近所のバス停
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昨年始まった境港の妖怪検定,今年は11月18日に行われたのだが,その合格発表がネット上で行われていた.昨年初級に合格した私も,今年はぜひ中級に挑戦したいと張り切っていたのだが,どうしても都合がつかず,泣く泣く断念したのだった(昨年は10月の三連休の中日の実施だったのだが,今年は普通の日曜日の開催だったためどうやっても月曜の朝までに帰ってこられないため).
ホームページ上の合格発表を見たのだが,今年は初級が325人中合格201人(合格率62%),中級は291人中合格が51人(合格率18%!)という結果だったようだ.昨年の第1回は初級のみで合格率が90%以上だったから,今年は相当に難易度が上がったことになる.試験後,ネット上に受験した方々の感想などが出ていたのだが,結構難しかったという声が多かった.特に中級は,記述式が中心だったようで,受験者の中には”ほとんど何も書けなかった”という人もいたらしい.もし私も受験していれば,付け焼刃の知識では粉砕されたに違いなかった.それにしても中級の合格率18%は凄い.昨年始まった新司法試験の合格率(約40%)よりも低い(初級の合格率6割は日本神経学会専門医試験並み).これだけ難しければ,そのなかで合格した51人の方々というのは相当に気合の入った人なのだろう.来年第3回が行われれば,今度こそ中級にチャレンジしたいと思った(来年も普通の週末開催なら年次をとることを考えるか).
追伸: 昨年易しかったことから今年は難易度が上がったと思われるが,今年これだけ難しいと逆に反動で来年は難易度が下がるんじゃないかと,取らぬ狸の皮算用をする私だった.
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岩手県内のJR山田線,岩泉線を走っていた気動車(ディーゼルカー),キハ52がこの3連休の中日11月24日で引退となりました.この連休私は当番のため出かけることはできませんでしたが,報道によると全国から1000人以上の鉄道ファンが詰め掛けたそうです.
(左)引退する国鉄色のキハ52 (右)大志田駅を通過する盛岡色のキハ52
キハ52系は非電化区間を走る気動車として昭和30年代から製作されたもので,エンジンを2基搭載されていることもあり,主として馬力を要求される山岳路線に配備されました.非電化路線のスピードアップに貢献しましたが(なにせこの列車の前は蒸気機関車時代),製造から50年近い歳月で老朽化が著しいのと,列車の高速走行が当たり前になった現代ではパワー不足が明らかなのとで,全国で順次引退となっているのでした.岩手県の山田線・岩泉線はこのキハ52が今でも走る路線として知る人には知られていましたが,今回ついにお役御免となった次第です.この日は「栄光のキハ52号」,「さようならキハ52号」という形で運行されたようです(特に「さよなら~」は普段の山田線ではありえない5両編成だったようです).
一方で山田・岩泉線で運行されていたもうひとつの系統,キハ58系(主として非電化区間の急行列車用として製造されたもの)は,すでに先月20日をもって運行が終了しており,今後は同線内もキハ110系気動車による運用となります.110系は平成になってから運用された比較的新型の気動車で,馬力もあり,冷暖房完備の優れた車両です.山田・岩泉線も文明開化されたというわけでしょうか.
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BS iで放送されていた東ローマ帝国の特番「東ローマ帝国~繁栄と滅亡・皇帝たちの軌跡~」が11月22日に最終回を迎えた.これは2003年に放送された東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のスペシャル番組の再々々‥放送で,今回は10月11日から木曜日ごとに放送されていたものである.普段からビザンチン皇帝を名乗っているものにとっては,絶対に見逃せない番組で,私も何度か見ている.
最終回は,第5回「滅びゆく全世界の支配者」と題して,十字軍から帝都コンスタンチノープルを奪回した後の,パライオロゴス朝時代の物語であった(時代的には13世紀後半から15世紀半ばまで).この時代西ヨーロッパでは国王を中心とした中央集権国家が形成されはじめ,ベネチアやジェノヴァといったイタリアの商業都市が隆盛し、地中海貿易の実権を握っていた.東方では新興イスラム国家であるオスマン・トルコが勃興していた.東ローマ帝国は往年の栄光をすっかり失い,首都とその近郊および小アジア北東部とペロポネソス半島付近にわずかに領土を持つだけの小国家になっていた.かつては世界の富の3分の2が集まるといわれたコンスタンチノープルも,商業上の利益はすべてイタリア都市に持っていかれる有様で衰退していた.小アジアからはトルコが,バルカン半島からはセルビア王国が帝国を脅かしていた….
