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2009年1月26日 (月)

維新後の永倉新八

 本当~に,久しぶりの新選組ネタです.

 幕末の激動の京都で,会津藩の庇護の下,いわゆる尊攘派の浪士と死闘を繰り広げ,倒れ掛かる幕府の屋台骨を支えた剣客集団,それが新選組である.自らの命を賭して戦い続けた新選組の主要メンバーはその多くが幕末期に非業の死を遂げている.試みに,ひの新選組まつりの隊士コンテストで選出される12人の主要幹部についてみると

 局長     近藤 勇   慶応4年4月25日 板橋にて刑死

 副長     土方歳三  明治2年5月11日 函館にて戦死

 一番隊隊長 沖田総司  慶応4年5月30日 江戸にて病死

 四番隊隊長 松原忠司  慶応2年  切腹

 五番隊隊長 武田観柳斎 慶応3年  暗殺(?)

 六番隊隊長 井上源三郎 慶応4年1月5日 淀千両松の戦いにて戦死

 七番隊隊長 谷三十郎  慶応2年  暗殺(?)

 八番隊隊長 藤堂平助 慶応3年11月18日 油小路で戦死

 十番隊隊長 原田左之助 慶応4年5月 上野戦争で負傷し後死亡

 このように12人中9人までが幕末維新期に命を落としている.これ以外の幹部でも,総長の山南敬助が慶応元年2月に切腹し,参謀の伊東甲子太郎は慶応3年11月に暗殺されている.

 一方少数ながらも明治期を生き抜いた者もいた.九番隊隊長の鈴木三樹三郎(伊東甲子太郎の実弟)は伊東と共に慶応3年に御陵衛士に加わり,油小路の戦いを生き延びる.その後は薩摩藩の庇護のもと,倒幕派として活動し明治を迎えている.慶応3年12月の伏見での近藤勇襲撃事件にも参加しているし,その後は相楽総三の赤報隊にも加わり,二番隊隊長という重責を担っている.

 三番隊隊長の斉藤一は流山で近藤勇が捕われた後,新選組の残存部隊を率いて転戦し,会津戦争に参加した.しかし榎本艦隊と合流する土方らとは別れて,戦後も会津に残り,会津藩士として生涯を送っている(斗南にも行っており,今の青森県五戸町に住んでいたらしい HPの関連記事).維新後は警視庁に出仕し,西南戦争にも参加している(西南戦争では当初政府軍の主力は徴兵で集められた兵隊であり,鉄砲を撃つのは得意だったが,薩摩武士に切り込まれて肉弾戦になると,なすすべもなく崩れてしまった.このため,旧士族が集まっていた警察隊を戦地に送り,薩摩の切り込みに対抗したのである).

 そしてもう一人,維新後を生き延びた幹部隊士が今回のテーマ,新選組二番隊隊長の永倉新八である.

Hanyashiki(写真1) 地下鉄新御徒町駅近く,小島小学校付近に旧松前藩上屋敷があったそうです

 永倉新八は天保十年江戸詰めの松前藩士長倉勘治の次男として江戸の松前藩上屋敷で生まれた.名は栄治である.次男ではあったが,兄の秀松が新八3歳のときに亡くなったため,実質長男として育てられたらしい.8歳のときに江戸の岡田道場に入門し,神道無念流を学んだ.18歳の頃に脱藩して,同流の百合道場に移り,ここで終生の友となる市川卯八郎(後の芳賀宜道)と出会った.この時に実家に迷惑がかかることを恐れて,苗字を一字変えて永倉としたようである.その後心形刀流の坪内道場に師範代として招かれ,後に新選組で一緒になる島田魁と知り合ったらしい.

 脱藩後は武者修行と称して各地を歩いていたらしく,その途中で試衛館に出入りするようになったようだ.永倉の新選組顛末記によると,当時の試衛館は「武骨が過ぎて殺気みなぎるばかり」だったという.その気風が肌に合ったのか,いつしか食客として居つくようになった.文久3年の浪士組の一件を試衛館に持ち込んだのは永倉だと言われている.

