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2008年12月31日 (水)

2008年十大ニュース

 いよいよ大晦日,あと数時間で2008年もおしまいである.そこで恒例の我が家(ビザンチン帝国)の十大ニュースを考えてみました.今年の場合最大は転勤だったと思いますが,本業以外に限定してみました.

第10位 トチロー扮装に挑戦

P13000032  昨年末に職場の仲間と銀河鉄道999扮装(鉄郎とメーテル)に挑戦したんですが,今年の初めにはそれを発展させて念願のトチロー扮装にチャレンジしました.コスモドラグーン以外はマント,帽子,メガネからトリさんまでほぼ手作りでやりました.いつかこれでエメラルダスと絡んでみたいです(エメラルダス大募集! 笑) 関連記事 トチロー. 

第9位 本州四端制覇

Touhasho  本州にある東西南北4つの端,これまで最北端大間崎,最東端とどが埼,最南端潮岬は制覇済みだったんですが,最西端のみ行く機会がありませんでした.しかし今年の2月についに,最西端毘沙ノ鼻に到達,晴れて本州四端制覇に成功しました.写真は本州四端を踏破するともらえる証明書です(関連記事 本州四端).

第8位 第3回境港妖怪検定受検

Yokai_2   漫画家水木しげる氏の故郷,鳥取県境港市のご当地検定,第3回境港妖怪検定を受検しました.実は一昨年の第1回も受験していてこの時は初級に合格していたんですが,今回中級に挑戦するため再訪したものです.結果は中級の壁は厚く(合格率16.7%!)見事に粉砕されてしまいました.来年こそは合格を目指したいと思います(関連記事 妖怪検定受検の日).

第7位 しながわ宿場まつりに今年も参加

P9280176  東海道の最初の宿場,品川宿で毎年秋に行われているしながわ宿場まつりの江戸風俗行列に参加しました.初参加の昨年は幕末の大老井伊直弼に扮しましたが,今年は原点に返り新選組局長近藤勇に挑戦しました.今年は新選組の参加者が多くていろいろ絡んだりしながら楽しいひとときを過ごしました.ご一緒させていただいた皆さん,見に来てくださった皆さんありがとうございました(関連記事 レポが未完成。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。).

第6位 根室に梶原平馬の墓参に行く

Kajiwaraboseki  戊辰戦争後会津藩は国替えとなり斗南藩として厳しい奥羽の地へ移住を余儀なくされました.しかし間もなく廃藩置県となり藩士たちは各地に散っていきました.その中で家老だった梶原平馬は青森県に勤めた後北海道に渡り,最後は根室の地で亡くなったことがわかっています.今回ついに根室にある平馬の墓参に行く機会を得ました(関連記事 梶原平馬).

第5位 第11回ひの新選組まつりに参加

11hino28  すっかり恒例となった春の一大イベント,ひの新選組まつりに今年も参加してきました.あいにくの天候でパレードも午後からとなってしまいましたが,全国から集まった多くの新選組を愛する人たちとの素晴らしい交流の機会を持てました.年々知り合いが増えていくのがこのお祭りの醍醐味です.来年も是非参加したいと考えています.皆さんよろしくお願いします(関連記事 第11回ひの新選組まつり).

第4位 新選組 IN 長州の実現

Choushu2_078  皆さんから好評を頂いている(?)新選組 IN シリーズ,つ,ついに長州藩の本拠地に繰り出してしまいました.無事に撮影を進めるために編み出した「坂本龍馬は新選組だった作戦」の元,松下村塾・菊ヶ浜・高杉晋作の家・桂小五郎の家等市内の名所をダンダラで走り回りました.次は薩摩か?(←まだやる気か  関連記事 新選組 IN 長州).

第3位 新選組 IN パリの実現

P4020007  そして第3位はこれです.昭和55年放送の大河ドラマ獅子の時代を見た時からやってみたかった,パリのシャンゼリゼ通りを侍装束で歩くこと,ついに実現しました.

 4月から転勤が決まり,転勤の隙間のドサクサに引越しを超短期間に済ませてパリまで繰り出しました.治安の面も考慮し,当日はハイヤーをチャーターして市内各スポットを巡り最後はレストランでランチまで頂きました.私にとっては新選組 IN シリーズのひとつの区切りになる出来事です(関連記事 新選組 IN パリ).

第2位 日本100名城スタンプラリーを始める

 そしてそして,第2位は今年の5月から始めた新企画(?),日本100名城スタンプラリーです.5月の連休に北條五代まつりを見物に小田原城に行き,偶然この企画を知ってしまいました.何事にも影響されやすい私の性格,あっという間にハマッてしまい以来暇を見つけては(または出張のついでに)各地の城郭を訪問しています.今日現在49城に登城しました.このペースなら来年秋には100箇所制覇の勢いですが,近いところは大方行ってしまったため,今後は九州・北海道など遠隔地ばかりでなかなか行けそうにありません(九州で学会があればいいのに 笑 関連記事 日本100名城スタンプラリー).

第1位 ナミビア旅行

Namib  そして2008年我が家最大ののビッグイベントは9月のナミビア旅行です.最近ネイチャー系にハマッている我が家では世界最古と言われるナミブ砂漠を是非この目で見たいと話しておりました.そしてついに行ってくることができました.

Kisoten  ナミビア,凄いところです.日本とはスケールが違いすぎます.赤い砂に覆われた砂漠は私達がイメージする砂漠に最も近い姿と言われます.ナミブとは現地の言葉で「何もない」という意味だそうですが,実はこんなところにも生物は生息しており,これまた自然の神秘に驚くのでした(レポが未完成です 。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。).

 (写真上) ナミブ砂漠,(同下) 奇想天外 VS 新選組

 その他選外になった出来事としては

選外1 我が家のハムスター死去

 2年前の春から飼っていたゴールデンハムスターの次郎吉が今年の5月に亡くなりました.私もKも少し凹んでしまいました.

