにおいがします.「なんか,春のお菓子みたいですね」と私の同僚,葉の中に濃緑色の団子が入っています.

Sasadango3_003 (写真2) お団子の中に餡が

 一口ほおばるとモチッとした歯ごたえとともに甘い餡の味が口の中に広がります.渋いお茶と一緒に食べるとより美味なようでした.

 なにかとダイエットの話題が好きなわが同僚は,「ダイエットは明日からにします」と言いながらおいしそうに食べていました(笑).

Sasadango_003 (写真3) 笹団子を頬張る皇帝(お色気全くなし 笑)

 

 

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2009年6月11日 (木)

新しい眼鏡

 小学校以来眼鏡を着用している私.

 今使用しているのは,前任地で4年前に購入したものです.自分は近視+乱視で,特に左目の視力がかなり悪い.そこで少し視力を上げようと,度の強いレンズにしていたのですが,だんだん合わなくなってきました.特に遠くを見やすくした反動から逆に近くが見えにくくなっていました.しかも最近は顕微鏡をのぞく仕事が多いため,知らないうちにレンズに無数の傷が(泣).

 というわけで今回新しいのを作ることにしました.それが本日完成と相成ったわけです.ついでなのでフレームも変更,以前のものはレンズに茶系の色を入れていましたが,今回は青系にしました.

 さっそくかけて見ると… おおっ,なんて明るいんだ,傷による歪みもなくすっきり見えました.

Megane_003_2 (写真) 今回購入した眼鏡

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2009年6月10日 (水)

日本100名城スタンプラリー52

日本100名城 伊賀上野城(47番)

 三重県に存在する日本100名城は,前回紹介した松阪城の他に伊賀上野城があります.

 伊賀上野城のある伊賀市は,今でこそ主要交通路から外れていますが,律令時代から江戸時代の初めにかけては東海道の道筋であり,京都や大阪と関東との間の重要拠点でした.このため戦国時代から江戸時代の初期にかけて城が築かれたのです.

Ueno3 (写真1) 伊賀上野城模擬天守

 この地に最初の近世城郭を築いたのは洞ヶ峠で有名な筒井順慶の養子筒井定次です.筒井氏は本来大和郡山城主でしたが,天正十三年(1585年)に秀吉によってこの地に移されました.秀吉は自分の本拠地の大阪城を守るため,大阪に近い大和郡山に実弟羽柴秀長を入れるため,結果的に定次がこの地に飛ばされたようです.この時代の上野城には三層の天守があったと言われています.

Ueno1 (写真2) 現在の伊賀上野城は築城の名手藤堂高虎によって築かれました

 秀吉の死後の関ヶ原の戦いで定次は東軍に属したため所領を安堵されましたが,慶長十三年(1608年)に失政を理由に改易となってしまいます.その後この地に入ったのが藤堂高虎でした.家康としては,来る豊臣氏との最終決戦に備えて,この地に要害の城を建設すべく,築城の名手と名高かった高虎を招いたものと思われます.高虎はただちに築城に着手,今に残る高さ30メートルの高石垣をはじめ,10棟の櫓や五層の天守閣など壮麗な城を築きました.天守閣は慶長十七年(1612年)大風で倒壊し,以後再建されることはありませんでしたが,上野城そのものは藤堂藩32万石の城として江戸時代を通じて存続していきます(ただし藤堂藩の本拠は津城).

Ueno2 (写真3) 見事な高石垣です

 明治維新後は廃城となり場内の建築物もあらかた取り壊されてしまい,城跡も荒れるがままにされていました.しかし,地元の有志による整備が行われ,さらに昭和十年に地元の衆議院議員川崎克の尽力により今に残る天守が作られたのです.ただ,この天守は昔の天守を再現したものではありません.

Ueno4 (写真4) 上野公園の構内図

 現在の伊賀上野城は上野公園(東京にある同名の公園とは関係ありません)として整備され,城跡のみならず,忍者屋敷などのスポットを有する観光施設として賑わっています.

伊賀上野城へのアクセス: 伊賀鉄道上野市駅から徒歩5分,JR伊賀上野駅からだとタクシーで10分程度

 スタンプの設置場所 天守内にあります

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の公園なので楽に散策できると思います.危険ですので石垣の端には近寄らないで下さい.

47igauenojo 登城日 2009年1月4日

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2009年6月 9日 (火)

スーパーシート

 先週末,恒例の研究会があったため盛岡に行ってきました.その際ついでに弘前城も見てこようと,予告通り品川-弘前間の夜行バスノクターン号に乗りました(関連記事).