 上洛し,新選組結成後は,副長助勤,二番隊隊長,撃剣師範などの要職を歴任し,常に幹部隊士として組の中枢にあった(永倉は沖田総司,斉藤一と並ぶ新選組を代表する剣客として知られる).特に沖田総司が体調を崩してからは,彼の一番隊の指揮も担当している.元治元年の池田屋事件をはじめ,油小路の戦い,鳥羽伏見の戦いなど新選組の修羅場のほとんどに参加しており,特に池田屋では近藤,沖田らとともに最初に乗り込んでいるし,鳥羽伏見では薩摩の洋式銃隊に対して切り込みを敢行し武功を挙げている.

 永倉は新選組結成時のメンバーでは試衛館派に属するが,初期の新選組の局長だった芹澤鴨とは同門(神道無念流)だったこともあり,近藤や土方らとは常に一線を画していたようである(文久3年9月の芹澤暗殺についても,彼は全く関知していなかったらしい).池田屋事件後,行動がやや尊大になってきた近藤に対して,原田左之助や島田魁らとともに,会津藩主松平容保宛に建白書を提出している.この時は容保のとりなしで大きな事件にはならなかったが,その後も微妙な影を落としたようである.ただ,永倉と近藤らは決して対立していたわけではない.後に伊東甲子太郎らが入隊し,独自の勢力を形成し始めると,永倉にも伊東から誘いがかかったが,結局彼は新選組に留まっているからである.思うに永倉という人物は,相手が誰であれ,間違っていると思うことははっきりと言うタイプの人間だったのだろう.彼自身は近藤・土方ら新選組の基本路線(勤皇・佐幕)には賛成だったと思われる(伊東は勤皇・反幕である).

 しかし,時代の流れは新選組にとって逆風となり,鳥羽伏見の戦い,その後の甲陽鎮撫隊の敗戦の後,近藤らと袂を分かつことになった.その後は旧友の市川卯八郎(芳賀宜道)らとともに靖共隊を結成し北に向かって転戦,米沢に至って雲井龍雄と交流している.しかし,明治元年9月の会津藩降伏によって芳賀とともに江戸に戻った.

 江戸に戻った後,しばらくは浅草の芳賀の家に潜伏していたが,明治2年1月に芳賀が義兄(妻の兄,藤野亦八郎)に殺されると,永倉も身を隠しきれないと感じ,松前藩に帰参を願い出て許された.この時永倉があっさりと帰参を許されたのは,長倉家が藩内でそれなりの地位を占める家柄だったからとも言われている(浅田次郎氏の壬生義士伝で有名になった南部藩の下級武士だった吉村貫一郎が鳥羽伏見の戦い後,大阪の南部藩邸に帰参を申し出ながら,許されず切腹になったのと対照的である).

 新選組顛末記によると,ある日両国橋を歩いていた永倉は,偶然にも鈴木三樹三郎と再会した.以下は顛末記からの引用である.

 一日永倉はおりからの休みをさいわいに気保養がてら市中を散策していると、ふと両国橋の上で新選組で前年暗殺した伊東甲子太郎の実弟鈴木三樹三郎に出会った。永倉はしまったとは思ったがいまさらひきかえすこともできぬ。両人のあいだはしだいにちかよって鈴木の眼には異様の光がかがやいた。そして、

 「やァしばらくでござったナ、貴公はただいまいずこにおられるか」と鈴木が聞くので、永倉は、

 「拙者は松前藩に帰参いたしてござる」

 「それではいずれまたお目にかかる機会もござろう」とすれちがったので、永倉も会釈してわかれた。

 しかし鈴木は兄伊東の仇敵として永倉をそのまま見逃すはずがない。ただちにひきかえして斬りつくるのではあるまいかと永倉がふりかえると、鈴木もふりかえってじっと見ている。永倉はさてこそとかくごして袴の股立をとりしたくをして待っていたが鈴木はとてもかまわぬと思ったか、そのまま黙っていってしまう。それから数日たつとはたして鈴木の一味が永倉をつけまわし、門外一歩をふみだそうものなら、たちまち手をくだす気勢をしめした。

 途中の,「しまったと思った」というくだりからは,永倉といえども,戊辰戦争後の追われる身としての心の不安が感じられる.結局この事件とその後明治3年12月に盟友雲井龍雄が処刑されたことによって,江戸に留まることの危険を感じた永倉は,藩の勧めもあり地元松前の藩医である杉村松柏の養子に入ることになって江戸を去った(明治4年1月).この時から杉村治備(後に義衛)から名乗ることになった(ただし本稿では混乱を避けるため以後も永倉新八で統一する).

