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2009年1月31日 (土)

カップヌードルライト

 今月5日に発売されていた日清食品の新製品,カップヌードルライト.なかなか食する機会がないまま1ヶ月が経過しようとしていましたが,このたびようやく食べる機会がありました.

 P1290001

 パッケージは従来の日清カップヌードルに類似しています(カップヌードルを名乗っているのだから当然か).

 ではどこがどうライトなのか! これはそのカロリーの低さにあります.

 このカップヌードルライトは一食あたり198キロカロリーと,おにぎり1個分のカロリーに抑えられているんです.しかも従来の低カロリーヌードルは麺がこんにゃくを使用していたり,カップ麺としてはイマイチ異質な風味だったの対して,この商品は独自技術を使って,従来の食感のままの商品なんだそうです(脂質が少ないのが特徴です).

 そんなわけで,さっそく食べてみました.

P1290005 (写真) 完成図

 従来のカップヌードルに比べると軟らかいような気がしますが,たしかに味・風味は近いような気がします.また日清カップヌードルの定番であるエビ四角い肉綿みたいなタマゴもしっかり入っています.

 ちなみにお値段の方は,従来品とほぼ一緒です.

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2009年1月28日 (水)

ドラマ(BlogPet)

きょうアロイジアは土地っぽい対立した?
だけど、コンスタンチヌス21世はドラマ検討したかった。

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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2009年1月27日 (火)

Yahoo! ビデオキャストがサービス終了

 Yahoo Japan が提供している動画共有サービス”Yahoo! ビデオキャスト”が終了するようです.

 Yahoo! ビデオキャストサービス終了のお知らせ

 2月16日以降新規動画のアップロードができなくなり,4月5日以降は既存の動画もすべて削除されてしまうようです.

 過去にYahooブログを使って動画を運用しようとしていた経緯から,今このブログやホームページに貼り付けている動画の大半がYahoo! ビデオキャストを使ったものとなっています.

 削除される前にどっかに乗り換えなければいけません.

 …が,今回のサービス終了,妙にあわただしいような気が… そういえば最近Yahoo!プレミアム会員の会費値上げもあったようで,Yahoo大丈夫か? と余計な心配をしてしまいました.

 さて,どこに乗り換えるか,Yahooではニコニコ動画,zoomeを薦めてますが,ここはあえて逆らってYou Tubeや当ブログの運営元のniftyのビデオ共有にしようかとも考えています.

 いずれにせよ,あと2ヶ月で結論を出さなければならない.

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2009年1月26日 (月)

維新後の永倉新八

 本当~に,久しぶりの新選組ネタです.

 幕末の激動の京都で,会津藩の庇護の下,いわゆる尊攘派の浪士と死闘を繰り広げ,倒れ掛かる幕府の屋台骨を支えた剣客集団,それが新選組である.自らの命を賭して戦い続けた新選組の主要メンバーはその多くが幕末期に非業の死を遂げている.試みに,ひの新選組まつりの隊士コンテストで選出される12人の主要幹部についてみると

 局長     近藤 勇   慶応4年4月25日 板橋にて刑死

 副長     土方歳三  明治2年5月11日 函館にて戦死

 一番隊隊長 沖田総司  慶応4年5月30日 江戸にて病死

 四番隊隊長 松原忠司  慶応2年  切腹

 五番隊隊長 武田観柳斎 慶応3年  暗殺(?)

 六番隊隊長 井上源三郎 慶応4年1月5日 淀千両松の戦いにて戦死

 七番隊隊長 谷三十郎  慶応2年  暗殺(?)

 八番隊隊長 藤堂平助 慶応3年11月18日 油小路で戦死

 十番隊隊長 原田左之助 慶応4年5月 上野戦争で負傷し後死亡

 このように12人中9人までが幕末維新期に命を落としている.これ以外の幹部でも,総長の山南敬助が慶応元年2月に切腹し,参謀の伊東甲子太郎は慶応3年11月に暗殺されている.

 一方少数ながらも明治期を生き抜いた者もいた.九番隊隊長の鈴木三樹三郎(伊東甲子太郎の実弟)は伊東と共に慶応3年に御陵衛士に加わり,油小路の戦いを生き延びる.その後は薩摩藩の庇護のもと,倒幕派として活動し明治を迎えている.慶応3年12月の伏見での近藤勇襲撃事件にも参加しているし,その後は相楽総三の赤報隊にも加わり,二番隊隊長という重責を担っている.

 三番隊隊長の斉藤一は流山で近藤勇が捕われた後,新選組の残存部隊を率いて転戦し,会津戦争に参加した.しかし榎本艦隊と合流する土方らとは別れて,戦後も会津に残り,会津藩士として生涯を送っている(斗南にも行っており,今の青森県五戸町に住んでいたらしい HPの関連記事).維新後は警視庁に出仕し,西南戦争にも参加している(西南戦争では当初政府軍の主力は徴兵で集められた兵隊であり,鉄砲を撃つのは得意だったが,薩摩武士に切り込まれて肉弾戦になると,なすすべもなく崩れてしまった.このため,旧士族が集まっていた警察隊を戦地に送り,薩摩の切り込みに対抗したのである).

 そしてもう一人,維新後を生き延びた幹部隊士が今回のテーマ,新選組二番隊隊長の永倉新八である.

Hanyashiki(写真1) 地下鉄新御徒町駅近く,小島小学校付近に旧松前藩上屋敷があったそうです

 永倉新八は天保十年江戸詰めの松前藩士長倉勘治の次男として江戸の松前藩上屋敷で生まれた.名は栄治である.次男ではあったが,兄の秀松が新八3歳のときに亡くなったため,実質長男として育てられたらしい.8歳のときに江戸の岡田道場に入門し,神道無念流を学んだ.18歳の頃に脱藩して,同流の百合道場に移り,ここで終生の友となる市川卯八郎(後の芳賀宜道)と出会った.この時に実家に迷惑がかかることを恐れて,苗字を一字変えて永倉としたようである.その後心形刀流の坪内道場に師範代として招かれ,後に新選組で一緒になる島田魁と知り合ったらしい.

