宮古湾海戦
私が住んでいる岩手県と新選組副長土方歳三はほとんど結びつきがないのだが,唯一の接点といえるものに,明治2年3月25日に起こった「宮古湾海戦」がある.
戊辰戦争初期段階では,地上部隊の装備では新政府軍が勝っていたが,海軍力では旧幕府側が圧倒的に優位であった.慶応4年3月13日の勝・西郷会談で江戸城の無血開城に関する話し合いが行われ,旧幕府軍の軍艦の新政府軍への引渡しが決まったが,榎本武揚は引渡しを拒否し,艦隊を率いて江戸を脱出した.途中仙台で土方歳三や大鳥圭介などと合流し,10月下旬に鷲ノ木(現北海道森町)に上陸,直ちに進撃を開始し10月中には箱館・五稜郭を占領した.ついで松前城を攻略し,蝦夷地の平定に成功する.しかし,この戦いで主力艦の開陽と神速を悪天候で失い,その海軍力は大きく低下した.一方新政府軍は,最新鋭艦である甲鉄をアメリカから入手したため,たのみの海軍でも新政府軍が優勢となり,新政府軍の反撃は時間の問題となった.
こうした状況下,土方歳三の提案(といわれる)で決行されたのが,Abordage(アボルダージュ)と呼ばれる,敵艦強奪作戦であった.すなわち当時宮古湾に停泊していた新政府軍艦隊を奇襲し,敵艦に乗り移って,船を奪い去ろうというもの凄い作戦である.勿論普通に接近すると怪しまれるため,最初はアメリカ国旗を掲げてアメリカ艦のふりをして接近し,攻撃直前に旗を替えて攻撃することになっていた(なんだか凄くずるい作戦のように思えるが,実は国際公法上許されるらしい).
当初旧幕府軍は回天,高雄,蟠龍の3艦で作戦を決行する予定であったが,嵐で蟠龍が離脱,さらに高雄が機関故障で離脱したため,結局回天1艦での作戦となった.不意を衝かれた新政府軍は混乱し,甲鉄も回天の接舷を許したが,回天の甲板が甲鉄より3mも高く,兵士の乗り移りは容易でなかった.それでも,新選組の野村利三郎らが甲鉄に乗り移ったが,体勢を立て直した新政府軍の反撃で死傷者続出,結局約30分の戦いで旧幕府軍の敗北に終わったのである.
臼木山にある海戦の解説碑です.土方歳三と東郷平八郎が並んでいます.
宮古市を代表する景勝地,浄土ヶ浜には元総理大臣の故・鈴木善幸氏による「宮古港海戦記念碑」が,また宮古湾を望む臼木山頂には海戦の解説碑が設置されている.この石碑には土方歳三の写真とともに,後に日露戦争の日本海海戦で勇名をはせる東郷平八郎の写真もあった.これは,若き日の東郷がこの海戦で軍艦「春日」に乗艦していたことによる.
また,国道45号線そばには,旧幕府軍無名兵士の墓もある(ここに眠っているのは,新選組の野村利三郎とも言われている).このように宮古市は岩手県内の数少ない新選組関連史跡がある土地であった.
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