 松前に移ってからの永倉は当地で藩の軍役についたりしていたが,間もなく廃藩置県となり多くの藩士が松前を去っていった.永倉も家族とともに明治6年に小樽に転居している.

 当時の小樽はニシン漁で栄え,北海道随一の賑やかな街だったらしい.ここで養父の杉村松柏は本業である医業を始めた.しかしそれも永くは続かず,翌明治7年8月に松柏はこの地で亡くなってしまう.永倉は藩医杉村家の養子とはいえ,医業の知識があったわけではないから家業を継ぐわけにはいかない.結局彼が選んだのは家族とともに東京に戻ることであった.彼の東京在住は明治8年から15年までである.この間各地で剣術の指南などをやって暮らしていたといわれるが,特筆すべきは現JR板橋駅東口に建つ新選組顕彰碑の建立である.

P1250011 (写真2) JR板橋駅前に建つ顕彰碑

 戊辰戦争期に朝敵の汚名を着せられた新撰組であるが,次第名誉回復の動きが出てきた.その流れの中で永倉は医師の松本良順(明治後は松本順と改名)や多摩の近藤・土方の縁者,生き残った他の新撰組隊士らとともに奔走し,明治9年顕彰碑の建立に至ったのである.

 その後明治15年になり,永倉は再び北海道に渡った.行先は開拓使庁の置かれた札幌からさらに石狩川の上流にある樺戸集治監である.樺戸集治監は監獄機能に加えて,囚人を使っての開墾や道路建設などの土木事業などを行わせるための施設である.背景として廃藩置県後頻発した旧士族の反乱(佐賀の乱,萩の乱など)や高まる反政府運動などで政治犯が激増し治安が悪化していたことがある.前年明治14年に初代典獄(刑務所長のようなもの)の月形潔のもとで開設されていた.

P9160135 (写真3) 永倉が剣術を指導した樺戸集治監は今博物館になっている

 ただこの集治監には腕の立つ囚人も多く,万一暴動などが発生した場合に応援を呼ぶすべもない土地柄であり,看守に対する剣術指南の重要性が考えられていた.このため永倉に白羽の矢が立ったものらしい.当時この集治監のあった場所はまさに辺境であり,彼も家族は小樽に残しての単身赴任であった.ここで明治19年まで剣術師範の職にあったようである.

 実は私の好きな大河ドラマ「獅子の時代」にこの樺戸集治監が登場する.主人公で元会津藩士の平沼銑次(演じるは菅原文太)が大久保利通暗殺の罪を着せられ,ここに収監されるのである.ただドラマでは銑次が樺戸にやってきたのは明治14年で翌15年の春には脱獄しているので,残念ながら銑次と永倉の接点はないのであった.

P9150024 (写真4) 永倉が晩年をすごした地にはこのように碑が建っている(現小樽市役所付近)

 それはさておき,永倉を樺戸に招いた月形が明治18年に職を辞すと,永倉も翌明治19年に樺戸を去った.その後三度東京に戻り道場などを開いていたといわれるが,明治32年に小樽に引っ越し,以後死ぬまでその地にとどまった.

 この晩年の小樽時代のエピソードとして,小樽の映画館から孫とともに出てきたところ地元のヤクザに絡まれたものの,彼が睨むと相手はその眼光で圧倒されて退散した話や,老境の永倉が北海道帝大の撃剣部の学生に教えを請われ,引き受けて札幌に出向き,一通り型を披露したものの,激しく動きすぎて卒倒してしまい帰りは馬車に乗せられて小樽に帰った話が知られている.

P9150043 (写真5) 小樽市郊外にある永倉新八(杉村義衛)の墓所

 大正2年からは地元の小樽新聞に「永倉新八」のタイトルで新撰組時代の話を連載している.これをまとめたものが今日「新撰組顛末記」と呼ばれる書籍であり,新撰組研究の貴重な資料となっているものである.またこの小樽時代に近藤勇の娘といわれる山田音羽の訪問を受けている.

Img360 (写真6) 永倉の話を基にした新撰組の資料

 このように幕末維新期を生き抜いた永倉新八であったが,大正4年1月5日に小樽で亡くなった.伝えられるところによると口腔内感染からの敗血症だったとされる.

 永倉新八は幕末の最終段階で近藤・土方らと袂を分かったものの,後年は新撰組の復権に努力するなど,今日我々が新撰組について知っている多くのことを教えてくれたのである.