 脱藩後は武者修行と称して各地を歩いていたらしく,その途中で試衛館に出入りするようになったようだ.永倉の新選組顛末記によると,当時の試衛館は「武骨が過ぎて殺気みなぎるばかり」だったという.その気風が肌に合ったのか,いつしか食客として居つくようになった.文久3年の浪士組の一件を試衛館に持ち込んだのは永倉だと言われている.

 上洛し,新選組結成後は,副長助勤,二番隊隊長,撃剣師範などの要職を歴任し,常に幹部隊士として組の中枢にあった(永倉は沖田総司,斉藤一と並ぶ新選組を代表する剣客として知られる).特に沖田総司が体調を崩してからは,彼の一番隊の指揮も担当している.元治元年の池田屋事件をはじめ,油小路の戦い,鳥羽伏見の戦いなど新選組の修羅場のほとんどに参加しており,特に池田屋では近藤,沖田らとともに最初に乗り込んでいるし,鳥羽伏見では薩摩の洋式銃隊に対して切り込みを敢行し武功を挙げている.

 永倉は新選組結成時のメンバーでは試衛館派に属するが,初期の新選組の局長だった芹澤鴨とは同門(神道無念流)だったこともあり,近藤や土方らとは常に一線を画していたようである(文久3年9月の芹澤暗殺についても,彼は全く関知していなかったらしい).池田屋事件後,行動がやや尊大になってきた近藤に対して,原田左之助や島田魁らとともに,会津藩主松平容保宛に建白書を提出している.この時は容保のとりなしで大きな事件にはならなかったが,その後も微妙な影を落としたようである.ただ,永倉と近藤らは決して対立していたわけではない.後に伊東甲子太郎らが入隊し,独自の勢力を形成し始めると,永倉にも伊東から誘いがかかったが,結局彼は新選組に留まっているからである.思うに永倉という人物は,相手が誰であれ,間違っていると思うことははっきりと言うタイプの人間だったのだろう.彼自身は近藤・土方ら新選組の基本路線(勤皇・佐幕)には賛成だったと思われる(伊東は勤皇・反幕である).

 しかし,時代の流れは新選組にとって逆風となり,鳥羽伏見の戦い,その後の甲陽鎮撫隊の敗戦の後,近藤らと袂を分かつことになった.その後は旧友の市川卯八郎(芳賀宜道)らとともに靖共隊を結成し北に向かって転戦,米沢に至って雲井龍雄と交流している.しかし,明治元年9月の会津藩降伏によって芳賀とともに江戸に戻った.

 江戸に戻った後,しばらくは浅草の芳賀の家に潜伏していたが,明治2年1月に芳賀が義兄(妻の兄,藤野亦八郎)に殺されると,永倉も身を隠しきれないと感じ,松前藩に帰参を願い出て許された.この時永倉があっさりと帰参を許されたのは,長倉家が藩内でそれなりの地位を占める家柄だったからとも言われている(浅田次郎氏の壬生義士伝で有名になった南部藩の下級武士だった吉村貫一郎が鳥羽伏見の戦い後,大阪の南部藩邸に帰参を申し出ながら,許されず切腹になったのと対照的である).

 新選組顛末記によると,ある日両国橋を歩いていた永倉は,偶然にも鈴木三樹三郎と再会した.以下は顛末記からの引用である.

 一日永倉はおりからの休みをさいわいに気保養がてら市中を散策していると、ふと両国橋の上で新選組で前年暗殺した伊東甲子太郎の実弟鈴木三樹三郎に出会った。永倉はしまったとは思ったがいまさらひきかえすこともできぬ。両人のあいだはしだいにちかよって鈴木の眼には異様の光がかがやいた。そして、

 「やァしばらくでござったナ、貴公はただいまいずこにおられるか」と鈴木が聞くので、永倉は、

 「拙者は松前藩に帰参いたしてござる」

 「それではいずれまたお目にかかる機会もござろう」とすれちがったので、永倉も会釈してわかれた。

 しかし鈴木は兄伊東の仇敵として永倉をそのまま見逃すはずがない。ただちにひきかえして斬りつくるのではあるまいかと永倉がふりかえると、鈴木もふりかえってじっと見ている。永倉はさてこそとかくごして袴の股立をとりしたくをして待っていたが鈴木はとてもかまわぬと思ったか、そのまま黙っていってしまう。それから数日たつとはたして鈴木の一味が永倉をつけまわし、門外一歩をふみだそうものなら、たちまち手をくだす気勢をしめした。

 途中の,「しまったと思った」というくだりからは,永倉といえども,戊辰戦争後の追われる身としての心の不安が感じられる.結局この事件とその後明治3年12月に盟友雲井龍雄が処刑されたことによって,江戸に留まることの危険を感じた永倉は,藩の勧めもあり地元松前の藩医である杉村松柏の養子に入ることになって江戸を去った(明治4年1月).この時から杉村治備(後に義衛)から名乗ることになった(ただし本稿では混乱を避けるため以後も永倉新八で統一する).

 松前に移ってからの永倉は当地で藩の軍役についたりしていたが,間もなく廃藩置県となり多くの藩士が松前を去っていった.永倉も家族とともに明治6年に小樽に転居している.

 当時の小樽はニシン漁で栄え,北海道随一の賑やかな街だったらしい.ここで養父の杉村松柏は本業である医業を始めた.しかしそれも永くは続かず,翌明治7年8月に松柏はこの地で亡くなってしまう.永倉は藩医杉村家の養子とはいえ,医業の知識があったわけではないから家業を継ぐわけにはいかない.結局彼が選んだのは家族とともに東京に戻ることであった.彼の東京在住は明治8年から15年までである.この間各地で剣術の指南などをやって暮らしていたといわれるが,特筆すべきは現JR板橋駅東口に建つ新選組顕彰碑の建立である.

P1250011 (写真2) JR板橋駅前に建つ顕彰碑

 戊辰戦争期に朝敵の汚名を着せられた新撰組であるが,次第名誉回復の動きが出てきた.その流れの中で永倉は医師の松本良順(明治後は松本順と改名)や多摩の近藤・土方の縁者,生き残った他の新撰組隊士らとともに奔走し,明治9年顕彰碑の建立に至ったのである.

