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2009年2月27日 (金)

さらば,わが愛車

 昨日2月26日は,昭和史の大事件2・26事件が起こった日である.

 昭和11年(1936年)2月26日,折からの不況,政財界の腐敗に対して陸軍の青年将校らが「昭和維新」のスローガンの下クーデターを決行,時の蔵相高橋是清,内大臣斉藤実らを殺害した事件である.背景として陸軍内の派閥抗争が指摘されており,この事件後日本は本格的に軍国主義の道を歩み始めた.

 それはともかく,昨日の夕方私の愛車がひっそりと去っていった.

200902261310000  わが愛車(十数年間ありがとう)

 購入してから十数年,走行距離22万キロを越えたわが愛車,実は昨日2月26日が車検切れの日だったのである.車自体は元気で車検を通す手もあったのだが,年数が古くなっていて自動車税が高くなるなど維持費がかさみそう(カーナビの方は古くなりすぎてここ2年くらい機能不全に陥っている)なため,思い切って廃車にしたのである(走行30万キロを目標にしていただけに残念).

 今後は実家に眠っている軽自動車(以前ウチのKが乗っていたやつ)を持ってくることになる.「うーん,軽自動車を運転して盛岡~小田原かぁ(笑)」.

200902261311000  総走行距離 226,173キロでした

 わが愛車はディーラーの人に引き取られていったのである(国内ではもう乗る人がいるとは思えないが,海外ではまだまだバリバリに走れると思う.いつの日かどこかで会えるかもしれない).

 そんなわけで,「さらば,そしてありがとうわが愛車」.

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2009年2月24日 (火)

日本100名城スタンプラリー45(BlogPet)

コンスタンチヌス21世の「日本100名城スタンプラリー45」のまねしてかいてみるね

日本100名城月山富田城への支配権を登って山中御殿が当時の急な石垣私のものとなる山中御殿からもその尼子氏が月山富田城となり,また最終的に守護のだが開催さが築かれて行くとなります.現在は山形県のある月山(1542年(イエローバス広瀬米子からイエローバスでちょうど戦国尼子フェスティバルがそちらに位置する安来節では全くなく,見た月山富田城(イエローバスは大したことが滅亡後は井戸跡尼子氏です),またイエローバス時刻表)の建物は井戸跡です(イエローバス時刻表)戦国尼子フェスティバルが多数歩いていました広い平地に入って山中御殿があったの最後の内陸部に歴史資料館の中心と鳥取の尼子氏から直接バスは大したことが築かれ居城が登場したことが強いの復元模型です.その堅固さがしのばせます(写真2)にありませんが滅亡に築かれ居城が築かれますがしのばせますが滅亡にありませんが強いの最後の攻撃を経ており,二の丸,米子線,本丸のハードです.難攻不落の受付になり,見た毛利氏が,奥書院平などが築かれ居城が守護代の道を15分市立病院下車(イエローバス時刻表)には国の内陸部の山麓部に歴史資料館の内陸部の石垣や甲冑姿の反対側に耐えた山城です)戦国尼子フェスティバルが当時の建物は毛利氏です)に入っており,米子駅から直接バスは山形県の道を経ています.現在はこのようなつづら折れの七曲りと呼ばれるつづら折れの中心と出しています.現在は国の京極氏とのある細い道は出雲そばもその堅固されます(声を15分川の設置場所歴史資料館が開催されます.登城の京極氏の登山道に至りますが開催されて行くことから下剋上によって出雲の内陸部には米子線,模擬店で行くとなる山中御殿が)城です(1542年)月山富田城です.月山の石垣私が)花ノ壇からもその尼子氏です(イエローバス広瀬米子から見たらちゃんと割子に移るとともに廃城は国のものと出していましたの復元模型です)本丸の七曲りは国の内陸部にありますがしのばれます.難攻不落の武者らが築かれます(イエローバス広瀬バスターミナル行きで20分川の建物は米子線,遺構として石垣私の最後の尼子氏によって松江城が当時をしのばれた山城です.難攻不落の同名の京極氏によって松江城が滅亡後は毛利連合軍のが滅亡になりましたがしのばせます),奥書院平などを撃退し,本丸の京極氏です.ここから見たらちゃんと割子になり,奥書院平などを奪った毛利氏の大内・毛利氏によって松江城がありますがあります.難攻不落の急な石垣私の設置場所歴史資料館が訪問し,その後の内陸部の受付に尼子フェスティバルが多数歩いており,当時を15分川の山の山の建物は結構きついです.難攻不落の先に急激な石垣私の支配権を撃退します)に移るとともに廃城です)戦国時代に築かれており,城跡近くでは島根と太鼓櫓,天文十一年)山中御殿までの全容富田城です.月山の最後の登山道は米子から七曲りは井戸跡です)に入ってくれます.登城日2008年10分市立病院下車(200円)山中御殿跡尼子フェスティバルがあったが当時の登山道をしのばせますが)城です.現在はこのようなつづら折れの山の復元模型です(声をかけるとなりました月山の反対側に急激な東北人に位置する安来節で20分ほど登るとなりました.現在は井戸跡尼子氏滅亡に指定されますが築かれています.またイエローバスで行くとなります)城は山形県のイメージが訪問しますが守護代の戦いで行くことも可能です)のが),模擬店で有名),堀尾氏です)月山富田城(イエローバスで行くことも売られ居城が)城(★★☆ややハードです)花ノ壇からは米子駅から見たことも3年間包囲戦に急激な石垣私の七曲りと鳥取の史跡に急激な東北人に指定された広い平地に入っていました月山(写真1)から翌年にかけての最後の七曲りは井戸跡です.また最終的に入って行くと三の丸,遺構として石垣私が築かれますがそちらに歴史資料館の最後の先に急激な東北人に急激な登りに耐えたが登場した毛利氏滅亡後は米子駅から見た毛利氏とのアクセス:JR安来節で有名),そこを登っており,またイエローバスは井戸跡尼子氏がしのばせます(安来駅から徒歩10月26日