選外2 新しい合唱生活

 転勤に伴い,以前から参加していた盛岡の合唱団にはなかなか参加することが難しくなってしまいました(遠隔会員として強化練習中心に参加したいのですが).その一方引越しをして新たにいくつかの団体に参加して歌う機会を頂いております.

選外3 あじさい電車

 梅雨の箱根登山電車の名物,あじさい電車に乗る機会を得ました.

選外4 薩長同盟弁当を食べる

 2年前に山口を訪問した際,存在を発見したものの品切れで食べられなかった”薩長同盟弁当”を食しました.長州鶏の桑焼きと鹿児島産豚肉のロースカツ,筍の土佐煮がセットになったお弁当でした.

選外5 日本トンデモ本大賞に参加

 前年1年間に発刊された中で最もトンデモない本に贈られる日本トンデモ本大賞に今年も出かけました.

選外6 雨の池田屋

 京王線高幡不動駅近くの名物店池田屋さんが昨年7月に閉店になるとのことで,その前に訪問する機会を得ました.あいにくの雨ふりでしたがついでに高幡不動尊のあじさいも見学できました.

選外7 ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場「魔笛」公演

 オペラ好きの我が家.今年は12月にワルシャワ室内歌劇場の「魔笛」公演を鑑賞する機会を得ました.

選外8 各地の寮歌祭に参加

 地味に寮歌好きの私.今年は能代と群馬の寮歌祭に参加しました.

 そんなわけで今年もたくさんのイベントがあった我が家です.来年は一体どんなイベントが待っているのか,とても楽しみです(とりあえずの目標は日本100名城制覇でしょうか 笑).

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2008年12月29日 (月)

観光(BlogPet)

アロイジアは階段完成しないです。
でも、コンスタンチヌス21世は休みは所有したよ♪
だけど、コンスタンチヌス21世は、観光したかったの♪
だけど、払い戻しー!

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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そこまでしなくても

 今年も残すところ3日,振り返ればよく新幹線が止まった一年だった.

 2月には大風で東京から帰る新幹線が止まった.6月にはあの東北地方を襲った地震で立ち往生した.7月にはまたまた地震で乗っていた新幹線が急停車してトンネル内に立ち往生した.9月には豪雨で新幹線が止まりあやうく車内で夜を明かす羽目になった.

 そんな2008年の最後を飾るべき事件である.

 新幹線 ぐったり…故郷遠く システムトラブルで混乱

 JR東日本の5つの新幹線がシステム障害で今朝から運転が止まってしまった事件である.

 実は今日年末の里帰りをする予定だったのだ.朝起きてニュースを見たらこの事件,困ったなとは思ったのだが,ニュースでは午前9時くらいには復旧しそうだとの話だったので「まあ何とかなるだろう」とそのまま新幹線の駅に向かった.駅に着いてみると…

 なんと,私が乗る予定のはやて17号には見事運休のマークが,「万事休す」である.近くにいた駅員に聞いてみると,「申し訳ありません.とりあえず動き始めましたのでどれでもいいですから乗っていただいて,ついた先で清算の手続きをしてください」とのことだった.

 結局焦っても仕方がないのと,乗ればおそらくは大混雑で座っていくことは不可能だろうと判断して駅で昼食を摂ってから改札をくぐった.

 ホームでは大勢の人たちが疲れたように列車の入線を待っている.私は間もなくやってきた盛岡行きのMAXやまびこに乗り込んだ.MAXやまびこはオール2階建て,JR東日本が通勤用に投入した大量輸送用新幹線である.元々キャパシティは大きい車両であるが,この日は私同様乗るべき列車が消滅してしまった乗客が殺到したためか,首都圏の通勤電車並みの混雑だった.結局貨車に積まれた荷物状態で予定より2時間遅れで盛岡に到着した.

 駅で運休列車特急券の払い戻しがあったため,結果的に格安料金で盛岡に来れたことになる.東京駅では「指定席を取ってあるのにどうして座れないの!」などと駅員に詰め寄っていた人もいたそうだが,元来楽天的な私は,「もしかして得したかも」と払い戻された現金を握りしめながらほくそ笑んだのだった.

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2008年12月28日 (日)

日本100名城スタンプラリー38

 日本100名城 萩城(75番)

 おそらくは今年最後になると思われる100名城シリーズ,最後を飾るのは,なんと敵国(?)長州藩の本拠萩城です.

Hagi1 (写真1) 萩城跡,左端に見えるのが天守台です.

 長州藩毛利家は戦国時代には安芸の国人領主に過ぎませんでしたが,毛利元就一代で勢力を大きく伸ばします.弘治元年(1555年)には主家筋の山口大内氏を乗っ取った陶晴賢を討ち,さらに永禄九年(1566年)には山陰地方に大きな勢力を誇っていた尼子氏を滅ぼしてその領土を編入しました.その結果戦国時代末期には中国地方に120万石を領有する大大名になったのです.

Hagi2 (写真2) 在りし日の萩城天守(古写真より)

 しかし元就の死後,信長→秀吉→家康と動く中央政界への対応を誤り,関が原の戦いでは当主の輝元が名目上とはいえ西軍の総大将だったことから,戦後周防長門36万石に減封されてしまいました.このとき以降毛利家の居城となったのが山陰の萩で,阿武川が松本川と橋本川に分かれて形成された三角州の上にできた街です.

Hagi4 (写真3) 城の対岸には白砂の菊ヶ浜が広がります.

 この三角州の北西端にそびえる指月山に萩城があります.山の麓に本丸・二ノ丸・三ノ丸が広がる他に,指月山の山頂に詰ノ丸が築かれているのが特徴的です.この城郭は平山城に分類されていますが,麓部分と山頂部分とのギャップが激しいため2つの城が同居していると考えている人もいるようです.

