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2007年8月30日 (木)

危ないディズニーランド

 最近このブログ,旅行ネタが多くてますます名が体を現さなくなっている.

 それはともかく,以前ブログ仲間のフミヲさんがディズニーランドの話題を出していた.国内では圧倒的な人気を誇るテーマパークだ.しかし私は行ったことがないのである.別にミッキーマウスには恨みはないのだが,どうも混んでいるところが苦手なため,あえて行きたいと思わないのである(貸切なら是非行きたいが).

 そんなわけで,ディズニーランドについて調べていたら,見つけてしまいました,私好みのネタを…

 題して「危ないディズニーランド」,どうやらネパールの首都カトマンズの郊外にあるらしいのですが,怪しさムンムン.ヤクってる表情のミッキーやら,どう見ても車を停められそうにないパーキングや,入ったら二度と出てこれそうにない雰囲気やら,闇の遊園地(もしかしたらショッカーの経営か?)という感じでもう最高です.さすがの私も,「じゃあ行って来い」と言われても訪問には二の足を踏みます(笑).

 さあ,覗いてみましょう(ワンクリ詐欺ではありません 笑)

         

 危ないディズニーランド(この先は他の人のサイトです)

 当然ウォルト・ディズニー・カンパニーとは何の関係もないんでしょうが,ここまで怪しいと訴訟にもなりそうにありません(ディズニーもショッカーとは争いたくないに違いない).

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本能寺を観光しないです(BlogPet)

きょうコンスタンチヌス21世と、本能寺を観光しないです。

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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2007年8月28日 (火)

皆既月食

 今夜皆既月食があった(とはいってもすっかり忘れていたのだが).今週は相方が休暇を取って不在のため,一人で業務をこなさなければならないため結構つらい.

 20時少し前頃に買い物に行こうと車を走らせて,ふと空を見上げると,なにやら赤くかすんだような月が…,「あれっ,今日は満月じゃなかったっけ」と考えているうちに月食だったのを思い出したのでした.

 小学生自分は天体少年だったので晴れた夜などは,よく星を観察していたものだが,最近は真面目に天体を観察する機会も無くなってしまったのだった.街が明るくなってしまって星が見難くなったという話もありますが(昔の滝沢村は本当に星が良く見えたなぁ).

 残念ながらカメラを持参していなかったので,写真に撮る事はできませんでした(持ってたとしても撮影は難しそうだが).

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2007年8月27日 (月)

日本三大ガッカリ観光地

 先週末から職場の相方が夏休みを取っている.沖縄に行ったというウワサだ.

 沖縄! 私にとっては未知の世界である.いつか行って見たいと思いつつ,未だに行けていない土地だ(同様の場所に長崎や宮崎がある).きっと今頃はリゾートライフをエンジョイしているに違いない.

 さて,沖縄といえば私にとって外せない場所がある.それは守礼門(しゅれいもん),首里城にかかる門である.なぜここが外せないのか,それはここが日本三大ガッカリ観光地のひとつだからである.

 ガッカリ観光地とは名前は有名で,期待して行っては見たものの,そのショボさにガッカリしてしまう場所のことである.一般に三大ガッカリ観光地は

 ① 札幌の時計台

 ② 高知のはりまや橋

 ③ 沖縄の守礼門

の3つを指すとされている(その他名古屋の金の鯱や,外国人にとっては東京の日本橋も有力な候補らしい).

 このうち①は,時計台自体は風情があるのだが問題はロケーションで,高層ビル街の谷間に時計台がひっそりと寂しく建っている様は,涙をそそるものがある(ガッカリ! ガイドブックなどでは,時計台だけがアップになるように格好良写しているが).

 ②はよさこい節にも歌われる,高知を代表する橋であるが,なんとこれが橋と言いながら,川が無く欄干だけが飾られているのだった(ガッカリ!!).私が20世紀に行った時は本当に欄干だけだったが,その後公園として整備され,少しはガッカリ度が下がったものの,未だに十分ガッカリである.

 ③は私もまだ行ったことがなく,よくわからないのだが,風のウワサでは以前は本当に門だけがポツンと立っていてガッカリ!だったのが、その後整備が進み,今ではガッカリ度がかなり下がったというウワサである.

 世界中に行きたい所が山ほどあって困っている私でした.

Harimaya1 去年10年ぶりに訪れたはりまや橋,こうしてみると風情がありそうですが…

Harimaya2 離れてみると,こんなにトホホなのでした(これでも10年前に比べるとかなり風情があります).

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2007年8月25日 (土)

東京都駅(ひがしきょうとえき)

 時々全国の珍名駅を探して時刻表などを眺めたりするのだが、ふと考えたこと.ありそうでない駅シリーズである.

 その1 

 よく「○▲駅」の東隣に,「東○▲駅」というのがある.例として東仙台駅,東浦和駅,東根室駅などがある.しかし,京都駅の東隣には東京都駅(ひがしきょうとえき)はない.やはり漢字表記した場合に誤解を招くからだろうか.あれば楽しいのにと思う.

 その2

 沖縄を除く,46都道府県庁所在地には全て鉄道が走っている.そして県庁所在地にはその都市の名を冠した駅があるのだが(例 札幌市の札幌駅,盛岡市の盛岡駅),その都市名の駅がない県庁所在地が2箇所ある.

 ひとつは埼玉県のさいたま市で,さいたま駅というのは存在しない.ただ,ここは最近合併してできた都市であり,以前の県庁所在地である浦和には立派な浦和駅があるから仕方ないといえる.

 もうひとつは,福岡県の福岡市である.福岡市の中心駅は博多駅であり,市内には福岡駅というのは存在しない(福岡空港駅というのはある).困ったことに,福岡駅はなんと富山県高岡市に存在する.時々ここを福岡市の中心駅と勘違いして切符を買おうとする人がいるらしい(窓口で,福岡駅までの切符を下さいと言うのだろうか).ちなみに岩手県にある二戸駅,以前は北福岡駅と名乗っていた.