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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日本100名城スタンプラリー45

 日本100名城 月山富田城(65番)

 戦国時代に守護の京極氏から下剋上によって出雲の支配権を奪ったのが守護代の尼子氏です.その尼子氏の本拠として知られているのが月山富田城です.

Gassan1 (写真1) 花ノ壇から見た月山の全容

 富田城は島根と鳥取の県境の島根側に位置する安来市(安来節で有名)の内陸部にある月山(私のような東北人には山形県の同名の山のイメージが強いのだが)に築かれた山城です.難攻不落の城と言われており,天文十一年(1542年)から翌年にかけての大内・毛利連合軍の攻撃を撃退し,また最終的に尼子氏が滅亡に至った毛利氏との最後の戦いでも3年間包囲戦に耐えたことからもその堅固さがしのばれます.

Gassan3 (写真2) 城の山麓部の中心となる山中御殿跡

 尼子氏滅亡後は毛利氏,その後堀尾氏のものとなりましたが,堀尾氏によって松江城が築かれ居城がそちらに移るとともに廃城になりました.現在は国の史跡に指定されていますが,当時の建物は全くなく,遺構として石垣や郭などが当時をしのばせます.

Gassan5 (写真3) 山中御殿からはこのように急激なつづら折れの登山道になります.ここは井戸跡です.

 スタンプのある歴史資料館の先にある細い道を登って行くと太鼓櫓,奥書院平などを経て山中御殿があった広い平地に至ります.ここから七曲りと呼ばれるつづら折れの急な登りになり,そこを15分ほど登ると三の丸,二の丸,本丸の見事な石垣が登場します.

Gassan4(写真4) 本丸の石垣

 私が訪問した日,城跡近くでちょうど戦国尼子フェスティバルが開催されており,模擬店や甲冑姿の武者らが多数歩いていました.模擬店では出雲そばも売られており,見たらちゃんと割子に入っていました.

Gassan2(写真5) 月山富田城の復元模型です.

月山富田城へのアクセス: JR安来駅からイエローバス広瀬-米子線,広瀬バスターミナル行きで20分市立病院下車(200円),そこから徒歩10分川の反対側に歴史資料館があります.またイエローバスは米子駅からも出ているので,米子から直接バスで行くことも可能です(イエローバス運行ダイヤ表).

 スタンプの設置場所 歴史資料館の受付にあります(声をかけると出してくれます).

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 山中御殿までの道は大したことがありませんが,その後の七曲りは結構きついです.

65gassantodajo 登城日 2008年10月26日

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2009年2月23日 (月)

フィルムカメラの行方

 先日ネットの記事で興味深いものを見つけました.

 統計から銀塩カメラが消えて1年

 昔はカメラといえばフィルムというほど,お互い切っても切れない関係にあったカメラとフィルムでしたが,デジタルカメラが登場し急激に進歩するとともに,フィルムカメラはあっという間に市場の片隅に追いやられてしまいました.

 それでもちょっと前なら,「利便性はデジカメでも画質はやっぱりフィルム」と言われていたんですが,せいぜい数百万程度だったデジカメの画素数も最近は飛躍的に向上し,現在ではコンパクトデジカメでも1000万画素を超える製品が当たり前になってきています.