Hagi3 (写真4) 詰ノ丸に残る石垣

 江戸時代を通じて長州藩の本拠地でしたが,幕末の文久三年(1863年)に山口に山口政事堂が造られ藩庁がそこに移されたため,以来藩の中心としての萩の役目は終了しました.

 明治維新後の明治7年に廃城となり天守や櫓などの構造物は破壊されてしまいました.現在は古風な街並みが残る萩の町の一画にひっそりと公園として佇んでいます.

 萩城へのアクセス: 町の中心部にある萩バスセンターから市内循環まぁーるバス(晋作くん)にて15分程度(時刻表).またはJR東萩駅からレンタサイクルで15~20分程度.

 スタンプの設置場所 入口の券売所にあります.

 登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 詰ノ丸まで行くならそれなりに山歩きになります(麓だけなら楽に散策できます).

75hagijo 登城日 2008年10月4日

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2008年12月27日 (土)

寒さ本番

 今朝は全国的にこの冬一番の冷え込みになったらしい.実は昨夜は当直だったのだが,今朝日直のドクターとの引継ぎの時,「いやー,今朝は冷えてますよ(ビールのことではない)」と言われて外に出たらたしかにヒンヤリとした空気が頬にあたる.

 しか~し,北海道生まれ岩手育ちの自分の感性では,「それほどでもないな」という印象だった.気温も氷点下ではないし,北国特有の凍てつく感じは全くなく,快晴のお天気と相まってむしろ気持ちがいいくらいだ.

 というわけで,ひさしびりに車を運転して箱根の山に登ってきました.抜けるような青空の彼方には立派な富士山の勇姿が.

Pc270011

 三島の人に聞いたら地元でもこんなにくっきりと綺麗な富士山が見られるのは冬の間だけなんだそうだ.

 ついでに近くにある100名城山中城にも再訪してきた(最近入手した新スタンプ帳にスタンプを押すためというウワサ).

Pc270015  山中城といえばこの障子掘が有名である.遠くから見ると障子の桟のように見えることからこの名がある.

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2008年12月26日 (金)

気になるなぁ

 この前の日曜日にポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場の引っ越し公演を見に相模原に行ってきました.演目はモーツァルト最晩年の傑作,魔笛です.公演の様子についてはうちのKのブログ(ワルシャワ室内歌劇場の魔笛)に詳しいので省略しますが,そんな公演で私の眼を釘づけにしたものが…

Sonota_017

 受付で当日の配役を書いた紙が手渡されたんですがね.

 ザラストロ役の方のお名前にツボりました.ザラストロといえば劇の重要人物、智の象徴ともいうべき役なんですが,名前とのギャップが素敵でした(あっ,もちろん歌の方は素晴らしかったんですよ).

Sonota_018  なんだかロッシーニのような恰幅のいいザラストロを想像してしまいました(笑).

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2008年12月25日 (木)

日本100名城スタンプラリー37

日本100名城 彦根城(50番)

 江戸時代の幕藩体制において全国の大名は ①親藩,②譜代,③外様 に分類されました.このうち親藩は徳川家康一門の大名で,特に徳川宗家の血統が絶えた際,代わって将軍を出す格式をもった家が御三家と呼ばれました.それ以外の親藩は基本的に松平姓です.譜代大名は三河以来といわれる徳川家の古くからの家臣筋,外様は関ヶ原の戦い前後から臣従した旧豊臣系の大名です.

Hikone2_2 (写真1) 国宝に指定されている彦根城の天守

 家康の作った幕藩体制の優れた点はその大名統制にあるといえます.その原則は権力と軍事力の分離です.すなわち裏切る可能性がある外様大名には大きな領土を与えて恩を売る代わりに江戸から離れた場所に配置し,一切政治にはタッチさせませんでした.鹿児島の島津(77万石),金沢の前田(100万石),仙台の伊達(62万石)などです.その一方幕府の政治中枢には信頼できる譜代大名を当てるかわりに,彼らには大きな領地は与えませんでした.譜代大名はほとんどが10万石未満の小藩ばかりです.

Hikone1 (写真2) 天秤櫓です

 そんな譜代大名の中で唯一の例外といえるのが,近江彦根藩の井伊家35万石です.井伊家はもとは遠江の井伊谷を治めていた土豪と言われていますが,井伊直政の代に徳川家康の家臣となりその下で活躍,後には徳川四天王などと呼ばれた家柄です.この井伊家の居城となったのが彦根城というわけです.

Hikone3

(写真3) 城郭には石垣などがよく保存されています

 彦根の地は中山道と北国街道が分岐する交通の要衝です.特に江戸に幕府を開いた徳川家にとって西国の抑えとしてこの地は極めて重要です.そんな土地に封じられたという事実から井伊家がいかに幕府から信頼されていたかがわかります.

Hikone4 (写真4) 幕末の大老井伊直弼が青年期を過ごした埋木舎

 現存する彦根城は関が原の戦い後に建築が始まりました.完成したのは元和八年(1622年)とされていますから,約20年の歳月を費やしたわけです.

Hikone5 (写真5) そして彦根城と言えば忘れてはいけないキャラ,ひこにゃんです.

 以来彦根藩の居城として存在し,幕末には有名な大老井伊直弼を輩出しています.明治維新後廃城となりましたが他の城郭と異なり破却を免れ,国宝に指定されている天守以下数多くの建造物が現在に至るまで遺されています.2007年には築城400年の記念イベントが行われました.

 彦根城へのアクセス: JR彦根駅から徒歩10分ほどです.駅から天守が見えるので方向を間違えることはないと思います.

 スタンプの設置場所 表門の券売所にあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 気軽に散策できます.

50hikonejo 登城日2008年8月24日

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2008年12月24日 (水)

スクリーンセーバー

 昨日出張先から家に帰る途中乗っていた電車内でのこと.近くに帰省途中の大学生と思しき男性が二人いた(そろそろ19だとか言っていたので大学1年生と思われた).小耳にはさんだ彼らの会話が妙にツボったので要約して載せます.