 その後明治15年になり,永倉は再び北海道に渡った.行先は開拓使庁の置かれた札幌からさらに石狩川の上流にある樺戸集治監である.樺戸集治監は監獄機能に加えて,囚人を使っての開墾や道路建設などの土木事業などを行わせるための施設である.背景として廃藩置県後頻発した旧士族の反乱(佐賀の乱,萩の乱など)や高まる反政府運動などで政治犯が激増し治安が悪化していたことがある.前年明治14年に初代典獄(刑務所長のようなもの)の月形潔のもとで開設されていた.

P9160135 (写真3) 永倉が剣術を指導した樺戸集治監は今博物館になっている

 ただこの集治監には腕の立つ囚人も多く,万一暴動などが発生した場合に応援を呼ぶすべもない土地柄であり,看守に対する剣術指南の重要性が考えられていた.このため永倉に白羽の矢が立ったものらしい.当時この集治監のあった場所はまさに辺境であり,彼も家族は小樽に残しての単身赴任であった.ここで明治19年まで剣術師範の職にあったようである.

 実は私の好きな大河ドラマ「獅子の時代」にこの樺戸集治監が登場する.主人公で元会津藩士の平沼銑次(演じるは菅原文太)が大久保利通暗殺の罪を着せられ,ここに収監されるのである.ただドラマでは銑次が樺戸にやってきたのは明治14年で翌15年の春には脱獄しているので,残念ながら銑次と永倉の接点はないのであった.

P9150024 (写真4) 永倉が晩年をすごした地にはこのように碑が建っている(現小樽市役所付近)

 それはさておき,永倉を樺戸に招いた月形が明治18年に職を辞すと,永倉も翌明治19年に樺戸を去った.その後三度東京に戻り道場などを開いていたといわれるが,明治32年に小樽に引っ越し,以後死ぬまでその地にとどまった.

 この晩年の小樽時代のエピソードとして,小樽の映画館から孫とともに出てきたところ地元のヤクザに絡まれたものの,彼が睨むと相手はその眼光で圧倒されて退散した話や,老境の永倉が北海道帝大の撃剣部の学生に教えを請われ,引き受けて札幌に出向き,一通り型を披露したものの,激しく動きすぎて卒倒してしまい帰りは馬車に乗せられて小樽に帰った話が知られている.

P9150043 (写真5) 小樽市郊外にある永倉新八(杉村義衛)の墓所

 大正2年からは地元の小樽新聞に「永倉新八」のタイトルで新撰組時代の話を連載している.これをまとめたものが今日「新撰組顛末記」と呼ばれる書籍であり,新撰組研究の貴重な資料となっているものである.またこの小樽時代に近藤勇の娘といわれる山田音羽の訪問を受けている.

Img360 (写真6) 永倉の話を基にした新撰組の資料

 このように幕末維新期を生き抜いた永倉新八であったが,大正4年1月5日に小樽で亡くなった.伝えられるところによると口腔内感染からの敗血症だったとされる.

 永倉新八は幕末の最終段階で近藤・土方らと袂を分かったものの,後年は新撰組の復権に努力するなど,今日我々が新撰組について知っている多くのことを教えてくれたのである.

 注) 今回の記事は2007年秋の北海道旅行で訪問したネタを中心に構成しています(やっと完成した 感).

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2009年1月25日 (日)

新宿にて

 本日所用があって新宿へ.

 通りを歩いていたら,見るからに中東系っぽい青年がティッシュを配っていた.私も差し出されたのでありがたくいただいた.

 するとその光景を見ていた(らしい)若い女性がつかつかとやってきて,「自分にもくれ」というようなことを言った.

 そしたら件の青年,なにやら困惑したような表情で戸惑っていた(どうやら日本語は話せないらしい).女性の方は急いでいたのが,「くれないならもういい」と言わんばかりにイライラしたように立ち去った.ティッシュくらいあげてもいいのにと思ったのだが,配られたティッシュを見て納得した.

 それは風俗店の宣伝ティッシュだったのだ.

 おそらくはこのアルバイトの青年,店主から「成人男性にだけ配るように!」ときつく言われていたのではないか,それなのに急に想定外の若い女性に話しかけられて困惑したのではないか.

 店側としてもお客にならない女性にただでティッシュをあげるほど経営が楽でもないのだろう.

 さすが,大歓楽街を抱える新宿だと感心した.

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2009年1月24日 (土)

女優への目覚めか

 我が家に住み着いているチンチラナンネル(♀ アロイジアというウワサあり).

Nannel (写真) 我が家のチンチラ

 相も変わらずわがままぶりが凄いのだが,先日ケージから出て部屋の中を走り回っていたのはいいが,不意に動きが鈍くなりウチのKをあわてさせた.

 どこか怪我をしたんじゃないかと心配だったため,ケージに戻しておやつなんかを与えながら様子を見ることにした(食欲は旺盛).

 翌朝には何事もなかったかのように活発に活動してたのだが,調べてみるとチンチラには急な環境の変化で固まってしまう習性があるらしい.今回外に出したのが久しぶりだったのでもしかしたらそうなのかもしれない.

 しか~し,もしかしたらこれは,弱ったそぶりを見せておやつをねだる作戦だったのではと思ってしまった(最近メタボ対策でおやつの量が減ってたからな).演技派としての一面を見せ始めたのかもしれない(笑).

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2009年1月22日 (木)

カレーの日

 今日1月22日はカレーの日なんだそうだ.

 実際に日本で初めてカレーが供された由緒ある日なのか? はたまたホワイトデーのような業界の陰謀なのか? と思っていたらどちらでもないらしい.

 なんでも全国学校栄養士協議会という団体が,1982年(昭和57年)の1月22日に全国の小中学校で一斉にカレー給食を出そうと計画したことが始まりなんだそうである(1月22日今日は何の日~毎日が記念日~).

 由来はわかったのだが,それにしてもなぜカレーだったのか(人気があるからか).考えてみれば自分が小学校の頃の給食って,コッペパンとジャム(or マーガリン),汁物,牛乳,デザートのワンパターンで,給食にカレーライスなんて夢のまた夢だった.