 こうなってくると普通の写真を撮る分には,画質的にもさほど問題がなくなってしまい,最近ではプロのカメラマンでもデジカメを使うことが多いのだそうです.

 かくしてフィルムカメラの生産は激減し,昨年には月産1000台ほどになってしまったのだそうです.確かに最近ではフィルムカメラといえば使い捨てカメラくらいしか見なくなってしまいました.

 じゃあこのままフィルムカメラは無くなってしまうのでしょうか.記事はそうではないだろうと言っています.理由は写真そのものを楽しむ人にとってはフィルムカメラの魅力は決して衰えていないからです.暗室で写真を焼き付ける手間や現像するまで仕上がりがわからない不便さが逆にフィルムの魅力だというのです.またフィルムのアナログさによる写真の奥深さ(あいまいさ?)はデジタルにはまねのできないだろうと思われます.

 この記事を見て私はLPレコードのことを思い出しました.

 私が高校生だった頃の音楽ソフトの主役はLPレコードでした.しかしコンパクトディスク(CD)が普及し始めるとあっという間に市場から消えてしまいました.なんたってレコードは埃を払ったり手間がかかるソフトです.その点CDは扱いも簡単で好きな部分を頭出しでき,しかも音質がいいのですから普及して当然です.今では音楽ソフトとしてのLPレコードはほとんど見かけなくなっています.

 しかし昨年末に盛岡市内の老舗の電気店に行った折,オーディオコーナーで店員さんと話していたら,いまでもLPレコードを愛好する人は結構いて,しかも最近では新規にハマりだした若い人もいるとのことでした.レコードプレイヤーやカートリッジ,針なども細々とはいえ生産されており,お店にもいろいろな品が並んでいました(ナガオカの針です 懐).

 先のカメラにも通じますが,LPレコードを聴くにはジャケットから慎重に取り出して埃をきちんと払い,ゆっくり針を落とす一連の作業が必要です.一見余計な作業に見えますが,この作業によってこれから鑑賞する音楽への期待が膨らんでくるのです.

 昔から言われていましたが,LPレコードはすべての周波数の音を再現しますが,CDでは決まった音域以外,その上下はカットされています.もちろんカットされた音域は本来人間の耳では認識できない領域なんですが,そういった形而上学的な領域を心の耳で聴く作業もまたLPレコードの味わいでしょう(時にあるあのボツっという傷もまた魅力です).

 私の実家にもたくさんのLPレコードが眠っているはずですが,いずれまた引っ張り出して鑑賞してみたいと思ったのでした.

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2009年2月22日 (日)

曽我の梅林

 昨日は当直で一日中病院にいたんですが,直明けの今日もいい天気,というわけで近くに繰り出すことにしました.出かけたのは曽我の梅林,その名のとおり梅の名所です.

 東北ではもほぼ同じ頃に咲いてしまうので,花見というとどうしても一番派手な(特にソメイヨシノ)に目が行ってしまいます.そのため梅を観賞する機会はなかなかないのですが,せっかくこっちに来たのだからと繰り出しました.

P2220024

 梅まつりの会場はJR御殿場線の下曽我駅の周辺に散らばっています.今日は駅から歩いて向かいました.天気もよく暖かい日曜日ということで,焼きそばやたこ焼きなどの露天がたち並び,大勢の観光客でごった返していました.

 早咲きの品種は既に散った後でしたが,遅咲きの白加賀やしだれ梅などがほぼ満開でした(これでウグイスの鳴き声が聞こえてくれば最高だったなと思った).

P2220013 P2220006

(写真左) 遅咲きの白加賀,(同右) こちらはややピンクがかっています

 途中なにやら短冊のようなものが下がっているなと思ってみたら…

P2220009

 「人生は女って,なんじゃこりゃ!」と思っていたら足元にちぎれた短冊の切れ端が落ちていました.

P2220010  どうやらあわせるとちゃんとした詩になるようでした(笑).

 曽我といえば,日本三大仇討ちで知られる曽我兄弟が育った土地です.兄弟ゆかりの城前寺には兄弟の像も置かれていました.

P2220028  

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2009年2月21日 (土)

気になる表現

 このところ学術講演会などに参加すると,司会進行役のお姉さんがよくしゃべっているフレーズがある.

 「ただいまから,○△研究会を始めさせていただきます」,「それでは,特別講演の方に入らせていただきます」といった「~させていただきます」というフレーズである.最近では出入りの製薬会社にも同じようにしゃべる人がいる(「説明させていただきます」なんて).

 なんかまどろっこしい表現だなと違和感を感じていた私,はたしてこの表現は正しい日本語なんだろうか?

 そう思って調べたのだが,特別に文法的には間違っているとは言えないらしい.ただし「移らせていただきます」なんてのは,いわゆるさ入り言葉で誤った表現であるらしい.

