梶原平馬
久しぶりの幕末ネタ.
幕末の会津藩の家老に梶原平馬という人物がいます.天保十三年(1842年)に会津藩家老格の内藤信順の次男として生まれました.兄で長男の介右衛門が内藤家を継ぎ,次男の彼は会津藩の名門梶原家の養子に入りました.この時には梶原景武と名乗ってます.そして同じく重臣である山川大蔵(浩)の姉二葉と結婚しています.
幼少時には泣き虫で引っ込み思案だったそうですが,成長とともに武芸・学問に秀でるようになり,文久二年に藩主松平容保が京都守護職に任じられると,その側近として上洛しています.慶応元年(1865年)に若年寄,翌二年(1866年)には24歳という若さで家老に昇進し容保を支えました(このころから平馬と名乗ったらしい).
慶応四年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いの時は江戸にいたため戦いには参加していません.戦後徳川慶喜が恭順謹慎すると藩主容保は追われるように帰国しましたが,平馬は江戸や横浜に留まり武器商人のスネルから武器弾薬を調達します.そして同年4月に調達した物資とともに帰国しました(海路で新潟経由で戻ったそうです).
当時藩内は主戦派と恭順派の対立がありましたが,平馬は主戦派で奥羽越列藩同盟の締結に尽力します.会津戦争中は城中にあって戦争指導に当たりましたが,武運なく敗戦・開城となります.戦後は新政府側との折衝に当たり,嫡子容大による斗南藩としての再興に努力しました.明治三年(1870年)に他の藩士たちとともに斗南へ,移住地は今の青森県五戸町の上市川というところです.しかし当時の斗南は作物の実らない不毛の地で藩士たちは厳しい窮乏生活を強いられました.そんな中翌明治4年に廃藩置県が行われて斗南藩は消滅,多くの藩士は斗南を去ります.平馬は青森に移り青森県庁の職を得ますが間もなく職を辞し姿を消しました(この頃妻の二葉とも離縁をしています).
その後彼の姿を見たものはない…
となっていたんですが,それから100年以上後の昭和63年(1988年)に平馬のお墓がなんと根室で発見されたのです.見つけたのは平馬の兄内藤介右衛門の孫にあたる萱野恒雄氏でした.青森を去った平馬は一時東京に行き,そこで水野貞という女性と再婚,彼女は教育者で東京の女学校で教鞭をとっていましたが,明治十四年(1881年)北海道に渡り平馬も同行しました.彼女は当初函館の学校で教えていましたが,翌明治十五年に請われて根室に移住しています.根室では平馬は文房具屋を営んでいたそうです.そして明治二十二年にこの地で没したとのことです.一方の貞は平馬の死後も根室で教育にあたり昭和二年(1927年)まで生きていたとのことです.彼女は根室では著名な教育者であり,その関係で平馬の墓所の発見にいたったもののようでした.
会津・新撰組贔屓の私としてもぜひ訪れてみたい場所であり,今回根室訪問の目的の一つとなったのです.梶原平馬のお墓は根室市の中心部のやや西側にある西浜墓地にありました.古く小さな墓石にはかろうじて読める彼の戒名「鳳樹院泰庵霊明居士」が刻まれていました.
ちなみに平馬の兄,内藤介右衛門の墓地は青森県五戸町にあります(関連記事)
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コメント
拙者、会津出身で敬愛する梶原平馬を調査中の小鉄と申します。
根室まで行かれましたか。
右隣にある平馬の墓より立派な墓に妻・貞(テイ・貞子とする文献もあり)が入ってます。
平馬が二葉と離縁したのは新撰組から伊東甲子太郎一派が離脱した、1967年3月ですね。
そして平馬の墓が見つかったのは昭和63年、見つけたのは会津進撃隊一番砲組・佐々木覚之進の子孫である故・佐々木修氏、その年は何と平馬没100年忌なんです。
平馬を題材とした本は長谷川つとむ氏(山川家子孫)の一冊くらいでしょうか。
あれだけの人物であった平馬の後半生が解明出来てないんのは平馬贔屓の拙者としては悲しい限りです。
投稿: 小鉄 | 2008年12月 7日 (日) 04:23
<小鉄様>
はじめまして.そしてご訪問いただき誠にありがとうございます.