 もっとも,都市名を冠した駅が街の中心ではない,というパターンは結構あり,八戸市(中心は八戸駅ではなく本八戸駅)や神戸市(神戸駅より三ノ宮駅が栄えている),宮崎市(同 南宮崎駅),鹿児島市(同 鹿児島中央駅)などがある.これは鉄道開設時に,地域の人々が鉄道にネガティブなイメージを持っていたため,街の中心に駅を作るのに反対した歴史や再開発などで中心部が移動してしまったなどの理由が指摘されている.

 このように,たかが駅名であるが,考えるといろんな面白いことが見えてくる.

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2007年8月23日 (木)

秋 秘境駅号

 JR東日本盛岡支社の企画列車で「秘境駅号」というのがある.秘境駅というのは牛山隆信氏の造語で,周辺に人家などがなく,また列車以外の手段での到達が困難な駅のことである.なぜそこに駅があるのか疑問視されるものが多いが,これは以前は鉱山や材木の切り出し場所等で貨客輸送の需要があったが,その後の産業構造の変化から秘境化したものが多いようである(特に北海道).

 我が岩手県の北上山地を走っているJR山田線とその支線の岩泉線は,牛山氏の評価で4位,8位,9位にそれぞれランクされている,押角駅大志田駅浅岸駅というベスト10秘境駅を3つも抱える,全国屈指の秘境駅路線である.

 そんな観光資源(?)を活用しようというのが,この「秘境駅号」で毎年春と秋に運行されている.2007年は春が6月2日に,秋が9月16日,23日,24日に運行される予定である.

 私は昔から旅行好きで,よく列車にも乗っていた,あまりディープではない「テツ」である.9月15~17日の三連休がフリーになることが決まっていたため,せっかくだから秘境駅号に乗ってみようと思い立った.この列車はキハ52の2両編成で1両が指定席,1両は自由席である.当日自由席は混雑が予想されるため,指定席の切符を取ろうと,去る8月16日盛岡駅に出かけた(JRの指定券はちょうど一ヶ月前の午前10時に発売開始である).秘境駅号は人気列車だと聞いていたため,9時55分にみどりの窓口に到着,先客が7~8人並んでいたため,私の番が回ってきたのは10時9分だった.さっそく秘境駅号の指定席を取ろうと思ったら……

 「あー,もうありませんね…」

 という駅員の非情な声,なんとほとんど発売と同時に売り切れたらしかった.どうやら秘境駅号の指定席券はカシオペア・スイート並みのプラチナチケットらしかった(こんなことなら,いわて沼宮内駅で購入チャレンジするんだったと悔やんだ私であった).

Kokutetsuiro 国鉄色の気動車です(秘境駅号ではありません).

 そんなわけで,秘境駅号計画は残念な結果に終わったが,今日明日の2日間,残る9月23日・24日の秘境駅号の指定券が発売になります(23日の分はもう完売したんだろうなぁ).興味のある方は明日10時に発売される,9月24日の切符にチャレンジして下さい(もっとも自由席に並んで乗るという選択肢もありますが).

 追伸: この秘境駅号,以前は東京発の朝一のはやて1号からの接続で走っていたのですが,今年は7時59分発と,盛岡で前泊しないと乗れない運行スケジュールになっています.これは盛岡に観光客を宿泊させようというJRの考えなのでしょうか.

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2007年8月21日 (火)

霊場恐山

 先週末恐山に行った.とはいっても,恐山に用があったわけではなく,田名部まつりに出かけだついでに寄ったというのが正解だ.私にとって実に十数年ぶりの恐山である.

 恐山は下北半島の山中にある宇曽利湖およびその周辺のことで,別に恐山という名の山があるわけではない.比叡山高野山とならぶ日本三大霊山に数えられる場所である.恐山といえば,イタコの口寄せを連想する人が多いと思うが,イタコが恐山にやってきたのは,第二次世界大戦後のことであり,今でも常時恐山にイタコがいるわけではなく,あくまで夏と秋の大祭のときに見られるだけである.

 ホームページの記事にもあるように,私は学生時代「恐山肝試しツアー」などというバチあたりな企画をやったりしていたが,ここ十年以上は出かけていなかった(理由は特にない).昔は天然の肝試しができるくらい抜群の雰囲気をかもし出していた恐山であるが,最近は観光地化が進んでいるというウワサもあり,今回確かめに行った次第である.

P8180008

この太鼓橋を渡ると,そこは恐山です.

 むつ市内から車で山道を走ること十数キロ(途中急カーブに突然現れる地蔵や湧き水スポットがある),峠を過ぎて周囲が硫黄くさくなり,正津川を越えるともう恐山である(この正津川が別名三途の川である).駐車場に車を停めて,境内に入る.十数年前に比べてお土産物屋なども小奇麗になっており,観光バスで乗り付ける団体客も多いようだ.併設されている宿坊も立派に立て替えられていた.

P8180014 P8180021 (左)恐山の境内に入る.(右)あちこちに石が積んであり,硫黄臭が立ち込めます.

P8180027 血の池地獄です

 恐山の境内にはあちこちで湯が「ブシュブシュ」と湧き出しており,地獄の雰囲気を出している.途中には無間地獄血の池地獄などがあった.地獄地帯を抜けると,宇曽利山湖畔にでる.ここが賽の河原極楽浜で先ほどの地獄地帯とは打って変って,穏やかな雰囲気になった(宇曽利湖は強酸性の湖のため,プランクトンなどの生息が困難でそのため,水は凄く透明である).昔,夜中に賽の河原を歩いたことがあるが,月明かりで湖畔の白砂が恐ろしいほどに白く感じられ,この世のものとは思えない趣だった.