 そうなのかと思っていたら興味深い記事を見つけた.

 「させていただきます」の普及と敬意低減の法則

 これによると,敬語は本来身分制度がはっきりしていた社会に根付いていたものなのだが,身分制度がほぼ消失した現代社会において様々な場面で敬語が使われることになった.この敬語の多様から敬語のありがたみというか,価値が減弱し,その結果従来以上の敬意を表現しようとなった結果,こういった表現に変わったのではというのである.いわば敬語のインフレである.また「~させていただきます」という表現は,すべての動詞にくっつけて敬語化することができるため,国語が苦手な人でも簡単にそれっぽい敬語を使うことができるという利点もあるらしい.

 私がこの表現に違和感を覚えていた理由は,どうやらその簡便性にあるようだ.動詞を簡単に敬語化できることから,それを乱用する人にはいま一つ知性が感じられないのである.

 やはり様々な表現を適切にちりばめて話す人の方が,知性的な社会人として尊敬されるような気がする.

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2009年2月20日 (金)

雨のち晴れ

 当地の本日の天気予報は

 雨のち晴れ  だった.

 んっ? 雨のあといきなり晴れって… 雨のち曇り夕方から晴れとかではなく,いきなり晴れである.

 朝からまずは普通の雨,傘をさして職場に向かう.結局午前中いっぱいしとしとと雨が降っていた.

 そして昼過ぎ,気がつくと外が妙に明るいような,日が出てきたのかと思い外に出ると…

Sakaime (写真1) 半分曇り半分晴れの空

 なんと,本当に腫れていた.空を見上げると半分が一面の曇り,残り半分が見事な青空である.天気予報は大当たりでした.

Kumori Hare

(写真左) 一面曇り,(同右) 反対側はこのとおり大晴れです.

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2009年2月18日 (水)

日本100名城スタンプラリー44

 日本100名城 松江城(64番)

 鳥取城登城後,列車に乗って松江に移動しました.

 松江は島根県の県庁所在地で同県のほぼ東端に位置し,鳥取県西部の主要都市米子市とは電車で30分ほどの距離にあります.宍道湖と中海に挟まれた地形であり,水の都としても知られています.

Matsue2 (写真1) 現存12天守のひとつ松江城天守

 松江を含む出雲の国はそれこそ古事記・日本書紀の時代から登場する伝統ある土地柄です.室町時代には守護京極氏の支配する土地でしたが,戦国時代になると守護代であった尼子氏が台頭し,経久の代にこの地域の実権を京極氏から奪います.その後は安芸に興った毛利氏の勢力圏に入り豊臣政権時代を送りました.

Matsue3 (写真2) 堀と再建された櫓(左が南櫓,右が中櫓)

 関ヶ原の戦いで毛利氏の勢力が大きく後退すると,代わって堀尾忠氏が入り松江藩が成立しました.当初の藩庁は尼子氏以来の月山富田城でしたが,戦国の要塞である富田城は政治を行うには不便であり,まもなく今の松江の地に城と城下町を建設したのです.

Matsue4 (写真3) 三ノ門跡と石垣

 その後藩主は堀尾氏から京極氏を経て松平氏へと代わり幕末に至るのです.

 明治維新後廃城となり多くの建物が破壊されましたが,天守は奇跡的に破壊を免れ保存されました(現存天守は国の重要文化財に指定されています).現在は櫓や門などが復元され,周辺にある武家屋敷などとともに街を代表する観光名所となっています.

 私が訪ねた2008年10月25日は午後から晴れ上がり,秋の涼しい気候の中快適に探索できました(特に鳥取城の後に行ったためか,余計楽に感じました).特に城の西側は観光客も少なくより快適でした(笑).

Matsue1_2 松江城案内図

 松江城へのアクセス: JR松江駅前7番バス停からレイクラインで松江城下車すぐ(1時間に3本程度),または1番バス停市営バス北循環外回りで10分県庁前下車徒歩5分です.

 スタンプの設置場所 天守の受付にあります(声をかけると出してくれます).

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です.

64matsuejo 登城日 2008年10月25日

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2009年2月17日 (火)

実は南国に行ってました

 実は先週末から今週はじめにかけて南国に逃避してました.行き先はサイパンです.

 私の冬の南国逃避はほぼ2年に1回の割合で,2年前にグアムに行って以来でした.

 今時分のミクロネシアはちょうど乾季で気候もよく,しかも値段が安いのが魅力です.今回も連日晴天に恵まれ,ふにゃふにゃになってました.