と堅い話は置いといて,番組中東方正教を受け入れたセルビアの教会の話が出ていたのだが,その教会の名前に目が点になった.
サボールナ教会(さぼるな教会?)って…,凄い名前だ.礼拝を2回続けてサボると破門されるとか,何か激しそうな教会です.
今回これを発見したのはKです.過去何回か見ていた私は気がつきませんでした(笑).
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今朝職場においてあった朝日新聞の声の欄に,「ブルートレインの廃止残念」との声が.なんだろうと思ってみたら,どうやら来年春のダイヤ改正で寝台急行「銀河」が廃止になるというウワサがあるらしい.
急行「銀河」とは,東京と大阪を結ぶ全車寝台車の夜行の急行列車である.旧態依然とした開放型のA寝台車1両とB寝台車のみという編成で,最終の新幹線が出発した後に東京駅を発車し,翌日の始発の新幹線到着前に大阪に着くというのがコンセプトである.私にとっては急行「はまなす」(青森⇔札幌)とならんで利用頻度の多い寝台列車である.
(左)入線してきた急行銀河 (右)A寝台の客車
なぜか,それは「銀河を使うと土曜日の朝を京都で迎えられる」からである.私のように少ない休みをフルに使って旅する人間にとって,寝ているうちに目的地に到着する寝台列車は非常に利便性が高い.特に東北地方在住の人間にとって,週末を使って関西方面を旅行する場合,土曜の朝に出発すると現地着が午後になってしまい,活動範囲が狭まってしまうのである.そこで,金曜の夕方に気合を入れて仕事を終え,夜7時台の新幹線に乗れば,午後11時発の「銀河」に乗り換えて,土曜の朝に京都や大阪に着いているという寸法である(同様に「はまなす」を使うと土曜の朝札幌に着いている).
(左)B寝台車の風景 (右)B寝台内の様子
(左)A寝台車の風景 (右)A寝台内の様子,B寝台よりゆったりしています
そんな銀河が廃止されてしまうとは….理由は利用率の低下だそうだが,私が利用している金曜日はいつも満車のような気がするのだが,もしかしたら平日はガラガラなのだろうか.だとすれば,せめて需要のある休前日の臨時列車として残してはくれまいか.そんな思いで記事を読んだのでした.
夜11時前の東京駅10番ホームです.銀河のあとに大垣行きの夜行快速が出ますが,さすがに最近では,これに乗る体力はありません(泣).
追伸: 銀河がなくなると,金曜に東京に泊って土曜の朝一の「のぞみ」で行くか,さもなければ秋田から「日本海」で行く方法がある(ただ,秋田に出るのは結構大変だし,現地着も翌午前10時位になる).あとは東京から快速「ムーンライトながら」で行くワザもあるが,体力的にシンドイな.
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来月台湾に行くことになった.
私も所属している合唱団が2年前にドイツでお世話になったゲアノート・シュマルフス先生(北西ドイツ音楽大学教授)が,台湾のエヴァーグリーン交響楽団の音楽監督をされているのだが,来月台湾でバッハのクリスマス・オラトリオの演奏会をするとのことで,その合唱団の一員としてである.
クリスマス・オラトリオBWV 248は,マタイ受難曲BWV 244,ヨハネ受難曲BWV 245,ロ短調ミサ曲BWV 232とともにバッハの四大宗教曲に挙げられる傑作である.全曲を通すと3時間かかる大作だが,本来は1日で演奏されるものではない.12月25日から翌年の1月6日(顕現節)にかけて6回にわけて演奏されるべきものである.曲は第1部から第6部まであり,第1部が12月25日(降誕節第1主日),第2部が12月26日(降誕節第2主日),第3部が12月27日(降誕節第3主日),第4部が新年1月1日,第5部が新年後最初の日曜日に,そして第6部が1月6日の顕現節に演奏される.今回台湾ではこのうち第1部から第3部までを演奏するらしい.本番は12月23日(日),そう12月の3連休の中日である.当初からここの3連休私は非番で,冬の温泉紀行としゃれ込もうと思っていたのだが,台湾に変更になりました(笑).