 カレーライスといえば,自分が小学校低学年ごろまではライスカレーという言い方をしていたような気がする.それが気づいたらいつのまにかカレーライスに変わっていたような…

 カレーライスとライスカレーはどう違うのか? 昔はレストランで供されるようなルーとライスが別々になったのがカレーライス,大衆食堂のようにライスにカレーがかかったのがライスカレーかと勝手に思っていたのだが,最近の様子をみるとどうも違うらしい.

 カレーライスとライスカレー,順番が逆なだけじゃないかといってはいけない.例えば生物の世界ではネズミカンガルーカンガルーネズミは全く別の生き物なのである(ネズミカンガルーはネズミのような小さなカンガルーのこと,一方のカンガルーネズミはカンガルーのように飛び跳ねるネズミのことである).

 と思って調べたら,S&B食品のHPに何やら記載が

 ライスカレーとカレーライス

 結論はよくわからないということのようである.

 ついでに,ライスとご飯(ゴハン)と飯(メシ)の違いとは?

 ライス= 皿に盛ったもの

 ご飯 = 茶碗に盛ったもの

 飯  = どんぶりに盛ったもの  と私は勝手に解釈しています.

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2009年1月21日 (水)

日本100名城スタンプラリー41

 日本100名城 郡山城(72番)

 私のような東北の人間にとって,郡山といえば福島県なんですが(福島県郡山市),今回のテーマは福島ではありません.広島県の内陸部,中国山地に入ったところにある吉田郡山城です(郡山城という名前の城は奈良県に大和郡山城もありこちらも有名です).

Kooriyama5 (写真1) この山全体が郡山城です

 ここは歴史的には戦国大名毛利氏の居城として知られています.毛利氏は鎌倉幕府の重臣だった大江弘元の流れをくむ一族で,室町時代になってから安芸に入り,以後この地の国人領主となっていました.16世紀の半ば毛利元就の時代に大きく発展し,元就の死後輝元の時代に広島に移りましたが,それまでの200年以上にわたってこの郡山城を本拠にしていました.

Kooriyama3 (写真2) 毛利元就の墓所もここにあります

 中国山地の山間,吉田盆地に位置するこの城は,郡山という標高約400メートルの山全体が城郭という典型的な中世城郭です.その堅固ぶりは,天文九年(1540年)に尼子晴久の大軍に包囲されながらも半年間の籠城戦に耐え抜いたことでも知られています.山頂に本丸が置かれ,一段下がって二の丸,さらに下がって三の丸という構造になっています.

Kooriyama4_2 Kooriyama1

(写真左) 二の丸から本丸方面を見上げた構図,(同右) 郡山城本丸

 毛利氏が広島に移ると廃城となり,さらに江戸時代に再び破却されたため,現在では当時の様子をしのぶことは難しいですが,訪れてみると山全体が城郭という大きなスケールを感じることができます.

 私が訪問した10月5日はあいにくの秋雨で,ぬかるんだ山道を歩くのは結構骨が折れました.

Kooriyama2  郡山城案内図

 郡山城へのアクセス: 広島バスセンターから広島電鉄バス上根・吉田線で1時間30分,安芸高田市役所前下車(960円 時刻表),そこから徒歩10分ほどで城の昇り口です.

 スタンプの設置場所 歴史民俗資料館受付にあります.

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 山全体が城郭であるため,かなり歩かなければ様子がわかりません.

72kooriyamajo 登城日 2008年10月5日

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2009年1月20日 (火)

日本の珍名駅10 ”おまえだ”

 珍名駅シリーズの新作です.

 今回のテーマは埼玉県西部にある秩父鉄道おまえだ(小前田)駅,のっけからミステリータッチな駅である.「犯人はおまえだ!」みたいな感じで.もし仮に逃走中の指名手配犯がこの駅に迷い込んだら,ドキッとしてうろたえて挙動不審になり,犯人だとばれちゃうんじゃないだろうか.

 それはともかく,このおまえだ駅は埼玉県西部の深谷市にある.秩父鉄道は羽生市の羽生駅から西に向かい,熊谷駅・寄居駅を経て,秩父市の三峰口駅に至る路線である.おまえだ駅は熊谷より西,日本100名城にも選定されており,戦国大名北條氏ともゆかりの深い鉢形城がある寄居町の東に位置している.

 今回はJR高崎線で熊谷に行き,そこから秩父鉄道に乗り換えた.車内にはこれから秩父観光に向かうらしい年配のグループ客が大勢乗っていた.各駅停車の電車は西に進み,さあいよいよ待ちに待った放送が聞こえてきた.

 

  

ここをクリックすると,おまえだ(小前田)駅到着直前の車内放送が聞けます(録音状態がちょっと悪いです).

 「まもなく,おまえだおまえだです.降り口は左側です.」

 次はおまえだと,授業で先生に当てられる生徒の気分になった.

Omaeda2 (写真1) おまえだ駅のプレートです

 東京・埼玉両県は東半分が都市部,西半分が田園地帯といった趣だが,埼玉西部にあるここおまえだ駅周辺ものどかな風景が広がっていた.

Omaeda3 (写真2) おまえだ駅ホームからの風景です.

Omaeda4 (写真3) 定番のたてプレートです

Omaeda1 (写真4) おまえだ駅前です

 注: まだ少し取材が足りないので,補足取材後HPの方にアップします.

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2009年1月19日 (月)

トンブクトゥが…

 アフリカ西部,現マリ共和国の中央部にトンブクトゥという町があります.サハラ砂漠の最南部,ニジェール川の北にある小さな町です.

 今は砂にまみれた寂しい町ですが,中世のマリ王国・ソンガイ王国時代にはサハラ経由での北アフリカと中央アフリカの交易拠点として繁栄を謳歌した都市でした.14世紀にマリ王マンサ・ムーサがメッカに巡礼した際に,莫大な黄金を惜しげもなく喜捨したため,当地の金の相場が大暴落したという伝説は有名です.中世の旅行家イブン・バツータレオ・アフリカヌスがこの街の繁栄ぶりを紹介したことから,ヨーロッパでも黄金の都トンブクトゥとして多くの人々の憧れの地となりました.

 しかし16世紀以降,ヨーロッパ人によってサハラを介さない海路での交易が盛んになるとこの街の繁栄も終わりを告げ,さらにはモロッコ軍の侵略による荒廃も重なり,19世紀にヨーロッパ人として初めてこの地に足を踏み入れたルネ・カイエの時代には,砂漠化した泥の街に過ぎなくなっていたそうです.