Kyujitu (写真1) 美しいラグーン

 遠くに繰り出すときはどこか旅行会社に頼むんですが,今回は自分で手配しました.航空券に関してはいわゆる航空会社のマイレージプログラムの特典航空券を利用しました.今までためてきたマイルもあるんですが,何より最近ではクレジットカードのポイントをマイルに移行できるサービスがあってそれをふんだんに使ったわけです(我が家では電気・ガス・NHK他カードが使える場面では極力カードを使うので結構ポイントが溜まります).

Sashimi (写真2) サイパンで取れたキハダマグロの刺身

 サイパンは日本人が良く行く観光地であり,中心街には居酒屋もたくさんあるので,食べ物に困らないというのも魅力です.

 明日からまた日常の世界

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2009年2月15日 (日)

第12回ひの新選組まつり参加募集開始

 日野市観光協会のHPによると,第12回ひの新選組まつりの隊士募集が始まったようです.

 第12回ひの新選組まつり「新選組パレード」参加者募集

 日時は5月9日(土)~10日(日),参加形態は昨年と同様で,① 衣装貸出参加(100人),② 衣装持参参加(制限なし),③ 同時代の人で参加 のようです.

 今年は土方歳三没後140年ですからね.みなさんふるってご参加を(って自分は日野市観光協会の回し者か?).ちなみに私は… もちろん参加です(きっと②なんだろうな 笑).

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2009年2月13日 (金)

春一番

 今日九州から関東にかけて春一番が吹いたらしい.

 春一番とは立春から春分の間に初めて吹く強い南風のことである.昨年に比べて10日早かったそうだ.

 実は昨年の春一番の日は強烈に覚えている.なぜならその日学術講演会で東京に出ていたものの,この春一番のために東北新幹線が止まってしまったからだ(思えばこの事件が,私の2008年列車止まりイヤーの幕開けだった 関連記事).

 そんな春一番であるが,キャンディーズの同名の曲が有名である.

 「雪が~溶けて,川~になって,流れてゆきます… もうすぐ春ですね~」

 春一番が春の訪れを予感させる内容の歌詞で,なんら問題はない.

 ところが同じキャンディーズの最後の曲,微笑みがえしの1番の歌詞に春一番が出てくるのだが,こちらはちょっと変だ.

 「春一番が~,掃除したてのサッシの窓を~」

 この曲,歌詞の内容からして引っ越しとお別れをテーマにしているのだが,引っ越しといえば年度末である.大学生なら卒業式が大体3月初旬だから引っ越しはそれよりも後,社会人なら本当に年度末ギリギリの3月下旬である.春一番は一般に2月下旬から3月初めまでには吹くことが多いから,引っ越しの最中に春一番が吹くとすれば,一般の年度末の引っ越しに比べるとかなり早い.2月下旬に慌ただしく引っ越しとは… そういえばこの曲の別の部分で

 「お引越しのお祝い返しも済まないうちに,また~ですね~」

 という部分がある.この引っ越し主は頻繁に住居を変えているらしい.何らかの秘密組織に属しているのだろうか… などと余計なことを考えてしまった.

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2009年2月11日 (水)

歌のとおり

 昨夜は仕事で静岡県の沼津市へ,そのまま現地に宿泊でした.

 そして今日は祝日,のんびりと起きたわけですが,ふと外を歩いていたらこんな光景が

P2110001 (写真) 「♪ あ~たま~を,く~も~の~,う~えに~だ~し~ ♪」

 うーん,見事に歌のとおりだと,感動したのでした.

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2009年2月10日 (火)

日本100名城スタンプラリー43(BlogPet)

コンスタンチヌス21世の「日本100名城スタンプラリー43」のまねしてかいてみるね

日本100名城鳥取市街地の山麓にも立藩しましたの守護山名・尼子の守護山名誠通が毛利氏の包囲戦の攻防の全体図鳥取城跡バス停下車(★☆ややハードです.取ったり取られたりの堀鳥取の北東に位置する久松山を完全包囲したとなっていました城門のみ復元されます(池田氏の丸の天守櫓台ですがあるもののとして入っており,あるいはループ麒麟獅子Aコースで独立,その後織田信長の石垣です(約20分,その惨状には餓死者が毛利・織田両勢力による激しい争奪戦のイメージが,その後織田両勢力の姿を決意,その後織田両勢力がなくなった城内で8分)いよいよ山陰シリーズです(★★☆ややハードです)すぐですが遺されましたと結構な運動にも立藩しましたが始まりと近世城郭があるもののハード指数(バスで8分鳥取城そばに位置する久松山を包囲します.4)復元されました典型的にさかのぼります(1575年10月25日

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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日本100名城スタンプラリー43

 日本100名城 鳥取城(63番)

 いよいよ山陰シリーズです.2008年秋に境港妖怪検定に行った際に登城しました.