幕末の会津藩を代表する人物であった梶原平馬,明治以降も活躍した山川や広沢らと違って彼については本当にわからないことが多いですね.でも墓所が見つかったというのはそれはそれで凄いことだと思います.貞さんのお墓の方が立派なのは,亡くなったのがずっと後でしかも地元の名士とも言うべき存在になっていたからでしょうね.
私も平馬についてはほとんど知らないといった方がいいくらいです.貴重な情報をありがとうございます.
投稿: ビザ皇帝 | 2008年12月 7日 (日) 14:03
ご無沙汰しております。
エルプロダクツ「はなさかづき」で梶原さんを演じさせて頂きました、そうやです。
根室に行かれたのですね。羨ましい限りです(≧∇≦)
今年は梶原さん没120年(確か…)なので是非訪れたいと思っているのですが中々難しそうです。
会津の内藤家の菩提寺にも分骨されていますので会津にご旅行された時に訪れてみて下さい。ご住職から色々お話を伺いました。
梶原家の菩提寺でもお話を伺いましたが、戦争で会津が失ったものはとても多いのだと感じました。
投稿: そうや | 2009年2月 2日 (月) 08:33
<そうやさん>
こちらこそご無沙汰しております.
「はなさかづき」での,廊下を直角に曲がるそうやさんの梶原どのは今でもはっきりと覚えています(私が初めて見た,みなさんの舞台でした).
明治二十二年没ですから,そうそうたしかに今年が没後120年ですね.何か記念のイベントがとも思いますが,明治後身を引いた方ですから,そっとしておいた方がいいのかもしれません.
会津の内藤家の菩提寺はまだ訪ねたことがありません.次の機会にぜひ行ってみます.
そろそろ今年のひのパレの案内が出るころですね.また皆さんの勇姿を楽しみにしています.
投稿: ビザ皇帝 | 2009年2月 3日 (火) 12:24
~梶原平馬景雄・無念の死~
読者の皆様も、ご承知のように戊辰戦争後は、第二次世界大戦を挟んでも暫くは、口にする事さえも許されなかったようである。この本が出るきっかけを作ったのは、父の書いた「会津の人」遺稿集(会津及び国会図書館に贈呈)が基である。遺稿集を基にある日、長谷川勉氏が母に「平馬について小説を書きたいが、平馬の生まれた月日はどうしましょう?」少し考えて得たのが、長谷川氏曰く「今日来た日の10月10日は、如何ですか?」と言うわけで、それに決定したのを覚えています。私としては、小説と言えどもそれは大丈夫かな?と思いましたが、不安に思いながらも黙殺してしまったのが今となっては、やはり意見を言うべきだったかと後悔しています。
そして、出来上がった中味ですが、これ又
本人が、平馬の曾孫である。ような事を悪びれずに書いているのには、親戚一同から「なによ!あっちゃん(私、景昭の事)、これどういう事になっているの?違うじゃあな!」
その所為か知りませんが長い事、長谷川氏と
は、体調を崩されたとかで、お会いしていません。
それからというもの行き先々から、あの小説の真意を聞かれ、その度々で訂正をしています。私の祖先が、こんなに影響あるものとは夢にも思わなかっただけに、今では申し訳ない気持ちでいっぱいです。後悔先立たずと言いますが、あの時に、一言言えば良かったと思っても遅しでした。
所で、平馬と私の関係を申し上げますと下記のようになります。
梶原平馬→→→→→→梶原景清→→→→→→
(山川二葉) (高橋ぬい)
梶原景浩→→→→→→梶原景昭
(巌谷美津子) (岡田佐和子)
景清の子(兄:景浩・妹:石川清子)
景浩の子(兄:景昭・妹:南彩子)
景昭の子(姉:裕美子・妹:景子)
先の長谷川勉氏は、石川清子の夫・石川栄耀の兄妹の子(しづえ)です。遅くなりましたが、ここで訂正をさせて頂きました。2009[平成21]年8月8日(土)梶原景昭
投稿: 梶原景昭 | 2009年8月 9日 (日) 13:05
<梶原景昭様>
ご訪問,コメントありがとうございました.