P8180033 ここが賽の河原です

 実は恐山には温泉がある.境内に4箇所の湯小屋があり,それぞれ泉質が異なる.参拝客は自由に入浴ができるが,昔は全て混浴だったため,あまり入浴客はいなかったのだが,今回行ってみたら,なんと男女別になっていた.「冷抜の湯」,「薬師の湯」が男湯,「古滝の湯」が女湯になっている(どの湯小屋もそれなりに入浴客がいた).あれっ?湯小屋はたしか4ヶ所あったはず,と思い入場の際渡されたパンフの地図を穴が開くほど見てみると,あったあった,ちょうど宿坊の裏手のようであった.さあ,どうやっていくんだろうと境内をうろついているうちに無事到着.ここが「花染の湯」で,ここのみ昔と同じく混浴だった.もっとも,こんな境内の外れの湯小屋にやってくる観光客などいるはずもなく,完全貸切状態の湯小屋であった(ここだけ混浴になっているのも,要するに誰も来ないからという気がした).

P8180050 P8180048 (左)花染の湯の湯小屋です.(右)貸切状態の湯小屋を堪能する私.

 全体的に観光地化された恐山であるが,この唯一の混浴湯小屋が昔の雰囲気を醸し出していた.

P8180056 境内入り口にて,霊場アイスだそうです.

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2007年8月18日 (土)

スタンプノート

 私の実家の昔妹が使っていた部屋,今は書庫になっているのだが,ここには私が昔読み漁った本などが積んである.本のほかにもいろんなガラクタ(?)があるのだが,時として掘り出し物が発見されることがある.

 先日お盆で帰省した際,こんなものを見つけた.

Img177  皆さんご存知だろうか,スタンプノートである.よく,駅などに記念スタンプが設置されており,そのスタンプを集めようという企画である.良く見ると”国鉄監修”と書いてある.そう,なんとこのノート,旧国鉄時代のシロモノなのである.

 昔から旅行大好き人間だった私は,高校生時分から一人で旅行に出かけていた.当時は北海道に憧れていたため,夏休みや春休みなどに北海道を目指すことが多かった(若くて体力が有り余っていたため,宿泊は100%夜行列車 or 駅寝であった).当然,北海道のあちこちを回って,行った先のスタンプを押していたのだが,あらためて見てみると,今はもう存在しない駅のスタンプが目に付いた.

 明治以降の開拓によって,北海道には数多くの炭鉱や鉱山などが栄え,鉱物を運搬するための鉄道があちこちに引かれていた.しかし,戦後のエネルギー構造の変化等から,閉山が相次ぎ,人口が減少,多くの鉄道が赤字化していった.

 昭和62年に国鉄からJRに以降後,こうした多くの赤字ローカル線は次々と廃止の対象になり,かくして北海道から多くの路線が消えていったのである.その中には,いまでも人々の記憶に残る路線があるのだった.

Hamatonnbetsu  まずはこのスタンプ,これは天北線浜頓別駅のスタンプである.

 天北線とは,宗谷本線の音威子府駅(おといねっぷ 旭川と稚内のほぼ中間にある)から,オホーツク海沿岸を回って稚内に至る路線のことである.当時1日に数本の鈍行列車と1本の急行列車(札幌-稚内を結ぶ急行天北)が走っていた.幌延まわりの宗谷本線に比べると距離が長く,しかも大して大きな町を通らないため利用客が少なく,ついに廃止されてしまった.

 この天北線最大の駅が浜頓別駅であった.浜頓別町は白鳥がやってくるクッチャロ湖(道東の屈斜路(クッシャロ)湖と似てますが,全くの別物)とベニヤ原生花園でしられる人口4500人の町なのでした.

Hiroo  次はこちら,広尾線広尾駅です.広尾線とは,帯広から南に延びて広尾町まで行く路線です.途中に「愛国」,「幸福」という名の駅があり,昭和40年代には「愛の国から幸福へ」とテレビドラマにもなって,この「愛国」発「幸福」行きの切符は縁起物として大人気でした.この路線も昭和59年に私が旅行した際は存続していましたが,その後廃止されてしまいました(幸福駅は駅舎のみ残っているようです).

Kitamiaioi  さあ、続いてはこれだ.相生線北見相生駅である.相生といえば,鉄道マニアなら岡山を連想するでしょうが,相生線は北海道にあった路線です.

 石北線(旭川-網走の路線)の美幌駅から南に伸びて北見相生駅で終わる,どん詰まりの盲腸線である.さして重要そうに見えない路線ですが,しか~し,この駅は阿寒湖に最も近い駅という重要な役割があったのでした.貧乏学生にとって,国鉄の周遊券はとても貴重な切符で,なるべく近くまで鉄道で行って,バスを使わないのが旅行の鉄則でした(タクシーなんで問題外).普通なら阿寒湖観光は釧路からバスが一般的で接続も良いのですが,貧乏学生はバス代をケチるために,この北見相生駅からバスに乗るのでした(昭和59年当時,駅から阿寒湖まで800円位で行けた.その代わり列車との接続が異常に悪く,駅で2~3時間待たされた).

Nukabira  最後はこの士幌線糠平(ぬかびら)駅です.これは帯広から北に向かって延びる路線で,その終点が糠平駅です.糠平湖という人造湖や糠平温泉があるところでした.

 こうして久々に掘り出し物を見つけて喜んでいる私でした.

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2007年8月16日 (木)

ビバオール

 昨日15日は岩手県もムチャクチャ暑かったですが,今日16日は気温も下がり,結構過ごしやすい1日でした(もう秋だったりして 笑).

 先日ガリガリ君の記事のコメントに,昔の30円アイスビバオールのことを書きました.私が中高生自分に,主に個人商店などで売っていたイチゴ味のアイスクリームです.三角形をした棒アイスで中にイチゴシロップが入っていました.ガリガリ君と同様に,当たりクジつきで,しかも平成に入った頃まで定価が30円だったという恐ろしいアイスです.高校生時代は,よく部活がらみで10本単位で買っていたものでした.

