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2007年8月14日 (火)

幕末の水戸藩

 久々の幕末モノ長文です.先日の水戸訪問で撮った写真を使っています.時間のある方はお付き合い下さい.

 幕末期において,水戸藩ほど悲劇的だった藩はなかったのではないだろうか.悲劇的といえば,会津藩もそうなのだが,会津藩の場合は藩としてひとつの思想の下に突き進んだものの,時代が彼らに味方しなかったという感じだ.それゆえ悲劇的ではあるのだが,京都での新選組や藩主容保と孝明天皇の結びつき,そして会津戦争での白虎隊などそこには我々の胸に響く歴史がちりばめられている.しかし水戸藩の場合は,藩を上げて活動する以前に,内部抗争で崩壊してしまった点に,より悲劇性を感じる.

P8040004 JR水戸駅前の水戸黄門御一行の像

 水戸藩は言うまでもなく徳川御三家のひとつである.徳川家康の十一男徳川頼房を藩祖とし,二代藩主には有名な水戸黄門こと徳川光圀がいる.水戸藩主は参勤交代のない江戸常府の大名であり,そのため常に江戸にいて,将軍を補佐する役割として”天下の副将軍”などと呼ばれる(実際には幕政を動かすのは,譜代大名から選ばれる老中や大老であり,御三家を初めとする親藩大名には幕政参加の権利はないのだが).ただ水戸藩は,実高は25万石程度に過ぎなかったのに,御三家という高い格式を重んじて,表高38万石を標榜したため,常に経済的には苦しかった.このため自然と質素・尚武の気風が養われていった.

P8040098 大日本史完成の地碑

 水戸藩は光圀の大日本史の編纂で知られるように,学問の気風が強い藩である.その水戸学の基本思想は尊王論であり,この思想は幕末の尊皇攘夷思想につながっていく.幕末期にこの水戸学の大家として全国の尊攘派の志士に大きな思想的影響を与えたのが,藤田東湖会沢正志斎である.東湖は同じく水戸学者で彰孝館(水戸光圀が設立した学問所)総裁だった藤田幽谷の子として文化3年(1806年)に生まれた.文政12年(1829年)に徳川斉昭が藩主になると,その側近として藩政改革に活躍すると共に,その尊王攘夷論でもって全国の志士たちのオピニオンリーダーとなった.一方の会沢正志斎は天明2年(1782年)に生まれ,東湖と同じく斉昭の藩主就任と共に重用され,藤田幽谷の死後は彰孝館の総裁になった.文政7年(1824年)にイギリスの捕鯨船が遭難して,船員が常陸大津浜に上陸するという事件が起こると,彼は藩命によりイギリス人を捕らえ,彼らを尋問する任務を果たしている.この直後に彼が著したのが「新論」で,強い尊皇攘夷思想が述べられたこの本は,全国の若い尊攘志士たちのバイブルとなった.このように東湖や正志斎の影響は強く,薩摩の西郷隆盛や長州の吉田松陰,越前の橋本左内らも彼らの薫陶を受けた志士である.こうして水戸発の尊攘思想は時代をリードする思想となった.

P8040046 藤田東湖誕生の地に立つ東湖の像

 ここで話を水戸藩の政局に移す.元来水戸藩の内部には保守派と改革派の対立があった.その根源は寛政期の藤田幽谷立原翠軒による「大日本史」の編集方針の対立であったという.これ以後藤田派が改革派(尊攘派),立原派が保守派(佐幕派)となる.両派は事あるごとに対立したが,文政12年(1829年)に改革派に支えられた斉昭が藩主に就任することで,保守派は一掃されていた.しかし,安政2年(1855)10月2日に江戸を襲った大地震で改革派のトップとも言うべき東湖が圧死すると藩を取り巻く状況は暗転する(地震の時東湖は,屋敷から逃げ出したものの,母親がまだ屋敷内にいることを知って引き返し,母を逃がした直後に落下してきた梁の下敷きになったという).

P8040099 水戸藩9代藩主斉昭とその子,後の徳川幕府15代将軍慶喜の像

 嘉永6年(1853年)の黒船来航以来の中央政局は,通商条約を結ぶかどうかの問題(通商問題)と第14代将軍を誰にするかの問題(将軍継嗣問題)が複雑に絡んで混乱していた.将軍継嗣問題では水戸藩は斉昭の下,薩摩の島津斉彬,越前の松平春嶽らと組んでいわゆる,一橋派(斉昭の実子,一橋慶喜を推す一派)を形成していた.しかし,安政5年(1858年)4月に彦根藩主井伊直弼が大老に就任すると状況は一変,条約は締結され,14代将軍は紀州藩主徳川慶福と決した.朝廷の勅許を得ない調印に激怒した斉昭は江戸城に押しかけ,井伊に抗議したが,逆に無断登城を咎められ永蟄居となってしまった.斉昭の失脚によって,水戸藩内の保守派は俄然勢力を盛り返した.