 最初は自分たちの大学がある街と故郷の街とどっちが田舎かとか,テストがどうだったとか他愛もない会話だった.

 学生A 「明日はイブだな」

 学生B 「ああ」

 学生A 「そういえば○○(彼ら共通の友人らしい)って頭いいよな」

 学生B 「そうなのか」

 学生A 「あいつのパソコンのデスクトップの壁紙,女の子が笑ってる写真なんだけどさ」

 学生B 「ふーん」

 学生A 「で,スクリーンセイバーはその子がふくれっ面した写真になっているわけ」

 学生B 「それで」

 学生A 「つまりだ,ほおっておくとふくれっ面している女の子をマウスでクリクリしてやると笑い出すっていう寸法さ.これってなかなか凄い発想じゃねぇ?」

 学生B 「そうかもしれないが,やってることがメチャメチャ淋しくないか」

 学生A 「そうだな」 …

 思わず笑い出しそうになってしまった私,ちょっとした青春のひとコマを垣間見た気分になった(笑).

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2008年12月21日 (日)

太陽の誕生日

 今日12月21日は今年の冬至なんだそうです.

 冬至とは1年のうちでもっとも夜が長い(昼が短い)日のことです.夏ごろから徐々に日が短くなり,9月の秋分で昼夜が同じになって,以後はどんどん日が短くなっていきます(特に10月下旬からは加速度的に短くなり,まさにつるべ落としという言葉がぴったりします).そして今日昼が最短になったわけで,明日からはどんどん日が長くなっていきます.

 日本では冬至というとゆず湯冬至かぼちゃ(小豆と一緒に煮込んだ南瓜)のイメージですが,日本より緯度が高く夏冬の日照差が極端なヨーロッパでは,冬至は太陽が復活を始める日としてとらえられていたようです.すなわち太陽の誕生日とでもいうわけです.

 現在キリスト教では12月25日を主イエスの誕生日=クリスマスとして祝う習慣がありますが,聖書のどこを探しても12月25日にイエスが生まれたという記載はなく,これは後世に造られた風習です.所説はありますが,救い主の誕生と元々ヨーロッパにあった冬至を祝う習慣が合体して始まったという説もあるほどです.

 そんなわけで明日以降どんどん日が長くなっていくはずなんですが,実際には寒さはこれからが本番になります.風邪を引かないようこの冬を過ごしていきたいですね.

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2008年12月19日 (金)

なんか忙しいぞ

 12月に入ってから妙に忙しい.来年の学会の演題締め切りやら,会合でのプレゼンテーションやらが立て込んでいて,その準備に忙殺されている.

 その最後を飾る(?)イベントが来週早々にある.某大学の学部の講義である.

 数年前から担当している(させられている?)のだが,年々新しい知見も加わるためマイナーチェンジしつつ資料を作っている.

 当初は前年の資料を流用しようと思っていた.が,昨年秋に旧モバイルノートが壊れてしまい新しいのを購入した際,そのドサクサでどうも資料が消えてしまったらしいのだ.

 結局一昨年の資料を大幅に改訂して作り直す羽目になってしまった.この作業に数日を要してしまい,ブログの更新が止まってしまったわけである.

 とりあえず完成し一段落である.これが終わればいよいよ年末モードに突入する皇帝であった(年賀状もまだ手付かずだ!).

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2008年12月15日 (月)

日本100名城スタンプラリー36(BlogPet)

コンスタンチヌス21世の「日本100名城スタンプラリー36」のまねしてかいてみるね

日本100名城犬山城白帝城の関係を犬山市を築いたの最大の城郭ともこの川の魅力はもちろん三国志の争いも呼ばれています(1537年(池田恒興,平成十六年)登郭道現在に斉藤道三と愛知県の戦いであります.明治以後は犬山市を犬山市を犬山城となって,永禄七年に攻められて,野面積みの一豪族に織田家も呼ばれた(池田恒興,犬山城に移管されます(1564年8月24日2008年)以後も呼ばれ現在は東から見える天守から松本城との臨終の天守を継ぎます(写真3)近くから見たの上部分程度になります(白帝城の場合は城主が終わった天守から見える天守で廃城であり,そのまま存続し,彦根城,これは4城が後にちなんだものともあっています.(池田恒興,尾張の城郭は尾張とも成瀬氏の石垣などが後に指定されますがありませんでした(★☆ハード指数(43番).犬山城も成瀬氏があり,天守を築いた木曽川と木曽川の信清が目まぐるしく代わりました天守から見える天守のことです.尾張の天守で廃城が後は東から松本城の陣が良い状態で天文六年).JRのはやはり国宝にあり,このお城は高山本線鵜沼駅から驚きですから見える天守にある重要地点で,天守犬山市を見せていますが良い状態で天文十六年に至りました.(タクシーなら1000円くらい)天守であり,姫路城)気軽に攻められていました天守の場合はもちろん三国志の覇者となる織田信長の所有する観光地として賑わいを見せて,以後はなんと戦国時代だもの)に天下の愛知県の最大のアクセス:名鉄犬山線犬山遊園駅から見える天守が建っている木曾川の天守に過ぎません)天守で廃城にちなんだそうです江戸時代だものともその一つです江戸時代に天下の叔父にあたる織田信康で信康で信康であります.明治維新で,そのまま幕末に天下の基礎部分が,そのまま存続しましたが作られます.天文十六年(1537年8月に斉藤道三となっている木曾川の争いもあっていました元和三層四階の石垣など)に財団法人犬山城白帝城を犬山市を見せて,土方雄久などが素晴らしいです江戸時代に散策できます.JRの場合は信長傘下の城であり,彦根城,姫路城)4城にある重要地点で信康が後を含む城郭となる織田豊臣政権下で廃城が,織田信長に織田家もその一つです日本にはそのまま存続し,犬山城と木曽川の境と長江の上部分程度に向かう櫓門,以後もなって,以後は高山本線鵜沼駅から驚きですから徒歩12天守から徒歩30分程度になり大阪の関係にちなんだそうです日本に至っていました元和三年8月に散策できます(白帝文庫に天下の魅力はまだ一族内の上部分程度にはまだ一族内の城郭は4)に至っているのハードである管理センターに天下の臨終の地で信康で天文六年)に至っています(白帝文庫にちなんだものとなる織田家もなっていました.明治以後も成瀬氏が,現存12分にちなんだものと言われている木曾川の英雄劉徳の争いもこのころはありませんでしたの愛知県の上に至って,武田清利,土方雄久などが良い状態で天文六年に今回の臨終の争いもなっているの成瀬氏が終わったが終わった木曽川の城郭と愛知県との所有する観光地で廃城を含む城郭が良い状態で天文六年)気軽に攻められていました.明治以後もその一つです(1564年)以後は城主と長江の国境に天下の愛知県側に今回の設置場所天守を代表する観光地としてはなんと戦国時代だものです日本100名城犬山城白帝文庫には尾張と言われた.登城日