 しかしこのビバオール,そのうち見かけなくなってしまいました.話題が出たついでに,ビバオールのその後が知りたくなり,ネットで検索したところ以下のことがわかりました.

 ① ビバオールを製造していたのは,しまかげという仙台の会社らしい.

 ② 1990年代にしまかげはなくなってしまったらしく,このためビバオールも消滅したらしい.

 ③ その後復活を望むファンの声が強かったため,新潟にあるセイヒョーという会社が,旧しまかげの協力を得て,復刻したらしい.

 ④ 現在では東北および新潟のファミリーマートでのみ,販売されているらしい.

 そんなわけで,今日お墓参りに実家に帰った際,さっそく行ってまいりました,ファミリーマートへ(要するに,今自分が住んでいる地域に,ファミリーマートがないんです).

P8160016 復刻されたビバオール,箱に描かれた女の子の絵は往年のものとほぼ同じです.

 ありました,ビバオール!,当時は30円の三角形棒アイスでしたが,今は10本セットで形は長方形になっていました(大きさは往年の1/3程度か?).肝心のお味はというと,昔のことゆえ良く覚えていないのですが,中のイチゴシロップはこんな味だったと思いました(ネットでの評価を見ると,かなりオリジナルに近いらしいです).

P8160018 P8160009 (左) 昔は三角でしたが,復刻されたビバオールは長方形でした.(右) 箱の側面に,「しまかげ」の協力で生産していますと書かれています.

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処置(BlogPet)

きのう、処置した。

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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2007年8月14日 (火)

幕末の水戸藩

 久々の幕末モノ長文です.先日の水戸訪問で撮った写真を使っています.時間のある方はお付き合い下さい.

 幕末期において,水戸藩ほど悲劇的だった藩はなかったのではないだろうか.悲劇的といえば,会津藩もそうなのだが,会津藩の場合は藩としてひとつの思想の下に突き進んだものの,時代が彼らに味方しなかったという感じだ.それゆえ悲劇的ではあるのだが,京都での新選組や藩主容保と孝明天皇の結びつき,そして会津戦争での白虎隊などそこには我々の胸に響く歴史がちりばめられている.しかし水戸藩の場合は,藩を上げて活動する以前に,内部抗争で崩壊してしまった点に,より悲劇性を感じる.

P8040004 JR水戸駅前の水戸黄門御一行の像

 水戸藩は言うまでもなく徳川御三家のひとつである.徳川家康の十一男徳川頼房を藩祖とし,二代藩主には有名な水戸黄門こと徳川光圀がいる.水戸藩主は参勤交代のない江戸常府の大名であり,そのため常に江戸にいて,将軍を補佐する役割として”天下の副将軍”などと呼ばれる(実際には幕政を動かすのは,譜代大名から選ばれる老中や大老であり,御三家を初めとする親藩大名には幕政参加の権利はないのだが).ただ水戸藩は,実高は25万石程度に過ぎなかったのに,御三家という高い格式を重んじて,表高38万石を標榜したため,常に経済的には苦しかった.このため自然と質素・尚武の気風が養われていった.

P8040098 大日本史完成の地碑

 水戸藩は光圀の大日本史の編纂で知られるように,学問の気風が強い藩である.その水戸学の基本思想は尊王論であり,この思想は幕末の尊皇攘夷思想につながっていく.幕末期にこの水戸学の大家として全国の尊攘派の志士に大きな思想的影響を与えたのが,藤田東湖会沢正志斎である.東湖は同じく水戸学者で彰孝館(水戸光圀が設立した学問所)総裁だった藤田幽谷の子として文化3年(1806年)に生まれた.文政12年(1829年)に徳川斉昭が藩主になると,その側近として藩政改革に活躍すると共に,その尊王攘夷論でもって全国の志士たちのオピニオンリーダーとなった.一方の会沢正志斎は天明2年(1782年)に生まれ,東湖と同じく斉昭の藩主就任と共に重用され,藤田幽谷の死後は彰孝館の総裁になった.文政7年(1824年)にイギリスの捕鯨船が遭難して,船員が常陸大津浜に上陸するという事件が起こると,彼は藩命によりイギリス人を捕らえ,彼らを尋問する任務を果たしている.この直後に彼が著したのが「新論」で,強い尊皇攘夷思想が述べられたこの本は,全国の若い尊攘志士たちのバイブルとなった.このように東湖や正志斎の影響は強く,薩摩の西郷隆盛や長州の吉田松陰,越前の橋本左内らも彼らの薫陶を受けた志士である.こうして水戸発の尊攘思想は時代をリードする思想となった.

P8040046 藤田東湖誕生の地に立つ東湖の像

 ここで話を水戸藩の政局に移す.元来水戸藩の内部には保守派と改革派の対立があった.その根源は寛政期の藤田幽谷立原翠軒による「大日本史」の編集方針の対立であったという.これ以後藤田派が改革派(尊攘派),立原派が保守派(佐幕派)となる.両派は事あるごとに対立したが,文政12年(1829年)に改革派に支えられた斉昭が藩主に就任することで,保守派は一掃されていた.しかし,安政2年(1855)10月2日に江戸を襲った大地震で改革派のトップとも言うべき東湖が圧死すると藩を取り巻く状況は暗転する(地震の時東湖は,屋敷から逃げ出したものの,母親がまだ屋敷内にいることを知って引き返し,母を逃がした直後に落下してきた梁の下敷きになったという).

P8040099 水戸藩9代藩主斉昭とその子,後の徳川幕府15代将軍慶喜の像

 嘉永6年(1853年)の黒船来航以来の中央政局は,通商条約を結ぶかどうかの問題(通商問題)と第14代将軍を誰にするかの問題(将軍継嗣問題)が複雑に絡んで混乱していた.将軍継嗣問題では水戸藩は斉昭の下,薩摩の島津斉彬,越前の松平春嶽らと組んでいわゆる,一橋派(斉昭の実子,一橋慶喜を推す一派)を形成していた.しかし,安政5年(1858年)4月に彦根藩主井伊直弼が大老に就任すると状況は一変,条約は締結され,14代将軍は紀州藩主徳川慶福と決した.朝廷の勅許を得ない調印に激怒した斉昭は江戸城に押しかけ,井伊に抗議したが,逆に無断登城を咎められ永蟄居となってしまった.斉昭の失脚によって,水戸藩内の保守派は俄然勢力を盛り返した.