P8040021 水戸の弘道館内に残る尊攘の文字

 こうした中,安政5年8月突如として密勅降下事件が起こる.「幕府を動かして攘夷を実行せよ」との勅状が朝廷から水戸藩に直接下されたのである.まさに幕府の権威をないがしろにした大事件である(井伊との抗争に敗れた斉昭が朝廷を動かしたといわれるが,逆に井伊の陰謀であったという説もある).幕府は水戸藩の保守派にテコ入れして勅状を返還するよう圧力をかけるとともに,勅状降下に関与したとして改革派の水戸藩家老安島帯刀を捕縛する挙にでた.御三家の家老が幕府に逮捕されるというのは前代未聞の異常事態である.これに反発する改革派(これ以降は激派と呼ぶべきか)は返還を実力で阻止するため,江戸に通じる街道を占拠し,通行人の身体改めをするという行為に出た.こうして藩内は大混乱に陥っていく.

P8040067 桜田門外の変之図(水戸 回天館)

 その後安政6年にかけて日本国内には安政の大獄が吹き荒れ,井伊直弼に反対する勢力は次々に逮捕され断罪されていった.この中には先に逮捕された安島帯刀ら水戸藩の改革派のものも多く含まれている.翌万延元年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊は暗殺されるが,暗殺者18人のうち17人が水戸脱藩浪人であった.

 白昼,大老が暗殺されるなど,幕府にとっては面目丸つぶれである.いかに脱藩浪人とはいえ,暗殺者の大半が水戸であったことから,幕府による水戸藩過激派の取り締まりはますます強くなった.さらに同年8月に斉昭が急死,重石を失った藩内の混乱に拍車がかかる.過激派は文久元年(1861年)5月に高輪のイギリス公使館を襲撃,さらに翌文久2年1月には坂下門外の変で老中安藤信行を襲撃するなどのテロ行為を繰り返したが,幕吏の手に掛かり多くのものが逮捕,斬罪されていった.

 そして元治元年(1864年)3月についに天狗党の乱が起こる.天狗党とは水戸藩激派のことである.当時藩政は保守派に握られていたことから,天狗党は攘夷の先駆けとなるべく筑波山で挙兵したのだった(この天狗党の挙兵に対し長州の桂小五郎が資金協力をしていた).この頃の藩内の状況は,従来の幕府に恭順する保守派(諸生党)と反対する激派の対立構造から,激派自体が藤田小四郎(藤田東湖の息子)ら最過激派(天狗党)と会沢正志斎,武田耕雲斎ら穏健派とに分裂し,三つ巴の情況を呈していた.天狗党の乱を起したのは最過激派の藤田小四郎らである.

P8040063 天狗党の進路を記した地図.太平洋岸の那珂湊から日本海側の敦賀までざっと600kmもの距離があります.

 攘夷を実行すべく挙兵した天狗党だが,実際には藩内の派閥抗争の様相を呈してきた.この頃になると,敵の留守宅を襲撃し,妻子を捕らえて虐殺するなどの事件も続発してきたため,お互いの憎しみはますます増大し,戦いは陰惨さを増していった.

 筑波山周辺での泥沼の戦いは数ヶ月続いたが決着は付かない.筑波山による小四郎ら天狗党,水戸を押さえ政権を牛耳っている市川三左衛門ら保守派(諸生党),磯浜による武田耕雲斎らの中間派,さらには天狗党討伐のため派遣された幕府軍などが入り乱れた状況であった.家老の武田耕雲斎は藤田東湖と共に斉昭の藩政改革を支えた人物で,元々激派に属していた.しかし小四郎ら最過激派の行動には批判的で,中間派を形成していた.天狗党の乱が起こると,当初は江戸の藩主徳川慶篤の命で乱を鎮めるべく水戸に向かったが,市川ら諸生党に水戸入城を拒絶され,逆に攻撃される有様であった.ここにいたり耕雲斎ら中間派も天狗党に合流することになった.

P8040071 本来小四郎らの挙兵には反対であったが,やむなく天狗党の首領にされた武田耕雲斎

 戦闘は幕府軍の増援がやって来て,次第に天狗党に不利な状況になってきた.こうした中,天狗党では状況を打開するために京都に上って,将軍後見職の一橋慶喜を通して,朝廷に直接尊皇攘夷の赤心を訴えようということに決し,11月1日に京都に向かって進軍を開始した.幕府は天狗党を追討するよう諸藩に命じたが,諸藩では天狗党が歴戦の精鋭であることや,藩士の中に天狗党を支持するものも多かったことから,実際にはあまり戦闘は起こっていない(諸藩では天狗党が主要街道を通過すると戦わざるをえないため,ひそかに路銀を渡して間道を通るように誘導する始末であった).そして12月11日一行はついに越前の国新保に到着した.

