函館にて
ウチのKの出身地は函館である.函館といえば,土方歳三最期の地,新選組終焉の地として知られている.実は最近Kの姉夫婦が函館市内に家を建てたため,今週末に見物がてら遊びに行ってきた.
新築の洒落た家に上がりこんで,散々飲み食いした私だったが,折角函館まで来たのだからと,新選組関連の史跡も訪問した.
まず訪ねたのは「土方歳三最期の地碑」.函館駅から程近い,福祉センター前の公園の中にそれはあった.土方歳三は明治2年5月11日未明に,一本木関門で指揮を取っている最中,敵の銃弾を受けて戦死した(弁天台場に陣取っていた新選組本隊の救援に向かう途中とも言われている).遺体がどこに埋葬されたのかについては諸説があってはっきりしない(五稜郭内に埋葬されたという説もある).一本木関門と書かれた関所の門のそばに,石碑が立っていた.碑には花が添えられ,土方歳三の写真の他,土方歳三ノートなんてのもあった(雨に濡れないようにタッパに入れられていた.全国各地から訪ねて来た人たちの書き込みがあった).
ちなみにこの石碑,以前は目の前の道路の中央分離帯のグリーンベルトの中にあったらしい(Kの通学路だったそうだ).
続いて向かったのは,箱館戦争における旧幕府軍側の墓「碧血碑」である.当時旧幕府軍は賊軍とされ,戦後しばらくは遺体の埋葬も許されなかった.そんな中箱館の侠客柳川熊吉が独自に遺体を回収し,埋葬したという.後明治8年に大鳥圭介や榎本武揚の協力を得て,この地に碑が建てられた.題字は大鳥圭介によるといわれている.碧血とは「義に殉じて流した武人の血は三年たつと碧色になる」という中国の故事によるそうです.この碧血碑は函館山の中腹,立待岬の近くにある.
碧血碑の説明文です.英文がMOMUMENTになっているのは気にしないで下さい.
その次に行ったのは,新選組終焉の地,弁天岬台場跡である.土方歳三が戦死した4日後,明治2年5月15日にこの地に立てこもっていた,新選組を含む旧幕府軍は降伏した(五稜郭が降伏するのは更に3日後である).この時新選組最後の隊長だったのが相馬主計である.
弁天台場は六角形の形をした保塁だったが,明治29年に取り壊されて埋め立てられたため,当時の面影は全くなく,小さな公園になっていた(市電函館ドッグ前下車徒歩30秒の距離です).
このほかにも函館には五稜郭や函館山の夜景,サスペンスドラマでよく人が殺される金森倉庫,さらには歌人石川啄木がらみの史跡も多い.
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