梶原景清氏の御子孫ということであれば,平馬さんに対する思いは複雑であろう事はお察しいたします.
長谷川つとむ氏の著作についての解説ありがとうございました.関係者しか知らない貴重な情報もありがとうございます(誕生日10月10日というのは凄いですね).
投稿: ビザ皇帝 | 2009年8月10日 (月) 14:57
平馬の生まれた日時もさる事ながら、平馬の顔写真も合成だというのを字数の関係で、訂正できずに忘れない内にとメールをしました。
1969(昭和44)年5月23日に一家3人で会津若松に日帰りで、白虎隊墓・鶴ヶ城廻り、白虎隊記念館長早川喜代次氏と逢い、平馬の話をして帰る。後に、早川氏から平馬の写真を記念館に飾りたいと頼まれるが、家ではそのような写真はないと言って手紙を出した。又、間もなく早川氏から「それでは、父(景浩)と祖父(景清)の合成写真は、どうでしょうか」でも、父は反対したようでしたが、結局はネガを送り、合成写真が良く出来ているので、又決めてしまった次第です。
その後、記念館を整理する為に合成写真は、排除され、5年前に早川広中氏が家を訪れ、又もとのままの状態に返りました。残念ですが、その後の足取りをこれからも研究したいと思っています。梶原景昭 2009[平成21]年8月12日(水)
投稿: 梶原景昭 | 2009年8月12日 (水) 15:46
<梶原景昭様>
再びの訪問ありがとうございます.
そうなんですか,あの顔写真も合成だったんですか.いろいろな所に引用されている写真ですから,てっきり当時のものなのかと思っていました.
謎に包まれた平馬の後半生については今後も研究が必要だと思います.更なる研究の成果を期待しております.
本当にありがとうございました.
投稿: ビザ皇帝 | 2009年8月13日 (木) 14:39
尚、話を付けたしますと私が、5歳の頃でしょうか祖父は、二階のベランダに腰掛けて、私の方を見ていたのが非常に印象深かったので今でもはっきり覚えています。そして、6歳の頃には、福島の須賀川に疎開をして、終戦の秋も深まった頃に中野区氷川町に帰ってきました。そして中学2年の夏から、現在の新宿区北新宿(町名変更で柏木)に移りました。2009[平成21]年8月13日(木)梶原景昭
投稿: 梶原景昭 | 2009年8月13日 (木) 18:10
<梶原景昭様>
たびたびの訪問ありがとうございます.
戊辰後の苦難の時代を生きていた景清氏の思い出があるのですね.
その時の景清氏の思いはどんなであったか,考えてみたいと思います.
投稿: ビザ皇帝 | 2009年8月14日 (金) 14:51
私は根室生まれで東京都在住、梶原景雄と二度目の妻貞との二男篤の孫にあたります。
我が家の家系図を作ろうと思い立ち、関係資料をあさっている中、2014年頃この記事を見つけました。
ご本家梶原景昭様のコメントに接し感動を覚えました。
根室市の名士であった叔父の作った「会津藩家老梶原平馬関係系図」に景昭様の名がありました。
父から聞いていた先祖との関係が戸籍書類で確認でき、家系図のたたき台のようなものができたのを機会に投稿させていただきました。
投稿: 網本義峰 | 2024年9月 8日 (日) 13:58
網本義峰様
ご訪問そしてコメントいただきありがとうございます。
15年以上も昔の古い投稿ゆえ、今読み返すとかなり恥ずかしいものがありますが、自分の拙文に関係の方々からお言葉をいただけたことは本当に嬉しい限りです。
投稿: コンスタンチヌス21世 | 2024年9月20日 (金) 20:45