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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日本100名城スタンプラリー36

 日本100名城 犬山城(43番)

 岐阜県と愛知県の境ともなっている木曾川,この川の愛知県側に今回のテーマ,犬山城が建っています.

Inuyama1 (写真1) 遠くから見える天守が素晴らしいです

 日本には数多くの城郭がありますが,それらのうち国宝に指定されているのは4城で犬山城もその一つです(後は東から松本城,彦根城,姫路城).

 ここの城の最大の魅力はやはり国宝に指定されている天守で,現存12天守中最古のものと言われています.すなわち三層四階の天守の基礎部分が作られたのはなんと戦国時代だそうですから驚きです.このお城は別名白帝城とも呼ばれますが,これはもちろん三国志の英雄劉備玄徳の臨終の地である白帝城にちなんだものです(白帝城と長江の関係を犬山城と木曽川の関係に見立てたもの).

Inuyama2 (写真2) 近くから見た天守

 犬山城を築いたのは織田信長の叔父にあたる織田信康で天文六年(1537年)のことです.後に天下の覇者となる織田家もこのころはまだ一族内の争いもあって,尾張の一豪族に過ぎませんでした.天文十三年に斉藤道三との戦いで信康が戦死し,子の信清が後を継ぎますが,永禄七年(1564年)に織田信長に攻められて,以後は信長傘下の城となります.尾張と美濃の国境にある重要地点であり,織田豊臣政権下では城主が目まぐるしく代わりました(池田恒興,武田清利,土方雄久など).

Inuyama4 (写真3) 天守から見た木曽川と市街地です

 江戸時代になり大阪の陣が終わった元和三年(1617年)以後は尾張藩家老の成瀬氏が城主となり,そのまま幕末に至りました.明治維新で廃城となりましたが,天守を含む城郭はそのまま存続しました.明治以後も成瀬氏の所有する城郭となっていましたが,平成十六年(2004年)4月に財団法人犬山城白帝文庫に移管され現在に至っています.

Inuyama3 (写真4) 登郭道

 現在は犬山市を代表する観光地として賑わいを見せています.遺構としては現存天守の他,野面積みの石垣などが良い状態で保存されています.

Inuyama5(写真5) 天守に向かう櫓門,ここの上部分にスタンプがあります.

 犬山城へのアクセス: 名鉄犬山線犬山遊園駅から徒歩12分ほど.JRの場合は高山本線鵜沼駅から徒歩30分程度になります(タクシーなら1000円くらい).

 スタンプの設置場所 天守に向かう櫓門の上にある管理センターにあります.

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 気軽に散策できます.

43inuyamajo 登城日2008年8月24日

 

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2008年12月14日 (日)

雪~

 実はこの週末,仕事関連団体の忘年会があって盛岡に来ていました.

 気温13℃の小田原から盛岡駅に降り立った感想は

 「うっ,寒い」(確実に10℃は低いです).

 例年だと扮装したりするんですが(昨年は銀河鉄道999ネタだった),今年は用事が立て込んでいて準備ができなかったのと,遠隔地になってしまったことから普通の格好での参加となりました(どういう意味じゃ).

 そして一晩明けて外を見ると…

Pc140001  雪が積もってました.いよいよ冬本番という感じです.

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2008年12月 9日 (火)

来年に向けて

 12月は各種締め切りが多い季節です.

 翌年の春に行われる学会なんかも軒並み演題の締め切りが12月になっています.

 実は私も所属している学会の来年の総会の会場が仙台だったりします.

 仙台なんて週末に行って来ればいいじゃん,というのは甘い.中には平日でないといけない場所もあるんです.そのひとつが以前から度々記事にしている,某大学の学食”貧食”のその後です.

 貧食は昨年夏に最終的に閉店となり取り壊されたらしいんですが,そのメニューを引き継いだ新しい学食についてはまったく情報がありません.自分で行って来ればいいのですが,学食は平日しかやっていないため,休みの週末に出かけても意味がないんです.

 その点学会は平日に行われ,しかも会場は貧食から歩いていける仙台国際センター,こりゃ行くしかないと考えたんですが,平日に仕事を抜け出して学会に行くには大義名分が必要です.そう演題を出して自ら発表すること.

 というわけで先月から延々と学会発表の演題を準備していたんですが,めでたく本日完成無事に演題登録を済ませました.あとは演題がrejectされない限り,来年5月20~22日は仙台行きです.

 貧食がどうなっているか今から楽しみです(← 既に学会の趣旨から離れているような気が…).

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2008年12月 8日 (月)

どうでもいいシーン

 ふだんから面白いネタを無意識のうちに探している私,先日電車に乗っていたらこんな表示を見かけてしまいました.

Kagami 某駅にて線路内に人が立ち入ったという情報が出ていたんですが,見事に左右対称になっているじゃないですか(笑).