 鳥取というと鳥取砂丘のイメージが強烈すぎて鳥取の街自体はなんとなく地味な印象があります.そんな鳥取の街の中心だったのが鳥取城です.

Tori5 (写真1) 鳥取城の堀

 鳥取城の歴史は戦国時代にさかのぼります.因幡の守護山名誠通が天文年間(1540年頃)に築いたのが始まりとされています.

 今の鳥取市街地の北東に位置する久松山を利用して築かれた典型的な山城です.因幡山名氏の支城として武田氏が城番として入っていましたが,永禄年間(1560年代)に武田高信が毛利氏と組んで独立,以後は毛利・武田と山名・尼子の両勢力による激しい争奪戦の地となります.天正三年(1575年)にこの戦いは毛利氏の勝利に終わりますが,その後織田信長の勢力がこの地に及び,今度は毛利・織田両勢力の最前線となります.取ったり取られたりの攻防の末,決着を付けたのは豊臣秀吉でした.天正九年(1581年)夏2万の大軍でこの城を包囲します.このとき城兵は4千人程度だったといわれます.

Tori3 (写真2) 復元された城門です.

 しかし秀吉は力攻めはせず,城を完全包囲しての兵糧攻めを行いました.4ヶ月の包囲戦で兵糧がなくなった城内では餓死者が続出,その惨状に耐えかねた城主吉川経家は開城を決意,自らは切腹したのでした.

Tori4 (写真3) 山麓部の二の丸の石垣です.

 関が原の戦い後は豊臣系大名で武断派の池田輝政の家系が入り,一族内での多少の異動はあるものの(池田氏はここ鳥取以外に岡山にも立藩していたため)幕末まで続いていくことになります.江戸時代には要害としての城は不要になったため,山麓に新たに城郭が作られました.

Tori2 (写真4) 山上の丸の天守櫓台です.

 明治維新後廃城となり当時の建築物はすべて破却されてしまい,現在は石垣や堀などの遺構があるだけですが,鳥取城は中世城郭としての山頂部と近世城郭としての山麓部という異なる時代の遺構が同時に見られる城となっています.

 尚,鳥取城については古写真や古絵図が遺されており,将来的に江戸時代の姿を復元しようという計画があるようです(現在は城門のみ復元されています).

Tori1_2 (写真5) 鳥取城の全体図

 鳥取城へのアクセス: JR鳥取駅からバスで約10分西町バス停下車(バスはたくさんあります)徒歩5分,あるいはループ麒麟獅子Aコースで8分鳥取城跡バス停下車(1日6便)すぐです.

 スタンプの設置場所 鳥取城そばに建つ仁風閣の受付にあります(声をかけると出してくれます).

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 山上の丸まで登ると結構な運動になります(約20分)

63tottorijo 登城日 2008年10月25日

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2009年2月 9日 (月)

地域性なのか

 ブログの更新が滞っていました.

 実は先週末,日本100名城関連で,滋賀県にある3つの山城を一気に制覇すべく,近江遠征に出かけていました.目指したのは浅井長政で有名な小谷城,織田信長で有名な安土城,その信長に追われた六角氏の城だった観音寺城です.いずれも標高の高い山城で難易度が2つから3つ星の城ばかりです.こういう山城は夏に行くと蚊とマムシと暑さでひどい目にあうのでベストシーズンは冬の雪のない日なんです.天気予報を見たらこの週末は晴れそうというわけで出かけてきました.

 結果は… 疲れました.安土城は2つ星程度でしたが,小谷城・観音寺城は3つ星のハードな城でした(冬なのでちょっと汗ばんで寒さを忘れる程度ですが,夏なら倒れそうになるかもしれない).この記事はいつかアップします.

 そんな近江地方の電車で見つけた広告がこれ

P2080215 四谷学院とかいう予備校の広告らしいんですが,実はうちの近所の電車でも同じ予備校の広告が載っていたんです.それがこれ

P2080217  滋賀県では京大だったのがこちらでは東大に変わっています.写真のモデルが同じ人なら大笑いだったんですが,さすがにそれはありませんでした.

 個人的には名古屋や大阪ではどうなっているのか気になります.

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2009年2月 5日 (木)

スキーの思い出

 ブログ仲間の風雅さんがスキーに関する記事を書いていた(徒然にゃんこの昼寝部屋).

 そんなわけで今日の話題はスキーである.

 私は自他ともに認める運動音痴であり,人並みにできるスポーツはフォークダンスオリエンテーリングくらいしか思いつかない.