P8040021 水戸の弘道館内に残る尊攘の文字

 こうした中,安政5年8月突如として密勅降下事件が起こる.「幕府を動かして攘夷を実行せよ」との勅状が朝廷から水戸藩に直接下されたのである.まさに幕府の権威をないがしろにした大事件である(井伊との抗争に敗れた斉昭が朝廷を動かしたといわれるが,逆に井伊の陰謀であったという説もある).幕府は水戸藩の保守派にテコ入れして勅状を返還するよう圧力をかけるとともに,勅状降下に関与したとして改革派の水戸藩家老安島帯刀を捕縛する挙にでた.御三家の家老が幕府に逮捕されるというのは前代未聞の異常事態である.これに反発する改革派(これ以降は激派と呼ぶべきか)は返還を実力で阻止するため,江戸に通じる街道を占拠し,通行人の身体改めをするという行為に出た.こうして藩内は大混乱に陥っていく.

P8040067 桜田門外の変之図(水戸 回天館)

 その後安政6年にかけて日本国内には安政の大獄が吹き荒れ,井伊直弼に反対する勢力は次々に逮捕され断罪されていった.この中には先に逮捕された安島帯刀ら水戸藩の改革派のものも多く含まれている.翌万延元年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊は暗殺されるが,暗殺者18人のうち17人が水戸脱藩浪人であった.

 白昼,大老が暗殺されるなど,幕府にとっては面目丸つぶれである.いかに脱藩浪人とはいえ,暗殺者の大半が水戸であったことから,幕府による水戸藩過激派の取り締まりはますます強くなった.さらに同年8月に斉昭が急死,重石を失った藩内の混乱に拍車がかかる.過激派は文久元年(1861年)5月に高輪のイギリス公使館を襲撃,さらに翌文久2年1月には坂下門外の変で老中安藤信行を襲撃するなどのテロ行為を繰り返したが,幕吏の手に掛かり多くのものが逮捕,斬罪されていった.

 そして元治元年(1864年)3月についに天狗党の乱が起こる.天狗党とは水戸藩激派のことである.当時藩政は保守派に握られていたことから,天狗党は攘夷の先駆けとなるべく筑波山で挙兵したのだった(この天狗党の挙兵に対し長州の桂小五郎が資金協力をしていた).この頃の藩内の状況は,従来の幕府に恭順する保守派(諸生党)と反対する激派の対立構造から,激派自体が藤田小四郎(藤田東湖の息子)ら最過激派(天狗党)と会沢正志斎,武田耕雲斎ら穏健派とに分裂し,三つ巴の情況を呈していた.天狗党の乱を起したのは最過激派の藤田小四郎らである.

P8040063 天狗党の進路を記した地図.太平洋岸の那珂湊から日本海側の敦賀までざっと600kmもの距離があります.

 攘夷を実行すべく挙兵した天狗党だが,実際には藩内の派閥抗争の様相を呈してきた.この頃になると,敵の留守宅を襲撃し,妻子を捕らえて虐殺するなどの事件も続発してきたため,お互いの憎しみはますます増大し,戦いは陰惨さを増していった.

 筑波山周辺での泥沼の戦いは数ヶ月続いたが決着は付かない.筑波山による小四郎ら天狗党,水戸を押さえ政権を牛耳っている市川三左衛門ら保守派(諸生党),磯浜による武田耕雲斎らの中間派,さらには天狗党討伐のため派遣された幕府軍などが入り乱れた状況であった.家老の武田耕雲斎は藤田東湖と共に斉昭の藩政改革を支えた人物で,元々激派に属していた.しかし小四郎ら最過激派の行動には批判的で,中間派を形成していた.天狗党の乱が起こると,当初は江戸の藩主徳川慶篤の命で乱を鎮めるべく水戸に向かったが,市川ら諸生党に水戸入城を拒絶され,逆に攻撃される有様であった.ここにいたり耕雲斎ら中間派も天狗党に合流することになった.

P8040071 本来小四郎らの挙兵には反対であったが,やむなく天狗党の首領にされた武田耕雲斎

 戦闘は幕府軍の増援がやって来て,次第に天狗党に不利な状況になってきた.こうした中,天狗党では状況を打開するために京都に上って,将軍後見職の一橋慶喜を通して,朝廷に直接尊皇攘夷の赤心を訴えようということに決し,11月1日に京都に向かって進軍を開始した.幕府は天狗党を追討するよう諸藩に命じたが,諸藩では天狗党が歴戦の精鋭であることや,藩士の中に天狗党を支持するものも多かったことから,実際にはあまり戦闘は起こっていない(諸藩では天狗党が主要街道を通過すると戦わざるをえないため,ひそかに路銀を渡して間道を通るように誘導する始末であった).そして12月11日一行はついに越前の国新保に到着した.

 しかしここで彼らを待っていたのは,頼みの慶喜自身が追討軍を率いてやってくるという知らせであった.慶喜に弓を引くことはできない,やむなく彼らは12月17日,所在の加賀藩に降伏した.

 当初加賀藩は降伏した天狗党を敦賀の3ヶ所の寺に収容した.加賀藩の永原甚七郎は彼らを武士として丁重に扱い,正月には餅や酒も振舞われたという.しかし,明くる元治2年1月29日,幕府の若年寄田沼意尊がやって来ると状況は一変する.田沼は天狗党の面々に手枷足枷をはめて,海岸の鰊倉にぶち込んだのである.暖房も布団もない鰊倉は真冬の寒さと,魚の異臭が漂い極めて劣悪な環境であった.そして簡単な取調べが行われたのみで,2月4日から武田耕雲斎,藤田小四郎以下400人近い人々が死刑になった.これが幕末維新史で最も凄惨な事件といわれる天狗党始末である(この時天狗党の処刑を担当したのが,桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった).