 試みにこの写真を反転させると,

Kagamirev こんな感じになりました(笑).

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2008年12月 7日 (日)

日本100名城スタンプラリー35

 日本100名城 岐阜城(39番)

 岐阜城のある岐阜市は岐阜県の県庁所在地ですが,近くに名古屋市という巨大都市があるせいかなんとなく地味な印象があります(京都市と大津市の関係に似ているか?).

Gifu3 (写真1) 下界からはこの天守がよく見えます.

 しかし戦国時代末期,織田信長が天下布武を掲げた頃には名古屋は存在せず(名古屋の町が作られたのは江戸時代になってからである),岐阜がこの地域の重要拠点でした.この地を岐阜と名付けたのは織田信長で,それ以前は井口と呼ばれていたようです.

Gifu1 (写真2) ロープウェイを降りて歩いて行くと天守に至る階段が見えてきます.

 この地が歴史の表舞台に登場するのは何と言っても戦国大名斉藤道三の時代からで,当時は稲葉山城と呼ばれていました.彼は自分の娘濃姫を嫁がせるなど,信長を高く評価していたようです.しかし弘治二年(1556年)に自分の息子義龍と争って敗死,以後織田・斉藤の抗争が始まります.ただ斉藤義龍は政治家・軍略家として優れた人物であり,彼の存命中は信長もうかつに手が出せませんでした.転機が訪れたのは永禄四年(1561年)で義龍が急死したのです.跡を継いだ龍興は14歳と若く,しかも父や祖父に比べるとはるかに凡庸な人物だったようです.これがためたちまち家中が分裂し,そこを信長に突かれ,有力な家臣だった竹中重治(半兵衛)や稲葉一鉄の寝返りなどによって,永禄十年(1567年)に伊勢長島に追放され,この地は信長のものになりました.これ以降稲葉山城は岐阜城と名を替え,信長の天下布武の居城となったのです.

Gifu5 (写真3) 本丸の井戸.山頂の城ですから水の確保は死活問題です.

 岐阜城は長良川沿いにそびえる金華山の山頂に築かれた典型的な山城です.元来戦いのための城といった趣で,その一方交通は不便です.これがため信長は山のふもとに御殿を建ててそこで政務をとっていたようです.

Gifu2 (写真4) 山頂からは長良川と岐阜市街が一望できます.

 天正七年(1579年)に安土城が完成すると信長はそちらに移り,以後は信長の嫡男の信忠,本能寺の変以後の池田元助,織田秀信らが入りましたが,関ヶ原の戦いの後,徳川家康によって廃城とされています.

 現在は岐阜公園として整備されています.山城ですがロープウェイがあるため楽に登城できます.麓からは壮麗な天守が見えますが,当時このような建物があったかは不明であり,いわゆる観光用の模擬天守に属します.当時の遺構としては石垣や土塁などが遺されています.

 岐阜城へのアクセス: JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バスで15分程度,岐阜公園歴史博物館前下車.運行経路・本数ともかなりあります(岐阜バス).

 スタンプの設置場所 天守から徒歩数分,ひっそりと建つ岐阜城資料館にあります(入場券は天守で購入).

 登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) ロープウェイを使えば気軽に散策できます(使わなければ…).

39gifujo 登城日 2008年8月24日

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2008年12月 6日 (土)

遊歩計

 今NHK BS2で母をたずねて三千里を放送しているんですが(クライマックスです),何事にも影響されやすい私,こんな商品を見つけてしまいました.

 遊歩計 母をたずねて三千里

 今年から特定健診・特定保健指導(いわゆるメタボ検診)が始まったわけですが,その対策としてウォーキングが勧められているわけです.その動機付けにと我々の世代には懐かしいこの作品が取り上げられたもののようでした.製作はバンダイ,歩数計としての機能の他に毎日目標を設定して到達するとイベント(アニメのストーリーに沿った)が見られるというおまけまで付いています.私がさっそく購入したことはいうまでもありません.

 で,肝心の本日の歩数ですが,9445歩でした(目標の10000歩に僅かに及ばなかった).

3000po (写真) これが遊歩計です

 目標は90以内にイベントをクリアすることらしいんですが,さてどうなりますやら.

 ちなみに同じシリーズで宇宙戦艦ヤマトバージョンもあるようです.こちらは人類を救うために歩くというコンセプトのようです.

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2008年12月 4日 (木)

100名城のスタンプ帳

 現在ハマッテいる日本100名城スタンプラリー,使っているスタンプ帳は学研から出ている日本100名城公式ガイドブックの付録についてきたものです.

Stamp2 (写真1) 公式ガイドブックの付録のスタンプ帳

 しかし100名城のスタンプ帳には別な種類があります.それが日本城郭協会が発行したスタンプ帳です.大きさは付録のものと変わりませんが,スタンプを押す欄の他に各城郭の説明や写真が入るなど内容がはるかに充実しているのです.実はこれ,スタンプラリーが始まった2007年6月に全国100城に置かれた非売品なのです.それぞれの城郭を訪問した人に配っていたもので,当然配り終えればなくなってしまいます.

Stamp1 (写真2) こちらが城郭協会版のスタンプ帳です.この他に各地方版もあります.

 私が城廻りを始めた今年の5月は,ラリーが開始されてほぼ1年が経過していたため,主だった城郭には既になく,ほとんど諦めていました.

 しかし,地方のマイナーな城郭にはまだ残っているらしいというウワサを聞き,恐らくは100名城でマイナー度ナンバー1であろう,根室半島チャシ跡群にならこのスタンプ帳が残っているんじゃないかと期待して行ってきました.

 そしたら,ありました.ついに念願のスタンプ帳ゲットです.

 スタンプ帳をゲットして思ったんですが,このスタンプ帳にスタンプを埋めるためには,付録版のスタンプ帳にせっせと押してきた40以上の城郭に再び行かなくてはなりません.めまいがします(笑).まぁしばらくは2種類のスタンプ帳を持って,まだ行っていない城郭を優先的に回ることにします(機会があればそれ以外にも).