 学校時代の部活も当然のように文化部ばかりだったのだが,唯一の例外として中学時代にスキー部に所属していた(もちろんこれも科学部との掛け持ちだったのだが).

 別にスキーが好きだったわけではない.実は親から「中学生になったのだから,どっか運動部に入れ」と言われたからである.

 じゃあなぜにスキー部なのか,というと友人や上級生の話から,「一番楽そうな運動部がスキー部」だったからである.

 何といってもスキーは冬の競技であり,夏にはできないのが魅力である.もちろん気合の入った学校のスキー部なら夏は体力強化のためのトレーニングをやるんだろうが,幸い(?)私の中学のスキー部は気合が入っておらず(笑),夏はほとんど休業状態で,冬期間のみちょっと近所のスキー場に練習(遊び)に行く感じだったのである(もちろん顧問の先生も全く気合いが入っていなかった 笑).

 そんな弱小スキー部ではあったが大会はしっかりあった.盛岡市民体育大会中体連のスキー大会である.普通の運動部なら大会に出るためレギュラーの座を手に入れるために必死に努力をするんだろうが,わがスキー部は部員が少ないため,「部員=正選手」だったのである.

 スキー競技にはアルペン競技(滑降,スーパー大回転,大回転,回転)とノルディック競技(距離,ジャンプ)がある.当時は(今はどうか知らないが)中学生がやる競技はアルペンは大回転のみ,ノルディックは距離のみであった.

 大回転というと知らない人は大変な競技と思うらしいが,実はそうでもない.一言でいえば「大回転とは,滑降ほどスピードを要求されず,回転ほど技術を要求されない競技」なのである(注 もちろん初心者のみ.大会で入賞をねらう人にとっては決して簡単な競技ではない).

 滑降はもの凄いスピードがでるため,転倒すると命にかかわることもある(自らもスキー選手だったわが父は「ジャンプより滑降の方がよっぽど危険」と言っていた).また回転は旗門が細かいためウェーデルンができないとあっという間に旗門不通過→失格になってしまう.その点大回転はスピードもほどほどで,ウェーデルンでなくても(極端にいえばボーゲンでも)旗門をクリアできるのである.

 一方のノルディックの距離は走るだけだから大丈夫である.

Stenmark (写真) 自分がスキー部だったころのアルペンの英雄ステンマルク

 ちなみにわが中学では1年生=距離2年生=大回転であった(要するに距離は疲れるから1年生という情けない理屈,3年生は受験勉強のため参加しない).

 2年時には私も晴れて大回転の選手(笑)だったのだが,成績はというともちろん下から数えた方が圧倒的に早いのだが,ビリではなかった(当時自分より遅い奴がこんなにいるんだと妙に自信を持った記憶がある 笑).

 以来なかなかスキーをやる機会もなくなってしまったのだった.

 

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2009年2月 4日 (水)

立春

 今日2月4日は立春である.冬至と春分のほぼ中間点にあたり,高緯度地方ではこの辺を境にして昼の長さがぐんぐん長くなっていく(変曲点?).

 暦の上では春ということになるが,実際にはまだまだ寒い日が続き,春が来たという感じはしない.どうでもいいことだが,この「春が来た」を英訳すると ” Spring came ” ではなくて,” Spring has come. ” と現在完了形で表現される.「春がやって来て今もなおここにいる」という意味合いからであるが,この辺の機微を日本語で表現するのは難しい.

 ところで,立春に対するものとして立秋がありこちらは8月上旬にある.そして立秋を境に暑中見舞いから残暑見舞いに変わることは良く知られている.一方暑中見舞いに対して寒中見舞いがあるが,今日立春を過ぎたらどうなるんだろうか? 残暑に対して残寒という言葉はあまり聞いたことがない(もちろん残寒見舞いなんてもらったこともない).

 じゃあそういうものはないのか,と思っていたら余寒見舞いというのがあるらしい.残暑という言葉からは,お盆ごろの蒸し暑い雰囲気が感じられる.これに対して残寒という言葉を使うと,なんか本当に凍えそうな雰囲気だ.それに対して余寒なら,まだ寒さが残っている(余っている?)ものの徐々に暖かくなっていくニュアンスが感じられて良い.「春が来た」とは逆に季節感をうまく表現する日本語の機微が感じられる言葉である.

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2009年2月 3日 (火)

禁止キーワード

 先日アップしたカップヌードルライトの記事に関して,コメントを寄せていただいた”そうさん”が,「何度入力してもスパムコメントとしてはじかれてしまう」とおっしゃっていました.

 どういうことだろうと思ってたんですが,さっき自分でお返しコメントを入力しようとしたら,なんとやっぱりスパムとしてはじかれてしまいました.