 そんなトンブクトゥ,珍しもの好きの私の琴線を大いに刺激する憧れの地なのでした.毎年行きたいと思いつつ行けないでいます.今年の抱負にも書いたように,今年こそ行きたいな~と思っていたんですが…

 先日BSでやっている海外安全情報という番組を見ていたら,

 なんと! トンブクトゥ-付近の危険情報が引き上げられたとのことでした.

 海外安全ホームページ マリ

 外務省の海外安全情報では,その国・地域を訪問する際の危険度をランク付け5段階で表わしています.簡単にいえば

 1.表記なし: 

  海外に来ているという基本的な注意を守ればまあ大丈夫でしょう.

 2.十分注意してください: 

  結構ヤバいところもあるので,それなりに注意してください.

 3.渡航の是非を検討してください: 

  危険,絶対行くなとは言わないが,できればやめといた方がいい.行くならそれなりの準備を.

 4.渡航の延期をお勧めします: 

  相当に危険,行くのはよしましょう.命にかかわる可能性があります.

 5.退避を勧告します,渡航は延期して下さい: 

  激しく危険,今いる人はすぐに避難を.行くなんて問題外,行ったら死にます.

 となっています.ちなみにフランスやドイツなどの先進国はおおむね1,昨年・一昨年私が行ったナミビア・マダガスカルは2に該当します.ちなみにソマリアやアフガニスタンは5です.これがどんなに凄いことかは,今現に戦争が起こっているガザ地区ですら4だという事実が如実に物語っています.

 さて,これまでマリはほぼ全土が2,一部3だったんですが,今回トンブクトゥを含む一帯が3に引き上げられたそうです.トンブクトゥの町自体は2のままのようですが,周辺が引き上げられたことから訪問に黄色信号が灯ってしまいました.

 さらには最近発表されたルックJTBの地球の詩シリーズのアフリカ編最新版からトンブクトゥが消えてしまいました(地球の詩アフリカ 泣).やっぱりマニアックすぎて,商売が成り立たなかったんでしょうか.他の旅行会社がどう出るのか気になります.

 私はトンブクトゥに行けるのか?

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2009年1月16日 (金)

吊り広告

 今日電車に乗っていたらこんな広告を見つけた.

200901160812000

 和光大学の広告らしいのだが,そのキャッチコピーに感心した.

 たしかに電車内にぶら下がっている週刊誌の広告は,やたらおどろおどろしい文面で目を引く.曰く,「一億総失業の時代がやってくる」,「2009年秋巨大連鎖倒産の可能性」とか,「鳥インフルエンザ大流行で百万人が死亡する恐怖のシナリオ」などなど.政治や社会的な話題のみならず,スポーツ関係でも「○○が優勝できないこれだけの理由」とか,「チーム内粉で孤立する▲▲」などなどである.

 たしかに朝からこんなフレーズに囲まれていたら,「本当に世界は終わってしまうのか」と不安に駆られる人が現れても不思議はない.とはいえ,後から振り返ってこれら週刊誌の見出しが現実のものになったケースはほとんど聞いたことがない.私もたまにこれら週刊誌を買って読むこともあるのだが,大体記事の内容は「~と言われている」,「~だという」といったかんじの伝聞,推定のオンパレードである.とてもしっかりウラを取って記事にしているとは思えないのであった.まるで一昔前にはやった,○○の大予言ネタのように.

 大体こういう雑誌の読者はサラリーマンが多いから,こういう記事を読んで,「オレはまだ恵まれた方じゃないか」とわが身を慰めるのかもしれない.

 結論: 週刊誌の見出しと大予言は決して当たらない(笑).

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2009年1月14日 (水)

日本100名城スタンプラリー40

 日本100名城 岩国城(74番)

 山口県岩国市は瀬戸内の工業都市であり,また基地の街としても知られています.室町時代には大内氏,戦国時代には毛利氏の勢力圏となっていました.関ヶ原の戦いの後,中国地方を治める大大名だった毛利氏は周防・長門2カ国に減封され,岩国の地は毛利氏一族の吉川広家の治める土地となりました.ただ毛利本家は吉川家を支藩とは認めなかったため,江戸時代を通じてこの地は長州藩の一部と扱われました(岩国領と呼ばれた).

Iwakuni1 (写真1) 岩国を代表する景色,錦帯橋と岩国城です.

 そんな岩国の地にある岩国城は関が原の戦いの後,築城が始まり慶長十三年(1608年)に完成しています.錦川の南,横山の山頂に天守が,山麓に政庁となる館が作られました.しかし元和元年(1615年)に幕府から出された一国一城令によって破却されてしまいました(長州藩は周防・長門の二カ国だから岩国城を破却する必要はなかったとも言われる).結局岩国城が存在したのはわずか8年間ということになります.

Iwakuni2 (写真2) 横山にそびえる復興天守

 江戸時代から各種産業が盛んで,毛利本家より豊かだったともいわれる岩国でしたが,明治維新の廃藩置県後は山口県に編入され今日に至っています.かつての岩国城跡には現在天守閣が再建され,麓の錦帯橋とともに当地を代表する観光名所として多くの観光客を集めています.

Iwakuni4(写真3) かつての政庁があった場所に立つ錦雲閣

 岩国といえば錦川から眺めた錦帯橋と天守のイメージが強烈ですが,錦帯橋ができたのは17世紀後半でこのときすでに岩国城は廃城となっていましたから,当時はこのような光景は見られなかったはずです.また岩国城の天守自体も本来は今よりも後方(錦帯橋の反対側)に位置していたことがわかっています(現在の場所に再建されたのは,純粋に景観を優先したためらしい).

Iwakuni3 Iwakuni5 (写真左) 本来天守が建っていた天守台,(同右) 岩国のもう一つの名物(?)白蛇です.

岩国城へのアクセス: JR岩国駅からバスで15分程度(15分おきくらいで運行),新幹線の新岩国駅からは約10分です.広島市のバスセンターから高速バスで直接来ることもできます(約1時間). 