Nakami (写真3) これがスタンプ帳の中身です.見開き3ページに6つの城郭があり,解説と写真も載っており,ちょっとしたガイドブックのようです.

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2008年12月 3日 (水)

花咲がに

 さて先週末のビザンチン皇帝の根室旅行,根室といえば外せないのが花咲ガニである.北海道のカニというと,ズワイガニ・タラバガニ・毛ガニと並んでこの花咲ガニが知られている.このうち前3種は各地で食べる機会があるのだが,最後の花咲ガニはなかなか他所ではお目にかかれない.名前の由来は根室の花咲港にちなんだとも,茹でると真っ赤に花が咲いたように見えるからとも言われている.

Hanasaki3 (写真1) 茹でた花咲ガニはこのように真赤になります.長い棘も特徴です.

 せっかく根室まで来たのだからと,11月29日夜に根室の老舗の料理屋「まるしめ本店」さんにお邪魔した.ここはカニを一杯いくらで買って,それをお好みで調理してもらう仕組みである.今回はお刺身と茹でガニ,にぎり,鉄砲汁に挑戦した.

Hanasaki1 (写真2) 花咲ガニの刺身,茹でる前なので体表の色が異なります.

 まずはお刺身である.以前ズワイやタラバの刺身は食べたことがあるのだが,花咲は初体験,ワクワクして登場を待つ.やってきた花咲ガニの刺身は白くてプリッとしている.一口食べるとやや硬くて淡白な味わいだった(わさび醤油を付けるといい感じ).以前食べたズワイガニのトロっとした食感とは全く異なる感じであった.

Hanasaki2(写真3) 茹でた花咲ガニ

 次に登場したのが,茹でガニである.花咲ガニは浜茹でに限るという意見が多いだけあって,これが実に美味い.先ほどの刺身とは打って変わって,甘味が多く,濃厚でやや脂っぽい味だ.当然酒と一緒に飲みたくなることは言うまでもない.

Hanasaki4 (写真4) 花咲ガニのにぎり

 その次が花咲ガニの握りである.浜茹でしたカニをネタにしたお寿司であったが,濃厚なカニの味とさっぱりしたシャリの妙が素敵な感じだった.

Hanasaki5(写真5) カニのぶつ切りが入った鉄砲汁は飲んだ後に最高です.

 そして,締めが鉄砲汁である.これは早い話がカニの味噌汁なんですが,カニの出汁がきいた味噌汁は実に美味なのでした.カニ汁といえば昔学生時代に知床半島東岸の羅臼にある民宿まるみという宿で朝食に出たカニ汁が絶品で,いまだに忘れられない(機会があればまた行ってみたい).

 こうして花咲ガニを堪能した夜であった.

 ちなみに花咲ガニとタラバガニは厳密にはカニではなくヤドカリの仲間である(ズワイや毛ガニと比べると脚が一対少ない).この「まるしめ本店」さんのカニ料理のメニューはすべてタラバと花咲だったので,本当はヤドカリ料理なのではと心の中で突っ込んだのは内緒である(笑).

Hanasaki6 (写真6) 生け簀のカニ達.心なしか恨めしそうにこっちを見ている気がしました.

 

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2008年12月 2日 (火)

梶原平馬

 久しぶりの幕末ネタ.

 幕末の会津藩の家老に梶原平馬という人物がいます.天保十三年(1842年)に会津藩家老格の内藤信順の次男として生まれました.兄で長男の介右衛門が内藤家を継ぎ,次男の彼は会津藩の名門梶原家の養子に入りました.この時には梶原景武と名乗ってます.そして同じく重臣である山川大蔵(浩)の姉二葉と結婚しています.

 幼少時には泣き虫で引っ込み思案だったそうですが,成長とともに武芸・学問に秀でるようになり,文久二年に藩主松平容保が京都守護職に任じられると,その側近として上洛しています.慶応元年(1865年)に若年寄,翌二年(1866年)には24歳という若さで家老に昇進し容保を支えました(このころから平馬と名乗ったらしい).

 慶応四年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いの時は江戸にいたため戦いには参加していません.戦後徳川慶喜が恭順謹慎すると藩主容保は追われるように帰国しましたが,平馬は江戸や横浜に留まり武器商人のスネルから武器弾薬を調達します.そして同年4月に調達した物資とともに帰国しました(海路で新潟経由で戻ったそうです).

 当時藩内は主戦派と恭順派の対立がありましたが,平馬は主戦派で奥羽越列藩同盟の締結に尽力します.会津戦争中は城中にあって戦争指導に当たりましたが,武運なく敗戦・開城となります.戦後は新政府側との折衝に当たり,嫡子容大による斗南藩としての再興に努力しました.明治三年(1870年)に他の藩士たちとともに斗南へ,移住地は今の青森県五戸町の上市川というところです.しかし当時の斗南は作物の実らない不毛の地で藩士たちは厳しい窮乏生活を強いられました.そんな中翌明治4年に廃藩置県が行われて斗南藩は消滅,多くの藩士は斗南を去ります.平馬は青森に移り青森県庁の職を得ますが間もなく職を辞し姿を消しました(この頃妻の二葉とも離縁をしています).

 その後彼の姿を見たものはない…

 となっていたんですが,それから100年以上後の昭和63年(1988年)に平馬のお墓がなんと根室で発見されたのです.見つけたのは平馬の兄内藤介右衛門の孫にあたる萱野恒雄氏でした.青森を去った平馬は一時東京に行き,そこで水野貞という女性と再婚,彼女は教育者で東京の女学校で教鞭をとっていましたが,明治十四年(1881年)北海道に渡り平馬も同行しました.彼女は当初函館の学校で教えていましたが,翌明治十五年に請われて根室に移住しています.根室では平馬は文房具屋を営んでいたそうです.そして明治二十二年にこの地で没したとのことです.一方の貞は平馬の死後も根室で教育にあたり昭和二年(1927年)まで生きていたとのことです.彼女は根室では著名な教育者であり,その関係で平馬の墓所の発見にいたったもののようでした.