シュマルフス教授と(2005年12月31日 デットモルト in ドイツ)
これまでもドイツやフランスでバッハをやったことはあるが,まさか台湾でやる日が来るとは思わなかった(南国イメージとバッハってあわないよなぁ…).
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めっきり寒くなった.夕方平庭峠を走っていたら完全に雪だった.いよいよ本格的に冬シーズンの到来である.
それにあわせたわけじゃないが,風邪をひいてしまった.熱はないものの,全身倦怠感,咳,鼻汁がひどい.典型的なライノウイルス(Rhinovirus)感染である.
ライノウイルスとは,いわゆる風邪ウイルスのことで,急性上気道炎を引き起こすウイルスである.非常にありふれたウイルスであり,これにやられた経験のない人は皆無だろう.ウイルス感染は一度経験すると免疫ができるのだが,ライノウイルスは何百種類もバリエーションがあるので,実質的に一生付き合わなければならないウイルスなのであった.
ウイルス疾患であるから特効薬はなく,栄養のあるものを食べて寝るしか方法はないのであった.
そういえば今年はインフルエンザの流行が例年より早いらしい.さっさと予防接種をしたほうがいいかもしれない.
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今日は11月15日である.今から140年前の1867年(慶応3年)11月15日に,京都河原町の近江屋で幕末の英雄坂本龍馬が同郷の中岡慎太郎ともに襲撃を受け,龍馬は即死、中岡も二日後に死亡した.犯人は京都見廻組といわれているが異説も多く,本能寺の変などと並ぶ日本史の謎のひとつである.幕末好きで新撰組愛好家の私は立場上佐幕派ということになるのだが,坂本龍馬は別格で愛好している.
ただ坂本龍馬は生前はそれほど知られた存在ではなかったらしい.明治になって新政府内で薩摩・長州の藩閥が幅をきかせるなか,土佐出身者達が自分達の立場を強くするために龍馬を英雄に仕立てていったという側面もあるようである.特に日露戦争時に当時の皇后の夢枕に立ったという話は龍馬の名を広めるのに大いに役立ったようだ.そして第二次世界大戦後,司馬遼太郎の「竜馬がゆく」によってその人気は不動のものとなったのである.現在では幕末期を代表する英雄として知られ,また日本人が好きな歴史上の人物では常に上位にランクされる存在になっている.
龍馬を生んだ土佐(高知)では文字通り郷土の英雄であり,太平洋に臨む桂浜には巨大な龍馬の銅像が,大海原の遥か彼方を見つめるように立っているのである.旧制高知高等学校の豪気節の一節を歌うかのように
九つとせ,この浜寄する大波は,カリフォルニアの岸を打つ,そいつぁ豪気だね
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先日実家の押入れを整理していたら昔のカセットテープが発見されました.
これは昭和50年代にソニーから出ていたカセットテープで,AHFという種類です(主としてクラシック音楽用テープ).当時のソニーからはこの他,CHF(赤いラベルで会議等録音用),BHF(緑のラベルで一般音楽用),JHF(クロムテープ),フェリクロムテープ,メタルテープなどが出ていました.
何が録音されているのだろうと聴いてみたら,なんと思い出のテープ逆回し合唱曲でした.学生時代合唱団に所属していた私は,合唱関係のVOWなイベントもやっていたのですが,その中のひとつがこれでした.
具体的には,たとえば歌を歌う時には,音程・母音・子音の組み合わせで演奏が完成します.そこで,ある楽曲の音程・母音・子音を全て逆転させた楽譜を作って歌い,それを録音したテープを逆回転させたら本来の楽曲が出来上がるはずと考えて仲間内でやってみたものです.
例) 花
これはご存知滝廉太郎作曲の「花」の一節です.これを音程・母音・子音全てを逆転させると…
このようになります.逆転させた歌詞を発音すると”アワガディムソナラルオヌラフ”となります.本来子音から始まるため,逆転させると子音で終わることになるので,最後のHは母音のない”フ”という発音になります.こうして逆転した楽譜を歌い,録音したものを再度逆回転させると本来のモノができるはずです.