 スタンプの設置場所 天守閣1階にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ロープウェイを使って楽に城郭へ登ることができます.

74iwakunijo 登城日 2008年10月5日

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携帯しなかったよ(BlogPet)

きのうアロイジアが、携帯しなかったよ。
それでコンスタンチヌス21世はコンスタンチヌス21世と開始した。

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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2009年1月13日 (火)

四国遠征の成果

 この三連休,四国遠征に行ってまいりました.純粋に100名城に特化した遠征のため,いわゆる名所・名物とは全く無縁の旅行となってしまいました(笑).

 四国には100名城に選定された城郭が9か所あり,これを3日で回るわけですから,1日3か所ということになります.1か所につき最低2時間,できれば3時間は欲しいため,まさに夜明けから日没まで活動することになります.特にスタンプの置いてある場所(お城の天守だったり博物館だったりしますが)は9時~17時の営業の場合が多く注意が必要です.このため,実際の行動は,早朝まずは城郭を探索し9時の開館と同時に入場してスタンプを押し,その日の最後は逆に初めにスタンプを押してから城郭を探索して日没というパターンになります.

 そんなわけで今回は

 1月9日夜 飛行機で高知入り宿泊

 1月10日 早朝に高知城(7:00~10:00),徳島に移動(2時間半)して徳島城(12:30~14:30),高松に移動(1時間)して高松城(15:30~18:00)その後讃岐うどんを食べて丸亀に移動(30分)して宿泊

 1月11日 早朝に丸亀城(7:00~10:00),今治に移動(1時間半)して今治城(11:30~14:00),松山に移動(30分)して松山城(14:30~17:30),宿泊

 1月12日 早朝に湯築城(7:00~10:00),大洲に移動(40分)して大洲城(10:50~13:00),宇和島に移動(40分)して宇和島城(13:50~16:30),その後松山にとんぼ返りして最終の飛行機で帰宅

 という日程でした.

Kouchi Tokushima_2 Takamatsu_2 Marugame Imabari Matsuyama Yuzuki Ozu Uwajima (写真上) 左から高知城,徳島城,高松城

(写真中) 左から丸亀城,今治城,松山城

(写真下) 左から湯築城,大洲城,宇和島城

 充実した3日間でした.途中の町で発見したお店の看板がこれです.クラブ「チャイナ」だそうです(ローマ字表記というのも初めて見た 笑).

Chaina (写真) クラブCHAINAだそうです.

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2009年1月11日 (日)

讃岐うどん

 ビザンチン皇帝の四国遠征,1月10日の朝から

 高知→徳島→高松→丸亀→今治→松山

と流れてきました.ほぼ城散策・移動のみで終わってしまうため,高知では坂本龍馬関連の史跡はすべて無視,カツオ・クジラも無視,徳島では徳島ラーメンを無視,松山でも道後温泉・坂の上の雲・坊ちゃん関連もすべて無視と一体何しに来てるんだ状態です.

 お天気が心配された連休ですが,雨雲の方はブログ仲間のまーうささんがすべて引き受けてくれたらしく(ごめんなさい),当地は大体良いお天気です.ただ気温は意外に低く,風が吹くと結構寒く感じます(とはいえ,盛岡に比べると寒いうちには入りませんが).そんなわけで,冷えた体にピッタリの讃岐うどんだけは賞味することにしました.

P1100122 (写真1) 釜揚げうどんのわら家さんです.

 今回訪問したのは,高松郊外にある釜揚げうどんの店わら家に出向きました.寒い日には生姜がばっちり効いた釜揚げうどんが最高です.

P1100124 P1100125

(写真左) うどんが出てくるまで,薬味の生姜を自分でおろします.(同右) 釜揚げうどん,大盛りになるとタライに入って出てきます.

 予定では明日愛媛県の大洲,宇和島の2城を攻略して,晴れて四国9城制覇となります(あさってから仕事というのが辛いなぁ).

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2009年1月 9日 (金)

遠征!

 お正月休みも終わって,さあいよいよ観光シーズンの始まりである(なんのこっちゃ).

 今年は元旦から働いていた関係もあり,この週末三連休は2009年ビザンチン皇帝最初の遠征です.

 行先は,オーストラリア! じゃなくて四国です(形が似ているだけじゃないか).

 今回は100名城に特化した遠征になる予定です.四国には100名城に選出された城郭が9か所あるんですが,今回は3日間で9か所を一気に制覇する予定です.1日3か所ですからかなりハードな行程になりそうですが,幸い四国の100名城は交通の便が良いところが多いのと,過去に登城した高知城・松山城・宇和島城は簡潔に済ますことでなんとか頑張りたいと思います.

 せっかく高知に行くのに,坂本龍馬関係の史跡に全く行かないという初めての旅行になりそうです(笑).

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2009年1月 8日 (木)

上高地の駐車場

 先日掃除をしていたら懐かしいものが出てきた.

Img356 (写真1) 上高地駐車場の整理券.1987年9月28日というのが時代を感じさせます

 実はこれ,上高地にある駐車場の整理券なんです.

 整理券なんて珍しくも何ともないじゃないか,と思う向きはちょっと甘い.今では絶対に手に入れられないものだからです.

 上高地は日本を代表する山岳リゾート地として知られています(ミシュランの旅行ガイドで二つ星らしい).ここは北アルプスの山中に,まるでそこだけが別世界のように広がる平野です(標高1500メートルの高地にこれだけの平野が広がるのは日本では珍しいんだそうです).

 江戸時代には地元の人が薪の伐採に入る程度でしたが,明治になってイギリス人のゴーラントやウエストンがここを日本アルプスと紹介し,山岳リゾートとしての上高地の歴史が始まります.

 昭和初期には上高地への自動車道である釜トンネルも開通し,帝国ホテルの営業もはじまりました.

Kamikochi1 (写真2) 大正池から見える穂高(1987年秋)

 第二次大戦後,国民の生活が豊かになるとこの地を訪れる人も増えていきます.さらに高度成長期を迎えてマイカーが普及すると,元々交通不便のこの地に多数の自家用車が殺到することになったのです.元々昭和初期に造られた釜トンネルは急カーブ,急勾配,幅が非常に狭いトンネルだったため(通行に当たっては必ずローギアで走行することにされていた),対向車とのすれ違いは不可能で,常に青数分赤十数分という片側交互通行が行われていました.このためいつも渋滞が途切れない有様でした.しかも狭い上高地に多数の自動車が入り込んだため,駐車場に収まりきれない車による狭い道路上への違法駐車も後を絶たず,これが渋滞にハ拍車をかけるという悪循環でした.

