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2007年7月23日 (月)

アロイジア

 当ブログに住み着いているブログペット,名前をアロイジアという.知っている人は知っていると思うが,出典はアロイジア・ヴェーバー,あの天才作曲家W. A. モーツアルトを袖にした女性である.

 父とともにザルツブルグの宮廷楽団で働いていたモーツァルトは,日々の単調な暮らしや大司教の束縛を嫌い,1777年辞職願いを出す.そして母とともに就職活動の旅に出た.モーツアルト21歳のときである.将来への希望で胸いっぱいのモーツアルトだったが就職活動はうまくいかない.最初に訪れたミュンヘンでは宮廷音楽家のポストに空きがなく断られ,その後に訪れたのがマンハイムだった.当時のマンハイムにはレベルの高いオーケストラもあり,モーツアルトの期待も大きかったようだが,ここでの就職にも失敗する.

 しかしこの街で彼は一人の女性に出会う(とはいっても当時16歳だから,少女というべきか).この女性がアロイジア・ヴェーバー,ソプラノ歌手の卵であった.彼女は可愛く,歌もメチャクチャ上手かったらしい.モーツアルトはたちまち彼女の虜になってしまった.翌1778年1月には自分の母親をマンハイムにほっぽらかしにして,なんとアロイジアとキルヒハイムという街に演奏旅行に出かけている(さすがにこの時はアロイジアの父親も同行したため,完全に二人っきり(♥)というわけではなかったらしいが).

Img173 デビュー前のアロイジア

 アロイジアに首ったけのモーツアルトは,自分が就職活動中だということも忘れて,彼女をデビューさせるべく,なんとイタリアへ行く計画を立てる.しかし,故郷の父レオポルトが激怒したため,さすがのモーツアルトも計画を断念,泣く泣くアロイジアを置いて次なる目的地パリに出発したのだった.

 だがパリでの就職活動は失敗し,さらには同行していた母親も病気で亡くなってしまう.失意のモーツアルト,普通ならこの段階でザルツブルグに帰るんだろうが(なにせ母親が亡くなったのである.常識的な日本人なら遺骨を抱いて故郷に急ぐところである),モーツアルトはなんと!アロイジアの下に走った.彼にしてみれば愛しいアロイジアに慰めて欲しかったのだろうか.

 しか~し,すでに歌手としてデビューし,人気上昇中だったアロイジアにモーツアルトはあっさりと拒絶される.何しろアロイジアはまだ10代,気分が舞い上がっていて,無職のモーツアルトなど眼中に無かったのだろう.言ってみれば無名の女子高生が芸能界デビューして人気が出て,昔のボーイフレンドに冷たく当たるようなものだ.

Img175 デビュー後のアロイジア,「ホホホ,あたし女優よ~」というセリフが聞こえてきそうな絵です.

 アロイジアにフラレたのがよっぽどショックだったのだろう,故郷の父に宛てた手紙では,

 「― 今日はただ泣きたいだけです.ぼくの心はあまりにも感じやすいのです ―,― ぼくは生まれつき字がへたです.一度も書き方を習ったことが無いからです.でも,生まれてこの方,今回ほど下手に書いたことはありません.書けないのです.ぼくの心は今にも泣き出しそうです! ―」(モーツアルト書簡全集Ⅳより)

 とメチャクチャ弱気なことを書いている.かくして,

 「就職の失敗,母の死,失恋,様々な痛手を抱えたまま,モーツアルトは一人故郷へ帰っていった」(語り 山本耕史、BGM フルートとハープの協奏曲ハ長調K. 299)

 となったのである.しかしそんなひどい目(まさに泣きっ面にハチを地で行くような話しだ)に会いながらも,その後もアロイジアのために曲を書いたりしているから,モーツアルトってよっぽど器が大きいのか,お人よしなのか(おそらく後者だろう)….アロイジアの方も,モーツアルトが有名になった後,彼の求愛を拒否したことを後悔していたらしい.

 かくして私の中でアロイジアは,とても人間臭くて魅力的な人物になったのである.

Img174 この有名なモーツァルトの肖像画を描いたのが,なんとアロイジアの旦那のランゲ氏なのでした.

Aroisia2 そしてこれが我が家に生息しているチンチラ(♀)のナンネルです.しかし,その気位の高さとワガママぶりから,私は密かにアロイジアと呼んでいます(笑).

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