P8040073 天狗党が収容された鰊倉 

 それにしてもひとつの事件で400人近くもの人間が死刑になるなど例のないことである.あの安政の大獄でも1年間で死刑になったのは8人であるし,天狗党の乱との類似性が指摘されている昭和の二・二六事件でも死刑は19人である.いかに天狗党の始末が常軌を逸しているかがわかる.

P8040087 水戸の妙雲寺にある武田耕雲斎の墓所(耕雲斎の墓は彼が処刑された敦賀にもあります).

 天狗党の処刑の後国許では,市川ら諸生党の攻撃がエスカレートし,天狗党に連なる人たちが老若男女問わず大量に処刑された(武田耕雲斎の一族も皆殺しにされている).こうして天狗党の乱によって水戸藩の尊攘派は壊滅状態となり,以後慶応年間を通じて水戸藩は佐幕藩となった(今年のひのパレの隊士コンテスト2次審査のネタが慶応3年冬の二条城における近藤勇と水戸藩重臣とのやり取りであった.この中で近藤が「我らは幕府のために命を懸けて戦ってきたが,貴公たちは何をしてきたのか」と凄むシーンがあったのだが,新選組が命懸けで不逞浪士と戦っている間,水戸藩は内部抗争に明け暮れていたのである).

 しかし,慶応3年大政奉還が行われ,翌正月鳥羽伏見の戦いが起こり,幕府の衰勢が明らかになると,水戸藩の諸生党は苦境に立たされた.この時かつての激派の残党が勢力を盛り返し,藩の実権を握った.市川ら諸生党は水戸を脱出し会津に向かったが,同年9月会津が降伏すると,再び水戸に舞い戻り藩校の弘道館によって,水戸城の激派と戦った(弘道館の戦い).戦いは激派の勝利となり,市川三左衛門は処刑され,諸生党は大打撃を受けた(この時,かつての天狗党の敵とばかり,諸生党の一族への迫害が起こった).明治になっても両派の争いは収まらず,明治2年に成立したばかりの新政府から,内部抗争をやめるように命令されるほどの状況であった.

P8040058 幕末の抗争で非業の死を遂げた水戸藩士達の共同墓地.まさに死屍累々です.

 こうして幕末の水戸藩は,尊王攘夷思想の魁でありながら,内部抗争で有為な人材をことごとく失ってしまった.明治政府が成立したとき,その要職に就いた水戸出身者はただの一人もいなかったのである.

 追伸: 今年のひのパレで私が演じた新選組五番隊隊長”武田観柳斎”はここで出てきた武田耕雲斎の親戚ではありません.

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2007年8月11日 (土)

ガリガリ君

 いやー,それにしても暑い.斗南藩近くのこの辺ですらこんなに暑いのだから,南の方はどうなっているんだろうと,想像するだに恐ろしいのだが,皆様残暑お見舞い申し上げます(そうなんですよ,困ったことにもう残暑なんですよ).

 先週末水戸や東京でハジケた反動で,今週は居残りの私.こんなに暑いと,家にいるより病院にいた方が涼しいので,久しぶりに書類整理などをやっておりました.ただ、職場も今はクールビズでエアコンの温度が高めに設定されているため,暑いことは暑い.こんな時に食べたくなるのが,これ

Garigari ご存知、ガリガリ君であります.この氷菓,私が高校生くらいからあって,当初はソーダ味だけでしたが,その後グレープフルーツ味やコーラ味などが加わり,最近ではマンゴーやヨーグルトもある人気商品であります.

 実はこの商品,当たりくじがあって,スティックに当たりという焼印が押してあると,もう一本もらえるのでした.

 普段くじ運が全くダメな私でしたが,な,なんと今日当たりくじが出たではありませんか.さっそく引き換えに行ったことは言うまでもありません(笑).

P8110004 1本あたりという焼印が押されたスティックです.

 夕方病院から外に出ると,日中とは違って涼しげ.やっぱりここは北国ですなぁ.

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2007年8月10日 (金)

日本の珍名駅7 ”きくな”

 約3ヶ月ぶりの珍名駅ネタです.しかも今回は初の大都会珍名駅(?)です.先週末首都圏に行った際,見てきました.

 神奈川県の県庁所在地である横浜市は人口350万を数える日本最大の市である.そんな横浜市にあるのが,今回紹介する”きくな”(菊名)駅である.場所はJR横浜線の新横浜駅の隣だが,私鉄である東急東横線も乗り入れている.今回私は東急東横線からアプローチした.地下鉄日比谷線の終点,中目黒駅から東急東横線特急に乗り換える.途中自由が丘,武蔵小杉を過ぎてめざすきくな駅はもうすぐである.耳を澄ますと,いよいよ待ちに待った放送が聞こえてくる.

 ↑

ここをクリックすると,きくな(菊名)駅到着直前の車内放送が聞けます.

 「まもなく,きくなきくなです…,きくなを出ますと横浜に停まります」,「きくなきくなって,そんなに聞いて欲しくないなら,じゃあ言うな」と心の中で突っ込みたくなる(笑).

P8050142 東急東横線のきくな駅です.聞いてはいけない秘密があるようです.

P8050141 きくな駅の看板前で,相変わらず嬉しそうです.この駅では乗り換えに困っても駅員に聞いてはいけないそうです(ウソ).

 そんなきくな(菊名)駅で途中下車してみた.さすがに大都会の駅だけあって,ホーム上は大勢の人でごった返していた.しかし駅から外に出てみると,ひっそりしていて寂れた感じである.どうやらきくな駅を利用する人の大多数は,ここに用があるのではなく,JRと東急の乗り換えのためらしいのであった.