 また大量の自動車が出す排ガスの環境への悪影響(上高地は標高が高く山に囲まれているため,いったん排ガスが溜まるとなかなか浄化されにくい懸念もあった.メキシコシティのようなものですね)も懸念されました.このため昭和50年頃から土日,祝祭日のマイカー規制が始まり,徐々に強化されていったのです.そして平成に入るとマイカーは通年禁止となり,さらに最近では観光バスの乗り入れも規制され始めています(入れるのは路線バスとタクシーのみ).

Kamikochi2 (写真3) 大正池にて.左が今から20年前の私(笑).

 この整理券は,秋の平日にはマイカーでの乗り入れが許されていた1987年に友人と出かけた際のものです(ちょうど試験明けの休みだった).秋の平日ということで,混雑もそれほどではなく,静かな上高地を探索した思い出があります.

 最近は新しいトンネル(新釜トンネル)も開通したらしい上高地,また行ってみたいなと思ったのでした.

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2009年1月 7日 (水)

明知鉄道

 先週末お正月休みの最後に冬の青春18きっぷを使って東海地方の未制覇だった城郭,岩村城に行ってきた.

 とはいってもこの城,JRだけでは登城できず,中央線の恵那駅から明知鉄道というローカル鉄道に乗り換えて行かなければならない.この明知鉄道が非常にいい味を出している路線なのである.

P1030001 (写真1) 明知鉄道の汽車.当然非電化の気動車です.

 まず第一に切符である.なんと!硬券なのである.硬券とはその名の通り厚紙でできた硬い切符である.今では全国ほとんどの鉄道が自動券売機から出てくるフニャフニャの軟券なのに対して,この明知鉄道では今でも駅に券売機を置かず,切符は窓口で駅員さんから購入するスタイルを守っているのである.

P1030002 (写真2) 昔懐かしの往復切符,今もあるとは思いませんでした.

 今回恵那駅から岩村駅まで往復で切符を買ったのだが,これがまた私の世代には涙が出てくるくらい懐かしい往復切符であった.これは1枚の切符を半分にちぎって使うようになっているスタイルである.ただ,そのままではちぎるのが大変なので,駅員さんが鋏を入れてくれるのである.

P1070155(写真3) 極楽行きの切符

 そしてまた,駅名にも楽しいものがある.今回の目的地岩村駅のひとつ前の駅が,なんと極楽駅なのである.当然ここを目的地とした切符を購入すれば,それは極楽行きということになり,なんだかめでたいのかめでたくないのかよくわからない切符なのであった.

P1030003 (写真4) 極楽駅のプレートです.

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2009年1月 5日 (月)

日本100名城スタンプラリー39

 日本100名城 津和野城(66番)

 島根県の西の端,中国山地の盆地に位置する津和野は,全国各地にある”小京都”と呼ばれる街の代表的存在です.この地が観光地として有名になったのは,1970年代のいわゆる”アンノン族”と呼ばれた,当時20代だった女性の個人旅行客が大挙して訪れた頃からです.

Tsuwano7 (写真1) 津和野は鯉がよく似合う街です

 とはいえ津和野自体はそれ以前から存在していて,その歴史は鎌倉時代に遡ります.二度目の元寇(弘安の役)の直後,日本海の沿岸警備の目的で派遣された吉見氏によってこの地に城が築かれました.

Tsuwano6 (写真2) しっとりとした津和野の街並み

 以来津和野の地は吉見氏の支配するところとなりました.戦国時代になると吉見氏は当初は中国地方で大きな勢力を誇った大内氏の,ついでそれに取って代わった毛利氏の支配下に入りました.しかし関が原の戦いの結果,毛利氏が萩に移るとともにこの地を去り,以後は徳川幕府によって坂崎氏,元和年間には亀井氏が封じられ津和野藩として江戸時代を送ることになります.

Tsuwano3 (写真3) 本丸の石垣です 

 津和野城は津和野盆地の南西部の山に築かれた山城です.江戸時代はじめ坂崎氏の時代に出丸や天守が作られましたが,貞享三年(1686年)落雷で消失,以後再建されることはありませんでした.藩庁も太平の時代には山上ではなく山麓に置かれていたようです.

Tsuwano5 (写真4) 山の中に多くの石垣が遺されており,まさに荒城といった趣です

 明治維新後廃城となりましたが,その間には長崎から送られてきた153人の隠れキリシタンの悲劇などのエピソードでも知られています.

 現在は先述のように山陰の小京都として,多くの観光客でにぎわっています.津和野城へは津和野駅前からレンタサイクル,ロープウェイを利用しての登城が便利です.

 津和野城下を走るSL山口号です(手振れがひどくて申し訳ございません).

 津和野城へのアクセス: JR津和野駅からレンタサイクルがお勧めです(荷物も預けられます).レンタサイクルで10分ほどでロープウェイ乗り場へ,そこから5分で城郭です.

 スタンプの設置場所 ロープウェイの券売所にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ロープウェイを使って楽に城郭へ登ることができます.

66tsuwanojo 登城日 2008年10月4日

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2009年1月 4日 (日)

今年の抱負

 お正月休みもおしまい,明日からはまたまた日常業務が始まる.

 そんなわけで,今年の抱負を考えてみました(もちろん本業以外).思いつくままに書くので必ずしも優先度の高い順というわけではありません.

 1.日本100名城スタンプラリー制覇

 昨年の5月に開始した日本100名城スタンプラリー,今日現在52城が終了しています.なんとか今年中に完了ともくろんでいるんですが,近場は行き尽してしまい,残るのは九州・四国・沖縄など遠隔地ばかりです.どうにかやりくりしてできたらと考えています.