 注) 今回の記事は2007年秋の北海道旅行で訪問したネタを中心に構成しています(やっと完成した 感).

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コメント

ビザ皇帝様

ひの新選組まつりですが、25日に自分の身辺でいろいろありまして、参加ができなくなるのではという事がありました。(去年と似た状況ですが去年より複雑、いや複雑すぎる状況です。)
でも安心して下さい。第12回ひの新選組まつりは参加の方向で準備をしています。

ただし別件で虫歯になってしまった親知らず(しかも埋没歯)を治療しないといけませんが。

投稿: 野島姓 | 2009年1月27日 (火) 04:50

<野島姓さん>
 こんばんは.今年のひのパレの案内もそろそろ出るころですね(例年のパターンでいけば5月9~10日でしょうか).
 いろいろとあるかとは思いますが,ぜひ参加して下さい.

投稿: ビザ皇帝 | 2009年1月27日 (火) 09:35

土曜日仕事から帰るとき東武日光線に乗りました
只見奥日光でのスキー帰りの人達がけっこう乗ってました
もし冬に彰義隊が上野の山でドンパチしたら雪で道がふさがれてる為東北に逃げられたか戊辰戦争ができたかなと日光線のクロスシートに足を投げ出し夢を見てました

投稿: Gustus | 2009年1月28日 (水) 01:47

ビザ皇帝様 お久しぶりでございます。
新撰組ネタ 興味深く読ませていただきました。
しばらく本から離れていましたが「新撰組顛末記」読んでみようかな。と、いう気になりました。

投稿: 琴 | 2009年1月28日 (水) 10:02

<Gustusさん>
 コメントありがとうございます.お仕事とはいえ,すごいところまで出かけられるんですね.
 北国での冬期間の軍事活動は,今以上に困難だったはずですね.
 実際会津戦争でも,仮に冬まで持ちこたえていれば,新政府軍は退却せざるを得なかったのではないかという意見もありますね(もちろん最終的には落城は避けられないでしょうが).

投稿: ビザ皇帝 | 2009年1月29日 (木) 05:21

<琴さん>
 お久しぶりです.
 今私たちが新撰組について知っていることのかなりの部分は永倉新八の証言によるところが大きいのですから,彼の功績は非常に大きいといえますね.
 新撰組顛末記,ぜひ読んでみてください(当事者の書いたものですから,自分の活躍についてはかなり派手に述べられています).

投稿: ビザ皇帝 | 2009年1月29日 (木) 07:26

日野市の観光協会さんに今日電話を掛けたところ、2月に入ってから募集要項がでると言われました。まだ決定ではないのですが、衣装持込は2500円だそうです。

あ、Y先生の血筋ですが、あんまり言わないで下さいね。ご心配おかけしました。

投稿: 野島姓 | 2009年1月29日 (木) 08:25

<野島姓さん>
 例年ひのパレの募集開始は2月に入ってからですね.今年もお会いできるのを楽しみにしています.

投稿: ビザ皇帝 | 2009年1月30日 (金) 01:46

少し経ってしまいましたが、ようやく『・・顛末記』読みました。
お言葉通り 自身の活躍ぶりがすごいですね。
ドラマや小説と違い、淡々と状況が書かれているのがかえって現実的で怖いです。
今更ですが、こういう血生臭い 墨色の時代が本当にこの日本にあったのだ と、改めて胸に迫って来ました。
その時があったから、今があるのですね・・。

投稿: 琴 | 2009年2月18日 (水) 10:26

<琴さん>
 こんばんは.ついにお読みになられましたか.
 この本は多少の脚色はあるでしょうが,当事者の生の声だけに凄味があると思います.
 おっしゃる通り,朴訥に淡々と描かれている方に却って迫力というか迫るものを感じるというものが時としてありますね(大岡昇平のレイテ戦記も,淡々とした事実の展開で,下手な反戦文学なんかよりよっぽど戦争の非情さを浮かび上がらせている作品です).
 幕末期はテロや暗殺が横行して今とは比べられないほど人の命が軽んじられていた時代です.
 この時代があるから今がある… そう思いたいですね(今テロが起きている地域にもいずれ平和が来ると信じたいです).

投稿: ビザ皇帝 | 2009年2月18日 (水) 15:13

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