清河八郎の故郷
新選組結成に当たって清河八郎の果たした役割は決定的に大きい.
歴史にたら,ればは禁物だが,文久二年に八郎が時の幕府政事総裁職の松平春嶽に急務三策を提言しなかったら,おそらくは浪士組の結成もなく,従って近藤勇や土方歳三が幕末史の表舞台に出てくることもなかったであろう.
そんな清河八郎だが,彼にはどうしても策士のイメージが付きまとう.当初は将軍警護のためと称して浪士を集めたのに,京都に着いたとたんこれらを尊皇攘夷の尖兵とするよう画策するなどは.どう考えても一般的ではない.結局八郎は孝明天皇の勅諚を得たものの(一介の浪人が勅諚を貰ったというのも凄い話だが),幕府に警戒されて浪士組は江戸帰還することになり,これに反発した近藤や芹澤らが分離して後に新選組となったのは周知の事実である.
江戸帰還は表向き生麦事件後の不穏な空気から,外国との戦いに備えるという名目だったが,実際には浪士たちを自分らの手の届くところに置いときたいとの幕府の意向であろう.結局江戸帰還後も攘夷運動を進めていた八郎は,文久三年4月13日に佐々木只三郎らによって殺されてしまった.
そんな清河八郎の出身地は山形県の庄内地方である.現在の行政区分では庄内町の清川地区になる.ここには清河八郎記念館も存在し,地元では偉人として扱われているようだ.実際に個人の能力という点では八郎の文武両道ぶりは際立っている.長州の桂小五郎や新選組から御陵衛士になった伊東甲子太郎も文武両道とは言われるが,二人とも道場ではともかく,実線経験は未知数であるのに,八郎の場合は大刀一閃,相手の首が2メートルも吹っ飛んで瀬戸物屋のどんぶりに収まったというエピソードがあるほどの使い手でもある.
実は先週末,所属する学会の地方会があって出かけたのだが,せっかくだからと庄内まで足を伸ばしてきたのだった.目指す清河八郎記念館は街中にひっそりと立っていた.隣接して八郎を祭った清河神社もありそこには八郎の銅像も立っているのだが,なんと神社は雪に埋もれて冬季閉鎖状態,参拝が不可能な状況であった.八郎の銅像も青いシートに囲われていた(泣).空は快晴で結構気温も高かったのだが,さすが庄内は雪深い土地だと改めて感動したのだった.
雪に閉ざされるためか,清河八郎記念館は冬季閉鎖である.3月に入って開館したばかりのようだった.
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