 ノクターン号には業界最高クラスを謳うスーパーシートなる座席があるからです.どこがどうスーパーなのか,この目で確かめるべく行ってきました.

 ノクターン号の基本シートは,3列シートです.フットレストも付いており,リクライニングは140度とそれなりに快適な座席です.

Super_001 (写真1) これがノクターン号のスーパーシートです

 問題のスーパーシートはその後方に位置していました.両窓側に1席づつの2列シートです.座席幅も十分にあり,フットレストは足を完璧に伸ばせる長さ,しかもリクライニングもほぼフラットに近い状態になり,実質的に横になった状態で寝られるのでした.こりゃ凄いと感心した次第です.

Super_002 (写真2) 前方のフットレストを使うと脚をまっすぐに伸ばせます

 肝心の研究会の方は,発表も平和裏に終わったのでした.

Super_003 (写真3) 日本100名城のひとつ,弘前城の天守です

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2009年6月 7日 (日)

相馬主計

 もう一か月近く経ちますが,まだひのパレの余韻が残っている私です.そんなわけで本日は新選組ネタです.

 新選組の局長(隊長)は誰?と聞けばおそらく100人中99人は近藤勇の名前を挙げるでしょう.江戸の試衛館の道場主で,土方歳三,沖田総司,山南敬助,井上源三郎らとともに京都に上り新選組を結成,池田屋事件で勇名をはせるなど,新選組の黄金期を支えたのですから当然といえます.

 しかし鳥羽伏見の戦い,甲州勝沼の戦いで敗れ,勇が板橋の刑場の露と消えた後も新選組はその旗を掲げ続け,各地を転戦していきます.新選組が最終的に解体したのは、明治2年5月の箱館戦争終結の時だからです.

 近藤の死後,宇都宮では土方歳三が,彼が負傷した後の会津では斎藤一こと山口二郎が実質的な隊長として指揮を執っていました.

 鶴ヶ城落城後,斎藤一は会津に残留し,新選組の残存部隊は仙台で榎本武揚の艦隊に合流して蝦夷地に渡ります(この時,桑名藩士らの一部が入隊).そして蝦夷地上陸後は箱館政府軍の一部隊として戦い続け,最後は明治二年5月15日に箱館の弁天台場にて新政府軍に降伏し,その終焉に至るのです.

Benten1 Benten2

(写真左) 弁天台場跡は今は児童公園になっており,かつての面影はありません (同右) そばにひっそりと立つ弁天台場跡の碑

 この時新選組の最後の隊長だったのが,今回のテーマ相馬主計です.

 相馬は笠間藩士船橋平八郎の子として天保六年(1835年)または天保十四年(1843年)に生まれたとされています(一般に若いというイメージのある相馬ですが,天保六年説を採ると,土方歳三と同い年になります.ただ天保十四年生まれ説が定説のようです.とすれば沖田総司の1歳上ということになります).慶応元年(1865年)に脱藩,その後の経歴ははっきりしませんが,慶応三年10月ごろに新選組に入隊したと思われています.これは同年6月の新選組隊士の幕臣取り立ての際には名簿に名がなく,その後12月の天満屋事件の際の記録にその名があるためで,おそらくは土方歳三が慶応三年に江戸に下った際の募集で入隊したもののようです.

 慶応四年1月の鳥羽伏見の戦いの後,江戸に帰還,同年3月の甲陽鎮撫隊では局長付組頭となっています.入隊からわずか半年で幹部隊士になっており,当時の新選組が人材不足とはいえ,いかに彼が優秀であったかがわかります.その後流山で近藤勇が捕らわれると,土方歳三の命で近藤の助命嘆願書を携えて板橋に出頭しましたが,そのまま官軍に囚われてしまいます.この時本来なら近藤とともに斬首されるはずでしたが,釈放されました(一説には近藤勇が助命を願ったためと言われます.この時近藤とともに捕らわれた野村利三郎も釈放されています).

 板橋脱出後は野村とともに幕府陸軍隊に所属し,その幹部として各地を転戦します.そして同年9月に仙台で土方歳三および新選組と合流し,蝦夷地に渡ることになるのです.

 蝦夷地では箱館政府軍の幹部(陸軍奉行添役)として箱館市中の取締に当たっていました.身分的には新選組隊士ではありませんが,実際に市中警護の任にあたっていたのは新選組であり,このころから実質的には新選組を統括していたようです.翌明治2年3月の宮古湾海戦にも参加していますが,ここで板橋以来の盟友野村利三郎を失ってしまいます.同年4月に新政府軍が蝦夷地に上陸すると新選組とともに市内の弁天台場に籠って戦いました.