ここでは当時私たちが録音した曲のひとつを聴いてみてください(歌いにくい逆転楽譜を歌ったのと,テープがボロボロでひどい演奏ですが 泣).曲は大中恩氏作曲の「わたりどり」の一節です.
↑
まずは逆転させた楽譜を歌います(最後に入った言葉は曲名です).
↑
それをさらに逆再生すると…,一応わたりどりに聴こえます.
当時が非常に懐かしく思い出されました(またやってみたくなった 笑).
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先週敦賀に行ってきたのだが,ここにはちょっと変わった観光名所がある.それが漫画家松本零士氏の有名な作品,「銀河鉄道999」と「宇宙戦艦ヤマト」のブロンズ像である.駅前のアーケード街の両側に合計28体の像が並んでおり,駅から見て右側に「銀河鉄道999」の像16体が,左側に「宇宙戦艦ヤマト」の像12体が並んでいる.像のコンセプトは999の方は映画版「銀河鉄道999」のもの(鉄郎の顔が大人っぽいバージョン),ヤマトの方は昭和55年に公開された映画「ヤマトよ永遠に」である.
街の目抜き通りのモニュメントというと,鳥取県境港市の妖怪ブロンズ像が有名であるが,こちらは漫画家水木しげる氏の出身が境港であることに由来するもの,じゃあ松本零士氏は敦賀に関係があるのかというと,実は特にないらしい(松本氏は福岡県生まれ).何でも敦賀開港100周年記念事業のひとつとして1999年に造られたそうである.敦賀が港と鉄道の街ということで999とヤマトになったそうだが,個人的にはせっかく1999年なのだから1000年女王でも良かったのではなどと思ってしまった(ちょっとマイナーか).999もヤマトも私が中高生の頃流行っていて,熱中して見ていた懐かしい作品である.
ブロンズ像の写真は美術館のほうにアップしました.
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福井県敦賀市の見所のひとつに氣比神宮がある.702年(大宝2年)に建立されたというから1300年以上の歴史を持つ神社である.江戸時代には,あの松尾芭蕉も訪れたという.
そんな氣比神宮で変わったおみくじを見つけた.名づけて氣比の恋みくじというらしい.要するに恋占いというわけだ.恋の成就ということであれば,同じ敦賀市内にある金崎宮が”恋の宮”として知られているのだが,どうして氣比神宮の方に恋みくじがあるのかは不明である.
せっかくなので挑戦してみることにした.100円を入れてたくさんの御籤の山の中から1枚を採ると……,
(左)愛情運は中吉で,過去のことは忘れて,新しい恋に人生をかけろということだそうです.自暴自棄になると身を滅ぼすそうです.(右)てんびん座で,戌年生まれで,B型で多少年の差がある人がいいのだそうです.上段で決心して縁談を進めろと書いていますが,下段ではまだ早い,2,3年待てと矛盾したことが書かれています(笑).
見終わった御籤は,神社の結び木に結んできました.
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昨日の夜帰宅してテレビをつけたら,NHK BSでなんと!去年放送していたビザンチン帝国の特番が再放送されていた.ビザンチンの特番としてはBS-i の「東ローマ帝国」5回シリーズが有名だが,このNHKの「ビザンチン帝国」もなかなか見ごたえのある作品であった.BS-i の特番が帝国の歴史に沿って,主要な皇帝の視線から見た番組となっているのに対して,NHKの特番は主にビザンチンの文化に着目して,帝国が1000年もの長きに渡って栄えた謎を解き明かそうと試みている.全3部構成で,第1部はモザイク画をはじめとするビザンチン美術について,第2部は帝国の精神的支柱となったキリスト教を通して,当時敵対関係にあったイスラム世界とどのように渡り合ったかを(十字軍以降の西欧のキリスト教徒のイスラムへの対応を知るものとして,同じキリスト教徒でありながらビザンチンのイスラム教徒への対応の巧みさに感動する),第3部では帝国の終末と後の時代に与えた影響を,同じ大学に学ぶギリシャ人の女子学生とトルコ人の男子学生がそれぞれの民族的,宗教的視点から取材していく様子が描かれている.