 しかしここで彼らを待っていたのは,頼みの慶喜自身が追討軍を率いてやってくるという知らせであった.慶喜に弓を引くことはできない,やむなく彼らは12月17日,所在の加賀藩に降伏した.

 当初加賀藩は降伏した天狗党を敦賀の3ヶ所の寺に収容した.加賀藩の永原甚七郎は彼らを武士として丁重に扱い,正月には餅や酒も振舞われたという.しかし,明くる元治2年1月29日,幕府の若年寄田沼意尊がやって来ると状況は一変する.田沼は天狗党の面々に手枷足枷をはめて,海岸の鰊倉にぶち込んだのである.暖房も布団もない鰊倉は真冬の寒さと,魚の異臭が漂い極めて劣悪な環境であった.そして簡単な取調べが行われたのみで,2月4日から武田耕雲斎,藤田小四郎以下400人近い人々が死刑になった.これが幕末維新史で最も凄惨な事件といわれる天狗党始末である(この時天狗党の処刑を担当したのが,桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった).

P8040073 天狗党が収容された鰊倉 

 それにしてもひとつの事件で400人近くもの人間が死刑になるなど例のないことである.あの安政の大獄でも1年間で死刑になったのは8人であるし,天狗党の乱との類似性が指摘されている昭和の二・二六事件でも死刑は19人である.いかに天狗党の始末が常軌を逸しているかがわかる.

P8040087 水戸の妙雲寺にある武田耕雲斎の墓所(耕雲斎の墓は彼が処刑された敦賀にもあります).

 天狗党の処刑の後国許では,市川ら諸生党の攻撃がエスカレートし,天狗党に連なる人たちが老若男女問わず大量に処刑された(武田耕雲斎の一族も皆殺しにされている).こうして天狗党の乱によって水戸藩の尊攘派は壊滅状態となり,以後慶応年間を通じて水戸藩は佐幕藩となった(今年のひのパレの隊士コンテスト2次審査のネタが慶応3年冬の二条城における近藤勇と水戸藩重臣とのやり取りであった.この中で近藤が「我らは幕府のために命を懸けて戦ってきたが,貴公たちは何をしてきたのか」と凄むシーンがあったのだが,新選組が命懸けで不逞浪士と戦っている間,水戸藩は内部抗争に明け暮れていたのである).

 しかし,慶応3年大政奉還が行われ,翌正月鳥羽伏見の戦いが起こり,幕府の衰勢が明らかになると,水戸藩の諸生党は苦境に立たされた.この時かつての激派の残党が勢力を盛り返し,藩の実権を握った.市川ら諸生党は水戸を脱出し会津に向かったが,同年9月会津が降伏すると,再び水戸に舞い戻り藩校の弘道館によって,水戸城の激派と戦った(弘道館の戦い).戦いは激派の勝利となり,市川三左衛門は処刑され,諸生党は大打撃を受けた(この時,かつての天狗党の敵とばかり,諸生党の一族への迫害が起こった).明治になっても両派の争いは収まらず,明治2年に成立したばかりの新政府から,内部抗争をやめるように命令されるほどの状況であった.

P8040058 幕末の抗争で非業の死を遂げた水戸藩士達の共同墓地.まさに死屍累々です.

 こうして幕末の水戸藩は,尊王攘夷思想の魁でありながら,内部抗争で有為な人材をことごとく失ってしまった.明治政府が成立したとき,その要職に就いた水戸出身者はただの一人もいなかったのである.

 追伸: 今年のひのパレで私が演じた新選組五番隊隊長”武田観柳斎”はここで出てきた武田耕雲斎の親戚ではありません.

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コメント

桜田門外の変で「水戸浪士」という言葉が出てくるのに、その後の水戸藩の動きがわからないので調べていたら皇帝様のページにたどり着きました。「天狗党」という言葉も知ってはいましたがまさかこれほどまでに悲惨な響きであったとは・・。
大変勉強になりました。ありがとうございます。

水戸といえば芹沢鴨を連想するのですが、彼は水戸藩でもはみ出し者だったから新撰組にいたのでしょうか? なんて思ってしまいました。

投稿: パンダ子 | 2013年1月13日 (日) 15:05

パンダ子さん

こんばんは,こんな古い記事にコメントいただきありがとうございます.
幕末の水戸藩,そして天狗党は幕末モノの大河ドラマでも出てくることの少ない素材ですから,その陰惨な歴史はあまり知られていなように思えます.
作品としては島崎藤村の「夜明け前」にその顛末の一部が登場しますよ.

水戸脱藩といわれる芹澤鴨,新選組では天狗党の話題を出していたともいわれますが,実際の天狗党の乱がおこった時にはすでに故人になってますから,それ以前の文久年間にいたものかもしれません.
そういえば慶応元年の山南敬助の脱走の理由のひとつが天狗党への仕打ちのひどさに絶望したためというのを聞いたことがありますが,真偽のほどはどうでしょう.

投稿: ビザ皇帝 | 2013年1月19日 (土) 22:42

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