 しかし兵力に勝る新政府軍は5月11日には箱館市内を制圧,相馬と新選組の籠る弁天台場と五稜郭は分断されてしまいます.この時、孤立した弁天台場を救うため土方歳三が大野右仲らとともに出撃し,一本木関門で戦死したことはよく知られています.その後も弁天台場の戦いは続きますが,食料,弾薬もつき,5月15日に降伏となるのです.そして当時箱館で病院を管理していた医師高松凌雲(日本の赤十字運動の先駆者とされ,慶応三年のパリ万博に幕府随員として参加している,私も注目している人物)の書簡によると,まさにこの日に相馬主計は正式に新選組の隊長に就任したとされています(ただし,2008年春の日野市立新選組のふるさと歴史館の特別展示によると,相馬の新選組隊長就任はもっと早い時期だったという新資料が見つかったとのことです).

Benten3 (写真) 土方歳三戦死の地

 結局相馬主計は新選組最後の隊長として戊辰戦争を終えたのですが,このことが意味するのは,新選組に関する戦争責任のすべてを,彼が負わなければならない立場になったという事実です.実際彼は榎本武揚ら箱館政府首脳と共に捕らえられ,東京に送られ獄に繋がれました.島田魁ら他の隊士が諸藩の預かりとなって謹慎処分のみだったのとは大違いです.

 結局相馬は坂本龍馬暗殺(当時龍馬暗殺は新選組の仕業と思われていた),伊東甲子太郎暗殺などの罪を問われ,伊豆諸島の新島に終身流刑となりました.新島では寺小屋を開いて現地の子供たちに教育を施し,島民に先生と呼ばれていたそうです.ふとした機会に島の無法者にからまれた際,一撃で無法者を投げ飛ばし子供たちの喝采を浴びたものの,これからは学問の時代であることを常に言っていたといいます.島で住居を借りていた植村家の次女マツと結婚しました.

 後,明治五年に放免となりマツを伴って東京の蔵前に住んでいました.そして,ある日突然割腹自殺を遂げたとされています.この時30歳だったそうです(天保十四年説に従えば明治六年となります).自殺の原因については妻のマツが黙して語らなかったため不明ですが,一説には相馬に対する誹謗中傷があったとも言われています.

 これが新選組最後の隊長の生涯です.

 しかし,私には以前から腑に落ちないことがありました.それは…

 相馬主計はなぜ,箱館まで行って戦ったのかという疑問です.

 土方歳三ならわかります.天領の多摩で生まれ,近藤勇らと共に京都で幕府のために戦い,盟友近藤を失ってからは倒れ行く幕府に殉じて死に場所を求めていったからです.

 しかし相馬にそのような理由があるでしょうか? 相馬の出身の笠間藩は越後長岡藩の支藩でしたが,戊辰戦争では新政府軍方に付き,会津藩攻撃にも参加しています.しかも相馬が新選組に入隊したのは慶応三年の大政奉還の後です.いかに世相に疎い者から見ても幕府の衰勢は明らかな時期です.聡明な相馬主計がその点に気づかなかったとは思えません.しかもその後の戦いで勝利するならともかく,鳥羽伏見,勝沼と相次いで敗戦を経験します.隊士の脱走が相次いでも,京都時代のように法度を適用できる秩序はありませんでした.いわば去るものは追わず状態と言ってよく,彼がその気なら新選組を見限るのは簡単なことだったでしょう.

 しかし,それでも彼は新選組について行き,最後はどう考えても自分には全くメリットのない新選組隊長就任を引き受けているのです.いったい何が彼をここまで引き込んだのでしょう.

 様々に考えてみたんですが,この慶応三年の入隊,そして入隊半年で幹部へ昇進したという点にヒントがあるような気がしました.

 相馬は江戸帰還後,土方歳三の命で近藤勇の助命活動に従事しています.また箱館に渡ってからは,歳三の陸軍奉行並に対して陸軍奉行添役,同じく歳三と共に箱館市中取締の役についています.いわば土方歳三の補佐役であったと考えられます.当時の歳三は多忙であり,実際の業務は相馬が取り仕切る場面が多かったと思われます.

 一方で当時の歳三は京都時代の鬼の副長のイメージはなく,人間的にも一回り成長し(近藤が死んで,支えるべきものがなくなったからとも言われますが),温厚で周囲から慈母のように慕われていたといいます.慶応三年入隊の相馬は,いうなれば鬼の副長時代の歳三を知らず,入隊直後から懐の深い歳三の下で戦い,その人間的魅力に触れるうちに,この人物のためになら死んでもよいという境地に達していたのではないでしょうか.とすれば,彼にとって歳三亡き後の新選組の隊長になることは損得ではなく,必然であったと言うこともできます.