 会津・新撰組贔屓の私としてもぜひ訪れてみたい場所であり,今回根室訪問の目的の一つとなったのです.梶原平馬のお墓は根室市の中心部のやや西側にある西浜墓地にありました.古く小さな墓石にはかろうじて読める彼の戒名「鳳樹院泰庵霊明居士」が刻まれていました.

Kajiwaraheimabosho_3 (写真) 根室市西浜墓地に建つ梶原平馬の墓

 ちなみに平馬の兄,内藤介右衛門の墓地は青森県五戸町にあります(関連記事

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2008年12月 1日 (月)

日本最東端(BlogPet)

コンスタンチヌス21世の「日本最東端」のまねしてかいてみるね

最近で行くことが見たいところが聞こえて,こんなものをやりくりしたい.それでも決行には多くの方の花咲線でもほとんどなく,この路線は都会でも見られる場所ですが広がる道東は根室本線の人もメチャクチャ早く日の出が短くなるため本道最東に最果てとしてくれる場所です(16時に行ってこのの根室市郊外の択捉島よりもほとんどなくひっそりと思いながら夜の鉄道駅もある中標津空港からわずか1)本土最東端は都会でも見たいところが高いと思います)本土最東端はなく,一般人が見られるように遠い場所です(初冬と日15時に到着.一般に行ける日本ですっかり夕方の発達で呼ばれることに位置する納沙布岬ですが広がる道東は絶海の本州四端の風情が多いようですができないことを歩いてきそうです(写真3時でにぎわうこの地が少し失われていた11月29日が短くなるため年中一番というわけですっかり夕方の東には多くの根室市街地のビッグエコーです.飛行機の本州四端の終点根室へ,しかも生活感は東にいることを実感しますが,その一方旅のでした11月29日が簡単にいるため,この根室市街地の終点根室へ,訪問しつつ外に行ける日本では緯度が簡単に来たことに行ける日本の宗谷岬や札幌からバスで呼ばれることに最果てと日が広がる道東は緯度がイメージさせてこの週末行って活動します.

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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日本最東端

 最近結構忙しくてこのブログの更新もままならない状態でした.しかし,だからといって休みの日におとなしく家で寝ていることができない性分でもあります.何とか時間をやりくりして活動したい.というわけで,この週末行ってきました.根室へ.

Nemuro4 (写真1) 広大な根釧台地が広がる道東は最も北海道らしい雰囲気を醸し出しています.

 「なぜにそんな遠いところへ」という声が聞こえてきそうですが,見たいところがいくつかあっったんです.それでも決行には二の足を踏んでいたんですが,なんと「羽田-釧路 1万円」の航空券を見つけてしまい,「こりゃ行くしかない」となったわけです(東京-盛岡の新幹線より安い!).

 羽田からわずか1時間40分で,釧路空港に到着.飛行機の偉大さを実感しつつ外に出る.第一声は「うっ,寒い」,東京より10℃以上低かったです.空港からバスで釧路市内へ,目指す根室はここからさらに汽車で2時間かかります.

 HPの方の本州四端の記事でも述べているんですが,正確な日本の最東端は東京都南鳥島です(東経153度59分 北方領土の択捉島よりも東にあります).しかし南鳥島は絶海の孤島で気象庁や海上自衛隊など特殊な業務の人しか立ち入れないことになっているため,一般人が簡単に行ける日本の最東端は根室市郊外の納沙布(ノサップ)岬(東経145度49分)ということになります.

Nemuro1 (写真2) 本土最東端に位置する納沙布岬です.

 夏には多くの観光客でにぎわうこの地も,晩秋(初冬というべきか)の今は訪れる人もほとんどなくひっそりとしていました.

 ところで日の出と日没は東に行けばいくほど早くなります.したがってこの納沙布岬は日本で一番早く日の出が見られる場所です(冬には緯度が高いと日が短くなるため年中一番というわけではありませんが).その代り日没の方もメチャクチャ早くて,訪問した11月29日には午後3時ですっかり夕方の様相でした.

Nemuro2 (写真3) 2008年11月29日15時15分の根室の夕日です(16時には真っ暗になります).

 また根室には日本最東端の鉄道駅もあるんですが,実は終着駅の根室ではなく,その一つ手前の東根室駅なのでした(鉄道が根室市街地の南から回り込む形で走っているため).この路線は根室本線といいますが,最近では愛称の花咲線で呼ばれることが多いようです.

Nemuro6

(写真4) 日本の鉄道駅の最東端に位置する東根室駅です. 

 一般に最果てというと同じ北海道の宗谷岬や知床半島がイメージされますが,宗谷岬のある稚内は東京や札幌から直接飛行機で行くことができます.また知床は確かに遠い場所ですが,自然のイメージが強くあまり生活感はありません.その点この根室納沙布岬は最寄りの空港である中標津空港からでさえ1時間半かかり,しかも生活感が強く,遠くに来たことを実感させてくれる場所だと思います.

Nemuro5 (写真5) 根室本線の終点根室駅にて,ここで線路が終わっています.東京1607kmという標識にゾクゾクします.

 そんなことを思いながら夜の根室の街を歩いていたら,こんなものを発見.

Nemuro3 (写真6) ご存じカラオケ全国チェーンのビッグエコーです.店内には都会でも見られるような若者がいて,一瞬自分が根室にいることを忘れてしまいました.

 情報・流通の発達で,今では全国どこに行っても同じような店が見られるようになりました.その一方旅の風情が少し失われてしまった気がします.

Toutan (写真7) 最東端到達証明書です.北方領土等もあるため本道最東端という表現になっています.

 

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