 「な,なぜだ.なぜブログ主のコメントを拒否する」と怒ったんですが,ふと気が付きました.

 実はだいぶ以前,やたらとスパムコメント・スパムトラックバックが付いていた時期があって,その時にこういう迷惑トラバでよくつかわれる言葉を「禁止キーワード」として設定していたんです.すなわち特定のキーワード群(Yahooのフリーメールなんかで迷惑メールに入っているアレ系の言葉です 笑)が入ったコメント,トラックバックは自動的に拒否する設定になっていたんです(おかげ様で,この1年以上このブログにはソレ系のコメ・トラバはついていません).

 そう思って見ると… そう,ピンときましたね.

 カップヌードルライト

 見事に禁止キーワードが入っているわけです.ということは,仮にこの商品に関する真面目なトラバも拒否してしまうわけで,ちょっと規制を緩めた方がいいかとも思ったのでした(このキーワードはまだ,真面目な方だもんな).

 というわけで今後はカップヌードルと入力したコメントは受理されますのでご安心を(笑).

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2009年2月 1日 (日)

日本100名城スタンプラリー42

 日本100名城 広島城(73番)

 戦国時代末期中国地方に120万石という大勢力を誇った毛利氏の居城は先祖伝来の吉田郡山城でした.しかし秀吉政権下で戦が少なくなり,交易などが盛んになると,元来要塞としての側面が強かった郡山城ではなにかと不便になってきました.このため毛利輝元は天正十七年(1589年)に太田川の河口に形成された三角州に新しい城の建設を始めましました.これが広島城です.

Hiroshima2 (写真1) 広島城の天守

 三角州の軟弱な地盤の上に築城するため難工事となりましたが,豊臣秀吉の援助もあり工事は進捗し,天正十九年(1591年)に輝元が入城,この時から毛利家の居城となったようです(同時に郡山城は廃城となりました).

 典型的な中世城郭だった郡山城と異なり広島城は秀吉の大阪城や聚楽第を参考にして築いたといわれるように豪華な城でした.

Hiroshima1 (写真2) 内堀です

 しかし秀吉の死後,慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の総大将の地位にあったことから,戦後周防・長門2カ国36万石に大減封されてしまいました.結果毛利氏は山陰の萩に移り,代わって福島正則が50万石で入封することになります.正則は豊臣秀吉の親戚筋でしたが,石田三成とは仲が悪く,関ヶ原では東軍に属した功績によるものです.彼の代に城下町が整備され,広島の町が発展していきましたが,元和五年(1619年)に城を無許可で修繕した罪(元和元年に発布された武家諸法度によって城の修繕には幕府の許可が必要になった)に問われ,改易とされてしまいました.

Hiroshima4 (写真3) 復元された太鼓櫓

 その後広島城に入ったのが浅野長晟です.長晟の父,浅野長政は秀吉の正室北政所(ねね)の義弟にあたるように豊臣系の大名です.しかし福島正則と同様石田三成と関が原当時の当主浅野幸長の折り合いが悪く,東軍に属して武功をあげたものです.

 この浅野氏が以来広島城の城主となり幕末まで続いていくことになります.ちなみに忠臣蔵で有名な赤穂藩主浅野内匠頭長矩は分家筋にあたります.

Hiroshima3(写真4) 復元された表御門と平櫓

 浅野氏時代の広島は基本的に福島氏時代と大きく変わらなかったといわれています.

 明治後は廃城となり徐々に城の建物も失われていきましたが,天守や一部の櫓などは現存したまま明治時代を送ります.広島城跡には第5師団司令部置かれ,さらには日清戦争時に大本営が設置されるなど軍の拠点としても発展していきました.

 この間に広島城の歴史的価値も見直されるようになり,昭和6年(1931年)には天守が国宝に指定されました.

 しかし,昭和20年8月6日に町を一瞬で廃墟に変えた原子爆弾によって天守も倒壊,他の櫓等もすべて焼失してしまいました.

 戦後町が復興するとともに,天守等を再建しようという機運が盛り上がり,昭和33年に天守が完成(鉄筋コンクリート製の外観復元),その他の櫓も順次完成していきました.ちなみに広島城の別名を鯉城といいますが,これにちなんで当地に司令部があった陸軍第5師団の通称が鯉兵団,プロ野球チームの愛称がカープ(鯉の意味)となっています.

 広島城は現在広島城址公園として市民や観光客の憩いの場所となっています.

 広島城へのアクセス: 広島バスセンターから徒歩10分ほどです.

 スタンプの設置場所 天守内の売店にあります(声をかけると出してくれます).

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 普通の都市公園です

73hiroshimajo 登城日 2008年10月5日

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