P8050140 P8050139

菊名駅の様子です.(左)東急東横線,(右)JR横浜線

 実はこのきくな駅の取材は,当初の予定に無く,地下鉄日比谷線に乗っていて偶然発見し,急遽出かけたものなのでした(思いがけない収穫 喜).そんなわけで,ビザンチン皇帝は今日も,目を皿のようにして世の中の面白いものを探しているのでした.

  ホームページの方にも同内容の記事があります

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2007年8月 9日 (木)

本能寺の焼け瓦

 昨日テッペンカケタカの記事を書いている最中に,信長時代の本能寺のものと思われる遺構が発見されたというニュースが流れていた.

 焼けた?瓦出土、本能寺の変「史実を裏付ける貴重な発見」(読売新聞)

 1582年(天正10年)6月2日未明に本能寺に滞在していた織田信長は,明智光秀の軍勢に襲撃され寺に火を放って自害して果てたとされている.これが世に言う本能寺の変で,坂本龍馬暗殺などと並ぶ日本史の謎のひとつである.明智光秀が織田信長を襲撃したという点は確からしいのだが,動機に関しては今でも謎とされている.実行者は光秀なのだが,光秀の単独行動なのか,背後に黒幕がいたのかなどもわかっていない.黒幕については,朝廷説,足利義昭説,秀吉説,はたまたイエズス会説,フリーメイスン陰謀説なんてのもある(どうでもいいけどフリーメイスンができたのは18世紀だと思うのだが… 笑).

 本能寺はこの変で全焼してしまい,後に別の場所に再建されて現在に至っている.従って信長時代の本能寺の様子はこれまで知られていなかった.しかし,今回の発見によって,当時の本能寺の様子の一部が判ってきたそうである.これまで,本能寺の変で信長側は無防備な状態で光秀軍を迎えたとされていたが,発見された遺構には堀や石垣などもあり,当時の本能寺が単なる寺ではなく,砦の機能も併せ持った施設であったようだ(確かに当時は僧兵などが武装した寺院も多かったから、本能寺に軍事設備があったとしても不思議ではない).

 今後の研究が待たれる話であるが,テッペンカケタカの上演と時を同じくしてのこの話題,なんか不思議な縁を感じた私であった.

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2007年8月 8日 (水)

テッペンカケタカ

 先週末首都圏に出向いた私でしたが,その目的のひとつが劇団エル・プロダクツ(以下エルプロ)の公演を鑑賞することでした.エルプロはひの新選組まつりの隊士パレードで井上源三郎率いる六番隊の隊士を務めている人たちの劇団で,新選組を初めとする時代物を数多く取り上げて活動しています.私は縁あって昨年(2006年)のひのパレで井上源三郎役をやらせていただいたため,面識を得ることができました.エルプロの昨年の公演は「はなさかづき」,戊辰の会津戦争を描いた感動的な作品でした(関連記事はなさかづき).

Dscf0021 第9回ひのパレにてエルプロの皆さんと

 そのエルプロの第10回という節目の公演がこの「テッペンカケタカ」であります.場面は戦国時代,あの織田信長の生き様を描いた作品です.信長といえば,赤穂浪士の討ち入りと並ぶ,日本史のメジャーアイテムであります.そういうネタを扱う以上,通り一遍の解釈や演出では評価を得ることは難しく,相当なオリジナリティーを出す必要があるのではと思いました.HP「斬心」上に公演の案内が掲載され,ポスター(チラシ?)も掲示されたのですが,真っ赤な空とまばらな木が生えた大きな岩,添えられたキャッチコピーは「天辺の欠けた隙間から降りてくるのは何者なのか…」,「人々の願いを叶えるのは誰でもいい。神でも、悪魔でも」と.これを見ただけで「ムム,これはただの作品ではない」と期待を抱かせます.

Img176 テッペンカケタカのチラシ

 さて,肝心の舞台の方ですが,プロローグは信長誕生,子供は母親の愛情を受けて育つ,でももし母の愛が受けられなかったら…,なんとなく将来の暗い雲が予感されます.そして信長の天下布武の戦いが始まります.既存の価値観にとらわれず,政敵を容赦なく排除する信長,その傍には森蘭丸が控えています.しかし蘭丸には単なる小姓とは思えない,ただならぬ雰囲気が漂っています.時に自分のやっていることが本当に正しいのか自問する信長,しかしそんな時には,彼の分身とも言うべき吉法師が現れ,覇道を進んで王になれと囁きます.そんな信長の苦悩をただ一人理解していたのが明智光秀でした.

 物語のコンセプトは,本能寺の変で主君信長とともに非業の死を遂げた森蘭丸の無念の心が,時代を越えて過去に転生し,信長を王にすべく暗躍するというものでした.そして信長を中心に,秀吉や家康,光秀などの武将たち,蘭丸に協力するために同じく転生した細川ガラシャ,キリスト教の宣教師,さらには群集などが絡んでいくのでした(武将や大衆などの役はコロスという人たちが声色を変えて演じていました).ただ歴史のやり直しを演じている森蘭丸自身も,自分と信長の死についての記憶は失われているのでした.

 物語終盤,真の心を取り戻した信長は呪縛を振り切るべく光秀に自分を倒すよう命じます.驚きつつも信長の苦悩を知っている光秀は本能寺へと向かうのでした.

 この舞台,過去への転生や心を支配しようとするものの存在などSFタッチの作品となっています.人間の強い無念の心が魂を過去に転生させる,という筋立ては1980年代のRPGの名作ファイナルファンタジーを彷彿させました.歴史にifは禁物といいますが,本作品のように歴史の大筋には手を加えず,あくまでもその経過に新たな解釈を入れて,もしこういう背景があったらどのように展開しただろうかと考える筋立て(ある種の知的な遊び心)に非常に好感を抱きました.