 2.廃止前に寝台特急はやぶさに乗る

 今年3月のダイヤ改正で,東京発のブルートレイン最後の生き残り,はやぶさ富士が廃止されます.風情は抜群ですが,車両の老朽化も激しく近年は空席が目立っていたそうなので仕方がないのかもしれません.なんとか廃止前に一度乗りに行きたいです(最後に乗ったのは4年前だなぁ).

 3.リリングのロ短調ミサに参加

 これは厳密に言えば今年ではないんですが,2010年1月にヘルムート・リリングが来日し,なんと私も参加している盛岡の合唱団を指揮していただくという企画があるんです.キャー,これを逃したら一生後悔する.というわけで,極力練習&合宿に参加せねばと決意しています(盛岡に行く頻度が増えそうだ).

 4.黄金の都トゥンブクツー訪問

 これも昔から行ってみたかったところです.しかしなかなか企画が成立しにくいところなので…

 5.本土四端制覇

 昨年は本州四端を制覇したんですが,今年はスケールアップして本土四端に挑戦してみたいです.最北と最東は訪問済みなので残るは最南と最西です.どちらも沖縄なので100名城とセットで行ければ可能か?

 6.境港妖怪検定中級に再チャレンジ

 昨年見事に砕け散った妖怪検定中級,今年はしっかり勉強して合格を目指したいと思います.

 7.ひの新選組まつり参加

 最近すっかり恒例となったひのパレ,今年もぜひとも参加をもくろんでいます(性懲りもなくコンテストから参加か?).

 8.扮装写真に挑戦

 また何か扮装写真に挑戦してみたいです.今候補に挙がっているのは「スフィンクスと侍」(実際に元治元年に幕府の遣欧使節団が撮った写真がある),一人日本海海戦(あの有名な絵を一人でやるという企画),一人最後の晩餐(あの有名な絵を 以下同文)などです.

 9.ホームページの旅行記を完成させる

 現実的な話題,すっかり滞っているホームページ本編の記事をさっさと更新したいです(緊急度高し 笑).

 10.オペラ鑑賞

 毎年何回か出かけているオペラ鑑賞,今年も何かに行ってみたいです.

 というわけで,このうちいくつ実現するのか乞うご期待(笑).

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2009年1月 2日 (金)

活動開始

 元旦の日当直明けの2009年1月2日,いよいよ今年の活動開始である.

 まずはせっかくこっちに来たのだからと,お正月の名物イベント東京箱根間往復大学駅伝競走(通称 箱根駅伝)を沿道見物することにした.

 自分のいる小田原はちょうど4区から5区への中継所があるため,その近辺で声援を送ろうと考えた.ラジオで中継を聴きながら(恐ろしいことに我が家にはBSアンテナはあるものの,普通のテレビアンテナがないため地上波放送が見られないのだった 笑),ちょうどランナーが4区の二宮町に差し掛かったあたりで家を出た.

 天気は快晴,風もほとんどなく,気温も10℃くらいと極めて快適な気候である.散歩がてら国道1号線を歩いていると,すでに沿道にはたくさんの見物客が来ていた.中には一眼レフの本格的なカメラを構えている人もいる.あちこちに読売新聞の販売員らしき人が立っていて,観客に小旗(読売新聞と報知新聞のもの)を配っていた.

Hakone1 (写真1) まだ交通規制が始まる前の1号線.すでに観客の姿と大学の幟が立ちはじめています.

 4区から5区への中継所は小田原城にほど近い,メガネスーパー本社前の道路上であるが,すでに大勢の観客でごった返していたので,そこより200mくらい箱根よりの交差点に陣取って選手がやってくるのを待つことにした.あたりでは他の観客が携帯の画面でレースの様子を見ながら今年は○×大学は調子が悪いとか,▲□大の誰それがいいとか話している.車道には警官や大会係員が立っていて,観客が車道にはみ出ないよう注意していた.

 そして,先導のパトカーの後から選手が走ってきた.

 走るとは言っても,我々ド素人とは比べようもないものすごいスピードで走ってくる(時速20Kmくらい出ているそうだ).それこそあっという間に我々の目の前を通り過ぎていった.

Hakone2 (写真2) 我々の前を走り去るランナー.ちなみに後方を走っている東洋大学の彼が,この後驚異的な走りを披露し見事逆転優勝の立役者になったのでした(もちろんそれを知ったのは帰宅後 笑).

 テレビで見ていると手に汗握るレース展開だが,実際沿道で見るとなんだかよくわからないうちに終わってしまったのだった(レースの結果を知ったのはもちろん帰宅後).実家では私がテレビに映るんじゃないかと期待して(笑)画面をくまなく探したそうだが,発見できなかったらしい(そりゃあの人数じゃね).

 かくして箱根駅伝見物は終了したが,私にはもう一つやりたいことが,それは…

 皇居の一般参賀である.

 皇居=江戸城は一般人が立ち入れない区域が多いのだが,天皇誕生日と正月の一般参賀の際には(それと宮内庁に事前に申し込めば),立ち入ることができる区域がある.ぜひとも言ってみたかったのだ(もちろんお言葉のほうも).

 駅伝走者が小田原中継所を通過するのが12時過ぎ,12時半の新幹線に乗れば13時には東京に着くので最後のお出ましに間に合う.というわけで駅伝通過後急いで小田原駅に向かった.発車数分前に改札口にたどり着き,いつものように小田原-東京の回数券を挿入すると

 ピー

 という警告音,すぐに係員が飛んでくる.そして「あのぉ,すみません.お正月期間は回数券は使えないんです」とのこと

 万事休すである.いまさら切符を買いなおしては列車に間に合わない.あーあと一気に気分が萎えてしまい,結局一般参賀はあきらめて家に帰ったのであった.

 そんなわけで本日の活動は一勝一敗に終わったが,今年もいろんな活動をやっていこうと心に誓ったのだった(もちろん本業も).

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2009年1月 1日 (木)

あけましておめでとうございます

 謹賀新年

 当ブログにお越しの皆様,あけましておめでとうございます.

 例年ですと和装で写真を撮ってアップ,ごあいさつなんですが,

 実は今年は元旦勤務という状態のため,朝から仕事に出ています(今昼休み).

 そんなわけで正式なご挨拶や抱負などはあす以降アップいたします.

 今年も当ブログ(&更新まばらなHPも 泣)をよろしくお願いいたします.

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