BS-i の「東ローマ帝国」の再放送と時を同じくしてのNHKの再放送,別に対抗したわけでもないだろうが,偶然にしてはすごい話と感動した次第である(ビザンチンと秋は特に結びつかないなぁ,コンスタンティノープルの開都は5月11日,陥落は5月29日でどちらも季節は春だ).秋の夜長にビザンチンについて学ぶのは皇帝として無上の喜びである(大げさ 笑).
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この週末敦賀に行ってきた(他にも用事があったのだが…).敦賀は日本海に面した港町,越前がになどの海産物で知られている.歴史的には戦国時代の元亀元年(1570年),当時越前を支配していた朝倉義景を攻撃した織田信長の軍勢が,同盟者であった浅井長政の裏切りで挟み撃ちとなり,危機に陥った場所として有名である(金ヶ崎城).また関が原の戦いで西軍に与して戦死した大谷吉継が支配した土地でもある.近代以降は大陸に向けての海の玄関口として知られ,第2次世界大戦では在リトアニア領事代理だった杉原千畝氏が発給した日本の通過ビザ(いわゆる”命のビザ”)を持った大勢のユダヤ人達が長旅の末,上陸した土地でもある.
旧敦賀港駅舎です.今は杉原千畝氏に関する展示などがあります.
こんな敦賀であるが,幕末史では水戸天狗党終焉の地として歴史に名を刻んでいる.水戸天狗党については以前の記事(幕末の水戸藩)を参照していただきたいが,幕末の尊皇攘夷思想のオピニオンリーダーだった水戸藩のなかでも,もっとも過激なグループのことである.創成期の新選組の局長だった芹澤鴨も一時所属していたと言われている.
元治元年3月,一向に攘夷を実行しない幕府に対して藤田小四郎(藤田東湖の子)を中心とする天狗党は筑波山で挙兵した.後に水戸藩家老の武田耕雲斎を首領に据えた一行は,当時将軍後見職であった一橋慶喜(前水戸藩主徳川斉昭の子)を通じて自らの赤心を朝廷に訴えるべく京都を目指した.
雪の降る山中を行軍すること約50日,ようやくのことで越前の国新保(今の敦賀市)に辿り着いた一行を待ち受けていたのは,幕府の大軍と,彼らが頼みとしていた慶喜自身が追討軍の指揮を執っているという知らせであった.慶喜に弓を引くことはできず,武田耕雲斎は降伏を決意,12月17日一行は所在の加賀藩に投降した.
当初加賀藩の永原甚七郎は天狗党を寛大に扱い,翌元治2年の元旦には酒もふるまわれたという.しかし1月29日に身柄が加賀藩から幕府若年寄の田沼意尊に渡されると扱いは一変する.田沼は天狗党一行を肥料用の鰊倉に押し込めたのだった(幹部級以外は皆手枷足枷をはめられた).倉では暖房や布団もない寒さと魚の異臭から,体調を崩す者が続出したという.その後ごく簡単な取調べが行われただけで,2月4日から首領の武田耕雲斎,藤田小四郎以下300人以上が一挙に死刑になったのである.
これが元治元年から翌2年にかけての天狗党の乱であるが,いくら激動の時代とはいえ,これほどの大量殺戮は例がなく,この始末には当然世間の非難が集まった.新選組総長の山南敬助が同じ月に脱走,切腹しているが,この天狗党の始末に絶望したため(彼は新選組主要メンバーの中ではもっとも尊攘派だった)という説がある(通信事情の悪い当時,山南が天狗党の大量処刑を知りえたかは疑問であるが…).
天狗党が処刑された来迎寺周辺には,現在彼らを祭った松原神社があり,武田耕雲斎以下のお墓や天狗党が収容された鰊倉の一棟が水戸烈士記念館として保存されています.
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唐突ですが,今敦賀にいます.越前の国敦賀です.日本海に面した港町で,原子力発電所があり,結婚した後の桜田淳子さんも住んでいたという敦賀です(今も住んでいるかは不明).
ではなぜに敦賀なのか? 実は今年の夏に水戸を訪問し,幕末の天狗党関連の史跡を回ったのですが,その際に天狗党終焉の地である敦賀もぜひ訪問したいと心に誓ったからでした.ここには天狗党首領の武田耕雲斎の墓や,天狗党の面々が収容された鰊倉が残っています.
訪問記事は後日アップいたします.
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