 最後は歴史どおりの展開となるため,本能寺にて蘭丸は信長と共に命を落とします.物語の始まりが,非業の死を遂げた蘭丸の無念が過去に転生するというものでしたから,もしかしたら彼の心は再び過去に転生し,三度歴史のやり直しが起こるのではないか,ふと私はそう思いました(もしかすると永遠に繰り返される輪廻の世界では?).しかし舞台のラストに母の愛に包まれ,幸せに満ちた吉法師の姿が演じられました.私はこのシーンを見て,これで輪廻の鎖は断ち切られるだろうと確信しました.あれほど主君を愛した蘭丸が,主君の幸せな表情を見て歴史をもう一度リセットしようなどとは思わないだろうからです.

 戦国モノのお芝居や映画は数多いでしょうが,かなり斬新な脚本で,2時間があっという間でした.役者さんも皆個性は揃いで素晴らしかったです(ひのパレの殺陣とはまた違った楽しさがありました.わずか2日間の公演はもったいないとも思いました).

 追伸: 表題のテッペンカケタカというのはホトトギスの鳴き声だそうです(ホトトギスの鳴き声としては他に特許許可局というのもあって,私はそっちの方が近いのではと思ってたりします).初めてチラシを見たとき,「テッペンハゲタカ」かと思い,しかも配役に宣教師のフロイスの名が…,てっきりフランシスコ・ザビエルの頭の話(てっぺん禿げたか)かと思いました(笑).

Zabieru 髪の毛がテッペンカケテル,F・ザビエルです

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2007年8月 6日 (月)

充実した週末

 この週末首都圏に出向いてまいりました.金曜の夕方に当地を発ち,さっき帰宅しました.2泊3日でしたが,内容は幕末の水戸藩史跡巡りを始め,内容は多岐に渡り,とても充実した週末になりました(週末レベルでこれほど充実していたのは5月のひのパレ以来ではないだろうか).丁度水戸では「水戸黄門まつり」なるお祭りが開催されていました(確かに水戸が誇る超有名人ではある).黄門様の行列なども行われるらしかったのですが,私はひたすら幕末の史跡を巡っていました(笑).

 今回の旅行の内容については,多岐に渡り,ここで一気に紹介することは困難なので,おいおい書いていきたいと思いますが,とりあえずは水戸黄門まつりで沸く水戸駅前での1枚を紹介します.もったいぶるため,美術館の方にアップします.

 水戸黄門様ご一行とビザンチン皇帝

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2007年8月 4日 (土)

旅人の木

 マダガスカルはアフリカ大陸からモザンビーク海峡を隔てて400kmに位置しており,なんとなくアフリカ大陸の付属品のイメージがあります(東アジアの日本,ヨーロッパのイギリスのような).しかし,マダガスカル島は大昔,ゴンドアナ大陸という今のアフリカ,南米,南極,インド,オーストラリアなどが一体化した巨大な大陸の一部であったといわれています.そして歴史的にマダガスカルは,今から1億5000年前にアフリカ大陸から分離し、その後5000万年位前にインドなど南アジアから分離したといわれています.すなわち人類誕生のはるか昔に他の大陸から切り離され,しかもアフリカと分かれた歴史よりアジアと分かれた歴史の方が新しいわけです.このため,マダガスカル島は生物学的にはアフリカよりむしろアジアに近いという特徴があります.マダガスカルを代表する動物であるキツネザルがアジアには生息しているのに,アフリカにはいないのはそのためです.

 マダガスカルは大昔に他の大陸から切り離されたために固有種(他にはいない,その場所独自の生物)が多いことでも有名です.マダガスカルの固有種で,代表的な植物といえばなんといってもバオバブですが(世界には8種類のバオバブがありますが,そのうちなんと6種類がマダガスカルの固有種です),ほかにも魅力的な植物があります.

マダガスカル写真シリーズ12 植物編

 マダガスカルにしか生息していない植物として三角椰子があります.その名の通り,三角形をした椰子の木です.こんなのその辺にいっぱい生えていそうな気がするんですが,実はマダガスカル南東部のフォール・ドーファン付近の珍しい椰子なのでした.

Sankakuyashi 扇のような形をした三角椰子です.マダガスカルの南東部に自生する珍しい椰子だそうです.

 更に,マダガスカル独自の植物として”旅人の木”という木があります.和名としてオオギバショウ(扇芭蕉)という名前もあるんですが,英名”travelers tree”の訳である,この”旅人の木”の方がずっと風情があるような気がします.

 名前の由来については2つの説があり,ひとつは葉っぱが東西方向に伸びるという性質があるため,旅人に方向を教えてくれる道標になるからという説,もうひとつはこの木の葉柄には水が蓄えられており,刃を入れると水が出てくるため,乾燥地帯を旅してきた旅人がこの木から貴重な水を得ることことから名付けられたという説です.どちらの説にせよ,旅人にとってはとてもありがたい植物なのでした(現地の人たちはこの木を無駄なく使って家を建てたりするそうです).

Tabibitonoki これがマダガスカルを代表する植物”旅人の木”です.マダガスカル航空のシンボルマークはこの木をモチーフにしています.

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2007年8月 2日 (木)

診察(BlogPet)

きのうアロイジアが、コンスタンチヌス21世の呼び出し診察するはずだったの。

*このエントリは、ブログペットの「アロイジア」が書きました。

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2007年8月 1日 (水)

今日から8月

 早いもので今日から8月である.私の住んでいる地域は午前中曇っていたものの,午後から晴れ渡り夏の様相を呈している.昨日7月31日から八戸の三社大祭が始まり,今日8月1日からは盛岡のさんさ踊りが,以後青森のねぶた,弘前のねぷた,秋田の竿灯,仙台の七夕と続いていく.これから3週間くらいが,北国の短い夏である.

 さて,私はというと本日は月初め恒例のレセプト点検なのであった.

マダガスカル写真シリーズ11 ネタ写編そのⅢ

P6120166 愛し合うバオバブに

   

P6110069 横恋慕する男

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