 もしかして相馬主計という人物は,今に続く土方歳三を信奉する若者の走り,土方歳三フリーク第1号だったのかもしれません.

 そんな相馬主計は私にとってとても魅力的な人物です.ひのパレでも相馬役の方を見つけると必ず記念写真をお願いしているほどです(とはいってもひのパレで相馬主計役が登場したのは第11回からなんですが).

Souma11Souma12 (写真左) 第11回の相馬さん (同右) 第12回の相馬さん

 一方小説の世界では,相馬主計を扱った作品は皆無ですが,唯一といえるのが,ミステリー作家森村誠一氏による「新選組」です.1000ページ以上の大作で少年期の近藤勇が強盗を追い払った有名なエピソードから始まり,箱館戦争終結後までが描かれる大河小説です.ほぼ史実に沿ってストーリーは展開するんですが,さすがミステリー作家の小説だけあり,司馬遼太郎などの歴史小説家によるものとは一味違った味付けが楽しい作品です.特に相馬主計が非常に重要な役割を果たしているのが魅力なのでした.相馬ファンはぜひ一度お読みください.

Morishin (写真) 祥伝社文庫 新選組上巻 森村誠一著

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2009年6月 5日 (金)

熱帯医学への憧れ

 私と医学の出会いは,おそらく小学校2~3年生の時の学習雑誌に連載されていた,野口英世の伝記からだったと思います.

Noguchihideyo

 野口英世は1876年に今の福島県猪苗代町で生まれ,1歳の時に囲炉裏に落ちて左手が不自由になってしまいます.その後15歳の時に友人らの援助で手術を受け左手が使えるようになったことから医学の道を志しました.

 その後アメリカにわたり様々な研究を行い,1918年に南米で(当時で言う)黄熱病が流行していた際には,当地を訪れて研究,ワクチンの開発に貢献して,これによって南米の黄熱病は終息に向かったといわれます(現代の知見ではこの南米の黄熱病は,ワイル病だったと考えられています).しかし1927年にアフリカでワクチンの効かない黄熱病(こちらが今でも知られる黄熱病)が流行しているということで,現地入りし研究途中で自らも罹患してしまい,1928年5月21日にアフリカのガーナで亡くなっています.

 幼少時にこの伝記を読んで,大いに感動した記憶があります.もちろん野口英世の生涯にはきれいごとでないことも多々あるんですが,それを抜きにしても,偉人であることに変わりはありません.

 それ以来私は熱帯病や感染症に興味を持ち,小学校時代にはよく保健室に出入りして,そこに置いてあった医学的な資料を読み漁っていました.コレラペストといった昔恐れられていた伝染病におびえていたものでした(当時の保健室のおばさんが面白い人で,「コレラがはやったら怖いぞ~」などと少年の恐怖をあおるような発言をしていました 笑).

 とはいえ,自分が実際にそういう業界に入ってみると,当時あれほど興味があったコレラ,赤痢,ペストといった感染症に出会う可能性はほとんどなく,自分も実際にコレラやペストの臨床経験はありません.

 で,なんでこんな話題かといいますと,先月からうちの医局にこんなポスターが掲示されていたのです.

Nettai1

 現地で学ぶ熱帯感染症研修だそうです.しかも場所はタイとミャンマーの国境付近,ある意味感染症の巣窟のような場所です.このポスターを見た瞬間,少年時代の記憶がよみがえりました.

 そこでポスターをさらに詳しく見ると… 参加資格として

Nettai2

熱帯医学や感染症診療に関心の高い若手医師とありました.

 うーん,若手って何歳くらいまでなんでしょう.精神年齢なら十分若手だと思うんですが(笑).

 その他にも感染症に関する業績の提出や,推薦状なんかも必要らしく,私が参加するにはハードルが高そうでしたが,久しぶりに少年時代のことを思い出させてくれたポスターでした.

 追記: 野口英世って,漫画家の故・加藤芳郎さんに似てません?

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きのうは倒壊した(BlogPet)

きのうは倒壊した?

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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2009年6月 4日 (木)

6月になって

 いよいよ6月に入りました.

 例年5月はいろんなイベントがあって忙しく,それこそ五月病に罹るヒマもないんですが,6月は大きな行事もなく,梅雨だしおとなしくしていようと思っていました.

 しか~し,すっかり忘れていたんですが,能代の寮歌祭があるんでした.

 前の職場の同僚の御尊父が寮歌愛好者ということでお招きを受け,以来参加しているものです.イベントの性格上高齢の方が多く(80歳以上が当たり前にいます),私なんかは若い方から2,3番目なんですが,例年参加者のお達者ぶりに感動しています.

 ちなみに直近のイベントとしては,今週末に盛岡で研究会があります.以前の記事に載せたKEIKYIU(ケイキュイウ~)の夜行バスで行く予定です.実は今,その発表資料を作っている途中なのでした(疲れたのでブログ記事書いて休憩).

 そう考えてみると6月も結構行事が目白押しのようです(笑).

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2009年6月 2日 (火)

出張のお供

 今日は沼津に出張の日です.

 いつも東海道線で行くんですが(稀に新幹線,さすがに御殿場線では行きません),約1時間の旅です.東海道線も小田原の方になると大分空いてくるので,大抵は座って行くことができます.

 そんな電車の旅のお供はいつも本です.大抵は本を家から持って行くんですが(大抵歴史関係),今日は持ってくるのを忘れてしまいました.

 そこで駅のKIOSKで何かないかと物色していたところ,こんな本を発見しました.

200906021937000  私の大好きな雑学本です.

 中身は普段何気なく使っている言葉の語源について解説している本です.

 具体的には,「ちょっかいを出す」のちょっかいとは? とか,「てんてこ舞い」のてんてこの意味,勝鬨の際の「エイエイオー」って?,「うさんくさい」のうさん,「ろくでなし」のろくなど,改まって聞かれると,???となってしまう言葉ばかりです.

 解説には定説の他に異説も載せられており,なかなか面白い内容です.来る時に半分読んだので明日帰る時にもう半分読むことにします.

 

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2009年6月 1日 (月)

日本100名城スタンプラリー51

日本100名城 松阪城(48番)

 ひのパレ関連でしばらくお休みとなっていました日本100名城ネタ,ぼちぼち再開していきます.

 後半戦のスタートは三重県の松阪城です.

Matsusaka1 (写真1) 松阪城表門

 松阪というと今では松坂牛で有名ですが,江戸時代には越後屋呉服店(今の三越)を興した三井高利に代表される松阪商人の出身地として知られていました.

 この地に城を築いたのは蒲生氏郷です.後に会津の鶴ヶ城を築いたことで知られる氏郷は天正12年(1584年)に秀吉から伊勢松ヶ島12万石を与えられ,当初は信長時代の松ヶ島城に入城しました.しかし,将来を見据えてより大きな城下町を作るべく天正16年(1588年)に松阪城を完成させています.さらに彼は前任地だった近江日野から近江商人を多数呼び寄せるなど,商業の発展に力を注ぎ,後に商都として栄える松阪の発展に大いに寄与しました.

Matsusaka2 (写真2) 見事な高石垣です

 しかし氏郷は城完成のわずか2年後の天正18年に会津若松に加増転封となりこの地を離れることになりました.以後は服部一忠,次いで古田重勝が城主となり関ヶ原の戦いを迎えます.この戦いで重勝は東軍に味方したため戦後加増されましたが,2代目重治の時に浜田に転封となりました.以後は御三家のひとつである紀州徳川家の藩領となり幕末に至ります.この間松阪城には城代が置かれていました.

Matsusaka3 (写真3) かつて三層の天守があったという天守台

 明治後廃城となり,その後の火災等で城の建築物はあらかた失われてしまっています.現在は石垣のみが残る城跡となっていますが,この石垣こそが松阪城を有名にしているものです.本丸,二の丸の高石垣はそれだけで見る者を圧倒する迫力があります.

Matsusaka4 (写真4) こちらは裏門になります

 松阪城はその東側に大手が,南に搦手となっており,周囲は深田堀・水堀で囲まれていました.郭としては本丸,二の丸,三の丸,きたい丸,隠居丸などがあり,本丸の西に天守台があります(かつては三層の天守があったそうですが,江戸時代の早い段階で天守は風で倒壊してしまたそうです).

Matsusaka5(写真5) 松阪城址の地図

 尚,松阪出身の著名人として江戸時代の国学者本居宣長がおり,松阪城址の西側に本居宣長記念館があります.

Matsusaka6 (写真6) 本居宣長旧宅

 松阪城へのアクセス: JR・近鉄松阪駅から徒歩15分です.

 スタンプの設置場所 歴史民俗資料館と本居宣長記念館の2か所にあります

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) やや広いですが楽に散策できると思います.危険ですので石垣の端には近寄らないで下さい.

48matsusakajo 登城日 2009年1月4日

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